どんよりとした雲に空が覆われて、月も星の明かりもないその夜は数メートル先も見えない暗闇となっている。
夕方になってすぐに暗くなり始めたところで79式はそれ以上進むのを止めて野宿を決めた……冬を迎えたボスニアは夜になれば氷点下を下回り、暖を取る手段の無い79式は穴倉の中で身を丸めて眠りについていた。
唯一もっている毛布はそばの赤ん坊を包むのに使っており、焚火をするのも自分たちが発見されるのを恐れて火をつけなかった。
夜中、赤ん坊の泣き声に目を覚ました79式は小さなため息をこぼしむくりと起き上がる。
凍てつく寒さに身を震わせながら赤ん坊をそっと抱き寄せる79式は、疲れ切った表情で目も虚ろであった……抱き寄せた赤ん坊をあやそうとするが赤ん坊は大きな声で泣きわめくばかりで、一向に泣き止んではくれない。
赤ん坊をあやす79式の声も活力はない…。
きっとお腹が空いているのだろうと考えた彼女は服の中にいれて温めていた哺乳瓶にミルクを溶かし、赤ん坊の口へと近付ける。
赤ん坊はやはりお腹が空いていたのか哺乳瓶をくわえた途端に泣き止んだ。
こうした夜泣きと、独りで森に潜伏しているストレスから79式の精神はほとんど限界に来ていた。
人形である彼女は基本的に主人となる人間と一緒に行動することとしているため、独りでいるこの状況が精神状態の悪化に拍車をかけていた。
まともに眠れない日々が続き、冬が来たことでまともに口に出来る食事もなく、79式自身も常に空腹感にさいなまれ続けていた。
虫や、よく分からない植物、木の皮まで口にした……自分が生きるためではない、この赤ん坊を死なせないためにだ。
「また…ミルクをとってこなきゃ…」
持っていたミルクももう無くなってしまった……時間稼ぎのためにミルクを薄めて作っていたが、それでは満足な栄養を赤ん坊にあげることは出来ない。
何度か町に忍び込んで粉ミルクを手に入れていたが、79式自身の体力の低下によってすばやく動けなくなってきたためそれすらも最近は難しい。
朦朧とした意識の中で、79式は哺乳瓶だけは手放さないように念じつつ……重いまぶたを閉じて眠りにつくのであった。
翌日、79式は赤ん坊を背負いながら森を降りていた。
手頃な木の枝を杖がわりに傾斜面をゆっくりと降り、時折しゃがみ込んでは周囲に人の気配がないことを確認し再び歩きだす……疲労と空腹により体力が衰え、戦術人形としての力を十分に発揮できない、人間の大人一人に組み伏せられてしまうほど今の79式は弱り切っていた。
次の日も、またその次の日も79式はボスニアの森を歩き続ける。
町か村を探そうとひたすら歩くが頼れる人の集落は見つからず、ようやく見つけたと思った村も攻撃を受けて住民が去った廃村であった。
もう何日もミルクを飲めないでいる赤ん坊も限界が近い。
人形の79式よりもずっと早く弱っていく赤ん坊に79式は焦りを感じていたが、どうすることもできないのだ。
日に日に弱っていく赤ん坊をなんとか助けようと、79式はそれまで避けていた舗装路を歩いて町を目指すようにした。
道路の標識に従って眠ることなく歩き続け、79式はようやくとある小さな町にたどり着くことが出来た。
町にはどこの旗も掲げられてはいなかったが、町の看板に書かれた文字はラテン文字…つまりそこはクロアチア人の街なのだろうと判断した79式は、おぼつかない足取りで町へと歩く。
「君、大丈夫か!?」
そんな時、町の住人らしき男性が79式の事を見つけ、酷い状態の彼女に急いで駆け寄るとふらつく身体を支える。
男性はやつれた79式を見るや町の住人たちに呼びかけると、赤ん坊を引き取り急いで79式を担いで近くの民家へと運び入れる…ベッドの上に寝かされた79式はおぼろげな意識の中で、男性からの質問に小声で返答をするが、やがてまどろみの中にその意識は沈んでいった…。
次に目を覚ました時、79式は自分の身体が少し軽くなっているのをすぐに感じる。
左腕を見て見ると、点滴のための管が取り付けられていた。
彼女が目を覚ましたのに気付いたのか、すぐそばのテーブルで書き物をしていた初老の男性がにこやかに微笑みかけ、79式の髪を優しく撫でた。
「やっと目覚めたね、もう3日も君は眠りっぱなしだったんだよ」
「………」
「言葉を話せるかね? 君はその…自律人形なんだね? 正しい処方かは分からなかったが、点滴が効いてくれたようだ」
「ありがとう、ございます…あの、赤ちゃんは…?」
意識が覚醒しまず最初に頭に浮かんだ疑問を、79式は投げかける。
赤ん坊の安否を問われた初老の男性は先ほどまで浮かべていた穏やかな表情をひそめると、少しの間躊躇うそぶりを見せてから言った。
「やれることは尽くしたはずだよ」
「それって…まさか…」
「いいや、まだ生きているよ……だがあの赤ん坊はここに来たとき栄養失調と病気にかかっていたんだ」
生きていることに安堵しかけたが、男性が口にした赤ん坊の病名が79式の希望を打ち砕く。
あの赤ん坊は、癌におかされているのだという。
人形である79式にも、その病がいかに深刻なものであるかは容易に理解できた……自分の中でなんとか保っていたものが音を立てて崩れようとしているのを、79式は感じていた。
「珍しく無いことだよ、君のせいではない。大戦でこの地球が放射能で汚染されてから、癌に犯される患者は増えている。私は、幼い子どもが癌で亡くなるのを何度も見てきたんだ…」
「そんな……どうにか、どうにか出来ないんですか?」
「ここに癌を治療できる設備はない、たとえあったとしても…あの小さな身体では…」
「そんな…そんな……」
癌に犯されてしまった赤ん坊を救うことは出来ない……それまでこらえていた感情が一気に押し寄せ、涙となって流れ出る。
両手で顔を覆い隠してすすり泣く79式を、彼は慰めるように肩をさする。
「お願いがあります…」
「なんだね?」
「あの子はずっと、お腹を空かせてたんです……だから、最期の時まで…お腹いっぱいミルクを飲ませてあげられないでしょうか…?」
「勿論だとも、たとえなくなってしまう命だとしても最後まで面倒を見るつもりだよ」
「ありがとうございます…ありがとうございます…!」
人の優しさに久しぶりに触れた79式はそれからもずっと、溢れる感情を止めることなく泣き続けた…。
ひとしきり泣いた79式に、温かい食事を出すと…少しの間遠慮していた79式もやがて口をつけ始める、よほどお腹が空いていたのかあっという間に出された料理を平らげる。
しかし赤ん坊の事が気になるのか、浮かない表情だ。
「赤子のことなら安心しなさい…ところで君は、これからどうするんだい…?」
「私は……ここを出ていきます」
「どうしてだね、ここにいればいいじゃないか」
「出来ません」
「理由を聞いてもいいかい?」
「私の存在は…みんなを不幸にさせてしまいます、私がここにいれば皆さんを危険な目に合わせてしまうはずです」
頑なに助けを拒む79式を見て男性は何かを思ったのだろう…引き出しから一冊の本をとりだして手元に置いた。
見覚えのある聖書を見た79式は、宗教に対しあまり良いイメージを持っていなかったためそっと目を伏せた。
「私は町の医者を務めているが、教会の牧師でもあるんだ。どうだろうか、もし君が良ければだが…話を聞こう」
彼は穏やかな表情で、まっすぐに79式を見つめる。
神の前で自分が犯した罪を告白し懺悔する……そこに一体なんの意味があるのかその時79式は理解することは出来なかったが、彼の言葉に促されるまま、79式は自分の罪を告白するのであった。
「私は…人を殺しました。他の誰かに命令された以外にも、自分から人を殺しました。老人から子どもまで殺しました……命乞いをする子どもを痛めつけ、尊厳を踏みにじって殺しました。彼らの故郷を焼き、彼らの故郷を奪いました…民族浄化の下に、私は彼らを追放し信仰心を穢しました……」
男性は静かに、79式の罪の告白を聞いていた。
彼がクロアチア人なのかセルビア人なのか、もう79式には考える余裕すらなかった…促されるまま罪を告白すると、自分が犯してきた罪の重さを改めて痛感し、罪悪感にさいなまれる。
平和だった記憶はもう思いだせない、内戦が始まってからの悲惨な記憶のみが79式の記憶を埋め尽くす。
「君はたくさんの罪を犯したのだね……分かった、もう十分だ。だが君はその罪の重さに気付くことが出来たんだ、神はお許しくださる」
その言葉に79式は泣きながら首を横に振るが、男性は優しくその肩を撫でる。
「酷いことを命令されたんだろう? 痛ましいことだ……私はクロアチア人だが、セルビア人もムスリム人もみんな好きだ。昨日まで仲良く暮らしていた隣人を、どうして攻撃できようか? 悪いのは君じゃない……宗教を戦争の材料にしようとする連中だ」
「でも、でも…」
「そう自分を責めることはない、仕方がなかったと言えばそれまでだが…避けられない悲劇はある。だがそれに囚われず、未来に目を向けることを知って欲しい」
「………」
79式は、小さく頷いた…。
その後もう一度彼はこの町にとどまることを提案したが、79式の考えが変わることは無かった。
余命幾ばくもない赤ん坊の余生を、医者であり牧師でもある彼に預けて託すと…79式は再び町を出て孤独な放浪をするのであった。
あてはない、そもそもどこに向かって何をすればいいのかも分からない。
ただあの町に留まってはいけない、そんな想いはあった……自分の存在で平穏に暮らす住人を危険な目に合わせてしまうことは、絶対に避けたかったのだ。
目的地もなく、ただ思ったままに進む……自分はまだ生きていたいのか、それとも死に場所を探しているのか。
自分自身が何を願っているのかすらも見いだせない。
あの日自分の正義と信念を失った時から、進むべき道は暗闇で閉ざされたままだ。
ふらふらと歩き続け、いつの間にかどこかの道路へと出ていた。
路上に残るタイヤ痕は真新しい、きっとどこかの勢力が頻繁にここを通るのかもしれない…あまり長居するのは危険と判断し、道を逸れて茂みに入ろうとした時、どこからか小さな声が聞こえてきた。
振り向いた先には、二人の少年と少女が懸命に走る姿があった。
二人の子どもの後ろには犬を連れた民兵がおり、怒鳴り声をあげて子どもを追いかけている。
服装からその民兵はスルプスカ共和国…セルビア人の民兵であることが伺える。
足の速い犬はあっという間に二人に追いつくと、逃げる少女の足に噛みついた。
足を噛まれてしまった少女は悲鳴をあげ、もう一人の少年は少女を助けようとするが大型犬の力に対抗できない…そうしている間に、民兵は接近する。
79式はほとんど無意識に茂みを飛び出すと、全速力で二人のもとへ走り寄ると少女に噛みつく犬の横腹をおもい蹴りつけて吹き飛ばした。
「二人とも早く逃げて!」
犬に足を噛まれた少女を立たせてあげると、向かってくる民兵に79式は対峙した…殴りかかって来た民兵の拳を避けた79式はカウンターの蹴りを叩き込み一撃で打ち倒すが、異変を察したのか遠くから民兵たちが車に乗って来るのが見えた。
すぐさま79式は二人を森の奥へと逃がそうとしたところ、先ほど蹴り飛ばした犬が背後から79式に跳びかかった。
「おねえちゃん!」
「私はいいから、二人は逃げて!」
犬の牙が肩に深々と食い込む…痛みに悲鳴をあげそうになるのをこらえ、79式は二人に逃げるよう叫ぶ。
二人が逃げる時間を稼ぐべく、肩に噛みつく犬を強引に引き剥がし、おもいきり蹴り上げる…今度こそ犬を気絶させることが出来たが、車に乗った民兵たちがあっという間にこちらに接近してきていた。
すぐさま79式も逃げようとするが、車が行く手を阻む。
車から飛び降りてきた男に押し倒された79式は、男の手を振りほどいて頭突きを浴びせる。
しかし1人を倒しても相手は大人数であり、別な民兵が背後から79式を羽交い絞めにして拘束した……頭突きを受けた男が怒りの形相を浮かべて、拘束された79式を何度も殴りつける。
「くそアマが、舐めやがって!」
79式の髪を鷲掴みにする男…手を伸ばしたところに79式は食らいつくと、ありったけの力で男の指を噛みちぎる。
男の悲鳴が響き渡る…。
民兵たちが怯んだすきに79式は羽交い絞めにする男の股を蹴り上げ、拘束を解く。
襲い掛かってくる民兵を相手に奮戦するもやはり多勢に無勢、後から駆けつけた応援も加わってついには集団で抑え込まれてしまう。
両手に手錠をつけられ身動きをとれなくしたところで男たちは、うずくまる79式を蹴りつける。
「こいつ知ってるぜ、ブゴイノの警察にいた人形だ」
「するとクロアチアの犬か…よし、車に乗せろ」
散々痛めつけられ、力を失くした79式に民兵は唾を吐きかけると、乗って来た車の荷台に放り込む…。
全身の激痛に呻く79式を、民兵は残忍な笑みを浮かべて見下ろしていた。
車に揺られること1時間…無理矢理起こされ、車から降ろされた79式は視線の先にある強制収容所を見て目を見開いた。
「怖いか人形のお嬢ちゃん、これからよろしく頼むぜ?」
民兵のいやらしい笑みに79式はゾッとする。
セルビア人支配地域の中に放り込まれた79式を助けるものはいない。
収容所近辺にたむろする男たちの比率から、この収容所がどんな役割を持っているのか理解した79式は恐怖心に震えあがる…そんな彼女の姿を見た民兵たちは笑みを浮かべ、舐め回すような目で彼女を見つめていた。
収容所内へと足を踏み入れた時、79式はあまりの恐怖心から震えていた。
それをセルビア人民兵は同情することなく、収容所の取り調べ室へと彼女を放り込んだのだ…。
「取り調べの時間だお嬢ちゃん…ここのルールは知ってるな?」
取り調べ室内には、何人かの男たちが待機していた。
両手を拘束された79式は少しでも男たちから逃れようと部屋の隅に逃げるが、そんな姿はかえって男たちの興奮と征服感を増長させるだけであった。
「来るな…!」
79式の願いもむなしく、男たちの魔の手が伸びる。
衣服を斬り裂かれ、全身の素肌を露出させられる…床を這って逃げる79式を男たちが押さえつけると、別な男がベルトを外しズボンを脱いだ。
「やめろ……やめ……!」
必死の抵抗も、懇願も…彼らには無意味なものだった…。
79式の純潔は、なすすべもなく散らされる。
男たちはかわるがわる無抵抗の79式に襲い掛かり、彼女の悲鳴は収容所内に絶えず響き渡った。
そしてこの行為は次の日も、また次の日も容赦なく行われたのだ。
収容所から一歩も出ることが出来ず、男たちの欲望のはけ口に利用される日々……この収容所がパルチザンの手によって解放されるその日まで、79式は地獄を見続ける……。
すべての話を聞いた時、WA2000は目の前の79式に対しかける言葉を失っていた…。
にこりと笑って見せる79式の口から話された凄絶な過去……あまりにも悲しく、あまりにも愚かで、あまりにも救われない。
すべてを聞いた後で、WA2000は今まで通りの接し方をすぐにすることは出来なかった。
「イリーナさんが私を救い出してくれた時、私は言いました……"私はもう誰かを憎まずに生きてなんかいられない、でもそんな想いをしてまで生きていたくなんかない、殺してくれ"…と」
「その時イリーナはなんて言ったの?」
「あの人は必死で私を説得しました……ですが私の気持ちは変わりませんでした。もう普通に生きてくことなんて出来ませんし、きっとあの人の理想の国ができたとしてもきっと私は誰かを傷つけようとしたはずです……イリーナさんはそれで、私の記憶を消して生かそうとしたのだと思います」
「それで、あなたはイリーナの事をどう思ってるの? 中途半端に記憶に蓋をしたせいで、嫌な記憶を思い出したから恨んでるの?」
「いいえ…イリーナさんが本気で私を助けようとした結果ですから、恨めるはずがありませんよ」
「そう……もう一つ聞かせなさい。79式、あなたは自分の過去を私に打ち明けてどうして欲しいって言うの?」
「え…?」
79式が驚いた表情で見上げると、彼女は真剣なまなざしを真っ直ぐに向けていた。
「自分の辛い過去を聞いてもらって同情して欲しいの? 罪の追及をしてもらいたいの? まだ死に場所を求めているの? それとも過去を話すことで、私とあなたの関係が崩れないか試そうとしてるの?」
「いえ、あの…」
睨みつけるようなWA2000の視線に79式は目を逸らしていいよどむ…。
そんな79式に近寄ると、彼女は腕を掴み引き寄せるとその身体を抱きしめた。
「バカね、私があなたの過去を聞いて見捨てるとでも思うの? よく聞きなさい79式、あなたは私の優秀な教え子であり妹みたいな存在なのよ……例え何があろうと見捨てるはずがないでしょう」
「センパイ…」
「最後にもう一つ聞かせなさい…あなたはこれからも生きていたいの?」
「私は…」
「単純なことよ、悩むことじゃないわ」
「………生きていたいです……私は、生きていたいです…!」
「だったらもう二度と腐るんじゃないわよ、いいわね? 79式、ここには人に自慢できない過去を抱えてる奴はたくさんいるわ。自分だけが汚れてるなんて思っちゃダメ、あなたはあなたなんだから」
「はい…」
「ここは
「センパイ…はい、分かりました……私、もう迷いません。ここで生きていきます…!」
「フフ……その言葉忘れちゃダメよ。
完結ッッ!
ラスト力尽きた感ありますが……。
相変わらずわーちゃん硬派やな……でも79式は二度と恋をしないから、百合にはならないんだ
スコピッピ「エグゼ、なにわーちゃんの部屋覗いてんの?」
エグゼ「いや、何というか…とりあえず覗くんじゃなかった、あとあん時のオレを一発殴りたい」(号泣)
スコピッピ「よし、じゃあ代わりにあたしが殴ってやろう!」
エグゼ「いて! このクソサソリが…!」
エグゼも反省してるんで前話のアレは責めないでやってください…相変わらずエグゼは涙もろいw
よっしゃ、ほのぼのしよ