ねーさま、ヨロシク!-桂木エリふたたび-   作:北河まき

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手を差し伸べたのは

 リビングのローテーブルに鎮座する煎餅ビン。見合い翌日の月曜日はその道具が弱った駆け魂を次々と吸い込む雄姿を見せつけたいがため、エリが黒田兄妹に放課後の全員集合をかけた。

 いつもと違う路線に乗ったみちほは住宅街を上り切った所に設置されたバス停で降り、車いすで平坦から少し下りになる数百メートルを移動した。平日は兄・京太がエリの相手をする番であり、面倒くさいと思いつつも借りたコートを返して適当に帰ろうと考えていた。桂木家の門に着いて手袋をした指に息を吹きかけ、スマホを操作して門扉と玄関ドアの鍵を同時に開けた。玄関ポーチまでのL字になったスロープは緩やかだが距離があって時間がかかった。

 寒い中でハンドリムを回して玄関に入った。みちほは車いすのシートにスポーツバッグを置き、あたふたとコートの袖から腕を抜いて学生靴を脱いでホールに上がり、リビングの戸を通り過ぎてトイレへ駆け込んだ。ベルトとファスナーを緩めた制服のスラックスを下着ごとずり下ろし、便座に腰を下ろして息をついた。

 壁のタッチパネルを押してしゅるしゅると便器内の水が吸い込まれる。やれやれとスラックスを上げようと手を伸ばすと、玄関のドアが開いてエリの声がした。

 

「どうぞ、中に入って下さい。ところで今日は何の用ですか」

「実は見合いの件で話があるのだ」

「そうですか。あ、そっちの部屋で待ってて下さい」

 

 もう一人の声はメルクリウス。彼女は車いすをよけて土間に入ったが、トイレのみちほに気づかなかった。エリに促されるままに配達用の靴を脱いで廊下をリビングへ向かっていった。

 スラックスのベルトを握り締めてみちほはトイレの戸脇に近寄った。リビングの戸を閉める音と廊下の奥で水が流れる音が聞こえた。こっそりと戸を開けて顔を出した。エリが廊下からキッチンに入る瞬間が目に入り、夏也との見合いの話が気になってみちほも廊下に出た。

 みちほはそっと戸のガラス部分からリビングを覗いた。灰色のセーラー服の後ろ姿が見え、左のこぶしが天井へ突き上げられた。来た早々ソファーに寝転がるメルクリウスにエリが怒っていたのだった。が、すぐエリは両手をバタバタと大きく広げた。反対側に回ったみちほが戸をほんの少し開けて耳をそばだてた。

 

「――と言われても困りますっ」

「まあまあ、そう怒らずともよいではないか」

「そりゃ、怒りますよ。つまり、その…断るって言うなら誠意を見せてもらわないと」

「ふむ、この煎餅セットでは不満か?」

「だから煎餅の方が欲しいと言ってるんじゃないんです」

 

 メルクリウスは夏也がエリたちのどちらかを選ぶまで返事をずるずると引き延ばそうとやってきた。店から持ち出した煎餅セットは彼女なりの誠意だった。エリは破談を理由に煎餅ビンを返さなければならなくなるのを警戒し、腕組みしてローテーブルへ目を動かした。

 途中から聞いたセリフは会話の文脈から「断ると言われても…」と推測し、エリが反発しているように聞こえた。夏也の断りをメルクリウスが伝えたに来たと思い、みちほはしかめっ面で廊下の壁に寄り掛かった。

 

「畜生、わたしのどこが気に入らないんだよ」

 

 乙女ゲームでは完全無欠の攻略で男子を落とすみちほが出会いイベントの後に振られるまさかの展開。非論理的であいまいな理由でヒロインが無残に打ち捨てられ、正しくリアルはそういうものという失望が込み上げた。そして何より、初めて面と向かって「可愛い」と言われて舞い上がった分だけ夏也にノーを突き付けられたショックは大きかった。

 リビングの会話に動揺してみちほはふらふらと歩き出した。エリたちの声が聞こえない所へと遠ざかり、冷静になろうと黒田家の部屋で待つ乙女ゲームのキャラたちを思い浮かべた。

 

 

 みちほは気づくと靴を履いて玄関から出ていた。外は風が弱いものの空気は冷たく、頬を紅潮させてスロープの手すりを伝ってとぼとぼと下りていった。考えまいとしても頭に浮かんでくる夏也の顔。吸い込まれそうな黒い瞳で彼は話し相手を見つめる。エリの話によると、スポーツ万能で頭も良くて爽やかな夏也は中学でモテモテだとか。身長166cmの彼女からしたら背は高くないがややガッチリした体型。その腕に抱きかかえられたい女子も結構いるのだろうと思い、門を通り抜けて桂木家の敷地を出てからため息をついた――やっぱり、エリ姉が目的で見合いしに来たのかな――彼は自分との会話で微笑みかけてくれたが、それ以上にエリとの会話を楽しんで笑っている感じを受けた。嫉妬の眼差しで二人を眺めていたみちほも諦めしかなかった。

 これまではみちほがリアルに嫉妬なんか考えられないことだった。部屋に引き籠って2D美少年と優雅に恋愛を重ねるゲーム世界の住人であり、日常のつまらないことで激情する母や兄に冷ややかな視線を向けた。しかし、エリを羨んで夏也を想う今のみちほは現実に彷徨って周りが見えなくなっていた。

 

キキーーッ

 

 みちほの数メートル手前で白い軽ワゴン車が止まった。ドアが開いて車を降りた運転手がペタペタと歩いてきた。ボーっと突っ立つ少女に、白髪の老女が顔を覗き込んだ。

 

「こんな所に立ってると、車に轢かれるよ」

「煎餅屋のばあさん?」

 

 みちほが視線を下げると夏也の祖母・歩美。彼のことを考えている時にちょうど目の前に現れて息を呑んだ。けれど、袖がない服を見て「そのダウンは…」と声を漏らした。着ていたのは夏也に貸したはずのダウンベストだった。一度ダウンに目をやった歩美が襟元をつまんで顔を上げた。

 

「ああ、これかい。廊下のゴミ箱に捨ててあったんだけど、まだ着れそうだから配達の時にでも使おうと思ってさ。おや、あんたどこかで見た……あっ、前に夏也が店に連れてきた子だわ!」

 

 歩美は嬉しそうに目を大きく開け、みちほへ人差し指を向けた。そばかすが目の下にある人形のような白い顔と懐かしさを覚える耳の上に髪留めをしたショートヘアの女の子。スラックスを履いた学生が孫のお気に入りの少女だと分かり、上着がブレザーの制服姿をじろじろと上から下へ眺めた。

 反対に、みちほは夏也の祖母と再会しても嬉しくなかった。桂木家のカフェで見合いが行われる遠因を作った人物だからだ。横を向いた彼女は口をすぼめて関係ないふりをした。

 

「人違いじゃないですか。わたし、夏也なんて人は知りませんから」

「えーっと、名前は黒田みちほさんだったわね。昨日の夜夏也に聞いたの。中一だけど背が高くてスタイルがいいって言ってたわ。それと、スリーサイズが…」

「そ、そんなこと高原先輩には言ってません!!」

 

 顔を真っ赤にしたみちほが夏也との親しい関係を白状し、歩美は頭を掻いてニヤリと笑った。

 

「可愛いわね、みちほちゃん。そんなことは聞いてないから安心して」

「くそっ、ハメられた」

 

 見事に歩美の計略に引っ掛かった。みちほは悔しくて胸前でこぶしを握ったが、すぐ腕を下げてガックリとうなだれた。カフェで夏也が言った『可愛い』も歩美と同様にからかわれていたのかと思うと怒る気持ちが消え失せた。彼女が見るからに元気をなくした理由が分からない歩美は小首をかしげた。

 

「ねえ、夏也と何かあったの」

「ふぇっ」

 

 歩美のセリフが胸に突き刺さり、みちほが思わず変な声を出した。彼女は桂木家に来たメルクリウスの行動を夏也の拒否を伝えにきたと思い込んだ。頭の片隅に仕舞っておいた事柄に触れた歩美の一言はみちほの思考を完全に停止させた。

 桂木家の前はバスが通るくらい広くて幅が6メートル以上あり、新舞島駅の通りと国道を繋ぐ抜け道的な道路だった。立ち話をした数分の間にも彼女たちの脇を車が頻繁に通り過ぎた。歩美は路上で固まるみちほの顔へ手を振りつつ通過する車をチラチラと気にし、動きそうにない少女の手を引いて往来に停めたままの車へ向かった。

 茫然自失のみちほは歩美に腕を引っ張られ、体をカクンカクンと揺らしながら障害のある右足を引きずった。車の横に一人で立たされてしばらくすると助手席のドアが開いた。

 

「乗りなよ」

 

 運転席からハンドルを握った歩美が得意げに親指を立てた。我に返ったみちほは気後れし、ハキハキしたお婆さんの指図に大人しく従った。軽トラより少し広い車内を珍しそうに眺め、緊張した面持ちでシートに腰掛け、両足を入れて控えめにドアを閉めた。

 歩美は眼鏡を掛けてエンジンのスタートボタンを押し、畏まってちょこんと座るみちほへ顔を向けた。

 

「で、学校帰りに手ぶらでどこに行ってたのかしら」

「はい、親戚の家です」

「ふーん、黒田さんか……けど、ここら辺も電柱が埋められて変わっちゃったわね」

「昔は電柱が立ってたんですか」

「あれ、この前埋めたんじゃなかったっけ」

 

 住宅街はすでに若い世代が生活し、年老いた歩美が訪れることはなかった。それでも、みちほが店に来た直後からネット通販の注文が殺到して配達で来ることになり、見通しの悪い路地での事故防止のために車を買い替えた。彼女が車の前に飛び出したのは「運命」とも言うべきアクシデントだった。

 

「それにしても良かった、ちゃんと止まって。自動ブレーキが作動したのは初めてよ」

「はぁ、反省してます」

 

 ばつの悪い表情を浮かべ、みちほが太腿の上で手を組んだ。口元を緩めた歩美は恥ずかしがる彼女を愛おしく感じた。口癖の「ひ孫の顔が見たい」という言葉は遠い願望であったが、夏也が見初めた少女は上半身がほっそりしている割に腰回りが大きく、意外と近い将来叶うかも知れないと思わせた。

 高原煎餅店の軽ワゴンに乗ったみちほは先の事を考えるのをやめ、成り行き任せでいいやと思った。今までは選択したルートを通らない原因を頭の中であれこれと考え込んだ。だが、現実は不合理で何の前触れなく振られたり、偶然車に轢かれそうになったりと自分でイベントを制御するには限界がある。車内では後部座席に煎餅セットが山積みされ、歩美が一人で煎餅屋のアピールをうるさくまくし立てた。みちほは話を聞いているふりをし、今度は顔色に出ないように気をつけた。

 




―― 次章予告 ――

他人の気持ちを考えるみちほ。しかし、エリが駆け魂の回収に、京太がUFOのことにエゴを剥き出しにし、新たな悪魔も現れて陰謀が渦巻く。彼女は高等部の合格発表で夏也と… ⇒FLAG+20へ

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