それは流れる小河が、さざ波立つほどの強い風の吹く晩だった。
女神ヘスティアは、木の陰に蹲る人影に向かって、銅の角灯を近づけると、大丈夫かい、と問いかけた。
そして、ゆっくりと身を屈めた。
角灯の明かりが人影を照らすと、ヘスティアは一瞬、目を見張った。
それはこの女神が、猛虎の幻影を垣間見たからだ。
だが、それもほんの僅かな出来事だった。
ヘスティアが目を凝らして再び視線を戻す。
そこにいるのは紛れもなく人間だった。
白髪の髪と、赤々と燃え上がる鮮血の如き双眸を持った人間の若者だ。
その姿は荒々しくも雄々しく、屈強な体躯を誇るのがわかった。
女神ヘスティアはすぐさま悟った。
この若者が、素晴らしく強力な戦士であることを。
何よりも若者の鋭い眼つきにその引き締まった口もとからは、強靭な意志が感じられる。
だが、同時にその若者からは、破壊と殺戮の気配が漂っていた。
ヘスティアは再び、若者に声を掛けた。
「大丈夫かい」と。
それに対して若者は答えた。
「俺はキンメリアのベル、冒険者になるために来た」と。
女神ヘスティアは、この憔悴の表情を張り付かせた若者を、自らの住処へと招き入れた。
飢え、傷ついていた蛮族の戦士ベルにとって、この女神からの申し出は、とても有難かった。
そしてベルは案内された崩れかけた教会で身体を休めると、女神から振舞われたスープを口にした。
それは塩で味付けし、野菜くずを煮込んだだけの粗末なスープではあったが、ベルの荒み、疲れ果てた心と肉体を癒すには十分だった。
この文明社会から隔絶された蛮土で育ち、文明人からも拒絶された蛮人の若者にとって、女神ヘスティアの情けこそが、
最初に触れた人間としての暖かみだったのだ。
迷宮の薄暗い通路に身を潜め、ベルが背後から魔物の喉笛を掻き切っていく。
足音ひとつ立てず、俊敏な身のこなしでモンスターを、静かに始末していくベルのその姿は、獲物に忍び寄る野生の黒豹を彷彿とさせた。
ああ、そうだとも。
この野生児は生まれながらの戦士であり、同時に恐るべき暗殺者でもあるのだ。
ベルは、眼帯の男から奪ったロングソードの表面を石で磨き、血と脂をなめし革で拭うと鞘に収めた。
安物のロングソードではあるが、意外と使い心地は悪くない。
使い捨ての剣としては十分だ。
ベルは周りのモンスターを尽く狩りつくと、蛇紋岩を切り出して造られた螺旋階段を登り、次の獲物を探すことにした。
女神ヘスティアへと贈る魔石を掻き集めるために。
閉じられた扉に押し寄せる、魔物の群れを前に恐怖したクラークは、体を硬直させた。
短くなった蝋燭を床に置き、クラークが持っていた杖を貫木代わりに扉の取っ手に突き刺す。
だが、魔物どもに扉を破られるのも、もはや時間の問題だろう。
己の命が風前の灯であることは、充分に判りきっている。
あの杖がへし折れ、扉が開け放たれた時、なだれ込んできたモンスターの群れによって、
自分の五体は引き裂かれるのだ。
クラークは諦観の面持ちを浮かべ、軋み上げる扉をただ、ただ、見守り続けた。
内心では、気も狂わんばかりの恐怖に満たされていたのだが。
その刹那、軋み上げる扉の音が止み、同時にバベルを打ち砕かんばかりの咆哮が轟いた。
次にクラークの鼓膜に飛び込んできたのは、骨肉を切断する激しい斬撃音と、モンスター達のあげる断末魔の悲鳴だった。
それから数秒間ほど続いた戦音がやみ、静寂さが辺りを包み込んだ。
クラークは恐る恐る杖を引き抜くと、扉を開けた。
そこには、屍山血河の中で、一本の剣を握り締めた血塗れの若者が佇んでいた。
不敵な面構えを浮かべた半裸の若者だ。
クラークは魔物同士の仲間割れかと思った。
そう感じた途端にクラークの視界は暗転し、その意識は暗闇の中へと吸い込まれていった。
クラークは頬を何者かに叩かれ、その意識を取り戻した。
だが、最初に視界に飛び込んできたのは、意識を失う前に見た若者の姿だった。
「しっかりしろ。こんな所で眠る奴がどこにいる。お前はよほど呑気者と見えるな、それともかなり肝が据わっているのか」
若者がクラークに話しかける。
喋れるという事は、この若者は人間ということだ。
そう考えると、クラークはホッと胸をなで下ろした。
「俺はベル、お前は誰だ?」
ベルに尋ねられ、クラークはしどろもどろになりながらも答えた。
「わ、私はクラーク、魔物の研究をしているものです……」
「なるほど。だが、生憎と魔物は全て、俺が始末してしまったぞ。そうだな、あそこに転がっている肉片や生首で良ければ持っていくといい」
と、大真面目な顔つきで言うベル。
その言葉に何がおかしかったのか、クラークは思わず吹き出してしまった。
(語り部)
オラリオに現れた当初のベルは、文明社会の作法やルールというものを知らなかった。
後世に英雄として名を残すこととなるこの蛮族の若者は、
文明人から見れば人間よりもモンスターや野生の獣に近い存在に見えただろう。
そして、ベル自身もまた獣の如き人生を送っていた。
腹が減ったら物を食い、腹が立ったら叩き壊す。
気に入らなければ暴れだし、気に入った女と見れば見境なく手をつけようとする。
あるいは女神ヘスティアや、彼の友となるべき者達と出会わなければ、ベルは好き放題に生き、
国から国へと渡り歩きながら略奪を繰り返し、その人生の幕を下ろしていただろう。
吟遊詩人の奏でる大盗賊か、伝説の暗殺者か、あるいは勇者に討たれる地獄の破壊者という悪名を残して。
だが、そうはならなかった。
運命は、この蛮勇を誇りしバーバリアンを導いた。英雄としての道へと。
(終了)
<豊穣の女主人亭>はオラリオでも有数の酒場として知られている。
磨き上げられたテーブルに並べられた酒品と料理の数々よ。
アイズは上質な葡萄酒を傾けながら、ミノタウロスを拳で仕留めた若者の話を語って聞かせた。