既に暗くなっている店の軒下からしとしとしと、と滴る雨を眺めながら、濡れそぼった前肢をぺろりと舐める。
猫だって生きているのだから、生き抜くために人に媚びることもするし、泥水啜ってでも生きようと考えるし、欲求も、不満も、些細な夢、友情だって持ち合わせている。
脳がある以上(人よりも遥かに小さなそれだけれど!)、自ら動くのだし、当然のことではあるけれど。それでもやっぱり、その大半は人間がいうところの三大欲求ともいうべき食欲、睡眠欲、性欲に綺麗に分かれるのだろう。
野生である程に原初のそれに近いといえる。人間はそれを捻りあわせるようにして複雑化させるけれど、それ以外の、猫を含む動物たちは極めて単純である。
生存欲求が本能として発露するからこそ仔猫は母猫に甘えるし、けれどもそれが母でなくとも満たされる環境下であれば、それを満たしてくれる存在にすり寄るものだ。
──けれども、こんなことをつらつらと実際に考える私は?
小さい脳で考えることなどたかが知れているのに、今日を生きることよりも、人間のように
猫に九生あり、という言葉をご存知だろうか。
猫の生き汚さが転生に由来するものなのではなかろうか、という考え方である。
猫であったし、人間でもあった。猫の中でも、私はとびきり特異なそれである。
何度か猫として生きてきた中に人間の
腹を空かせていて、偶然通りかかった子供に煮干しを与えられたことがある。
人間として勉強し、仕事をしてきた記憶がある。
気まぐれに、残酷な人の手で撃たれたことがある。
冬の夜に、二本足で手を擦り合わせながら歩いていて、吐く息は白く──足音、背中に突然走った痛みの鋭さを、忘れてはいない。
その時点でぶっつりと記憶は途切れ、この小さな脳が事態を把握した時には、人間の意識を残したまま──人間だった時よりも前の猫の記憶すら持って──肉体がそっくり変わっていた。
人であった時とは比べるまでもなく、種族すらも異なるけれど、前前世とそのまま同じ見た目である。
ふわふわの、白毛の短毛種。爪。ひくひくと髭を揺らす。
ざらりと舌で毛の泥を舐めあげて、くぁ、と一つ欠伸をした。
猫、である。
道の端、店の軒下。
暗く重い雨雲から叩きつけるような雨が降っている。
勢いが強いようで、時折ぴしゃんと地面から跳ねあがった雨粒が毛皮を濡らした。
ぴったりと張り付いていく毛を不快には感じても、不思議と寒いとは思わない。はて、と内心で首を傾げ、今日はこのまま雨宿りをして過ごすことになろうかと思いながらざあざあと降るのを眺め続けている。
けれども、ずっとこうしていることは不毛ではなかろうか。傘をさして忙しなく歩き過ぎていく人間たちをずっと見ている。傘にお邪魔しても所詮この身は野良である。どれだけ私が美猫であろうと蹴り出されるのが関の山だ。
酷い雨の中で、元々歩いているのはそう多くない。疎らな人の中で、私の前に立ちはだかるようにして立つ人が居たものだから、少々驚いた。
傘を持っていないらしい人は、ぽた、ぽたと雨水を垂らしながら私の横で落ち着いた。
ため息が重い。幸せ逃げますよ、と見上げると──見ただけで上物とわかってしまう革靴が雨水を染み込ませて滲んでいるのしかこの体高では目に出来ないのである──綺麗な人が居た。
男性をそう表現するのにはそぐわないかもしれないけれど、まずそういう考えが頭に浮かぶ。
何となく苦労してそうな顔で、けれどその物憂げな表情が妙に色っぽい。
外にあまり出ていないような肌は暗い中でもぼんやりと白く光る。よれたスーツは元はかっちりとしているのだろう。学者風なのか、どこか神経質そうだ。
けれど、それを台無しにするように丸眼鏡の奥がどんよりと澱んだ、疲れきったそれである。死んだ魚の目だ。
魚、のくだりで明日にでもなったらどこかの漁師さんの釣果からお魚を頂戴してこようかと思い付いて、ひっそりと算段をつけながら、首を傾げる。
同じように見下ろしてくるのに視線を合わせた。
そのまま、にぁー、と間延びした鳴き声をあげて挨拶してみた。
魚の目のままの人は疲れきった人のそれで、この人はきっと、学者っぽくはあっても社畜なのではと思い至った(そも、学者という人種は自分が好んでいる分野を突き詰めるもので、そこで精神的に追い詰められるようなことにはならない筈なのだ)私は立ってから、その脛の辺りにすり、と頭を擦り付ける。濡れているなんて今更。アニマルセラピー大事。
人間だった私は社畜の恐ろしさをよく理解しているのだ。
彼は数秒固まって、それから指で目頭を押さえ、そのまま迷うことなく私を抱き上げた。
*
そのまま自宅にお持ち帰りされた私は、抱えあげられた状態のままだ。
疲れきった表情ながらも、一度決めたらやり通す性分であるのか、きびきびと動き出した彼は、矢張りぽたぽたと雨水を滴らしながらお風呂場へと直行した。先に浴室に下ろされて、男の人もやや乱暴に服を脱ぎ棄てる。思ったよりもいい筋肉してますね。
ぬるま湯で体を洗われ、汚れも落ち、心なしかさっぱりとした顔つきになった男の人は、見るからにふかふかのタオルで水気を取ってから、私の体も拭き始める。
ドライヤーまできちんと使っていただいたので、おかげさまというべきか私の毛並みはふかふかのもこもこだ。その気持ちよさは、乾いてから早々に私のふかふかであろう毛皮、お腹あたりに顔を埋めさせて動かなくなってしまった社畜殿の反応で推して知るべし。
数分後、我に返ったのか、はー……と誘惑を振り切るようにした頭を持ち上げた彼が、「大人しいですね」と呟いた。そうでしょうそうでしょう。何せ人の記憶がありますから。
少し待っていてくださいね、と言ってからその場を離れた男の人が、適当な容器に水を入れてきてくれた。
お行儀よくその場でおすわりしている私に「おや」と呟く。何か少し考え込んでから容器を目の前に置かれて、「待て」をされた。そういうことは犬がするものでは?
「よし。………………あなた、言葉も解るんですか」
そちらが待てと言ったのでしょうに。
ちろちろと水を舐めていた顔を上げ、にぃ、と鳴く。
前に主人が居たのでしょうか、と猫相手に勝手に推測を喋り続ける彼は、余程疲れているに違いない。あと今世の私にご主人は居なかったようですよ。れっきとした野良です。寝てください。
にゃごにゃごと適当に相槌を打つ。途中から社畜殿が社畜たるブラック企業さながらの労働時間について愚痴を漏らされた。お疲れ様である。
社畜殿は一通り溢してから、はっと我に返ったようになって、それから私の狭い額を指でそっと撫で付けた。
「いい子ですね」と褒められるのは嫌いではない。くぁ、と男の人も欠伸をして、私を抱き上げてから寝室らしき場所に移動した。
眼鏡を取って、私を頭の横に設置してから、男の人はぽつりと、人の死を間近に見たのだと言った。
時は龍頭抗争の只中。私はそんなことを露も知らなかったけれど、安全な通り道に居たのは、『わたし』という記憶が目覚める前に、本能的な危機回避を行ったからなのだろう。
人の死は、自分が手を下した訳ではないにせよ、苦しいことには違いないのだ。
そして、けれども、その死亡した人が書面で『死亡』だけで済むことに良心が耐えられなかった彼は、自ら無償で動いて、死んだ人たちの人生録を作っているというのだから、彼はきっと賢い馬鹿なのだろうなぁ、と思いながら「に」と相槌を打つ。
苦悩を話す彼は、十分に善人だ。だってこの男の人を見守っている誰かは微笑んでいる。
話し疲れたのか、とろりと眠気を滲ませた眼差に、おやすみなさいと鳴いた。彼の守護霊もふわりと笑ってその姿を消す。
ここまで連れて来られて、追い詰められてるとはいえ悩みを話すのだから、私を拾って、これから飼ってくれると思ってもいいんだよね、ご主人。
分かってるとは思うけれど、明日動物病院へちゃんと連れていってね。
その夜、夢を見た。
私は汚い路地裏で、埃にまみれながら踞っていた。
季節は夏で、周りに転々とある水溜まりにはボウフラが湧き、厭な臭気、お世辞にも衛生的とは言えない中、小さな段ボールの中で人を待つ。
そっと段ボールを上から覗き込んだ少年が、鳶色の目を柔らかく細めて「居た」と微笑んだ。
もう一つの連載してる方の文スト『分かたぬ衣と往く先は』(https://syosetu.org/novel/105134/)とは違って完全にスナック感覚の作品のため文字数も少なめ。気まぐれ更新。
もちろん織田作は救うぞ!!!
にゃんこ:白猫。金目銀目のオッドアイ美猫。子猫ではないが小さめ。ふあふあもこもこ。
人の記憶をふと思い出した。猫に九生あり、を自覚したからか妖にやや近い模様。
幽霊(守護霊)も見える。
猫生数回→(別世界の人間の魂)→現在のにゃんこ。
なので異能も知らないし、マフィアとか超無縁の思考。
なんだか治安悪いなぁ、くらい。
男の人/彼/社畜殿/ご主人:安吾さん。社畜さながらの仕事をこなす。
判断力が鈍ってる時に出逢った野良美猫を衝動的にお持ち帰りする。
ふかふかの毛並みに満足。
美猫の美猫ぶりに疲れと語彙力を溶かす。
時間的には龍頭抗争で織田作・太宰と逢う直前。ポートマフィア潜入済。
夢の中の少年:鳶色の目。何時かの子猫時代に逢ったことがあるようだが…………?