Serial experiments □□□  ー東方偏在無ー   作:葛城

15 / 17
彼女はそこにいた。おそらく、幻想郷が出来る前から、妖怪が生まれる前から、人が己を人として認識したその時から、彼女はそこにいた。肉体を持たなくとも、器を持たなくとも、自我を持たなくとも、彼女という存在は人が人として存在したその時点から、そこにあった。

霊夢はそこにいた。けれども、彼女はずっと後に現れた。幻想郷が出来て幾百年の後、妖怪が生まれてから数万年の後、人が己を人として認識してから数百万年後に、彼女は現れた。肉体を持ち、器を持ち、自我を持ち、他者から霊夢と呼ばれた彼女は、己を霊夢と認識した。


それは、人々の無意識が選んだ結果なのか、それとも、もっと巨大な……彼女ですら認識できない大いなる存在の意思なのか、それは誰にも分からない


だが、答えは得た。故に、霊夢は前へと進む


lainの章:その2

 

 

 ──妻と先に少し話すから、君はまず中へ。

 

 

 

 

 その言葉と共に家の中へと入った霊夢は、ぐるりと周囲を見回す。

 

 造形などへの関心の薄い霊夢が、まず抱いた印象は、以前の……あの時に見た光景とは少しばかり違うという、曖昧ではあるが正直な感想であった。

 

 まあ、考えてみればそれは当たり前だろう。全体的に見れば同じでも、あれは、言うなれば……存在しているのかしていないのかよく分からない世界での事。

 

 対してこっちは、実際に人間が……それも、二人の人間が生活している場所だ。照明の明るさというか、浸みついている臭いというか……雰囲気が、明らかに異なっている。

 

 

 いわゆる、生活圏……いや、生活感というやつだろうか。

 

 

 この家には、命が息づいている。かつて、霊夢が訪れたあの時との違いは、ソレだろう。同じ光景でも、こうまで印象が変わるのかと、霊夢は内心にて感心していた……と。

 

 ふと……霊夢の視線が……チラチラとこちらを睨みつける女(おそらく、康男の妻だろう)とかみ合う。先ほどの康男とは違い、その視線には……明らかな敵意が漏れ出ていた。

 

 

 ……名前は知らないが、彼女が怒るのも無理はないし、不審を抱くのも無理はないと霊夢は思った。

 

 

 客観的に見れば、霊夢というのは二人の世界に入って来た異物だ。それも、ただの異物ではない。妻である女の視点から見れば、自分たちの平穏を壊しかねない異物だ。

 

 自分(妻)は全く身に覚えがないのに、夫(康男)は心当たりがある異物。そのうえ、その異物が年若い女で、明らかに一般人ではなさそうな風貌(しかも、美少女)ともなれば……思う所が無い方が、不自然だろう。

 

 

 ……まあ、年若いどころか10代前半の未成年なところが、逆に気になるのだろうが……まあ、いちいち説明する必要はない。

 

 

(……何でかしらね、あんたは蚊帳の外というか、場違いというか……まあ、どうでもいいか)

 

 

 何故なら、霊夢の『勘』が訴えている。彼女は……康男の妻は、無関係だ。『岩倉玲音』との関係は有ったのだろうが、康男に比べて酷く希薄だ。

 

 おそらく……『岩倉玲音』は、彼女とは仲が良くなかったのだろう。そう、霊夢は思った。あるいは、彼女が関心を持っていなかったか……まあ、そこもいい。

 

 

「──何時までもそんな場所で立たせて、申し訳ない。とりあえず、私の書斎に行こう」

 

 

 遠目にも納得いかないと顔に書いてある妻の……敵意丸出しの視線に気づいた康男が、気を利かせてそんな事を告げた。

 

 霊夢自身としては、場所は何処でもいい。しかし、立ちっぱなしも疲れるので、その提案に頷いて玄関から上がる。

 

 

「──ちょっと、まだ私は納得していませんよ!」

「君に納得して貰う必要はない。彼女は、僕にとってとても重要なお客様だ」

「──わ、私は貴方の妻よ! せめて、私を納得させてからが筋ってものでしょう……!」

「夫婦といえど、プライバシーはある。今更、それを僕に説明させるのかい?」

「わ、私はそんなことを言っているんじゃなくて……」

 

 

 途端、不満タラタラの妻が声を荒げた。けれども、直後に告げられた康男の言葉に怯んだのか、明らかに声が小さくなった……どうやら、男女間のパワーバランスは康男の方が上のようだ。

 

 

 ──書斎は、廊下の突き当たりだ。

 

 

 サラッと告げられた康男の指示に従って廊下を進み、書斎部屋と思わしき扉を開ける。広さにして10畳~12畳ぐらいのその部屋は、想像していた通りの内装をしている。

 

 部屋の半分を占める本棚(棚には、書籍がぎゅうぎゅうに詰まっている)と、ソファーとテーブル。テレビは無く、調べ物用と思わしき装置(そう、霊夢には見えた)には、布のカバーが被せられていた。

 

 

(……どうしてかしら、少し懐かしい気がする)

 

 

 全く身に覚えのない光景なのに、どうしてか、霊夢は心の奥が少しばかりざわつくのを感じた。それが霊夢自身から来るものなのか、それとも『岩倉玲音』の影響なのかは、分からないけれども。

 

 

 ……パッと見回した限り、この書斎は康男のプライベートルームみたいなものなのだろう。

 

 

 見える範囲に、女っ気がまるで無い。女っ気とは何かという話になるが、そうとしか霊夢には言えない。強いて、霊夢がそう判断したのは……臭い、だろうか。

 

 この部屋には、女の臭いがしない。それが、答えだろう。

 

 女として生まれ、女として育てられ、物心がついてから10年近く。何というべきか、霊夢の身の回りに居た者たちから感じ取れていた、そういったモノがこの部屋からは全く感じ取れなかった。

 

 

 

 ……言っておくが、不愉快というわけではない。

 

 ただ、不思議な事に……そう、不思議な事に、『どこか落ち着かない』という感覚を、霊夢は覚えていた。

 

 恐怖、ではない。緊張、でもない。ただ、落ち着かない。どうにも、腰が浮ついてしまいそうになる。

 

 それはまるで、幼少の頃より暮らしていた紫の住処である『迷い家(マヨヒガ:伝承にある迷い家とは別)』から離れ、博麗神社にて暮らすようになってすぐの頃のような……ん? 

 

 

(……アレは?)

 

 

 霊夢の視線が、本棚の……一番真新しい本棚の最上段に収められている……ひと際分厚い本に留まる。タイトルが英語で書かれている洋書だが……どうにも、気になる。

 

 とはいえ……有ったところで、霊夢は英語が読めない。

 

 何せ、幻想郷では漢字(漢文)と日本語が主流だ。英語(それ以外の外国語も含めて)は、魔法に携わるごく一部の者と、河童などの外界より流れ着く者を取り扱う者ぐらいしか使わないからだ。

 

 なので、霊夢にとって、洋書などは子供の落書きでしかない。でも、その落書き同然の書物が……どうにも、気になって仕方がない。

 

 

(…………ふむ)

 

 

 康男の背の高さからすれば余裕で届く(康男の書斎なのだから、当然だろう)高さだが、霊夢の背丈では無理だ。脚立などがあればそれを使うが、当然、そんなものは置いていないだろう。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………隠した所で意味もなさそうだし……まあ、いいだろう。

 

 

 時間にして5秒程考えてから結論を出した霊夢の身体が、ふわりと大地を離れる。久しぶりに感じる重力から解き放たれるこの感覚にしばし身体を馴染ませながら……さて、と目当ての本を抜き出した。

 

 ……が、予想以上に重い。それを、霊夢は埃一つないテーブルへと置いた。

 

 改めてみれば思っていた以上に分厚く、表紙を開いてみても……やはり、一文字も解読できそうにない。というか、これが英語なのかどうかすら、霊夢には分からなかった。

 

 

「──お待たせした」

 

 

 でも、戻すのはどうも……と考えていると、康男が部屋に入って来た。振り返れば、康男は両手でトレーを持っており……その上には、ポットとカップと……洋菓子が乗せられた皿などの一式が置かれていた。

 

 

「……それは?」

「長丁場になるかもと思ってね。どうにも機嫌を損ねた妻は軽食を作ってくれなさそうだ。申し訳ない、腹の足しにもならないとは思うけれども……」

「とんでもない、茶菓子どころかお茶を出してくれるだけでも嬉しい限りよ」

「そういって貰えると、有り難い……ああ、いいよ。君は座っていて、こういったもてなしをするのは、僕の趣味でもあるから」

 

 

 手伝おうとした霊夢を手で制した康男は、トレーをテーブルの空いたスペースに置くと……実に手慣れた様子でカップを並べ、そこにお茶を……あまり嗅ぎなれない匂いを放つソレに、霊夢は目を瞬かせた。

 

 

「それって紅茶? それにしては、何だか私が知っているソレとは匂いが違うわね」

「僕もあまり詳しくは知らないんだが、良い紅茶だと思うよ。それなりの値段をしたからね」

「ふーん、ご丁寧にお高いお茶を……その茶菓子は? ずいぶんと変な形をしているのね」

「おや、マドレーヌを知らないのかい? 名前は知らなくても、一度は食べたり見た事はあるだろう?」

「あいにく、私が住んでいた所は異文化には疎いの。茶菓子はもっぱら煎餅か団子で、時たま羊羹か……ああ、前に一回だけ『かすていら』を食べたぐらいかしら」

「なるほど……古風な暮らしをしていたんだね」

 

 

 雑談を交えながらも、テキパキとお茶をカップに注ぎ、テーブルを挟んだ霊夢の前に並べてゆく。ものの5分としない内に準備を終えた康男は、どかりとソファーに腰を下ろした。

 

 それを見て、改めて霊夢もソファーに腰を下ろす。ソファーの大きさと数の関係(ソファーは一つしかないので)から、必然的に霊夢と康男は、同じソファーに……つまり、並んで座る形になった。

 

 

 ……少しばかり、心が浮つく。けれども、嫌な感じはしない。

 

 

 視線を向ければ、見下ろす康男の視線が交差する。どう言い表せば良いのかは霊夢自身にも分からなかったが、不快感を催す類の視線でないのは明らかだった。

 

 

「娘が居たら──」

「え?」

「もし、僕たちに娘がいたら……君ぐらいの、あるいはもう少し年上の娘が、こうして一緒に座っていたかもしれないな……」

 

 

 何となくタイミングを見失って視線を外さないままでいると、ポツリ、と。まるで何かを思い出すかのように目を細めた康男が、そんな事を呟いた。

 

 

 ……仮に、だ。

 

 

 霊夢の視線が、改めて康男の全身を上下する。寝間着……というよりは、部屋着だろう。年齢相応(または、見た目相応?)に皺が見られる顔立ちは、世辞を抜きにしても……おじさんと呼ばれる部類の人物だろう。

 

 康男のような風貌の男は、幻想郷にもそれなりに居た。さすがに日常的に肉体労働の多い幻想郷の者たちよりも小柄な体格ではあるが、雰囲気は似ている。

 

 

 けれども……不思議と、違うと霊夢は思った。

 

 

 何がどう違うのかは、当の霊夢にも分からない。だが、訴えている。霊夢の中にあるナニカが……『勘』が……この男だけは、他とは異なる特別な存在であると……訴えているような気がしてならなかった。

 

 

 ……物怖じした事は一度としてない。だが、どうにもこの男の前では……完全な平静でいられる自信が霊夢には無かった。

 

 

 それが、あまりに不可解であり、霊夢にとっては理解の及ばない事であった。もしかしたら、父を前にした娘とは、このような感情を覚えるのだろうか……それも、分からない。

 

 

 ……でも、嫌ではない。そう、嫌では、けしてないのだ。

 

 

 少しばかりの気恥ずかしさを覚えた霊夢は、自然と視線を動かせば、隣の康男から眼前の茶菓子一式へと向けられる。

 

 せっかくの厚意だものと判断した霊夢は、とりあえず喋りを良くする為にもカップに手を伸ばし──へえ、と内心にて感心した。

 

 お茶(主に、緑茶)にはうるさいが、紅茶には対してはそこまで興味を持っていなかった霊夢でも、一口で上等だと分かる味わいと香りと、後味の良さであったからだ。

 

 

 ……何時も飲んでいる緑茶とは根本的に味わいが異なるが、これも悪くはない。

 

 

 正直、機会が有ればまた飲みたいなと内心にて紅茶を褒め称えつつ……隣のマドレーヌを、フォークで一口。途端、慣れないながらも甘美としか思えない味わいに、霊夢は堪らず頬を緩めた。

 

 

「……お気に召して、くれたかい?」

「ええ、とっても。外の世界には、こんなにおいしい御菓子があるのね」

 

 

 あまりに美味しくて、気付けば皿は空になっていた。

 

 それを見た康男が気を利かせて「僕のも、食べるかい?」と促されたので、霊夢は頷いて康男の分のマドレーヌにもフォークを突き刺した。

 

 けれども、今度はもう少しゆっくり食べる。紅茶を挟みながら食べれば、互いの味わいがより深まる事に気付いたからで……その顔は、実に幸せそうであった。

 

 康男も、あくまで霊夢が遠慮しないようにと自分の分を用意しただけなのだろう。美味しそうに頬を緩ませている霊夢を見て微笑むだけで、ゆっくりと紅茶を啜っていた。

 

 ……そうして、霊夢が二人分のマドレーヌを平らげた後。

 

 

「そういえば……自己紹介をしていなかったね」

 

 

 ふと、思いだしたように康男は言葉を零した。そういえばそうだったと、霊夢も今更ながらに名乗っていなかった事に気付いた。

 

 

「既にご存じの通り、僕の名は岩倉康男(いわくら・やすお)だ。君の名は、何と言うんだい?」

「博麗霊夢。他の人達からは霊夢とか巫女様とか呼ばれているけど、とりあえずは霊夢と呼んでくれればいいわよ」

「はくれい、れいむ……ふむ」

 

 

 康男は何度か噛み締めるように霊夢の名を呟きながら、テーブルに取り付けられた小さな引き出しより取り出したメモ帳とペンを、「──どんな字なんだい?」霊夢の前に置いた。

 

 促されるがまま書き記せば、「……珍しい名字だし、古風な名前だね」そんな感想を返された。霊夢からすれば、大して珍しくもない名前でしかないが……まあ、そこはいい。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………それが、ある種のキッカケになったのだろう。

 

 

 気付けば、霊夢は……ポツポツと、それでいて一つずつ……康男へ、己が知っている全てと、辿ってきたこれまでの日々を語り始めた。

 

 自分が暮らしていた幻想郷の事。そこで暮らす人間と妖怪たちの事。この世界と幻想郷を隔てる壁の事。何もかも、得て来た情報の全てを。

 

 そして、『岩倉玲音』の存在によって異変が起こり、幻想郷から弾き出されてしまい、この世界に住まう親切な二人の女性に助けられた事まで。

 

 それは、事情を知らない第三者からすれば、荒唐無稽もいいところな内容だったことだろう。

 

 少なくとも、霊夢がこの世界の人間であったならば、失笑して無かった事にするぐらいの話だ。霊夢もそれが分かっているからこそ、全てを信じて貰おうなどとは考えていなかった。

 

 

 何せ、説明の初っ端が幻想郷に関してだ。

 

 

 この世界では存在を保てない妖怪たちが暮らす、隠された世界。そこでは人間と妖怪とがある種の共存関係を構築しており、そこでは、この世界から拒絶されたり忘れられた存在が暮らしている。

 

 吸血鬼に人狼、一つ目小僧に天狗に鬼、魔法使い。(元)月の住人に、地底に住まう土蜘蛛に、河童に唐傘お化け、毘沙門天の代理。現人神に、本物の神様。

 

 霊夢のような『程度の能力』を持っている者もいれば、特殊な力を持たない人も大勢いる。かと思えば、首を落とされようが全身を焼かれようが復活する不老不死までいる。

 

 

 そんな話をいきなり信じろという方が、無茶というものだろう。

 

 だが、しかし……康男は、霊夢が想像していたような反応をしなかった。

 

 

 不思議そうな顔をしたり、驚いたような表情を浮かべたりはするものの、けして……霊夢が嘘を付いているといったような、疑いの眼差しは向けなかったのだ。

 

 いや、それどころか、霊夢の言葉は全て事実であると確信しているかのような素振りさえ見られた。

 

 

 分かりやすく話を纏めて伝えるという慣れない作業に四苦八苦する霊夢を手助けするかのように質問を入れ、あるいは、思考の整理を手助けするような言葉を掛けて……等々など。

 

 元々、霊夢は回りくどい言い回しはしない(ただし、皮肉の掛け合いはする)主義である。

 

 夜が明けるまで……は、言い過ぎだが、相応に時間が掛かると思っていたのだが、康男のアシストもあってか、霊夢が語れるだいたいの部分を終えるまで、それほど時間は掛からなかった。

 

 ただ……時間が掛からなかったとしても、それに比例して理解が早まり答えが出るかと言えば、そうではない。

 

 霊夢が知りたいのは、此処から先……『岩倉玲音』へと繋がっている道筋だ。目的云々以前に、そもそも、そこすらまだ分かっていないのだ。

 

 現状、霊夢が此処を訪れた理由は、そうすれば『岩倉玲音の下に辿り着ける』と、『勘』が訴えていたからだ。然るべき場所に、然るべき手順を踏まえて、然るべき時に向かえば良いと、直感が訴えたからだ。

 

 言うなれば『勘』に従っただけで、霊夢自身は未だに分かっていない部分が多過ぎる。

 

 だからこそ、霊夢は一切を隠さずに全てを話した。話せる限りの部分を、分かっていない部分も含めて全て、話した。それで、現状の停滞を切り崩せると思っていたからだ。

 

 

「……では君は、僕との対話で『岩倉玲音』との道が開けるようになると、その超常染みた的中率の直感で判断し、ここへ来た……と?」

「そういうこと……で、感想は?」

「ふむ、率直な意見を言わせて貰うと……」

 

 

 だが、しかし。

 

 

 しばしの沈黙の後、すっかり温くなった紅茶を一口啜って唇を湿らせた康男は……居住まいを正してから、では、と一言で告げた。

 

 

「はっきり言えば、期待に沿えそうにない。君がとても重大な問題に直面しているのは分かったが……その問題に、僕はどのように力を貸せば良いのかが全く分からない」

「まあ、そうでしょうね。尋ねてきた私自身、ただ貴方に話しただけで全部上手く行くなんて思ってないもの」

「……でも、間違っているとも思っていないのだろう?」

「そう、間違っていない。私の『勘』は、これが正解だって訴えている。だから、これで正しい……はずだと、思う」

 

 

 こうして話し終えた後……そこから先は、霊夢にとっても全くの未知であった。

 

 何せ、実際に体験してきた霊夢ですら、思い返せば何が何やら分からないままにここまで来たという感想しか出てこないのだ。

 

 それを、たった今事情を聞いた第三者の康男が、いきなり解決の糸口を導き出せというのは……暴論を通り越して、無茶苦茶な話でしかなかった。

 

 しかも、康男は幻想郷とは全くの無縁の一般人。そのうえ、霊夢とは初対面であり、顔を合わせるどころか、その存在を認識してから半日と経っていない。

 

 いくら何でも、それでいきなり正解を導き出せというのは無茶というか……うん、無茶苦茶な話だろう。

 

 故に、康男の言い分も……さもありなん、と霊夢も全面的に納得するしかなかった。というか、さすがの霊夢ですら、それ以外に思う方が無理な話であった。

 

 

「──ところで、ずいぶんと難しい本を取り出したね。中身も文章も小難しいやつだし翻訳もされていないやつだけど、読めるのかい?」

 

 

 とりあえず、一旦仕切り直しにしよう……その為にも軽い雑談……といった様子で、しばし訪れていた沈黙を破って、康男が話を切り出した。

 

 もちろん、それが分からない霊夢ではない。というか、霊夢も、沈黙がこのまま続くのが少しばかり嫌だったので、話に乗った。

 

 ……他人はそれを、『暢気』とも『楽観的』と呼ぶのだろうが、まあいい。

 

 くぴっ、と紅茶を一口、二口。それで気持ちを切り替えた霊夢は、「読めないわ、こんなの」思った事をそのままに返事をした。

 

 

「私の『勘』がこれを取り出せって囁いたのよ。だから、これが何なのかは私には分からないわ……随分と本がいっぱい置いてあるけど、学者か何かなの?」

「いや、違うよ。あそこに有る本は全て、僕の趣味みたいなものさ。そういった専門書は半分ぐらいで、もう半分は推理小説の……専門家と比べたら、取るに足らない井の中の蛙みたいなものだよ」

「ふーん、ずいぶんと勉強熱心なのね」

「只のモノ好きなだけだよ。一時期、そういった本にハマっていたんだ」

 

 

 その言葉と共に、康男は大きく深呼吸をした後。「……君だけに教えておこう」フッと、視線を遠くした。

 

 

「何時の頃からかは分からないが、僕はある時から、不思議な夢を見るようになった」

「……夢?」

 

 

 首を傾げる霊夢を尻目に、そうだよと康男ははっきりと頷き……その視線が、テーブルの上の皿だけになったそれらへと向けられる。

 

 

「夢の中の僕は椅子に腰かけ、テーブルに肘をついている。テーブルの上には紅茶の入ったポットとカップと、美味しいマドレーヌが置かれている……そう、今みたいに」

「……それで?」

「僕はそこで、女の子を待っていた。どうして待っているのかは分からないし、どうして女の子なのかも分からなかった。けれども、僕はその子が来るのをずっと待っていた。紅茶が冷め、夢から覚めるその時まで、ずっと……」

「…………」

「何度も何度も、僕は同じ夢を見た。稀に、気配を感じる時はあった。視線らしきモノを感じることだって、あった。でも、その子は一度として僕の前に姿を見せず、何時も冷めてゆく紅茶を見つめる他なかった」

「もしかして、それが?」

「いや、それは分からない。おそらくそうだろうとは思うけど、何せ、名前はおろか姿すら見た事がない。君から名前を聞いた時に、きっとそうなのだろうと……確信めいたナニカを感じたけど、確証は無いんだ」

 

 

 その言葉と共に、康男の視線がテーブルから……霊夢へと向けられる。

 

 

「もしかしたら……僕は今日、何時もとは違う何かが起こることを予感していたのかもしれない」

「どうしてそう思うの?」

「このマドレーヌも、紅茶も、今日の仕事終わりに……急に、今夜にでも必要になると思って買ったからさ」

「……え?」

 

 

 目を瞬かせる霊夢を見て、「ね、不思議だろう?」康男は心底おかしそうに笑みを零した。

 

 

「何故かは分からないけれども、必要になると思ったんだ。今日の夜、絶対に必要になると。そのうえ、どうしてかそれが自分の為になると確信を持っていたんだ」

「……まさか、貴方も私と似たような直感でも?」

「あははは、そんなの無いよ。生まれてこの方、宝くじに当たった事もないし、ビンゴゲームでは何時も下から数えた方が早いくらいさ」

 

 

 おかげで、君の顔を見た瞬間に運命という言葉の実在を信じる気持ちになったと、康男は言葉を続け──不意に、寂しそうに視線を逸らした

 

 

「だから、あの子の名前が分かった時は嬉しかった。僕が夢の中で待ち続けているあの子の名が、玲音という名だということが分かって……嬉しかった」

「…………」

「何度も言うが、確証は無いよ。でもね、不思議とそれが真実だって僕には分かるんだ。あの女の子の名は、玲音。そして、僕が夢の中で待ち続けているのは……君が見つけ出そうとしている、『岩倉玲音』だということを、ね」

 

 

 そう告げた康男の顔は……どこか、寂しそうだった。

 

 そして、どうしてか……その寂しそうな顔を見て、霊夢が抱いた感情は……罪悪感だった。

 

 

(……おかしい)

 

 

 やはり、どうにも変だ。初対面であるこの男の傍に居ると、どうにも気分が落ち着かなくなる。悲しくもないのに、気持ちが高ぶりそうになる。

 

 

 ──もしかしたら私は今、『岩倉玲音』の影響というか、干渉を知らず知らずの内に受けてしまっているのだろうか? 

 

 

「……ちなみに、これって、どんな本なの?」

 

 

 とりあえず、このまま黙っているとますます気分が変になりそうだ。

 

 そう判断した霊夢は、気持ちを切り替えるのも兼ねて、手元に有るその本について尋ねてみた。

 

 

「ふむ……詳しく説明すると長くなるけど、大雑把に言うなら、これは『記憶』に関する論文……というよりは、著者の見解が記された洋書だよ」

「……記憶?」

 

 

 早速出てきた聞き捨てならない単語に、霊夢の目じりがピクリと動く。

 

 けれども、康男は気付いた様子もなく霊夢の手から本を受け取り、「諸説ある内の、一つだよ」彼なりに噛み砕いた、その洋書の中身を語り始め──。

 

 

 

 

 

「……まさか」

 

 

 

 

 

 ──ようとして、不意に。ページを捲っていた康男の手が、止まった。

 

 

 当然、『勘』は鋭くとも心など読めるわけもない霊夢には、康男の内心など分からない。「なに、何か分かったの?」故に、霊夢は率直に理由を尋ねた。

 

 

 けれども、康男はすぐには答えなかった。

 

 どうして答えないのか、霊夢には分からなかった。

 

 

 だが、康男が何か……そう、重大なナニカに気付いたということだけは、霊夢にも分かった。そして、それは己に関する事……という事も、霊夢には分かっていた。

 

 何故なら、恐る恐るといった様子で向けられた康男の視線が……明らかに、先ほどとは異なっていたからだ。

 

 

 それは、困惑であり、憐憫でもあった。

 

 

 そして、怒り……何に対して怒れば良いのかが分からないといった感じの、沸々と中途半端に沸き立っているかのような……直後。

 

 

 

 

 

 ──まさか、これが答えなのか? 

 

 

 

 

 

 絞り出すかのように、康男はそんな事を呟いた。当然、聞き捨てならないその言葉に霊夢は反応するが……それを尋ねる事が出来なかった。

 

 それをするには……あまりに康男の態度というか、先ほどまでと雰囲気が異なるというか……とにかく、霊夢の胆力を持ってしても判断に迷うぐらいに、康男の反応がおかしくなったのであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そのまま、どれぐらいの間、沈黙が続いたのか……正直、霊夢の感覚としては小一時間ぐらい続いたような気がする。

 

 

 

 その間、康男は……非常に、迷っているように霊夢には見えた。

 

 

 己が気付いた事を伝えるべきか、否か。

 

 

 どちらを選ぶのが正しいのか。それを伝える事で、霊夢がどう思うのか……その迷いが、康男の唇を閉ざしているのは、霊夢にも分かっていた。

 

 

「──教えて、何に気付いたの?」

 

 

 だからこそ、知りたいと訴えた。

 

 

 それが、己が傷つく結果になろうとも。

 

 それが、知らない方が良かった事だとしても。

 

 

 それでも、霊夢は知りたいと思った。知らなければならいことだと思ったからこそ、霊夢は……気付いたことを教えてほしいと、康男に言った。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、少しの間を置いた後。

 

 

「……これはあくまで仮説で、真実とは限らない。それでもなお、聞きたいのかい?」

「聞きたい。ううん、多分、貴方からじゃないと駄目だと思う」

「僕は専門家でもない、ただの会社員だ。『岩倉玲音』に関係しているとしても、僕自身には何の力もない……その僕の、仮説でも?」

 

 

 その言葉を前に、まっすぐ、霊夢は康男の瞳を見上げる。そこに、迷いはなかった。

 

 何故かは、分からない。でも、分かる。どうしてか、分かる。彼(康男)の言葉であるならば、辛くとも自分は受け入れられる……と。

 

 

(──ああ、だから)

 

 

 故に、霊夢は気付いた。どうして『勘』がここへ導いたのかを。

 

 理由は分からなくとも、前に進む為に必要な相手が彼であるからこそ、『勘』が霊夢をここに導いたのだと……霊夢は気付いたのであった。

 

 だからこそ……チラリと、康男の視線が霊夢から外れ、手元にあった本(先ほど、霊夢が手渡した本だ)に向けられて……すぐ。

 

 

「……記憶とは何か、君は考えた事はあるかい?」

 

 

 霊夢は、特に面食らったりはしなかった。何でいきなりそんな事を……とも思ったが、そのまま話に乗る。

 

 康男なりに、少しでも霊夢が受け入れやすいようにと言葉を選んでいる途中なのだということが、分かっているからだ。

 

 

「哲学とか、そういうのは一度として考えた事はないわね」

「……まあ、見方を変えればそのようにも取れるだろうね……で、ここに記されている『記憶』の正体。著者はそれを、脳が受けた刺激に過ぎないと結論付けている」

「……刺激?」

「つまり、人間が『記憶』だと思っているモノは所詮、脳に起こったシステムの変化でしかなく、人が思っているよりもずっと記憶というやつは不確かなモノってことだよ」

「……ごめんなさい、まるで意味が分からない」

 

 

 そういった事を考えた事がない霊夢には、難し過ぎた。

 

 視線で説明を促せば、康男は顎に手を当てて考え込み……次いで、霊夢でも分かるように選んだ言葉で説明を始めた。

 

 

「例えば、『性格』というやつは、突き詰めて考えればその正体は何だと思う?」

「性格って、あの性格? その正体って……考えたことすらないわね」

「この著者は、性格の正体を『蓄積された記憶』だとしている。つまり、性格というのは結局の所、積み重なった脳への刺激が形作ったものだということだね」

「いや、性根の違いってあるでしょ」

「それも、結局は脳が受け取る刺激に対する反応の、個体差でしかない。それを性根と呼ぶのだけれども、全ての人は、外界からの刺激によって性格を……自我ってやつを形成するってことだよ」

「……何だか味気ないというか、それってずいぶんと絡繰り染みた考え方ね」

「僕もそう思う。でも、この著者の面白い点はね……ならば、『記憶』というモノを遡り続ければ何処へ到達するか……それについても考えているという所だよ」

 

 

 その言葉と共に、康男は再び本を開く。パラパラと捲られたページが止まり、中を向けられたので身を寄せて見やれば……そこには、様々な生き物の絵が記されていた。

 

 そこに、類似性は見られない。少なくとも、霊夢が見た限りでは。

 

 猫のようにびっしりと毛が生えているやつもいれば、魚のように滑らかな表皮を持っているやつもいる。中には、霊夢が知る生き物どれにも該当しない、不思議な姿をしたやつもいた。

 

 

 ──これらの生き物には、一見すると共通点は無い。

 

 ──でも、一つだけ絶対的な共通点があると、本に記されている。

 

 ──それが何か、君には分かるかい? 

 

 

 そう康男より尋ねられた霊夢は、しばしの間、本を睨む。けれども、そういった知識はおろか、考えた事すらない霊夢に正解を見付けろというのも……無理な話であった。

 

 

「答えは……『集合的無意識』だよ」

 

 

 なので、さっさと諦めた霊夢に返された答えが、ソレであった。

 

 

 ──ここで、その言葉が? 

 

 

 霊夢の脳裏を過ったのは、蓮子の事。あくまで仮説の段階ではあったが、蓮子は『岩倉玲音』の正体を『集合的無意識』だとしていたが……。

 

 

「……納得がいかないって顔をしているね」

「そういうわけじゃないけど……」

 

 

 当然、そんな答えに納得がいかない霊夢ではあったが、「──なら、考えてみてほしい」続けられた言葉に、霊夢は……目を瞬かせた。

 

 

「そうだね、例えば、本能って具体的に何だと思う?」

「そんなの、ご飯食べたり便所に行ったり、子供産んだり育てたり、そういうやつでしょ。生まれながらに出来るようになっているってやつ、前に紫から教えてもらったわ」

 

 

 それを聞いて、康男は一つ頷いた後。

 

 

「それじゃあ……その生まれながらに出来るって、どうしてだと思う?」

 

 

 そう、尋ねてきた。正直、霊夢は何を問われているのかさっぱり分からなかったが……とりあえず、思った事をそのまま口に出した。

 

 

「え、いや、どうしてって、それをしないと死んでしまうから……」

「どうして、死んでしまうんだい?」

「そりゃあ、ご飯食べないと飢えて死ぬからでしょ」

「そう、飢えて死ぬ。どんな生き物も、外部より生命を維持する為の物質を取り入れないと、死ぬ。取り入れる物質に違いはあるにせよ、そこはどんな生き物も変わらない」

「……何が言いたいの?」

「言い換えれば、どんな生き物も『死』を理解しているからこそ、『死』を避けようとする。誰に教えられたわけでもなく、どれだけ原始的な生き物でも、どれだけ複雑な生き物でも、まるで申し合わせたかのように生存への行動を取る……それは、何故だい?」

「……さあ、私には分からない」

「この著書には、記されている。それこそが『集合的無意識』であり、人が本能と称するそれらは全て、『集合的無意識』によってもたらされた記憶であり……全ての生き物は、この無意識という名の海によって繋がっている、とね」

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………言っている意味がよく分からない。それが、霊夢の正直な感想であった。

 

 

 

 何となく……何となくではあるが、『岩倉玲音』について話しているのかと思ったが、どうも……そうではなさそうな気がしてならない。

 

 

 ──では、いったい何を伝えようとしているのだろうか。

 

 

 そんな想いを込めて見やれば、康男は無言のままに持っていた本を手渡して来た。「その本を、元の場所に戻してくれ」受け取った直後、いきなり指示をされた……が、とりあえずは言われるがまま本を元の場所に戻す。

 

 

 

 

「──それだよ。僕が君の話を聞いて、腑に落ちなかったのは」

 

 

 

 

 途端、またもや脈絡もなく、いきなり康男が言い出した。「な、何よいきなり……」いよいよ意図が読めずに困惑する霊夢を尻目に、康男は……空を飛んで目線を棚の位置に合わせている霊夢を、指差した。

 

 

「君が暮らしていた幻想郷とやらは、僕たちが暮らすこの世界の迷信……文明の発達によって超常的な存在や現象が否定され、存在そのものが危ぶまれたからこそ、生まれた場所なのだろう?」

「え、あ、うん、そうだけど……」

「幻想郷に生きる者たちは、この世界から否定された存在。『お化けなんてない、お化けなんて嘘』。それが人々の間に浸透していったが故に、必然的に結界を作り、その中に引き籠るしかなかった……そうだね?」

「そうだけど、何が聞きたいのよ」

「はっきり言えば、矛盾だよ。君たち……いや、正確には、幻想郷の在り方自体が非常に矛盾している。聞けば聞く程、考えれば考える程、不自然な点が目に留まるようになる」

 

 

 

 ……何だろう、本当に私は何を言われようとしているのだろうか。

 

 

 

 幾度となく自覚する困惑に、霊夢は首を傾げる。

 

 だが、何故だろうか……どうしてか、霊夢は震えている己も自覚する。カタカタと、何故か震える肩を押さえながら……緩やかに床に降り立てば、膝までも震えているのが分かった。

 

 

 ──いったい私は何に怯えて……怯えて? 

 

 

 どうして、怯えていると思ったのだろうか……いや、そもそも、何に対して怯えているのだろうか。これまでとは違う……そう、これまでとは異なる感覚に、霊夢は我知らずその場より一歩──。

 

 

「怖いのかい、霊夢」

 

 

 ──後ずさった、瞬間。

 

 掛けられた言葉、呼ばれた己の名前に、ハッと顔を上げる。見やれば、こちらを真剣な眼差しで見つめている康男と視線が交差し……唇を噛み締めた霊夢は、静かに首を横に振った。

 

 

 聞くな──と。

 

 霊夢の中にあるナニカが、訴えている。

 

 

 けれども、『勘』は違う。

 

 絶対に聞け──と。

 

 

 これから康男が語ろうとしている言葉を遮るなと、強く訴えてきている。

 

 その力強さときたら、これまでで最大……誇張抜きで、人生史上最大のモノであると断言出来るぐらいに強く……そのあまりの激しさに、霊夢は耳を塞ぐことすら出来なかった。

 

 

「……まずは、ね。僕が君の説明を聞いて最初に疑念を抱いたのは、妖怪たちを含めて、どうして力有る者たちが幻想郷という狭い場所に何時まで引き籠っているのかという点だった」

 

 

 そんな霊夢の異常を他所に、康男は話を……結論へと、突き進んでゆく。

 

 

 

「確かに、一度は必要に駆られて引き籠る事を選んだ。でも、ずっとではない。話を聞く限り、妖怪を始めとして人ならざる者たちの大半は、人々から認知され、その存在が確かな者であると思って貰わないとならない……ならば何故、それをしようとしない?」

 

「どうして、何時までも狭い箱庭の中に引きこもり続ける必要があるんだい? 様々な事情があるにせよ、幻想郷に住まう一部の者たちは幻想郷の外に出る事だって出来たのだろう? 何なら幻想が信じられている場所に移住することだって出来たはずだ」

 

「そりゃあ、一度は否定された。でも、全員じゃない。いや、むしろ、より高速に、より広大に、世界中へとリアルタイムで情報が行き来するようになった今、そういったミステリアスな話を信じやすい人との接触は、かつてよりもずっと容易くなった」

 

「それは──君が話してくれた『賢者たち』が、誰よりも把握しているはずだ。なのに、『賢者たち』は何もしていない。あくまで幻想郷を維持するのに留めるだけで、それ以上には手を出さないし、基本的に口出しすらしない」

 

「それって、おかしいだろう? 栄枯盛衰という言葉があるように、どんな事にも繁栄と衰退がある。一度は衰退した妖怪たちこそ、よほど骨身に浸みたその言葉……どうして、衰退するしかない状態のまま放置し続けたのだろうか」

 

「箱庭は、いずれ衰退する。閉ざされた世界は、いずれ滅び去る。人類の歴史が、それを証明している。それは、人間の何倍も生きている妖怪たちも……いや、外の広さを知る者たち程、如何に『幻想郷』という世界が狭く閉ざされた世界であるかを、理解していたはずだ」

 

「何せ、君の話を聞く限り、箱庭にはどんどん外から忘れ去られた存在が入り込んでくるのだろう? そうなれば、限られた箱庭はどんどん手狭になってゆき……いずれは限界に達し、不満となって溢れかえる……どうして、放置したままにするんだい?」

 

 

 

 ──重ねられる康男の言葉。

 

 

 かつての霊夢が聞けば確実に機嫌を損ねていたであろう。

 

 事情も内情も知らないやつが知った口で語るなと、怒鳴っていただろう。最後まで聞くこともせずにさっさとその場を後にしていただろう。

 

 

 しかし、今は……違う。康男の言葉に、不思議と……納得出来る部分もあると、霊夢は思った。

 

 考えた事すら無かったが、言われてみれば、そうだ。

 

 

 いちおう、幻想郷そのものへの拡張自体は以前より行われてはいた。だが、そんなのは入ってくる怪異や魑魅魍魎に比べたら、微々たる具合でしかない。

 

 実際、近年になって幻想郷に入って来た者たちはみな、大物と呼んでも差し支えないぐらいの実力者ばかり。それも、一癖も二癖も性格に難があるというか……我の強いやつばかり。

 

 しかも、だいたいが一勢力という形で複数が一気に来る。そんな存在たちが、他の勢力の傘下へ素直に入るかと問われれば、そんなわけもない。

 

 だいたいは騒動を起こし、それを異変認定して、力技で解決し、宴会を開いて水に流すのが一連の流れだが……その後、そういうやつらが取る行動は二つ。

 

 

 一つは、郷に入れば郷に従えの精神で人里に関わって暮らし(場合によっては、商売を始めたりもする)、自然の中でひっそりと暮らすというもの。

 

 

 これ自体は、大して問題ではない。負けた以上はやり方に合わせるという考え方をしているので、駄目だと言われれば人間を襲ったりもしない。

 

 

 問題になるのは、二つ目……移って来たその勢力が、自らの陣地という体で、あまり使われていない土地を自分たちの領土として確保してしまうという点だ。

 

 

 もちろん、交換条件という形で、賢者たちとの間で密約は交わされているとは思う。

 

 詳しくは霊夢も知らない(興味が薄かったので)が、有事の際に、人間に手を貸すという契約が一部の妖怪たちとの間で成されているという話は、耳にした覚えはある。

 

 なので、現時点ではまだ使われていない場所(人里からも遠く、言うなれば妖怪たちの領域)が有るから問題が表面化してはいないが……既に、その兆候は霊夢も感じ取っていた。

 

 

 ……紫は、その事に気付いて……気付いていたはずだ。

 

 

 幻想郷に対してあれだけ心血と情熱を注いできた賢者たちが……その中でも最も熱を入れていた『八雲紫』が、気付かないはずがない。

 

 いや、むしろ、真っ先に気付いていたはずだ。そのうえで、誰よりも早く対処に動いていたはず。少なくとも、只の人間である岩倉康男が思いつく程度の懸念など、とっくの昔に把握していた……はず。

 

 

(でも、そんな話は紫のやつからは一言も……)

 

 

 幻想郷の広さと博麗大結界は切り離せない関係上、そこらへんの話は絶対に霊夢にも話が出ているはず……なのに、その覚えが無いということは……分かっていて、放置されていた? 

 

 

 

「……それに、君の役割の一つでもある……『博麗大結界』か。それも、おかしい。どうして、内と外を隔てる壁という重要な代物の一部とはいえ、管理する者を……博麗の巫女、ただ一人に限定する必要がある? おまけに、幻想郷内の秩序を保つ役割まであるのだろう?」

 

「それだけ重要なら、たとえ力不足であったとしても予備となる巫女を相応な数だけ用意しておくはずだろう。仮に特殊な体質なり才能が必要だったとしても、いや、それなら尚更、少しでもリスクを分散する為に大勢の巫女を用意しなければならない」

 

「なのに、一人だけだ。博麗の巫女は、君だけだ。君が不慮の事態に陥れば途端に巫女が不在する状況となるのに、誰も万が一の事態に対する備えを用意しようとしない」

 

「幻想郷において、博麗の巫女は重要な存在と君は言った」

 

「君の話を聞く限り、君はとても大事に想われている。事実、負傷した君を生かす為に、様々な妖怪や人々が尽力してくれた。人々を安心させる為だけの飾りではないことを示した」

 

「だからこそ、不思議に思えてならない」

 

「それだけ大事に想われているのに、どうして博麗の巫女一人にだけ負担を強いたままにするのか……どうして、それを賢者たちが良しとしたのか……そこが、僕には分からない」

 

 

 

 その言葉に……我知らず、霊夢も同意していた。

 

 

 

 

「──こう考えれば、幾らかの辻褄が合う」

 

 

 

 

 そして、その言葉を言い放った直後。

 

 

 

 

 

 

「そもそも、幻想郷そのものが……摩訶不思議な存在が居て欲しいという人々の無意識が作り出した、実体のない箱庭なのではないか……ということだよ」

 

 

 

 

 

 続けられた康男の言葉に……かちり、と。霊夢は、己の中にあった巨大なナニカ……それを封じている錠前に、鍵が差しこまれる音を、聞いた。

 

 

「……それって、どういう意味よ」

 

 

 気付けば霊夢は尋ねていた。その声は、自分の声とは思えないぐらいに、震えていた。

 

 それを見て……康男は、一瞬ばかり霊夢から視線を逸らした。「……辛いだろう、ゆっくりと呼吸を整えなさい」けれども、すぐに思い直す。

 

 康男の大きな手が、霊夢の肩を抑える。反射的に、その手を掴む。

 

 その体温を感じながら、気を落ち着かせる為に何度も深呼吸をしてから……改めて、霊夢は康男を見上げた。

 

 

 

「……あんたは、誰?」

 

 

 

 ──瞬間、気付いた。雰囲気が、僅かばかり異なっていた。

 

 

 

「……分かるかい?」

「何となくだけど……」

 

 

 今しがたまで隣に居たはずの康男の……中身が違う。いや、これは中身というよりは……どう、言い表せればいいのだろうか。

 

 気付かなかった。全く、変化の予兆すら、気付けなかった。

 

 一瞬、玲音は岩倉玲音の関与を疑った。だが、そういった気配が全く感じなかったし、どうにも、これまでとは違うような……? 

 

 

「──かつて、この世界には『ワイヤード』と呼ばれる仮想世界が存在していた」

 

 

 突然の変化に状況を呑み込めないでいる霊夢を尻目に、康男(?)は……唐突に話を切り替えた。

 

 

  『ワイヤード』

 

 

 その言葉に関して、聞き覚えが霊夢にはあった。これまで、『岩倉玲音』と思われる存在と接触し、存在を認識した者たちはみな、その言葉を呟いていたからだ。

 

 言葉自体は、この世界にはある。蓮子が調べてくれた事であり、意味は『繋がる』、または、『繋がれたもの』……だっただろうか。

 

 

「しかし、仮想世界は所詮、仮想世界。名称そのものも、そこまで重要ではない。本来であれば、それは使い方さえ間違えなければ便利という域を越えない代物に過ぎなかった」

「……間違えたの?」

「間違えたというより、入口……いや、限りなく近しくも、けして交わることのない二つを繋いでしまったという方が、正しいのかもしれない」

 

 

 その言葉と共に、康男はため息を零し……その視線が、遠くを見るかのように焦点がぶれた。意識が、彼の……ここではない彼方へと向けられているのが、霊夢にも分かった。

 

 

「最初にソレを見つけ出したのは、本当に偶然だったらしい。空間、海底、ワイヤード、僕では触れることすら出来ない機密情報だったから詳細は知らないけど、最初のソレはある種の振動……波長のようなものだったと聞く」

「…………」

「天才的な頭脳を持つ人たちが、ソレを解読した。それは、見方を変えれば言語であり、あるいは、設計図に近しい何かであったらしく、それに従った結果……培養液に満たされたカプセルの中で、あの子が生まれた」

「それが……岩倉玲音?」

「正確には、その雛形(ひながた)みたいなものさ。生まれながらに異常な能力を持ち、15歳を過ぎた頃には世界でも有数の科学者ですら舌を巻くぐらいの知能を得て、様々な技術革新を生み出したと記録にはある」

「何を、作ったの?」

 

 

 尋ねれば、康男(?)は苦笑した。

 

 

「……ワイヤードの基本理念。今は存在していない仮想世界の基礎を、その子は作り出した。つまり、『ワイヤード』という概念を作り出したのは……その子なんだ」

「……どんな子だったの?」

「非常に聡明な子だったらしい。ただ、普通の子ではない。特殊な環境と特殊な生まれ故なのかは不明だが、善悪の基準が人とは異なり、生死に対する独特の感性を持っていたとある」

「……どんな感じだったの?」

「記録にはない。ただ、幼い子供のような感性も持ち合わせていたらしい。非常におぞましい実験を行う傍ら、それをまるで泥団子を見せびらかす幼子のように自慢するなど……色々と、やっていたらしい」

「そう、それで?」

「他には、他者との交流が下手な子だったらしい。資料を読んだ限り、頭の良さと心の成長具合が不釣り合いだったせいだと思う。周りが、彼女の思考を理解出来なかったのでは……と、僕は思っている」

 

 

 そんな彼女は──何かを作ろうとしていた。そう、康男は話を続けた。

 

 

「何を作っていたのかは記録から抹消されていたから、当時、実際の彼女に関わった者たちしか知らないが……分かっているのは、それが失敗したという結果だけだ」

「失敗した? どうして?」

「原因は分からない。ただ、当時の彼女は、その『作品』に対して並々ならぬ情熱……いや、愛情にも似た執着を向けていたらしく、他者をソレに近づけることすらさせなかったらしい」

 

 

 ──だが、それが失敗した。

 

 

 当時の研究者たちは、何が失敗なのか分からなかったらしいが……それだけを言い残した彼女はその夜、自殺した。

 

 

 ……その後、死体は即座に解剖された。

 

 

 人間と何が違うのか、異なる点があるのか。

 

 死亡したのであれば、どのように切り開いても何の問題もないし、作り出した我々がどう扱おうが、我々の自由である。

 

 そのような判断を下した当時の研究者たちは、ソレの身体を隅々まで解体した。

 

 皮膚を切り分け、筋肉を取り出し、内蔵をパーツに取り分け、神経の末端に至るまで取り出し、保存液のカプセルへ封じた。

 

 

 ……そうしてもなお、研究者たちはソレの正体を知ることは出来なかった。

 

 

 何故なら、解体したソレの身体は、どこまで調べても人間のソレであったからだ。知能指数が高いという点を除けば、まだ成人していない女の子に過ぎなかったのだ。

 

 

 ……それ故に、当時の研究者たちは……選択を迫られた。

 

 

 一つは、停滞した現状の打開策が生まれ、技術革新が起こるその時が来るまで……研究を無期限凍結しておくこと。現状の記録を読む限り、これが多数派の結論だった。

 

 

 何せ、研究には莫大な費用が掛かるのだから……しかし、問題が生じた。

 

 それはもう一つの……アプローチを変えるべきだと提案した派閥の者たちが、研究者たちの間でも指折りの天才であり、名も知られた存在であったことだ。

 

 その結果、一部の特許を譲渡する代わりに資金提供を受けることで、彼らは独自の理論に基づき研究を再開し……そして、そのまま時は流れ、何時しか研究そのものが過去のモノとなっていた。

 

 

 ──だが、ある日。

 

 

 凍結されていた研究を見つけ出しただけでなく、ソレに傾倒し、あまつさえ、装置を稼働させて新たなその子を産みだしてしまった、天才と周りから称されていた男が居た。

 

 その男はすぐに自殺という事になったが、後には……二人目となるその子が残された。その子は、一人目と同じく異常も無く育ち、肉体的には人間の女の子でしかなかった。

 

 

「……その子が?」

「そうだよ、その子が、後に『岩倉玲音』と名付けられ……僕の娘として一時的に育てられる事になる……可愛い娘だ」

 

 

 可愛い娘……そう零した康男……いや、玲音の面倒を見ていた、ココには存在していない康男の気持ちは、霊夢には分からない。

 

 

「玲音はね……僕が言うのも何だけど、とても素直で優しい子だったよ。少し内向的で鈍い所もあるけど、友達想いでね。勉強も、得意ではなかったけれども……出来る事なら、最後まであの子の面倒を見てあげたかった」

 

 

 ただ、娘の事を語る康男の顔は。

 

 

「どんな形で生まれたとしても、人の子として育てられれば人になる。僕はね、玲音が普通の人間ではないと考えてはいたけど……同時に、何処にでもいる普通の女の子でしかないんだなとも、思っていたんだ」

 

 

 どこか寂しそうに、霊夢には見えた。

 

 

「……でも、最終的に、僕が所属していた会社から、玲音への接触を全て断って監視も必要最小限に留めろというお達しが出てしまって、それも出来なくなった」

「どうして?」

 

 

 率直な霊夢の問い掛けに、康男は困ったように視線を逸らした。

 

 

「……それまで、僕たちは天才的な頭脳を持った子供を生み出す方法……あるいは、超常的な能力を持った子供を生み出す方法だと思っていた。玲音は、それによって生み出されたと……だが、違った」

 

 

 そして、さ迷っていた視線が……改めて霊夢へと向けられると。

 

 

「玲音を生み出した、あの男が残した手記と、それまでの監視記録。そして、天才たちが続けてきた研究によって得られた理論によって……可能性の段階ではあったが、玲音の正体が分かったからだ」

「……それが、まさか?」

 

 

 康男は、一つ、頷いた。

 

 

「信じ難い話だった。人々が認知出来ない、意識の領域外。普遍的に存在するだけであり、あくまで概念の一つとしてでしか提唱されていなかった無意識の海に……おぼろげながらも、自我が有るのだということを」

「………………っ!」

「肉体はおろか、エネルギー的な実体すらなく、無機物と仮定する事すら出来ない……それなのに、意志を持っていた。この世界で活動する為の肉の器を作る方法を僕たちに与え、実際に身体を得て活動し、『ワイヤード』という形で、より僕たちはソレへの接触を容易にされた」

 

 

 

 これが、どういうことか分かるか……その問いに対し、「元々、私たち一人ひとりに『無意識』というやつは存在していた」康男は自ら答えを出した。

 

 

 

 そう、『集合的無意識』というのは、見えないから、聞こえないから、触れられないから、認識出来ないから、存在しないというわけではない。

 

 例えるなら巨大な海、集合的無意識より伸びているのは、細いパイプだ。

 

 全ての無意識は『岩倉玲音』へと繋がっていて、『岩倉玲音』は全ての人々の無意識に繋がっている。

 

 それは、全人類の無意識の奥深くに『岩倉玲音』が居るのと同じこと。

 

 言い換えれば、全ての人類は『岩倉玲音』の干渉から逃れられない。誰も彼もが自覚のないまま、『岩倉玲音』に全てを見られている。

 

 だが……そう、だがしかし、『岩倉玲音』の危険性はそこではないのだ。

 

 

「……それまで、『あっち』と『こっち』には目に見えない壁があった。二つがどれだけ密接であったとしても、絶対的な壁がそこにある限り、二つが重なる事はあっても、交わることは起こらなかった」

 

 

 だが、玲音が生まれた事で、ソレが変わった。

 

 

「『ワイヤード』が生まれる以前から、彼女はこの世界に肉体を得る事が出来た。ならば、『ワイヤード』によって更にこの世界と無意識の領域が密接になったことで……彼女は、より物理的な干渉をこの世界に行えるようになった」

 

 

 

 ──それこそ、意志一つで生命を生み出せるぐらいに。

 

 

 

 そう、続けられた康男の言葉に……霊夢は、しばしの間、何も言い返せなかった。

 

 

 生命の創造……それは正しく、『神』である。人が生み出した神ではない。本当の意味で人知を超え、人の手では届かない存在。

 

 幻想郷にも、神様は居た。神様にも匹敵する妖怪は、居た。大地を隆起させ、山を焼き払い、雨雲を薙ぎ払う事が可能な、人知を超える力を持つ存在が、幻想郷には大勢いた。

 

 だが、その神様とて、妖怪とて、人々の存在無くして姿を保つことは出来ない。信仰でも、怖れでも、友好でもいい。どんな形であれ認められる事で初めて、幻想郷の神や妖怪たちは存在することが──あ? 

 

 

 

 

 

 ……いや、待て。

 

 

 

 

 

 反射的に、霊夢は両手で己の唇を押さえた。それは、徐々に真実へと到達しようとしている、霊夢の無意識によってもたらされた、心の防御であった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………ならば、どうなる。

 

 

 人々の無意識の全てが『岩倉玲音』に繋がっているのであれば、その無意識が紡ぎ出す……人々の心の動きにより生まれた神や妖怪たちはどうなるのだ? 

 

 信仰も、怖れも、友好も、全ては人々の心がもたらすモノ。ならば、その心そのものが『岩倉玲音』の掌の上であるならば……人ならざる彼ら彼女らも、また? 

 

 

 

 

 

 ──いや、いやいやいや、そもそも、だ。

 

 

 

 

 

 康男は、幻想郷そのものが人々の無意識が作り出した箱庭だと言った。実体は存在せず、人々の無意識が……ならば、それならば、仮に、そうなのだとしたら。

 

 幻想郷そのものが虚構なのだとしたら……あの世界そのものが幻なのだとしたら……あの世界に住まう人々もまた……霊夢が知る者たち全てが同じなのだとしたら? 

 

 

 

 ──どくり、と。

 

 霊夢の心臓が、ひと際強く音を立てた。冷たい汗が……瞳に触れる。痛みが走るが……気にする余裕など、ない。

 

 

 

 今まで、『岩倉玲音』の影響によって変えられていると思っていた。『岩倉玲音』によって生じた異変だと、思っていた。

 

 だが、そうではない。これは、異変であって、『異変』ではなかったのだとしたら。霊夢が知る、『異変』ではないのだとしたら。

 

 『異変』だと思っていたそれら全てが、虚構で。日常だと思っていた全てが、虚構で。過ごしていた日々全てが、虚構だとしたら。

 

 ……全てが、人々の無意識が作り出した妄想の産物なのだとしたら……ならば、己はどうなる? 

 

 

 

 どうして、自分だけが幻想郷の外に出ている? 

 

 どうして、自分だけが影響を跳ね除けていられる? 

 

 どうして、自分だけが変わらず此処にいられる? 

 

 

 

 ──気付いては、駄目よ。

 

 誰かの声が、脳裏を過った気がする。それが誰の声なのかは、分からない。けれども、そのたった一言が……霊夢の瞳に涙を滲ませる。

 

 

 

 何故、自分だけが自分を保ったままでいられたのか。

 

 何故、自分だけが幻想郷の外に追い出されたのか。

 

 何故、自分だけが特別であるのか……ああ、そうか、そうなのだ。

 

 

 

 全てが虚構であるならば、全ての前提が覆り、全ての真実が虚構へと変わる。

 

 お化けなんて、嘘。お化けなんて、いない。神様だっていないし、妖怪だって──人間だって、そこにはいない。初めから、何も無いのだ。

 

 何故なら、全てが嘘でしかなくて。

 

 無意識が生み出した虚構の産物でしかないのであれば……いったい、誰の妄想であり、誰の虚構であるのか。

 

 『岩倉玲音』の妄想……いや、違う。康男が言っていたではないか……『岩倉玲音』は素直で心優しく、友達想いであったと。

 

 

 

 

 ──そう、そうだ。正体は何であれ、『岩倉玲音』は女の子なのだ。

 

 

 

 

 血は繋がっていなくても、康男は愛情を玲音に向けていた。だから、ここに玲音の気配が残っている。ここは、玲音にとって、ある種の心の聖域なのだ。

 

 それならば、そんなことはしない。『集合的無意識』であるとしても、人間の心を得てしまった玲音は、誰かの想いを消したりはしない。

 

 少数であっても、人々の無意識がそういった存在を信じていると分かっているからこそ、その想いを無下に出来ない『岩倉玲音』は、手を出したりはしない。

 

 玲音がそうするのは、そうせざるを得ない事態に陥った時。そうしなければ、自分だけではなく……周りの者たちを不幸にしてしまうと、思った時だけだ。

 

 

 もし、自分が玲音の立場になったら、そうする。

 

 辛くても、悲しくても、寂しくても、そうする。

 

 

 大切な者たちが不幸になってしまうのであれば。自分の存在が大切な者たちを傷付け、大勢の人達を巻き込んでしまうと分かれば……たぶん、そうしてしまう。

 

 

 ……では、いったい誰が消した? 

 

 

 幻想郷を……実体の無い存在達を、本当の意味で虚構に変えてしまったのは。有るかもしれない幻を、存在など初めからしていない幻だとしてしまったのは……誰だ? 

 

 

 

 

 ──いいの、私たちの事は。いずれ、こうなる定めだったのだから。

 

 また、声が聞こえた。ああ、これは……誰の声だったか。自分を慰めようとするその声に……ぽろぽろと、霊夢は涙を零し始める。

 

 

 

 

 全てが、幻であったのならば……始めから存在してなどいなくて、全ては誰かの無意識の願いによって維持されたものでしかなくて。

 

 そう……幻想郷というモノは、人々の無意識が作り出した虚構であり、居るのかもしれないという淡い想いや期待が生み出した幻なのであれば。

 

 

 ……博麗大結界もまた、同じなのだ。

 

 

 居ると信じる者と、居ないと思う者の、無意識の狭間。その二つの無意識がぶつかり合う境目。ギリギリに保たれた均衡……ふとした事で崩れてしまう、脆い境界線。

 

 

 

 

 

 

 ──楔を打つ必要があったのだ。不安定なソレを安定させる、世界を支える柱が。

 

 

 

 

 

 そう、人々の無意識が望んだから。

 

 人が神の存在を信じるように。

 

 人が仏の存在を信じるように。

 

 人が見えず聞こえず触れられない存在を信じるように。

 

 人々の想いが、生み出した。現実と幻想の境を安定させる楔を、世界を安定させる柱を、人々の無意識を肯定する存在を……かつての玲音がそうしたように、願いが器を作り、肉体を生み出し、役割を与え、幻想は守られた。

 

 

 

 

 ──それこそが、博麗霊夢。楽園の、素敵な巫女。

 

 

 

 

 ……だが、それは長く続かなかった。

 

 

 最初の頃は、違ったのかもしれない。そんな考えすら、無かったのかもしれない。けれども、何時の頃からか……生まれた。

 

 虚構の中の、例外。役割を与えられ、演じ続ける者たちの中で……ただ一人、全てに属さず、全てから浮いて、虚構の中心に居続けた者。

 

 その名は──博麗の巫女。その中でも唯一、名前も姿も記憶されている存在──歴代最強と謳われた巫女……博麗霊夢。

 

 玲音がそうであったように、楔は……いや、博麗霊夢は、無意識の中で気付き始めてしまった。

 

 

 

 

 己は……このままずっと、一人ぼっちなのか、と。

 

 

 

 

 役割によって認識出来なかったが、霊夢は無意識の奥で感じていたのだ。

 

 ある意味では同じ存在でもある玲音が、家族と食事を共にし、学校へ通い、友達と笑い……そして、皆の為に世界から距離を取ったのを。

 

 自覚出来なくても、それが何なのか分からなくても、羨ましかったのだ。

 

 

 虚構ではない父親が居て、母親が居て、友達が居る日々を。

 

 

 たとえそれが、誰かの思惑によって作られた偽物で、心に傷を負うとしても……霊夢は、羨ましかった。何故なら、霊夢は……一人ぼっちだから。

 

 

 そう、博麗霊夢は常に独りであった。

 

 

 どれだけそれらしく振る舞い、世界を形作ったとしても、霊夢には誰もいない。霊夢の傍にあるのは、そうあってほしいという幻だけ。

 

 人々の暮らしの中で玲音の心が成長していったように、霊夢の心もまた、成長する。背が伸びるように、霊夢の背も伸びてゆく。

 

 玲音に比べたら非常にゆっくりではあっても、少しずつ成長し……外へと、目を向け始め……そして、模倣を始めた。

 

 

 

 

 ──仕方なかったの。そう、仕方ないことなの。

 

 また、声が……ああ、声がする。誰の声かも分からないのに、大勢の者たちからの懐かしい声が……気付けば、霊夢はその場に膝を付いていた。

 

 

 

 

 滴り落ちた涙が、床を濡らす。背中を摩る康男の手も、今は感じない。嗚咽すら零せないまま、霊夢は蹲って涙を流す。

 

 

 

 

 博麗の巫女など、始めから存在していないのだ。何故なら、霊夢こそが幻想郷そのものであるからだ。

 

 博麗大結界など、始めから存在していないのだ。何故なら、霊夢自身が内と外とを隔てる壁だからだ。

 

 

 幻想郷から追い出されたのではない。

 

 

 初めから、幻想郷という世界は存在していない。全ては、そうあってほしいという幻に過ぎず、形すら成し得ていなかった想いの溜まり場。

 

 

 何もかもが、そうだったのだ。

 

 

 楔であり調停者である霊夢が、独りが寂しかった霊夢が、その寂しさを紛らわす為に作り出した場所。小さな小さな、霊夢の為だけの箱庭。

 

 役割を与え、名前を与えられた願いが、形となった。そして、霊夢を慰める為に演じ、霊夢の寂しさを紛らわす為だけの……張りぼてですらない、透明なサーカス。

 

 

 

 

 ……ああ、なんて滑稽な話なのだろうか。

 

 

 

 

 この時、始めて……霊夢は、理解した。この『異変』が始まってから己へと向けられていた様々な言葉……その意味を、霊夢はようやく理解した。

 

 

 

 

 

 ──向き合わなければならない、その言葉の意味を。

 

 

 

 ──博麗霊夢は……博麗霊夢こそが幻想郷そのもの。

 

 

 

 ──全ては、博麗霊夢が作り出した小さな箱庭なのだ。

 

 

 

 

 

 そう、全ては盛大なおままごとだったのだ。『異変』は、『岩倉玲音』が起こしたのではない。アレは、些細なキッカケだ。

 

 全くの無関係というわけではないが、霊夢が役割を放棄さえしなかったら、どうとでもなる程度のこと。

 

 霊夢が、役割を放棄しようとさえしなければ。辛い結果になるかもしれないと無意識で分かっていても、父が、母が、友達が、欲しいと思ってしまった。

 

 

 その結果、幻想郷は揺らいでしまった。それが、『異変』の正体。

 

 

 霊夢の心が揺らいだことで、バランスが崩れた。加速度的に玲音の影響が進んだのではない。時を経る度に、無意識の奥深くに蓋をしていた霊夢の本心が……表に出てきただけ。

 

 霊夢と同じ姿をしたアイツは、かつての霊夢……いや、幻想郷を守る、理想的な博麗の巫女……本来、霊夢が望まれていた姿なのだ。

 

 

 でも、霊夢は反発した。なのに、博麗の巫女であることに固執した。

 

 

 小馬鹿にされて、当然だ。同じ姿をしたアイツが、呆れた眼差しを向けて当然だ。自分が逆の立場だったなら、呆れて言葉を失くして──いっ!? 

 

 

 

 

 

 ──罪悪感が、螺旋を描くようにして己の奥深くへと潜ろうとした、その瞬間……目も眩むような激痛が、胸の中央より走った。

 

 

 

 

 

(……なに?)

 

 

 あまりの痛みに涙も止まる。反射的に胸に手を入れる……出血などは見られない。いったい何が……思わず身体を起こした途端、再び激痛が走った。

 

 今度の痛みは最初よりも軽いが……止まらない。まるで、心臓の鼓動に合わせているかのように、痛みが脈動し……いや、待て。

 

 指先が、痛みの中心へと……そこは、傷痕だった。かつて霊夢の胸に大穴が開いた時に出来て、今もなおクッキリと痕跡が残っている……そこが、急に痛み出した。

 

 

(何だろう……最初のアレに比べたら、痛みは軽いけど……)

 

 

 罪悪感によって絡み合っていた思考が、痛みで解される。そういえば、この傷に関しては未だに謎のまま……というか、この傷はいったい何が干渉した結果なのだろうか。

 

 ……今だからこそ、分かる。

 

 幻想郷において、真の意味で霊夢を殺せる存在はいない。傷付ける素振りは出来ても、霊夢の死が、幻想郷の消滅を意味するからだ。

 

 だからこそ、不可解だ。犯人が、全く分からない。

 

 玲音でないのは確定しているし、妖怪たち……は、有り得ない。何かしらの偶然が重なったにしても、それならとっくの昔に……と。

 

 

「たとえ──そう、たとえ幻であったとしても。果たしてそれは、全てが虚構であり幻想に過ぎなかったのだろうか」

「……え?」

「落ち着いて、思い出しなさい。君は、本当に独りだったのかい?」

 

 

 掛けられた言葉に霊夢が顔を上げれば、優しく己を見下ろす康男と目が合った。

 

 その目に宿る優しさは……どうしてだろうか、霊夢は懐かしさを感じずにはいられなかった。

 

 

「……貴方は、私に真実を伝える為の役割を与えられた存在なの?」

「いいや、違う。僕は、言うなればあの子にも消しきれなかった名残みたいなものだよ」

 

 

 静かに、康男は首を横に振り……次いで、「──霊夢さん、もう一度聞きます」改めて康男は尋ねた。

 

 

「貴女は、本当に独りだったのですか? 本当に、何もかもが幻想であると思っているのですか?」

「……何が言いたいの? これ以上、私に何を求めるのよ」

 

 

 言い換えそうにも、霊夢の心はもう散り散りになってしまっている。慰めようとしてくれているのは分かるのに……それに応える気力が、霊夢にはもう……。

 

 

「──簡単ですよ、霊夢さん。虚構であったとしても、そこに意志はあったのです」

 

 

 ……でも、それでも。

 

 

「思い出してください、霊夢さん。役割を与えた者たちは、貴女を育て、見守って、共に歩いてくれた者たちは……本当に、ただの役割で貴女の傍にいたのですか?」

「……でも」

「全員がそうではないでしょう。ですが、居たはずです。幻想郷とやらの虚構……貴女の正体に気付き、自分たちの正体に気付き、それでもなお、貴女を想ってくれていた者が……居たでしょう、貴女の傍に」

 

 

 ──瞬間、霊夢は……ああ、そうだ。

 

 

 ああ、思い出した。その言葉に、霊夢は思い出した。忘れていたソレを、思い出した。

 

 かつて、霊夢がまだ幼かった頃。己の役割なんぞ理解はおろか意識すらしていなかった頃……母親の代わりを務めていた紫の背の感触と……ああ、そうだ、そうだったのだ。

 

 

 ──止まり掛けていた涙が、零れ落ちる。

 

 

 あの時、紫が零した言葉の意味……そして、自分が零した言葉の意味。紫は、全てを知っていたのだ。

 

 全て、博麗霊夢が生み出した虚構に過ぎず、己もまた役割の一つを担っているに過ぎない存在である、と。

 

 

 知っていたからこそ、霊夢に問うたのだ。『博麗の巫女である事が、辛くないのか』と。

 

 

 今ではない、あの頃に。虚構の中で無邪気に満たされていたあの頃に……紫は、博麗の巫女を止めてもいいと暗に口にしていたのだ。

 

 世間話を装いながら、伝わらないと思いつつも、役目を放棄しても構わないと伝えていたのだ。

 

 

 分かっていた、はずなのだ。例え冗談であったとしても、博麗霊夢が博麗の巫女を止めると口にする、その危険性を。

 

 自分たちだけではなく、幻想郷全体を……引いては、再び霊夢が孤独に陥ってしまう危険性を考慮してもなお……紫は、霊夢に選択肢を委ねてくれていたのだ。

 

 

 いや、それはおそらく、紫だけではない。

 

 

 紫以外にも、居たはずだ。霊夢が気付いていないだけで、色々な形で、色々な言葉を選んで私に問い続け……それに、私は今まで全く気付いて来なかった……ただ、それだけのこと。

 

 

(──ほんと、私ってば馬鹿なやつね)

 

 

 このまま眠って全てを忘れてしまいたくなる虚脱感に身を浸しながらも、霊夢は……ゆるりと、立ち上がる。涙で濡れた目元を拭い去り……充血した眼で、前を向く。

 

 

 ……思い出したのだ。自分は、送り出されたのだということを。

 

 

 それもまた、役割なのかもしれない。けれども、霊夢は思う。霊夢を想ってくれていた者たちは、霊夢に意志を託したのだ。

 

 それがどんな結末であろうとも、その結果を受け入れる道を選んだ。

 

 

 ならば──それならば、行かねばならない。

 

 

 幻想郷の……素敵な楽園を守る、楽園の素敵な巫女として……博麗の巫女として、挑まなければならない。

 

 ──誰に? 

 

 

(──そんなの、決まっているでしょ)

 

 

 己の中のナニカが、問い掛ける。それに対し、霊夢は──己に対して答える。

 

 

(──玲音をぶっ飛ばして、無理やりにでも玲音と私を繋いで……人々の無意識に繋いで、新たな幻想郷を作るのよ)

 

 

 それは……玲音が聞けば、何と横暴な話だろうと頬を引き攣らせた事だろう。何故なら、玲音は誰もを傷付けない為に、孤独になったのだから。

 

 

 だが、霊夢は決めた。もう、迷わない。

 

 

 たとえそれが、一度は大切な人たちの為に孤独を選んだ玲音の決意と覚悟を踏みにじる事になろうとも。

 

 たとえそれが、失敗すれば己が玲音の無意識に……いや、人々の無意識に否定され、全てから消滅することになろうとも。

 

 

 ──霊夢は、決めたのだ。

 

 

 他の誰でもない、自分の為に。送り出してくれた者たちの為に、霊夢は……行くのだ。

 

 

「……行くのかい?」

「ええ、行くわ。康男さんは……元に戻ったのね」

 

 

 尋ねられた霊夢が答えれば、「……白昼夢というのは、こういう気分なのだろうね」康男は気圧されたかのように目を瞬かせた後……不意に、霊夢をまっすぐに見つめた。

 

 

「……今のは、何だったんだ? 僕に、何が起こったんだい?」

「さあ、私にも分からない。ただ、あの子にも分からない……意地悪な奇跡が起こったのでしょうね」

「意地悪、なのかい?」

 

 

 意味が分からずに首を傾げる康男に、「だって、そうでしょう」霊夢は……少しばかり腫れて赤くなった目尻を緩ませた。

 

 

「あの子が望んでいたのは、神様になることじゃないもの。友達と笑って、一緒に勉強して、お父さんと茶菓子を食べる……そんな日々なんだもの」

「それは……」

「その内の一つを、私が先に叶えちゃった。誰よりもあの子を羨んだ私が、何よりもあの子が欲しがっていた事の一つを、私が先に叶えちゃった」

 

 

 ──ほんと、人生ってままならないものね。

 

 

 そう、言葉を続けた霊夢に……康男は、何も言えなかった。そんな康男に……今ではない、消え去った何処かの彼方にて、父親であった康男へと……霊夢は、告げた。

 

 

「全部が終わったら──」

 

 

 と、同時に……霊夢は、己の無意識の奥に居る、愛しき者たちの名を呼ぶ。

 

 

「あの子を此処に連れて来るから──あの子の分のマドレーヌと、紅茶の準備……約束よ」

「──ああ、約束するよ。だから、負けては駄目だよ」

「当然、私を誰だと思っているのよ……楽園の素敵で無敵な紅白巫女、博麗霊夢様よ」

 

 

 その言葉と共に笑みを浮かべる康男に……それ以上の、不敵な笑みを霊夢は浮かべ……さて、と意識を切り替える。

 

 

 ……愛しき者たちからの返事は、無い。当然だ、全ては虚構であるのだから。

 

 

 けれども、霊夢は信じている。たとえ声が届かなくとも、たとえ姿が見えなくとも、たとえ触れあえなくても……霊夢はもう、迷わない。

 

 

 ──ふわり、と。気配が、消えた──いや、違う。

 

 

 霊夢の姿が、その場から消えたのだ。痕跡すら残さず、跡形もなく消えた。

 

 後には……空になった皿とカップだけが、今しがたの出来事が夢ではないことを……辛うじて、康男に知らせてくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………霊夢は飛ぶ。どこまでも、どこまでも、突き進む。

 

 

 気付けば、霊夢の周囲は闇に覆われていた。今しがたまで傍にいた康男はおろか、室内特有の気配すらなく……何処までも、意識が拡散してゆく。

 

 そこは、無意識の領域であり霊夢の無意識の世界。本来、全ての人と人とが繋がっているはず……なのだが、今は何処にも繋がっていない。

 

 当然だ。かつて、玲音は周りを傷付けず、誰かの不幸を招かない為に繋がりを拒絶し、孤独を選び、無意識の奥底にて漂う事を選んだ。

 

 

 霊夢も、経緯や結果は異なるが孤独なのだ。

 

 

 幻想を否定する者たちの無意識から、幻想を信じる者たちの無意識を肯定する為に生まれた存在。存在しない者たちを守るための楔として、柱として、ただそれだけの存在。

 

 何も持たない、虚構の中で過ごしてきた霊夢の無意識には、何もない。あるのは、有ると見せかけられていたメッキが剥がれ落ちた後の、虚無ばかり。

 

 光は無く、風も無い。温かさも無ければ冷たさもなく、拠り所一つなく……何処までも、何処までも、闇だけが広がっている。

 

 

(……足りない、もっと奥へ、もっと先へ)

 

 

 だが、霊夢はもう気付いている。もう、知っている。虚無だと思い込んでいるだけで、本当はたくさんのモノを得て来たのだ。

 

 

 ──そう、己は、愛されていたのだということを、霊夢はもう知っている。

 

 

 だから、飛ぶのだ。暗闇の中を、霊夢は進む。

 

 浮いているのか、立っているのか、歩いているのか……霊夢自身、分からない。けれども、前に進んでいるということだけは、何よりも分かって……と。

 

 暗闇を進み続けていた霊夢の視界に……不意に足場が現れた。それは、8畳程度の小さなスペースで、古ぼけた畳で構成されていた。

 

 

 前触れもなく、ぽつり、と。

 

 

 まるでいきなり照明が付けられたかのように、そこに現れた畳へと……霊夢は降り立つ。「これ、神社の……」瞬間、霊夢はそれが、己が暮らしていた神社のソレであることに気付いた。

 

 

「……そう、コレなのね。ありがとう、こいし……貴女も、私に託してくれていたのね」

 

 

 と、同時に……此処こそが、こいしが残してくれた『入口』であることに……霊夢は気付いた。

 

 そう、これだ。ココが、唯一の……だが、どうする? 

 

 

(……決まっているわ、そんなこと)

 

 

 考えるまでもない。既に、ヒントは出されていた。

 

 玲音がそうなったように、霊夢もまたそうなり……そして、霊夢独りでは至れないのであれば……数を集めれば良いのだ。

 

 

「──私一人の力では至れないのならば」

 

 

 霊夢は……己の内へと問い掛ける。

 

 己の中へと消えて行った……己と共にあった、虚構の者たちへ。

 

 虚構の一つ一つに宿る……無意識の奥に居る、一人一人の博麗霊夢へと。

 

 

 ……距離も場所も、関係ない。霊夢は、繋ぐのだ。

 

 

 玲音がそうしたように意識を広げ、そして、己へと収束させてゆく。数多の可能性が、数多の霊夢が、ここに集まり、一つになってゆく。

 

 

 ……過去も未来も、関係ない。見知らぬ過去や未来や数多の世界の己(博麗霊夢)に何が起きようが、構う事か。

 

 

 片手を、掲げる。その手に出現するのは、小さな懐中時計……かつて、十六夜咲夜が霊夢に手渡し、そして、その使い方を無意識の奥へと託してくれたソレを……霊夢は、発動する。

 

 合わせて、霊夢の周囲に幾つもの裂け目……スキマが生まれる。まるで閉じられた瞼が開かれるように現れたその向こうに広がる、大小様々な視線や眼光……幻想を信じる者たちの無意識に宿る霊夢たちを、ここへ。

 

 現実と無意識の境界が、あやふやになる。けれども、混ざり合うわけではない。ただ、二つを隔てている境界線が、緩くなるだけ……でも、それで十分だ。

 

 

 かつて……『運命』を見るレミリア・スカーレットが教えてくれた。

 

 

 運命など、数多に存在する選択肢によって枝分かれした道筋の、ほんの一つに過ぎない。所詮は些細な違いでしかなく、極点へと収束する定めなのだと。

 

 どんな形であれ、同じ極点へと移るのであれば。少なくとも、己の死が極点なのであれば。

 

 

 ならば……そうならば、己が取る手段は一つ。

 

 

 幻想を信じる者たちとの無意識を足掛かりにして、玲音の領域である……『集合的無意識』の奥深くへと進む為に。

 

 

「みんなと……みんなの無意識の奥に居る、しょぼくれた私の力を借りて──行くだけよ!」

 

 

 霊夢は──肉体を捨てる。そう、最初から──この時の事を示していたのだ。

 

 

 掲げた時計の針が、狂い始める。秒針は時を刻み、短針は時を遡り、長針は、まるで隠された道を探すかのように右往左往している。

 

 ヒュッ、と。掌を前にかざせば、前方にて出現するのは、霊夢の親友が所持していた八卦炉……をモデルにして親友が作ってくれた、ミニミニ八卦炉。

 

 八角形のソレに描かれた太極図が、八つに別れる。外へと一回り広がり、生まれた中心の空洞に……するりと差し込まれたのは、物干し竿かと見間違う程に長い刀……楼観剣(ろうかんけん)。

 

 他の道など、始めから無い。必要なのは、これ一つ。霊夢の無意識の奥の奥のそのまた奥にあるかもしれない迷いを断ち切り……前へと進むための、一刀。

 

 

 ──発射体勢に入ったミニミニ八卦炉より放たれる熱気が、楼観剣へと伝わる。

 

 

 まず、柄が燃える。次いで、鍔(つば)が燃える。熱気は持ち手部分の鋼を伝わり、刀身へと伝わり、刃先へと伝わり……白銀のきらめきは太陽のように朱く染まり始める。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そして、霊夢が両手を広げた──その瞬間。

 

 

 

 ポヒュ、と軽い音とは裏腹の、弾丸が如き速度で発射された刃が──寸分の狂いもなく、霊夢の心臓を貫いたのであった。

 

 じゅう、と。刀身の熱気が肌を、筋肉を、骨を、心臓を焼いて、半ばまで突き刺さった辺りで止まり──霊夢は、『死』を認識する。

 

 こぽり、吐いた息と共に噴き出した血の味。熱は痛みに変わり、痛みは熱へと変わる。内臓が焼かれて血液が沸騰する感覚、瞬く間に意識が遠のき、眠気にも似た感覚が全身へと広がってゆく。

 

 

 

 

 だが、今の霊夢に恐怖は無い。もう、霊夢が行く道は……決まっている。

 

 

 

 

「──夢想天生(むそうてんせい)」

 

 

 

 故に──霊夢は、発動する。それの、本当の力を……肉体という枷を捨て去り──人々の無意識へと、飛びこみ──後には、もう。

 

 噴き出した鮮血も、倒れ伏した霊夢の亡骸も、突き刺さって燃えていた刃も、足場となっていた畳も全て。

 

 何もかもが消え去り……後にはもう、闇だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 




果たして、本当に幸せだったのはどちらなのか

全てが偽物で、全てが思惑で、それでもなお、友達になってくれた者たちや、大切な者たちの為に全てから遠ざかり、無意識の海辺を漂い続けることを選んだ者

全てが幻想で、全てが虚構で、全ての真実から目を背け、それでもなお最後に向き直り、幻想を真実にする為に前へと進む為に、自らの肉体をも捨て、挑む道を選んだ者

その答えは・・・・・・誰にも分からない





次回、Serial experiments □□□  


 幻想郷縁起 ――『偏在無異変』――

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。