八幡のちょっとリアルな大学生活。   作:23番

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お久しぶりです。楽しみにしていていただいた方々、長いこと待たせてしまってすみませんでした。

エンドロールが流れまして、すごく長くなってしまいましたが待っていてよかったと思っていただけるよう頑張ったので、読んでもらえるととても嬉しいです。
お盆の終わりの楽しみになれたらなと思います。

感想などいただけるとすごく嬉しいです。
またお手すきの際にどうぞ。


definition of answer

 

 

 一色いろはは―――。

 

 

 視界の先に吐き出される息が白い。疲れている訳でもないのに呼吸が深くなる。凍える空気も吸ったそばから熱せられて内側の火照りを加速させた。駅に向かう道すがらの住宅街には、きん、と音がしそうな透明の冷気が漂っていて時間の流れが遅く感じられた。お気に入りのピンクの傘には音もなく雪が積もり少しずつ腕を、肩を、身体を重くさせる。ばさりと傘から雪を落とすと隣を歩く比企谷八幡の整った横顔が見える。その瞬間、まだ燃え上がるものがあることに一色は気が付く。このままちりちりと灰を落とすのみと思っていた想いは奥にまだ火薬を燻らせていた。湿けていた花火が徐々に暴発するように溢れ始める。やばい、と一色はこめかみを揉む。このまま泣いてしまっては話ができない。唇を噛んで懸命に堪えているところで低く、好きな声が聴こえた。

「これはまだ誰にも言ってないんだが」

 はい、と答えた一色は自分の声が震えていないか不安になる。しかし、久しぶりに話しかけられたという事実に確かな高揚があるのを隠し切れなかった。自然と頬が緩む。

「雪ノ下さんにプロポーズした」

 ―――瞬間、時間が止まる。一色は表情が固まりコンクリートに薄く積もった雪の道から目が離せなくなる。周囲の景色から色がなくなっていく。今しがた比企谷八幡の発した言葉が何度も往復していた。意味のない音として何度も何度も頭の中を往復する。別の事を考えながら本を読んでいる時のように文字を上滑りして全く脳内に入っていかない。踏切の音、車の音、雪の降り積もる音。景色の一部になってしまったかのように掴んだことのない音になっていた。数秒どころじゃない沈黙の後、比企谷八幡の身じろぎで生じた衣擦れの音がようやく鼓膜に届く。そこでようやく音が戻る。住宅街に響く家庭の音、通り過ぎていく自動車の音、それらが決壊してなだれ込む。氷漬けにされていた時間が動き出し、ひんやりとした空気が一色の身体を満たしはじめる。

「結婚って、その年でですか」

 一色が震える唇で薄ら笑いを浮かべて吐き捨てるように言うと、今すぐにって訳じゃないがちゃんと伝えておきたくて、と比企谷八幡は俯きがちに呟いた。

「それで、お相手は何ていったんですか」

「一応受け取ってくれたよ」

「そうですかおめでとうございます」

 一色の心が急激に冷えていく。破裂寸前だった花火は静かな音を立てて溶けた。一色の目に映るのは冷たい空気を取り込んでは吐き出すただの有機物だった。もう帰ろうかな、と一色は考えたが小さく舌打ちをしてそれを堪える。仕事なんて受けなければこのまま蹴っ飛ばして帰るだけなのに。一色はぐちゃりと雪が染み込んできたローファーに顔をしかめる。二年の途中で変えたローファーもだいぶほつれて目を凝らすと汚れも見えた。靴下が濡れて気持ちが悪い。ねえせんぱい、わたしせんぱいのこと好きだったんですよ。一色が笑うと比企谷八幡は目を伏せた。雪が地面に着くような音で、すまん、と言う。一色には届かない。ローファーのつま先で雪を蹴ると黒いコンクリートがむき出しになる。一色は白い獣の皮を剥いでしまったかのように居心地が悪くなって、今度は思い切り踏みつぶすことにした。せんぱいとデートして手繋いでキスしてセックスしたかったんですよ、一色の責めるような声に比企谷八幡の肩は縮こまる。比企谷八幡の手にある黒い傘は会った時より重さを増しているかのように何度も持ち直されていた。あ、でもせんぱいって好きでもない人とセックスするんでしたっけ私ともしてくださいよ。一色は哀しく謳い、比企谷八幡は沈黙を貫く。スロー再生のようにふわりと舞う雪は二人の間を隠すには弱すぎた。

 遠くで聞こえていた電車の音は徐々に大きくなり少し先で鈍く光る銀色の車両が確認できた。「せんぱいって何をするつもりなんですか」比企谷八幡は目を逸らしたが、振った女の子のちょっとしたお願いなんて聞けませんよね、と一色がぼやくと諦めたようにため息をつく。

「ため息つきたいのはこっちですよ」

「何が知りたいんだ」

「全部です」

 比企谷八幡は入学式で出会った雪ノ下陽乃の存在から話し始めた。戸部翔の依頼や三浦優美子との出会い、海老名姫菜の望み。その半分は一色も知るところで退屈な時間が過ぎた。そして一色の助力も虚しく儚く散った十月の夜。そこからの出来事を詳細に知っている人間はいない。雪ノ下陽乃を含めて海老名姫菜まで、詳細を語れる人間はただ一人比企谷八幡をおいていなかった。

 あの夜、と比企谷八幡は呟いた。腫物を障るように震えた声に一色は傘をもたげた。幕が上がる、そう思った。

「あの夜俺は死んだと思った」

「は?」

「いや、物理的な意味じゃない、でも精神的にというには大仰すぎるか」

「ちょっと何言ってるか分かりませんけど」

「多分、死んだんだよ」冷たい瞳が一色を捉える。「お前の知ってる男は」

 ガリッ、と耳障りな音が鳴った。一色は気が付けば道路脇に薄く積もる雪を踏みつぶしていた。ガリガリと踵を捻じりローファーを磨り潰していく。

「身体が動かなくなったんだ。戸部の依頼がただの虚構だと分かったとき」

「はあ」

「そんな時に俺を支えてくれたのがあの人だった」

 行く先を見据え、それは眩しそうに眼を細める比企谷八幡を見て一色は喉からせり上げるものを抑えるのに必死だった。

 ―――私を頼ってくれればよかったじゃないですか。

 一色はそんなことをつい言いそうになる自分に腹が立った。もう一度雪を踏みつぶした。

「葉山と戸部の事は分かってるよな」

「…まあ、はい、後ろめたさですよね」

「そうだろうな、じゃあその後ろめたさの原因はなんだ」

「暴行未遂を隠して進学した戸部先輩」

 比企谷八幡は一度深く息を吐いた。「情報の漏洩だ。簡単にいうと秘密の漏洩。世間に漏れてはならない、漏れない方がいい事実を懸念して二人は距離を取った」

「取らざるを得なかった、ですか」

「ああ」

 一色はそこまでを聞き、最低なことが思い浮かんだ。目には目を、歯には歯を。なんてことわざも存在するが、一色は首を振る。そんなこと考えても実行に移せるかと。ただ、彼の容姿を見れば、噂を聞けば、そんな最低なことしか思い浮かばなかった。車通りが増えて道路は黒々としたアスファルトが目立ち始める。一色は左腕で自らを抱くようにした。顎から何かが垂れて下を向く。ぽつぽつと雪にほんの小さな染みができては背後に消えてゆく。

「陽乃さんとしたあと、もう、それしか、思い浮かばなかった。秘密が、漏れることが怖いなら、同じ怖さを…」

 比企谷八幡の顔は歪んでいた。苦痛と言う苦痛をその身にたぷたぷに孕んでいるのではないか、そう思えて仕方のないほどに彼の表情は歪んでしまっていた。それに気が付いた一色は目を剥いて見つめる。湧いては溢れる一色の大きな瞳に瞬きは必要なかった。一瞬でも映像を切らせばデータごと吹っ飛んでしまうのではないか、そんな気持ちで瞼を震わせ、同時に自身の眼球を疑った。二人いる。直感でそう思った。そしてすぐ間違いに気が付く。二人じゃない。比企谷八幡は一筋の涙を流し、口を噤んだ。

 一色の涙が止まる。混ざった、と思った。何がとは言えない。現時点で一色が持ち合わせている言葉では表せなかった。ただ確かに感じた。交じり合ったと。

「無防備な姿を見たんだ」声が数音下がったように思えた。重く、静かな声だと思った。「信頼ではないもっと奥にある。本能に近いものだと思った」

 獣じゃないか、比企谷八幡は呟いた。

「獣…?」一色は首を傾げる。

「俺のしていることは知られたくない秘密の、創造だ」

 そうぞう、一色は口の中だけで繰り返す。やっぱりろくでもないと思った。結局は皆を平等に不幸にすることで曖昧にしてしまう。そんな手法だ。だから、「あの二人は…」と言いかけた時に塞がれた唇に感覚はなかった。しかもそれが彼の唇であるから一色の頭の中は雪よりも真っ白に光った。明滅する思考が弾けてもう一度目を見開く。小さく開けられた隙間に舌が押し込まれて歯茎の裏を撫ぜた。ぞわり、と数百の虫が背筋を這い上り一色は口内の虫を噛んだ。

 強く肩を押されて一色は民家の塀にぶつかった。肩の痛みより口に広がる鉄の味に呆けていた。コンクリートの塀にはざらざらとした砂が付いていて手をつくと不快な感触に背筋が冷える。路上にピンクの傘が逆さに転がっていた。はあはあと息が切れて視界がぼやけている。比企谷八幡は赤い唾を地面に吐いて、ほら、これで戻れない、と笑った。その瞬間一色の身体の隅々まで熱が伝わるのが分かった。

「さいってい!」一色は喉が震える限り叫んだ。

 カンカンカンと音が降ってきて踏切まで来ていたことに気が付く。比企谷八幡は一色に顔を寄せ、虚像を実像にするんだ、と耳打ちしてから線路を横切っていった。遮断機が下りきると一色は、せんぱい! と呼び止めた。視界の隅に高速で動く銀色の物体が見えていてすぐに叫んだ。自惚れんな! 比企谷八幡は立ち止まってこちらを振り返る。顔を見せる直前で轟音を立てて鉄の塊が横切る。切らした息と風に転がる傘がぴったりと重なる。いないだろうな、と一色は何故か感じた。音が鳴り止むと再び静寂が訪れる。地面の赤い染みがゆっくりと雪で上書きされていく。強くなるわけでも弱くなる訳でもない雪は先ほどと変わらず一色を囲んでいて現実感を薄めていた。

 背後で雪を踏む音がして振り返ると比企谷小町がこちらに傘を差し出していた。大丈夫ですか? と頭の雪を払ってくれる。一色は比企谷小町の肩に縋る。ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめん、ごめん、ごめん。力なく何度も呟く一色を比企谷小町は抱き締めた。ごめんなさい、ごめんなさい、いろはさんごめんなさい。二人の涙は肩の色をどんどん変えていく。

 赤い傘とピンクの傘は風に寄り添い静かに冷たい雪を溜めていった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 まるで祭りだな、と周りを見渡して思わず呟いた。ドーム球場の周りには電飾がふんだんに散りばめられていて光の庭になっていた。澄んだ空気を滑るように様々な色の光が溶け合っている。一度鞄の中身を確認する。ブランド物のアクセサリーが数種類ありどれもシンプルな包装がされている。この中から気に入りそうなものをその場で選べばいい。

 約束の時間は十七時。携帯の画面を表示させて今一度、遥の彼氏の写真を確認した。海岸をバックに白い歯を見せる。焼けた肌が印象的な短髪の好青年といったところか、薄手のシャツを着て鍛え上げられた筋肉を披露する様子はいかにもという印象を受けた。ドームの広場を横切っていると前方に小さな行列ができているのを見つけた。開場時間は過ぎている為おそらくグッズ販売だなと見当をつける。同じ方角を目指すファンの様子を見ると、タオルの一つでも買っておいた方が自然か、と考え行列に足を向ける。しかしすぐその必要がなくなる。ドームを囲う柱の一つにターゲットを見つけて近づいた。

「すみません、”シュンタロウ”さんですか?」

 柱に体重を預けている通称シュンタロウに声を掛けた。シュンタロウは彼のツイッターの裏アカウントの名前だ。本名まで調査済みの俺からしたら単なるもじりだとは分かっている。シュンタロウは突然声を掛けてきた俺を警戒しつつも、約束していた時間の五分前であり、鍵を掛けているアカウントの名前を知っていることで徐々に肩の力を抜いていった。

「材木座さん…じゃないですよね?」彼は首を傾げ、「あ、代理の方とかですか?」と手を叩いた。

 話が早くて助かります、と笑いかけてみる。おそらく不自然ではないだろう。自然な笑顔を作るコツは本気で笑うことだ。材木座は本名で接触してんのかという呆れはとりあえず置いておく。そういえば材木座と連絡とってないな、会ったらお礼しなきゃな―――ズキン、と後頭部に痛みを感じた。夜の帳が落ちるように景色がこめかみを伝って広がる。ぼやけた物体が月明かりの元で鎮座していた。

 いや、会っている。俺は材木座に会っている。会話もした。どこでだ。公園だ。呼び出された。バイト終わりに向かった。チケットはここにある。

 ―――おかしい。

 思わず辺りを首を振った。東京ドームだ、ここは。どうやってここまで来た? 電車に決まってる。いつ乗った。昼過ぎだ。誰かといた? 誰とも、誰とも、いない。予備のプレゼントを買った。黒いスーツに身を包んだ店員と話した。クリスマスなのに大変ですね―――、誰の言葉だ。

「あの、すみません」

 ハッとして前を向くとシュンタロウがこちらを訝しんでいた。まずい、と思い慌ててチケットを取り出す。これチケットです、と渡すと「本当にいいんですか?」と気を遣いながらも受け取った。堪えきれずに口元が緩んでいた。俺は彼の肩に手をやり、お願いします、と念を押してから背を向けて歩き出す。後頭部を叩く鈍痛が続いていた。過去を遡るほどそれを切断しようとするかのように意識と視界に霞がかかる。背後から近づく足音に気が付かず、いつの間にか俺の右手には茶封筒が握らされていた。揺れる思考で中を確認すると一万円札が入っている。やっぱりお金は払わせてください、という申し訳なさそうな声が今になってゆっくりと脳内に侵入してきた。

 振り返るとシュンタロウは何度も頭を下げて手を振っていた。それに小さく会釈でこたえてから再び歩き出す。

 記憶を遮断して諦めろと諭してくる脳内に衝動が沸き上がって来る。目的を果たせと赤いランプを点滅させる。

 はやく行かなければ――――。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 池袋駅東口を出ると近くに大きなクリスマスツリーが見えた。既に日は完全に沈んでいるが、空から襲い掛かる闇に抗うように都市が発光していて視界がうるさい。空気はさらに冷え、いつの間にか雪も強くなって地面を薄く凍らせていた。破裂音を思わせる大きな笑い声が聞こえてそちらを見ると尻もちをついた男とそれを囲む大学生らしき集団が手を叩いてはしゃいでいた。ポケットにある携帯がぶるぶると震えた。

『みんなでクリスマスパーティーしよ!』

 由比ヶ浜からの奉仕部グループLINEには簡素な、しかしこんなにもこころが躍ってしまう一文とともにスケジュールのアンケートが送られていた。バイトはあるがパーティは夕方までだろうと考え二十六日以降の予定に全て丸をつけて送信する。その瞬間にまた一つメッセージが送られてきた。

『いろはちゃん今年は遠慮しておきますだって…』

『あら、でも仕方ないわね。受験生だもの』

 いつの間にか雪ノ下もトークに参加している。ということは俺が画面を表示させていることも向こうにはバレている訳で、ここには三人だけの空間が広がっているといっても過言ではないのかもしれない。小さな部屋が夕日を集めている。長机が見える。雪ノ下の椅子。由比ヶ浜の椅子。俺の居場所。そして、もうひとつ―――。

 自惚れんな! どこからかそんな声が降ってきて顔を上げる。小さな手がひらひらと振られていた。携帯の電源を切ってポケットに押し込んだ。目元には妖しく映える赤色のチークをさして、切り揃えられたショートヘアが外側に跳ねている。ボブヘアではなくなったから元黒髪ボブか、元ボブでいいか。思い出したように鞄から見覚えのある長財布を取り出して見せつけるように振ってきた。なにそれ、と元ボブの背後で水戸黄門を慕うかのように陣取る二人の男が首を伸ばして訊く。内緒、と赤い唇に人差し指を当ててこちらにウインクしてきた。

「――さっきの子めっちゃ可愛かったね」

「あー、多分男の子だけどね」

「え、まじ? 全然わからなかったー」

「あはは、ウケるんだけど」

 聞き覚えのある声に、初めて聴く声。いがみ合っているようでいて阿吽の呼吸のようにふしぎな調和を成している二つの声だった。俺は声のした方向を振り返る。たらたらと歩いているうちに後ろにいたらしい。折本の隣にはシュシュで纏めた茶色の髪の毛をサイドに流している女子がいた。うわ、かわいいじゃん、と元ボブに用意させた男の片方が口笛を吹く。やらねえけどな、ぼそりと呟いてから大きく息を吐く。伏せた視界にストラップのついたヒールが侵入してきた。しなやかな弧を描く黒いタイツから赤いスカート、紺色のトップスに同じような上着、そしてまた赤色のマフラーを巻いていた。

 いつもそこは赤色だった気がした。どんなときも、どんなところでも、いつもそこには赤がいた気がした。入学式の後に登場した陽乃さん。朱に交われば赤くなる、ではない、朱に交わるために赤くなった。いつだって傷つかない日はなかったのだろう。誰もが苦しんできた道をへらへらと笑い生きている。

 俺が顔を上げると”遥”は目を見開いた。

 はじめまして、そう笑いかける。

 多分、一番笑えていると思う。

 この瞬間のためだけだったのだから。

 

 西洋風の広い店内にはオレンジ色の灯りで満たされていて不思議な浮遊感が漂っていた。個室ではないため後ろと左隣から話し声が聞こえてくる。猫背になりそうなほど低い椅子に低いテーブルで意識的に背筋を伸ばす。それだけで効果があるのかは分からないがあの人なら、嫌いだけどね、と笑ってくれそうな気がした。テーブルに並んでいる料理を眺めていると、とんとんと膝を叩かれた。

「ね、”ヒキヤ”くん、本当に運命だと思わない?」隣に座る遥が小さな声で言ってくる。

 吹き出しそうになるのを堪えてグラスにつがれた液体を一口煽る。今更そんなミスはしないし、そもそも運命という単語を持ち出したのは俺なのだから遥はそれを忠実に受け止める素直ないい子だとも取れる。半分効力を諦めていた自撮りのアカウントが役に立った。先に気が付いたのは向こうで、声を掛けたのが俺からという構図は彼女の機嫌を取るには余りあるものだったらしい。遥の瞳は風に吹かれる炎のようにゆらゆらと揺れているように見えた。その眼は知っている。よく、知っている。

 同じように声を潜めて、実はずっと仲良くなれたらなって思ってたんだ、と囁く。遥は、嘘だ、と茶化すように俺の膝に触れてくるから、本当だよ、とそれに手を添える。

 ずっと狙っていたに決まってんじゃねえか、と喉がめくりあがりそうになる。チラリと周りを見渡すと既に出来上がっている男二人がそれぞれ折本と元ボブに絡んでいた。鬱陶しそうに話しながらこちらをチラチラと気にする折本と、慣れたようにあしらう元ボブは対照的で別々の空間にいるように見える。席替えの際の誘導や最初は気遣えるが酔うとダメになる男の人選といい、意外な助力を受けてしまった。まあそれも理想の金ヅルだと思っていただけたからだと光栄に存ずる次第だ。

 この調子でいけば上手くいくな、と少し緊張の糸が緩むのが自分でも分かった。なぜだか今日は朝から視界がぶれて焦点を合わせるのに苦労していた。街を覆う光はいつもより何割か増しで眩しく、ちかちかと眼の奥を痛めつける。肩の荷が下りるに比例して灯りの眩しさも収まっていった。

 ―――遥が携帯を触ってからだった。

 後頭部への鈍痛が甦ってきて木製の机のツヤに反射する灯りすらもまともに見れなくなった。いつの間にか会話の弾まなくなった彼女を見るとその瞳はすでにここではないどこかにいってしまい、好奇心という炎が消えていた。迷いのようなものはあるものの、先ほどのようなゆらゆらと大きく揺れ動くものではなかった。その迷いの揺れはどこかで見たことがあった。つい最近だ。

 クリスマスなのに大変ですね―――恋人が仕事でシフト入れたんですよ―――こんなに綺麗な人を放っておくなんてもったいない―――

 ブランド店の店員か、と思い出す。

 思い出すと同時に意識が”どく”のが分かった。堕ちるのでもとって代わるのでもなく、”どく”のが分かった。その感覚は横入りに近い気がした。少し、ムッとはするものの、関わるのが面倒で気にしないフリ、寧ろ自ら避けるような感覚だった。だから俺はいつものように、”どく”。それで今は上手くいく。

 黙って立ち上がると、何かを言いかけた遥を背にトイレへと向かう。個室に入って携帯を取り出すとすぐにトップニュースが目に入った。『人気アイドルの卒業ライブで事故。救急車も出動する事態に現場は混乱。』画面をスクロールすると、『ライブ参加者にはケガはなく退去は終えている模様。後日正式な対応をすると公式サイトが声明を出した。』携帯の電源を切ろうとしたところで新着の通知があることに気が付く。『二十九日にゆきのんの家で決定! プレゼント交換するから用意しといてね!』由比ヶ浜からのメッセージだった。

 今度こそ電源を落としトイレを出ると人影が見えて仰け反る。待たせていたのかと身体を避けようとすると腕を掴まれた。「ねえ、どういうつもりなの?」

「なんだ、折本か」

「なんだじゃないって、あんなに遥と仲良くしてどうするの?」

 どうするのとはどういうことだろうか。私のことは、とでも最初につけるのだろうか。「別にどうもしないが」

「嘘、遥のこと狙ってるんでしょ」折本は俺の顔を覗き込んで、持ち上げるように睨みつけてくる。

 やばいな、さっさと戻らないと遥に逃げられる。おそらく事故でライブが強制的に終わったシュンタロウが遥に連絡したのだろう。そもそもチケットを渡すという不確定な予定であるから濁すように出てきた可能性もある。どのみち俺の、お願いします、という頼みは果たしてくれたのだから文句は言えない―――見られている、と感じた。折本の奥からねばねばとした視線が身体に纏わりつく嫌な感触がした。頭越しに確認しなくともそれが遥から発せられてるのだとはすぐに気が付いた。約束したよね、と詰め寄って来る折本に顔を向ける。

 そういえば、と折本と遥のエピソードが頭を過った。遥が好意を寄せていた先輩が実は折本に気があったという夏休みの確執を嬉しそうに話してくれた。

 これがおわったらちゃんとこたえるよ、と折本の肩に手を添えて力を加える。すると折本は困惑と満足を混ぜ合わせたような表情を浮かべて数歩後退した。その横をすり抜けて席に戻る。わざとらしく別方向を見てグラスを傾ける遥に聞こえるよう、わざとらしくため息をつく。

「どうしたの? もしかしてかおりと知り合いだった?」

 文脈がおかしいことに気が付かないほど、彼女は高揚しているのだとすぐに分かった。彼女の瞳を見れば激しい火花がぱちぱちと攻撃的に刺さってくる。

「ああ、まあね」

「どういう知り合い?」

「いや、大したことはないんだよ」と頭を振って席に戻った折本を見る。それから目を伏せ、ただちょっとしつこくて、と弱々しく呟いた。

 遥のタイツに包まれた黒い脚が俺の膝に、ちょん、と触れた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「会えないってどういうことだ陽乃」

『だって、会ったら静ちゃん絶対説教するもん』

「説教などしないさ、近況くらい聞かせてくれたっていいじゃないか」

『あはは、この間会ってから二ヶ月も経ってないよ』

「はあ、比企谷とはどうなったんだ?」

『んー、どうもこうもないよ』

「なんだ、その、比企谷の浮気は終わったのか」

『――もうすぐじゃない?』

「もうすぐ?」

『そう、もうすぐ』

「そうか…」

 少し長い沈黙の後平塚静が再び声を上げようとしたとき、ほんの微かに雪ノ下陽乃の嗚咽を聴いた気がした。それは助けというにはあまりにもか細く、嘆きというにはあまりにも悲痛で平塚静の首を締め上げた。スポーツカーの鋭利な車窓には風に吹かれた雪がはらはらと舞っていた。パトロールカーが横を通り過ぎて赤い光が空間に満ちると一面に血飛沫が舞ったような気がして思わず目を逸らした。

「陽乃?」

『はじめてなの』

「何がだ」

『初めて口にしてくれたの』

「何を言ってるんだ陽乃」

『だから、だから辛いの。こんなに辛いと思わなかった』

「やっぱり会おう陽乃、今どこにいる」

『こんなにも辛いなら、自分のものじゃない方がよかったかな』

「言え、陽乃! どこにいる!」

『静ちゃん』

「なんだ」

『わたしね、どこまでも愛することか、殺すことしか知らないんだって』

「そんなこと誰が言った?」

『成長のないイケメンかなあ』

「大丈夫だ私がそいつを殴ってやる」

『だから、もう一回だけ、もう一回だけ、愛するために自分を殺すね――』

「おい陽乃! 陽乃! くそっ!」

 平塚静は、ダンッ、とハンドルに拳を振り下ろして顔を歪めた。しかしそれだけでは収まらずダンッ、ダンッ、と何度も何度も叩き続けた。くそっ、くそっ、くそっ、どうして何もできない。何が教師だ、何が頼ってくれだ、肝心な時に何もできない。成長という大義名分にかまけて促すだけに逃げていた報いなのか。くそっ、くそっ、ガンッ、と音がしてハンドルと額がぶつかった。じんわりと痛みが拡がり思わず、そもそも陽乃はわたしの事を信頼してくれていたのだろうか、と考える。いつだって悪戯っ子のように舌を出して、捕まえようと手を伸ばすとスカートを翻してひらりと躱す。平塚静と雪ノ下陽乃の関係は出会ってから何も変わっていなかった。平塚静は自分の恐ろしい感情に身体が震えるのが分かった。横を走るものは誰もいない。雪ノ下陽乃に近づこうとしては離れていく、そんな連中を見て自分は胸を撫でおろしていたのではないか。教師も友達も、脱落していく奴らを見て安心していたんじゃないか。自分だけがいつまでも見守っていられると、こころのどこかで優越感に浸っていたんじゃないか。暗澹とした感情は化け物と化してして平塚静の周りを覆ってしまっていた。ぐつぐつと唸るエンジンをエネルギーに腹を空かせる化け物が今か今かとよだれを垂らしていた。

 平塚静は陽乃の本性を知ったうえでそれを認めて付き合い、それが正しいと疑っていなかった。平塚静は理解者の存在はどこの世界でも必要だと説いた。生きにくい世の中だろう、そのままでいい、別にお前は悪くない、そんな言葉だけを雪ノ下陽乃に対して弄してきた。それがいけなかったのかもしれないな、と平塚静は顔を上げた。遠くで電車の音がしてアスファルトの凹凸がいきものの硬い鱗に見えた。それでは永遠に変わらない、意味のないカウンセリングのようなものだと思った。医師と患者を隔てる大きな溝。いくら手を差し伸べようと平塚静が雪ノ下陽乃に踏み込むことはなかった。理解者の存在で世界が変わるなら悲しむ人間などとうの昔に滅亡しているよな、と平塚静は自嘲気味に笑う。理解した気になって、知った気になったところで相手の求めているいることは分からない。平塚静と雪ノ下陽乃の関係はあの頃から変わっていない。職員室で椅子に座って脚を組んでいた平塚静とそれを立ったまま見下ろす雪ノ下陽乃、彼女の求めていたものを平塚静は理解できないで、認めた気になって胡坐をかいていたのかもしれない。

 雪ノ下陽乃の求めているものは考えて分かるものではないのかもしれない、ただ、彼女は”ああなんだろう”と認め始めた時からそれは終わるっているのだろう。平塚静はハンドルの奥に手を差し込みライトを点けた。

 生き方に対峙し、否定するだけでもきっと足りないのだ。

 比企谷、お前は何をしたんだ―――ばちんっ! 平塚静は自分の頬を強く叩いた。堕ちていきそうな視界が瞬間的な落雷にあったかのように見開く。平塚静は雪ノ下陽乃を諦めようとした思考を強く悔いた。ふざけるな、ふざけるなよ平塚静。宙を彷徨っていた意識を叩き起こして胸ポケットに手を突っ込む。会ってから今までの雪ノ下陽乃の背中を思い出す。確かに雪ノ下陽乃は人とは違う道を歩んでいるのかもしれない、理解りもせず追従するような阿呆に飽き飽きしているかもしれない、こんなこと考えている時点で雪ノ下陽乃が持ち合わせる範疇というものを逸脱しているのかもしれない。平塚静は窓を全開にしてライターの火を口元に近づける。すこしだけ息を吸う。それでも、雪ノ下陽乃が振り返ったとき、迷って首を回したとき、誰かがいた方が絶対に嬉しい。平塚静はブレーキペダルを力いっぱい踏む。絶対にだ、もう一度呟いた。

 極限まで冷やされた空気が肌に割って入り、煙草を挟む指先から徐々に感覚が奪われていく。それを少し楽しみながら白い煙を吐くと冬の夜に溶けて交じり合うように消えた。ギアを入れてクラッチとアクセルをゆっくりと噛みあわせる。

 ―――いつか彼女の事を理解できる人が現れるかもしれない。

 そんな綺麗なものではない、のかもしれない。吐いた息が空に溶けるように、落とした水滴が海に消えるように、ただ曖昧に、感情と感情をぼかしているのかもしれない。人間が想像できる世界など、小さな水溜まりに生まれては消える薄氷に触れるようなものなのだ。

 だから平塚静は雪ノ下陽乃が幸せになることを願った。

 そしてそのピースのひとつが自身の存在ではないかと、醜い感情をゆっくりと仕舞う。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 やばい、飛ぶ。

「ねえ、どこいくのー?」

「疲れたし、ちょっと休憩しない?」

「えー、”ヒキヤ”君のえっちー」

 自惚れんな、自惚れんな、自惚れんな、自惚れんな、自惚れんな―――やめろ! ハッとして横を見ると遥が白色の傘を持ち上げて首を傾げた、どうしたの? いや、なんでもないよ、と微笑む。声には出ていなかったらしく小さく息を吐いた。東京を覆う雲は厚みを増したのか、より暗く、より濃くなっていた。真っ暗ともいえる景色に小さな白が爛々と光る。世界にはその二色しかなかった。路地裏のホテル街を歩いていた。白い尾を引いた車がゆっくりとしたスピードで車道を走る。もうブーツの中までびちゃびちゃだよ、と遥が少し不満げにいう。俺の口が勝手に動くと遥は手を口元に添えて笑った。アーモンド形の眼が妖しくも可愛らしい。意識してみれば脚にも動かす感覚がなかった。しびれたときのように踏みしめる感触がなく、ただただ足の裏に地面が当たるという感覚だけだった。今もなお唇は複雑に動き、遥の笑顔を生み出していく。身体にのっている気分だった。皮膚ではなくもう一枚外側の存在、確かに中にいる。暴力的な何かがいる。

 なんだか軽くなった気がした。身体と精神にかかっていた悪い重力のようなものが全てなくなった気がした。いままで足枷でもつけていたのかという程にとても軽い。雪の粒がゆっくりと落ちていくのをはじめて眺めた。その数を数えようとして目で追えなくなるとすぐに諦めた。自惚れんな、とまた高い音が響いた。しかしそれはこれまでのようなうんざりする鈍痛ではなく、頬をぱちんと引っ叩かれるような心地よい刺激だった。久しぶりに頭がクリアになった。視界が広い。世界が広い。俺はどこまで来たのだろうか。暗く狭い視界の中で手さぐりしてきた旅路はどこに降り立つのだろうか。

 ―――そもそも俺は、どこから来たのだろうか。

 比企谷八幡とはどこから来た何者なのか、知っている人間は比企谷八幡しかいない。

 この醜い生物を知っているのか。嘘と欺瞞に塗りつぶされたこの醜悪な生物を。足を折られて腕を折られて首の骨を折られてぼろぼろの布切れのように一歩ずつ大げさに踏み出すこの大根役者を知っているか。比企谷八幡はよく知っている。ずっとずっと見ないようにしてきた。この醜い下等生物の存在を。人を騙し嘲り踏みにじってきたクソ虫にすらもったいない人間を。

 雪ノ下陽乃の挑戦。葉山隼人の哀愁。戸部翔の依頼。海老名姫菜の希望。三浦優美子の劣情。そんなもの吐いて捨てるほどどうだってよかった。仲間内のいざこざなど興味の欠片もなかった。葉山隼人の事件など、戸部翔の秘密など、海老名姫菜の望みなど、三浦優美子の自傷など、ぼっちの俺には一生関係ないことだ。

 比企谷八幡が気持ち悪くて気持ち悪くて吐きそうになる。比企谷八幡がかわいそうでかわいそうで泣きそうになる。比企谷八幡が醜くて醜くて蹴り飛ばしたくなる。

 俺は怖かったんだ。

 ずっとずっと怖かったんだ。

 それは比企谷八幡が捨てたもので、高校三年間で膨張してしまった感覚だった。

 知ってしまった、俺は味わってしまったのだ。

 人に頼られることの、快楽を。

 

 

 ―――ああ、口にしてしまった。答えにしてしまった。ずっと見ないフリをして、そっと隠して、時には破壊して、悲劇のヒロインを演じていた。比企谷八幡の醜い姿を、認めてしまった。

 卑しい、意地汚くて浅ましい、下賤で下等、野蛮で低劣な、下衆の誕生だ。

 あの教室を離れてからずっとだ。四月が訪れて俺を襲い掛かった恐怖は新しい環境への順応でも新しい人間関係の構築でもない。俺を必要としてくれる人間の存在だ。

 ずっとずっとぬくぬくとあの夕日にあたっていたかった。雪ノ下と由比ヶ浜がいて、依頼がきて比企谷八幡を求めるその瞬間を俺は知ってしまった。どんなに快楽を求めようとあの瞬間には到底及ばない。誰を抱こうがあの夕日には届かない。そんなものは捨てたつもりだった。必要とされないことなど当たり前、存在を認識されなくて当たり前、忌避して人が離れていくのが当たり前、それが比企谷八幡のはずだった。はずだったんだ。

 雪ノ下雪乃に由比ヶ浜結衣、材木座義輝に戸塚彩加、葉山隼人に戸部翔、一色いろはに三浦優美子、平塚静に城廻めぐり、川崎沙希に折本かおり、そして比企谷小町に雪ノ下陽乃。

 俺のことを見る目が変わっていく。好意的になっていく。近づいてくる。求めてくる。そんな快楽を知ってしまったらもう、怖くて怖くて仕方がない。離れていくことが恐ろしくて恐ろしくて足がすくみそうになる。雪ノ下陽乃の挑戦的な言葉を受けて真っ先に身体を纏ったのは恐怖だった。捨てられる、見捨てられる、あの人の中での比企谷八幡の存在価値がゼロになる。

 大学生活を送っている俺を包んでいたのは酷く醜い自己承認欲求だ。知らず知らずのうちに餌を与えられていたその番犬は奉仕部の部室でブクブクに太っていた。その結果が卒業後の冬休みで吐きそうなほどに溢れた、求められたいという欲求だった。

 そんなわけがないと何度も言い聞かせた。比企谷八幡はそんな人間ではない、比企谷八幡はそこまで堕ちてはいないと。しかしその醜い欲求は戸部の依頼でひょっこりと顔を出した。その獣は待ってましたと言わんばかりに涎を垂らして待ちわびる。また比企谷八幡の番犬は餌をもらえるようになった。毎日毎日、自己承認欲求という完全栄養食をばくばくと食べ続ける。

 十月だ。依頼が終わった。全ての依頼が虚無になった俺を再び襲い掛かったのは飲み込まれそうなほどの闇だった。視界がギューッと狭まり、飲み込まれていくと錯覚するほどの欲求は雪ノ下陽乃の存在でギリギリに踏みとどまった。

 愛されている、という蜘蛛の糸が麻薬のように揺らされた。

 しかしそれで満足はしなかった。俺の理性を超える欲求は雪ノ下陽乃を抱くことでまた肥大した。また役に立てる。また必要とされる。また、皆に愛される。そこで俺は喰われた。欲求に喰われた。

 葛藤だった。認められたいという思いと他人を傷つける地獄を味わった。進めば地獄、止まっても地獄。生きている限りの地獄で俺の足は黄色い警告ラインを超えてしまった。迷ったら終わる、止まったら無駄になる、その思いに憑りつかれた。

 戸部の依頼を意地でも達成する、という大義名分を掲げた比企谷八幡の大舞台は欲求という人間の醜さに支配された傀儡舞台だった。

 それに気が付いている人間はいるのだろうか。

 まあきっと、あいつらは気が付いているんだろうな、と思う。

 俺の皮を被ったこの化け物は比企谷八幡のぶくぶくに太った自己承認欲求だ。食べて膨らみ、痩せて人の形と成った。喰われるほどの欲求は人格をも乗っ取る。なぜならそれは”俺の”欲求だからだ。操るも何もない、心の中で俺が持っている欲求なのだ。理性のブレーキはとうに外した。

 無数の雪を浴びて、塗り固められた笑顔をみせ、ひょうひょうと歩き、べらべらと喋り、隣を歩く女の肩をいやらしく抱く人間は、紛れもない比企谷八幡なのだ。

 だから、だから、だから、誰か助けてくれよ。

 雪ノ下、由比ヶ浜、依頼があるんだ―――――俺を、比企谷八幡を、助けてくれ。

 ねえ、ホテルってここ? スピーカーから発せられるアナウンスでも聞いているように空から声が降ってくる。ああそうだよ、と返す俺の声も鼓膜のそとで反響する。俺という存在がゆっくりと沈む気配がしていた。抗いきれないその睡魔に呪われるように身体が重くなっていく。やばい、飛ぶ――――そこで、比企谷八幡の背中に、ドンッ、と何かが当たった。同時に体内に侵入する温度をもたない異物、そして引き抜かれる無機質な感触。

 視界がぐらりと揺れて膝をついた。

 足元を見ると世界に色が戻っている。鮮やかな赤色がぽたぽたと垂れて水溜まりをつくっている。戻った、と思った。指の先まで完全に身体に収まったと分かった。じわじわと何かがせり上がって来る。それは生に関するなにかで、人が生きるために必要な何かだと堕ちていく意識の中で感じた。

 首を捻り振り返った俺が最後に見たのは、めぐりさんの――、と叫びナイフを振りかぶる真っ赤なジャンパー男と、それに体当たりして吹っ飛ばす金髪の男だった。

 そのまま前のめりに倒れると手に持っていた携帯が滑り、カラン、と側溝に落ちる音がした。

 ブレーカーがゆっくりと落とされるように徐々に意識のシャッターが降りてくる。

 遠くで聴いたことのある声がいくつか聞こえた気がした。

 夕日を浴びるように刺された皮膚が熱い。

 身体の真ん中は酷く冷たい。

 意識が、堕ちた――

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 葉山隼人は―――。

 

 葉山隼人は雪景色の池袋を駆けていた。クリスマスカラーに彩られた街は一つの異世界の様相を見せ、すべての人が浮足立っているように見えた。人ごみを避けて居酒屋の角を曲がると人とぶつかりそうになって躱す。しかし相手は体勢を崩したようでゴミコンテナにぶつかっていた。あいた! と悲鳴を上げて倒れ込む。葉山隼人は慌てて近づいて手を伸ばす。大丈夫か、戸部。起き上がった戸部翔は、あいたたた、と腕を庇いながら恥ずかしそうに笑った。その様子をみて葉山隼人は胸を撫でおろす。おーい、と声がしてその方向へ顔を向けると戸塚彩加が走ってきていた。八幡いた? と息を切らして膝に手をのせる。葉山隼人は戸部翔と顔を見合わせてから首を振った。

 いいですよ、まあ私もせんぱいには用がありますし、と承諾された調査。葉山隼人が一色いろはに頼んだ結果は比企谷八幡が計画していることを突き止めるのみで終わった。接触は比企谷八幡が行動を起こす直前、ターゲットをホテルに連れ込む直前にしなければ濁される、ということは共有できた。しかしそこまでで万事休すか、とクリスマスイブのサイゼリアで肩を落とした矢先に戸塚彩加の携帯が鳴った。比企谷小町が比企谷八幡の携帯を盗み見て得ていた情報は、十九時、池袋、合コン、という単語だけだった。いろはさんには言える状態じゃなくて、と申し訳なさそうに電話を切った比企谷小町の思いを汲んで三人は電車に飛び乗った。

 葉山隼人は雪で濡れた腕時計を見る。時刻は二十一時に差し掛かろうとしている。すでにホテルにいるのでは、という内容に近い言葉は誰一人口にしなかった。合コンを開催している店の捜索は諦めて、ホテル街へと足を向けることにした。三人とも傘を持たず、ウインドブレーカーを着てフードを被っていた。頭に積もった雪を払い、駆け出す。

 葉山隼人は比企谷小町に送ってもらった比企谷八幡の服装の画像を見ながら走っていた。ネオンを撒き散らすビルを曲がった途端に、しん、と静まり返った路地裏に入って思わず足が止まる。なんか怖いね、と同じように足を止めた戸塚彩加が後退るように雪を踏みしめる。それと同時に葉山隼人は目を見開き、携帯の画面を素早く確認した。路地の先にいた側溝側を歩く女が傘を持ち上げ、隣の白いホテルを指さしてから口を動かした。車道側を歩いていた男も同じように傘を持ち上げてその建物を見上げると小さく頷いた。見つけた、と葉山隼人は呟く。え、とあっけに取られる戸部翔を他所に葉山隼人は雪を蹴った。雪の下に眠るアスファルトは漆黒の蛇のような鱗をしていて葉山隼人のゆく道を濃く暗く示していた。靴の底と蛇の鱗が噛み合う感触がしてスピードを上げる。比企谷八幡を止める――――そう決意した瞬間葉山隼人は信じられない光景を見た。標的の奥に微かに見えた赤い服の男の手には鈍く光るものが握られていた。初めはライターか何かだと思い、今にもホテルに足を踏み入れそうな比企谷八幡に視線を戻したが、街灯が男の手に反射してチカリと葉山隼人の眼を襲った。ファンタジーに出てくる武器を見たかのような衝撃を受けた。ナイフを確認した葉山隼人の頭に浮かんだのは、通り魔? という疑問だったが、それから一秒と経たず比企谷八幡がぐらりと揺れて地面に膝をついた。葉山隼人の筋肉が凍ったかのように凝固した。しかし比企谷八幡からぽたぽたと落ちる黒い液体が神経という火花の着火剤になるかのように、ぐんっ、と身体が動いた。首を後ろに捻る比企谷八幡を避け、血と雪を吸って妖しく光るナイフ男に思い切り突っ込んだ―――――――

 

 

 

 ―――隼人君! 突然呼ばれた懐かしい名前に葉山隼人は思わず顔を上げてしまった。体育が終わり比企谷八幡という道標を失った葉山隼人は呆然としていた。早く戻らなければ着替えられなくなってしまう、そう思いながらも届かない人間を横目に息をすることは葉山隼人には想像ができなかった。重い足取りの葉山隼人を訝しげに最後の片づけを終えた学生が走って追い越していく。バタバタと踏み奏でられたコンクリートの道に休符のような一瞬の静寂が訪れた。グラウンドを覆う木々のざわめきだけが静かに鳴っていた。乾いた葉が風に誘われ、葉山隼人の足元で落葉に役割を変える。その先に赤いスニーカーのつま先が見えた。

 葉山隼人は顔を背けて戸部翔の横を通り過ぎる。これでいい、とこころの中で言い聞かせた葉山隼人は思わぬ形で足を止めることとなった。腕を引かれ、話があるんだ、と真剣な声で言われた。葉山隼人は喜んだ。嬉しい、と子供のようにはしゃぎ、待っていたんだ、と握手を交わした。そのすべてを脳内で完結させて葉山隼人は、着替えたらな、と言い放って腕を振りほどく。そしてひっそりと裏口から姿を消した。捕まったのは大学内の広場だった。電車の時刻を確認して少し歩を速めた瞬間に再び肩を叩かれた。カッとなった葉山隼人は、いいかげんにしろよ! と大きな声で叫ぶ。広場で談笑していた大勢の学生の肩がびくりと震える中、一番驚いていたのは葉山隼人自身だった。怯えた顔でこちらを見つめるその顔には見覚えがあった。戸塚彩加だ。そしてその声に気が付いて走り寄ってきた戸部翔を加え、葉山隼人の退路は断たれることになる。

 皮肉なことに葉山隼人は、その瞬間を感傷に浸っていた。それは懐かしの面々に囲まれた回顧からではない。いつだってそうだった。葉山隼人はそれしかできない窮地に立たされなと動けない。誰かが困ったとして、葉山隼人でなければ助けられない、葉山隼人でなければこの状況を変えられない、という酷く醜い意志。葉山隼人は昔、”手遅れ”という経験をした。それは雪ノ下雪乃という存在を加味しなければ語れない出来事ではある。しかし、またもや皮肉なことに葉山隼人はそれから”手遅れ”になる状況を一度しか生み出していない。その直前に立ち上がる、否、立ち上がらざるを得ない精神に育ってしまったからだ。その為の求心力が葉山隼人の力だった。

 そして、今再びその退路が断たれた、と葉山隼人は感じた。高校三年のあの瞬間の直前に感じた狭心症のような苦しさとよく似ていた。そしてそれは、予期せぬ人物の登場が起こした予感かもしれない。それは、戸部翔の瞳に宿る新たな意思の存在に気が付いたからかもしれない。それは、葉山隼人が今まで培ってきた危機察知能力の集大成だったのかもしれない。

 ただ一つ確かなことは、彼らの瞳に射貫かれた葉山隼人の抗う意志はその時点でなくなっていたということだ。

 

 三人の地元である千葉まで戻るとお馴染みのサイゼリアに入った。戸部翔が、なにかあるといつもここだべ、と愚痴る。まったくだ、と葉山隼人は頷いてしまい、ハッとして顔を逸らす。クスクスと笑う戸塚彩加と戸部翔を無視して葉山はテーブル席の奥に収まった。

 戸塚彩加は比企谷八幡が想像しているよりも比企谷八幡の事を考えていた。いつだってそうなんだ、と悲しく怒る戸塚彩加の表情に葉山隼人のこころはまた揺り動かされた。電車で見る度に少しずつやつれていくように見えたという。実際そんなことはないのだろうが、比企谷八幡の纏う空気の色は気を抜くと薄く濁ってしまう危うさがあった。触れたら溶けてしまうのではないかと危惧しながらも話しかけた、と戸塚彩加は肩を竦める。結果は戸塚彩加の元気のなさから想像に難くなかった。待っている、と言ってから酷く後悔したそうだ、戸塚彩加は頼ってくれるのが嬉しかった。高校二年のマラソン大会で力になれたことは記憶に新しく、思い出のひとつになった、と照れ臭そうに笑う。それを初めて知った葉山隼人は痛し痒しで苦笑いしつつ先を促した。ただ、戸塚彩加は悩んでいた。”友達”の在り方について悩んでいた。頼られて嬉しい、という気持ちは戸塚彩加自身の傲慢な欲求なのではないか、なぜ頼ることだけが信頼たりえるのか、戸塚彩加は酷く悩んだ。比企谷八幡は人を頼らない。それは周知の事実だった。だからこそ比企谷八幡が戸塚彩加を頼るとき、信頼という結晶が目に見えるのだろう。別に戸塚彩加は頼り、頼られるという美しい関係を望んでいたわけではなかった。高校二年の戸塚彩加は比企谷八幡の人間性に触れ、ただただ比企谷八幡の力になりたいと素直に思った。それが今は何だ、と悔しそうに戸塚彩加はドリンクバーのグラスを置く。頼ってくれるの待っているからなんて、浅ましく醜い欲求なのではないか、戸塚彩加はそう思った。持ちつ持たれつが素晴らしいなど誰が決めた。明らかに助けてくれと叫んでいる”友達”に対して、待っているからなど、酷く傲慢な感情ではないか。身体を丸めて泣いている子供に対して、助けて欲しかったら言ってね、などどれだけ残酷な言葉か分かるだろうか。どうしようもないからそうしているのだと、戸塚彩加は気付いていながら突き放したのだ。おせっかいかどうかは話してから分かる、戸塚彩加が呟いた。叫んでいる”友達”も助けられないでなにが信頼か、と戸塚彩加は一筋の涙を流した。

 戸部翔は自立したかった。突然鞄に手を突っ込み取り出したのは山の様な参考書だった。葉山隼人が素早く表紙に目を走らせると一つの法律系国家資格の名前が見て取れた。これは? と葉山隼人が訊く。戸部翔は、受けるんだ、と真剣な表情で言った。葉山隼人は手を伸ばして一つの参考書を開く。赤色で線や要点がまとめられていたが、その量が少なかった。息を吐いて閉じようとした時、右手の親指が凹凸を撫ぜた。もう一度開いてよく見ると、多くの書き込みが為されてから消された痕がある。葉山隼人は驚いた。俺に言えば効率よく教えてやるのに、と考えた自分に驚いた。戸部が口を開く。

 ―――俺、大学辞めるから

 葉山隼人は頭に血が上ってガンッ、とテーブルを叩く。グラスが倒れて少し残っていたコーラが零れて戸塚彩加が抑える。それに見向きもせず葉山隼人は戸部翔を糾弾しようとした。自分がこんなにも身体を張ったのにそれを無駄にするのか、誰のおかげでここにいると思っているんだ、と絶叫しようとした。しかし溢れるように洩れたのは、なんでそこまで、という情けなく小さな嗚咽だった。葉山隼人は分かっていた。戸部翔の頭の良さと、同じくらいの頭の悪さを。戸部翔は、対等になりたい、と力強く言う。戸部翔は自分の人生で何を手に入れ、何を捨てるべきなのかをずっと考えていた。完全にほとぼりが冷めてからもう一度葉山隼人と友達になろうと思った、しかしそれはすぐに捨てた。そんなことはできない。できたとしてもそれはお互いに歪な仮面をつけた関係になってしまう。戸部翔は葉山隼人を選んだ。一秒ごとにすり減っていく何かを感じ取っていた。秒針がカチカチと進むたびに削られていく何かのイメージを膨らませていた。大学生活で手に入れられるものより、葉山隼人を失うことが恐ろしくてたまらなくなった。戸部翔はテーブルに額をつける。その時には既に涙が小さな池を作っていたが、俯いて目頭を押さえる葉山隼人はそれに気が付かなかった。ごめん、ごめん、隼人君。戸部翔は一年越しの謝罪を、一年分の後悔を懺悔するつもりで吐き出した。戸部翔の身体は震えていた。テーブルに震えが伝わりグラスがカタカタと鳴る。それは比企谷八幡に虚構の依頼をしたときと変わらない気持ちだった。失敗したらどうしようという人間の防衛本能のひとつで、抗いがたい戸部の気持ちの大きさだった。戸部翔は続ける。ごめん、ごめん、ごめん、ごめん―――――戸部翔の金髪頭を大きな手が強く撫でた。遅いぞ、戸部。戸部翔は涙と鼻水でべたべたの顔を上げる。葉山隼人は鼻水を啜って白い歯を見せる、ひとりにしてすまん。戸部は強く唇を噛んで嗚咽を堪える。それを見かねた葉山隼人はわしわしと金髪頭を撫でる。いつかサッカーの試合で興奮するとやっていた仕草が二人の脳裏に甦る。よかった、よかった、よかった、よかった、戸部が何度も何度も呟いて頭を振る。

 葉山隼人と戸部翔の歪な関係は頬を伝って流れ落ちた。戸塚彩加は最後まで戸部翔の背中を優しく撫でた。

 店を出て空を見上げると月が雲間から顔を覗かせていた。葉山隼人は手を翳してそれを隠す。自分の弱さを改めて認める。視線を落とすと戸部翔が手を振っていた。葉山隼人は歩き出す。

 初めの一歩を、今、踏み出す。

 

 

 

 世界は煌々とした赤色に包まれていた。複数台のパトカーが道の端に寄せられていた。バタン、と大きな音を立てて救急車のハッチバックが閉められるとそれを合図にサイレンが鳴り響いた。葉山隼人と戸部翔は目を細めてその命の運搬を見送ると背後の警察官に向き直った。その制服姿の男は葉山隼人と戸部翔を一瞥し、じゃあ話を聞かせてもらいたいんだけど、ここにいたのは君たちだけでいい? と手に持つ用紙に何かを書き記しながら無機質に訊く。戸部翔に視線で合図を送ると、はい、と悲鳴と共に逃げた女の存在を掻き消すように返事をする。葉山隼人はもう一度救急車の去った方角を見た。既にその白い車体は都会の喧騒に消え、少しずつ小さくなっていくサイレンの音に耳を澄ませた。雪は弱まり落ちる結晶を数えることは苦にならなくなっていた。ひとつ、ふたつ、みっつ、葉山隼人は視線の先を流れる光に願いを込める。黒く広がったなにかの地図のような模様を眼の端に捉えながら、よっつ、いつつ、むっつ、と願う。

 瞳を閉じて、生きろ、と強く祈る。

 

 




こんなにも長い文章を最後まで読んで頂いてありがとうございました。

感想、誤字報告など頂けるととても嬉しく助かります。

次が最後になる気がします。
また待っていていただけると嬉しいです。

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