Serial experiments □□□  ー東方偏在無ー   作:葛城

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誰得な続き、いくよー

夏の真っ只中だというのに、冬の章とはいったい……?


冬の章:その1

 ──早急に『幻想郷』へと戻らなければならない。

 

 

 

 

 そう思った霊夢ではあったが、思うようには上手く事が運びはしなかった。

 

 

 何故かといえば、幻想郷を囲うようにして張られた結界と、霊夢が外の世界に出されるまでの経緯に原因があった。

 

 

 通常、幻想郷と外の世界との狭間には、不可視の結界……博麗大結界と呼ばれる強固な壁が築かれている。

 

 この壁は、八雲紫を始めとした妖怪の賢者と呼ばれる大妖怪たちが総力を結集して築かれた結界と、初代博麗の巫女が編み出した結界とを組み合わせたものである。

 

 その頑強さ足るや、人知の域を超えていると言われている。当然ながら、物理的に触れることだって不可能だし、霊夢を始めとした結界術に長けた者でなければ博麗大結界を認識することすら叶わない。いや、認識出来たとしても入ることは不可能である。

 

 

 何故なら幻想郷は、忘れ去られた幻想達が集う、最後の楽園。

 

 

 機械文明を始めとして、様々な技術や知識が徹底的に管理されている幻想郷にとって、無作為に外の人間……あるいは、知識が流れ込めば幻想郷の秩序が維持出来なくなる。

 

 いや、秩序だけではない。忘れ去られた幻想というのはすなわち、人々が否定し拒絶した幻想。ほんの一時であったとしても、『お化けなんていないさ』という常識を抱えた者が雪崩れ込めば……待っているのは、幻想郷そのものの崩壊である。

 

 

 故に、賢者たちは決断した。いや、決断せざるを得なかった。

 

 

 物事には、絶対というものはない。賢者の内の一人である紫は『幻想郷は全てを受け入れる』とよく口にはしていたが、実の所、それだって紫が己に投げかける皮肉でしかない。

 

 広いようで狭い幻想郷は、有限なのだ。けして、無限ではない。結局の所、彼女たちの楽園は世界の片隅に作られた、小さな箱庭でしかないのだ。

 

 全てを受け入れたいとは思っている。だが、受け入れることなど出来はしない。もしかしたら、誰よりもそれを分かっているのは賢者たちなのかもしれない。

 

 故に、紫たちは内と外とを隔てる壁を作り、それを強固なものとしたのだ。それこそ、結界の管理も担う霊夢ですら、おいそれと手出しできないぐらいのものを。

 

 加えて、重大な問題がもう一つ。それは霊夢が幻想郷の外に居るという事。実は、これこそが霊夢が幻想郷へと直ちに戻れない最大の理由なのである。

 

 

 ──というのも、だ。

 

 

 本来、この内と外とを遮断している壁は博麗の巫女である霊夢ならば(例外的に、結界をすり抜けて移動出来る術は幾つかあるらしい)自由に開け閉めを行い、内と外とを行き来することが出来るようになっている。

 

 だがそれは、あくまで術者である霊夢が内側……つまり、幻想郷の方に身を置いているのが前提での話。外から自由自在に開けられるようには出来ていないのだ。

 

 その為、何かしらの理由で仕方なく外に出なければならない際には、結界の一部……人ひとりが入れるよう、予め隙間を作っておかなければならない。つまり、幻想郷に戻る為には、この隙間から戻らなければならないわけで。

 

 ……その隙間を見付けない限り、あるいは、その隙間が内側から閉じられてしまえば……巫女である霊夢であっても、そう簡単に戻ることは出来ないのであった。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………しかし、現状は全てにおいて最悪に突き進んでいるわけではない。

 

 

 

 幻想郷そのものは、特定の場所にあるというわけではない。この世界の裏側……いや、片隅か。言うなれば隣にある世界であり、隙間が無くとも、霊夢であれば、その存在を常に感じ取ることが出来る。

 

 

 だから、外の世界であっても、だ。

 

 

 『岩倉玲音』の手によって幻想郷そのものが破壊されるというような事態に陥っていないのだけは、霊夢にも知ることは出来た。その点については、ひとまず霊夢は安堵して……そして、直面することとなった。

 

 ──友人である東風谷早苗が、『ここ(幻想郷)では常識に囚われてはいけない』という言葉を口にするようになった、その意味を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──時刻は、夜。幻想郷から追い出されてから、早15日の月日が流れた。

 

 

 

 

 その間、身元不明の少女となってしまった霊夢は……目覚めた場所より、そう離れていない場所の周辺に潜伏し、さ迷っていた。

 

 どうしてなのかといえば、理由はある。それは目覚めた場所と、幻想郷から追い出された際に空けられた結界の位置が、そう離れていない可能性が高いからだ。

 

 『岩倉玲音』の手がどこまで伸びているかは分からないが、『幻想が限りなく薄い』この世界では、超常的な力は幻想郷ほど強く作用しない。

 

 言うなれば、非常に電気を通しにくい素材に無理やり電気を通すようなものだ。

 

 つまり、幻想郷から霊夢を追い出したはいいが、その後は放置された可能性は高い。仮に霊夢が逆の立場だったなら、どうにもならなくなっている霊夢に何時までも労力を割いたりはしないからだ。

 

 だから、霊夢はその地を離れようとはせず、結界の綻び……言うなれば、最近にて開かれた形跡がある場所を探し続けているわけであった……のだが。

 

 

 えほん、えほん、えほん……えほん。

 

 

 堪らず零れた咳を掌で覆い隠しつつ、霊夢は蛇口を捻る。公園の脇に設置された古ぼけた蛇口から噴き出した水で手を洗った霊夢は、掌で作った器に溜めて……そっと、口づける。

 

 

「……っ、えほ、えほ!」

 

 

 こくり、こくり。何とか二回水を飲んだ辺りで、我慢の限界に達した霊夢は咳き込んだ。ぶふっと噴き出した水滴が掌から飛び散って、顔を濡らした。

 

 さすがに、この時期の水は霊力で防御していても、冷たい。眉根をしかめながら、顔を洗って、手を洗って……寝間着の裾で水気を拭った霊夢は……深々とため息を零した。

 

 その顔色は、御世辞にも良くはない。まあ、当然だ。外の世界に放り出されてから、15日間。さすがの霊夢も、満足な量の食事も出来ず、寒空の下で耐え忍んだ状態で万全を維持できるわけがないのであった。

 

 

(お腹、空いたわ……)

 

 

 ぐぎゅるる、と訴えを起こす腹を抓ってから、もう一度水を飲む。今度は何とか3回喉を鳴らした後、その場を離れる。向かう先は、公園よりほど近い場所に有る寂れたビルの中にある、空きテナントの一室だ。

 

 あの日、『勘』に任せて選んだビルだ。建物そのものが寂れていることに加え、近くに駅などがないせいだろうか。全フロアが空いており、今の所は霊夢が忍び込んで雨風を凌いでいることはバレていない。

 

 術で認識され難い(完全に認識されないわけではない)ようにしているおかげでもあるが……まあいい。体力が落ちた身体に鞭打って、霊夢は一目を気にしながら夜道を進み……寂れたボロビルの前に来る。

 

 

 入る時は正面からではなく、裏手から。一度は正面から入ろうとしたが、ガラス扉に鍵が掛かっていたので無理だった……裏の非常階段を登って、3階の扉。

 

 

 ボタン式のロックが掛かっているが、『勘』で番号を突破してから今日まで、フリーパスだ。音を立てないように中に入った霊夢を出迎えたのは……用具一つないガランとしたフロアにポツンと用意された、少し潰れているダンボールであった。

 

 このダンボールは、フロアの端に立て掛けられる形で放置されていた物である。枚数は5枚、4枚を敷布団代わりに並べて、一枚を折り畳んで枕代わりに使用している。御世辞にも寝心地は良くないが、固い床よりはマシだ。

 

 はあっ、と。深い溜息を零した霊夢は、倒れ込む様にそこへ寝転がると、静かに脱力した。傍を転がる草履(これも、守矢神社に向かう際に履いていたやつだ)にも目をくれず、霊夢はゆっくりと胎児のように丸まった。

 

 

 ……そうしてから、霊夢は……己が内より湧き出る霊力を、己を中心にして、放射状に探査の網を広げる。この網は、結界の調査を行う時に使用していた、結界の綻び探知の術みたいなものである。

 

 

 あの日から、霊夢はこれを毎日続けている。時々水を飲んで、ここで横になって、探査。ただそれだけを15日間……体力の消耗は、もはや無視できないレベルにまで達しようとしていた。

 

(残存している霊力は……だいたい、3割か。まあ、常時使い続ければ泉だって枯れるか……我ながら、水だけでよくもまあ無事でいられるわね)

 

 胸中にて、霊夢はため息を吐く。実際には、しない。堪らず零れるならまだしも、横になっている時は少しでも体力を温存しなければならないからだ。

 

 

 ……霊夢がここまで消耗する理由は食事等を満足に撮れていないのもそうだが、それは外の世界における常識や環境があまりに違い過ぎることが、関係していた。

 

 

 

 

 率直にいえば、身体に合わなかったのだ。何がって、全てが、だ。

 

 

 

 もちろん、肉体的にどうこうなる程合わないわけではない。博麗の巫女とはいえ、身体は人間だ。もし数日で死に絶えるような環境なら、人類なんて絶滅しているところだ。

 

 合わないのは、肉体ではなく霊的な部分。つまり、霊夢が博麗の巫女として必要となる、霊力等の部分だ。

 

 

 例えるなら、砂糖が溶け切らないぐらいに濃縮された液体を霊夢の霊力とするなら、外の世界は全てが真水。そして、幻想郷はシロップで構成された世界と考えたら、分かり易いだろうか。

 

 

 生命維持だけを考えれば、そこまで問題はない。幻想郷にはない薬品臭さや排ガスなどの悪臭を始めとした諸々に目を瞑れば、霊夢も生きてはいける……だが、その身に宿る霊力に目を向ければ、話が変わる。

 

 いくら霊夢自身が自ら霊力を生み出せるとはいえ、限度はある。どこかで、外部より燃料を補充しなければならないのだが……ここで問題となるのが、外の世界の環境だ。

 

 霊夢が暮らしていた幻想郷は、『幻想達が集う最後の楽園』と賢者たちが称するだけあって、霊力魔力を問わず様々な幻想の力が、空に、大地に、水に、満ちている。

 

 

 だが、ここにはそれがない。当然だ、ここは幻想を否定した外の世界。空にも、大地にも、水にも、幻想の力は欠片もない。塩漬けした食べ物を真水に浸すのと同じであり、ただ居るだけで幻想の力は失われてゆく。

 

 

 せめて食べ物などから霊気を吸収出来れば良いのだが、前述した通り、ここにはそれがない。幻想の力が枯れた大地から生まれる作物を摂取したとて、得られるのは肉体を生存させる為の燃料だけ。むしろ、摂取すればするほど、海水を飲むのと同じく体内より霊力が消耗されてしまうのだ。

 

 

(塩水に囲まれたナメクジみたいな気分だわ……)

 

 

 そう、霊夢が思うのも無理はない。実際、幻想が否定されたこの世界において、霊夢はナメクジみたいなものだ。まだ3割も霊力を残せるだけでも、十分に凄い事なのだ。

 

 

(……お腹、空いた)

 

 

 だが、しかし……さすがの霊夢とはいえ、限界はある。きゅるる、と催促し続ける腹を摩りながら、霊夢は僅かに顔をしかめる。

 

 歴代最強の巫女とはいえ、その身体は人間の少女だ。怪我をすれば痛みを覚えるし、傷だって出来る。場合によっては出血するし、それが致命傷であったなら……霊夢も、死ぬ。

 

 加えて、当たり前だが、食わなかったら飢えるのだ。生き物である以上は、命を食わねばならない。霊力を燃料にして誤魔化してはいるが、あくまで誤魔化しているだけなのだ。

 

 

(身体が……冷たい……手足が億劫だわ……)

 

 

 ふう、と。堪らず零れた溜息は、自分の物とは思えぬほどに冷たかった。まあ、それも仕方ない。触らずとも、肋骨が外から分かる程度には痩せてきているのが分かる。

 

 けれども、今の霊夢にはどうすることも出来ない。最低限飢えない程度に食べたくとも、金がない。金が無いから、夜の内に辺りのゴミ捨て場らしき場所から食えるモノを探しはしたが……見つからない。

 

 幾つか食えるモノを見付けはしたが、それら全ては鍵付の置き場に入れられてしまい、霊夢には手が出せない。ボタン式のロックであれば『勘』を頼りに開けることは出来るが、南京錠の前では『勘』も──っ!? 

 

 

 静まり返った空間に、ふおん、と。

 

 

 暗闇の向こうで何かが動いた音に、霊夢はパッと身体を起こした。霊夢は知らなかったが、その音は各階を繋ぐエレベータの起動音であった。直後、しゅいい、とモーターが起動する音を霊夢は聞く。

 

 誰かが、ここへ来るかもしれない。分からずとも察した霊夢がそちらに意識を向ければ……次いで、霊夢の耳が捉えたのは己が出入りに利用している裏口の開閉音と……直後に響く、多数の足音であった。

 

 

 ──間違いない、誰かが入って来た。

 

 

 そう認識した霊夢が取った行動は、天井への退避であった。霊力の残存など、気にしている場合ではない。ここは幻想郷ではないのだから……ふわりと、宙に飛んだ霊夢は、そのまま蜘蛛のように天井に張り付いて静止する。

 

 少しの間を置いてから、幾つもの光がフロアの中を照らした。その光が今しがた霊夢が横になっていたダンボールを照らした直後、ガラス扉が開かれ……同じ制服を見に纏った屈強な男たちが部屋へと入って来た。

 

 当然だが、男たちの風貌に見覚えはない。霊夢は知らなかったが、彼らは警察官と呼ばれる人たちであった。

 

 

『こちら3階、いません。フロアに私物らしきものは無し──どうぞ』

『──他の階は鍵が掛かって入れないそうです。どこかに閉じこもっているか?』

『いや、この階だ。そこのダンボールの辺りに臭いがこもっている。さっきまで、居たかもしれない』

 

 

 何やら独り言を呟いたり、ダンボールに光を当てたりと忙しない。術を使って気配を消しているので気付かれはしないだろうが、ライトの光を浴びて注目されてしまえば、その限りではない。

 

 

 

 というか……臭いって。

 

 

 

 男たちの会話に耳を澄ませながら、霊夢は羞恥に頬を染める。霊夢とて、年頃だ。仕方がないとはいえ、異性から遠まわしに『くさい』と言われれば、恥ずかしくもなるだろう……と。

 

 

 ライトの光が、視界を照らした。

 

 

 あっ、と霊夢が思ったのと、ライトを向けた警察官の顔色が変わるのと、ほぼ同時で。『──うわああ!?』理解した彼が絶叫したのと、開きっぱなしになっていたガラス扉から外へと向かったのは、ほぼ同時であった。

 

 床に足を置く必要はない。幻想郷と同じく、空を飛ぶ。天井すれすれ超低空飛行から加速し、外の扉へ──開けた瞬間『──止まれ!』外にいた警官たちが一斉にライトを向けて来たが──かまわず、霊夢は夜空へと飛んだ。文字通り、夜空へと飛行する。

 

 警官たちのどよめきが背後より聞こえはしたが、無視する。可能性が低いとはいえ、幻想郷へと通じる可能性が高いのはここしかなく……とにかく、捕まるのは不味いのだ。

 

 行き先は、『勘』だ。事あるごとに『勘』に頼りっぱなしだが、今はこれしか手がない。己が直感に従うがまま、霊夢は夜空を飛び続ける。鳥のように、寝間着の裾をはためかせる……だが、しかし。

 

 

(か──らだが、重い!)

 

 

 そう長く、飛行は続けられそうになかった。理由は、考えるまでも無かった。ここが、幻想郷でないからだ。幻想を否定した世界で幻想の術を使うのは、蛙が塩水の中で泳ぐに等しい行為であった。

 

 身体が……いう事を聞いてくれない。思い通りに、動いてくれない。何時もであれば、箸で白米を食べるかのような感覚で空を飛び回り、肌を掠める風を感じ取れたのに……今は、それが難しい。

 

 高くは、飛べない。飛ばないのではなく、飛べないのだ。ゆらゆらと右に左に流されそうになる身体を、その度に押し戻す。まるで、風に揺られる凧になった気分であった。

 

 

(く、苦しい……息が、出来ない……)

 

 

 時間にして……5分程。以前なら息一つ乱さなかったのに、もう霊夢は息が上がっていた。

 

 

 霊力で誤魔化し続けてきたツケが、ここで来てしまった。急速に消耗してゆく霊力を押し留める体力が、霊夢にはなかった。気づけば、霊夢はたたらを踏む様にして地面へと降り立ち……傍の街路樹へともたれ掛っていた。

 

 降り立った場所は、人通りのない住宅街の一角であった。辺りを見回せば路駐している車もなく、走っている車もない。信号の淡い光と街灯だけが、夜の世界を照らしていた。

 

 はあ、はあ、はあ、はあ……街路樹が作り出した影の中で、霊夢は必死に息を整える。心臓が、今にも爆発しそうだ。噴き出した冷や汗を拭う余裕も、霊夢にはなかった。

 

 

 ……こうなるのは子供の時以来かしら、ね。

 

 

 ぐったりした意識の中で、霊夢は……苦笑した。

 

 これは、あまりに急激に霊力(魔力も)を消耗すると起こる、欠乏症の一種だ。コントロールが上手くいかない幼少時などに頻発する症状であり、霊夢も幼少時に難しい術を使って発症してしまったことが何度かある。

 

 その時は、一休みして落ち着くのを待ってから、紫の作ってくれたご飯をお腹いっぱい食べて、一晩ぐっすり寝たら治っていた。

 

 

 しかし……今はどうだろうか。

 

 

 あの時よりも霊的な回復力が向上しているとはいえ、ここは外の世界だ。とてもではないが、ジッと息を潜めていれば回復出来るような環境ではない。いや、回復どころか、消耗してゆくばかりだ。

 

 せめて……せめて、体力だけでも回復させ──あっ。

 

 暗闇の中で胡乱げな眼差しを辺りに振りまいていた霊夢の瞳が、道路を挟んだ反対側、昼のようにな眩しさを放つ建物を捉えた。霊夢は知らなかったが、それはコンビニと呼ばれている店の内の一つであった。

 

 

(た、食べ物……!)

 

 

 いや、必要なのはそこではない。霊夢の目は、その眩しさの向こうにある、陳列されている商品を捉えていた。本能的に、いや、半ば意識的に……霊夢の喉が、ごくりと唾を呑み込んだ。

 

 

(一つぐらい……一つぐらいなら……みんなの為なら……)

 

 

 意識が、混濁する。いつの間にか、立ち上がっていた。ふらふらと、足が動く。不思議と、あれだけ手足を蝕んでいた重さは消えている。いや、それどころか、鼓動に合わせて活力が湧いてくる気さえしてくる。

 

 理性では、止めろと訴えている。博麗の巫女である己が、それに手を染めるのかと訴えている。だが、それら全てを、腹部より伝わる空腹感が、全身が訴える飢餓感が、覆してゆく。

 

 喉が、乾く。けれども、水では腹は膨らまない。飲めば飲む程、より強く空腹感は強くなる。その度に、身体より抜け出てゆく霊力……それ以上に、身体が消耗してゆく。

 

 幻想郷へと戻る為には、霊力の意地が必要不可欠だ。だが、その前に体力が尽きる。体力を維持する為には食わねばならないが、食えば食うだけ霊力は落ちる……だが、だけど、それでも、ああ、あああ、ああああ……! 

 

 

(──だめっ!)

 

 

 道路を渡って、店の前。そこで、我に返った霊夢は足を止めた。伸ばされた手をもう片方の手で押さえた霊夢は、大きく息を吐いた。

 

 自分は今、何をしようとしていたのか。それを自覚した瞬間、霊夢はもつれる足を必死に動かして、その場を離れ……ようとした。だが、上手く出来なかった。息も整わずに動いた代償であった。

 

 

 ……そして、その代償が……決定的な分岐点となってしまった。

 

 

 ぴろん、と。背後より聞こえた音に、霊夢は振り返った。見れば、ビニール袋を片手に、スマホ(霊夢の目には、光る何かとしか思えなかった)を片手にコンビニから男が出てくるところであった。

 

 いわゆる、歩きスマホというやつである。距離にして十数メートル程度の距離にいる霊夢に気付いた様子もなく、男は傍の自転車のカゴに袋を乗せた──直後、『──あっ』男は何かを思い出したかのように舌打ちすると、足早に店の中へと戻って行った。

 

 

 ……静寂が、訪れた。そう、霊夢が認識した時にはもう……霊夢の身体は、動いていた。

 

 

 罪悪感も、抵抗感もなかった。いや、もしかしたら、感じていたのかもしれない。だが、この瞬間、霊夢の頭からそれら全ての雑念は消え去り……あるのは、渇望だけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………どこをどう走ってきたのは、霊夢にも分からなかった。

 

 

 

 

 

 我に返った霊夢の前に広がっているのは、この辺りでは見掛けない数の密集した木々に、その木々の向こうに見え隠れする遊具。遊具だと霊夢には分からなかったが、木々の数から、霊夢はここが何時も水飲みに利用している公園とは別の公園だと判断した。

 

 時刻が時刻だからか、周囲に人の気配はない。街灯の数も少なく、下手すれば道路よりも薄暗い。広さだけなら最初の公園よりもありそうだが、寂れ具合は最初の公園よりも酷そうであった。

 

 よたよた、と。引きずり掛けている両足を強引に動かして、夜の中を進む。その姿はまるで、光に吸い寄せられる蛍のようで……目に止まったベンチにどっかりと腰を下ろした霊夢は……静かに、手に持っていた袋を見つめた。

 

 

 ……心臓の音が、また煩くなった。だが、今度の音は先ほどよりも弱い。

 

 

 それが、何を意味しているのか。それが、何の抵抗を表しているのか。霊夢は分からな……いや、違う。目を逸らしていることに気付きながらも、抗うことが出来ないまま……袋の中に入っていた、ペットボトルを手に取った。

 

 ペットボトルというものを見るのは、これが初めてである。だが、初めてでも直感で開け方を察した霊夢は、震える指に力を入れて……蓋を開ける。露わになったそこに口づけ、傾け……もう、無理だった。

 

 

 ごくり、ごくり、と。

 

 

 1リットルサイズの半分を一気に胃袋へと流し込んだ霊夢は、直後、二口分のソレと少量の胃液を吐きだした。けれども、ぜひ、ぜひ、と息を荒げながら……半ば掻き毟るように、おにぎりを取り出した。

 

 開け方が、分からない。まあ、当然だ。けれども、今の霊夢には関係ない。袋に噛み付いて強引に噛み千切り、その弾みで手元から零れ落ちて地面を転がる──構わず、霊夢は拾ってかぶりついた。

 

 じゃりじゃり、と。最初に感じたのは米の味ではなく、砂の味であった。御世辞にも良いとは言い難い触感が脳裏に響いたが、止められない。不快感すら覚えながらも、霊夢は飲み込み、咀嚼し、飲み込み続けた。

 

 

 ──ぽたり、と。霊夢の太ももに、滴が落ちた。

 

 

 涙が、頬を伝っている。それを、どこか頭の中にある冷静な部分が理解したが、それだけであった。ぽろぽろと零れ落ちる涙と共に嗚咽も零れ始めたが、それでも食べることを止められない。

 

 

「ひぐっ、うぇ、ぇぇ、ひっ、うぅ……」

 

 

 泣いている。誰かが泣いている。決まっている。己が泣いている。あの博麗霊夢が、泣いている。博麗の巫女として妖怪たちから怖れられている己が、涙を零している。幼子のように、鼻水まで垂らしてべそを掻いている。

 

 それでも、止められない。二つ目のおにぎりを瞬く間に平らげた霊夢は、続けて、弁当へと手を伸ばす。これまた引き千切る勢いでプラスチックの蓋を開けた霊夢は、素手で中身を口内に放り込んでゆく。

 

 箸を使おうなどという考えなんて、ない。そんな物を使うよりも前に、これらを胃袋に入れたい。ただ、その一心で、漬物の汁からソースの汁まで根こそぎ舐め終えた霊夢は……そこで、限界が来た。

 

 

「──ゆがりぃ、ごめん、ごめんなざい、ゆが、ゆがりぃ、ごべんなばい」

 

 

 気付けば、霊夢は両手で顔を覆っていた。指の隙間から、滴が染み出てゆく。力を込めて止めようとするが、止まらない。いや、それどころか、そんな霊夢をあざ笑うかのように、余計に涙の量は増えてゆく。

 

 

「まりざぁ、ごべん、ごべんなざい、ゆがりぃ、ごえ、ごべん、みん、みんあ、ごべんな、べんあざ、ごめんなざい」

 

 

 涙は嗚咽を伴い、嗚咽は号泣へと変わる。何に対して謝っているのか、どうして謝るのかすら、今の霊夢には分からない。ぐちゃぐちゃになった頭は、幼子のように泣き喚くことしか出来ない。

 

 霊夢は、泣き続けた。涙が止まらないから、その分だけ泣き続けた。膝を抱えて蹲り、嗚咽と共に、謝り続けた。ただただ、霊夢は謝り続けた。

 

 何もかもが分からなくなったまま、謝り続け……そうして、気付かぬうちにそのまま眠ってしまうのであった。涙で濡れた顔は酷いもので、苦悶に満ちたその顔は……まるで、母親と離れた幼子のようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………歌が、聞こえる。何の歌だろうか……よく分からない。そして、温かい。身体が、揺すられている。でも、不快ではない。いや、それどころか心地よく、安心する匂いがする。

 

 

 

 そっと、目を開けた霊夢は、眼前に広がる金色に軽く目を瞬かせた。頬を掠めるくすぐったさに、いったいこれは何だと身体を起こした霊夢は……そこで初めて、紫に背負われていることに気付いた。

 

 紫自身は、平均よりも長身である。肩幅も相応に広く、自分よりも一回りも二回りも大きい。そのうえ、妖怪である。まだ8歳の霊夢を、それも同年代よりも一回り小柄な少女の重さなんて、重さの内に入らないようであった。

 

 

 辺りを見回せば……思い出した。ここは、家(神社)への帰り道で通っていた道だ。

 

 

 空は飛べるが上手く霊力の加減が出来ない幼少時、よく無理をして霊力を枯渇させてしまっていた。あの時は何時もこうして、紫に背負ってもらっていた覚えがある。

 

 

 視線を上に向ければ、夕暮れ時の赤い日差しが自分たちを照らしている。

 

 

 昼と夜との境目は、人も妖怪も気分を高揚させる。だが、大妖怪にして賢者の一角である八雲紫にちょっかいを掛ける馬鹿はいない。それも、博麗の巫女を背負っている時に行う馬鹿は、幻想郷にはいない。

 

 油断ではない。純粋に、紫は強いのだ。普段なら命を取らずに追っ払う程度に納めるが、この時ばかりは本気で殺しに来る。妖怪たちはそれを知っているからこそ、その足取りは何事も無く平穏であった。

 

 

 ……当然、霊夢もそれを知っていた。

 

 

 当然だ、何せこれまで何十回と背負われているのだ。御年8つとはいえ、それが分からないほど馬鹿ではない。

 

 鼻歌を奏でる紫の歩調には、一切の変化はない。規則正しく続けられる歩みと鼻歌は、ともすれば子守唄にしか聞こえない。一つ欠伸を零した霊夢は……そっと、霊夢の首筋に顔を埋めた。

 

 

『──あら、起きたの?』

 

 

 振り返った紫の、横目。髪に邪魔されて視線が合う事はなかったが、こちらを見ているのは分かる。『まだ、起きてない』だから、霊夢はそのままぐりぐりと頬を擦り付けた。

 

 

『そう、それじゃあ、着くまでもう少しお休みなさい』

 

 

 見えずとも、感触から察した紫は笑みを零した。軽く霊夢を背負い直し、再び鼻歌を零し始める。それが上手なのかは霊夢には分からなかったが、心地よいものであるのは確かであった。

 

 うとうととした、眠気はある。でも、どうしてだろうか、眠りたくない。もう少しだけ、こうしていたい。もう少しだけ、この温もりの中で微睡みたい。

 

 ぷらぷらと足を揺らしてみれば、『ほら、大人しくなさい』紫はそういって霊夢を宥める。抱き締める力を強めれば、わざとらしく右に左に揺すられる。たったそれだけのことなのに……どうしてか、涙が流れそうになるほど嬉しい。

 

 気付けば、景色は森の中から博麗神社へと続く階段に変わっていた。常人なら気後れする階段の数だが、妖怪離れした紫にとっては何の問題もない。とす、とす、とす、と、歩調を緩めることなく階段を登ってゆく。

 

 

『ねえ、霊夢』

 

 

 そうして、どれぐらい登った辺りだろうか。だいたい、3割ほどを登った辺りだろうか。もうすぐ着いてしまうのだなと霊夢が考え始めた時……ぽつりと、紫が呟いた。

 

『博麗の巫女を止めたいって、考えたことはある?』

『ない』

『……それは、どうして?』

 

 

 それに対して、霊夢は即答した。一瞬、紫の気配が震えたのが霊夢には分かった。

 

 

『他の子たちと同じように遊べないし、一緒に暮らせない。好いた男一人作れないし、そのうえ、代々博麗の巫女は寿命を迎える前に命を落とす……それでも?』

『それでも、ない』

 

 

 きっぱりと、霊夢は答えた。それは紛れもない、霊夢の本心であった。

 

 

『みんなと一緒に遊びたいとは思わないの?』

『思うよ、でもいいの』

 

『霧雨の……そうそう、あの商店の娘さんと、霊夢は同い年でしょう?』

『私の方が三月ばかり年上。でも、いいの』

 

『友達になってほしいとか、色々あるでしょう?』

『色々あるよ。でも、いいの』

 

『霊夢……あなたは、強いのね。私よりも、ずっと、ずっと……』

『何言ってんだか、紫は私たち人間よりもずっと強いのに、変な事ばかり気を回すのね』

 

『……それは違うのよ、霊夢。私たち妖怪は、けして強くはないの。だって、私たちはあなた達人間がいて、初めてこの世界に居られるのだから』

『嘘ばっかり。紫は何時もそうやって私をからかう』

 

『本当の事よ。私たちはね、貴方たち人間が考えているよりも、ずっとか弱く、ずっと寂しがり屋なの。どれだけ強く見えても、その本質は人間よりもずっと格下なのよ』

『かくしたぁ~? 妖怪のけんじゃさんの、紫がぁ?』

 

『ええ、そうよ。弱いから、私たち妖怪は人間を襲うの。そうして自分たちは強いんだって示さないと不安で堪らなくなるぐらいに……でも、人間は違うでしょう?』

『にんげんも似たようなものだと思うわよ』

 

『違うわ、だって、人間はそれでも生きて行けるもの。私たちは駄目なの、そうなっただけで死んでしまうから……』

 

 

『ゆかり、死んじゃうの?』

 

 

『うふふ、霊夢を置いて死んだりはしないわ。大丈夫、私は貴女がおばあちゃんになった後も生き続ける。だから、どうか私が死ぬまでに死んだら嫌よ』

 

 

 

『……でも、それじゃあゆかりが一人ぼっちに──そうだわ。それじゃあ、私が皆を繋いであげる! 私たちにんげんがそうなんだから、紫たちもそれが出来るよ!』

 

 

 

 その言葉に、紫は……何も言わなかった。それに気づく様子もない霊夢は、『はくれいの巫女はね、みんなを繋ぐの!』これ以上ない良い考えだと言わんばかりに紫の髪に顔を埋めた。

 

 

『ゆかりも、まりさも、一緒。外のせかいの人達も、みーんな同じ! みーんな、私が繋いであげる!』

『霊夢……』

『寂しがることなんて、ないの。みーんな、心のどこかで繋がっているの。ただ、気付いていないだけ、見えていないだけ……だから、私がとくべつに頑張ってあげる!』

『……ふ、ふふふ、そうね、ありがとう、霊夢』

『あ、でも、私だけだと出来ないから……ゆかりも手伝いなさい。まりさも、みんなも、ちゃんと手伝ってくれないと、出来ないから。私の『かん』が、そう言っているんだから!』

『ふふふ、霊夢の勘が言うなら従いましょう。でも、手伝って欲しいときは、ちゃんと声に出さないと駄目よ。霊夢はすーぐ口を噤んで察して欲しいみたいな──────あれ? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──目が、覚めた。

 

 

 そう自覚した瞬間、霊夢はむくりと身体を起こした。反射的に、頬を触る。冷たく濡れた感触に、目元を拭う。既に止まっているのか、新たにソレが零れ落ちるようなことはなかった。

 

 

 とても……懐かしい夢を見た気がする。

 

 

 それがどんな夢だったのか、その細部は思い出せない。はっきり覚えているのは、幼い頃の自分が、紫に背負われて神社へと戻って行く最中だったということぐらい。

 

 第三者の立場で聞いているような、それとも己が子供に戻っていたような、あるいは……上手く言葉に言い表せられない。とにかく、何とも不思議な夢だったと霊夢は思った。

 

 その、直後……落ち込みかけた霊夢の意識が周囲に逸れた瞬間、驚きに目を瞬かせた。どうしたのかといえば、周囲の景色ががらりと変わっていたからだ。

 

 霊夢にはそれらを何と表現すれば良いのか分からなかったが、有り体に言えば月並みなマンションの一室であった。

 

 フローリングの床に、白い壁紙。大きくはないが小さい程ではないテレビに、電子レンジを始めとした家電や家具一式。締め切られたカーテンは少しばかり汚れていて、霊夢をしかいない室内には生活感が漂っていた。

 

 

 ……いったい、ここは何処なのだろうか。

 

 

 もしかして、寝ている間に連れ込まれてしまったのだろうか。しかし、男の部屋には……次々湧いてくる疑念に目を瞬かせた霊夢は……次いで、目元を手で隠した。

 

 

(……眩しい)

 

 

 点けっぱなしの照明の眩しさに、霊夢は目を細める。暗がりの中で息を潜めてばかりだっただろうか。眩しさから逃れるように身動ぎして……がさがさと身体の下から音がしたので見やった霊夢は……はて、と小首を傾げた。

 

 

(新聞紙?)

 

 

 今更だが、新聞紙が敷かれたソファーに寝かされていたことに霊夢は気付く。ソファー自体は紅魔館で何度か見た覚えはあるが……何だろうか。些か小さいというか、単純な造形をしている。

 

 レミリアのような西洋の者の仕業なのだろうか……気にはなるが、とにかく。ソファーから降りた霊夢は、自然と室内を見回し……ふと、室内を漂う、生活感とは異なる何かに目を向ける。

 

 何だろうか……懐かしい気がする。だが、何処なのかを思い出せない。大きく息を吸って、ゆっくり吐く。何気なく行ったその行為だが……それで、霊夢は『何か』の正体に気付き、思わず目を見開いた。

 

 

 何故なら、その『何か』の正体が、幻想の力であったからだ。

 

 

 幻想を否定したこの世界に、幻想の力が残されている。こんな、最も幻想を否定した場所に何故……その中にあっても信じ難い状況を前に、霊夢は急いでその場を離れようと辺りを見回し──たのだが、遅かった。

 

 

 ──がちゃり、と。

 

 

 ハッと、鍵が開けられる音に気付いた時にはもう、遅かったのだ。「──大丈夫だって。そんな悪そうな子じゃないし、何か凄く不思議な──あっ」何やら呟きながら室内に入って来た女性は、霊夢を見て……言葉を失くした。

 

 女性は、霊夢よりも5歳は年上のブラウンの髪をした女性であった。手足は細く、荒事に従事しているような風貌ではない。霊夢は知らなかったが、その女性は女子大生というやつであったが……まあ、いい。

 

 霊夢も、その女性と同じであった。言葉を失くして立ち尽くすその女生と同じく言葉を失くし、呆然としていた。それは、眼前の女性が連れてきた、もう一人の女性に原因があった。

 

 その女性は、金髪であった。目の色は青く、西洋の血が混じっているのが明白な肌の色をしていた。だが、霊夢の気を引いたのはそこではなく、その女性が放つ……彼女に酷似している雰囲気にあった。

 

 

「……紫?」

 

 

 気付けば、霊夢はその名を呟いていた。「……え?」小首を傾げた金髪女性の反応が、きっかけになったのだろう。「ちょ、ちょっとあんた……」我に返ったブラウンの女性は、少しばかり慌てた様子で手を伸ばして来た──ので。

 

 

 ふわり──と。

 

 

 ひと眠りしたことで少しばかり回復している霊力を使って、天井へと飛んで逃れた。絶句する二人の顔を見た霊夢は、その隙にここから逃げようと……思ったのだが。

 

 

「──天井に引っ付くな! あんた臭いんだから、臭いが引っ付くでしょうが!」

 

 

 まさか、ブラウン髪の女性から正面切って臭いと罵倒されるとは、さすがの霊夢も想定していなかった。「え……えっ?」あまりといえばあまりなストレートボールに、逃げることも忘れて霊夢は床に降りた……途端、その手を掴まれた。

 

 

「起きたんなら風呂に入りなさい! 茹で卵みたいな臭いを撒き散らされるこっちの身にもなりなさいよ!」

「ちょ、え、あの、ちょ、まっ、ああ」

 

 

 抵抗する間もなく、引っ張られる。ぽかんと呆気に取られたままの金髪女性の顔が見えたが、その次にはもう風呂場へと引きずり込まれた霊夢は、そのままの勢いで来ている寝間着(白襦袢)をガバッと剥ぎ取られた。

 

 

「ちょ──ちょ、ちょちょちょ!?」

「あんた、何日風呂に入ってないの? 何歳かは知らないけど、あんたぐらいの年頃の新陳代謝をなめたら駄目よ」

「まっ──待って、ちょ、待って! 嫁入り前! わたし、嫁入り前だから!」

「うっさい! 小学生だってセックスする時代に何が嫁入り前じゃ! いっちょ前に恥ずかしがる暇があるなら、とっとと身体を洗え!」

「わか、分かったから、洗うから、あら──いひぃ!? なに、何これ!? 何でお湯が!?」

 

 

 抵抗はしたが、無駄だった。あっという間に裸に剥かれた霊夢の身体に、ブラウン髪の女性はシャワーを向ける。幻想郷にはないシャワーの感触に、びくびくっと霊夢は総身を震わせた。

 

 そして、そのまま……霊夢の声なき悲鳴が、リビングにいる金髪女性の元まで届き。

 

 

「あ~、やってるなあ」

 

 

 と、いった感じで暢気に換気をしているその女性を他所に、そのまま全身を洗われた霊夢は次いで、歯まで強引に洗わされる(さすがに、これは霊夢が自分でやった)ことになって……バスタオルを巻いたままリビングへと戻った霊夢の顔は、傍目にも分かるぐらいにげっそりとしていた。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………そうして、入浴を終えた後。

 

 

 金髪女性が用意した茶を疲れ切った顔で啜る霊夢を前にして、同じく一仕事したと言わんばかりに額の汗を拭ったブラウン髪の女性(入浴させた際に濡れたようで、着替え済み)は……改めて霊夢を見やると。

 

 

「小汚いガキかと思ったら、もんのすごい美少女じゃないの。清々しいぐらいに宝の持ち腐れってやつね」

「ほんと、凄い美少女だね。何でこんな子がホームレスなんてやっていたのかしら? 若気の至りも度が過ぎると痛々しいものよ」

 

 

 ぽん、と膝を叩いて、霊夢をそう評した。褒めているようでいて全く褒めていない評価に、ぴくりと霊夢の眉が動く。さりげなく、金髪女性の感想も酷いが……まあ、それもいい。

 

 とりあえず、この人たちはいったい何者なのだろうか。そして、何の目的があって己をここに連れて来たのだろうか。かどわかし……では、なさそうだが、分からない。

 

 

(……ただの常人、ではなさそうね。何かしらの『能力』を持っている。このお茶も、ほんの僅かだけど『力』を帯びているあたり……おそらく、この二人から発せられる力を浴び続けているせいね)

 

 

 空になったコップを置いた霊夢は、ジッと二人を観察する。

 

 霊夢自身の純粋な感想は、『悪人ではない』の一言だ。己の『勘』が導き出した感想も、『悪人ではない』だ。ということは、この二人は……かどわかしの類でないのは、確実だろう。

 

 とりあえず、邪な気を二人からは感じ取れない……そう思って見つめていると、「あっ、自己紹介していなかったわね」勘違いしたブラウン髪の女性はそういって、自らを指差した。

 

 

「私の名は宇佐美蓮子(うさみ・れんこ)。名字でも名前でも、好きに呼びなさい。見ての通り、華の女子大生よ。それで、こっちは私の友達の──」

「マエリベリー・ハーンよ。呼びにくいなら、メリーって呼んでくれていいわ。もう分かっていると思うけど、日本語で喋れるから変に英語を使わなくていいからね」

 

 

 

 ブラウン髪が、宇佐美蓮子。金髪女性が、マエリベリー・ハーン。

 

 

 

 強引かつズバッと忙しなく行動するのが蓮子なら、まえり……メリーの方は逆のようだ。ほとんど一気飲みするように茶を飲み干す蓮子とは違い、メリーはゆっくりと味わうように茶を飲んでいた。

 

 二人は霊夢を美少女だと称したが、二人も霊夢に負けず劣らずの美女である。少なくとも、二人の事を美女だと断言出来るに足る風貌であると、霊夢は思った。

 

 片や、気の強そうな理知的な美女。片や、ぽややんとした穏やかな美女。多少なり化粧による底上げが成されているとはいえ、それでも世の男たちの視線を集めるに十分な容姿をしている。

 

 美女であるのは共通しているが、それ以外が何とも対照的な二人だ……そう、霊夢は思う。と、同時に、名乗られたら名乗り返すのが礼儀かと、霊夢は思った。

 

 一瞬、呪術的な何かを警戒した霊夢だが、すぐに内心にて首を横に振る。それを行えるだけの幻想は、この世界にはない。この部屋には何故か幻想の気配があるようだが……話を戻そう。

 

 

「博麗、霊夢。知り合いからは霊夢と名前で呼ばれているわ……好きな方で呼んでちょうだい」

「はくれい……珍しい名前ね。まあ、それはいいか……で、単刀直入に聞くけど、あんた、いったい何者? 何処から来たの?」

 

 

 

 何者……何処から、か。

 

 

 

 本当にまっすぐ突きつけられる質問に、霊夢は思わず苦笑した。苦笑した直後……霊夢は、話して良いものかと考える。

 

 目的は定かではないが、風呂に入れてくれて茶まで振る舞ってくれたのだ。その点については、霊夢も言葉には出さないが素直に感謝している。

 

 だが、幻想郷は秘匿されなければならない世界。いくら『博麗大結界』があるとはいえ、何がどう動いて影響を及ぼすか、それは霊夢にも分からない。

 

 

「……何処からかは、言えない。言えない事情が私にはある。私が言えるのは、私が『楽園の素敵な巫女』っていうことだけよ」

 

 

 悪いやつではないし、これで色々と察してくれる。『勘』から導き出した回答を伝えれば……にやりと、蓮子の頬が吊り上った。

 

 

「へえ、楽園? また、大きく出たわね……ていうか、巫女? あんな恰好で?」

「色々と、事情があるのよ」

「その楽園から、どうしてこんな醜く薄汚くも時に美しい地上へ? 巫女なんてやっているぐらいなら、それなりの立場だったんじゃなくて?」

「不本意だけど、それも色々な事情よ」

「ふ~ん、なるほど」

 

 

 霊夢のその言葉に、蓮子はにっこりと笑みを浮かべた。

 

 

「つまり、異なる世界にある楽園に住まう巫女が、わざわざこの地に出て来ざるを得なかった問題が楽園で起きたわけね。あるいは逃げてきたか、追いやられたといったところかしら」

「──っ!?」

「うんうん、素直な子は好きよ──ちょいちょい、落ち着きなってば。別にあんたの不利益になるようなことなんてしないからさ」

 

 

 ……向けられる笑みを前に、反射的に浮き上がり掛けた腰を、霊夢は下ろす。「やれやれ、若者は何事もせっかちで困る」苦笑する蓮子を見やった霊夢は……内心にて、動揺を露わにしていた。

 

 

 言い訳はしない、油断していた。目の前の女は、見た目だけの女ではない。

 

 

 紫や永琳のように、純粋に頭の回転が速いタイプの女だ。その証拠に、この僅かな問答と霊夢の表情を見て、ここに居る理由を推測してしまった。ある意味、霊夢が最も苦手とする相手だ。

 

 こういうタイプは、とにかく場の主導権を握るのが上手い。霊夢のように天性の直感で場を動かすタイプとは違い、理詰めで場の空気を理解し、把握し、動かしてしまうからだ……何せ、もう。

 

 

「ん~、しかし、楽園と来たか。巫女さんがいるくらいだから……鬼とか天狗とか妖怪とかいそうな感じかしら?」

「……馬鹿じゃないの?」

「ほほう、良いポーカーフェイスね。でも、経験が足りないわ。あんた、捻くれ者でしょ。私も似たようなもんだからね、同類はすぐ分かる」

 

 

 場の主導権を、完全に握ってしまっている。顔を合わせてから一時間と経っていないのに、コレだ。やはり、やり難い相手だと霊夢は内心……どころか、顔に出した。

 

 意識してコレを行えるやつを相手に、下手な隠し事は余計を生む。それを、霊夢は幻想郷にて……正確には、紫から散々煮え湯を飲まされた経験から知っていた。

 

 正直、にやにやと勝ち誇った顔のコイツ(恩人であるとはいえ、だ)に負けたようで癪だが……仕方がない。さすがに全ては話せないが、話せるところだけは話そうと霊夢は口を開いた──その、瞬間。

 

 

「あら、蓮子は捻くれ者じゃないわよ。意地っ張りで捻くれた言い回しするけど、根はとっても素直よ」

 

 

 思いのほかはっきりとした口調で、沈黙を保っていたメリーが口を挟んできた。霊夢はおろか、これは蓮子にとっても想定外だったのだろう。「──ちょ、メリー!?」些か驚いた様子で静止の声を上げたのだが……当のメリーには届かなかったようだ。

 

 

「霊夢ちゃんも、誤解したりしないでね。蓮子はこんな感じで試すような言い方したり、茶化すような言い回しをしたりするけど、別に馬鹿にしているわけじゃないのよ。蓮子なりの、仲良くなりましょうっていう感じの挨拶なの」

「え、あ、はあ、そうなの?」

「うん、そうなの。分かり難いけど、蓮子なりに霊夢ちゃんを心配しているのよ。だって、家に連れ帰った方がいいって強く提案したのは蓮子ちゃんの方だもの」

「え、そうなの?」

 

 

 思わず見やった霊夢の目に映ったのは、少しばかり頬を赤らめて、違う違うと必死に手を振る蓮子の姿であった。メリーに視線を戻せば、「恥ずかしがり屋でも、あるの」蓮子の努力は一瞬にして瓦解してしまった。

 

 

「最初は警察……あ、警察って分かる?」

「名前は聞いたことあるわ。確か、凄く規模の大きな自警団みたいなものでしょ?」

「うん、まあ、そんな感じ。それでね、最初は警察に連れて行った方がいいって話になったの。でもね、あなたを抱き上げた蓮子がね、急に『家に連れて帰る!』って言い出したの……何でだと思う?」

 

 

 思う、の辺りで騒ぎ出そうとした蓮子を抱き締める様に押さえつけながら、メリーから尋ねられる。当たり前だが、全く見当が付かない。なので、素直に分からないと霊夢は答えた。

 

 

「何かね、『お母さん』って呟いたのが聞こえたんだって。そうしたらね、『警察に連れて行っても何の解決にもならない!』っていきなり怒り出して……それで、お気に入りのソファーに寝かせ──あれ、どうしたの?」

 

 

 両手で顔を隠した霊夢を見て、メリーは小首を傾げた。その耳が、熟した苺のように赤くなっていることには気付いていなかったが、「あ、あんたは鬼か……!」そんなメリーに心から震え上がる蓮子だけは気付いていた。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………まあ、天然といえば天然なメリーの発言によって、上手い具合に緊張感が抜けたのは確かであって。

 

 

 

 気を取り直した霊夢は話せる分だけを蓮子に伝え、蓮子も聞いて欲しくない部分を察した傍から、そこにはあえて触れないようにして……そうして、お互いの擦り合わせは一通り終わった。

 

 

「……つまり、今のあんたは霊力っていう不思議な力が空になっちゃったから、にっちもさっちも行かなくなっているって状況なわけね」

「少し違うけど、だいたいその通りよ」

「ひとまず、その霊力っていうのを回復する手段はあるの? 関わったのは私の方からだし、金はないけど協力出来るなら協力するわよ」 

 

 

 その言葉に、霊夢は思わず蓮子を見やった。まっすぐ向けられる視線に、霊夢は……何だか胸の苦しみを感じて、蓮子から視線を逸らした。

 

 

「方法がないわけじゃないけど、絶対じゃないし、とても時間が掛かる」

「それは、どうして?」

「ここが、幻想を否定した世界だから。一番手っ取り早い、食べ物から回復するっていうのが使えない」

「……ああ、なるほど。そうなるのかしらね」

 

 

 納得する蓮子を他所に、「えっと、どういう意味?」メリーは分からなかったようだ。「ねえ、どういう意味?」催促するように揺さ振り始めるメリーを宥める……そんな二人を見やった霊夢は、「とにかく、ここには私を元気にするモノがないのよ」そう、メリーに説明をした。

 

 

「空も、大地も、水も、何もかもから幻想が枯渇している。食べ物一つ、飲み物一つ、今の私には毒にも等しい。命を繋ぐには何の問題もないけど、こうしているだけでも霊力は消耗してゆく」

「……つまり?」

「温かいお茶はいずれ冷めてしまうけど、火に掛ければ熱くなるでしょ。でも、ここには『火』が無くて、熱湯しかない。混ぜれば熱くなるけど、お茶は薄まる……これで分かった?」

「なるほど、分かった!」

 

 

 合点がいったと手を叩くメリーを見て、「あんた、頭は良いのにほんとに変な所ではぽややんと……」蓮子は苦笑し……次いで、霊夢へと視線を戻した。

 

 

「それじゃあ、他の選択肢は?」

「後は、この地に御座す神々の力を受け取るというのがあるけど……この辺りには神社がないわ」

「あら、それなら好都合だわ。あなたの言う通りこの辺りにはないけど、ちょっと北に上がればやたらと神社があるわよ」

「え?」

「ここは京都よ。まあ、京都といっても端っこだけどね」

 

 

 驚きに目を見開く霊夢の姿に、蓮子はからからと笑った。「良かった、これで一安心だね」それを見て、メリーも胸を撫で下ろして安堵のため息を零していた。

 

 

「さあ、他にないなら、とりあえず今日はもう寝なよ。お腹空いているならおにぎりぐらいは作っておくからさ……明日、有名所の神社に連れて行ってあげるから」

 

 

 その言葉に、霊夢は目を瞬かせた。

 

 

「……何で、そこまでしてくれるの?」

「何でって、面白そうだから。それに、分かっていて流浪の身にさせるのは気が引けるから」

「あんた、家の物を盗まれる事とか考えたりはしないの?」

「ああ、それは大丈夫よ。私、人を見る目には自信があるから。あんたが盗んで逃げたなら、そりゃあ見抜けなかった私が間抜けなだけよ」

 

 

 えぇ……堪らず、霊夢は頬を引き攣らせた。「言っておくけど、誰でもってわけじゃないわよ」ソレを見て、蓮子は苦笑を零した。

 

 

「博愛主義じゃないけど、迷える子羊を救ってやるのも一興でしょ。それに、空飛べる巫女さんだなんて一生に一度逢えたら良いぐらいの奇跡だろうし」

 

 

 この奇跡をもう少し楽しみたいから、これは決定事項よ。そう言葉を続けた蓮子に……霊夢は、唖然とする他なかった。

 

 

「──蓮子ってそっちに信仰なんてあったの? 私はてっきり無宗教かと思っていたけど、それなら今度十字架でも持ってこようか?」

「私は神様を信じているけど、宗教は信じていないだけよ。ていうかその煎餅、戸棚の奥に隠していたやつじゃなくて?」

「え、隠していたの? てっきり湿気に当たらないように奥に入れているモノだとばっかり……」

 

 

 そうして、そんな霊夢を尻目に、いつの間にか何処からともなく用意した煎餅を片手に話に混じるメリーと、その煎餅をするりと半分奪い返す蓮子……の、二人を見た霊夢は。

 

 

「……お人好しなやつ」

 

 

 ただ、そう呟くことしか出来なかった。

 

 

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