商店街の裏通りにある高原煎餅店は二階が住居になっている。タンクトップとショートパンツ姿のメルクリウスは数回ノックして部屋の扉を開けた。奥の学習机では夏也が勉強そっちのけで桂木家のカフェでの会話を思い返していた。天井を見上げた彼の頭にはエリの屈託ない笑顔が浮かび、彼女の兄も明るい人なのだろうかと想像を膨らませた。
頭の後ろに手を組んだ夏也は木製椅子の背に体重をかけた。「エリさん…」とポツリと呟いて両足を上げると、椅子ごと体が後方にドスンと倒れた。
「ほぉ、では彼女に乗り換えるのだな」
「うわっ。いつから居たんだ」
メルクリウスに好奇の目で顔を覗き込まれ、夏也は慌てて起き上がって椅子を元に戻した。
「メル、黙って人の話を聞いてるなんて悪趣味だぞ」
「ノックしたが…まあいい。それより、桂木えりの方がいいのか」
「いいって言うか。彼女は可愛いからさ」
椅子に座って夏也が学習用タブレットを脇にやって机に頬杖をついた。メルクリウスがベッドに腰掛けたにもかかわらず、ニヤニヤとした彼は時折気味の悪い声を漏らした。
メルクリウスは大きな仕事を終えた気分でいた。夏也がエリとみちほのどちらとくっ付こうが、歩美を喜ばせる事ができる上に高原煎餅店の将来も安泰となる。この家唯一のベッドに横たわった彼女は気持ちの良い眠りに就こうとしたものの、腕の下に挟まる服を取るために体を起こした。帰り際にエリが上空を飛ぶのは寒いだろうと夏也に貸したダウンベストだった。
「おい、大切な彼女が着ていたものを放っておいていいのか」
「え、エリさんが何だって……ああ、そのダウンはみちほさんのだよ」
夏也がエリの話だと思って体を横へ向け、あぐらをかいたメルクリウスは掴んだダウンベストに目をやった。
「なるほど、桂木えりでない方は『みちほ』と言うのだな」
「いい加減人の名前に敬称をつけてくれよ。みちほさんだって年下だけど、そこまで親しくないんだからさ」
「ふふふ、まあ良いではないか。そうかそうか、持ち主は女子高生じゃないのか」
眠そうに笑うメルクリウスがファスナーの歯を持ってくんくんと匂いを嗅いだ。着古した感じのダウンは年配男性の酸っぱい香りを漂わせ、顔をしかめた彼女はそれを夏也へ投げつけた。
「その悪臭がする上着は椅子に掛けておけ、夏也」
「おっと」
夏也は体が反応して飛んできたダウンベストを軽快に片手でキャッチした。だが、耳に入った言葉にはみちほに対する悪意が含まれた。普段から傍若無人な態度をとるメルクリウスでも、仲良くなった彼女をバカにされて感情を爆発させた。
「臭いとか言うなら出てけよ!!」
「なぜ夏也が怒るのだ」
「そ、そんなひどいこと言ったら誰でも怒るだろっ」
「それでは、みちほに何を言ったのだ」
「はぁ、何を言ってるんだ」
「それを受け取った時にみちほが怒った顔でお前を見ていたぞ」
「えっ。みちほさん怒ってたの、ほんとに?」
信じられないといった表情で夏也はメルクリウスを見つめた。桂木家のカフェでみちほと話した感触は悪くなく、特に不機嫌な様子も見られなかった。彼女の顔を思い浮かべた夏也がダウンベストを胸に抱きしめ、「みちほさん…」と呟いて椅子ごと体が横向きにドスンと倒れた。
思い悩む夏也を見下ろしたメルクリウスは腕組みをし、窓から見える向かいの真っ暗なすりガラスへ視線を向けた。
「……まさかとは思うが、みちほの方も狙っているのか」
「狙うって何の事?」
「いや、分からないなら何でもない」
メルクリウスは表情こそ変わらないが、内心は「マズい事になった」とかなり焦っていた。彼がエリとみちほの両方に好意を寄せるとは思わなかった。
「う~ん、今度会った時はまた可愛い笑顔を見せて欲しいなぁ」
夏也はダウンベストの匂いを鼻に吸い込み、床の上で体をくねくねと前後に動かした。メルクリウスは壁へ向いて横になった。いつもは途端に寝息を立てるところだが、彼の今後をどうするかに考えを張り巡らせた。幸いなことに木曜の入学試験までは家で勉強をしている。その間にエリたちに見合いについて話を付ける必要があった。
みちほはブツブツと不平を漏らしながら自力でバス停からハンドリムを回して帰った。黒田家までの距離は遠くはないが、祖父が迎えに来なくて余計に腹が立った。
「どこにスマホ置いてんだ……ったく、今日は散々な目に遭った」
桂木家のカフェではエリと夏也の会話を長々と聞かされ、彼が帰った後は苦いコーヒーを何杯も飲まされた。さらに、エリが煎餅ビンの話を始めるとあっと言う間に日が暮れた。祖父のスマホからの返信が来ず、エリに近くのバス停まで車いすを押してもらった。彼女には朝から振り回されたが、それほど怒っていなかった。夏也との盛り上がった会話を遮ったことくらい。それもその後の展開を予測できずに家族の話を持ち出した失敗への反省の方が強かった。救いは彼の好感度を下げるような発言がなく、次のイベントで再びルートの続きから再開を望める点だった。
帰路は田起こしされた田んぼの間を抜け、北風が吹いて冷え込んだ。エリが貸してくれたフード付きコートは内側にカイロが貼られ、祖父のダウンベストよりも温かかった。身勝手なところもあるものの、彼女はよく気が回って頼りになった。
みちほは黒田家の門を入ってコンクリ舗装を通り、玄関に着いて引き戸を開けた。車いすは段差のないレールを通過して上がり框に横付けされた。立ち上がった彼女が靴を脱いでホールに足を掛けた時、廊下の突き当りにある台所で笑いが起こった。スリッパを履いてみちほは廊下を歩いていき、台所の扉に目もくれず角を曲がって自分の部屋へ向かった。
機嫌の悪いみちほは部屋の戸を思い切り閉めた。音が響いたことで人がやってくるのは分かっていた。案の定、ぶっきらぼうなノックがして引き戸が開いた。
「洗濯物持ってきたぞ、みちほ」
「なんだ、父さんか……わっ、なに突っ立ってんだよ」
男性の声に振り返ってみちほは目を丸くし、父・真裕が抱える一番上にブラとショーツを載せた洗濯物を引っ手繰った。祖父でなく父が現れて期待外れな上に、彼がそれを畳んだと思うと不快な気持ちになって白い目を向けた。冷たい娘の反応に真裕はたじろいだ。
「じゃあ、今日はもう夕食が始まってるから」
真裕が手を上げて逃げるように部屋を出ていった。みちほは洗濯物を小上がりの布団の上へ放り投げ、「何なんだよ」と頬を膨らませ、クローゼットを開けて脱いだコートを掛けた。
洗面所で手を洗っている時も台所の方から明るい笑い声が漏れた。みちほは装具を外した右足を軽くついて廊下をトントンと跳ね歩いた。台所の前に来ると、祖父が中から扉を開けて赤い顔で迎えた。
「みちほ、お帰り」
「ただいま」
「早速で悪いがベストを返してくれんか。今日は一日寒くてな」
「ゴメン。貸しちゃった」
「おお、貸した相手はあの彼か」
祖父は口を開けたまま嬉しそうにし、母・美雪がニヤリとしてみちほへ人差し指を向けた。
「帰る時に寒いから高原君に貸してあげたんでしょ」
「な、なんでそれを…」
唖然とした表情でみちほはテーブルへ向いた。裕太と京太はまだ帰っていなく、美雪の隣には祖母・千夏が座り、向かい合って父たちが座っていた。卓上はビール瓶が何本も置かれて揚げ物や寿司のパーティパックが並んだ。まるで祝い事があったかのような雰囲気。夕方から大人達が集まって酒を飲む光景は奇妙に思えた。
祖父は戸惑う彼女の背中を押していき、自分がいた席に座らせて隣の椅子を引いた。彼らに囲まれたみちほはキョロキョロと首を左右へ振った。千夏がガラスコップのビールを飲み干し、卓上にトンと置いて出来上がった顔を向けた。
「創業百十八年の老舗煎餅店か。ヨーロッパ通りが出来てから売り上げが落ちて廃業寸前だったけど、最近インターネット通販が好調らしいな。よし、高原夏也は買い目だ!!」
「高原先輩は馬券じゃないよ」
泥酔した祖母は意味不明なことを言う。左隣で父があまり興味ないのかコップに入ったビールに手を付けず普通に食事中。みちほは右隣にいる祖父の肘を指でつんつんと突っついた。
「ねえ、何の記念日なの」
「そうだな。みちほの見合い…いや、デート記念日かな」
「デート……ど、どうして知ってんの」
みちほは見合いの件が家族に伝わっていることにビックリした。エリが夏也を見て急に言い出した作戦で、誰も知らないとばかりに思っていた。祖父は祖母の空いたコップにビールを注ぎながら目を細めた。
「ホッホッホッ。まあ、今度はその彼氏を家に連れてきなさい」
「えっ、違う。先輩は彼氏じゃないよ」
誤解されたままはマズイと思って祖父の腕を掴んで揺らすが、お酒が入った彼は聞く耳を持たなかった。黒田家ではみちほの初デートを祝って酒盛りが始まっていたのだ。そのせいで桂木家への迎えがなく、バスの車いすスペースでみちほは夏也をうまく攻略できない自分のふがいなさに自己嫌悪すら覚えた。その男子を恋人扱いされて祝宴にはモヤモヤするものを感じた。
本当の事を言おうにも無口な父は頼りにならず、他は全員酔っ払い中でなまじ否定すると状況が悪化してしまう可能性があった。みちほは適当に食べて早く部屋に戻ろうと、割り箸を箸先からパキッと左右に割った。
「あ、失敗した」
「ハハハ、何やってんの。もう一本使いなさい、ほら」
美雪が長さの違う割れた箸を見て笑い、使ってない自分の割り箸をみちほの前へ放り投げた。
「そんなんじゃ、高原君と食事に行った時に恥ずかしいでしょ」
「いいよ、笑われても…」
「違うわっ、母さんの方が恥ずかしいって言ってるの」
立ち上がった美雪はテーブルに両手をついてふらふらした。隣にいる千夏の姪と納得させられる酔いっぷり。みちほは酔っているとはいえ理不尽な非難にムカついたが、素直に「分かった」と返事して黙々と食事を始めた。
「ヒ、ヒック。デートの時はちゃんと高原君に奢ってもらいなさいね」
「うん」
「彼の方が年上なんだし、遠慮は無用よ。恋人にワガママもへったくれもないわ」
「う、うん」
「それにね、男子って頼られると喜びを感じる生き物なのよ」
「ん?」
美雪の傲慢な恋愛観が滲み出た発言に、みちほは耳を疑った。彼女が言う男子は恋人というより下僕に近く、攻略もへったくれもなかった。夏也は乙女ゲームにも存在しないような特殊キャラではない。だからこそ思い通り行かずに悩むのである。これ以上、テキトーなことを言う母には付き合いたくなかった。
「ごちそうさま」
「なんじゃ、もう終わりか」
「うん」
みちほは心配する祖父に作り笑いを見せて席を立った。いつの間にか、真裕がガラスコップを傾けてビールをがぶがぶと飲んでいた。酒に酔うと気分が晴れるのだろうかと思いつつ、彼の後ろを通ってひっそりと台所を出た。