Serial experiments □□□  ー東方偏在無ー   作:葛城

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春の章:その3

 しゅるり、と巻いたサラシの具合を確かめながら、霊夢は姿見に映った己の姿を見やる。特徴的な巫女服は全て取り払われた生身の身体は、かつての己のモノよりも幾らか細く頼りないままであった。

 

 ……痩せたなあ、と。心の中で、霊夢はため息を零した。

 

 痩せる時は胸から痩せるというのが定説らしいが、霊夢は身を持ってそれを実感している。これまでサラシを撒く時には多少なりとも胸元周辺に窮屈さを覚えていたが、今はそれがない。

 

 つまり、落ちてしまった体重の幾らかをココから支払っているというわけだ。サラシを撒く前に軽く触ってみたとき、それがよく分かった。固く骨の浮いた胸元は、ともすれば少年に見間違えられるような有様となっていたから。

 

 これで元が腹回りを含めてふくよかな体型であったなら丁度良いのだが、あいにくと霊夢は元々が細い。純粋に痩せているだけでなく、骨格自体が小柄な方なだけあって、数kgとはいえ見た目の変化は顕著だ。

 

 まあ、無理もない。現在の霊夢の体重は、負傷する前より5kgは軽い。ボーダーラインであったプラス2kgをクリアしたから外出の許可が下りたが、それでもギリギリ基準を合格したというだけのこと。

 

 ぶっちゃけ、今回の外出だって永琳が鬱陶しがるぐらいにお願いし続けて、ようやく許可が下りただけ。暗にまだ大人しくしておけと促されたのを、霊夢が黙殺した……という経緯がある以上、霊夢はあえて不満を口にはしなかった。

 

「……ねえ、霊夢」

 

 ――ほら来た。

 

 喉元から出かけたその言葉を、霊夢は寸での所で呑み込む。表情一つ変えることなく振り返れば、目じりにほんのり涙を浮かべつつも心配そうにしている(保護者)が、スキマから身を乗り出していた。

 

「やっぱり、もうちょっと休んでいてもいいと私は思うの。その身体では、まだ本調子とは言えないでしょ? だから、今月いっぱいは――」

「いや、行くの」

 

 恐る恐る中止を申し出る紫の言い分を、霊夢は一言で切って捨てる。仕方がないこととはいえ、神社から一歩も出られないまま二か月強……ぐうたら巫女とも揶揄される霊夢とはいえ、ストレスが溜まって当然であった。

 

 加えて、紫の看病(甘やかし)がまた何ともキツイのだ。

 

 例えば、食事の時。霊夢一人で食事が出来るというのに、未だに椀とレンゲで介助しようとしてくるのだ。嫌な顔一つせず、満面の笑みで差し出してくるせいで、まるで赤ん坊に戻ってしまった気分にさせられる。

 

 他にも、僅かな身動ぎから背中が痒いのかと声を掛けて来たり、少し暑いなと思えば濡れた手拭いを持って来たり、喉が渇いたと口にする前にジュースを持って来たりと、こう……アレだ。霊夢も、そこまで子供ではないのだ。

 

 普段は飄々として胡散臭い態度を取るが、こういう時の紫は兎に角甘やかそうとする。面倒くさがりな霊夢ですら辟易するぐらいなのだから、何となく想像は付くだろう。

 

 それに、気持ちは嬉しいし嫌な気分ではないのだが、さすがに……その……催した時に笑顔で尿瓶を持ってくるのは勘弁してほしい。まともに身体を起こせない時ならともかく、今は自由に歩けるまで回復したのだ。

 

 寝小便して泣きべそ掻いていた頃が懐かしいわあ、と言われて、七転八倒して少しばかり回復を遅らせた霊夢は、おそらく悪くはないだろう。

 

 というか、その時たまたま来ていた永琳から『――さ、さすがにそこまでしなくてもいいわよ』とフォローが入ったぐらいなのだから、色々とお察しであった。

 

「でも、霊力だって以前の3割ぐらいしか出せないでしょ? それは霊夢の身体を治す方に回されているからであって、無理をすればまた……」

「そうは言っても、アレから何の手掛かりもないでしょ。さとりの言う通り、私以外ではあいつを探せないのかもしれない。その私が、何時までも床に着いているわけにはいかないでしょうが」

「それは、そうだけど……」

 

 霊夢の正論を前に、紫は言い掛けた反論を呑み込んだ。霊夢のいう事は紛れもなく事実であり、例の少女については何一つ分かっていないというのが正直な現状であった。

 

 もちろん、紫たちもサボっているわけではない。いや、むしろ、博麗の巫女襲撃という凶行に及んだ首謀者の捜索に関しては種族の垣根を越えて協力体制にあり、24時間体制での捜索が行われていた。

 

 だが、見つからないのだ。何処を探しても、例の少女が見つからない。妖怪の山を始めとして、その妖怪すら入れない彼岸や冥界にも、一度入れば二度と出て来られないという迷いの竹林にも、人里の内と外も徹底的に探し続けているが……結果は思わしくない。

 

 しかし、手掛かりが全くないかと問われれば、そういうわけでもない。

 

 ――岩倉玲音(いわくら・れいん)

 

 それは、さとりより教えられた、霊夢の失われた空白の記憶の中にあったという、その名前。何処かで聞いたような覚えがあるその名の持ち主が、首謀者(あるいは、関係者)である保障はないし、例の少女である保障もない。

 

 だが、霊夢はそいつこそが首謀者であると思っている。と、同時に、そいつの名前こそが岩倉玲音であると思っている。根拠は何一つ持ち合わせていないが、『勘』がそうだと訴えているから、そうなのだろうと霊夢は結論を出していた。

 

「紫の気持ちは有り難いけど、私は博麗の巫女。怠け巫女が本当の怠け者になっちゃあお終いでしょ」

 

 ちらりと開け放たれた障子の向こうから入ってくる空気には、夏の臭いが混じっている。なので、押し入れより引っ張り出した夏用の巫女服を身に纏う。トレードマークであるリボンで纏めながら、最後にもう一度姿見で確認……よし。

 

 ――それじゃあ、行くから。

 

 それでもなお手を伸ばしてくる紫の手を握って宥める。次いで、縁側に置かれた靴を履いて、そのまま床を蹴って神社の外へ。ふわりと空へと舞い上がった霊夢は、勢いをさらに加速させてはるか彼方へと一気に浮上する。

 

 びゅう、と、上昇するに連れて頬を掠めてゆく風は、常人なら目を開けることすら難しい程に強く、激しい。けれども、霊夢の前ではそよ風にも等しく、ものの十数秒程で霊夢の身体は青空の中にあった。

 

「……うん、やっぱりここがいいわ」

 

 雲が僅かにチラつく空の中で、霊夢は一人静かに息を吐く。梅雨が近づいているとはいえ、まだ風に含まれる湿り気は少ない。日差しの強さも程よく、まるで水面に身体を浮かせているかのような気分で、霊夢はゆらゆらと己が身体を揺らした。

 

 霊夢は、『主に空を飛ぶ程度の能力(霊力を操る程度の能力)』と呼ばれる力を持っている。

 

 故に、空においての霊夢の自由は天狗と同等。いや、場合によってはそれ以上の動きを可能としており、ある意味では空は霊夢の独壇場でもあった……が、しかし。

 

(……紫の言う通り、まだ本調子じゃないわね。前よりも少しばかり身体が重い……以前通りに動くとなると、10秒持てばいい方ね)

 

 空から離れて、二か月近く。気分こそ青空と同様に晴れ渡ってはくれたが、永琳と紫の見立ては正確なようだ。肉体がまだ順応出来ておらず、気を緩めるとすぐに高度が下がってしまう。

 

 下がり過ぎると危険なので、その度に高度を上げる。どうして危険かといえば、高度を下げると必然的に妖怪たちの領域に近づいてしまうからだ。

 

 幻想郷内において、人間の安全が保障(絶対ではない)されているのは、人里を含めてそう多くはない。基本的には人里以外は妖怪たちの領域であり、小一時間も歩けばまず妖怪に襲われてしまう。

 

 けれども、ルールを理解せず襲ってくる妖怪の大半は空を飛べない。中には飛べる妖怪もいるが、そういうのは基本的に(絶対ではない)ルールは守る。なので、霊夢のように空を飛ぶことが出来る者は、空を飛んで移動するのが一般的である。

 

 しかし……今は、その飛行が辛い。そう、霊夢は思った。

 

 痛みはないが、身体が重いのだ。まるで全身に砂鉄を張りつけたかのように気怠く、息も少々切れる。回復しているとはいえ、体力が低下していることを改めて突き付けられた気がした。

 

 とはいえ、辛くなったからといって戻るわけにはいかない。ここで戻れば、今度こそ紫の手で一ヵ月近く看病(軟禁)されるのが目に見えている。だから、霊夢は顔色一つ変えないまま、己の内にある『勘』に任せて空を飛んだ。

 

 紅魔館、妖怪の山、命蓮寺、人里、迷いの竹林。回る順番は、特に決まりはない。回るにしても空から様子を伺うだけでそれ以上のことはせず、そこの住人と接触することは避けた。

 

 いちいち襲い掛かってくるやつらではないが、今の身体で『弾幕ごっこ(幻想郷内における、決闘ルール。いちおう、安全ではある)』は身が持たない。最悪、紫が出張って来たら色々とややこしくなると判断した結果である。

 

 そうして……一通り回った頃にはもう、昼過ぎとなっていた。

 

 その頃になると、さすがに涼しかった風は少しばかり生暖かくなっている。頭上より降り注ぐ日差しは鬱陶しさを覚える程になっており、霊夢は頬を伝う汗を巫女服の裾で拭い……少々、気落ちしていた。

 

 理由は二つ。異変の手掛かりが何一つ見つからなかったという点と、己の勘を持ってしても、正解(首謀者)へと辿り着けなかったという点の、二つであった。

 

 こんなことは、今までで初めてであった。これまで応対した異変では、勘を頼りに進んでいれば勝手に首謀者に辿り着いた。邪魔してくるやつらを片っ端からぶっ飛ばしていれば、自然と異変は解決した。

 

(私の勘が鈍った……いや、それはない)

 

 感覚的な部分ではあるが、『勘』は確かに働いている。それこそ、負傷して目覚めた時から今日まで、絶えず霊夢は『勘』を覚えている。むしろ、働き過ぎて一部壊れたりしないかと不安を抱いたぐらいだ。

 

 その勘が、今も訴えているのだ。首謀者は、すぐ近くにいる。振り返ればそこに、立ち止まればそこに、鏡を見ればそこに。もしかしたら己の不調の幾らかはコレが原因ではないかと、霊夢はふと思う。

 

 ……今日は、ここらで止めておこう。煮詰まり掛ける頭を自覚した霊夢は、そう判断した。

 

 他にも幾つか回りたい場所はあるが、行くには些か遠く、この身体では道中で力尽きる可能性がある。なので、そちらは後回しに決め、一度神社に引き返すことにした……と、不意に、視界の端で何かが過った。

 

 ――何かしら?

 

 そう、霊夢が思った瞬間。ふわりと、黒い影が目の前を過る。妖怪だと思った瞬間、閃光が視界を染める。直後、あっ、と思った時にはもう眼前には逆さの顔が止まっていて……肩の力を抜いた霊夢は、そこで初めて目の前の妖怪の名を呼んだ。

 

「文……頼むから、調子の悪い時に脅かすのは止めて貰える? あんたら天狗は何時から脅かすのが仕事になったのよ」

「おや、忘れましたか? 脅し脅され脅かし合うのも妖怪の本分。相手が霊夢となれば、やる気も十分ですよ」

 

 逆さ顔の正体は、女鴉天狗の射命丸文(しゃめいまる・あや)であった。鴉の翼を生やした彼女は悪びれた様子もなく、ぐるりと反転して手に持ったカメラを構えると、霊夢と目線を合わせて止まった。

 

「職務復帰、おめでとうござ――っだあぁ!?」

 

 外の世界においては敬礼と呼ばれるポーズを取りながら写真を撮ろうとする文の脳天に、札を一枚叩きつける。妖怪相手には、これに限る。思わず悶絶する文の手から素早くカメラを奪い取ると、かちかちと弄り始めた。

 

 カメラを触るのは初めてだが、こういうのは直感でどうとでもなる。「ちょ、あの、下手に触らないでください!」ようやく復帰した文が青ざめた顔で手を伸ばしてくるが、霊夢は背中でそれらを遮り……おや、と首を傾げた。

 

「撮った写真が見られないじゃない。これ、壊れているんじゃないの?」

「何を言っているんですか。フィルムなんですから、現像しないと駄目ですよ」

「え、でも前に早苗のやつが、今のカメラはその場で撮った写真を確認出来るって言っていたけど?」

「それは外のカメラの話ですよ! 私のカメラにはそのような機能はございません。写真が見たいのであれば、コレを渡しますからどうかカメラをお返しをば……!」

「あら、悪いわね。何だか気を使わせちゃったわ」

 

 何ら気にした様子もなくカメラを返す。巫女は、この程度では動じない。カメラに頬擦りして感涙する文を他所に、霊夢は渡された写真を一枚ずつ確認し……静かに、目を細めた。

 

 驚くべきことに、幾つかの写真には……例の少女が映っていた。

 

 ある時は森の中で、ある時は湖の畔で、ある時は人里の中で。どれも被写体の中心からは外れているが、それでもあの時見たDVDの少女と同じ姿をしている。

 

 狙ったが中心から外れたというよりは、偶発的に撮れたものと見て間違いないだろう。例の少女の視線は文へと向けられているものもあるが、大半は別の場所へと向けられていた。

 

(ピンと来たと思ったら……文のやつは気づいていないようね)

 

 ちらりと横目で見やれば、カメラを抱えて後ずさる文と目が合う。素敵な巫女を相手に何と失礼なと思いつつ、「ねえ、コレなんだけど……」霊夢は例の少女が映っている写真を文に見せた。恐る恐る写真に顔を近づけた文は、ああ、と頷いた。

 

「これはまあ良さそうなのを撮ったというだけなので、今のところ使う予定はありませんが……それが何か?」

「何かって、気付かないの?」

「……気付くって、何に? え、もしかして巫女的にはこれ、駄目なんですか!? そんな殺生な、やましい写真ではありませんでしょ!? どうか御目こぼしを……!」

「いや、気付かないのならそれでいいわよ……ていうか、あんたは私を何だと思っているのよ」

 

 先ほどカメラを借りた時以上に青ざめ、手を合わせて頭を下げる文の姿に霊夢は苦笑した。しかし、苦笑するその胸の内では……さとりが示した仮説が立証されてしまうことに、舌打ちを零していた。

 

 この期に及んで天狗たちが何か策略を巡らせている……なら、話は早い。だが、そうではないだろう。排他的な考えが根付いているけれども、文を含めて天狗たちは馬鹿ではない。

 

 少なくとも、この状況下でそれをすれば、八雲紫を……引いては、幻想郷の安定の為に協力している穏健派の全てを敵に回しかねない。そんな愚策を取るような者たちなら、一大勢力になんぞはなってはいない。

 

 やはり、例の少女……いや、止めよう。岩倉玲音は、やはり幻想郷の何処かにいる。そして、何かしらの認識障害を引き起こし、紫たちの捜査網を掻い潜っているようだ。

 

(……これは、骨が折れそうだわ)

 

 紫たちの捜査網と目がザルと節穴に変えられている以上は、現時点で岩倉玲音を認識出来るのは霊夢のみ。加えて、頼みの綱でもある『勘』が不調のせいで、何時ものように事が運ばない。

 

 つまり……この広い幻想郷の何処かにいて、常に逃げ回っている相手を、勘無しで直接捕まえなければならない……というわけだ。しかも、病み上がり……霊夢でなくともため息に一つは零すであろう現状に、当の霊夢は耐え切れずにため息を零し――っ!

 

 ――その時、大気が震えた。

 

 ハッと、霊夢の目が見開かれる。音はなく、風もない。だが、確かに霊夢は捉えていた。幻想郷を流れる何かが変わり、世界そのものが、ガタン、と震えたのを。

 

「――霊夢さん!」

「付いて来なさい!」

 

 それは、文も気付いていた。霊夢と同じように緊迫した面持ちとなった文は、震源地へと先に飛び出した霊夢の後を追いかける。鴉天狗特有の黒い翼をはためかせた文の身体は瞬く間に加速を続け、霊夢の背後へと瞬時に追い付き……その身体を抱き締めた。

 

「――って、あんた何を!?」

「辛い時は辛いと素直に頼むものですよ」

 

 そう言い終えるや否や、文の身体が加速する。抱き締められた霊夢は抵抗することも出来ないまま、魔法の森の外れの外れ……すなわち、幻想郷の端へと連れて行かれるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、到着した霊夢たちを待ち受けていたのは、悪臭と呼んで差し支えない酷い異臭と、幻想郷には似つかわしくない、一面の黒。すなわち、外の世界ではアスファルトと呼ばれる物質で覆われた、黒い大地であった。

 

 魔法の森とは、幻想郷の端にて広がる森のことを差す。生えている木々そのものは外の世界とそう変わらないが、森の中に栄えている茸が魔法使いの魔力を高める作用があるとかで、何時しかそう呼ばれるようになった場所だ。

 

 元々人里から離れているのもあって、本来、そこに人工物(住人は、いる)はない。霊夢と文の記憶にも、そこには鬱蒼と生い茂る木々が広がるばかりで、特に目立つものはなかった……はずだ。

 

 しかし、今。霊夢たちの前には、幻想郷では見られない人工物がある。機械、鋼鉄、金属……そういった方面には疎い霊夢にはそれが何なのかは分からなかったが、それらは信号機や車やガードレールといった、外の世界においては有り触れた文明の一つであった。

 

「あやや~……いやあ、これは凄いですね。かれこれ千年近く長生きしましたが、こんなのは初めてですよ」

 

 上空からそこを見下ろした文は、思わず感嘆のため息を零した。何故なら、広がる人工物の規模が大き過ぎるのだ。

 

 幻想郷では、時折ではあるが、外の世界にて忘れ去られた物が流れ着く。そのほとんどが無縁塚(むえんづか)と呼ばれる場所に向かうのだが、時にそこ以外の場所にも流れ着くことがある。

 

 しかし、それらは総じて、小さいものばかりだ。大きいやつでも、せいぜいが洗濯機やブラウン管テレビといった程度のもの。これほど大規模な流入は霊夢だけでなく、千年生きた文にとっても初めてのことである。

 

 パッと見た限りでも、地平線の彼方……までは言い過ぎだが、人工物の範囲は人里を覆い隠す程に広い。そのうえ、奥の(つまり、結界の端)の空は黒煙か何かが漂っていて、途中から先を空から伺うことが出来ない。

 

 まるで、外の世界の一部がそのまま流れ着いたかのよう。実際、驚いているのは二人だけではない。異変に気付いた多種多様な妖怪が見物がてら、ぞろぞろと集まって来ては歓声をあげているのが二人の目に止まった。

 

「……文、私をあそこに下ろしなさい」

「あやや、いいんですか? 私が言うのもなんですけど、けっこう臭いですよ、あそこ」

 

 臭い、その正体は排気ガスと呼ばれるものである。けれども、この幻想郷においてその臭いを嗅ぐことは稀だ。文もそうだが、霊夢が分からないのも仕方ない話である。

 

「構わないから、下ろしてちょうだい」

 

 あいあいさー。言われるがまま、文は霊夢を抱き締めたまま高度を下げる。数メートルの地点で腕から離れてアスファルトに降り立った霊夢は、傍にあるボロボロのバイクに、そっと手を当てた。

 

 何をしているのかと言えば、物に宿る魂を見ているのだ。

 

 これによって、霊夢は一見捨て置かれる物から様々な情報を得ることが出来る。面倒なので普段は頼まれてもやらないが、こういう目撃者がいないような場合においては非常に有用な手段の一つであった……のだが。

 

(駄目ね、中身が空っぽだわ)

 

 残念ながら、バイクからは何も感じ取れなかった。まあ、仕方がない。物に魂が宿るというのは、一朝一夕で起こる話ではない。なので、霊夢は周辺の人工物からではなく、結界の様子から情報を集めることにする。

 

 体内に渦巻く霊気を手に集中し、手を空へとかざす。パシャパシャとシャッターを切る文の姿が視界の端に止まり、巫女の登場に妖怪たちの一部がざわめいていたが……構わず、霊夢は作業を始める。

 

(結界は……損傷はほとんどない。でも、少し揺らぎがあるわね。揺らぎに乗じて紛れ込んだ……にしては、規模が大きい……結界が破損していないのは不幸中の幸いだわ)

 

 天変地異の前触れ……にしては、これまでと違う。そう思った霊夢は、人工物が立ち並ぶその先へと歩を進める。気づいた文が慌てて追いかけてきたことに気付いてはいたが、霊夢はそのまま先へと進む。

 

 ……幻想郷における天変地異は外の世界とは幾つか共通する部分があると同時に、異なっている部分もある。また、その対処法も外の世界とは少し違う。

 

 例えば、地震。基本的なメカニズムは外の世界と同じだが、違うのは地震が起こる前に、地震が起こることを100%の精度を持って人々に伝えに来る妖怪がいること。そして、地震の力を抑え込むことが可能であるということ。

 

 例えば、大雨などの水害もある程度はコントロールすることが可能となっている。これは雨を安全な場所に逃がすのではなく、雨そのものをある程度他所に外すというもの。

 

 他にも共通していたりしていなかったりするものが幾つかあるが、その中でも幻想郷特有の天変地異が一つある。それは、内と外とを隔てる博麗大結界に関する異常だ。

 

 紫を始めとする妖怪の賢者たちが文字通り死力を尽くし、初代博麗の巫女がもたらした起死回生の一手によって完成させた、博麗大結界。その結界は非常に強固であるが、絶対不変というわけではない。

 

 時に、結界そのものが不安定になることもあり、それによって内と外との境目があやふやになることがある。霊夢が疑ったのは、その点についてであった……と。

 

「――来ていたか、霊夢」

 

 修発地点から、かれこれ1km程を歩いた辺りだろうか。バイクやら車やらの人工物に溢れた道を歩いていた霊夢の前に、古代道教の法師を彷彿とされる格好をした女性が、ぬるりと姿を見せた。

 

 女性の名は、八雲藍。紫の式神にして、その正体は九尾の狐である。霊夢とも顔馴染みの間柄である彼女は小走りに駆け寄る……そして、霊夢の顔を見て、やれやれとため息を吐いた。

 

「最低限は教えるから、今日はもう休め。紫様も、夜には戻られるだろう」

「何だ、既に紫も動いているのね……っていうか、あんたまで心配性にならなくてもいいじゃない」

「馬鹿者。そうも血の気の引いた顔を見せられるこちらの身にもなれ。人間は本当に脆くてか弱いから堪らぬ」

 

 そう言うと、藍は懐より竹筒を取り出すと、それを霊夢に差し出した。受け取った霊夢はお礼を述べてから竹筒を傾け……喉を鳴らして、一気に全部を飲み干した。

 

(……ああ、駄目だ。やっぱり、けっこうキツイ)

 

 水分が補給されたことで、気が抜けたのか。一息ついた途端、くらりと霊夢の視界が揺らいだ。けれども、倒れない。その前に、霊夢の身体を藍が支えたからであった。

 

 ――ほれ見た事か。

 

 そう言わんばかりに目を細めて呆れる藍に思うところはあるが、霊夢は言い返さなかった。実際、自覚以上に消耗していることに気付かなかった己の落ち度であると、霊夢は思ったからだった。

 

「……それで?」

「ふむ、現時点ではまだ何も分からんというのが正直な所だな。しかし、結界の一部が非常に薄くなっているところが見つかったから、おそらくは霊夢……お前が負傷したことで緩んでしまったのだろう」

「あら、私のせい?」

「ああ、そうだな、お前のせいだ。それを自覚したのなら、神社に戻ってとっとと休め――ああ、それと、そこの天狗」

 

 辺りを撮影しまくっていた文が、ビクッと肩を震わせた。「な、何でございましょうか!?」カメラを後ろ手に隠しながら後ずさる文に、どいつもこいつもと藍は深々とため息を零した。

 

「天魔殿より伝言を預かっている。14時に幹部を含めた緊急会議を行うので、気付いたらすぐ戻るようにとのことだ」

「じゅうよ――っ!?」

 

 瞬間、文は慌てた様子で腕に巻いた時計を見やった。直後、文の顔色が一気に白くなった。青ではなく、白色。生き物の顔色ってここまで見事に変色するのねと霊夢が眺めていると、我に返った文はその場から跳んだ。

 

 轟音……そして、必死の形相。黒い翼を背中より出した文は、弾丸が如き速さで空へと飛び立つと、再び弾丸となって飛び去って行った。行き先は……まあ、いいか。

 

「じゃあ、もう行くから」

「送ってやろうか?」

「あいにく、そこまで鈍ってはいないわよ」

「そうか、それならいい」

 

 詳細が分かったら連絡するという藍の言葉を受けて、霊夢はその場より離れる。途中、振り返ってみれば、もうそこに藍はいなかった。おそらく、紫の下へ向かったのだろう。

 

 ああ……腹立たしい。

 

 ままならない己の身体に苛立ちを覚えながら、霊夢は歩く。薄汚れた信号機、所々ひび割れたアスファルト、コンクリートの建物、錆びだらけの外灯。見慣れない物ばかりの中を、進んでゆく。

 

 空を飛ばないのは、せめてもの反抗ではあるが……それ以上に、興味が引かれたからだ。どう見ても廃棄された物ばかりだが、目に映る全てが見慣れない物ばかりだからか、古ぼけたそれらを眺めているだけでも十分に楽しめた。

 

 ……外では、こういうのが普通なのだろうか。

 

 ふと、霊夢は思う。さすがにココにあるものよりも真新しいものばかりだろうが、少し気になる。物心ついたその時から幻想郷(ここ)で育った霊夢にとって、眼前に広がるそれらはまるで、何時かの時代の黒船同然であった。

 

「……ん?」

 

 とぼとぼと来た道を戻っていると、不意に視界の端で何かが過った。それを認識すると同時に、両手に退魔針(対妖怪武器、当たると超痛い)を瞬時に構えた霊夢は、素早く身を翻して物陰に隠れた。

 

 周囲全てが外より流れ着いたものばかりだから、だろうか。妖怪の気配はするが、上手く位置が掴めない。おそらく向こうも同様だろうが、有利なのは向こう。やるなら、一撃で仕留めなければ。

 

 そう考えた霊夢は、周囲の気配に注意しながらも、先ほど視界を過った相手を探す。向こうにその気がないのであればそれで良いが、仮にこちらを狙って来ているのだとしたら……仕方がない。

 

 廃墟の仲を通り過ぎ、電柱の陰と車の陰を屈んで進む。そして、割れたガラスが残る建物の陰から気づかれないように、ゆっくりと確認した霊夢は……おや、と目を瞬かせた。

 

 何故かといえば、霊夢の視線の先。錆びだらけの車の陰から小走りで姿を見せたのが、この辺りでは見掛けない妖怪の少女。すなわち、地底の妖怪であったからだ。

 

 しかも、ただの地底妖怪ではない。衣服の隙間から伸びる管に繋がれている、瞼が閉じられた目玉は覚り妖怪の証。緑と灰とが混ざり合う髪の色が鮮やかなその少女の名を、霊夢は記憶していた。

 

 たしか、古明地……そう、古明地こいし。

 

 あの古明地さとりの妹で、心を読む能力を捨てる代わりに『無意識を操る程度の能力』を得た妖怪だ。その能力ゆえに無意識に行動してしまい、幻想郷のあちこちを放浪している妖怪……な、はずだ。

 

 そんな彼女が、どうしてここにいるのだろうか?

 

 疑問を抱いた霊夢であったが、まあ推測は付く。どうせ、無意識のままにフラフラと歩き回っていたら、ここに来てしまったのだろう。そう結論を出した霊夢は、「ちょっと、そこのアンタ!」陰から出ると同時にこいしを呼んだ。

 

 振り返ったこいしの目が、霊夢を捉える。途端、緑色の目が大きく見開かれた。ぽかん、と大口を開けるその様は、遠目からでも驚いているのが丸わかりであった。

 

 他者の無意識を無意識のままに操ってしまうことで、他者から認識されなくなる。だから、彼女のことを認識すること事態が難しく、接触するとなると稀だ。

 

 だからこそ、自らを見つけたことに驚いたのだろう。その特性を知っている霊夢は特に驚くことなく駆け寄ると、「あんた、さとりの妹の古明地こいしでしょ」その名を呼んだ。

 

「ここは結界の境が曖昧になって危険よ。用が有ろうと無かろうと、すぐにこの場を離れな――」

「お願い、助けて!」

「――さ……はあ?」

 

 が、このような反応は想定外であった。突然の救援要請に面食らう霊夢を他所に、こいしは目尻に涙を溜めたまま、霊夢の手を取って縋った。

 

「お姉ちゃんを助けて! お願い、何でもするからお姉ちゃんを助けて!」

「ちょ――ちょっと待ちなさい。え、お姉ちゃんって、さとりのことよね?」

 

 ぐらんぐらんと身体を揺さぶらるのを、何とか止める。見た目が少女であるとはいえ、中身は立派な妖怪だ。成人男性並みの力はあるようで、消耗した身体には堪える。

 

 なので、何とか宥めようとするのだが、中々こいしは落ち着いてくれない。何を尋ねても二言にはお姉ちゃんを助けてと繰り返すばかりで、一向に話が進まない。

 

 自他共に温厚で素敵な巫女だと思われていると思っている霊夢も、これには少々苛立った。故に、徐々にこいしに対する話し方もぞんざいなものとなるのも霊夢的には致し方ないことであった。

 

「あのねえ、さっきからお姉ちゃんを助けてってさあ。私の知る限り、さとりの周りには頼りになるやつらがチラホラいるでしょ。特に、鬼の勇儀が睨みを利かせているじゃないの」

「駄目なの! 勇儀さんじゃあ駄目なの! 霊夢、あなたじゃないと駄目なの! お願い霊夢、お姉ちゃんを助けて!」

 

 けれども、その苛立ちも。

 

「お姉ちゃん、怯えているの! レインが来る、レインが見ているって、ずっと怯えているの!」

「――ちょい待ち。その話、ここでは止めなさい。とにかく、私もそろそろ体力の限界だから。一旦、神社に戻ってからにしましょう」

 

 こいしの口から飛び出た、玲音(レイン)という単語に、全て吹き飛んだのであった。

 

 

 

 

 


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