それから少し前のことだ。
クラークが命を助けられた礼にと、ベルのためにささやかながらも酒宴を催したのは。
ベルは、初めて口にする琥珀色の火酒を痛く気に入り、ヘスティアにも飲ませてやりたいからと、小さな酒樽を注文した。
スクメト風の子豚のテリーヌや、ジンガラ風の魚の内蔵の塩辛は、酒肴として火酒に良く合った。
喉を灼く火酒の杯を重ね、料理に舌鼓を打つベルは、上機嫌でクラークに笑いながら言った。
「ここの酒と料理はうまいな。こんなにうまいものを食ったのは初めてだ」
その刹那、投げつけられた酒盃がベルの鼻先を掠めた。
同時に誰だっ、アイズに酒を飲ませたのはっ、という怒鳴り声が酒場に響いた。
「酒乱が暴れているようですね、ベルさん」
小人族特有の小さな身体を、更に縮こませ、嫌そうにクラークが頭を振ってみせる。
だが、ベルは気にする様子もなく火酒の注がれた酒盃を飲み干した。
次に飛んできた盾が、土産の酒樽を叩き壊すまでは。
酒樽の中身が飛沫上げながら、ふたりの座っていたテーブルにぶちまけられた。
「ヘスティアの土産の酒に何をするのだっ」
瞬時に頭に血を昇らせたベルは、テーブルを引っつかむと、盾の飛んできた方向へと放り投げた。
それを皮切りに<豊穣の女主人亭>では大乱闘が始まった。
酔漢達が隣にいた客を掴み、罵りながら殴り飛ばす。
たちまちの内に広がる騒動、散乱する料理と酒、
激しい喧騒の真っ只中で、ベルは手当たり次第に人、物を問わず、掴んではぶん投げた。
ヒュンっ
ベルの背後へと、鋭い斬撃が振り下ろされる。
蛮族特有の野性的な勘で、ベルは背中に襲いかかった剣の一撃を躱した。
ベルが後ろを振り返ると、そこには、金色の蝶のような美しい髪を揺らす少女が立っていた。
秀でた額に佳麗な瓜実顔を描いた美しい娘だ。
だが、その美しい娘は、剣呑な雰囲気を漂わせ、細身の剣を構えている。
ベルの左目にピタリと剣先を当てた、見事な青眼の構えである。
「……いつぞやの娘だな。覚えているぞ」
ベルは素早くすり足で間合いを詰めると、再びアイズがその凶刃を振るう前にその懐へと飛び込んだ。
そして鳩尾へと当身を食らわせ、昏倒させる。
「酔っぱらい相手に表道具は用いぬ……」
と、ベルがキンメリア語で呟く。
そして酒樽の代わりの土産にするべく、ロウソクのように血の気を失った顔色のアイズを小脇に抱え直し、ベルは酒場を出ようとした。
これほどの美しい娘ならば、女神ヘスティアも歓ぶであろうという、ベルなりの腹積もりがあったのだ。
だが、そこへ邪魔が入った。
「テメエっ、アイズをどうする気だっ」
狼人が叫びながら、ベルへと飛びかかる。
ベルは狼人の放った廻し蹴りを間一髪で避けると、新たなる闖入者に向かって相対した。
「そんなもの知れたことよ。女神ヘスティアは強い戦士を欲しているのだ。この娘は中々強そうな剣士ゆえ、ヘスティアに手土産として持っていく」
「……テメエ、狂ってやがんのかっ!」
「俺は狂ってなどいない。俺はこの娘に勝った。ゆえにこの娘は俺のものだ」
ベルに文明人の理屈など通用しない。キンメリアの荒野では、敗者は勝者に従属することとなるのだ。
弱肉強食、それこそが蛮人の掟なのである。
その言葉にしなやかで頑強な肉体を持つ狼人の若き戦士、ベート・ローガは、目の前にいるこの半裸の若者が、
文明社会に全くと言っていいほど浴した事がないことを悟った。
「……アイズは返してもらうぜっ」
「ふん、ならば、この俺に勝つが良い」
即座に身を翻し、ベートは再度蹴りを放った。
アイズを抱き抱えたまま、ベルが紙一重でその蹴りを躱す。
攻防を繰り広げながら、ベートは気を失っているアイズを巻き込むことなく、どうやって、目の前の蛮人を倒すか考えあぐねた。
それは他のファミリアのメンバーも同様だ。
ここで魔法を撃ち、あるいは取り囲んで斬りかかれば、アイズまで傷つける恐れがある。
「おい、アイズを離せ、卑怯だぞっ」
憤怒の形相を浮かべ、吠えるベート、それとは対照的にベルは、どこまでも乾いた眼差しで、辺りを警戒していた。
「戦いに卑怯も糞もない。それに俺は貴様らを相手に一人で戦っているのだ。利用できるものはなんでも利用する」
そう言うと、ベルはロングソードを、アイズの喉笛に押し当てた。
「さあ、次はどうする?」
憤るベートに対し、猫科の猛獣を思わせる笑みを浮かべ、ベルは他の者達に道を開けるように催促した。
ここで一計を案じたのは、ドワーフのガレス・ランドロックだ。
このロキ・ファミリアの古参メンバーであるドワーフは、相手がどのような人物であるかを探り当てたのだ。
亀の甲より年の功とはよく言うが、同時にガレスは、ベルと同じく歴戦の戦士でもあるのだ。
そこで彼はベルにひと振りの剣を見せ、取引を持ちかけた。
その剣は中々に素晴らしく、ベルの携えた安物のロングソードとは、比べ物にならなかった。
ガレスは、ベルの技量と握り締めた剣の不釣合いさを見抜き、この取引を申し出たのである。
キンメリアの若者にとって、ガレスのこの申し出は大変に魅力的だった。
蒼白く輝く刀身にベルは視線を釘付けにし、どちらを取るべきか迷った。
「お若いの。わしらのアイズを返してくれれば、この剣はお前さんのものじゃ」
このひと押しが鍵となったのか、ベルはガレスの差し出した剣を取ると、アイズをガレスの胸元へと押し付けた。
そしてこのキンメリアの蛮人は、疾風の如き素早さで酒場を出ると、闇夜に消えていったのである。
(語り部)
ロキ・ファミリアとベルとの最初の遭遇は、最悪といっても過言ではないだろう。
だが、後に終生の友となるベート・ローガや、ガレス・ランドロック達との出会いは、ここから始まったのだ。
これが古今無双の英雄と謳われし、キンメリアのベルとロキ・ファミリアとの出会いであったのである。
(終了)