Serial experiments □□□ ー東方偏在無ー 作:葛城
うちも、やったんだからさ?
緑色と灰色とが混ざり合う鮮やかな、癖毛。元々の髪質が柔らかいのもそうだが、この暑さのせいだろう。何かしたわけでもないのに、くるりくるりと丸まっている己が髪を手で弄っていたこいしは、何時もの巫女服に着替えている霊夢を見やった。
「――で、私に皆との仲介役をしろってわけ?」
「皆ってわけじゃないわよ。とりあえず、『鬼』を7、8ぐらいは見繕ってくれないかしら」
「霊夢はさ、普段はなーんもしないけど、サラッと物凄い要求を突き付けたりするよね?」
昼間を回り、おやつ時。未だ昼間の熱気に衰えが見られない博麗神社にて、こいしの声が蝉の声に紛れて掠れた。
「別に難しいことをしろってわけじゃないわ。ただ、あいつらって同じ地底仲間じゃないと、まずまともに話を聞いてくれないでしょ」
しゅるり、と。帯を解いて着物を脱ぎ捨てた霊夢は、皺が付かないように丁寧に畳んでいる。その後ろ姿はどこまでも少女然としていて、パッと見た限りでは数多の妖怪が恐れる博麗の巫女だとは誰も思わないだろう。
実際、こいしの目から見ても、霊夢はそんな恐ろしい存在には思えなかった。そりゃあ、放たれる霊力とかを見れば怖れどころか裸足で逃げ出すぐらいだが、その見た目は己とそう変わら……あっ。
サラシを撒く為に露わになった、霊夢の華奢な背中。僅かに掛かっている後ろ髪の合間に見える大きな傷跡に、何気なく向けられていたこいしの視線が止まった。
それは、春頃に霊夢が負った傷の痕であった。健康的に焼けた他の部分とは違い、そこだけ明らかに色素が薄い。魔理沙などから人伝でしか耳にしていないが……相当な深手だったとは聞いている。
……よくぞ生きていられたもんだと、こいしは思った。
何故かといえば、その傷跡が紛れもなく心臓の真上にあるからだ。普通の人間なら……いや、場合によっては妖怪であったとしても即死の傷。膨大な霊力を持つとはいえ、ここまで回復出来るあたり、まあ化け物だろうなあ……っと。
「――なんか失礼なこと考えていない?」
「ううん、全く。ただ、霊夢を襲ったやつのこと……誰も気にしなくなったなあって、思ってたの」
「ああ、そんなの決まっているじゃない。誰も、覚えていないし、覚えられないからよ」
「それは分かってる。でも、前は写真を見れば思い出したけど、今では写真を見ても全然思い出さなくなったなあ……って」
振り返った霊夢に、こいしはそういって話を逸らした。けれども、そうして話を逸らしてみれば、不思議とそのことに意識が向く。霊夢も似たようなものなのか、幾らか納得した様子で着替えを再開した。
「……霊夢はさ、色々と気にならないの?」
「色々って、何が?」
「色々って、色々だよ。霊夢を襲ったやつのこと。地底に入れなくなったこと。誰も……岩倉玲音のことを覚えていないこととか……それに……」
「それに?」
「……お姉ちゃんのことも」
ぽつりと零したこいしの言葉を、霊夢は聞こえないフリをした。
「……何で、私たち以外、誰も気にも留めないんだろうね」
「さあね。理由は何であれ、まずは目の前の問題を片付けないとどうしようもないわ。あんたが歯痒い思いをしているのは分かっているけど、私もそれだけを考えて動くわけにはいかないの」
「……分かっているよ、それぐらい。だから、私も里でお手伝いしているでしょ。妖怪なのに、毎日妖怪を退治しているんだよ、私も」
ごろりと畳の上で仰向けになったこいしの呟きに、霊夢はそれ以上を答えなかった。そうして、しばらく着替えを眺めた後。サラシを撒き終え、何時もの巫女装束に身を包んだ霊夢に、こいしは改めて尋ねていた。
……あの日、こいしが霊夢の下に身を寄せてから、今日まで。
未だ詳細が全く掴めていない『岩倉玲音』という少女のこと以外にも、様々なことが幻想郷には起こっていて……それが原因で、霊夢たちは未だ本格的な調査が行えないままでいた。
そう、忙しいのだ。何とか暇を見つけては探そうにも、次から次へと仕事が舞い込んで来て、身動きが取れない。無視して他に振ってやるには些か厳しい仕事が多く、そうこうしている内に夏季に突入してしまった……というわけだ。
厳しい仕事とはというと、例えば、地上へと強引に追いやられてしまった地底妖怪の処遇の問題がそうだ。
さとりの能力によって一時的に地上へと追いやられた地底妖怪たち自体には特に後遺症等はなく、全員が元気に回復していた。しかし、問題はそこから先……地底妖怪の行き場が、地上にはないという点だ。
何せ、地底妖怪はごく一部の例外を除き、『地上から弾かれてしまった』妖怪である。それは心を入れ替えるならば……などといった、単純な話ではない。
例えば、地底妖怪の一人、『病を操る程度の能力』を持つ妖怪が、ソレだ。
本人に悪気が有ろうと無かろうと、無意識に病気を振りまいてしまう。人が生きていくうえで欲求を捨て去れないように、抑えようと思っても抑えられないものがある。地底妖怪たちは、そういう性質を持った者が多いのだ。
ならば、また地底に戻せば良いのでは……と思うところだが、そう上手くはいかない。何故ならば、地底での騒動の原因……すなわち、古明地さとりの消息が不明であるからだ。
何処を探しても、見つからないのだ。被害がほとんどなかったとはいえ、大騒動を引き起こしたさとりを、紫を始めとした賢者たちは許さなかった。理由を問いただす為に、幻想郷の隅から隅まで捜索した……のだが、見つからかった。
そう、何処を探しても見つからなかった。地霊殿(さとりの自室は、普通に入れるようになっていた)を始めとして、地底を隅から隅まで探したのだが、見つからなかった。影も形も見つけられないとは、この事をいうのだろう。
これには紫たちも驚き、勇儀を始めとしてさとりと交流があった者たち(真っ先に、こいしが探し回ったらしい)を片っ端から事情聴取していった……けれども、それでも足取りは掴めなかった。
いったい、さとりは何処へ行ってしまったのか。
どうして、地底妖怪たちを地上へと追いやったのか。
その理由が未だ分からないうえに、地霊殿のさとりの自室にて発生し、鬼の勇儀すら即座に昏倒させた謎の黒霧の正体とて、不明なまま。
何度か様子を見に行った時には黒霧も消えていたので、今すぐどうこうなることはないだろうが……再び発生しないという保証はない。それに、いくら厄介者揃いの地底妖怪とはいえ、そんな場所に戻すわけにもいかない。
なので、紫たちは地底妖怪たちを……幻想郷の端に出現した、黒い大地。アスファルトやら何やらが目立つ、あの場所にて生活するように提案(強制)し、地底妖怪たちはあの場所で……というのが、地底妖怪たちの今に至るまでの経緯である。
加えて、問題は他にもある。
それは、例年にはない、例年よりもはるかに厳しい猛暑と共にやってきた、しばらく前より発生している数多の木端妖怪の大発生。その頻度と影響は幻想郷史において数えられるぐらいに最悪といっても過言ではなく、既に里の機能が一部麻痺するにまで追い込まれていた。
現時点で里内に侵入した妖怪による死者こそ出ていないものの、被害は決壊寸前の堤防状態。冬に回すはずの人力(リソース)を今に回すことで何とか持ちこたえているが、このまま行けば何時までには妖怪という名の濁流が流れ込んで来る……それが、里の現状である。
そして、霊夢を襲ったとされる『岩倉玲音』の存在。
春頃より今日まで細々と捜索は続いているが、それも難航している。何故かといえば、かつてさとりが危惧したように、誰も『岩倉玲音』という存在を記憶出来ず、仮に見つけていたとしてもソレが『岩倉玲音』であると認識出来ないからだ。
そう、誰も『岩倉玲音』を覚えていないのだ。人間も、妖怪も、神々ですら例外ではない。現時点で『岩倉玲音』という存在を正確に記憶出来ているのは、博麗の巫女である博麗霊夢と、古明地さとりの妹である古明地こいし……この両名のみ。
紫を始めとして、交友のある者たちに片っ端から『岩倉玲音』に関する情報を伝えても、翌日には……いや、下手すれば数十分後には忘れている。だから、捜査が進まない。
どうして、何故、二人だけが覚えていられるのか。
それは、当の二人にも分からない。さとりが消息を絶つ直前、最後に会話した霊夢(おそらく、こいしも)に何かをしたのか、あるいは『岩倉玲音』がわざとそうしたのか、それとも彼女にとっても想定外であるのか……それすらも、霊夢たちは分かっていなかった――っ。
――フッ、と。
前触れもなく突然に、二人の傍に銀髪がふわりと揺れた。ギョッと目を見開いて肩を震わせるこいしと、胡乱げな霊夢の視線が向けられる。そこに立っているのは、少々おみ足の露出が目立つメイド服を身に纏った、背の高い美少女であった。
その少女のフルネームは、『十六夜咲夜(いざよい・さくや)』。紅魔館と呼ばれる吸血鬼が住まう館のメイド長を務める人間の少女である。銀色寄りの青い髪に青い瞳を持つ彼女は、はて、と霊夢を見て小首を傾げた。
「地底妖怪の所へ行くのよね?」
「……あ、うん、そうだけど」
「それじゃあ、日が暮れる前に行きましょう。お嬢様が起きる前にやることを済ませておかないとね」
そう誰に言うでもなく告げると、咲夜はするりと背筋を伸ばして制止した。意識してのそれではなく、ごく自然体のままにしか見えない所作は見事なまでに美しく……それを見た霊夢は。
「じゃあ、道中の露払いは任せるわ。最悪、鬼どもとやり合うかもしれないし、体力は温存しておきたいから」
「ええ、よろしくてよ」
「ついでに今日の晩御飯もお願いね。朝っぱらから働かされっぱなしで疲れているのよ」
「それも、よろしくてよ」
「それと、今度飯をタカリに行くから、そんときは洋酒の1本や2本飲ませなさいよ」
「はいはい、全部よろしくてよ」
特に驚くこともなく、あっさりと了承した。「――え、ちょ、え?」対して、こいしの反応は顕著であった。まあ、突然見知らぬ女が現れて、当たり前のように同行することを前提にされれば、誰でも混乱はするだろう。
現に、こいしは混乱した。なんかどっかで会った事が有るような、無いような。いったい何だと思って霊夢を見やれば、「……あ、こいつは十六夜咲夜って名前よ」そう返された。
――違う、聞きたいのはそこじゃない。というか、それぐらいは知っている。
その言葉を、こいしは寸での所で呑み込んだ……というか、眉一つ動かさずさらっとこき使おうとする霊夢がおかしいのだろう。心臓に穴が開いても復活するようなやつは、性根が常人と異なっているのかもしれない。
まあそれは、地底妖怪がいると分かっていて同行しようとする、眼前の少女もそうなのだろう。「ほら、行くわよー」どことなく気怠そうにしながらも、ふわりと鮮やかに空へと飛び立つ霊夢と咲夜の後に続きながら……こいしは、考えることを止めた。
――音も無く、初動も無く、咲夜の姿が消える。
それは比喩でも何でもなく、文字通り影も形も残すことなく獲物が姿を消したことに、6つの眼球を持つ鳥妖怪は面食らって辺りを見回した。
ぎょろぎょろと四方八方へと動き回るその瞳が、一瞬の煌めきを視界に捉えた――その時にはもう、遅かった。
何故なら、光に気付いた時には六つの眼球全てにナイフが根元まで突き刺さっていたからだ。対妖怪用として鍛えられたその刃先は、人間とは比べ物にならないぐらいに頑丈な組織をも容易く突き刺さる切れ味であった。
――ぐぎょおお!?
妖怪とはいえ、突然視界を奪われれば(おまけに、激痛もある)混乱する。自分がどこにいるのかも忘れ、悲鳴を上げて螺旋を描きながら落下し始めるその身体に……気付けば、十数本のナイフが突き刺さっていた。
今度も、音はなかった。初動も、なかった。気づけば、ナイフが突き刺さっていて、気付けば、鳥妖怪は絶命していた。客観的な事実がそこには有って、それしか見ることが出来なかったこいしは……ただただ、呆気に取られていた。
……幻想郷には、『程度の能力』と呼ばれる特殊な力を持つ者が多数いる。例えば、魔理沙が『魔法を扱う程度の能力』で、霊夢が『霊気を扱う程度の能力』のように、こいしの身近にだってそれなりにいる。
その中でも、紅魔館の忠実なるメイドであり、泣く子も黙る殺人人形(さつじんドール)とも某所で呼ばれている十六夜咲夜が持つ『程度の能力』は、『時間と空間を操る程度の能力』という、もはや反則でしかない能力である。
鳥妖怪が咲夜を見失った理由も、ズバリこれ。
時間を止めている間に死角へと回り、ナイフを投げつける。咲夜が行っているのはこれの繰り返し。傍目からは、点滅するかのように消えては現れるというのを繰り返しているように見えたことだろう。
現に、こいしの目にはそうとしか映らなかった。気づけば咲夜の姿が消えて、気付けば鳥妖怪が針鼠(というより、ナイフ鼠か?)となって、気付けば血飛沫を上げて落下する鳥妖怪を悠然と見下ろすメイド少女……ぶっちゃけ、超怖いとこいしは思った。
「……改めて聞くのも何だけど、アレは本当に人間なんだよね? メイド妖怪とかじゃないよね?」
失礼だとは思いつつも、こいしは尋ねずにはいられなかった。
「まあ、辛うじて人間をやっているのは確かね」
対して、霊夢の返答は(咲夜にとっては)失礼極まりないもので。
「――言っておくけど、霊夢にだけは言われたくありませんことよ」
「……一理ある」
「失礼しちゃうわね、こんな美少女で素敵な巫女と悪魔の狂犬とを一緒にしないでちょうだい」
これまた音も気配もなく突然二人の元に戻った咲夜に、こいしは納得したようにうなずき、霊夢は唇を尖らせて反論したのであった。
……そうして、真っ昼間より、いくらか照りつける熱気が弱まった頃。春頃に幻想郷にて出現し、そのまま消えることなく残っていたアスファルトの大地。
それが今や、地底妖怪たちの仮の住処として利用されているその場所は、当初と比べて随分と様変わりしていた。
それは古ぼけた建物が軒並み撤去され、古き良き和風家屋を彷彿とされる真新しい建物や高温を発してい製鉄所、怒声と罵声と歓声が響き渡る鉄火場へと姿を変わっていたり。
何とも言い表し難い異臭(どことなく、排気ガス臭い)が消え、代わりに臭うのが焼けた鉄の臭いと酒気が混じり合う、地底ではごく有り触れた生活の臭いに変わっていたり。
そして、地面を覆い隠していたアスファルト。それが、名残一つ残すことなく撤去され、剥き出しの大地が露わになり、一部では雑草が繁茂しているところが見受けられるぐらいになっていたり。
人間どころか妖怪の気配すらなかったその場所が、全て嘘だったかのようで。今では騒がしく行き交いする地底妖怪たちの姿を遠目からでも分かるぐらいなっていて、上空からでも喧騒が伝わって来るようであった。
――ふわりと、霊夢たちは『仮地底(便宜上、そう呼んでいるらしい)』より少しばかり離れた場所にて降り立つ。そうして、徒歩で仮地底へと向かうことにした。
どうして、徒歩で向かう必要があるのか。直接そこへ降り立つ方が手っ取り早いと霊夢(暗に、咲夜も)は提案したのだが、何度か様子を見に行っているこいしが強く反対した。
曰く、地上に慣れた者もいるが、慣れていない者もいる。地底は地上と違って明確な序列があるわけではなく、ある意味では誰もが自由に行動する。今はまだ気が立っているやつも多く、不用意に刺激すれば襲い掛かって来ない保証がない……という理由からであった。
「そんなの、ぶっ飛ばしてしまえばいいじゃない」
「博麗の巫女は何時から暴力巫女になったのかな?」
あっけらかんとした様子で言い放つ暢気で素敵な巫女に、地霊殿の主の妹は幾分か頬を引き攣らせた。直後、「――あら、そんなの前からでしてよ」吸血鬼に仕える人間の言葉に、堪らずと言わんばかりにこいしはため息を零した。
「そうしたいなら止めないけど、それをすると間違いなく総力戦になるよ。少なくとも、勇儀さんとか鬼の人達が誰よりもいの一番に飛んで来るけど……それでもいいの?」
……総力戦、という言葉に反応したのだろう。
嫌そうに眉根をしかめた霊夢は、少しばかり考えた後……素直に、こいしの提案に乗ることを選んだ。それは同行する咲夜も同様のようで、特にそれ以上の反対をすることはなかった。
そうして、歩くことに十数分ほど。
立ち並ぶ雑木林のおかげで見え難かった景色が晴れて来るにつれ、徐々に『仮地底』の街並みが霊夢たちの眼前に現れ始める。そうして、地底妖怪たちの営みによって生み出される臭いが嗅ぎ取れる位置にまで来た辺りで……はあ、と霊夢はため息を零した。
一言でいえば、酒臭いのだ。それでいて、血生臭い。鉄の焼ける臭いも嗅ぎ取れるが、この二つが特に強烈だ。いったい、何をどうすればこんな臭いを放つようになるのか、いまいち思いつかない。
酒の臭いも血の臭いも職業柄慣れている霊夢もそうだが、血の臭いには特に慣れている咲夜ですら、思わず顔をしかめてしまうぐらいに酷い。そしてそれらは、『仮地底』へと足を踏み入れた辺りで、いっそう強くなった。
「……ひっどいわね」
堪らず、霊夢は愚痴を零した。まだ外側も外側なのに、コレ。『仮地底』の中心に向かう頃には、どんな臭いになっているのだろうか。遠くより聞こえてくる喧騒に、霊夢は今すぐ踵をひるがえしたくなった。
「大丈夫だよ、臭いが酷いのは外側だけだから」
「うう、ほんと? 嘘を付いてるわけじゃないわよね?」
けれども、そうする前にこいしの方から待ったが掛けられた。思わず胡乱げな眼差しを向ける霊夢に、「嘘を付いてどうするの、本当に本当だってば」こいしは苦笑を零した。
「この臭いの正体は、鬼の血なの。縄張りの意味で勇儀さんたちが自分たちの血を撒いただけだから、奥へと行けば行くほど臭いは消えるようになっているんだよ」
「……なるほど。妖怪の中でも上位に位置する『鬼』の血なら、より本能的に行動する低級な妖怪ほど、効果てきめんというわけね」
「そういうこと……さっきも言ったけど、気が立っているやつも多いから誰彼かまわず喧嘩を売るようなことは止めてね」
こいしの忠告に、霊夢たちは顔をしかめながら頷いた。とにかく、臭いから一刻も早く離れたいのだろう。実はこいしもあまり嗅ぎたくないのもあって、自然と三人の歩調は速くなり……あっという間に、『仮地底』の中心へとたどり着いたのであった。
……。
……。
…………到着した『仮地底』の街並みは、上空の彼方より見下ろした時に抱いた印象とは少しばかり異なっていた。言うなればそこは、かつての地底にあった景観を真新しくした……という感じであった。
外の世界の年代でいえば、明治に入るかどうかというぐらいだろうか。西洋の空気は見受けられず、目に付くのは和風の家屋ばかり。建物のどれもが真新しいこともあって、街並みだけは単純に綺麗であった。
……そう、街並みだけは、だ。出来立てほやほやの街並みとは裏腹に、そこに住む地底妖怪たちの姿は……正しく、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
右を向けば、喧嘩を始める妖怪たち。左を向けば、それをツマミに酒盛りする妖怪たち。前を向けば、喧嘩の勝敗を賭けにして遊んでいる妖怪たち。ぐるりと見回せば、ぶっ殺せだのぶっ飛ばせだの、物騒な言葉が四方八方から飛び交っている。
酒娯楽に博打娯楽の喧嘩娯楽。そんな言葉が地底にあるというのは、霊夢も咲夜も知っている。というか、里に住まう者たちなら大抵の者たちが知っている。それぐらい、地底妖怪というのは兎にも角にもいちいち派手で有名なのだ。
殴り合いの喧嘩の痛みをツマミにして酒を食らい、酔って暴れ回るのをツマミにして酒を食らい、そのままの勢いで博打で有り金を失くしてもその怒りをツマミにして酒を食らう。
ある意味では、地上の妖怪よりもよほど妖怪らしく、人間よりもよほど人間らしく。酔いに酔って前後不覚に自由気ままに振舞うその姿は、もはや気持ちの良さすら覚える程に馬鹿馬鹿しくて。
そのおかげで、この場に二人の人間と、ここの者たちには顔馴染みである妖怪が紛れても誰も気に留めていないのは……まあ、都合が良い。そう判断した三人は、喧騒に紛れて動くことにした。
……しかし、いくらこの騒がしさに隠れて動くとはいえ、だ。
地底妖怪とて、馬鹿ではない。同じ地底妖怪であるこいしは別として、霊夢や咲夜は見掛けない顔でしかない。それ故に、一人、二人と霊夢たちに気付く者が現れ、中には気になって声を掛けて来た者がいた……けれども。
――どうも、紅白妖怪のはっくれい、です。紅白に対する恐れから生まれた新参者なんで、よろしく。
――同じく、メイド妖怪のさっくやん、です。完全で瀟洒なメイドなので、色々とよろしく。
顔色一つ変えず、堂々と。それはもう、そういう妖怪なんですと言い切られれば、酔っ払いたちは納得する他なかった。それでも、その内の幾らかは『……もしや、人間か?』と疑いの目を向ける者もいたが。
「……えっと、人間っぽい感じだけど、二人が言っているのは本当なんだ。二人もそのことは気にしているから、あまり突かないでね」
同じ地底妖怪の『古明地こいし』がそう擁護すれば、彼らも納得した様子で引き下がって行った。そうして……何度か似たようなことを繰り返した後。
「――それで、これからどうするの? 闇雲に歩き回って、妖怪たちに気付かれたら面倒よ」
「そうね……とりあえず、素面で話の分かるやつを探しましょう。それで、鬼を十匹ぐらい見繕ってくれたら、さっさと帰るわよ」
「鬼を弁当屋か何かだと勘違いしとらんよね、この暢気な巫女さん……」
ぎゃあぎゃあと喚いては怒鳴り合う妖怪たちの喧嘩を横目に、三人は町の中を進んでいった。
目的は……酒に限らずこの喧騒に酔っていない素面のやつ。すぐに見つかるだろうと思っていたが、意外なことに該当する者を見付けられなかった。
いや、意外という方が、意外なのかもしれない。何せ、何処を見ても目に付くのは酔っ払いばかり。辛うじて会話できる程度に酔いが留まっている者もいるが、そういうのはこう……話が分かるようなやつには見えない。
そうして歩き続けて、幾しばらく。徐々に影が伸び始め、西日に赤みが混じり始める時刻。さて、困ったぞと、誰が最初というわけでもなく思った霊夢たちは、一旦……目に付いた小さな飲み屋にて休憩することにした。
特に理由があって、その店を選んだわけではない。強いて挙げるとするなら、霊夢の『勘』であった。
博麗の巫女の象徴でもある紅白と、メイド服を身に纏う人間の少女に、地霊殿の主の妹である覚り妖怪の妹。暖簾を除けて店内へと入ったその三人の組み合わせは違和感の塊という他なく、誰が見てもギョッと目を見開く光景であった……のだが。
「――らっしゃい! 3人で?」
「ええ、そうよ。ところで大将、もう出来上がっているの?」
「へへ、酔わずに仕事が出来るかってんだ!」
おそらくは相当な量の酒を召しているのだろう。赤ら顔どころか首筋まで紅潮している酒臭い店主(小さい角が見えたので、おそらく鬼の種族だろう)は、呆れ顔の霊夢の言葉にそう啖呵を切った。
店の内装は、カウンター席が5つある程度の、本当に小さなもの。外の世界でいえば、こじんまりとやっている古い居酒屋といったところか。
一番奥の席でカウンターに突っ伏して寝息を立てている金髪の女妖怪(顔は、良く見えない)以外に、店に客はいなかった。
「――で、何にしやす?」
「喉が渇いたから、とりあえず水と冷(ひや)と豆腐を頂戴」
「あいよ――へいお待ち!」
メニュー片手に霊夢が注文すれば、店主はサッと霊夢たちの前に冷酒の入ったコップと冷奴を並べた。
「あら、お早いことで。それじゃあ咲夜、こいし、軽く乾杯してから……って、こいし? どうしたの?」
かちん、と咲夜のコップとをかち合わせて乾杯する霊夢の視線が、カウンターにて頭を抱えて蹲っているこいしへと向けられた。「――疲れたの?」気づいた咲夜が、霊夢越しに心配そうに見つめた。
「……なんていうか、こんな私が言うのもなんだけど、お姉ちゃんが地底の皆を前にいつも頭を抱えていた意味が、少し分かった気がしただけ」
こいしの言葉に、意味が分からないと霊夢と咲夜の二人は首を傾げた。そんな二人を見て、こいしは深々とため息を零すと、己の前に置かれたコップを手に取り中身を一気に呷った――直後、むせた。
あーもう、何やってんのよ。
げほげほ、と。乙女(と、いっても妖怪だが)がするには些か惨い状態になっているこいしの背中を、霊夢が撫でる。と、同時に、咲夜が店主より手渡された手拭いを片手に零れた酒を拭き取る……のを横目に、こいしはげほげほと咳き込むことしか出来なかった。
……こいしは、気付いていなかった。というか、知らなかった。地底に住まう妖怪であるので飲めないわけではないのだが……実は、それほど酒に強くはない。
いや、酒に強くないというのは少し間違いだ。正確にいえば、薄めていない酒の味に、こいしは慣れていなかった。
何故なら、これまでこいしが口にしてきたのは、姉のさとりが妹を想って飲みやすいように薄めていたものばかり。基本的に姉が参加しない席では酒を飲まないようにしていたが故に、こいしは己の身に何が起こったのか理解出来ず、喉の焼ける感覚に目を白黒させるばかりであった。
「――オヤジ、花吹雪の水割り。少しばかり薄めにな。それと、味噌汁を一つ」
……そんな、時であった。
にわかに騒がしくなった店内の空気に差し込む、女性の声。ハッと霊夢たちが振り返れば、そこには今の今まで寝息を立てていた女性が……いや、星熊勇儀が目を細め、頬杖を突いて霊夢たちを見やっていた。
「妖怪だらけのこの場所に、人間が二人も紛れ込んでいるとはね。それも、博麗の巫女と、ちょいと普通じゃない女ときた……何とまあ、面白い日だ」
その言葉と共に、勇儀の前に置かれる冷酒の水割りと、味噌汁。「……ま、こんなもんだろ」軽く冷酒を啜って具合を確認すると、味噌汁と一緒にそれらをこいしの前に置いた。
こいしの視線が、湯気を立ち昇らせている椀とコップと、にんまりと笑っている勇儀とを行き来する。しばし無言のままに視線を落としていたこいしは……頂きます、と手を揃えた後、味噌汁を啜る。口直しが済んでから、次いで、水割りを傾け……甘い、と笑みを零した。
「――で? わざわざ物見見物に来るほどまでは、お前さんも暇を持て余してはいないとは思うが、目的はなんだい?」
一拍置いてから、さて、と勇儀から話を切り出した。頬杖をついたままという不遜な態度は実に『鬼』らしく、それでいて単刀直入の物言いで……霊夢も、単刀直入に用件を話した。
「人手が足りないのよ。報酬を支払うから、人間に手を出さず、そこらの雑魚を蹴散らせるやつを幾らか融通出来るかしら?」
「……風の噂で耳にはしていたが、そっちも大変なのかい?」
「私が出張る程度にはね。それで、返答は如何に? 何だったら、あんたの血だけでもいいわよ。というか、こっちとしてもそれが一番有り難いわね」
霊夢は、鬼を相手でも態度を一切変えない。それは霊夢を知る者であれば誰もが分かっていることだが、店主は知らなかったのだろう。先ほどまでの赤ら顔が、見事なまでに青ざめていた……が。
「血は……無理だな。ここ(仮地底)らを囲うだけでも大変だったんだ。あんたの所は、ここよりもずっと大きいんだろう?」
「そうだと思うわよ。どれぐらい大きいかは分からないけど、一回り以上は大きいと思うわ」
「じゃあ、無理だ。いくら私でも、そんだけの血を垂れ流したら死ぬ。それに、定期的に新しいのを撒かないといけないからね……悪いけど、そっちには回せないよ」
店主の不安を他所に、勇儀は特に怒っていなかった。「オヤジ、一本くれ」それどころか、どこか暢気そうに店主に追加の注文をして、酒臭いゲップを零した。
……やれやれ、仕方がないか。
それを見て、霊夢は諦めてコップを傾けた。「……いいの?」と小首を傾げるこいしに、「いいの、仕方ない事だから」霊夢は表情を曇らせつつも、そういってため息を零して受け入れた。
……当てが、外れてしまった。
仕方ない事とはいえ、どうしたものかと霊夢は思った。協力を取り付けられたら儲け程度に考えていたが、期待していなかったといえば、嘘になる。
阿求たちも期待しているだろうし、ガッカリさせるのは忍びないなあ……と。不味くなってしまった酒の味に唇を湿らせつつ、霊夢は何となく視線をさ迷わせ……ふと、咲夜にて止まった。
(……そういえば、こいつは何の目的で付いて来たのかしら?)
今更な疑問が、霊夢の脳裏を過る。こいしが聞けば、『え、今更?』と、姉と同じく頭痛を堪えるポーズになっていたであろうことを考えつつ、ちらりちらりと咲夜を見ていれば、「……なにか?」その咲夜から視線を返された。
「あんた、レミリアのやつから何か頼まれて私たちに同行したんでしょ? こっちは終わったから、やることやるなら付き合うわよ」
「え? 私の? 何で?」
「何でって、あんたその為に来たんじゃないの?」
「……? その為って、何の事? 私はあんたに誘われたからこうして付いて来たのよ」
「はっ? なに、あんたもう酔ってんの?」
思わず声色を低くした霊夢に、咲夜も少しばかり声色を低くした。
「酔ってないわよ。それを言うなら、霊夢の方が酔っているんじゃなくて?」
「いや、いやいやいやいや、咲夜こそ何言ってんのよ。詳しく聞くつもりはないけど、レミリアから何かしら指示を受けてはいるんでしょ?」
「……えっと、その、霊夢。何を勘違いしているのか分からないけど、それとは別に一つ聞いていいかしら」
そこで、咲夜はこの場で……いや、同行してから初めて、心から不思議そうに小首を傾げた。
「さっきからあなたの話に出てくるレミリアって……誰のこと?」
「……は?」
――一瞬、霊夢は咲夜の言葉を理解出来なかった。けれども、当の咲夜は気付いた様子はなく、「は、じゃないわよ」そのまま言葉を続けた
「私の知り合いに、レミリアなんて人はいないわよ。居るのは、姉の紅美鈴(ふぉん・めいりん)だけよ。誰かと勘違いしているのではなくて?」
「…………え?」
今、こいつは……何を言った?
自分が何を言ったのか理解していない咲夜を前に、霊夢は言葉を失っていた。いや、霊夢だけではない。霊夢の隣にいるこいしも咲夜のいう事が理解出来ずに不思議そうに小首を傾げたし、経緯を知らない勇儀ですら、何だ何だと目を瞬かせて身体を起こした。
自然と、全員の視線が咲夜へと注がれる。
その事が不思議なのか、当の咲夜は困惑した様子でキョロキョロと視線をさ迷わせていた。その姿は、冗談をついているようには見えず……だからこそ、霊夢は咲夜の言うことが理解出来なかった。
何故なら、霊夢の知る十六夜咲夜という少女は、主であるレミリア・スカーレットに対して絶対の忠誠を誓っているからだ。その忠誠心の高さは幻想郷において有名であり、レミリアが命じれば(罪悪感を押し殺して)赤子すら手に掛けるとまで言われている程だ。
――その咲夜が、レミリアのことを知らないと口にするだけでなく、知らないフリまでする?
そんなこと有り得ない、と。こいつ、本当に私の知る十六夜咲夜か、と。率直に、霊夢は思った。
少なくとも、霊夢の知る咲夜はそんなことは出来ない。例えレミリアの命でそうしろと言われ、そう振る舞ったとしても……こうまで、自然に振る舞えない。それぐらい、咲夜にとってレミリアとは特別な存在なのだ。
それは、咲夜が口にした紅美鈴もまた、同様のはずだ。美鈴は紅魔館の門番を務めている女妖怪であると同時に、咲夜とは仲が良かった覚えがある。程度の差こそあるが、その美鈴までもがこの性質の悪い冗談に加担していると……霊夢には、思えなかった。
……視線が鋭くなるのを霊夢は抑えられなかった。
異変を察したこいしが、不安そうな顔で席を立つ。合わせて、赤ら顔の勇儀が席を立てば、青ざめた店主がこそこそとカウンターの中へと隠れる。そこまで来てもまだ分かっていない咲夜だけが、困惑を深めているようであった。
「と、とにかく、私には霊夢が何を言いたいのか分からないわ。でも……霊夢の今の言葉で思い出したことがあるわ」
高まった緊張感を切り替えたいのだろう。些かわざとらしく己がメイド服のポケットを漁った咲夜は、それより取り出した物を霊夢へと投げた。受け取った霊夢は……思わず、目を瞬かせた。
それは、年紀を感じさせる懐中時計であった。詳しく見た覚えがないのでもしかしたら違うのかもしれないが、記憶が正しければこれは、咲夜が常に携帯している時計のはずで……咲夜自身が、とても大切にしていた時計のはず。
「それ、私のじゃないの。気付いたら私のポケットに入っていてね、捨てても捨ててもポケットに戻っているのよ。もしかしたら呪われているんじゃないかなって心配で、そのうち霊夢に見て貰おうかと思っていたのよ」
あっけらかん、と。時計について語る咲夜を、霊夢はマジマジと見やった。レミリアだけでなく、この時計まで知らないと物だと口にする咲夜を、霊夢はいよいよ頭がおかしくなったのかと思ってしまった。
何とも失礼なことではあるが、霊夢がそう考えるのも無理のないことであった。
何故なら、咲夜のこの時計は、ただの時計ではない。『能力を発動する際に使用する』ものらしく、これがないと上手く能力が使えないと、咲夜の口から聞いた覚えがあるからだ。
そんな大事な物を、知らない物だと話す。つまりそれは、咲夜は自らの能力すら……いったい、これはどういうことだ?
もしや、咲夜の言う通り時計に何かあるのだろうか。
ぱかりと蓋を開いてみれば、しっかり秒針が動いている。軽く霊気を巡らせて探ってみるが……術や呪いの類は感じられない。構造的な問題は分からないが、霊夢の専門分野においては、白だ。
時計に、問題はない。
それなら、咲夜自身に何かが……そう判断した霊夢は、そっと咲夜の首筋に手を当てる。「ちょ、霊夢?」突然のことにくすぐったそうに肩を竦める咲夜を黙らせつつ、軽く霊気を送り……舌打ちと共に手を引いた。
咲夜自身に問題はない。時計にも、問題はない。けれども、咲夜には確実に異変が起こっている。霊夢の知る咲夜ではなくなっていると、霊夢自身の『勘』も告げている。
いったい何時、咲夜はこうなっているのか……いや、こうなったのか。
ここに来るまでの道中では、霊夢が知る咲夜そのものであった。そして、到着してからこの店に来るまでは、せいぜい1,2時間かそこら。この店に入ってからの時間を加えても、3時間も経っていない。
その間に、咲夜は何かされてしまったのか?
いったい誰に? 霊夢やこいしに悟られないように、どうやって?
何の目的で? 傍の二人には何もせず、咲夜だけを狙った理由は?
まるで理解出来ない状況に、霊夢は思わずこいしを見やる。瞬間、目が合ったこいしは、しばし何かを思いあぐねるかのように唇をもごもごとさせた後……あの、と顔をあげた。
「咲夜は、レミリアって人を知らないんだよね?」
「ええ、そうよ。少なくとも、私の知り合いにレミリアって人はいないわ」
「それじゃあ咲夜は今、どこに住んでいるの? どうして、メイド服なんて着ているの?」
「どこって……そんなの、人里に決まっているでしょ。この服は仕事着よ。稗田様のところで働いているの、あんた達も知っているでしょ?」
――瞬間、霊夢は勇儀を見た。察した勇儀は、おもむろに首を横に振って答えた。霊夢の『勘』も、咲夜の言葉に嘘は何一つ感じ取れなかった。
「それじゃあ、何時から人里に住んでいるの?」
「何時って、物心ついた時からよ。親も知らぬ分からぬ孤児の私を、美鈴姉さんが育ててくれた……ねえ、本当にどうしたの? そのことだって、とっくの昔に二人とも知っているはずでしょ?」
「……うん、そうだったね。それじゃあ、咲夜が……じゃなくて、紅魔館って知ってる? 紅魔館の、吸血鬼の話」
「――は? 紅魔館? 紅魔館って、あの紅魔館?」
「うん、そうだよ。何か、知ってる?」
「そりゃあ、知っているけど……」
そこで言葉を止めると、これまで訝しんでいた咲夜の表情が、さらに曇った。それは悲しいことを思い出した……という類のそれではなく、霊夢とこいしの正気を疑う、心配が込められたものであった。
「紅魔館って、あの湖の畔にある廃墟の館でしょ? 百年も前に主が死んだけど、漂う妖気によって並の妖怪では入れないっていう……あの、二人とも、本当に大丈夫? 子供でも知っている話よ」
……。
……。
…………はい、きょ。はいきょ……廃きょ……廃墟?
「――やられた」
廃墟、その言葉が霊夢の脳裏にまで染み渡った……その瞬間。気づけば、霊夢はその言葉を呟いていた。声は小さくか細かったため、幸いにも咲夜には聞こえなかったが、既に霊夢の意識は彼女ではなく、紅魔館へと向けられていた。
「……咲夜、あんた一人でここから家に帰られる?」
「え、一人で? それはちょっと……」
尋ねれば、咲夜は心細そうに店内を見回し……ちらりと、店の外に視線を送った。咲夜が嫌がるのも当然だ。なにせ、ここは地底妖怪たちの縄張り。霊夢の知る咲夜であれば涼しい顔で戻れても、今の咲夜では無理なのだろう。それだけで、今の咲夜は、前の咲夜とは違うのだということ嫌でも察せられる。
しかし、一人で帰れないとなると、咲夜を人里まで送らなければならない。
普段であれば別に良いのだが、今は一刻も早く、一秒でも早く紅魔館に向かいたい。ただならぬ雰囲気を察したこいしと、目が合う。出来ればこいしも連れて行きたいが、仕方がない……こいしに送らせよう……と、思ったが。
「――なら、あたしが送って行こう」
むくりと立ち上がった勇儀が、そう提案してきた。振り返った霊夢とこいしを他所に、「なーに、私もちょっと里の様子を見ておきたくてね」勇儀は酒臭い身体を揺らして歩み寄ると、ぎゅうっと咲夜を抱き寄せた。途端、咲夜の顔色が悪くなったのを見て、がははと勇儀は豪快に笑った。
「鬼が怖いかい、お嬢さん」
その質問に、咲夜は青ざめた顔で首を横に振った。
「怖いのは怖いけど、それよりも臭いだけで酔い潰れそう」
「はあ? 臭いって……あ、ああ、あー、すまん。ちょっと我慢しておくれ」
察した勇儀がサッと抱き寄せた身体を放してやると、咲夜はふらふらとした足取りで壁に手を付き、深呼吸を始める。それを見て、ごめんよ、と勇儀は赤ら顔を軽く下げ――次いで、咲夜に気付かれないよう、こそっと霊夢にウインクをした。
それを見て、霊夢は人数分の代金をカウンターに置くと、こいしの手を掴んでそのまま抱き締めると、空へと飛んだ。外に出て気付いたが、既に空は薄暗くなっていて、星々の輝きがちらほらと見えるようになっていた。