「ええと、それでは講義をここで終えたいと思います」
「うむ」
と、ベルが頷く。
その風貌からは想像もつかぬが、ベルはダンジョンの地形やモンスターの情報を仕入れることについては余念がなく、
大変に勤勉な態度でエイナの説明に耳を傾けていた。
戦略を練り上げ、より多くの魔物と冒険者を討ち取るには、事前の情報は不可欠である。
「中々興味深い話だったぞ、エイナよ。礼を言おう」
「いえ、こちらこそベルさんのお役に立てて嬉しいです」
作り笑いを浮かべるエイナ──ベルは表情を変えずに黙って頷いてみせた。
「では冒険者であるこの俺は、今からバベルに向かうとしよう。何か面白い事があったら聞かせてやる」
「はい。お気をつけて」
「うむ」
椅子から立ち上がり、ベルはギルドを後にした。
そしてエイナは、戦士ベルの逞しい背中を静かに見送った。
暗闇から忍び寄る黒い影、真紅の光を放つ血と闘争に飢えた眼光、己に飛びかかってきた凶獣、それがゴライアスの見た最後の光景だった。
半ばまで首に刃を喰い込ませ、灰褐色のその巨人は、一声うめくと地面に突っ伏した。
仕留めた獲物から剣を引き抜くと、キンメリアのベルは、ゴライアスの亡骸を見つめた。
「さて、今日は狩りはここまでにして、旨い火酒でも楽しむとするか」
そして剣を鞘に収めると、この若き野蛮人はその巨大な魔石を革袋に放り込んだ。
来た道に戻るべく、ベルが岩肌の剥き出しになった断崖をよじ登り、岩から岩へと飛び移る。
ベルは獣道や障害となる巨大な岩など、物ともせずに進んだ。
徐々に濃くなっていく霧、どうやら上層部へとたどり着いたようだ。
ベルは革の水筒を取り出すと、生温くなったエールで喉の渇きを癒した。
と、その時、霧の中から絹を引き裂くような若い娘の悲鳴が轟いたのだっ!
その悲鳴に無意識に反応した、この血気盛んなるキンメリア人は、剣を引き抜くと霧の中へと飛び込んでいった。
視界の悪い霧の中での、魔物との遭遇は命取りだ。
ましてや、それが怪物と宴ともなれば、生半な冒険者では、まず助かる見込みはなかった。
リリルカ・アーデは全身に脂汗を浮かばせ、死への恐怖でつんのめりそうになりながらも、ひたすら走った。
どこか安全な場所はないかと──そんな場所など、このバベルには存在しない。
霧の中から魔物の唸り声が上がるたびに、リリルカは身震いした。
リリルカにモンスターを相手取るような力はない。
このパルゥムの少女は、自らの無力さに嘆いた。
それは他の冒険者達も同様だった。
狂ったような断末魔の叫び、ひたすら逃げ惑い、そして疲れが生じたその隙を狙われ、命を落としていく。
震える足がもつれ、リリルカはつんのめるように転んでしまった。
異形の怪物達がリリルカの四肢を引き裂き、その肉を食らうべく迫る。
だが、大気を震わせる雷鳴にも似た咆哮が、ダンジョン内に響き渡ると、その異形の魔物達に怯えの色が走った。
それは唸り上げるような獰猛な雄叫びだった。
リリルカに襲いかかろうとした、魔物達の頭上に振り落とされる蛮刀、人間と魔物の血と臓物の臭気がダンジョンに満ちた。
血刀をぶらさげ、リリルカを睥睨する人影──そこには、獰猛なるキンメリアの戦士のシルエットが浮かんでいた。
怪物の宴は、この蛮人を誘い込む呼び水となり、血と狂乱の渦を招き入れたのだ。
怪物の宴と蛮人の宴が錯綜すると、バベルは共鳴するかの如く震えた。
魔物の胴体を剣で薙ぎ払い、手足を引き千切り、頭を叩き潰していくベル、その勇猛さにリリルカを含む生き残った冒険者達は奮い立った。
「魔物どもよっ、その命を俺とヘスティアに捧げよっ」
次々に壁から湧き出てくる魔物の群れ、群れ、群れ、しかし、この野蛮なる戦士ベルの前には、徒らに魔物の死骸を増やしていくだけだ。
そして殺戮の叫喚が収まり、バベルに僅かな静寂が訪れた。
ベルの足元に転がるのは、無数の魔物と冒険者の戦死体だ。
僅かに生き残った冒険者達は、命が助かったことに感謝しつつ、入口へとゾロゾロと向かっていった。
「ベル様はとてもお強いのですね。リリはあんな凄い戦いを見たことがありませんでした」
「あんなものは戦いの内に入らん。キンメリアの荒野では、あの程度の魔物はウジャウジャいるからな」
「キンメリア……ですか?」
生憎とリリルカは、それほど地理には詳しくない。
「そうだ。キンメリア、それがこの俺の生まれ育った土地だ」
エールの注がれたコップを片手にベルが、頷いてみせる。
あれからベルはリリルカを伴ってバベルを出ると、その足で酒場へと向かったのだった。