いきなりですが、更識簪に転生しました。 作:こよみ
簪……やっと?
――その人物は、世間から見れば一般的な家庭に生まれた。仲の良い両親と、姉と妹。彼女らに囲まれて、その人物もまた幸せであろうと。そう思われていた。少なくともその一家は世間から見れば幸せな一般家庭だっただろう。
(そう見えてもおかしくない。だけどそれは仮初めでしかない。まあそれを信じる人もいないんだけどね)
それを当の本人が鼻で笑う。もちろん彼女は幸せではなかった。幸せの定義は、その認識によってがらりと変わるものだ。故に世間と本人の認識に齟齬が生じていても何らおかしくないのだ。
その醜い感情を、彼女は内心で吐く。
(だからって何が不満なのかっていうのを責められても困るんだけど)
彼女は全くもって幸せを感じてはいなかった。常に誰かと比べられ、常に責任を押し付けられ、常に我慢することを強いられた。もちろん彼女は世界で一番不幸だったと嘯くつもりはない。だが、幸せだったかと問われると否と答えられる。
当然だ。彼女の心はすでに死んでいる。
(幸せだったなら、心は死んでなかっただろうね)
彼女は母に恋されていた。愛されてなどいなかった。ただ一方的に気遣われ、彼女自身の鈍感さも加わってそれは家族愛ではなくいわば『家族恋』と成り果てていたのである。彼女は愛されているなどとは思っていなかったのだ。
そんな彼女にとって、家族とは鎖だった。柵で、絶対に離れてはならない場所だったのだ。特に介護の必要な祖母が自宅に増えてからは、その思いは強くなる。
(そう、わたしがそこから離れれば一家心中が起きるって、本気で信じてた)
ここから離れれば、全てが崩壊する。その異様なまでの思い込みが、また彼女を追い込むのだ。そうやって追い詰められ、ある日彼女は全てを諦めて近所でも有名な自殺の名所へと向かった。全てを終わらせるために。
そこから見える美しい夕日を最後に目に焼き付けて。そうして彼女はその生を終えた。
皮肉なことに。彼女が死した後もその一家は心中などすることなく暮らしていた。彼女の努力も、存在も、死んだ心も。彼女が周囲の安寧のためにしていたことは、全くの無意味だったのだ。
ただその家族にとって幸いだったのは、彼女の死だった。それがもたらしたものは、皮肉なことに彼女が求めた安寧であったのだ。その家族が欲してやまなかった健全な環境は、彼女の死に伴う非日常によって打破された。
認知症の祖母はそのまま老人ホームに引き取られて二度と出てくることはなく。その介護から解放された母は自由を満喫し。その母の愚痴に付き合わされていた父も仕事に専念できるようになり、介護というこぶつき状態だった姉も無事結婚まで漕ぎ着けた。妹もそれを期に環境を変え、無事に夢を叶えた。
全て、彼女さえ死ねば叶うことだったのだ。それを彼女だけが知らなかった。
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「……ここは、風景としては日本よね? それにこの主観者は……簪じゃない」
(なら、これはまさかコアの記憶だとでもいうの?)
サラは冷静にそう分析した。簪のISへと電脳ダイブした一行は早々にはぐれ、強制的に映像を見せられているのだ。その中でも『歪んだ』記憶にサラは眉を寄せることしかできない。サラの常識に照らし合わせてもそれは『まとも』ではなかった。
誰かと比べられ、まともに名も呼ばれず、常に誰かの踏み台としてしか生きられないその少女の姿に違和感しか覚えないからだ。嫌なのであれば、何故抵抗しないのか。それだけが理解できない。
目の前の映像では、彼女は希望の大学を受験したいと告げるものの距離的な理由と金銭的な理由で突っぱねられていた。アルバイトをするから、と言っても、とりつく島もない。
(何でそこで言わないのよ……何で諦めるの。諦めるからそうなるのよ)
感情移入出来ないがゆえのサラのもどかしさも知らず、彼女は諦める。
『……仕方ないよね。どうやったって、家から出してくれる気なんてないんだもん』
その絶望にまみれた声は、サラにとっては滑稽にしか聞こえない。ベストを尽くさずして諦める彼女のことなど、サラは嫌いだった。そういう言葉はベストを尽くしてから言うものだ。少なくともサラにとっては。
だからこそ、そのバイアスがかかったまま次の映像を見ればこうなる。
「苛つくわ……そんな、自分ばっかり割りを食ってるみたいな言い方をして! 何にもしてないからそうなるんじゃないの!」
それは『自己犠牲』を諦めと共に呑み込んだ映像だ。それ以降は延々と同じ映像のループだった。それが彼女の日常であったことなどサラは知るよしもない。
ふとそのループが止まり、映像の中の女が振り返った。
『何もしなかったんじゃない。そんな権利なんて、どこにもなかったから』
サラの言葉に返答したのは、映像の中の女だった。死んだ目に、およそ日本人らしく黒髪でもない、茶髪の女だ。それを、サラは息を呑んで見つめる。まさか返答があるとは思わなかったからだ。
女は、それを自分に言い聞かせるように呟いた。
『ここにいるのはわたしじゃなくても良い。だけど、必ず誰かがいなくちゃいけない。なら、他に使い道のないわたしがここにいるしかないじゃない』
その言葉にサラは尚更苛立った。
「そんなの、死んだ目をして言うことじゃないわ。その腐った根性叩き直した方が良いんじゃないの?」
(そういうのは努力してから言うものよ!)
『……面白いこと言うね。馬鹿は死んでも治らないんだよ。それを、あんたは見てると思うけど』
その能面を、僅かに口角をあげることで変化させた女はそうのたまった。それでようやくサラにも理解できた。この映像は――
「……貴女が、簪なのね?」
『まあ、正確にはその中身というべきなんだけど、そうだね』
転生する前の簪。かつて
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主体性がない。積極的でもない。優柔不断だが、自身の譲れない一線を越えられそうになれば頑固に抵抗する。面倒見が良いように見えて、自身のためになるように無意識に仕向けている。そんな腐った女の物語だった。
それを見て、ランネは吐き気を催した。
「……何よこれ」
(気持ち悪い……っ)
代わりに言葉を吐くことでそれを抑え、強制的に見せられ続ける映像に抗おうとする。だが、抗えば抗うほどに囚われる感覚が強くなっていく。どうやら、この映像を大人しく見ていなければならないらしい。
ランネにとって、その映像を見るのは苦痛でしかなかった。
「何なのよ……何でそこで躊躇うのよ! どこまでお人好しなの!?」
その問いに答える声がある。
『お人好し? 違うよ。わたしは知ってたんだ。自分さえ我慢すれば全てがうまく行くんだとね』
その返答に、ランネは顔を歪ませた。そのあり方が自身の友人とそっくりで。それでもなお目の前の彼女の方が性根が腐り果てていることに、心のどこかで安堵していた。
だからこそ、無責任に言えるのだ。
「馬鹿じゃないの? それで自分が死んでもそんなこと言えるわけ?」
『それに耐えきれなくなったからわたしは死にに行ったんだよ。どうせその前から心は死んでたんだから、今更身体が死んだってどうだって良かったしね』
その言葉を、ランネは最初のみ込めなかった。
「……え? それって、どういう――っ、あ」
しかし問いを発する前に気付いた。その自虐的な表情が、自身の友人と同じだということに。全く同質ではないが、よく似たその表情にランネは簪を見たのだ。
(そんなわけないでしょ! こんな、こんな腐った女が簪なわけないじゃない!)
『ま、信じないならそれでも良いんじゃない?』
そうなげやりに言う彼女は確かにランネの知る簪で。だからこそ、ランネは彼女を腐っていると評したことを気まずく感じるのだ。
しかしもちろん彼女がそれを気にすることはないのだ。
『今確かなのは、わたしが起きる気はないってこと。いくらあなたたちがわたしに踏み込んでこようと、起きたって良いことなんか何にもないんだもん』
その腐りきった思考に、ランネは半眼になった。
「――は? ふざけるのも大概にしなさいよ」
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「知ってるよ、かんちゃんがそんな子だっていうのは。一番近くで見てきたもん」
(だけど、そのかんちゃんに私は助けられたんだよ)
本音はヒロノにそう告げた。腐りきった彼女の思考を知ってなお、言葉を叩きつけることに必要性を感じていた。言葉をぶつけ、勘違いしているだろう彼女を正さなければならないと思っていた。他ならぬ自分のことであるのに理解していないのだから。
だからこそ。
「だからそれが何なの? 起きたって良いことないからって、皆に心配かけて良いって訳じゃないんだよ?」
(起きてほしいよ、かんちゃんには……!)
その言葉は、確かにヒロノを揺らすのだ。それは起きる方向にではないが、確かにヒロノは揺らいだのである。それを本音は確かに見てとった。言葉は届くのだ。
(なら、何とかなる……何とかしてみせるから、待ってておじょーさま!)
本音の言葉に微かに苛立ちを滲ませ、ヒロノは返答する。
『別にわたしがどうしていようが気にしなきゃ良いだけじゃない。何でそこで心配なんかするの? わたしに心配されるだけの価値、ある?』
「あるよ。かんちゃんは確かに歪んでる。だけど、それが気にならないぐらい優しいんだよ」
(その自己犠牲的な優しさに助けられたから。だからそこから私はかんちゃんを助けるんだ。それが恩返しになると思うから!)
本音の言葉は、ヒロノを黙らせた。眉を寄せ、何かをこらえるような仕草をしている。それを本音は効果的な言葉をかけられたからだと判断した。それが吐き気をこらえている仕草だと、本音は気づかなかったのだ。
(大丈夫、このまま押しきってみせる……かんちゃんのためにも!)
「だから価値がないなんて――」
その、畳み掛けるような本音の言葉は。
『あるわけないよ』
その言葉に止められた。