つまりはチョロインだということだ。

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【悲報】彼女の催眠術が解けてくれない

 

 本題に入る前に、読者諸賢には僕の人となりを正しく理解していただきたい。古今東西でも稀に見る、僕という人間のどうしようもなさを知っておけば、これから話すことに余計な誤解を生まずに済むだろう。

 

 欠点をあますことなく羅列していけばキリが無いので、主要な部分をかい摘まみ説明することとする。

 まずは風貌についてであるが、イボガエルを想像していただきたい。田んぼのなかで泥を被って肥え太り、なんだか常に脂汗をかいていそうな、見るからに不快な奴だ。そこから両生類特有の愛らしさを省き、本来は股間に生えているべきだろうちぢれ毛を頭に乗せれば、すなわち僕になる。

 まあ、さすがに吹き出物は全身には無いし、エチケットとして清潔さを保っているが、おおよそ僕の顔はそんなところである。鼻の穴は大きく、唇がやたらに厚い。まだ僕が小学生だった頃、ネグレクトの末に若い男と夜逃げした母親からは「哀れなクリーチャー」なる渾名を拝領した始末だ。僕の純粋だった幼心は散々に傷付いた。未だにその古傷が疼くけれど、事実なので何とも言えない。

 身体は中肉中背と言えば聞こえは良いが、皮膚の下には脂肪ばかりがついており、実に情けない様相をしている。筋肉と呼べるものはとんと見当たらず、男らしい部分は脛に繁茂している剛毛くらいのものだ。腕力が無ければ足の速さも鈍く、運動は全くの苦手である。小中高と、僕にとって体育の授業は公開処刑そのものであった。

 ならば勉学が出来るのかと聞かれれば、そんなこともない。僕の矮小な脳みそは暗記にも計算にも不向きな作りをしている。いつも他人の視線や挙動に怯えて過ごしていたから、人の機微を読み取ることには長けていて国語の成績は良かった。自慢できるのはその一点のみだ。ある時、いつも通り悲惨な成績表を父に見せたところ「元気ならそれで良いんだよ」と言われ、それ以降の成績表の提出をやんわりと断られた。シングルファザーとして男手一つで僕を育ててくれた、そんな父に悲しい顔をさせてしまったことを辛く思ったものだ。

 性格はひたすらに臆病で、生来の卑屈さから人と面と向かって話すことが大の苦手である。担任の教師にも早々に匙を投げられた僕は必然のごとく虐められ、中学に上がってからは周囲から避けられるようになり、教室の片隅で埃を被り孤立していた。

 

 このように、人としておよそ誉めるべきところが無い存在が、僕という人間だ。それを十分に踏まえた上で、どうか話を聞いてもらえればと思う。

 

 

 

 

 ある日のお昼前、僕は公園のベンチに座っていた。

 週末なので様々な人が目の前を行き交うが、誰もが単にくつろいでいるだけの僕を見ては、あからさまに目を背けて足早に去っていく。幸せそうなカップルは馬糞が落ちているような不快感を顕にし、遠巻きに高校生くらいの女子たちが「まじウケる」とか言いながら僕の写メを撮っている。何だか後者は有名人になったような気にもなるが、実際はツイッターなどで馬鹿にされるだけに決まっている。

 小さな子供が僕のことをじっと見てきたので爽やかに笑って手を振ってみた。すると、その子の母親らしき人が「見ちゃいけません」と子供の手を引いて逃げるようにあっちへ行ってしまう。

 ただ座っているところすら見られちゃいけない状況とか、指名手配犯くらいのものなんじゃなかろうか。つまり僕は存在自体が法に抵触しているということだろう。放射性物質なのかな。

 

「と、し、君」

 

 何故この世に生を受けてしまったのか、少しばかり絶望していると、後ろから声がかかった。僕が振り向より早く視界を塞がれる。柔らかく優しい、女性の手のひらの感触。

 

「だーれだ」

 

 鈴のなるような澄んだ声で僕に囁く。ふわりと異性の良い香りが漂ってきて、僕の心臓は否応無く高鳴った。

 僕は己の中の劣情を必死に押さえ付けながら、極めて紳士的な落ち着いた口調で答えた。

 

「優子さん」

 

「はい正解。よくできました」

 

 パッと僕の顔から彼女の手が離れる。

 今度こそ後ろを向くと、美女が僕に笑いかけていた。目元は涼しげな切れ長で、鼻筋はすっきりと通っている。薄い桃色の唇が爽やかな微笑みを作っており、その笑顔には一片の嫌悪感もなく、純粋な愛情と信頼が見てとれる。服装はただのTシャツにジーンズと男寄りの格好をしているが、それは彼女の美貌をまるで損ねることはなく、むしろ健康さを加えていた。

 

「正解も何も、僕みたいな不細工にこんなことする人、優子さんしかいないよ」

 

 僕がそう言うと、優子さんは凛々しい眉を八の字に曲げて、僕の頬っぺたをふにふにとつねってきた。

 

「とし君はまたそんなこと言って。十分カッコいいんだから、謙遜も過ぎれば嫌味になるわよ」

 

 冗談にしたって質が悪い。僕とカッコいいという単語は対極に位置する。僕に対して容姿を誉めるのは、カラスを指して白いと言うことと同義である。

 しかしこの優子さんという女性は、本気で僕のことを二枚目だと思っているのだ。だから僕がいくら自分を不細工だと言っても呆れた顔をして否定してくる。あまりに的外れな誉め言葉をかけられると、人は恐怖に萎縮するものなんだな、と彼女と出会ってから身に染まされた。

 

「今日は約束通りお弁当作ってきたよ。ね、これを食べたらどこ行こっか。私の彼氏さん」

 

 優子さんは僕の隣に腰掛け、体をくっ付けて腕を絡ませてきた。彼女の華奢なくびれに手が当たり、とっさに引っ込める。いつまで経っても、こういったスキンシップには慣れない。

 ご覧の通りである。僭越ながら、僕と優子さんはお付き合いをさせていただいている。

 傍から見れば僕たちはどのように映るだろうか。きっと美女と野獣などと表現して余りある奇天列な光景のはずだ。援助交際か、それとも悪漢に弱味を握られている健気な女子か。いずれにせよろくなものではない。

 

 ただ、真実は、もっと残酷なものだ。

 僕にじゃれつきながら好意を隠すことなく表現してくれる優子さんに、僕は申し訳なく思った。罪悪感から胸の奥に痛みが走る。彼女は今、イボガエルの親類などではなく、爽やかなイケメンに抱きついているつもりなのだから。

 優子さんは僕を好いてくれている。しかしそれは幻だ。作り物の感情だ。もっと言うなら、彼女の恋心は僕に植え付けられた虚妄なのだ。

 つまり、優子さんは、催眠術にかかっているのだった。

 

 

 

 

 可憐な乙女に催眠術をかける。

 この一文にこめられた犯罪臭は凄まじい。シュールストレミングもかくやというほどの激臭である。そして、それを現実に行ったのが不細工の権化である僕なのだから、その悪辣さたるや史上類を見ないものとなっている。一発でレッドカード発行。逮捕から裁判を経て死刑宣告まで待ったなしだ。

 ただ一つ、言い訳をさせてもらえるなら、僕は何も優子さんを手込めにしようなどと考えていた訳ではない。本当に、悪意なんて欠片も無かった。僕の臆病さは魂の中核を担っているほどなので、女子をかどわかすなんて大悪事はとてもではないが出来やしない。男としては情けないことだが、それだけは確かであると胸を張れる。

 ならば、何故こんなことになったのか。

 

 全ての起点は一年ほど前まで遡る。

 僕と優子さんが出会ったのは高校三年生の頃であり、それまではクラスが一緒になったこともなく、互いに面識すら無かった。さらに、スクールカーストと呼ばれる階級社会の最底辺をナメクジの如く這いずり回っていた僕とは正反対で、優子さんは端麗な容姿と品行方正な態度によって優等生の立ち位置を手にしていた。月とスッポンとはまさしくこのことだ。いや、僕たちの縁の無さはそれ以上の開きがあったはずであった。

 高校三年生の夏、いかに学問が苦手と言っても受験を間近に控えて何もしないわけにはいかないので、僕は放課後になると学校の図書館で熱心に勉学に勤しんだ。無論、模擬試験での成績は奮わず、熱意は空回りし無駄な努力を積み重ねていたわけだが。

 

 そんなある日、僕に「何してるの」と声をかけてきた人がいた。その人こそが、優子さんだったわけだ。

 面識がないと上述したが、僕の方は彼女の噂程度は耳にしていた。あらゆる面で秀でいる人間が目立つのは当たり前のことだが、優子さんは引く手あまたの容姿にも関わらず誰とも付き合わない恋愛への潔癖さで有名だった。月に何人に告白されて振っただとか、他の女子にモテていた健康優良児の女癖の悪さを突いて撃沈させただとか、そんな噂ばかりだったから、彼女の影での評価は押して知るべしだろう。

 だからきっと、こうして僕なんかに話しかけてきたのは気晴らしだったのだ。上部の人付き合いや欺瞞だらけの惚れた腫れたに愛想を尽かせて、それらとは無関係な僕で一つ気を紛らそうとしたに違いない。

 

 しかし当時の僕に、それを意識するほどの冷静さは皆無であった。

 休憩がてら適当に図書館の本を読んでいた僕は女子から話しかけられたことが信じられず、返事も出来ずに口をパクパクさせていた。他人に急に話を振られるとよくこうなる。僕の稀少な友人曰く「窒息している深海魚」とのことだ。

 深海魚こと僕と、高嶺の花である優子さんは見つめ合った。

 暫くそうして、痺れを切らした優子さんが語気を強めてもう一度「だから、何してるのよ」と聞いてきた。

 

「べ、勉強してたんだよ」

 

 僕は傍らに置いてあった数学の参考書を立てて見せた。本当はもっとしどろもどろで異国語のようになっていたし、参考書は他の教科のものだったかもしれない。混乱していたので、その辺りの記憶は曖昧だ。

 

「でも今は本読んでるじゃない」

 

 優子さんは自然な様子で僕の正面の席に腰かけて頬杖をついた。彼女の柔らかそうな頬っぺたがふにゃりと持ち上がって、無駄にドキマギさせられたことはよく覚えている。

 その時の僕はサボってると勘違いされた気がしてすごく恥ずかしくなり「休憩中なんだよ」と一言絞り出すのにえらく苦労した。どうして優子さんみたいな綺麗な人が僕などに他愛もない話を降ってくるのか、到底理解できなかった。

 

「へえ、何の本なの」

 

 僕がさっきまで読んでいた本は、催眠術の本だった。正確には人の錯覚について述べてある物だったが、その時僕が開いていた項目はちょうど催眠術に関するところであったのだ。

 不審者の風貌を自覚している僕は冤罪を恐れてとっさに隠そうとしたが、それより早く優子さんに覗かれてしまった。

 

「ふーん。こういうのに興味あるんだ」

 

「ち、違うよ。変な意味とかじゃなくて」

 

 僕は必死に言い訳を探した。もしも脚色を入れて先生に告げ口でもされたら厄介なことになる。無実なのに疑いの目を向けられるほど堪えることはない。実際、可愛い女の子が表紙に書かれている小説を読んでいたところ、ロリコンの変質者がいると通報されたこともあった。

 しかし優子さんは気持ち悪がっている様子もなく、ただ面白がるように本を手にとってパラパラとめくった。

 

「ねえ、私に試してみない?」

 

 少しの沈黙の後、優子さんが突然そんなことを言った。本を僕の方に向けて、あるページを指差す。

 

「この五円玉のやつなら簡単に出来るでしょ。ちょっとやってみようよ」

 

 優子さんが言っているのは、五円玉の穴に糸を通して振り子を作る、一般に広く認知されている初歩の催眠術だった。こんなもので人が操れるなどと僕は欠片も信じていなかった。言い出しっぺの優子さんもそうだったろう。暇潰しで、僕をからかうついでにそんなことを言ったに違いない。

 財布を確認するとちょうど五円玉があったので、気弱な僕は断ることも出来ず、それを優子さんの目の前にぶら下げた。

 

「えっと、どんなことを言えばいいんだろう」

 

「何でも良いわよ。どうせ掛からないし」

 

「じ、じゃあ、僕のことがイケメンに見えるようになーる」

 

「あはは。なにそれ」

 

 センスが皆無である僕の渾身のギャグに、意外にも優子さんは笑ってくれた。その反応から察するに、催眠前は僕のことを正しく不細工だと認識できていたはすである。

 

「イケメンに見えてくーる。見えてくーる」

 

「ふふ、はいはい」

 

 僕は一定の間隔で振り子を揺らした。それ以外にどうやってコミュニケーションを取れば良いか分からなかったのだ。

 優子さんは最初、呆れたように苦笑していたが、やがて振り子を追っている目が眠たそうに細くなり始めた。こくりこくりと船をこぎ、終いにはなんとその場で突っ伏して、居眠りをしてしまったのだ。

 驚いた僕はまさかと思いつつ、優子さんの名前を呼んだ。しかし優子さんは静かに寝息を立てるだけで起きない。何度呼んでも目を覚まさないので段々と恐ろしくなり、肩を掴んで揺さぶってもみた。

 

「ん、んん。あれ……?」

 

 やがて、優子さんは瞼を擦りながら起きた。僕は安堵を覚えると同時に、これからどんな罵声や仕返しをされるのかと肝を冷やしていた。

 しかし僕を見た途端、優子さんの寝惚け眼はパッチり開いて、じいっと食い入るように此方を見つめてきた。まるで蛇に睨まれた蛙ような気分である。生きた心地がせず、気まずさに耐え切れなくなった僕が目を逸らそうとした時、ようやく優子さんはぽつりと呟いた。

 

「カッコいい…………」

 

 キラキラと潤んだ優子さんの瞳は、醜悪な僕の顔を映していた。しかし彼女は確かに僕を見て『カッコいい』と言った。天変地異が起ころうとあり得ないことだ。明日には空から槍や隕石でも降ってきて人類が滅亡するのだろうか。

 いや、一体誰が信じられるというのだ。初めて試みた催眠術が、見事に同級の異性に対して成功するなどと。

 

「どうして気付かなかったのかしら」

 

 優子さんの顔がゆっくりと近付いてくる。頬は赤く上気していて、やや乱れた息遣いがこの上なく艶やかだった。煩悩と劣情の渦に引き込まれそうになる。

 僕は上体を目一杯のけ反らせて、必死の抵抗をした。

 

「ま、待ってよ。なんかおかしいって」

 

 すると優子さんは目をぱちくりとさせ、大慌てで僕から離れた。あまりに勢いのある挙動に傷付きつつも、これで催眠が解けてくれたのだと安堵した。

 しかし、座り直した優子さんは、口元をさりげなく手で隠しながら恥じらうように目を逸らした。まるで初恋相手を前にして慌てている少女のような仕草だった。

 

「ごめんなさい。つい体が動いちゃって。め、迷惑だったよね」

 

 そう言いながら、上目遣いに僕を見る。媚び媚びである。野良猫から餌をたかられる以外でこれほど媚びられたことがあっただろうか。

 当初は催眠にかかったふりをしてからかわれているだけなのだろう、と希望的観測を持っていた。

 しかしこの態度が何日、何ヵ月と続けば、恋愛とは縁の無い僕でも分かる。

 優子さんは、完全に僕に惚れていた。

 

 

 

 

 僕はそれからというもの、優子さんの催眠術を解くことに専心した。あの時読んでいた本に載っていた方法ではてんで駄目だったし、公立の図書館で片っ端からそれらしいものを調べては試したが、それも無意味であった。むしろ図書館デートのようになり、その度に優子さんとの仲を深める悪循環に陥ってしまった。一月が経つ頃には押し切られる形で彼氏彼女の関係まで築いた有り様である。

 優子さんは自分が催眠術にかかっているとは思っていない。僕は何度となく説明したが、笑って受け流されただけだった。時には「私のことが嫌いなの」と目を潤ませてくるのでもう手に負えない。

 彼女と付き合えるのは身に余る光栄ではあるが、それを遥かに上回る罪の意識が心に覆い被さっている。麗しの乙女の青春を、それも花盛りである時期を催眠などでたぶらかし無為に費やさせているのだ。人でなしと呼んで余りある悪行である。僕ほどに業の深い人間はそうそういないだろう。

 

「とし君。お弁当おいしい?」

 

「あ、はい。とても美味しいです」

 

 卵焼きを食べた僕に、優子さんがニコニコと笑いながら聞いてくる。彼女が丹精込めて作ってきてくれた品だ。美味しくないはずがない。しかしそれよりも隣にいる優子さんや周りの視線に対して気が気でなく、卵の地味を味わうゆとりは無かった。道行く人が僕たちを二度見していく。しかしそれを気にしているのは僕ばかりで、優子さんはまるで意に介していない様子である。こうして一緒にいるだけで優子さんの社会的印象を悪くしているようで、心苦しい。

 本当に心臓に悪い。

 優子さんが早くこの幻覚から覚め、まともな男性とお付き合いをして幸せになってくれることを願ってはいるが、その一方で今となっては催眠が解けることが果てしなく恐ろしい。一年という期間は長すぎた。取り返しのつかない所まで来てしまったのだ。もしも今この場で優子さんが正気に戻ったなら、「私の一年間を返せ」と泣き叫ばれ、たちどころに警察を呼ばれるに違いない。こういった場合の法的措置はどのようになるのだろう。もちろん劣情にほだされて失敬を働いた試しは無く、常に紳士であるよう努めてはいるが、そんなことで情状酌量の余地が与えられるとは思えない。

 不吉な想像を膨らませて戦々恐々としていると、優子さんが心配そうな顔で僕の頬に手を添えてきた。

 

「大丈夫? 顔色が悪いけど、どこか痛い? それともお弁当の味が変になってたとか」

 

「ああ、いや、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから」

 

 こうやって優しくされることすら鋭い刺となって僕の心に突き刺さる。ひんやりとしている優子さんの手を離して、僕は愛想笑いを浮かべた。乾いた笑いになっている自覚はあるが、そもそも爽やかな笑みなど出来ない顔面なのでさして変わりはしないだろう。

 だがそれは、目の前の女性が許してくれない。優子さんは今度は力強く両手で僕の顔をむにっと押さえて「嘘つかないの」と諭すように叱ってきた。催眠術にかかっているとは言え、彼女の竹を割ったような性格は健在であった。

 

「そんな顔して何でもないっことは無いでしょう。ほら、言ってみなさい」

 

 真剣そのものの瞳を向けられ、居たたまれなくなる。優子さんはいつもこうだ。僕のことを本気で思いやってくれている。催眠術をかけた夏から冬にかけては付きっきりで勉強を教えてもらい、そのおかげで彼女と同じ大学に合格できたのだ。全く、頭が下がるばかりである。

 

 恋愛に潔癖な彼女の性質は裏を返せば一途と取れる。実に気立てが良く、大和撫子を思わせるしゃんとした立ち居振舞いは一緒にいて心地が良い。

 だからこそ、そんな素敵な女性である優子さんには、彼女に釣り合う異性と健全な恋愛をして欲しいのだが、現実とは上手くいかないものである。もはやこの際、僕は社会的に死んでもいいから彼女の幻惑を覚まさせてあげたい。

 一年の付き合いのなかで僕は心の底から彼女のことを好きになっていたのである。好きな人の幸せを願うのは当然のことだ。その幸せに僕が一切関与できず、むしろ忌み嫌われるだけだとしても、優子さんが真に幸福でいられるならそれが良い。

 つまりは、やはり、催眠を解く他にないのである。

 

「優子さん。真面目な話がある」

 

 僕は恥を圧し殺し、優子さんと面と向かい合った。そして、今まで数え切れないほど言ってきたことを、これ以上無い真剣さを込めて口にした。

 

「僕はね、不細工なんだ。それも凄い不細工なんだ。とても女性と、ましてや優子さんとお付き合いするなんて出来ないくらい、酷い不細工な男が、僕なんだよ」

 

 傍から聞いていれば十人中十人が「何を当たり前のことをぬかしてるんだ、この不細工は」と口を揃えることだろう。僕自身もそう思う。僕の見てくれが悪いことなど遠目からであっても一目瞭然である。

 しかし相手は優子さんだ。何故か五円玉の振り子ごときで強力すぎる催眠術にかかっている優子さん。会う度に説得を繰り返してきて、通算でその試行回数は優に百を越えるが、未だ成功したためしはない。僕が刑務所の中に行かず、彼女と付き合い続けていることが何よりもの証拠である。

 

「んんん」

 

 優子さんは眉間にシワを寄せて、僕の顔をじろじろと眺める。今回こそはいけるかと淡い期待が募る。

 だが、やがて顔を離した優子さんは可笑しそうにクスクスと笑った。

 

「馬鹿ねえ。また催眠術がどうのって話でしょ。そんなことあるわけ無いって何度も言ってるじゃない」

 

「ああ……そうですか」

 

 やはり駄目だったか、と僕はがっくり肩を落とした。

 

「本当に自信がないんだから。もうちょっと胸を張って生きた方がいいわよ」

 

「いや、でも、やっぱり僕じゃ優子さんには釣り合わないんだよ」

 

「そんなことないわ」

 

「周りを見てごらんよ。皆が僕たちのことをじろじろ見てるだろ」

 

「お似合いのカップルだと思われてるんでしょ」

 

「だから、僕は優子さんに幸せになって欲しくて」

 

「あーもう。しつこい」

 

 優子さんはうんざりした様子で僕の口にタコさんウインナーを突っ込んできた。否応なく説得を中断させられる。

 

「言い訳無用。同じよ、私も。私だってとし君が幸せだったらいいなって思うわ。釣り合いがどうとか言うけど、一番大切なのはそこなんじゃないの」

 

 僕はぐうの音も出ず、俯いてウインナーを噛み締めた。堪えないと泣き出してしまいそうである。優子さんの気持ちはとても嬉しいが、催眠のせいで言っているだけなのだと思うと切なくなる。本来であれば彼女の凛々しい純心は、僕よりずっと上等な男性に向けられるはずのものなのだ。

 

「私は、そのね、愛してるわよ。とし君は違う?」

 

 さっきまでの強気な態度を一転させ、優子さんは赤面して恥じらいながら聞いてきた。

 辛い。辛すぎる。幸福と罪悪感に板挟みにされて、潰れてしまいそうである。

 もしも僕に根性があったならば、優子さんを冷たく突き放して失恋と共に新しい恋に向かわせることも出来るのだろう。

 しかし悲しいかな、現実には、そんな芯の強さなど一切持ち合わせてはいないのであった。

 

「僕、は…………はい。愛して、ます」

 

 しどろもどろで、蚊の鳴くような小さな呟きが漏れた。自分でも聞きにくいほどのか細い声だったが、優子さんは満足そうに満面の笑みを浮かべた。

 愛しているというのは、本心である。決して優子さんを喜ばせるための、口先だけの出任せではない。

 

「とし君。こっち向いて」

 

 言われるまま顔を上げると、目と鼻の先に優子さんの美貌があった。熱っぽい瞳でボクを見つめ、だんたんと薄いクリームが塗られた唇が近付いてくる。

 これは、不味い。とても良い雰囲気だ。いつの間にか完全にキスをする流れになっている。

 このままでは、今までなけなしの克己心によって守ってきた優子さんの貞操が儚くも散ることになる。催眠が解けたとき、僕なんかとファーストキスをしてしまった記憶があれば自殺ものである。少なくとも、彼女にとって一生涯消えない汚点となることは想像に難くない。

 僕は「南無南無」と心のなかでお経を唱えながら自己を律し、優子さんの肩を掴んで押し戻した。

 

「だ、駄目だよ」

 

「あら、どうして。さっきの言葉は嘘?」

 

「嘘じゃないけど、でもここは外だし、人の目もあるし」

 

「恋人なんだから公園でキスするくらい普通でしょ。それに、そんなこと言って、とし君は家でもさせてくれないじゃない」

 

「だから、君は催眠にかかっているから、僕が不細工だって気付いたときにトラウマになっちゃうからあ」

 

「またその設定。いい加減聞き飽きたわ」

 

 ぐぐぐっ、と優子さんは尚も迫る。今日の押しは一段と強い。男なのに力負けしてしまいそうだ。か弱い僕の腕がぷるぷると震える。こんなことなら運動嫌いを我慢してもっと鍛練を積んでおくんだった。

 しかし今さら悔いても遅い。優子さんと僕の唇の距離はすでに小指一つ分ほどとなっている。数人の観衆がざわめく。見てないで助けて欲しい。主に優子さんを。

 さらに近付く唇の艶かしさ。南無三、と僕は目を瞑った。

 

「おいおい、何やってんの?」

 

 まさに絶体絶命となった瞬間、横から声をかけられた。優子さんが反射的に僕から離れて、二人して振り向く。

 そこには二人の若い男が立っていた。僕らと同じくらいの年頃か。一人は髪を明るい茶色に染めていて、よれた革ズボンを履いている。もう一人は耳にいくつもピアスを付けており、少し後ろの方でニヤニヤと笑っている。

 いかにもな不良である。どちらの視線も優子さんの方を向いていて、その目が肉欲に光っているのが見て取れた。

 

「なあお前さ、女の子襲って恥ずかしくないわけ?」

 

 茶髪の不良が僕に言った。どうやら僕が優子さんに無理矢理キスを迫っているように見えたらしい。或いはそれは建前で、僕を暴漢に仕立て上げて優子さんをかっ拐うのが目的なのかもしれないが。

 困ったことになった。キスを回避できたのは良いが、この状況をどう切り抜けるべきだろう。

 

「あの、ええっと、そのですねえ」

 

「そんな気色悪い面で外出て恥ずかしくねえの」

 

「いやあ。あはは…………」

 

 不良とまともに目を合わせられず、視線をさ迷わせる。ここで普通なら言い訳の一つでも出そうなものだけど、そんな度胸があるなら僕は僕をやっていない。人に少しでも強く出られると、恐怖と焦燥感でいっぱいになり萎縮してしまう。

 宙を漂っていた僕の視線は無意識に優子さんの方を見た。それと共に胸に湧いた期待を自覚して、僕は殊更自分が情けなくなった。こんな状況で、女子に何とかしてもらうことを考えたのだ。藁にすがるより浅ましい愚考である。

 

「何ですか。あなたたちには関係ないでしょう」

 

 そんな僕とは対照的に、優子さんはどこまでも毅然としていた。背筋をしゃんと伸ばして、下卑た笑いを浮かべる不良を真っ向から見据えている。

 

「いやいや、俺たち君のためを思って声かけたんだぜ。このゴミ不細工にセクハラされてたろ、なあ」

 

 男二人は怯まず、かえって優子さんの強気を面白がっているようである。僕の方には罵倒と一緒にさりげなく脛に蹴りをくれた。とても痛いが抵抗はできない。

 優子さんは瞳に怒りを滾らせ、キッと茶髪を睨み付けた。

 

「ふざけないで下さい。それと何ですかセクハラって。誤解です。私たちは付き合っているんです」

 

 ああ、言ってしまわれた。事も無げにカップル宣言をされてしまった。不良も、周囲を取り巻く野次馬も凍り付く。「まさか」とか「嘘だろ」といった呟きが漏れ聞こえる。僕も全く同感ではあるが傷付くので声に出すのは控えて欲しい。

 

「本当です。何なんですか、さっきから。人の彼氏をつかまえて侮辱したり暴力を振るったり。これ以上しつこいと警察を呼びますよ」

 

 吐き捨てるように言って、優子さんは僕の手を取って「行きましょう」と立ち上がった。彼女の惚れ惚れするほどの男らしさに面食らいつつ、僕もつられて歩き出す。

 

「いや、いやいや。ちょ、待てって」

 

 しかし硬直から解けた不良たちが前に立ち塞がった。ニタニタとした厭らしい笑いも復活している。

 

「何、そいつに何か弱味でも握られてんの? だったら俺たちがボコしてやるよ」

 

 僕はギクリとした。不良のくせに良い線を突いてくる。

 

「違います。もう放っておいて下さい」

 

 優子さんが声を荒げる。僕と繋いでいる手に力が籠っている。見ると、彼女の足が僅かに震えていた。落ち着いているように見えるが、彼女もひどく緊張しているのだ。

 

「いいからさ。来いって。そんなのと居たって何もいいことないっしょ。俺たちと遊んだ方が絶対楽しいからさ」

 

 頑なな優子さんの態度に痺れを切らせたのか、彼らも強引さを見せ始めた。

 耳ピアスの方が僕の肩を押してきて、僕は成すすべなくよろめく。その隙に、茶髪が優子さんの腕を掴んで引っ張った。

 

「嫌、やめてっ」

 

 優子さんが悲鳴を上げる。初めて見た、彼女が余裕を失った姿。咄嗟にこちらを振り向いた優子さんの瞳は怯えの光に揺れている。

 それが僕を突き動かした。

 激情が胸の内から競り上がり、恐怖に凍り付いていた足を氷解させた。自分でもよく分からぬ叫び声を上げて目の前にいた耳ピアスの不良を全身で突き飛ばした。

 僕の行動が予想外だったのか、不良は「うえっ」とよろめき、後ろにいた仲間の茶髪に倒れかかった。優子さんが巻き込まれなかったのは運が良かったとしか言えない。

 

「に、逃げよう!」

 

 驚いたように唖然としている優子さんの手を、今度は僕が握る。そして尻餅を着いている不良の罵声を浴びながら、僕は優子さんを連れて駆け出した。人生でこんなに一生懸命走ったのは初めてかもしれない。

 途中、公園に食べかけの弁当を忘れてきたことを思い出し、たいへん後悔した。

 

 

 

 

 不良たちから逃げたあともデートは続行して、日が沈み始めたあたりで僕たちは帰路に着いた。

 優子さんは「今日は泊まりたい気分」とか言って僕の下宿先である六畳間に上がり込んできた。彼女がこうして気紛れに我が家を訪ねることは頻繁にある。その度に掃除をしてくれたり料理を作ってくれたりと半ば通い妻状態だ。冷蔵庫なとはもはや優子さんに占拠されていて、家主の僕よりも彼女の方がここの食料事情に詳しいだろう。胃袋を掴まれ、尻に敷かれているのが僕の現状である。

 例によって優子さんの手製の夕食ですっかり満腹になり、それからは帰る途中で買っておいた酒を二人して飲んだ。

 優子さんは酒が好きだがめっぽう弱く、すぐに赤ら顔になる。今もビール缶を片手に何が可笑しいのかニコニコと楽しそうにしている。

 

「めろん!」

 

 優子さんが叫んだ。僕は一瞬ビックリした後に恨めしさを込めて彼女を見る。しかし僕のささやかな抵抗も虚しく、優子さんは笑いながら「めろん」と言う。

 今日の昼、不良に絡まれたときに僕が上げた叫び声が『めろん』だったらしい。「止めろ」と言ったつもりであったが動転して舌を噛み、そのように珍妙な掛け声となっていたようだ。そりゃあ、いきなりメロンなどと叫ばれては不良もビックリするだろう。

 それが優子さんの笑いのツボに入ったらしく、本日の午後は「めろん」でからかわれ続けていた。誠に遺憾である。

 

「あー、面白いわあ」

 

 優子さんが笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭う。

 

「僕は面白くない」

 

「ごめんごめん」

 

 謝ってはいても悪びれている様子は一切ない。ひたすら愉快そうに、優子さんは麦酒を飲んでいる。

 いつもより飲むペースが早い。かなり酔いが回ったようで、はしゃいでいたのが途端に大人しくなって、眠たそうに目をとろんとさせ始めた。

 

「嬉しかったなあ」

 

 自分の腕を枕にして机に上体を預けながら、優子さんは呟いた。

 

「とし君が勇気を出して、私を助けてくれたんだよ。これって凄いことだよ」

 

 目の前の僕、というよりは自分自身に向けて言う。その呟きには幸せを噛み締めるような甘い響きがあった。

 酔いどれの無防備な優子さんは、昼間にキスを迫ってきた時とはまた違った色気がある。部屋に二人きりという状況も手伝って、僕の汚い劣情をむらむらと刺激する。

 

「とし君にだったら私、何されてもいいわ」

 

 僕の気を知ってか知らずか、うっとりと、優子さんは言った。

 言葉が詰まる。一年も付き合ってきたが、未だにこういう時にどう返すべきかは分からない。

 僕が返事を迷っている間に、優子さんの瞼はうつらうつらと落ちていき、やがて目を閉じて健やかな寝息を立て始めた。

 

「優子さん、寝ちゃった?」

 

 小声で聞いてみるが返事はない。ただの酔っ払いのようだ。完全に酔い潰れて眠ってしまったらしい。薄手のシャツ一枚に通した肩が呼吸に合わせてゆったりと上下している。

 ホッと安堵すれども、僕のなかにある情欲は消えてくれない。僕は手を出したい本能を疎ましく思いながら、来客用の布団を出して優子さんを寝かせた。来客用とは言っても、実質優子さん以外に泊まりに来る人などいないが。

 晩酌の後片付けをして、僕も自分の布団を引っ張って寝そべる。もちろん、優子さんがいる場所から極力離れた所で。

 

「うぅん…………とし君」

 

 電気を消そうとした時、優子さんの声がした。びくりとして彼女の方を見るが、依然としてよく寝ている。寝言だったらしい。

 妙に艶があったその寝言に誘われるように、僕は優子さんの側に寄った。半ば無意識の行動であった。僕も大概酔っているらしい。押さえ込んだはずの劣情がまた大挙して復活し、僕の鼓動を早めてくる。

 被さるようにして優子さんの寝顔を覗き込む。改めてよく見ると、綺麗な人だと思う。長いまつ毛も、肩にかかるくらいの黒髪も、薄い唇も、ほのかに日焼けした滑らかな肌も、すっきりと細い顎の線も。そして外見に勝るとも劣らない、素敵な心を持っている。

 そんな彼女が言ったのだ。僕になら何をされても構わないと。

 やけに自分の心臓の音が大きく聞こえる。優子さんの美貌に、好意に、引き込まれるようにして顔を近付ける。昼には避けた行為を、今は僕の方からしようとしている。

 

「…………いや、駄目だろ」

 

 あと少しのところで、僕は顔を上げた。

 自ら定めた不可侵領域を踏み越えようとしたが、あと一歩というところでぐっと堪えられた。走ってもいないのに呼吸が乱れている。

 やっぱりそうだ。僕なんかが、手を出して良いはずがない。

 優子さんは別に僕が好きではないのだ。催眠術でそう思い込まされているだけなのだから。理性が緩むと、ついそのことを忘れてしまいそうになる。

 

 乾いた喉に水を流してから、再び自分の布団のなかに潜る。

 隣で眠る優子さんを見つつ、思いを巡らせる。どうやったらこの夢は覚めるのだろうか。何をすれば優子さんの催眠術は解けるのか。その答えはまだ見つかっていない。

 しかし、だからこそ、不誠実なことは出来ない。優子さんの幸せを何よりも願うなら、やはり朴訥に努め、一刻も早く彼女が正気を取り戻す手立てを知るべきなのだ。正気に戻ったとき、僕が優子さんの幸福の邪魔になることなんて分かりきっているのだから。

 好きな人と一緒にいられないのは寂しい。催眠術が解けて嫌われることを思うとすごく辛い気持ちになる。我が儘をいうなら、このまま催眠が解けなければ良いのにとすら思う。

 それでも、それでも僕は、優子さんには幸せになって欲しいのだ。こればっかりはもう、心の底から好いてしまっているから仕方がない。

 

「優子さん」

 

 眠る彼女に、僕は囁いた。

 

「次に起きたら、君の催眠術は解けている。そして本当に好きな人と一緒になるんだ。僕のことは綺麗さっぱり忘れてね」

 

 優子さんは起きない。ただ気持ち良さそうに寝ている。その様子が堪らなく愛しくて、同時に目の毒でもあった。

 そうしている内に酒の酩酊が眠気に変わってきて、僕の意識は深く落ちていったのだった。

 

 

▼△▼

 

 

 横の彼が寝静まったのを見計らって、私はこっそりと起き出した。部屋のなかは暗いが、外にある街灯の光が窓から差し込んでいるので、彼の寝顔はうっすらと見ることができる。

 

「とし君。起きてないよね」

 

 一応確認を取ってみるけど、呼吸は規則正しく、さっきまでの私のように狸寝入りをしている様子もない。

 衣擦れの音に注意しながら傍らに寄り、こちらに背を向けている彼を覗き込む。どう贔屓目に見ても、カッコいいとは言えない顔がそこにはあった。

 

「ふふ、不細工な寝顔」

 

 私はそう言いながらも、愛情が込み上げてくる胸を押さえて、彼の頬をつんつんと触ってみる。

 私の意識はハッキリしている。彼が世間一般の評価で冴えない部類に入る人間だということは知っているし、私の目にもそう見えている。

 ただし、彼を好きだという気持ちに間違いはない。決して催眠術なんかじゃなく、私は私の意思で、彼のことを大切に思っているのだ。

 

 始まりは、確かに催眠術だった。

 中学から高校生までの頃、私は人付き合いに完全に冷めていた。上辺だけ取り繕って、陰では人の悪口ばかり言う同級生。可愛いからとかいう理由で安易に交際を申し込んでくる隣のクラスの男子。担任の中年教師の舐めるような視線を授業の度に感じていたし、家に帰れば親が喧嘩ばかりしていて、一人でご飯を作り勝手に食べる生活習慣が出来ていた。

 そんな毎日にうんざりしていた時、いつも図書館にいる一人ぼっちの彼を見つけて、何となく声をかけてみたのだ。何だかヤケクソな気分で「私に催眠術をかけてみて」と言ったのを覚えている。

 しかし本当にかかるとは思っていなかった。多分心に隙があったのだろう。五円玉の振り子運動で、私は彼のことを世界で一番カッコいいと思うようになった。けど一年も続くような催眠術があるはずもなく、一晩経てばそれは呆気なく解けた。

 

 それでも、彼の人となりを知ることはできた。

 カッコ悪くて、頭はあまり良くなくて、運動もできなくて、交遊関係も狭い。

 けれど優しくて、紳士的で、思いやりに溢れていて、私の一方的な愚痴を全部真面目に聞いてくれた。緊張していたのか喋りは遅かったけど、言葉を慎重に選んでいるのが伝わって、そのことが凄く嬉しく感じた。

 催眠が解けた頃、私は催眠術に関係なく、彼のことを好きになっていた。

 

 彼はひどく臆病だ。とりわけ自信がない。きっとそれは容姿だけでなく、彼の今までの経験が反映されているのだと思う。私よりもずっと、嫌なことがあったはずだから。今日だって据え膳を出したけど、彼は寸でのところで止めてしまった。きっと私のためを思って。

 自信が無くて、しかしどこまでも優しい。

 そんな彼と一緒にいるために、私は一芝居打つことにした。卑怯だとは思うし後ろめたさもあるけど、催眠術にかかっていることにすれば、責任感の強い彼は私から離れることはないだろうと考えた次第だ。

 それは当たっていて、これまではどうにか付き合ってもらえた。問題はこれから先をどうするかである。

 

「ねえ、知ってる? 私は貴方のことが好きなのよ」

 

 どうせ催眠術で作られた幻の感情だとでも思っているんでしょうけど。

 少しやるせなさを感じながら、私は彼のそんな部分も愛しく思っている己を自覚する。

 

 そろそろ付き合い始めて一年が経つ。初めての交際記念日に、本当はずっと私が催眠術にかかっていないことをバラしたら、彼はどんな反応をするだろうか。怒りはしないだろうけど、きっと逃げようとするはずだ。

 でも私には一年間付き合ったという実績がある。一年という時間と、そのなかで築いた思い出が嘘でないとしっかり説明すれば、彼も少しは自信を持ってくれるのではないか。というのが私の考えである。例え簡単には信じてもらえなくても時間と愛情をかけて信じ込ませていけばいいのだ。根気がいるのは目に見えているが、彼の幸せを願うなら、やってやれぬことではない。

 間近に迫っている一世一代のサプライズを思いながら、私はにやけた。不安と期待が膨れ上がって今にも弾けてしまいそう。こんな余裕のない姿、あまり彼には見せられないな。

 

「その時までは、お預けね。貴方には酷だと思うけど、私も我慢するから」

 

 横になっている彼の柔な肩に、軽く触れる。不良から私を守ってくれた彼はとてもカッコ良かった。「めろん」の掛け声には笑ってしまったけど、今でも助けられた喜びが湧いてくる。

 ただ、その前にキスを迫ったのは不味かったな、と思う。ついつい抑制が効かず、とし君の慌てる姿が可愛かったのもあって、あと少しで彼のこれまでの努力を私の方から台無しにしてしまうところだった。それは流石に不誠実であったと反省している。

 とにかく我慢だ。彼が自信を持てるまでの我慢。そうすればきっと、今よりも幸せになれるはずだから。彼に幸せを感じてもらえるはずだから。

 

「とし君。愛してるよ」

 

 お休みなさい。これからはどうか良い夢を。

 私はそう願って、彼の頬に、そっと口付けをしたのだった。

 

 

 

 

おしまい



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