Fate/stay night 異聞 ~観察者白狐~ 作:Prometheus.jp
先日始まった鳴鳳荘イベは、有難い事に読み物イベントなので、周回で時間を取られずに済んでいます。
気付けば話数もそれなりに重なって来たので、今回からサブタイトルにナンバリングを打つことにしました。
さて、拙作は皆様ご存知の通りHFをベースにしているのですが、HFと言えばこの話を入れないわけにはいかないと言う事で、拙作風に若干手を加えました。
それでは、令和最初の拙作、今回もお付き合いください。
今日は立春で、この頃から日足は伸び、気温は上昇に向かい、木々も次第に芽吹いて春の訪れをどことなく感じるようになるのだが、気温もまだまだ暖かさを感じさせる気配が今はまだない。
マウント深山商店街で
ほんの一時間ほどで戻るつもりだったのだけど、家を出てからもう二時間は経ってしまっていて、家に着く頃には日も既に沈みきっていた。
恐る恐る中の様子を窺いながら玄関を開け、小声で帰宅を告げると、廊下の奥から疾風怒濤の勢いで、セイバーと遠坂、そして桜の三人が走ってきて、もの凄い剣幕で俺の帰宅が遅くなった事を叱責した。
どこに行っていたのかと言う詰問から始まり、一人で出歩くなと言ったではないかと言われ、今何時だかわかっているのか?どこで二時間も油を売っていたのか?これはもう散々に言われ、このままの勢いで玄関先に簀巻きで吊し上げられるのではないかとさえ思ったぐらいだ。
いや、遠坂なら絶対にやりそうだし、この状況ならセイバーも桜も賛同しかねない。
だけど、こればかりは俺に非があるので、何とか三人を宥めて危地を脱しなくてはいけない。
「あ………いや、わかる!みんなが怒ってるのはよくわかる!反省してるので………」
弁解しながら取り出したのは、江戸前屋の桜餅。
流石に遠坂やセイバーの前でイリヤに逢ったなんて言えないので、六個入りの内、二つ減っているのは、商店街で遭遇した同級生二人に
「先輩、これ………江戸前屋さんの桜餅……」
「サクラモチ?」
「そ、そう!今日は立春だから桜餅をって宣伝してたし、食後のお茶請けには丁度いいかなぁって………」
「いいじゃない、立春に生菓子を食べると縁起が良いって言われてるしね」
反応は上々、どうやらみんな機嫌が直ってきたようだ。
「桜餅もだし、コレも立春に食べると縁起が良いって宣伝しててさ、今日の夕飯はこれにしようかと思ってるんだ」
そう言って掲げる買い物袋に、皆の視線が集まる。
その中身は………豆腐だ。
聖杯戦争が始まってからというもの、冬木市内では様々な事件や事故が頻発していて、暗く沈んだ空気が市内全体に蔓延している。
そんな不穏なムードは、冬が去るのと共にどこかに行ってもらいたいと言う願いが込められているのか、商店街やスーパーでは例年よりも聊か派手に、今日が立春であることをアピールしていて、そんな売り込みと、まだまだ肌寒いのとで、今日の夕飯は酒粕入りの湯豆腐にした。
立春に食べる白い豆腐は「立春幸福豆腐」と呼ばれ、健康を体内に呼び込み幸福になると言われている事もあって、今後の聖杯戦争で戦う上でのゲン担ぎと、豆腐は栄養的に優れていて、消化吸収に良い食材なので、体調が芳しくない桜にも丁度いいだろう。
白い豆腐を白いまま食べると言うのがポイントらしく、普段であれば湯豆腐には醤油やポン酢をつけて食べるのだが、この時ばかりは藻塩をかけて食べる。
「成程、この豆腐と言う食べ物は、春を迎える日に相応しい物なのですね」
初めて豆腐を食べたセイバーに、豆腐を夕飯のメインにチョイスした所以を教えたら、この国の四季折々に纏わる風習の一端に感嘆していた。
今日は朝比奈先生にコテンパンにやられてご機嫌斜めだったセイバーだったが、どうやら機嫌を直したらしい。
と思っていたのも束の間、ご飯のおかわりのペースが普段より早いような気がする……。
「……セイバーさん………何かあったんですか?」
先程まで休んでいたと言う桜はその辺りの事情を知る由もなく、セイバーの健啖ぶりに呆然として箸が止まっている。
「ああ、道場でセイバーが朝比奈先生に挑んだはいいけど、全戦全敗でさ………」
「それは違いますシロウ、私が
眉根を顰めながら、やはり普段以上のペースでパクパクと箸を進めるセイバーが、空になったご飯茶碗を差し出し、おかわりを要求してくる。
要するに、英霊の身でありながら、自分の未熟さを思い知らされが故の
うん、今のおかわりで五杯目だね、セイバー。
……ん?今、セイバーは先生の事を「先生」と呼ばなかったか?
「ええ、シロウたちにとっては、学校の教師としての「先生」なのでしょうが、私にとっては、まだまだ学ぶべき事があると、剣技を以て教示してくださった方なのです。そのような方を、敬意を持ってお呼びするのであれば「先生」とお呼びするのが、最も適切でしょう」
感じ入るように語るセイバーではあるが、やれやれ……なんという心酔っぷりだ……。
遠坂も同じ思いなのだろう、そんなセイバーを呆れつつも口元を緩めて見ていた。
ところでセイバー、口の横にご飯粒ついてるよ。
「朝比奈先生って、そんなに強かったんですか?」
「そうね、藤村先生と綾子の二人がかりでも敵わないんじゃないかしら?」
穂群原学園の二大女傑二人がかりでも敵わないと言う、遠坂のその例えに、桜は目を丸くして驚くが、その例えは適当じゃない。
かつては「冬木の虎」との異名を取った藤ねえと、武芸百般の美綴のコンビを十組ぐらい用意しても、瞬殺されると言った方がより適切だろう。
何しろ、
サーヴァント相手にすら人後に落ちないのだから、あの人に敵うような人間がいたら、それはもう超人と言うべきだろう。
「先生の剣技は清流のように澄んでいて、
陰陽道のルーツは陰陽五行説であり、それは当時の自然科学が神秘化、迷信化したしたものだと、どこかで聞いた事があったけど、陰陽師である先生の剣技が「自然そのもの」と言うセイバーの評は言い得て妙だ。
しかし、セイバーがここまで手放しで絶賛するのも、俺自身頷ける話ではある。
その本質は人を斬る為の、殺人の為の技術ではあるが、そのような殺伐としたものの中にさえ“人が歴史を積み重ねて磨き上げた美しさ”と言うものは存在するのだ、と場違いな印象を抱いてしまった。
「兎も角、私は騎士としてもまだまだ至らなかったという訳です……!」
炊飯器の中身と湯豆腐を蹂躙しても尚、セイバーの苛立ちは治まる事は無く、クッキーにその侵略の手を伸ばしていた。
………………はて?そんなクッキー買った覚え無いんだが………。
「…………ねぇ、セイバー…………」
「なんでしょ…うっ………!」
「そのクッキーね、朝比奈先生が私にって下さった物なの」
にっこりと、そう、今まで見たことがない程ににっこりと、遠坂のクッキーに手を出したセイバーに微笑む。
アレはヤバい方の微笑みだ…………。
セイバーも遠坂の笑顔の奥に潜む感情を読み取ったのか、大量の冷や汗を流している。
食べ物の恨みは恐ろしい。
食べ物にまつわるトラブルで、部下に裏切られて捕虜になったり、言葉の行き違いから弑逆されたりしたと言う故事があるそうな………。
あぁ、セイバー………。
今は騎士の矜持を曲げて、平身低頭してでも遠坂の怒りを
中天から三分の二程傾いた
昼間は晴れていたお陰で、夜の冷え込みはそれほど強くはないが、それでもこの土蔵の床は、最初の頃はじっとしている分には耐え難い冷たさを持っていた。
しかし、ここのところ疎かにしていた日課である魔術の鍛錬で、魔術回路を形成したことによって、床の冷たさは体内から沸き上がる熱気に圧し負けて、むしろ額からは汗が滴り落ちている。
あれ程上手く行かなかった魔術回路の形成は、セイバーと契約したことがきっかけなのか、今では容易になってきているのだけど、作るのに一分かかっているようでは話にならない。
今の俺には、強化によって武器を用意しておく事しか出来ない。
不意の襲撃に対応するためには、今の半分ほどの時間、せめて三十秒ほどには短縮したいところだ。
「今度、遠坂に相談してみるかな………」
そう独り言をつぶやいてみるが、遠坂だと見返りに何を要求されるか分かったもんじゃないので、おいそれとは試せない。
となると、先生に訊いた方が一番なのかとも考える。
「先生、か………。ホントに綺麗な剣だったな…………」
ぼんやりと、先生がセイバーと手合わせしていた時の事を思い出す。
セイバーの力強い剣も見事だったけど、それよりも、先生の剣には魅了されるものがあったのは確かだ。
正直な話、俺もちょっと真似してみようかと考えたぐらいだ。
両手に武器を持つと言う事は、片手しか使えなくなったりした時や、片方の武器を落としてしまったりした時に、身を守ったり、攻勢を途切れさせないと言う点で有効だ。
但し、剣で防御もする場合、十分な力が無いと両手持ちの剣の攻撃を受け切れないと言う欠点はあるが。
今は木刀を強化してそれなりに戦えているが、この先、武器が木刀だけでは、相手が真剣を使用してきた時に対抗できるか不安がある。
であれば、俺も真剣を持つべきかとも考えるが、日本刀と言うものは本当に重く、藤村の爺さんが所蔵する日本刀を持たせてもらった事があるけど、まだ小学生だった当時の俺は両手で支えるのが精いっぱいで、それを振り回すなんて土台からして無理な話だった。
今はそれなりに筋力が付いているから振り回す事は出来るだろうけど、長短二つの刀を両手に持つことにより、その重量が体力を普段以上に消耗させる。
ならどうするか?
短刀を二振り両手に持つのはどうだろうか?
そもそも、長刀の間合いと短刀の間合いと、二種類の間合いがあると言う事は、闘う上では相手にとって牽制にもなるが、それを十全に生かすには相当の修練が必要だ。
こんな事、二刀流を修めた先生に話したら叱られるだろうけど、両手に同じ間合いの剣を持つだけでもやり易いかもしれない。
だけど、実際問題として家にはそんな手頃な短刀があるわけじゃない。
藤村の爺さんの所蔵品を拝借してくると言う手もあるけど、ン十万、ン百万円するような美術品を、実戦で使おうだなんて、もしもの事があった時に、一介の高校生の俺には弁償できる筈もない。
「…………そう言えば…………」
このところ夢に見る剣のイメージを思い出す。
それは、一振りの長剣だったり、二振りの短刀だったりする。
「………試しにやってみるか…………」
強化の魔術に失敗すると、気晴らしと練習がてらに、物の設計図を明確にイメージして、まるで粘土をこねるかのように代用品めいたものを作る事がある。
それは、外見だけはそっくりに再現できるのだが、中身は空洞、もちろん機能も全くない。
だけど、試すだけなら今はやってみよう。
「
目を瞑り、意識を集中し、夢に見た二振りの短刀を思い起こす。
朧気だった輪郭が、次第に明瞭になって、その姿を現す。
僅かに反った二振りの短刀。
身幅の広さと切っ先の造りから、それは日本刀と言うよりも、青龍刀に近い。
一方は刀身が白銀色、もう一方は赤い亀甲模様が黒い刀身を飾っていて、双方の刀身の根元には白と黒の勾玉が合わさったような模様、確かこれは「
白色は“陽”を表し、黒色は“陰”を表していて、森羅万象、全てのものが陰と陽の要素によって成り立っているという考え方、即ち陰陽説から来ているという。
両手に魔力が靄のように溜まってゆく。
靄が塊になり、やがて不定形な形を成してゆく。
不定形なモノが、やがて刀のような形を成してゆく。
刀のような物は、やがて一対の刀に成り、俺の手の中に納まる。
黒い皮を巻かれた柄の奥に、金属の感触がある。
柄と刀身が一体化したこの刀の造りは、日本刀のように高温に熱した鋼を鍛造した物ではなく、熔かした金属を型に流し込み鋳造した物なのだろう。
ズシリと金属の重みを掌中に感じるが、その重みは丁度良く感じる。
先生の真似をして刀を振るってみると、うっかり土蔵の棚にぶつけてしまい、棚ではなく刀身の方が、ガラスが割れるような音を立てて砕け散り、残った柄の部分と、健在だったもう片方の刀が、砂山を崩すように消滅していった。
「っと、やっぱり中身が無いとこんなもんなんだよなぁ………」
「中身が無い」と言うのは、文字通り外側だけで中身が無いと言う訳だけど、もう一方では、何と言うか物質として、概念としての「中身が無い」ようで「強度そのものが弱い」というよりも「存在そのものが弱い」と言った方が良いのだろう。
この辺りをもう少し改善できれば、実戦に耐え得る物を作ることが出来るのではないだろうか?
そんな事を考えていると、誰かが土蔵の扉をノックする音が聞こえた。
「先輩………まだ起きてますか?」
扉の向こうから呼びかける微かな声。
無闇に重い土蔵の扉を開けると、そこには桜が立っていた。
「………あの……少しお話良いですか?」
制服ではない桜の姿は、夕飯の時も目にしたと言うのに、この時の俺は何やら正体不明のダメージを食らったような気がした。
「………………先輩?」
「あ、ああ………体の方は大丈夫なのか?」
「はい、熱はほとんど下がりました。気分転換に外に出たら、こっちで物音がしたので、先輩かなって」
「そ、そうか……外、寒かっただろ?ほら、早く中へ。寝てばっかりで目が冴えてるんなら、話し相手になるぞ」
「はい、それじゃあ、お邪魔します」
後ろから、桜が確かな足取りでついてくる。
本当に良くなったみたいで安心した。
………しかし………
いつも目にする制服ではない、普段着を着ているだけ、ただそれだけの事だと言うのに、妙にドギマギしてしまう。
ここ数日、色々な事があり過ぎて意識の奥底に仕舞われていたけど、桜は本当に美人になった。
目のやり場に困る程に………。
先日、土蔵で寝ていた俺を起こしに来た時は、朝日に柔らかそうな体が浮き彫りになっていたけど、月明かりに照らされた今は、その輪郭は朧気で、より一層蠱惑的にさえ感じられた。
そんな内心に湧き上がった感情を悟られまいと、直したばかりのストーブに火を入れる。
「暖かい………ちゃんと直ったんですね」
「なんとかな。初めの頃はあんまりにもオンボロなんで、流石に匙投げてたけど………」
「けど結局、捨てられずに持ち帰って来たんですよね?」
「まあ、直る見込みが見えちまって、見えた以上は無視も出来なくなったと言うか………」
「ふふ、先輩って、物分かりが良いようで、すっごく頑固だから………」
「む……頑固かな、俺」
「頑固ですよー。それにすっごく強引なんです。一度言ったらきかないですし」
非難めいた事を言っている筈なのに、何故か桜は上機嫌だ。
まあ、桜が元気なのは嬉しい事だから、それは別にいいんだけど………。
「子供の頃に先輩に出会ってたら、きっと子分にしてもらってましたね」
「子分って………」
「ふふふ、でも、私みたいな引っ込み思案には、手を引っ張って外に連れ出してくれる人がいないとダメなんです」
確かに子供の頃に桜がいたら「元気出せー」とか言って、毎日特訓してただろうな……。
一緒に河原を走ったり、道場で正座したり、そうやって鍛えられた桜は逞しく成長して、女の子の皮を被った
良かった…………桜がお淑やかに育ってくれて本当に良かった…………。
「私、子供の頃は家に籠ってばかりで、言いたい事も言えなかったんです。私がホントの気持ちを言わなければ、皆上手くいくって思い込んで、ずっと黙ってたんです。………けど………それじゃダメですよね。私は心配かけたくなくて黙っていたけど、それがもっとお父さんや兄さんを心配させたんです………」
「そっか。けど、桜が親父さんや慎二を大切に思っていたのはホントなんだから、桜の気持ちだってちゃんと伝わってたんじゃないか?口にしなくても伝わる事ってあるだろ?」
「そうですね。そうだと良いです………。それで、先輩はどうだったんですか?私、先輩が子供の頃の話、あんまり聞いたことないんですけど………」
俺の子供の頃と言えば、昼間は町中走り回って、
子供の頃から全く変わっていないと言うのは、男としてどうかと思うのだが………。
「町中を走り回ってたんですか?」
「んー………その、なんだ、パトロールの真似事……かな?弱きを助け、強きを挫く。そういうのに憧れてたんだ」
主戦場は近所の公園だった。
あそこで同い年の連中と一緒に、僅かに年上の連中と喧嘩したりするのは日常茶飯事だった気がする。
殴り倒されても、俺が何度も起き上がって掴みかかって来るもんだから、終いには相手の方が音を上げたと言うか、呆れると言うか、とにかく相手の撤退によってその場が納まったなんてことも、一度や二度じゃなかったな………。
「成程、いじめっ子から町を守ってたんですね。先輩、昔からそういう人だったんだ」
ふふっと、その頃の俺の姿を想像して微笑む桜だが、流石に当時の我が身を振り返ると、なんとまあ割と恥ずかしいものだ。
それを桜に抗議したが「恥ずかしくなんて無い」と諭されてしまった。
「………先輩…………その………訊きにくい事を訊いてしまっていいですか?」
「ん?いいけど、何だよ?」
「藤村先生から聞いたんですけど、先輩は養子だってほんとですか?」
「あれ?言ってなかったっけか?藤ねえの言う通り、
「あ、あの、先輩?それって、その」
「いや、別に隠し事じゃないし、その通りだし、桜こそどうしたんだよ、そんなこと訊いて」
「え………その、先輩は気にしてないんですか?知らない家に貰われて、その、いっぱい嫌な事とかあったんじゃないですか?」
「まあ、初めの一年はそう見えたかも知んないけど、アレはアレで辛くはなかったし、嫌な事なんてなかったと思う」
「じゃあ楽しかったんですか、先輩は?」
む………。
楽しかったかなんて訊かれたのは初めてだ。
あの火事の後、
その後から今まで、ひたすら体を動かすだけの年月だった。
魔術を習う為に切嗣を追い駆け続けて、一人だけ助かった意味を探して、町中を走り回った。
その日々が楽しかったかどうかなど、考える余裕が無かっただけだ。
「楽しかったかどうかは分からない。ただ俺は、
「それは、藤村先生が言っていた正義の味方………にですか?」
「うん、おかしいかな?」
「いいえ、先輩は間違ってません。まっすぐで、かっこいいです。でも「なりたかった」って、もしかして諦めてしまったんですか?」
そう、俺は今「なりたい」じゃなく「なりたかった」と言った。
だけど、過去形で語ったそれは、
「いや、別に諦めたわけじゃないんだ。今日朝比奈先生に「
俺の正義。
それはまだ朧気で、これこそが俺の正義、と確信を持って言えるものはまだない。
だけど、今日知り合った
「ふふっ、あの先生って、ホント変わった人ですね」
「そりゃまあ、あの人以上に変わった人間なんて、確かになかなかお目にかかれないかもな」
「先生が赴任してきて、最初の授業の時に言ったんです「受験対策で歴史年表を丸暗記したい奴は、教科書でも読んでてくれ。何なら別の教科の予習でもしてたって構わない」って」
「また大胆な事言うな、あの人も………」
「ええ、でもこうも言ったんです「皆の大事な高校生活の、人生の一部を、“通過点”の為だけに消耗させるつもりはない。世界史を通して、過去を学び、過去を積み上げた今を考え、一人一人が未来の為に行動できる人間になって欲しい」って。でも、後から聞いたら、それってアインシュタインの言葉を引用した物らしいですよ」
成程、先生自身も歴史から学んだわけか………。
“過去を積み上げたのが今”と言う考え方も、一千年以上もの歴史と言う
「………………もう一つ訊いていいですか?先輩」
「ん?なんだよ?」
「…………………もし私が悪い人になったら、許せませんか………?」
「え………?」
唐突な質問に真っ白になる。
ただ、それを本当に真剣に向き合って考えるなら………
「ああ、桜が悪い事したら怒る。きっと、他の奴よりも何倍も怒ると思う」
俺は何よりも優先して桜を叱り付けるだろう。
これだけは断言できる。
それが俺の正義であり、それはきっと桜の為の正義である、と。
「良かった………先輩になら、良いです」
安心したように桜は頷く。
その笑顔を観て、以前にもこんなことがあったような気がする。
「それじゃあ、部屋に戻りますね。お休みなさい、先輩」
桜が部屋に戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、それが何なのか思い出せなかったが、土蔵の隅に鎮座する古い箪笥が視界に入った途端、それを思い出した。
アレはそう、二年前、いや一年半前か。
一昨年の夏の話、俺はバイト先で怪我をしてしまい、その事もあって弓道部を辞めた数日後の事だ。
家の門の前で、一人の女の子が俺の帰りを待っていた。
それが、当時中学生だった桜だ。
慎二の家に遊びに言った事は何度かあって、その時に桜にも会った事がある。
だけど、桜とあまり話したことが無かったので記憶も印象も薄く、その時はほぼ初対面と言っていい程だった。
なぜ家の前で俺の帰りを待っていたのかと問うと、俺の怪我が治るまで家の手伝いをさせてくれと言う。
慎二に言われてきたのかと問うと、妙な間を開けてそれを否定した。
気持ちは有難いのだが、それほど大事でもないと言う事もあり、何より友人の妹にそんな事はさせられないと断って、その日は帰らせた。
それでも桜は、何日も、毎日、雨が降っていようとも、門の前で俺を待ち続けていた。
それに折れてというか、正直桜の一生懸命さに根負けしたのだが、とにかく俺は、少しだけ家の手伝いをして欲しいと申し出て、無条件降伏をした。
とは言え、その頃の桜は、洗濯物の畳み方もわからず、料理もおにぎりぐらいしか作れなかったのだが、俺が傍に着いて教えていくと、見る見るうちにそれを吸収していき、その姿を見た藤ねえが「将来有望」との太鼓判を押していた。
家事全般が壊滅的な藤ねえの太鼓判が、どれほどの信憑性を持っているかと言う事は、この際棚上げしておくが。
俺はただ、ずっと門の前に一人で立っている桜を放っておくことが出来なかっただけなんだ。
俺も藤ねえも帰りが遅くなる時だってあるし、あんな所に女の子が一人で夜まで立っていたら危ない。
それだけのつもりだった。
けど…………。
本当は、毎日家の前で待っていてくれた桜が、その大人しそうな見た目からは想像が出来ない程に、強情で諦めない桜の姿が、結構嬉しかったんじゃないかな………。
「桜には負けた。負けたから、これやる」
それは古い鍵。
土蔵の古い箪笥に仕舞っておいた、切嗣が使っていた家の鍵を、そこで桜に手渡したのだ。
桜は驚いて、恐縮して断った。
自分は他人だから合鍵なんて貰えない、なんてこと言ってたっけ。
「あのな、毎日手伝いに来るくせに、他人も何もあるか。これからは好きにうちを使ってくれ。その…………その方が、俺も助かる」
そんな事を言って強引に鍵を押し付けた。
その時見たんだ。
「…………はい、ありがとうございます、先輩。大切な人から物を貰ったのは、これで二度目です」
幸せそうに頷いた桜の顔を。
桜は一生懸命で、いつも柔らかく微笑むけど、あんな風に満ち足りた笑顔を浮かべたのは、あれっきりだったんだ。
土蔵の外に出て月を見上げる。
「良かった………先輩になら、良いです」
視界にはまだ満ちる前の月が映っているが、脳裏には桜の言葉と笑顔が何度もリフレインされていた。
桜が何故ああ言ったのか。
それよりも、何故「悪い人になったら」と訊いたのか。
他愛のない例え話と片付けるには、俺の心中に湧き上がった微かな違和感、言いようのないほつれのような不安を伴い過ぎていたが、その真意に思いを致しても、答えには至る事は出来なかった。
あの満ち足りた笑顔の奥底に、俺の想像が及びもつかない程の過酷な因縁と残酷な現実が横たわっていた事を知るのは、それほど遠い未来の事ではなかった。
劇場版HF第二部の円盤の予約が始まりましたね。
店舗別特典は特に食指をそそられる物は無かったので、密林で既にポチっておきました。
さて、次回は……
・栞さんの入浴シーン
・栞さんのお墓参り
・士郎がアレしてエライ事になる
以上の予定です。