みちほは椅子の上で背中を丸めて奥へ向き、カウンターの角を指でトントンと叩いた。メルクリウスがいたとしても空気感は夏也と二人きりの状態。煎餅ビンを持ったエリが桂木家に入ってから僅かな時間しか経っていなかったが、一日千秋の思いでキッチンへの扉に目をやった。
「エリ姉、早く戻ってきてくれぇ~」
蚊が鳴くような声でみちほが弱音を吐くと、扉が開いてカフェにエリが現れた。駆け魂回収の便利な道具を我が物とした彼女は上機嫌で扉脇のスイッチを切って振り返った。
「作戦を終わらせるわよ、みちほ」
「い、いや。ちょっとまだ心の準備が……」
みちほが不安そうに胸の前で手のひらを向け、エリは近寄ってみちほの肩をポンポンと叩いた。
「心配しなくてもいいわ。わたしがコーヒーを淹れてテーブルに持っていくから、それまで高原くんと話を合わせてればいいのよ」
「合わせるって言っても、あいつと話す話題がないと」
「大丈夫、大丈夫。天候や気温ってのは万国共通の話題だから」
笑みを見せてエリがみちほが着るダウンベストのファスナーを下ろし、戸惑うみちほの背後に回ると、それを剥ぎ取って椅子をくるりと回転させた。彼女は丸めた上着を腕に抱え、顔を近づけて囁いた。
「どう、これで高原くんと同じような恰好になったでしょ」
「けどこの服装じゃ寒いし…」
「大丈夫よ。エアコン切ったけど日が射し込んでるから三十分くらいは持つわ」
「そ、そんなに長く話せってのか」
「ちゃんと聞いてなかったの。わたしがコーヒーを淹れて持っていくまでって言ったのに」
「それでもさ、十分以上かかかるんだろ」
「あーもう、ゴタゴタ言ってないで彼のとこへ行くわよ」
煮え切らない態度にムッとして顔を背け、エリはテーブル席の方へ歩き始めた。みちほは仕方なく彼女の後ろに引きずり気味の右足を隠してついていった。
カウンターの扉を出た場所にはそこだけ木の肘掛けを持つロングソファーの置かれる席があり、メルクリウスはソファーで仰向けに寝ていた。テーブル席の中央辺りで突っ立つ夏也がおもむろに近づいてきた。すやすやと眠るメルクリウスをチラ見したエリはこのまま煎餅ビンをもらっておいても問題なさそうだと心の中でほくそ笑み、夏也に愛想笑いを浮かべて後ろから来るみちほを紹介した。
「みちほって言うのよ、この子。わたしの親戚で中学一年。そうね、お見合いは空いた席を使ってくれるかしら」
「あ、それならちょっと寒いから窓際がいいな」
「オッケー。じゃあ、わたしは温かい飲み物を持ってくるわ」
エリは振り返ってカウンターの作業場へ向かった。頭にフリルが揺れる彼女にくすっと笑った夏也は太陽光が明るく照らす席に行き、椅子を引いてのそのそと歩くみちほへ向いて微笑んだ。
「みちほさんは僕より年下だったんだね。てっきり、高校生なのかと思ってたよ」
背は高いが子供っぽい吊りスカートの似合うみちほが去年まで小学生と聞いて納得した。ただ、短い丈から出た白タイツが妙に艶めかしかった。夏也はみちほに細い目で睨むように見つめられてブンブンと手を横に振った。
「ち、違うよ。決して変なことは考えてないから」
「身長172cm、体重65kg、駅裏商店街煎餅屋の孫、誕生日は……」
「えっ、5月31日だけど」
「双子座か。休みは店の手伝いをするし、髪は黒で少し伸び放題だが散髪に行く前かな」
みちほは乙女ゲームでしか男子と話したことがない。当然、今回は夏也を攻略するつもりで話すプランを練り、今ある彼の全情報を頭の中で総合し、真面目で親孝行な少年キャラと仮定した。
ボソボソとつぶやく少女に夏也は「どうぞ」と椅子の前に手を差し出した。みちほは考え事をしながら歩き出して椅子の脚に右足の短下肢装具を引っ掛け、上半身が左右によろけた。とっさに夏也は彼女の腕を掴んだ。
「ふぅー、危ない危ない。こけなくて良かったね」
「おい、離してくれよ。痛いじゃんか」
「ゴメン、つい力を入れちゃって。だけど可愛い顔にキズが付いちゃうといけないし」
申し訳なさそうに謝る夏也にしれっと褒められ、みちほは黙って椅子に腰掛けた。もっとひねくれた態度をとって真面目な彼をあたふたさせて会話の主導権を握るつもりが、何も言えなくなって膝の上にちょこんと手を置いた――ちょっと待て、可愛いってなんだ。もしかして、わたしに気があるのか。
夏也はうきうきしてみちほの正面に座り、そばかすの広がる頬が赤くなった顔を見つめた。
「高原夏也って言うんだ。エリさんの親戚だから『桂木みちほさん』でいいかな。それと君みたいな素敵な子は美里第二にはいないけど、どこの中学に通ってるの」
「わたし、黒田みちほ。ま、舞島学園中等部に通てます」
「かよてます?」
「いや、今のは父が関西弁をしゃべるので…」
みちほは声を上擦らせて彼の問いに答えた。明らかに緊張していた。思いがけず夏也にフラグを立てられ、すっかり柄にもない下級生キャラに変貌した。恥ずかしそうに下を向き、ブラウスの袖を強く引っ張るとボタンが前へ弾け飛んだ。
「…あはは、話だけじゃなくて糸もこんがらがってましたね」
テーブルの向こう側にボタンが転々とし、へらへらと笑ってみちほが顔を上げた。夏也は抱いていたクールなイメージと違うお茶目さに戸惑った。しかし、本当はこうして冗談が好きなの女子であり、もっと彼女を知れば違った面が出てくるのではないかと思った。彼の前で止まったボタンを指でつまんで体を伸ばして彼女に差し出した。
「僕は指先が硬いから裁縫は苦手。みちほさんは家に帰ったら自分でしてるのかい」
「は、わたしが裁縫を?」
「うん。細くて綺麗な指してるから上手そうに見えるんだけど」
「へ、変なこと言わないで下さいよ。こういうのは家で全部じいちゃ……」
間一髪、みちほは口を押さえた。危うく自堕落な生活を彼に自慢するところだった。頭を掻いて夏也からボタンを受け取ると、今思いついたかのように手を叩いた。
「そういえば、高原先輩は野球部のキャプテンだったんですよね。スポーツができる人ってわたし憧れちゃうな~」
「この間は車いすに乗ってたっけ、みちほさん。足の怪我はもういいの」
「怪我じゃないんです。その、元から良くないだけです」
「あ、そうなんだ。室内では歩いても大丈夫って感じなのかな」
「ええ、学校も教室内は車いす使ってませんし」
「それじゃあ、夏休みになったらプールに行こうよ。水の中なら足に負担が少ないし、僕は泳ぐの得意だから手取り足取り教えてあげるからさ」
「へぇっ。まさか、わたしの水着姿に興味あるんですか!!」
さりげなくプールに誘おうとする夏也に、みちほはキャラ付けした男子の相手ではなく本音で驚いていた。気づかないうちに彼の目を見て話せるようになった彼女はプイッと横を向き、鼻の下を伸ばす顔へ手を振った。
「先輩には野球があるでしょ。夏休みは真面目に練習してて下さい」
「ああ、野球の方はもう…」
「え、それって野球やめちゃうつもりなんですか」
「うーん。まあ、何というか……」
みちほの質問に一転して夏也は言葉を濁した。言いづらそうな言い方をするという事は完全に気を許した訳ではないのかと、みちほが反省してふーっと息を吐いた。調子に乗ってずけずけと言ってしまった感があった。冷静になって情報を整理した彼女は煎餅屋の寂れ具合から金銭的な問題があると推察し、彼を気遣って別の理由を考えて胸の前で手を組んだ。
「そうですか。駅裏だと美里東高校まで通学が大変ですからね」
「いいえ、高原くんは舞島学園を受けたのよ」
「あれ、もう持ってきたの」
テーブルに割と早くコーヒーが香り始め、みちほは面白くない表情をエリへ向けた。せっかく盛り上がってきた二人の会話を邪魔するのは絶対有り得ないと思った。それは彼女が少し前と打って変わって夏也の攻略に自信を持っている証拠だった。
いい感じで始まったみちほと夏也の見合いは中断し、二人の前に受け皿に載ったコーヒーカップが置かれた。みちほは気を利かせてくれることを期待したが、エリは近くのテーブル席にお盆を置き、椅子の座面横を掴んで引っ張ってきてドンと腰を下ろした。
「高原くん、舞島学園での野球部の試験はどうなったの」
「あの、それがまだ……」
「ふーん。もう三ヶ月経ったのに変ね」
エリが腑に落ちないような顔で夏也をじっと見つめた。視線を感じつつ夏也はカップに手を伸ばし、ブラックのまま出されたコーヒーを一口味わった。彼女が覚えていたことに嬉しくなった彼は強い苦みも美味しく感じられた。思い切って本当の事を言ってしまおうとカップをゆっくりと受け皿に置いた。
「実は野球部のセレクションに受からなくて…」
「え、落ちたちゃったの!」
両手で口を押さえたエリは彼を憐れむ眼差しを向け、夏也が慌ててカクカクと手を動かした。
「で、でもね、グラウンドで走力を見るテストがあって陸上部の監督が偶然見てて陸上部の特待生待遇にしてもらったんだよ」
「特待生待遇?」
「特待生だけど陸上部は枠がないから、木曜に学科試験を受けて合格しろと言われたのさ」
「なーんだ。結局、わたしたち普通に試験受けることになったのか」
「ははは、また一緒にがんばろうね」
胸のつかえが下りた夏也は体を外側に開いてエリと受験の話に花を咲かせた。みちほは楽しげな二人へ恨めしそうな目を向け、両手の人差し指同士をぐるぐると回した。本来ならば、自分が彼の話したくない事情を聞いてあげるはずだったのにと。
彼らはは一通り互いの現状を語り合い、談笑中にエリが立ってみちほの方向へ手を広げた。
「ねえ、分かんなかったでしょ。みちほは裕太たちの妹なのよ」
「裕太……あぁ、サッカー部の黒田君か。それでみちほさんは背が高いんだね」
「ううん、黒田家はお父さんもおじいさんも長身なの。ほら、みちほもなんか言いなさい」
「あ、その、うん…」
傍観していたみちほは話を振られても答えられず、今は攻略を目的にしたセリフしか頭に思い浮かばなかった。かといって、エリと夏也がわいわい話す場で「背が高い女子は好みですか」と言って雰囲気を変えられる豪胆な性格でもなかった。セリフに適したシチュエーションが訪れない状況でみちほは貝のように押し黙っていた。
積極的な性格のエリに微笑みかけつつも、夏也は案外と大人しいみちほをますます気に入って頭を掻いた。
「いやぁ、その気持ち分かるよ。僕の妹もそうだったからさ」
「あれ、妹さんいるんですか。煎餅店のお婆さんは『孫と家族三人』と言ってたんですけど」
「ばあちゃんがみちほさんに話したの。へー、僕のこと何か言ってたかい」
少し驚いた様子で夏也はテーブルで腕を組んで体を前へ傾けた。みちほは視線を合わせず上目遣いで夏也の表情をうかがい、興味津々な彼を会話に引き込むセリフの構成を色々と考えた。ところが、張り詰めた瞳のエリが両手でバンッとテーブルを突いた。
「夏也くん、おばあさんと妹の三人で暮らしているの」
「じゃなくて、ばあちゃんとじいちゃんだよ」
「でもさっき妹がいるって聞いたわ。それじゃ、両親がいないってことになるじゃない」
「エリさん…」
今となっては大して気に留めていなかった祖父母との生活。それに敏感に反応するエリは悲しい境遇に置かれている気がした。立ち上がった夏也は彼女の肩にそっと手を置いた。
「両親は離婚したんだ。妹は母親が連れて出ていって僕は父親の元に残った。だけど、その父が出奔して帰ってこないから、おじいちゃんの家に引き取られた。別に病気や事故で亡くなった訳じゃなくて……それでエリさんの方はどう」
「わたしは二人とも死んじゃったけど、お兄ちゃんがいるわ。五年くらい施設にいて、お兄ちゃんが舞島学園の寮に入って、志穂さ…みちほのおばあさんが桂木家の養子にしてくれたの」
「お兄さんと一緒だと寂しくなかったりするのかな」
「うん、そうよ。いつもお兄ちゃんがいてくれるから全然平気。今は手続きがバラバラで時間がかかってるけど、来月にはお兄ちゃんも一緒に桂木家の養子になるの」
朋己の話でエリは笑顔を取り戻し、腰の前掛けを取ってぐるぐると巻いてテーブルに置いた。
「妹さんの事とか、もっと夏也くんの話を聞きたいわ」
「妹の話…そうだなあ」
久しぶりに思い出した夏也の妹はいつもエリと同じように髪を留めていた。彼女が頭からフリル付きのカチューシャを外し、彼はちょんちょんと指差した。
「あのさ、その髪留めは何て言う名前なの」
「ああ、これね。『カチューシャ』って言うのよ。でもなんで?」
「そのヒラヒラした部分は付いてないけど、昔妹がよく頭に着けてたんだ」
「ふーん、夏也くんにこれ着けたら妹さんに見えるかな」
「どうだろう。僕には分からないや」
「まぁ、わたしはお兄ちゃんとそっくりだけどね」
エリが自慢げにカチューシャを手元で揺らし、それを頭に着けた男子を想像して夏也は腹を抱えて笑った。小学生の頃に別れて忘れかけていた妹。エリに話せる思い出を記憶にたどりながら席に着いた。
腰掛けたエリはテーブルに腕を乗せ、作戦を忘れて夏也へ向いて普通にお喋りを続けた。二人は兄妹のエピソードを話し合って意気投合した。彼らが仲良く会話するシーンをみちほは呆然と眺める他なく、椅子の上で腕組みして鬱憤を募らせた。夏也の顔や話しぶりから判断してエリと話す方が幸せそうに見えた。