やはり俺の見る夢はまちがっている   作:拙作製造機

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これである種一区切り。多分だけど、八幡は女作ろうとしてない時が一番モテるタイプ。で、その気を出すとダメになる、そんな感じがします。


奇妙な夢が繋いだ手

「ぶんすいれー……分水嶺、だよな。そんな言葉を折本がわざわざ使った理由……」

 

 自宅へ戻った後も、八幡は中々寝付けずにいた。頭の中では、折本からもらった名刺に書かれていた単語が渦巻いている。分水嶺という単語を折本が知っているとは思えない。その理由は、平仮名で書かれていた事。本当に知っているのなら伸ばし棒など使わないだろうからだ。

 

「……中学時代へ戻るのは嫌で、ぶんすいれーという書き方。これらはやっぱり……」

 

 このところ見なくなった夢。もしあれを折本も見ていたとすればどうだろう。そんな有り得ない可能性を八幡は考える。言動などが彼の知る折本と変化していないように感じたのは、あの頃から今までの十年以上の時間で彼女がほとんど変化していなかったと思えば理解は出来る。

 むしろ、そう考えなければ色々と納得出来ない部分が多いのだ。何せ、彼女は八幡が告白した事を彼氏に話した事で起きたイジメを知っている。その彼女が似た結果になるかもしれない別れ話を切り出すかと、そこまで考え彼は気付いた。

 

「だからこそ、かもしれないな」

 

 彼氏の事をどこかで信じていたからこそ、そして夢だからと思っていたからこそ、折本はその行動を取ってしまったのではないか。そうも考えられるとして、八幡は息を吐いた。

 

「とりあえず寝るか。もう色々な事があり過ぎて頭が痛くなりそうだ」

 

 自分へ言い聞かせるように呟き、彼は目を閉じる。すると、肉体的疲労と精神的疲労からか、あっさりと意識が遠のいていく。そして……

 

「…………見知った天井、か」

 

 目を覚ますと二つの意味で久しぶりの実家の自室だったのだ。体を起こして八幡は日付を確認する。当然というか、あの最後の夢の翌日だった。

 

「どうやら勝手に時間を進めてくれない心折設計らしいな」

 

 小さく俺らしいと呟いて、彼は大きく伸びをする。そこで思うのは、やはり若い体というのは凄いという事だった。今の彼は、正直夜勤をやった翌日は気怠さが取れない事が常であるが、この頃の体は徹夜を一日しても平気な程活力に満ちている。それを動かしながら実感していたのだ。

 

「若さを金で買えるなら買おうとする奴が出るわな、これは」

 

 そう言いつつ、自分なら買わないと思っている辺りが彼らしさ、だろうか。そんな馬鹿げた事を考えながら、彼は久しぶりの夢の世界で動き始める。両親の見送りに小町と二人での朝食、学校への登校と、こちらでの日常を。

 

「おはよ」

「おう」

 

 唯一の挨拶相手の折本とも、朝の始まりを告げるやり取りを廊下で交わす。と、そこで今回は異なる展開が起きた。そのまま教室へ入った八幡だったのだが、クラスメイトの一人が彼に気付いて顔を向けるなり……

 

「比企谷君、おはよう」

「へ? あ、ああ、おはよう……?」

 

 挨拶をしてきたのだ。突然の事に戸惑いを隠しきれず普通に挨拶を返した彼へ、ならばと他の者達も声を掛けてきたのだ。

 

「おはよ、比企谷君」

「比企谷、おはようさん」

「おはよう比企谷。昨日のあれ、やるじゃんっ!」

「え? あ? お、おう……」

 

 次々に挨拶をしてくるクラスメイト達に混乱しながら席に着き、何とか普段通りの行動をしようとするも、どう見ても好意的な感じがする注目のされ方など未経験な彼は上手いあしらい方が出来ないでいた。

 

(な、何だよこれ? 俺の経験にないぞ、こんなん! どうなってる!?)

 

 悪意からの注目であれば相模南との一件で経験済みである。だが、まるでこれではその時と逆ではないか。そう思ってオタオタはしないものの、突き放すような事は言えないし出来ない八幡。これが悪意であれば無視するし突き放す事も吝かではないのだが、好意的な相手を手酷く扱う事は今の彼には無理だった。

 

 あの奉仕部での日々で由比ヶ浜結衣へ彼は一貫してつれない風な対応をしてきた。だが、あれは高校生男子であったが故の照れもあってのものである。いい歳の大人になった彼に、あの時と同じ行動はもう取れないのだ。

 

「ちょっとみんな、ひきがやが困ってんじゃん。ひきがやは、今まであんまり大勢の人とお喋りしてこなかったんだって。だからいきなりみんなでガンガン行ったら怖がっちゃうから」

「待て。色々言いたいが、とりあえず一つ訂正させろ。怖がる事はないから。むしろ怖がらないから相手に怖がられるまである」

「うん。比企谷君、何言ってるか分かんないから、それ」

「それあるーっ! ひきがやって、時々分かんない事言うんだよね! でも、それがひきがやだから。みんな、諦めなって」

 

 ケタケタと笑う折本に周囲も同調するように笑う。八幡はそんな彼女を見て憮然としながらも、内心で小さく苦笑いを浮かべていた。今の彼女は自分を周囲と打ち解けさせるために言っているのだと分かったのだ。

 

「あのな、せめて褒めるならもっと分かり易く褒めてくれ」

「ん? 大丈夫。だって褒めてないから」

「お前なぁ……」

 

 そう言って八幡が項垂れると、今度はそれでそこにいるクラスメイト全員が笑った。その笑い声を聞きながら彼は思うのだ。これは、本当に自分の夢なのかと。その疑問は晴れないまま、彼はやっと解放されたとばかりに教科書を取り出すのだった。

 

 そうしてショートホームルームが始まり、学校の日常が動き出す。ただ、やはり変化が起きていた。これまでキモいと思われていた八幡が、運動部相手に毅然とした態度と振る舞いで理知的にトラブルを解決した事。それが周囲へ与えたギャップは凄かったのだ。

 

「あのさ、比企谷君。ここ、教えて欲しいんだけど……」

「……ああ」

「ね、これは分かる?」

「…………すまん、数学はあまり自信が無いんだ」

「そうなの?」

「この前のテスト、何点だったの?」

「……七十二点」

「「私よりもいいのに……」」

 

 ある休み時間には、近くの女子達から勉強について聞かれた。元々折本とのやり取りがあったため、彼の付近に座っている者達は八幡が総武を目指している事を知っている故の行動であった。ただ、彼の数学は自信が無い発言とテストの結果の差には揃って苦笑していたが。

 

「比企谷って度胸あるよな。普通ああなったらビビらないか?」

「……最悪殴られてもいいと思ってたからな。そうすれば病院で診断書をもらって警察に行けば傷害事件に出来る」

「マジ? じゃ、最初からケンカするつもりだったのかよ?」

「違う。出来れば話し合いで終わりたかった。だからああしたんだ。その、万一相手が攻撃してきても、一方的な暴力を受けるつもりだっただけでな。まぁ、反撃するのは命の危険を感じた時ぐらいに決めてはいたが……」

「「「へぇ~……」」」

 

 休み時間には今まで喋った事もない男子達数人から質問攻めを喰らい、それに元々考えていた事を告げて感心と尊敬を受けてしまう。八幡はそれを感じながらどうしたものかと思っていた。これは、彼が曲がりなりにも三十五年生きた経験があればこそであり、この頃の自分ではそんな事は考えもしないし思いつきもしないからだ。

 

「一つだけ言わせてくれ。俺は、別に凄くない。本当に凄い奴はそもそもトラブルなんて起こさないんだよ」

「んだよ。照れてるのか?」

「でも、比企谷の言う事は分かるぜ。だってさ、芸能人でもトラブル起こす奴と起こさない奴といるもんな」

「そうそう。起こさない奴って、ホント凄い奴ばっかりだし」

 

 上手く話題が逸れてくれたと安堵し八幡は息を吐いた。が、残念ながら話題は代わっても会話が終わった訳ではない。この後も休み時間ギリギリまで彼は彼らの話に付き合わされる。そこでそれなりにやり過ごせるのも、彼に社会人としての積み重ねがあればこそだった。

 

「……疲れた」

 

 放課後の教室。掃除を終えたその場でそう絞り出すように呟いて八幡は机に伏していた。今日、彼は人生で初めての経験をさせられていたのだ。一日中誰かが自分へ話し掛けにくるという、人によっては珍しくもなんともない時間を、である。

 

「ま、こんな特需はすぐ終わるだろうがな」

 

 まるでよくある人気者のような時間は、彼が折本の元彼氏を大人のようなやり方で撃退したからだ。その影響は、今日一日でほとんど使い切っている。明日からは以前までと同じような時間となるだろう。そう八幡は思っていた。

 

「そんな事ないと思うけど?」

「……折本」

 

 彼以外誰もいないはずの教室。そこへ聞こえてきた声に八幡がゆっくりと顔を上げると、そこには夕日を浴びて微笑む折本の姿があった。

 

「ひきがやのイイとこ、みんな知らなかっただけだからね。これからは、あたしみたいに友達になろうとする子、増えると思うよ?」

「……マジか」

「マジマジ。てか、もう何人かの女子は気付いてたよ。ひきがやってぜんっぜんエッチな目しないって。ホントに目とか、口元見てるってさ」

「え、何それ。本当に視線バレバレなの? 女、怖い」

「まあね。男子達なんか早速ひきがやの言ってた事、覚えてマネようとしてる子いたし」

「……イジメられてるのか?」

「ううん、そうなった時用に録音するの買っとくんだって」

「あー、成程な。それはいいかもしれん。元々あれは口述筆記とかのための物だし、普段から役立てようとすれば色々使えるからな」

 

 正直中学生が普段使いする物ではないが、何がどう役立つか分からないのが世の中である。それを彼も分かっているので、買う事を止めはしない。それよりも、彼にとっては折本がここにいてこうしている方が問題だった。

 

「で、どうしてここにいる?」

「ん?」

「言っただろ。距離を」

「そうしようと思ったけど、状況が変わった」

「はい?」

 

 やや怒り顔で八幡を見つめる折本に、彼はどういう事だと理解出来ない顔を返す。実は、彼女は親しい友人達から八幡の事を異性として狙い出すような事を言われたのだ。その瞬間、彼女は言いようのない苛立ちを覚えたのである。

 

―――ひきがやの事、今まで見向きもしなかったクセにっ!

 

 それは自分もだと気付いて口にする事はしなかったが、折本にとっては八幡との約束を守り続けるのは難しくなった事に変わりはなかった。このままでは以前恐れていた事が現実になる。それが今の折本には耐えられなかったのだ。

 

「とにかく、状況が変わったの。あたし、明日から前と同じでひきがやと話するから」

「……どうしてもか?」

「どうしてもっ! 何? ひきがやはあたしと話すの、嫌なの?」

 

 その寂しそうな問いかけが、八幡にはあの疲れた折本に重なる。気付けば、彼は首を横に振っていた。それを見た折本が今までにないぐらい嬉しそうに笑顔を見せる。

 

「じゃ、問題ないね! うん、なら一緒に帰ろ?」

「おい、さすがにそれは」

「いいって。あいつや周りにはこう言ってやるから。元彼がひきがやに突っかかった時、ひきがやがめっちゃ男らしく見えたから、あたしはひきがやの事男として意識しちゃったって」

 

 ある意味、納得のいく理由ではあった。あくまで意識しただけであり、その原因はあの元彼氏にあると出来る。女の強かさを折本もちゃんと持っている証拠であった。その見事な理屈に八幡も脱帽。こうして彼らは揃って下校する事になる。

 

 彼は知らない。それが単なる理屈ではない事を。本当の本当に、折本にとって事実であった事を。

 

「じゃあね。また学校で」

「ああ、気を付けて帰れよ」

 

 ある程度歩いたところで別れる二人。言葉を交わして一度として振り返る事無く自宅へ向かう八幡と、その背中を少しの間見つめる折本という違いはあったが、彼らは特に問題もなく帰路に就いた。

 

「ただいま」

「おかえりおにーちゃん」

「おう。わざわざ出迎えか? 何かあったのか?」

「じゃーんっ!」

 

 小町が見せたのは学校での小テスト。そこには満点を取った事を示す10の数字が書かれていた。

 

「へぇ、凄いじゃないか」

「えへへ、でしょ?」

「親父達に見せてやれ。喜ぶぞ」

「……起きてられるかな?」

「なら、その時は俺が預かっておいてやるよ」

「うんっ!」

 

 小町とのやり取りも、彼が記憶しているものと多少変化していた。それも当然である。この頃、本来であれば八幡はイジメに遭い始める頃で、その影響でどんどん暗く目付きが悪くなるのを小町はみていた。それが、今回はまったくなく、それどころか小町が薄っすらと覚えている彼女が家出前の八幡に近付いているのだ。

 しかも、小町へ家事をやらせる事もなく、黙々と家の事をしながら両親とも少しずつではあるが関わりを増やしていた。まさしく、彼なりの親孝行であり妹孝行であった。

 

「それで、小町も起きてたのね」

「ああ。その、何度も寝ていいって言ったんだけどな」

 

 その夜、日付が変わる辺りで両親が帰宅。八幡は、眠い目を擦りながらおかえりと言って小テストを見せた小町を部屋へ寝かせ、食事している両親へ事情を説明していた。ちなみに父はそれに号泣し、今も食事しながら泣いている。

 それを横目にしながら、母は呆れつつも微笑ましく思って苦笑していた。それと、そんな状況を作り出した最愛の息子には心からの微笑みを向ける。

 

「ありがとね、八幡。ホント、感謝してるんだよ? まだ中学生なのに、こんな事までさせて」

「いいんだ。親父と母ちゃんがこんな時間まで働いてくれるから俺と小町は笑ってられる。なら、これぐらいはな」

「八幡……っ」

 

 出来た言葉を掛けてくる息子に母は瞳を潤ませる。そっと眼鏡をずらし、目元を拭う彼女へ八幡はそっとティッシュを差し出して、ありったけの感謝を込めたありがとうを告げる。それに今度こそ母の涙腺が崩壊。こうして夫婦揃って涙を流しながら食事をする事になった比企谷夫妻であった。

 

 それを見て八幡は若干の居辛さを覚え、洗い物を任せて部屋へと戻りベッドへ横たわったところで意識が遠のき……

 

「……ホント、ありがとうだよな。あの頃の親父達が頑張ってくれなきゃ、今の俺も小町もない」

 

 気付けば一人の部屋のベッドの上だったのだ。そこで微かに滲む視界に気付き、八幡は目元を手で拭いながら起き上がる。今の気持ちを、現実でも両親へ伝えないといけないと思いながら。

 

「あ~……っはぁ。さてと、今日はどうするべきか」

 

 休みなので特に予定はない。と、そこで彼はある事を思い出してスマホを手に取った。そしてあるアドレスへメールを送る。

 

―――比企谷だ。こっちの番号とか伝え忘れてたので送る。

 

 素っ気無い事この上ないが、彼は元来こういう人間である。無事送信出来た事を確かめ、彼は時刻を見て立ち上がった。時刻は午前七時半。普段であればベッドでごろごろするが、あの夢を見始めてからはそんな気にはならなくなっていたのだ。

 

「顔洗って、飯を食べたら洗濯物を持ってのいつものコースだな」

 

 そうやって呟いた時であった。彼のスマホが振動したのは。すぐさま折本からの返信だと気付いてスマホを手に取る八幡。そこには予想通り彼女からのメールが届いていた。

 

―――ホント、マジウケるねあたし。肝心な事聞き忘れるとか\(//∇//)\ 後、この下の番号、あたしのLINEだからよろしく(^-^)/

 

 最後の部分に八幡は一瞬にして苦い顔を浮かべた。彼はそのアプリをダウンロードしていないのである。いや、そもそもダウンロードする必要がなかったというべきか。なので早速返信を送る。

 

―――俺はそれを使っていないから意味ないぞ。

―――は? 今時LINE使ってないとか有り得ないから(-"-;)

―――俺らしいとは思わんのか?

―――……それは思うけどぉ、ひきがやとLINEしたいな? ダメ?(゜▽゜*)♪

 

 すぐに返ってくるメールに知らず笑みを浮かべながら、八幡はかつてよりも幾分早くなった手つきで文章を入力していく。

 

―――簡単に出来るのか?

―――とーぜん。てか、メールよりそっちの方が早いんだって( ̄∇ ̄)

―――分かった。なら少し待ってろ。

 

 そこからしばらくメールは途絶える。やがて折本のスマホに通知が届く。それを見て彼女は小さく笑みを浮かべた。八幡からのLINEだった。

 

「ひきがやってホント変わってないんだ。ふつー、LINEぐらい入れとくもんだし」

 

 言って、彼女は気付く。それを薦めてくる友人も相手もいない環境にいるのだろうと。それは、折本の中に中学時代の彼を思い起こさせた。たった一人で、何も楽しい事もなく登校していたような彼の姿を。

 

「…………でも」

 

 ふと、その姿がぶれるのだ。彼女が最近よく見る夢の、ぼんやりとしたイメージのせいで。八月に入って少し過ぎた辺りから見るようになった、中学時代の夢。夢だからか、実際の記憶と違う事ばかり起きて楽しかった夢。

 だが、ある事を契機に見たくなくなってしまったのだ。それは、彼女にとって忘れていた記憶を呼び起こしたから。それは、その頃の自分にとって初めて経験した恐ろしい出来事。

 

 何の気なく話した事だった。ちょっとした話題のつもりだった。だけど、それが取り返しのつかない事になった事を彼女が知る頃には、もう止められない状況になっていたのだ。

 比企谷八幡への陰湿なイジメ。それは、全て彼女が告白された事を彼氏へ喋った事が原因だったのだから。それを夢の中で思い出してしまい、彼女はもう夢を見る事が出来なくなった。いや、見るのが怖くなったのだ。

 

 ひきがやがやっぱり嫌だって言ったらどうしよう。嫌われたくない。そういう気持ちが折本の心を包み、夢を見る事を拒否した。結果として、それが八幡にも影響し、しばしあの不思議な夢は見る事がなくなったのだ。

 それを、あの夜の八幡の行動が払拭した。見られたくないところを見て、それでも彼女を思う彼の気持ちに、折本は夢の続きを見る気になれたのである。

 

「あはは、ひきがやってホント童貞なんだ。あたし、本気で良かったのにな。……ひきがやなら、夢のひきがやも現実のひきがやもあたしは……」

 

 やり取りを交わしながら折本は段々寂しくなってきていた。何故なら、現実でも会おうと思えば会えるからだ。それなのに、スマホを介してでしか八幡を感じられない。すぐにでも言葉が聞きたいのに。あの落ち着いた声が、あの優しい眼差しが、あの情けなくも頼りになる存在が、すぐ傍にあって欲しい。そう思った時、彼女の答えは一つだった。

 

「よしっ! 今から会えないか聞いてみよ!」

 

 それに対する返事は、構わないとの一文。それだけで折本はテンションを上げて待ち合わせの相談を始めた。やがてそれらが終わり、彼女はこうしてはいられないとばかりに動き出した。まずシャワーを浴び、着ていく服と下着の吟味を始める。それらが終わるや化粧を開始、完全にデートへ行く気分だったのだ。

 

(ひきがやはそんなつもりないだろうけど、だからこそ勝負だ。……どうせなら、こんな風になる前に再会したかったなぁ)

 

 ここ何年かは、仕事に行って帰ってくるだけの生活を続けていた折本だが、久しぶりとなるプライベートでの化粧にその心は弾んでいた。仕事に行く時のそれは嫌で堪らないのに、今の彼女は鼻歌混じりだったのだから。

 

 一方、八幡は八幡で大慌て。突然折本から会いたいと言われ、それがおそらく辛さや寂しさからのものと考えた彼は若干迷ったものの承諾。すると、落ち着いて話せるところがいいと言われ、彼が考えていたような場所は軒並み没を喰らった。更に折本から出された提案は彼の部屋だったのだからさあ大変。待ち合わせ時刻まで余裕はそれなりにあるが、洗濯物を出しに行ってこれまでのように読書をして帰ってくると掃除が間に合わない可能性があった。

 

「とりあえず洗濯物はマストだ。掃除は……若干不安はあるが、乾かしている間に帰ってきてやるか」

 

 そうと決まれば善は急げとばかりに八幡は急いで動きだす。上は寝間着のまま下だけジーンズを履いて大量の洗濯物を抱えて近所のコインランドリーへ。そして洗い終わるや乾燥機へと突っ込み、急いで部屋へと戻る。そこから最低限の掃除を行い、スマホのアラームが鳴るまで念入りにチェック。乾燥が終わる五分前を告げるアラームが鳴るや、再びコインランドリーへ戻って乾いた洗濯物を抱えて部屋まで帰る。これらを行い、最後にシャワーを浴びて汗を流すともう外出する時間ギリギリであった。

 

「服は……気取ってもしょうがないか」

 

 とりあえず見た目がおかしくない物をと着替え始める八幡。この辺りにも彼が長く一人だった事が見て取れる。これから女性と会うのに格好へそこまで気を遣わない事。それもまた彼が童貞たる所以であった。

 

 そうして遂に二人は出会う。待ち合わせ場所へ先に着いたのは八幡。それから数分遅れて折本が到着する。その対照的な格好に二人はしばらく無言で見つめ合い、同時に小さく苦笑するのだった。

 

「ひきがや、女と会うのにその格好はないよ。マジウケる」

 

 八幡の格好は、無地のグレーのTシャツに濃紺のジーンズ、黒のスニーカーというシンプルなものだった。

 

「逆だ。お前が気合入れ過ぎなんだ」

 

 折本の格好は淡いピンクのブラウスに、膝上までの長さのやや濃いめのピンクのフレアスカート、それに白のサンダルであった。

 

「え~? プライベートで男と会うのなんて久々だからいいじゃん」

「そうかよ。じゃ、行くか」

「うん。あっ、そうだ。ひきがや、ちょっといい?」

「あ?」

 

 先に歩き出す八幡を呼び止め、折本はその隣へ歩み寄ると疑問符を浮かべる彼の手へ自分の手を重ねる。

 

「手、繋いで行こうよ。ね?」

「……ま、いいが」

「あはっ、ひきがや照れてる」

「いいだろ。ほら、行くぞ」

「は~い」

 

 まるで中学生カップルのようなやり取りをしながら歩き出す二人。共に三十を超えてはいたが、どこかであの夢の延長のような気分になっていた。あの夢ではまだ成っていない関係。それを現実で少しでも実現するという、奇妙な構図。どこか照れくさい八幡と、どこか楽しそうな折本。それはかつて実際にあった過去の関係図に似ている。片思いをしていた八幡と、それに気付かずいた折本の。

 

(くそっ、もう三十五だぞ? 何でそれが中坊みたいな事で照れてるんだよ、おい)

(何だろな? 手を繋ぐのって初めてじゃないけど、こんなに嬉しくなるもんだっけ? ……思い返してみると、そんな頃もあった気がするけど、それって初めて付き合った頃だしなぁ)

 

 何とか平静を装おうとする八幡だが、その心音は早くなるばかり。折本は折本で、久しぶりとなる心の動きに疑問符を浮かべながら笑顔を零す。傍から見れば、中々珍しいカップルだろう。どう見てもいい大人の二人が、まるで付き合いたての学生のようなのだから。

 

 待ち合わせ場所から歩く事十数分、二人は二階建ての少し古びたアパートへと到着する。

 

「ここ?」

「ああ」

 

 意外だったのか、それとも予想していたのか、どちらにせよ少しだけ目を見開いて折本は八幡を見た。それに彼は素っ気なく返して歩みを再開する。一階部分の一番奥の部屋が彼の住まいだった。鍵を開け、ドアを引くとそこには黒い革靴が一足と安そうなサンダルが一足のみ置かれた玄関があり、そこを上がるとすぐ台所で、その奥に寝室という造りの部屋が広がっていた。

 

「……一人暮らししてるんだ。全部自分で?」

「当然だろ。さすがに三十過ぎても実家に置いてくれる程、ウチの親は寛大じゃない」

 

 その一言が折本の心へ突き刺さる。彼女も一人暮らしだが、未だに仕送りをもらっていたのだ。いくら水商売とはいえ、家賃などを全て払う事になれば一気に苦しくなる。化粧品など若さを保つあるいは老化を遅らせる物は、歳を重ねる程値段は上がり種類も増える一方。それらを考えると、とてもではないが自力で一人暮らしなど出来ないために。

 

「そう、だね。ふつーそうなんだよね。仕送りもらうのって、せめて二十前半までだろうし」

「……男は、だろうな。実際、妹は仕事をするようになっても実家住まいを許されてた。それどころか結婚しても同居してるぞ」

 

 折本の雰囲気が暗くなったのを察して、それとなくフォローを入れる八幡だったが、最後の一言が違う意味で彼女に刺さる。

 

「結婚、か……」

「あ、その……」

「ふふっ、なぁ~んてね。別にいいよ。ひきがやはそーゆーとこで彼女逃してきたんだろうし」

「ぐっ、否定出来ない……」

「その感じじゃ風俗だって行けなかったんでしょ?」

「ああ、そうだよ。だからこそ、あの時は心臓バクバクしてたんだ。本当に折本だったらどうしようってな」

 

 照れを飲み込んで放たれた一言は、折本の心を打った。最後の一言。それが意味する事に彼女は気付いたからだ。八幡は大金を払って尚、どこかで間違いであってくれと願っていたのだと。

 

「…………何で」

「ん?」

「何で、ひきがやはそこまでしてくれるの? あたし、ひきがやに酷い事しちゃったのに」

 

 その事が中学時代の告白にまつわるあれこれと察し、八幡は彼女に分かり易く呆れるように息を吐いた。

 

「俺は生憎と過去にこだわらん主義だ。過ぎた事は過ぎた事。それを今更どうこう言うつもりはない」

「でもっ!」

「いいんだよ。それに、あれは俺も悪い。お前に彼氏がいる事に気付かず、デートさえも誘えなかった癖に、いきなり告白だもんな。そりゃ断られるわ。だから、その件はこれで終わりにしてくれ。俺もあまり自分を責めたくないんでな」

「ぁ……」

 

 あっさりと告げられた言葉。その内容に折本は小さく声を漏らす。覚えがあったのだ。あの夢の中でもらったいくつものメール。その中の一つに、今と似たような物があった事を。

 ドキドキと胸が高鳴る。顔が熱を持ち始め、喉がカラカラに乾いてくるような感覚さえする。そんな中、折本は目の前の男性を見つめていた。あの夢の頃よりも歳を重ね、だけどその眼差しや在り様は変わっていない、友人止まりだったはずの存在を。

 

「さて、とりあえず何か飲むか? 麦茶にMAXコーヒー、それとティーパックだが紅茶もある」

「マックスコーヒー?」

「は? 折本、お前まさかMAXコーヒーを知らないとか言わないよな?」

「え? し、知らないけど……?」

 

 急に空気が変わった。そう折本が理解した瞬間だった。八幡が冷蔵庫から何かのペットボトルを取り出したのは。それこそ彼のソウルドリンクであるMAXコーヒーである。ただ、健康面と年齢もあってか昔程愛飲はしていないが。

 

「これは、千葉が生んだソウルドリンク、MAXコーヒーだ」

「……ああ、見た事はあるかも。ひきがや、これ好きなの?」

「ああ。好き過ぎて昔なんかこの会社に勤めようと思ったまである」

「あははっ、どんだけー」

「……懐かしいな、それ」

「だよね。あたしも今自分で言って懐かしっ! って思った」

 

 八幡の熱弁は折本の天然によってストップをかけられる形となり、幸か不幸か彼女は彼の溢れ出る千葉愛を知らずに終わる。ちなみに彼女は当然ながら麦茶を選択。紅茶も迷いはしたのだが、この熱い時期にホットは嫌だしアイスは薄くなるとの考えで却下したのだ。

 

 椅子が一人分しかないので、自然二人が話すのはベッドの上となった。それも八幡には妙な緊張を強いる事となる。あの高校時代でさえそんな事はついぞ訪れなかったのだ。それが、三十五にもなって、隣には風俗嬢をしているかつての同級生。まるでAVのようだと思いながら彼は手にしたMAXコーヒーを飲む。

 

「ね、ひきがや」

「……何だ?」

 

 チラチラと胸元を見ている事に気付かれたのだろうか。そう思って身構える彼に、折本はどこか嬉しそうに笑みを浮かべて顔を向けた。

 

「しよっか?」

 

 何を、とは彼も言わなかった。この状況下で、しかもさり気無く胸を強調するかのように折本は体勢を変えていたのだ。それが何を意味するか、さすがの彼でも理解していた。

 

「……あのな、この前も言ったが俺は」

「あれはお店だったから、でしょ? ここなら、あたしにとっての仕事じゃないから。ううん、あの時だって仕事でそういう事したいなんて思ってなかったし」

「折本……」

「あたしね、ひきがやがお店来た後の帰り道で思ったんだ。過去に戻れるならってやつさ、あたし、嘘吐いてた。ホントは、ホントはね、中学が一番戻りたかった。実はさ、それまで変わった夢見てて……」

 

 そこで語られる内容に八幡は目を見開いた。彼の予想していた事は半分正解だったのだ。折本は、あの夢を見ていた。ただ、彼と違ってそれに彼女は救いを求めていたのである。現実が苦しいから、夢の中ぐらい楽しくいたい。難しい事は考えず、笑っていたい。そんな想いが折本の中にはあった。

 だから、彼女は夢の中でも振舞い方が同じだった。大人でいたくなかったし、何よりも彼女は夢を夢だと自覚しないままだったのだ。ただ辛い現実を忘れていたい。今の状況こそが現実であって欲しい。そう、どこかで思っていたのである。

 

「……なら、どうして」

「ひきがやがね、あたしのした事で大変な目に遭った事覚えてる? それ、あたしも思い出しちゃったんだ。だから」

「あの頃に戻るとまた俺を困らせるから、もう楽しい夢を見る資格がない?」

「…………そう思った。でも、あの日ひきがやが、本物のひきがやが来てくれた。あたしを心配してあんな場所に、しかも少なくないお金を使ってまで。それで、気付いたんだ。ひきがやは、きっとあたしを嫌ったりしない。ちゃんと謝れば許してくれるし話も聞いてくれるって。あはは、変でしょ? 夢と現実がごっちゃになってるんだ、あたし」

 

 八幡の顔を見れず、俯いて自嘲気味に笑う折本だったが、不意にその手へ温かなものが触れる。それに彼女が顔を上げると、その右手に八幡の左手が乗っていた。

 

「実は、俺もお前に話しておきたい事がある。俺も、変な夢を、中学時代の夢を見てた。そこで俺は夢だと自覚してあの頃と違う生き方をしてたんだ」

「えっ……?」

 

 そこからは折本が驚く番だった。夢の中で接していたひきがやは今目の前にいる八幡だったと言われたためである。彼の話を聞いて折本は次第に笑顔へ変わっていく。それは、ある意味での両想いも同義だったのだ。少なくても、折本かおりにとっては。

 

「ふふっ、あははっ……」

「折本?」

「なぁんだ……あたし、悩む必要なかったんだ。てか、やっぱひきがやってスゴイね。全然気づかなかった」

「いや、そう言われると複雑なんだが……」

 

 暗に中学生としてもおかしくないぞと言われたようで、八幡は少しだけ表情を苦くする。それを見ても、もう折本は慌てなかった。増々笑みを深くして彼を見つめるのみだ。そんな彼女に八幡もやがて笑みを見せる。

 

「ひきがや、あたしね、色々汚れてるんだ」

「気にするな。そんな事言ったら俺だって腐ってる」

「……腐ってる?」

「ああ。その、目が特に」

「性格じゃなくて?」

「おい」

「じょーだんだって。ひきがやの性格、あたし好きだよ」

「……おう、サンキュ」

 

 見つめ合って話す二人。一度として逸らす事なく相手の顔を、目を、見つめ続ける。もう逸らしはしないと、そう相手へ伝えるかのように。会話は、そこで途切れ、室内に沈黙が訪れる。だが、それは気まずい沈黙ではない。

 そんな中、先に動いたのは折本だった。彼女は、そっと体を八幡の方へ寄せると目を閉じる。その意味する事に気付いて八幡は思わず息を呑むも、小さく深呼吸をして口を開いた。

 

「折本、お前の気持ちは分かった。だから、これだけは言わせてくれ」

「……何? もしかしてキスした事ないから不安とか言わないよね?」

「ああ。その、やっぱり貴女の事が好きです。俺と付き合ってください」

 

 目を閉じたままだった折本が、その瞬間目を見開いた。そこには、凛々しくも恥ずかしそうな顔をしている八幡がいた。そして同時に思い出される過ぎし日の記憶。あの時、少女は断った。理由は一つだけ。彼氏がいたから。なら、今の彼女に断る理由はない。

 

「……あたしで良ければ喜んで」

 

 涙を流しながら微笑むかおりはそれ以上の言葉を紡げなかった。二十年後の告白を成功させた彼氏に塞がれたからである。そのまま二人はキスをしながらベッドへと倒れ込んで、その後は思いの外早く男が冷静になってしまい、凹みかけたところを女が微笑ましく思いながら再チャレンジを求めた事だけを追記する。

 

 

 

「何かウケるね。夢でも現実でも付き合えるとかさ」

「……かもな」

 

 夕暮れの学校からの帰り道。同じベッドで眠った二人は、また同じ夢を見ている事に気付き、どうせ夢なのだからと付き合う事にした。周囲は驚きよりも納得する者ばかりであり、かおりに対して女子達はどこか呆れつつもそうなるよねと笑っていた。男子達は当然の如く八幡をひやかした。若干の妬みなども向けられたが、男らしい部分もあると知っているからかどこか可愛らしいものではあった。

 

「でも、どうしてわざわざクラスの奴らに宣言する必要があるんだよ?」

「だって、こうしておかないとひきがやにちょっかい出されるじゃん。知らなかったって言われたら面倒だし」

「……そうか」

「うん」

 

 繋ぐ手は指を絡めるもの。現実でもしているだろう行動だ。と、そこで何かに気付いたのか、かおりが足を止めた。

 

「どうした?」

「……ね、ひきがや。ひきがやの家って親の帰りが遅いんだよね?」

「あ、ああ。それが?」

「…………今のあたしならひきがやに初めてあげられるかなって」

 

 顔を真っ赤にしながら告げられた言葉は、八幡をも同じ状態へと変えた。その後、彼らは待ち合わせをして別れての行動を開始。八幡は小町へお願いし、しばらくの間外出してもらって待ち合わせ場所へ向かい、かおりは軽くシャワーだけ浴びて身だしなみを整えてコンビニへある物を買いに行く。

 

「お待たせ」

「いや、俺もついさっき来たとこだ」

「そっか。じゃ、案内お願い」

「ああ」

 

 手を繋いで、ふとそこで二人は同時に気付く。昼間と同じだと。あの時も八幡とかおりは手を繋いで彼の部屋まで向かった。まるでそれを夢で再現しているようで、彼らは笑った。

 

「ね、ひきがや」

「ん?」

「あたしの事、名前で呼んでよ」

「……その内な」

「えーっ? 今呼んでくれないの?」

「まだそこまでの余裕はないんだ」

「違う違う。ひきがやは最初は上手く出来ないけど、二回目からは上手く出来るんだって。だから必要なのは余裕じゃなくて経験」

「…………それはアレの事も言ってるのか?」

「あはっ、初めてなのに経験済みって笑えるね。ひきがやのテク、期待しちゃおうっと」

「言ってろ」

 

 片や憮然とした顔で歩く少年と、片や明るい笑顔のまま歩く少女。絡めた指から伝わる温もりを噛み締めながら二人は歩く。その心中は同じであると知らぬままに。

 

((この時間が、起きてもどうか続きますように……))

 

 

 

 シングルベッドで眠る一組の裸の男女。その手を強く絡め合ったまま、彼らは同時に目を覚ますと互いを見て笑みを浮かべる。

 

「……好きだぞ、かおり……」

「あたしも……大好きだよ……」

 

 初めて出会った頃から二十年、やっと彼らは大人としての第一歩を歩き出す……。




まず、ここまでお付き合い頂き本当に感謝しています。パパは新卒社会人でも描いた、あの青春を間違ったままで大人になった八幡作品でしたが、いかがだったでしょうか?
個人的に、八幡が大人になってしかも不幸に近いものはあまり見た事がないので不安もありましたが、それなりに受け入れてもらえてホッとしています。

今作は一旦ここで終わりますが、物語としてはまだ終わっていませんのでその内続きを書きたいと思っています。

……鬼門となりそうな高校生編まで書けたらいいな、と思いますので(汗

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