——————ああ、これだ。この感覚だ。
ここにあるのはただの煉獄。駆逐艦 曙という入れ物に用はない。
入れ物が耐え切れずに焼け焦げようとも、この激情には関係ない。
真っ赤に染まる視界。音すらも焼き尽くす紅蓮。燃やすべき薪が一つ。それ以外はどうでもいい。すべて飲み込む。すべて滅ぼす。すべて焼き焦がす。
魂が焼き切れていくのがわかる。
感情が燃える。記憶が焦げる。あたしがあたしでなくなる。
誰かがいた気がする。忘れたくない誰かが。守りたい誰かが。でももう、その誰かも焼けてしまった。
いずれにせよ、もうあたしの中には誰もいない。
あたしは独りだった。そういうことにしておこう。
その方が——————きっと、よく燃える。
「やめてくれ」
透き通る声が聞こえた。
音を失ったはずの世界に、その声だけが響いた。
「もう、一人で全部背負い込むのは、やめてくれ」
誰かに腰を抱かれたような気がした。
すべてを焼き尽くそうと、誰も近づけないはずのあたしの腰を抱くバカが、確かにいた。
「もう、自分を傷つけるのは、やめてくれ。誰よりも優しい、曙」
あたし自身をも焦がす業火の中で、その銀髪の少女は訴えかけていた。
——————ああ。
——————まだ、あんたがいたんだった。
「これで、わたしも……やっと……なにか、でき……」
儚く消え入る声が、あたしの中に澄み渡る。
——————ありがとう、響。
それは銀雪のように降り積もり、燃え盛る煉獄を冷やしていった。
信じてその身を燃やしてくれた友を抱いて、あたしはゆっくりと目を開ける。
さっきまでの煉獄の海が嘘のように、鮮やかにはじけて消え失せた。
あるいは、本当に悪い夢だったのかもしれない。
そんな甘い希望を望む自分に呆れながら、すぐそばまで来ていた龍田に響を預ける。
「悪いけど、ちょっと響をお願い」
龍田の身体もまた、痛々しい火傷に覆われていた。
あの時《破砕》に致命傷を負わされた響があたしの意識を呼び戻せたのも、なんとか意識を保っていたあいつに頼まれて、無理矢理響を運んだからだろう。
あの灼熱の中に突っ込むなんて我ながら自殺行為だと思うが、そんな二人のバカがあたしを救ってくれた。
「曙ちゃん……なの……?」
「ほかの誰に見えんのよ」
いつもの調子で返したつもりだったが、龍田は呆けた顔のままだった。
そのあとすぐ、自分の身体の変化に気づき、龍田の様子に納得する。
あの業火は、あたしの身体も例外なく焼き焦がしていた。それなのに、その痕跡がどこにもない。
そして、藤色だったあたしの髪が茜色に染まり、炎のようにゆらめき燃え盛っている。
地獄の業火は消え失せた。でも、あたしの身体に、魂に、まだ力は刻まれている。
この《煉獄》は、あたしの中で生き続けている。
「ギヒッ、ギヒャ、カカカッ」
新たな決意を宿して、醜く笑う仇敵の方へ向き直る。
その瞳からは嘲笑ではなく、どこか歓迎しているような、好意的な色が読み取れた気がした。
——————ようこそ、こちら側へ。
——————お前もワタシと同じ、バケモノだ。
あの時、あたしを化け物と罵ったあのクズの顔が浮かんだ。
確かに、あたしとお前は同類かもしれない。
この力は明らかに、今までの艦娘の常識を超えている。初めて煉獄を目にしたあの日から、あたしはずっと得体のしれないあたし自身に怯えていた。
あたしはただの艦娘じゃない。それこそ、化け物と恐れられても仕方ない。
それでも、あたしとお前は違う。
同じ化け物の道を歩むのなら、あたしは壊す側よりも護る側を選ぶ。
「ギヒャアアアアア‼」
裂けそうなぐらいの大口を開けながら、《破砕》が仲間の潜水艦を瓦礫に変え、あたし目掛けて飛ばしてくる。
あたしはいたって冷静に、右の掌に高密度の火球を生み出し、飛来する瓦礫——————その手前の水面目掛けて火球を放り投げる。
海面に着弾した瞬間、籠った爆発音と共に目の前が白煙に覆われた。ちょっとした爆弾といったところだが、その威力は馬鹿にできない。水蒸気爆発の防壁は、襲い来る瓦礫を残らず吹き飛ばした。
「グルォォォォォォォォォ‼」
白煙を突っ切り、《破砕》が真っ向から死の右腕を突き出してくる。
「曙ちゃん!」
心配そうな龍田の叫びを裏切り、あたしは真っ向からヤツの右腕を受け止めようと、左半身を引く。
大丈夫。今は完全に力を制御できている。
煉獄に呑まれるな。大切なことを、響が教えてくれた。
もう、一人で背負うのはやめだ。
振るう炎は熱く——————心は、どこまでも冷たく!
「うらああああああああああ‼」
炎を纏った左拳が、標的を捉える。
だがその拳は、ヤツの右腕にしっかりと掴まれた。
「ギヒッ! ギヒャヒャヒャアアアアアアア‼」
勝利を確信した《破砕》の笑い声が、静かな海にこだまする。
高揚。狂喜。嘲笑。そんな感情が右腕を通して伝わってきても、あたしの心は凪いだままだった。
だからあたしは、いたって冷静に、左腕の炎で《破砕》の右腕を焼いた。
「ウガアアアアアアアアアアアア⁉」
炎はヤツの右腕を伝い、導火線のようにヤツの身体を駆け巡り、瞬く間に全身を包み込む。
最初は激しく悶えていた《破砕》の動きが徐々に小さくなり、やがてほとんど動かなくなった。
炎の勢いが弱まり、掠れた息を切らす《破砕》の姿があらわになる。火傷の跡が全身を惨たらしく彩り、四肢は凍えているように震えていた。
あたしが左腕に宿した炎は、どこまでも冷たい炎だった。
凍えながら焼かれる、という世にも珍しい体験を終えた肌は、空気に触れているだけでも激痛を伴うはずだ。
全身が低温火傷になるのは、どんな気分?
「ガ、ガガッ、ガ、アアアアアア」
それでも《破砕》は右腕を向けて進んでくる。あたしの顔まで数センチ。恨みと執念だけで動く者が、こんなにも哀れだったとは。過去の自分を思い出して、渇いた笑いが漏れた。
「ゴアアアアアアアアアアアア‼」
それが最期の咆哮だった。
ヤツの身体に残る炎の欠片に意識を集中させ、そこから更に燃え上がらせる。今度は鉄をも焦がすほどの灼熱で。それでも《破砕》は止まらなかった。
——————朧。漣。潮。
——————ごめんね。今まで、ありがとう。
宿敵の頭蓋を掴む寸前で四肢が溶け落ち、《破砕》の右腕だったものが、頬をかすめた。
「あんたにもいろいろ迷惑かけたわね、一応、その……謝っとく」
仇敵との因縁に決着がついた後。目を見開きっぱなしの龍田に、少しばかりの謝罪を表明した。
「曙ちゃん、ちゃんと謝れる子だったのね~、よしよし~」
いつものからかい口調に反射的に噛みつきそうになるが、さすがに今回は頭が上がらないくらいの非があたしの方にある。どれだけ神経を逆なでされても甘んじて受け入れるしかない。
「でも、いちばんあなたのために動けたのは、この子よ」
憂い気な目を、龍田は腕の中で安らかに眠る少女に送る。
響がいなければ、今頃あたしは救われない魂のまま、虚しく四散していただろう。本当にどんな言葉を返せばいいのかわからないし、どんな言葉を掛けても、もう帰ってこない。
この力は、響にもらったものだ。そして、まだ危機は去っていない。偵察艦隊は今も挟撃艦隊を足止めしてくれている。急いで救援に行かなくては——————。
直後、心臓を握り潰されたような痛みに襲われた。手足に力が入らない。視界が定まらない。口の中に胃酸の味が広がる。
——————無理、しすぎたかな。
「曙ちゃん⁉ 大丈夫⁉」
駆け寄ってきた龍田の声が、おそろしく遠く、反響して聞こえた。まずい、だんだん、何を言っているのかもわからなくなってきた。
「ごめん……もうちょっと……迷惑、かけ、るか……も……」
上手く話せたかわからない。なんとか言葉になっていたと信じて、あたしは意識を手放した。
《※※※》
気が付けば、真っ白な天井が広がっていた。
あの後、どうやらあたしは偵察艦隊に連れ戻され、無事に帰投できたらしい。
なんだがデジャヴを感じる。
だけど、あの時ほど気分は最悪ではなかった。
「ん……」
点滴用の針が刺さる身体を起こし、呼吸マスクを外す。
どれくらい眠っていたのだろうか。窓の外はまだ昼の明るさ。ということは少なくとも丸一日は経っている。
……まぁ、少しは慣れていたとはいえ、あれだけ無理して力を使ったのだ。今回初めて《煉獄》を制御できたが、その代償がこれだけで済んだのが不気味なくらいだ。
……いや、何を言っているんだあたしは。力の代償なら、かけがえのないものを払ってしまったじゃないか。
あたしを救うためにその身を焦がした友がいる。その友の分まで想いを背負って、あたしたち六人の仇を討つことができたんだ。
あたしは自分の頬をぴしゃりと叩く。まだ寝ぼけている頭に喝を入れろ。響の分まで、あたしはこの力を使って戦いを終わらせて——————。
「ダメじゃないか。怪我人が自分の頬を叩いちゃ」
それは幻聴か。あるいは幻覚か。真っ白な病室と色が似ていたからか。
今は亡き友が、あたしのベットの傍らに佇んでいた。
「……何よ。幽霊になってまであたしに言いたいことでもあるわけ?」
「いや、死んでないから」
銀髪の幽霊は懐かしい無表情で、あたしの頬をつねってきた。……え? つねって……?
「ひ、響⁉ あんた、無事なの⁉ 生きてるの⁉」
「ああ、無事だとも。問題ないけどまだあまり身体を揺らさないでくれれれれれ」
なんてことだ。ちゃんと触れる。幽霊じゃない。響が生きている。
《破砕》の瓦礫を受け、あたしの《煉獄》に焼かれて命を落としたと思っていた響は、そんな激闘の跡など感じさせないほどに全快していた。
「私は死ぬ気の覚悟だったんだが……どうやらギリギリ治療が間に合ったらしい。とはいえ、自分の回復力には自分が一番驚いてるよ。曙は一週間目を覚まさなかったのに」
響は垂れ下がった服の右袖をつまみながら言う。
いくら傷が癒えようと、失った右腕が再生することはない。
無論、響の腕を切断した当人は、《破砕》に掴まれて死の危機に瀕した響を救うための、やむを得ずの行動だったのだが。
「響、あのあとどうなったの? あたしより早く目が覚めたなら、先に報告を受けているはずでしょ?」
なんせ一週間も眠ってしまったらしいのだ。連続出撃は少しきついけど、情報の遅れぐらいはすぐにでも取り戻さなければならない。
それに、結果的に助けてもらった形になったんだ、偵察艦隊のみんなに一応お礼を言っておかなくては。
……あと、龍田。あいつには色々と迷惑をかけすぎた。癪だけど、かなり癪だけど、今回ばかりはあいつに何を言われても言い返せない。
「……曙、目覚めたばかりで悪いが……少し歩けるかい? 来てほしい場所がある」
来てほしい場所? 情報共有ならここでも充分だと思うのだが。
表情変化に乏しい響の顔がどこか沈んでいるように見えて、あたしはなぜか追及する気にはなれなかった。
そうして響に連れられて、あたしたちは鎮守府の中庭に来た。
西洋風のフェンス、切りそろえられた生垣、色とりどりの花壇。かなり景観にこだわりを感じる庭園だ。この鎮守府の庭師は中々にマメらしい。
そこに、白い軍服を纏った男が膝を立てて座っているのが見えた。
「あんた、こんなところで何してんの」
着任早々、なぜかよく絡んできた男だ。あまりにうざかったので顔と名前くらいは覚えている。確か名前は、雨宮優。
「目が覚めたか、曙」
雨宮はあたしの顔を見ると、少しだけ顔を綻ばせた。
そして、あたしの眼にはもう一つ、気になるものが映っていた。
「墓……? そんなのあったんだ。てか、誰の?」
あたしの質問に、雨宮は重い声で答えた。
「龍田と、赤城の墓だ」
何を言っているのかわからなかった。
もし冗談なら即刻燃やしている。あたしにその手の冗談は地雷なんて言葉も生ぬるい。
だけど、雨宮と響の顔が、無言でそれを肯定していた。雨宮はともかく、響がそんな嘘を吐くとは到底思えない。
「あのあとの報告では、《破砕》は曙の活躍によって討伐——————だが同時に、響、曙が意識不明、龍田は重症。そしてそれを狙っていたようなタイミングで、敵の大群が押し寄せてきた。全員轟沈という最悪の事態を防ぐために、手負いの龍田と、赤城が足止めを買って出て——————そのまま轟沈した。そう聞いている」
雨宮は暗い瞳のままそう告げた。
龍田と、赤城が、沈んだ。
単艦出撃したあたしのせいで。《煉獄》を制御できなかったあたしのせいで。
「俺の責任だ」
そんなあたしの自責を察したように、雨宮が口を開いた。
「すべての展開を見越していたように、あいつらは現れた。奴らの作戦を見抜けなかった俺の失態だ。俺が、あの二人を殺した」
「違う。全部、あたしのせいで……!」
「曙は、何も悪くない」
雨宮は、光のない瞳でそう言った。
「……ふざっけんな!」
気づけば、あたしは雨宮に掴みかかっていた。
「言えばいいじゃない! お前のせいだって! お前が勝手なことをしなければこんなことにはならなかったって! あたしの代わりに背負ったつもり? あんたが全部一人で背負った気になったって、あたしは……!」
そこまで言って、やっとわかった。
こいつの眼が気に入らない理由が。
こいつは——————
光のない暗い瞳。こいつは、怯えているんだ。
絶対に成し遂げなければいけない使命があって、それに巻き込んで誰かを傷つけてしまった後悔に。
一人ですべてを背負おうとして、何が正解なのかわからなくなってしまっている迷いに。
そして、自分自身が何もできなかった責任に。
そんなあらゆる罪悪感に苛まれながら、それでもこいつは逃げずにあたしたちと向き合おうとしている。
逃げたくても逃げられないよう、自分で自分を縛っている。
「自己満足だとはわかっている。こんな形だけの墓を作ったところで、この下にあの二人はいない。だがたとえ形だけでも、決して忘れてはいけない。人類のために散っていった仲間がいたことを。彼女らを守れなかった自分の罪を。この墓は、俺の贖罪への戒めだ」
暗い瞳の奥に確かな決意を宿しながら、雨宮はそう言った。
艦娘は、深海棲艦に対抗するためだけに生まれた存在。この戦争を終わらせるための唯一の手段で、人間の代わりに戦場を駆ける消耗品だ。それが艦娘の、あたしたちの使命。
だから、少なくともあたしは、こんなことをするやつを見たことがなかった。轟沈報告を受けて嘆く提督はいても、彼女らを尊び墓まで立てるような提督を、あたしは見たことがなかった。
提督としての使命にではなく、仲間の死に何よりも責任を感じている。
「頼みがある、曙。俺に力を貸してくれ」
雨宮は両膝をつき、懇願するように頼み込む。
「君たちを守るために戦うと、俺はそう誓った。だがその結果がこれだ。俺には何の力もない。俺は君たちに助けられないと何もできない。だから頼む。復讐のためじゃない。大切な仲間を守るために、俺に力を貸してほしい」
強い風が吹いた。
風が、あたしの中に入り込んでくるような、そんな感覚がした。
「とりあえず、それやめたら? みっともないし」
無意識に、そんなことを言っていた。
雨宮が顔を上げ、立ち上がる。ああもう、だからその眼をやめろってば。
昔のあたしを思い出すでしょうが。
「あんたが感じてる責任とか、あたしには関係ないしどうでもいい」
こいつはつくづく、あたしと同じだ。
そしてあたしは、こういうやつが一人じゃ何もできないことを、知っている。
「あたしは、あたしのために戦う。あたしの守りたいもののために戦う。その邪魔をするなら、誰であろうと燃やしてやる」
散々迷惑をかけた龍田たちのために。あたしの帰るべき場所のために。
「だから、その邪魔にならない範囲でなら、好きにあたしを利用すればいいんじゃない?」
言いながら、あたしは踵を返した。
別に絆されたわけじゃない。かつて漣に『めんどくさいツンデレ』と揶揄されたことがあるけど、あたしは断固として認めていないし。
「そうか。ありがとう、曙」
庭園に吹くそよ風のように優しい声が、あたしの背中に届いた。
あ、そうだ。言い忘れていたことがあったんだ。
あたしは半身だけ振り返り、少しだけ緊張が和らいだ気のする顔で言った。
「ただいま、クソ提督」
あの男を信じてしまったせいで、あの悪夢は起きた。
因縁にけりをつけても、あたしの間違いはなかったことにはならない、
それでも、こいつなら信じてみてもいいかもと思った。
だってあたしはずっと、あたしを信じてきたのだから。