鉄格子が大きく歪んだ檻の中で、ジバガは、中にいたモンスター達を食い漁っていた。
だが、いくら貪り食っても、ひもじさは癒えずにいる。
「貴方、”ヨグの化身”に寄生されたわね」
不意に声をかけられ、ジバガは振り返った。
そこに立っていたのは、艶やかな銀髪と、見事な肢体を持つ美しい女だった。
ジバガは、女の持つ美貌に一瞬、空腹を忘れて魅入った。
脳はすっかり退化し、激しい飢餓に取り憑かれたこの男でも、目の前にいる女の美しさは理解できたのだ。
ヂヂ……
ヂヂヂ……
体内に寄生するヨグの化身が、ジバガにもっと食えと、鳴いて催告する。
「折角解き放とうと思っていたモンスターも食べられてしまったし、少しばかり予定が狂ったけど、でも、いいわ。
貴方、このまま表に出て、好きなだけ食べ漁りなさい。そうすれば、あの蛮族の戦士がやってくるはずよ。
鮮血の匂いに誘われてね」
次に女は顎に手をやって、何かを思案する素振りを見せた。
「うーん、それだけじゃあ、足りないかしら。そうね、貴方、女神ヘスティアを狙いなさいな。
そうすれば、あのキンメリアの虎も流石に見過ごさないでしょう」
女がジバガに命じる。
すると、ジバガは、言われた通りに表へと向かっていった。
ジバガを魅了し、命令を下した、この女こそ、美の女神フレイヤだったのである。
ヘスティア達を連れ立ち、東の区域に訪れていたベルは、殺気と血の匂いを感じ取った。
立ち止まり、人ごみを見渡すベル。
「どうかしたのかい、ベル君?」
「どうかしましたか、ベル様?」
怪訝そうな表情を浮かべ、ヘスティアとリリルカが、ベルに尋ねた。
「二人共、決して俺のそばから離れるなよ」
ベルは柄に手を掛け、身構えた。
「きゃあああああっ」
後方から飛んでくるけたたましい悲鳴、ベルは後ろを振り返った。
すると、人波を呑み込みながら、膨張する巨大な肉の塊が、目に飛び込んできたのだ。
肉塊が、土留色の触腕を伸ばすと、近くにいた民衆を次々に摂り込んでいく。
そして大量の人骨を吐き出すと、その巨大な複眼を見開いたのだ。
「あれは、ヨグの化身か。だが、前に戦った奴よりデカイな」
それは周りに連なる家々よりも遥かに巨大だった。
その巨体は、二十メドルに達しようかというほどである。
ベルは、二人に対し、逃げよっ、と、言葉を発すると、猛然とヨグの化身に立ち向かっていった。
怪物が荒々しい咆哮とともに、ベルを迎え撃つ。
ベルは、鞭の如き動きを見せる、その太い触腕を切り落としながら、間合いを詰めた。
鋭く尖った歯牙を剥き出し、ヨグの化身が、ベルを捕らえて噛み砕こうとする。
だが、中々絡め取ることができず、ヨグの化身は、苛立つように唸り声をあげた。
長剣を咥え、ベルは距離を詰めると、虎の如く跳躍し、ヨグの化身へと飛びかかった。
そして肉壁をよじ登っていったのである。
ヨグの化身は、ベルを振り落とすべく、渾身の力で暴れまわった。
そこら中の建物に身体をぶつけ、ベルを押し潰そうとあがく。
倒壊する建物、たちまちの内に瓦礫の山が築かれていく。
だが、ベルの両指は、鋭い鉤爪のようにヨグの化身の肉に食い込み、決して外れようとはしない。
それは凄まじいまでの怪力だった。
人々が激しい恐怖と混乱の渦に叩き込まれる状況の中にあって、蛮勇を誇りしこのキンメリアの若き戦士は、
決して冷静さを失うことなく、その鋼の如き強靭な精神力と胆力を持って、敵の喉笛を食い破らんとしていた。
焦りを覚えたヨグの化身が、闘技場目掛けて突進する。
その巨躯を打ち付けられた闘技場の煉瓦が、見るも無残に砕け散り、瀑布のごとく地上へと降り注がれた。
濛々と上がる土煙が、視界を塞ぐ。
壁に身体をしたたかに打ち据えられながらも、しかし、ベルは決して揺らぐことはなかった。
そして、ようやくよじ登り終えたベルは、ヨグの化身の複眼目掛けて、次々に剣を突き立てていったのである。
眼球に剣が突き刺さるたびに、ヨグの化身が悲痛の叫びを発する。
「ヨグの化身よっ、死ぬがよいっ!」
最後に残った眼を潰され、ヨグの化身の激しい断末魔が、天を引き裂く雷鳴の如く轟いた。
全ての眼を潰されたヨグの化身が、重苦しい地響きを立てながら地面へと崩れ落ちる。
ヨグの化身は、その巨躯を、まるで干物のように縮ませていった。
そして最後は人間の形となった。
ベルは人影に近づくと、身を屈めて観察した。
虫の息ながらも、相手はどうやら、まだ生きている様子だった。
ベルは相手の首を刎ねるべく、剣を構えた。
「お、俺はなんて酷いことを……」
正気の宿った双眸を見たベルは、相手に問うた。
お前は誰だ、と。
「俺はジバガ……コラジャ人の冒険者だ……俺は、仲間とともにバベルに潜り、そこである柩を見つけたんだ……。
ああ、まさか、あんなことになるなんて……」
息も絶え絶えになりながら、ジバガが説明を続ける。
「なるほど。その柩にヨグの一部が封印されていたというか」
「身体を乗っ取られた俺は、仲間を食っちまった……愛しいテメエの娘まで……。
なあ、頼む……俺を仲間達の亡骸のある場所まで……運んでくれねえか……」
ベルは、死の間際にいる男の頼みを無言で聞き入れた。
そしてジバガを背負い、バベル目掛けて一直線に疾走したのである。
「仲間に会って詫びを入れてえ……許して……くれ……って」
「喋るな、喋れば力が抜けていく。気をしっかり持て」
ダンジョンの壁をぶち抜き、断崖から飛び降り、木々の枝を伝い、川を飛び越え、ベルは目的の場所へとたどり着いた。
ベルの背中から降りたジバガが、仲間だった者達の残骸へと、最後の力を振り絞って駆け寄り、その遺骨を抱きすくめる。
「すまねえ……すまねえな、お前ら……こんな姿にさせちまってよ……許してくれ、許してくれよ……」
涙を流しながら、嗚咽を漏らすジバガ。
そうしている内にジバガは、いつの間にか息を引き取っていた。
事切れたジバガと、散乱する人骨をかき集めると、ベルは何も言わずに一緒に埋めてやった。
そして墓を作ると、持っていた火酒の水筒袋を墓の横に添えてやったのだった。
墓から立ち上がったベルは、それから二度と振り返ることなく、バベルを出た。
この一件により、ベルの武勲は、益々オラリオ中に広まった。
だが、ベルは相も変わらず、ダンジョンに潜っては魔石と首を狩り、干し首作りに精を出している。