何も見えず、息ができない。
度を越した恐怖と絶望だけが心を覆い、思考すらもままならない。
一体何が起こっているのか、あたしは何をされたのか。
……全部、分からない。理解も出来ない。
けれど、きっと碌でもない事になっているのは確かだと思う。
でなければ、こんなにも辛い筈がないだろう。こんなにも悲しく、そして痛い筈がないだろう。
……沈む。沈んでいくのだ、あたしは。
必死に手を伸ばし、泥から這い出ようと藻掻くけれど、指先は何処にもかからなかった。
ずぶずぶと、昏く寒い泥の底へと落ちていく。
そうして苦しむ内に、自分が自分で無くなっていくのが分かる。
あたしの中心、核とも言える部分が大きな痛みを訴えていて、そこから何かが生まれようとしているのだ。
それはきっと、とても嫌な事だ。
心底理解しているけれど、あたしにはどうしようもなかった。ただ首を振り、泣き喚くしか許されない。
「――! ――!」
誰かの名を、叫んだ。
それは両親。それは想い人。それは親友。それは……ちょっと嫌いだけど、大嫌いじゃないヤツ。
色々な人に助けを求め、叫んだけれど――当然、こんな所に来るヤツなんて誰も居ない。
あたしは一人、このまま孤独に消えていくしか無い。それが分かって、更に泣いた。
……ああ、ダメだ。痛みと苦しみは耐えきれない程大きくなり、自分の意識を保てない。
何も分からなくなった。
記憶、心、魂。全部が消えて、あたしは何者でも無くなるのだ。
そうして、生まれようとする何かは、あたしの胸に手を突き立てる。身体を引き裂き、外に出ようとしている。
……朧げな意識の中、必死に抑え込もうとするけど、やっぱり無理で。
あたしはみっともなく泣き叫びながら、呆気なくその最期を迎えた――。
『――――』
――寸前、冷たい泥が一斉に燃え上がった。
驚き慄く余裕も無かった。
その炎は恐怖や絶望、そして生まれようとしていた何かでさえ一切合切焼き払い、灼熱の渦に呑み込んだ。
当然、泥の中に沈んでいたあたしにそれを避ける術なんて無い。
訳も分からぬまま、踊り狂う劫炎に巻かれ――『上書き』を、されていくのだ。
自分が自分でなくなっていく……それは泥と同じだったけど、何故だかこっちはあまり不安はなかった。
……そんな中、炎の中に一つの人影を見た。
それは赤い髪を靡かせ、呆れたような、或いは己を恥じるような、そんな半眼となり。
涙と泥でぐちゃぐちゃになっている筈のあたしを見て、小さく笑う。
――そうして、意識が燃え尽きる間際。
ソイツが残したその言葉だけが、強く、深く――あたしの心に焼き付いた。
■
ことり。
少女の目の前に、湯気の立つビーカーが静かに置かれた。
「……こんな物で申し訳ない。もう食器の類は片付けてしまったのでね」
「いえ……どうも」
紅茶だろうか。茶葉の良い香りを漂わせるそれを眺めつつ、パイプ椅子に座る少女――保澄雫は、僅かに頭を下げた。
とはいえ、彼女がビーカーに手を付ける様子はない。
ただじっと紅茶の水面を見つめるだけで、その湯気は徐々に小さくなっていく。
(……何で、こんな状況になってるんだか)
まるで警戒した猫のようなその様子に、テーブルを挟んだ対面に腰を下ろした男性――ここ見滝原兵器実験施設の責任者であった男は、小さな溜息を一つ。
殺風景な部屋の中。特に意味もなく壁を眺め、徐に己の分のビーカーを傾けた。
――現在。保澄雫は、見滝原の山奥にあるジャジメントの兵器実験施設を訪れていた。
無論、見学などいった理由ではなく、任務の為だ。
雫のジャジメントにおける基本的な任務は、固有魔法を用いた物資の輸送である。
当然今日もまたその任務に従事し、世界各国を飛び回る予定であったが……前日の深夜に突如それらがキャンセルされ、代わりに上司に当たるホンフーへの同行を命ぜられたのだ。
……多少のキナ臭さは感じたものの、雫に拒否する選択肢はない。
そうして渋々と施設の扉を潜った彼女は幾つかの作業をこなした後、当のホンフーが唐突に出奔。
結果として全く面識のない男性と二人、何とも気まずい空気を生み出す羽目に陥っていた。
「あー……保澄くん、だったかな。君はバッドエンドさん直属の部下という事だが――」
「違う、あくまで協力者です。仲間じゃない」
バッサリと。迸る強い拒絶の意思に、責任者の男は気圧された。
「……そ、そうか。では、そういう事として……あの方は、結局何の為にわざわざここまで来たのだろうか?」
気を取り直し、男は心底分からないと言った風に問いかける。
――それもその筈。彼はこの施設の責任者という立場でありながら、今回ホンフーが訪れた目的を把握していなかった。
昨夜、突然に現れたホンフーから監視機材の要求を受け、言われるがままに用意しただけ。
何やら急いていたのか特に細かい説明もなく、徹頭徹尾、蚊帳の外のまま放置されていた。
……逆らえず、そして深入りすれば面倒事に繋がるとは分かってはいたが、施設の責任者という立場上ホンフーの行動には思うものもある。
言葉の端々に滲む僅かなトゲは、隠し切れていなかった。
「本当ならば、昨日今日で施設の移転作業を終える筈だったんだ……あの方のしたい事が分からないと、再開の目処すら立てられないのだがね」
「…………」
その疲れを隠さぬ表情に、雫は申し訳なさそうに目を伏せる。
責任の在り処は全てホンフーにあるとはいえ、居心地の悪さは多少なりとも感じていた。
「……ごめんなさい。私も、詳しい事は知らされていません。でも……『状況が定まった』とは言っていたと思います」
「状況……? では、君の方は彼に何を命じられていたんだ? 何某かの能力――いや、魔法か――を使っていたようだが」
「……え、と。指定された位置……見滝原の住宅街と、その近くにある幾つかの施設。あと、魔力を感じた場所に、『空間結合』の魔法でそこの機械を配置していました」
そう言って雫が指出す先には、クモの形をした機械が転がっていた。
ジャジメントの開発した兵器、自律行動型の爆弾兵器の一つ――その、改造品である。
見た目通りに『クモ』とだけ呼ばれるそれは、元々この施設でも開発・実験が繰り返し行われていた物だ。
しかし施設の移転に伴い、その全ては別の場所へと移送されている。
この改造品は、そんな状況の中で精一杯ホンフーの要求に応えるべく、僅かに残っていた廃棄パーツで急遽組み上げた代物だった。
その為必然的に個体数も少なく、稼働可能時間の減少を始めそれなりの不備も出ている。
何よりクモを効率的に操るには、電子戦特化能力者や専用にチューニングされたサイボーグがほぼ必須だ。
彼らが居ない現状では、監視機器としての作業効率は著しく低下してしまう。
……しかし、テレポート能力の類と組み合わせれば、移動や配置に関する手間を始め、幾つかの問題のカバーは可能であった。
それらを考慮すれば、空間結合能力を持つという雫を用いたホンフーの行動に、一定の理解は出来る――のだが。
(……そも、彼なら、本社に協力を要請し万全の監視体制を敷く事も容易いだろうに。一体何故、このような切羽詰まった方法を……?)
それを待つ程の時間的余裕が無い、という事だろうか。それとも、単に逸っているのか。
どちらにせよ、巻き込まれる側はたまったものではない。責任者の男は眉間のシワを揉み込むと、深く溜息を吐き出した。
「それで、その監視対象とは何かな。魔力絡みならば、魔法少女か魔女になるのだろうが……」
「……多分、一番は魔法少女の方だと思います。前に、見滝原の魔法少女について聞かれたから……」
自然と、雫の視線がとある一席――先程までホンフーが居た場所に向く。
つい数分前まで、彼はそこで専用の携帯端末により雫の放ったクモを操作し、それらが映し出す何者かの動向を監視していた。
一体何を見ていたのか彼女には分からなかったが、少なくとも相当の興味を持っていた事は確かだろう。
そうして、自然公園の一角に出現した魔力反応――魔女と、それに呼応して現れた魔法少女の反応に向け、クモを送った後。
やがてホンフーは嬉々とした表情で、自身もそこに送るよう命令したのだ。
……その場所に居る魔法少女の事を思えば、気が進まない命令ではあった。
されど拒否出来る筈も無く、端末を見ながら何某かのタイミングを図ったらしき彼の合図と同時、空間結合に放り込んだ。
今頃、現地で何が起こっているのか――深く考える程に雫の良心が抉られ、気が沈む。
「――ると、あの方がいきなり消えたのは、透明化ではなくテレポートさせたという事か」
罪悪感に苛まれている内に、責任者の男の言葉を数節ほど聞き飛ばしたようだ。
その内容を問い返す気にもなれず、聞こえた部分だけに頷き返し、茶を濁す。
「あの方は基本的に自分で動くタイプだとは聞くが……それでも、少々入れ込み過ぎている気がするな」
「……そう、ですね。何か、浮かれているような……」
雫への呼び出しにも、そうと感じられる程の喜色が紛れていた。
普段の感情を読ませない飄々とした様子を知っている二人としては、少々の違和感を感じざるを得ない。
そうして暫く考え込んでいると、やがて責任者の男は溜息と共に頭を振った。
「……まぁ何であれ、早く目的を果たして頂きたいものだよ。でないと、私もいつまでも家に帰れないからね……」
「…………」
そんな切なげなぼやきに何と答えるべきか分からず、雫は目を伏せ黙り込み。
しかしそれを気にした風もなく、男は冷めきったビーカーの中身をヤケクソ混じりに飲み干した。
それきり二人の会話は途切れ、再び気まずい空気が舞い戻る。
(……いやな、顔)
未だ手を付けていない、目の前に置かれたビーカー。
その中に揺れる己の顔を眺めながら、雫は心の中で呟いた。
(……あの場所の子は、きっともうダメだ。私が、そうした……)
殺害か、洗脳か、それとも『もう一つ』の方法か。いずれにしろ、無事では済まない事は確かだろう。
……せめて、『人間』のままで。
雫は膝上に置いた拳を強く握りしめ、心の底からそう願い――。
「――……」
――突然、その拳がゆらりと開いた。力無く俯き、揺れる前髪が目元を隠す。
「……? どうかしたかね?」
「…………」
責任者の男の言葉には応えずに、手近なクモにそっと手を伸ばした。
今ここにホンフーの姿は無いとはいえ、その指示には従わなければならない。
彼らから見捨てられれば、雫はまた恐怖に苛まれる事になる。魔法少女という存在が抱える絶望に、正面から向き合わざるを得なくなる。
報酬であるグリーフシードが得られなくなるというだけではない。あの男は、不要となった魔法少女を言葉一つで死に誘う事が出来るのだ。
……否。死よりもなお恐ろしい、魔法少女にとっての絶望に――。
「……っ」
ソウルジェムを握り込み、唇を噛みしめて。
じわりと滲む血の味を無視し、彼女は己の魔力で触れたクモの在る空間を切り取り、繋げた。
――魔女の反応が、新たに一つ。
ホンフーを送った自然公園の中に、生まれていた。
■
――何が。一体、何が起こった。
見滝原の上空。吹き付ける強風に髪を乱れさせながら、暁美ほむらは奥歯を噛む。
彼女の目線の先にあるものは、少し離れた自然公園の俯瞰。
そこはつい先程まで、佐倉杏子と美樹さやかが魔女と戦っていた場所であり――そして今まさに、新たな魔女の結界が出現した場所だ。
(何故、何故、何故……!)
何度も何度も、頭の中で疑問の言葉が渦を巻く。
想定通り、杏子とさやかが魔女を倒したまでは良かったのだ。
だがその直後、唐突に現れた反応によって全てが崩れ去ってしまった。
――バッドエンド。奴が、突如として介入を果たしたのである。
「くッ……!!」
ほむらとて、予想していなかった訳ではない。
奴が瞬間移動のような能力を用いると知った時から、心の何処かで今の状況を覚悟していた筈だった。
だが、甘かった。前触れ無く発生したその『想定外』は、彼女の心構えを完膚なきまでに打ち崩し、酷い焦燥を与えていた。
(私は、あの時確かに時を止めた……なのにッ……!)
空中を落下する浮遊感の中、バッドエンドが杏子達の元へ現れた直後の出来事が蘇る。
何が起きたのか、テレパシーで杏子の怒声とさやかの悲鳴が聞こえたあの時。ほむらは彼女達の救援へ向かうべく、自然公園へと引き返していた。
無論、これ以上まどかを放置する事への迷いはあった。
しかし、ワルプルギスの夜と戦う前に戦力を減らしてしまっては、本末転倒でしか無い。
そして移動時間のロスを無くす為、彼女は当然ながら己の魔法で時を止めた。盾の砂時計を堰き止め、己一人の世界を作り出した――だと、いうのに。
(――何故、奴の時間は止まらなかった……!?)
……動いていた。動いていたのだ。
風も、光も、全てが停止した時の中――バッドエンドの『印』が、僅かな揺らぎを見せていた。
それはつまり、彼に時間停止の魔法が作用していなかった事に他ならず――。
(あり得ない……私が解除しない限り、そんな事は起こり得る筈がないのに!)
ほむらが感じた衝撃は、初めて魔女に襲われた時の比ではなかった。
足と思考が停止し、呆然とその場に立ち尽くし――しかしすぐに我に返ると、慌てて時間停止の魔法を解いた。
僅か数秒足らず。一呼吸ほどの間ではあったものの、それがバッドエンドにとってどれ程のチャンスであった事だろう。
幸い、彼も驚きや警戒を抱いていたのか、杏子達の前から離脱する隙と充てたようだったが……その一方で、ほむらも酷い混乱に陥っていた。
――魔法が上手く発動しなかった?
――盾の機構に不備があった?
――それとも、時間停止を無効化する能力や装置があった?
様々な仮設を立て、自問自答し、しかし答えは出ず。杏子とさやかの下へと向かうという当初の目的を思い出すまでに、また少しの時間を浪費した。
そうして何とか多少の冷静さを取り戻し、テレパシーで杏子達の安全を確認。
未だ存命である事に内心安堵の息を吐き、すぐに現状報告を試み、そして――杏子達とのテレパシーが途切れ、新たな魔女の反応が現れた。
――それはほむらにとって、現状が最悪に近いものとなった事を意味している。
(杏子! さやか! お願い、生きているのなら返事を……!)
先程から幾度となくテレパシーで呼びかけているが、二人からの返事はない。
激しさを増す警鐘に呼吸が浅くなる中、ほむらはようやっと自然公園へと降り立ち、走る。
空を駆けた勢いそのまま石畳を踏み砕き、強引に木々の中を突っ切って。やがて戦闘痕が生々しく残る、荒れ果てた場所に辿り着いた。
人影と呼べるものは皆無であり、近くには破壊されたクモの残骸。そして少し離れた場所に転がる、別のクモの姿があった。
「っ邪魔!」
最早、取り繕っている余裕もない。
ほむらは転がるクモへ躊躇無くレーザー銃を撃ち込み破壊すると、ソウルジェムに手を当て集中。
この場にある結界の入口を探り、魔力によって現世へと浮き上がらせ、そして。
「――……」
――そこに現れた、魔女の紋章。
馬のシルエットが刻印されたそれを認めた瞬間、大きな失意に包まれる。
……ほむらは、その形に見覚えがあった。
繰り返される時間の中、その魔女と出会った回数はそう多くはない。しかし彼女は現れる度、ほむらの心に深い傷跡を残し、消えて行く。
その、魔女の名は。
「――佐倉、杏子……」
――武旦の魔女。
彼女は、かつて佐倉杏子と呼ばれた少女の成れの果てであった――。
*
素質ある少女が魔法少女と変わる時。
彼女達には魔女の討伐の他、決して逃れられない宿命が課せられる。
非業の死。
魔法少女となった者は例外なくその最期を迎え、安寧を得る事は許されない。
魔女や敵対する魔法少女に敗れ、殺される。そのようなケースも少なくはないが、主因は全く別の事柄だ。
――それこそが、魔女化。
魔力の使用や強い精神的負荷を受け、ソウルジェムが濁りきった時。魔法少女は魔女を産む。
そして母体となった魂は完全に消滅し、元に戻る事は無い。一欠片の救いすら与えられぬまま、ただ消える。
或いは、戦いの中で迎える死こそが彼女達にとっての最善かもしれない……そのようなもの。
それは当然、ほむら達も例外ではなく――佐倉杏子もまた、その最期を辿ったのだ。
(どう、して――!)
絶望、哀傷、憤激――動揺。受け止めきれず、ほむらの身体がふらりと揺れる。
彼女の知る限り、佐倉杏子の精神は相当に強靭なものである。
家族の心中という大きな絶望を一度乗り越えている為か、並大抵の不幸や悲劇を「そういうもの」と割り切る強さを持っていた。その筈だった。
無論、思春期の少女である以上、脆い部分も存在する。
特に、本質的に相性の良い美樹さやかと深く触れ合い、愛情を持つに至った結果。その死が魔女化のトリガーとなったケースも少なくはない。しかし、
(――違う。今回は、そうじゃない)
――結界の中に、微かに美樹さやかの魔力反応があった。
そう、彼女はまだ、結界の中で生きているのだ。
では一体何故、佐倉杏子は魔女となった。ぐるぐると、上手く動かない脳が空回りを始め――。
(……ダメ。考えるのは後……!!)
二の腕に思い切り爪を立て、痛みで思考をリセット。大きく深呼吸を繰り返し、頭を冷やす。
考える事は様々あるが、魔女が現れた以上やる事は決まっている。
ほむらは盾からレーザー銃を構えると、眼前に広がる紋章に魔力を流し、魔女の結界を押し開く。
……例えかつての仲間であろうと、魔女は討つ。これまでの繰り返しの中、既に慣れ切った覚悟だった。
「――……」
そうして侵入した結界内部は、深い霧に包まれていた。
視認できる範囲には赤い石畳の道が延々と続き、それを区切る冊の外には奈落が広がり、浮島のように下層階が漂っている姿が薄っすらと見える。
見上げてもそれと同様の景色があり、吹き抜けから見える上層階の床裏と、何処からか垂れ下がるカンテラ。そして霧の海を大きな金魚が悠々と泳ぎ、水草のように漂う五線譜にじゃれ付いていた。
……どことなく中国的な雰囲気を見せるその世界は、今となってはバッドエンドを想起させる。
それがよりにもよって杏子から生まれた魔女の住処となる事に、酷い皮肉を感じざるを得なかった。
(早く、中心部に――)
無意識の内に盾を作動させようとした手が、寸前で留まる。
もし今時を止めたら、バッドエンドはどう動く? 何をする?
最早、時の止まった世界は自分だけのものではないかもしれない――ほむらの胸裏に小さくない恐怖が巻き起こり、魔法に躊躇いが生まれてしまう。
だが、この魔法なくして暁美ほむらは魔法少女足り得ない。
振り切るように盾を回し、時の流れを堰き止めて。結界内部を駆け抜ける。
……結界を隔てている為か、バッドエンドの『印』は上手く感知できなかった。
その事に不安と同時、若干の安堵を感じる自分に腹が立つ。
(美樹さやかは、やはり魔女のすぐ側に居るか)
ともあれ、そうして使い魔を回避しつつ魔女の居る中心部へと近づく内に、さやかの魔力もまた近づいている事に気がついた。
おそらく杏子の魔女化に居合わせた流れで戦闘に入ったのだろう。
一時的に時間停止を解けば、戦闘のものと思われる激しい反応と、僅かながらではあったが絶え間ない剣戟の音も聞こえてくる。
どうやらそれなりに善戦はしているようだが――相手は武旦の魔女である。
杏子から産まれただけあり戦闘力は相当に高く、ほむらの魔法があろうとも、気を抜けば一瞬で敗北しかねない強敵だ。
美樹さやか程度の実力では、そう長くは保たないだろう。
(……今は、死なれては困る)
この場で何が起こったのかを正確に知る為に、さやかには生きていて貰わなければならない。
それは己の甘さが囁く言い訳ではあったが、事実でもある。ほむらは髪を大きくかき上げるとまた時を止め、走り出す。
過去の経験から、この結界の構造は多少詳しく把握している。組み合う通路を無視し、中空のカンテラを足場に直接上層階へと向かった。
上へ、上へ、上へ――更に奥へ。
踏破にどれ程時間をかけようと、一秒すら経たないのであれば正しく一瞬。
そうして辿り着いた結界の最奥。魔女の座す空間を閉じる格子前に立ち、ほむらは盾より手榴弾を取り出して――。
「……、」ふと、気付き。徐に身体を数歩分横にずらすと、時間停止を解除する。
「――ぅぅぅぁぁぁあああっ!」
途端、勢いよく格子を突き破り飛び出す影があった。
白いマントを身体全体に絡みつかせ、石畳の上を跳ねるように転がって。しかし咄嗟に体勢を立て直し、鬱陶しげにマントを払いのける。
――その下から現れたのは、険しい顔をした美樹さやかの姿。
亡骸だとは思っても居ないのだろう。弛緩した杏子の身体を抱え、多節棍のように連結させた刀剣を格子の向こうへ向けていた。
「っ、あんた――」
彼女もほむらに気付いたようだ。
ほんの一瞬驚いたように視線を向けたが、すぐにまた正面を睨み、その場から跳躍。
直後、格子が粉々に吹き飛び、突き出た巨大な刃が先程までさやかの居た場所を破壊した。
「くっ……!」
飛び散る瓦礫を盾で弾きつつ、ほむらもまたさやかの睨んでいた方角へと視線を向ける。
濛々と立ち込める霧と土煙。その向こう側に、朧げに揺らめく光があった。
それは巨大な馬に跨がり、極彩色の武槍を携えて。中華風の京劇衣装を纏った身体から伸びる頭部は、真っ赤な炎の燃え盛る蝋燭の形となっている。
――武旦の魔女。その形貌だ。
彼女はゆっくりと格子の外へと踏み出し、炎を揺らし周囲を睥睨。
そして付近のほむらに目を留めると、敵意を剥き出すように槍の刃先を床先で擦り、威嚇混じりの火花を散らす。
「…………っ」
……言うべき事は、何も無かった。
ほむらは強くレーザー銃のグリップを握り締め、躊躇いなく銃口を向け――その引き金を引く寸前、横合いから刀剣が飛来する。
「そらぁッ――!!」
先に戦闘中であった、さやかからの攻撃だ。
石突に鎖を括り付けられたそれは正確に魔女の身体を狙うものの、振り上げられた槍に阻まれ明後日の方向へと飛び、やがて霧の奈落に落ちていく。
しかし同時にうねる鎖が槍の刃先に引っ掛かり、道連れとばかりに牽引。魔女の手より弾き飛ばした。
そのさやからしからぬ技巧に、ほむらは思わず目を丸くして――。
「ちょっと! 何ぼさっとしてんのさ!」
「!」
その叱責を受けた瞬間、引き金を引いた。
今や聞き慣れた「ビューン」という間の抜けた銃声と共に光線が発射され、跨る馬ごと魔女の腹を穿ち、貫く。
「――!?!?!?」
生まれたばかりで、まだ痛みに慣れていないのだろう。
魔女は大きく悲鳴を上げると、その巨体をぐらりと傾け――次の瞬間、全身に無数の風穴が空いた。時間停止魔法を併用した、たった一人による一斉射撃だ。
「――ク繝ヌ繝ム繧……ッ!」
しかし、致命傷には至らなかったようだ。倒れる事無く地を踏みしめ、憎々しげに頭部の炎を揺らめかせる。
単に丈夫なのか、それともあの一瞬で躱したのか。
ほむらは舌打ち一つ。空になった銃のバッテリーに魔力を代替充填しつつ、すぐさま再び時を止め、
「――オイ、右だっ!」
「なっ……!」
――反射的に、身を反らせば。目前を馬脚と鉄の蹄が通過した。
霧の中に潜んだ、魔女の分身による不意打ちだ。
さやかの声がなければ、時を止める前に頭蓋を叩き割られていた事だろう。
千切れ飛んだ髪先に総毛立ちつつ、ほむらは改めて時間停止。飛び退きざまに分身へと数発のレーザーを撃ち込んだ後、再び武旦の魔女に銃口を向ける。だが。
「っ……しまった……!」
銃口の先には既に魔女の姿は無く、濃い霧が広がるのみだった。
武旦の魔女は、杏子の魔法と同じく分身を用いる他、霧の中に身を隠し自由自在に移動する性質を持っている。
その移動範囲に制限は無く、速度も瞬間移動と見紛う程だ。分身と併用されれば、先程のように反応できない域での不意打ちが飛ぶ。
(魔力の反応は……ダメね。霧から一部でも出てこなければ、ハッキリとは……)
……こうなれば、また出現するまで待つしか無い。
ほむらは杏子の骸の側で停まっているさやかと背中合わせに立つと、時間停止を解除する。
先程の分身がレーザーの直撃に倒れ、背後で小さく刀剣が揺れる気配がしたが、気にせず声をかけた。
「私はこちらを張る。だからあなたは……」
「……分かってるよ、二人がかりでモグラ叩きしようってんだろ?」
「……? え、ええ……」
その口調に、違和感を覚えた。
しかし問いかける時は今ではない。
二人はそれきり黙り込み、互いの死角を最大限に警戒。見通せない霧の動きを見極める。
数秒、或いは数分か。じりじりとした緊張感がほむらの胃の底を焼き、冷や汗が落ち。
「……っ!?」
「……チッ……」
――されど、魔女の姿は現れず。反対に霧が晴れていく。
否、それどころか魔女の結界自体が徐々に薄れていき、現世の光景が浮き出し始めたではないか。
(結界が、消える……)
武旦の魔女に、逃げられた――。
それを理解した時には、既に魔女の気配は何処にもなく、元の破壊された自然公園の一角に戻っていた。
後に残るは、ほむらとさやか、そして――その足元に転がる、杏子の骸。誰も何も言わぬまま、強風が砂埃を巻き起こす。
「…………」
……バッドエンドも、現れる様子は無い。
さやかは徐にしゃがみ込むと、杏子の頬へ手を当てた。
そしてそのまま首筋、喉、胸元と徐々に移動する。生命活動の有無を確かめているようだ。
その彼女らしからぬ冷静な様子に、やはり強い違和感があり。ほむらは表情を固くして、さやかへ一歩詰め寄った。
「――ソウルジェムが、割れたんだ」
……しかし、何か問いかけを発する前に。さやかが、ぽつりとそう呟く。
「あのカマ野郎の声を聞いた瞬間、いきなり心が冷え切った。ソウルジェムがあっという間に濁って、砕けた」
「…………」
「そしたら……中から、さっきの魔女が出てきたんだ。あたしみたいなチカラ使って、問答無用で襲いかかって来やがった」
――あたしみたいな。
その一言が聞こえた瞬間、ほむらの抱く違和感が明確な像を結んだ。
目を見開き、息を呑み。数多の疑問に塗れながら、さやかに重なる彼女の名を小さく呟く。
即ち。
「――杏子、なの……?」
肯定も、否定も無かった。
ただ黙し、背を向けたまま立ち上がり――そしてゆっくりと振り向くと、さやかのそれとは似ても似つかぬ鋭利な視線を、ほむらへと向ける。
「――教えなよ。言ってない事、まだあんだろ」
……そう吐き捨てる彼女の双眸には、確かな赫怒が二つ。
炎の如く、揺らめいていた――。
『暁美ほむら』
杏子の分身がホンフーに胸を貫かれ、自爆した直後。さやかの悲鳴を聞いたほむらは、救援に向かうため一度時間を止めていた。
しかし魔法が通用せず動揺し、数秒の空白が発生。ホンフーの離脱の隙となった。
以前のさやかの時とは逆に、その魔法は意図せず彼女達を窮地に陥れてしまったようだ。
『美樹さやか』
デス・マスの洗脳により強制的に絶望させられ、魔女化しかけていたようだ。
何やら様子がおかしい。
『佐倉杏子』
デス・マスの洗脳により強制的に絶望させられ、魔女化してしまった。
最後の最期に何かをやった。
『武旦の魔女』
かつて「皆が父親の話を聴くように」と願った少女。
後悔し、怒り、憎み。そして絶望の中で最期を迎えたが、守れたものはあった。
「食うかい?」
『ウ・ホンフー』
その後、みふゆには「約束は守った」と笑顔で告げた。
ほむらの時間停止魔法に対し、何らかのアプローチが成功したようだ。
『保澄雫』
自分の居場所を見つける前に魔女化する事を恐れており、ジャジメントと手を切れないようだ。
己の任務に罪悪感を抱く事も多いが、明確に反発できない自分に嫌気が差している。
『責任者の男』
職員ともども徹夜してクモを用意した。
ホンフーの無茶振りに辟易としているが、特別報酬が出ると聞いて許した。
『クモ』
正規品ではなく、突貫で用意したジャンク品。
様々な不備があり、数も少ない。おまけに専用の能力者やサイボーグが居ない事も手伝い、非常に扱いづらい。
ホンフーはこれを雫の魔法によって魔女の反応近くなどに転移させ、魔女討伐に現れるほむらや杏子を待ち構えていた。
もう少し分かりやすい文章がかけるように頑張りたいっす。
あと今更だけどマギレコ一部完おめでとう。