戦士が、群がる敵を次々と蹴散らしていくのを、ディアナは呆然と眺めている。極度の疲労のせいだろうか、視界がぼやけて定まらない。だが、戦士の姿だけは、なぜかはっきりとその像を結んでいた。華美な衣装に身を包んだ長身の男が、大剣を振るう。その度に骸の剣士が木っ端のように吹き飛んでいく。男の剣筋には無駄がない。迫り来る敵を一撃で斬り伏せる。男の挙動には迷いがない。襲いかかる群れを的確に捌いていく。動きが、洗練されている。
それは、ひどく非現実的な光景だった。先程まで自分に凶刃を向けていた魔物たちを、無敵の戦士がばったばったと薙ぎ倒していく。男の腰からは一対の黒い翼が生えていて、その容姿は離れた場所から見ても一目でわかるほどに整っている。妄想じみた状況だ。乙女の窮地を救う黒翼の王子。風前の灯火と化した魂が、最期の瞬間に幻想を見せているのかもしれない。そんな風にすら思えた。
──そもそも私は、どうしてこんなに疲れ果てているんだ? 馬鹿げた自問だとディアナは思ったが、本当に、ひとつひとつ確認しなければならないくらい、思考が霞んでしまっていた。
聖堂都市ジェネシアで、ヴァルスと対峙した──
父を殺し国を奪った仇に手も足も出ず、「敵ではない」と捨て置かれた──
一年前に祖国を滅ぼしたのは、力を暴走させた自分自身だったと気づいてしまった──
それでも、前に進むと決めたのだ。ずたぼろの心と体に鞭を打ち、アトナ山へ向かったヴァルスを追った。歩を進めて間もなく、先程発ったジェネシアに帝国援軍の大軍団が迫る光景を目の当たりにした。迎撃。選択の余地はなかった。連中を無視すれば聖都は焼き払われ、やがて自分たちは背後を取られることになる。すぐさま山を下り、侵攻を始めた敵部隊と市街地で交戦した。使い魔をできる限り多く召喚し、鬨の声を上げて大立ち回りを演じた。街に残った生き残りの民らが標的にならぬように、と。負けられない戦いだった。
しかし、現実は非情だ。満身創痍のロードが四人、人造アルカナ兵率いる使い魔の大群に立ち向かったところで、勝ち目はない。懸命に抵抗したが、こちらが消耗する一方で敵の数はほとんど減らなかった。マナの精製速度が落ちていき、味方の使い魔たちが倒れ、次第に手脚の感覚がなくなって──それでも、懸命に剣を振るった。限界などとうに超えていた。
そうだ、思い出した。いよいよ本当に動けなくなり、スケルトンの群れが好機とばかりに迫ってきたとき。死を目前にして走馬灯すら走らないほどに精根尽き果てていたディアナの前に、突如としてあの男が現れたのだ。
最初は、それが人間だと思わなかった。男はまるで空から降ってきたかのようにディアナの視界に飛び込んできて、スケルトンたちの前に立ちはだかった。鈍色の巨大な鳥が、翼を広げて地に降り立ったようだった。まばたきをした次の瞬間にはもう、状況が一変していた。男が右手に持った大剣を一閃すると、徒党を組んだ骸の剣士たちが一斉に宙を舞ったのだ。剣風、と呼べばいいのだろうか。ディアナにも多少剣の心得があるが、どれほどの力があればあんな人間離れした一撃を繰り出せるのか、検討もつかない。直近の敵を一掃したのを確認すると、男はディアナを一瞥することもなく、次の獲物目がけて躍り出していた。そうして、鬼気迫る戦闘が──黒い翼の戦士による一方的な殲滅戦が始まったのだ。状況を理解できず、体力も底をつきていたディアナは、ただそれを眺めていることしかできなかった。
──男は疲れる様子もなく縦横無尽に飛び回り、骸の剣士や獣の闘士を次々に斬り伏せていく。その顔には、明らかな悦びが滲み出ていた。愉しくて仕方がないと言わんばかりの、邪悪な笑顔。私は彼に、命を救われたのだろうか。それとも魔人の虐殺劇に巻き込まれて、まだ運よく命を奪われていないだけなのだろうか。そんなことを考える余裕が出てきて、ようやくディアナは大事なことに気が回った。仲間──共に戦っていたロードたち──トレイシーは、フィートは、オレールは、無事だろうか。
微動さえおぼつかない体をなんとか起こして、周囲を見渡す。少し離れた場所にトレイシーとフィートの後ろ姿を確認して、ディアナはひとまず胸を撫で下ろした。だが、彼らも立っているのが精一杯といった様子で、戦いを続けているようには見えない。注意深く観察すると、彼らの視線の先で魔物の軍団と対峙する別の誰かがいることに気づいた。男女が一人ずつ。黒い翼の戦士と同じく、大勢を相手にしながらそれを圧倒している。
杖で体を支えたトレイシーの視線の先には、妖艶な衣装の女が舞っている。肌の露出が多く、とても戦闘用の装備には見えない。両手に構えた双剣で敵を次々に屠る──それが舞っているように見えるのは、その独特な服装と剣さばきと身のこなしのせいだろうか。ディアナは、宮廷一番の踊り子を連想していた。一連の動作がしなやかで、無駄がなく、美しい。トレイシーもきっと、状況を把握するより先に見惚れてしまっているのではないだろうか。
肩で息をするフィートの前には、大柄な男が仁王立ちしている。金色の長髪を後ろで結び、両手を鎧で武装した、岩のような体つきの男。手にした鞭状の武器を振り回す男の戦いぶりは、黒い翼の戦士や双剣の美女とはまったく異なっている。二本の足でどっしりと地に根を張り、その場から動かない。にもかからわず、押し寄せる敵をまったく近づけない。鞭の攻撃で敵の全てを封殺している。動ではなく静、鏖殺ではなく制圧──いずれにせよ、神懸かった戦闘技術であることに変わりはないが。
オレールはというと、倒壊した建物の瓦礫に背中を預けてぐったりとしていた。息が乱れていて、例に漏れず疲れ果てている様子だが、無事で何よりだ。ディアナの視線に気づくと、ばつが悪そうな表情になって、目を背けた。情けない姿を見られたと気を悪くしているのだろう。彼らしい。
仲間の無事を確認すると、ディアナは再び黒い翼の戦士の方へ目を向けた。男はゆっくりとした足取りで、こちらに向かって歩いてくるところだった。ディアナと男の周囲にはもう、敵は残っていない。皆地に沈み、物言わぬ屍と化している。双剣の美女と鞭の兵が相手にしている連中がこうなるのも、時間の問題だろう。ディアナから少し距離をおいた位置で、男が足を止めた。無事を確かめる言葉を口にすることも、手を差し伸べてくるようなこともない。目を見ると、まっすぐにディアナを見つめ返してくる。青い瞳。敵意は感じなかった。引き締まった輪郭と固く真一文字に結ばれた口に、意志の強さが表れている。
「まだ……これで終わりじゃ、ない」
沈黙を破ったのはディアナだった。命を救われた礼よりも先に伝えなければならない言葉を、渇ききった口から絞り出す。今戦った敵の部隊は、あくまで先遣隊でしかない。アトナ山の裾野から見た光景──ジェネシアの南に位置する平原に広がった敵の大軍の数は、こんなものではなかった。ここで倒した敵の数を遥かに超える魔物と人造アルカナ兵が、平原に控えているはずだ。先遣隊がしくじったと知れば、すぐに増援を寄越すだろう。そのことを、なるべく短く口にしやすい言葉で、途切れとぎれながら、男に伝える。
男は黙って頷くと、不意に空を見上げた。そのまま、剣を持っていない左手を宙に挙げる。──意図がつかめない。だが、しばらくしてから羽ばたきに似た物音と風圧のようなものに気がついて、ディアナは悟った。何かが、空から近づいてくる。きっとあの男は、これを呼んでいたのだ。風を切る音と風圧が強くなっていき、たまらなくなって地に伏せる。すぐそばを、巨大な何かが掠めていった。その瞬間、ディアナは声を聞いたような気がした。しわがれていて、年季と威厳を感じさせる独特な声。聞き間違えでなければ、声はこう言っていた。
あとは任せるが良い、と。
ディアナがゆっくり目を開けると、男の姿は消えていた。おそるおそる、巨大な飛行物体が去って行った方向へ目を向ける。真紅が、低空へと舞い上がっていくのが見えた。翼と尾、鉤爪。後ろ姿ではあったが、一目でわかった。ドラゴン──伝説の生き物だ。ディアナが聞いた言葉は、あの竜が発したものに違いない。人知を超えた者にふさわしい、重みのある声だった。男はきっと、あれに乗って行ってしまったのだろう。一騎当千の戦士にして、赤き竜を駆る男。まるで神話の存在のようだ。彼らなら、疑いようもなく言葉に足る戦果を上げてくるに違いない。
ロードとして、今まで多くの神魔霊獣と対峙してきた。頼もしい味方、圧倒的な強敵、その両方と出会ってきた。彼らを前者と断定することは、まだできない。だが、どちらにせよ今までで一番強烈な相手で間違いない、ディアナは思った。彼らが何を思って、なぜ帝国軍と戦うのかはわからない。だが、結果としてディアナたちは命を救われ、こうして生きている。この戦が終わったら、彼らには真っ先に伝えなければならない言葉がある。それから、訊きたいこともたくさんあるし、叶うならば、どうしても頼みたいことがひとつだけ、ある。
仲間たち、それから助太刀になってくれた鞭の男と双剣の女の無事を改めて確かめたら、あの竜騎士の帰還を待とう。ディアナは満身創痍の体に活力が戻ってきたのを感じて、立ち上がった。
(続く)