山なし落ちなし。
その日のアンナは上機嫌だった。
起きる前から降り続く雨も、そのせいで蒸し暑く不快な湿気も気にならないほどだ。
お気に入りの赤い傘をくるくると回し、やや膨らんだ手提げ袋の重みも物ともせず水たまりができた道を長靴で軽快に歩いていく。
今日はユウヤの家で一緒に夏休みの宿題をすると約束をした日なのだ。
きっかけはアンナが姉と慕う従姉、海美が大会中にユウヤと宿題の話をしたことだ。
「量が多くて大変なのは小学生も高校生も同じねー」だとか「少しづつ進めても一番時間がかかって面倒なものが残ったりするんですよねー」だとかいう内容だ。
そのなかでユウヤが、日記と自由研究以外は最初の数日でまとめて終わらせたと答えた時に、海美の目が悪戯っぽく輝いた。
唐突に、もし良かったらアンナちゃんの宿題を手伝ってあげて、と提案をしたのだ。
これに対し、毎年ギリギリまで宿題を放置して夏休みを満喫するアンナは当然難色を示した。
ぶーたれるアンナをその場から引き離し、海美が囁く。
宿題のためって言えばどちらかの家で二人っきりで近づけるわ回数を分ければ何度も、と。
デメリット効果も味方に付ければ大きなメリットと展開ができるようになるの、と。
その甘言の結果アンナは、ニヤけそうになるのを抑えながら努めて渋々と嫌そうな顔で、どうしてもっていうなら手伝ってくれても良いぜ、と自分からユウヤへ頼んだ。
ユウヤは苦笑交じりに宿題を写さないことを条件としてこれを快諾した。
隣に座って二人だけで一緒に過ごす時間。
男の方は勉強ができるからわからないところを聞いて、さらに接近する顔と顔の距離。
アンナは以前クラスメイトから借りた少女マンガの一場面を急に思い出し、それを実践するかもしれないという想像が妙に恥ずかしくて、それを振り払うように片腕をブンブンと振ってしまう。
なかば押し付けられて見た時は自分の趣味に合わないと流し読んだ内容を、今はもっとしっかり見てそんな時どうすればいいか覚えておけば良かったと後悔しているほどだ。
海美の言ったことは間違ってはいなかった。
実際、いつもならば夏休み最終日の彼女と家族を苦しめる大量の宿題たちも、今日ばかりはあって良かったと思えてくるのは二人きりでいられることに胸が踊るからだ。
アンナにとって海美は理想の女性だ。
キレイで優しくてカッコいい女性で、自分では思いつかないようなことを沢山教えてくれる。
デュエルモンスターズが関わると時々変なことを言いだすのは玉に瑕だが、そこはユウヤも同じだし彼の場合は目の色まで変えて止まらなくなるのでより面倒だ。
デュエリストっていうのはそういうものなのだろう、とアンナは解釈していた。
D・パッドの通話で恋の相談にも乗ってくれるし、相手がデュエリストで自分もデュエルモンスターズに興味を持ったと伝えると、より一層親身になってルールまで教えてくれるようになった。
難しくて全然理解できていないが、ちゃんと覚えたらユウヤにデュエルを挑んで大会の決勝戦でみたような戦い方で勝ち、デートに誘わせるのがアンナの目標である。
あとデュエリストになっても、妙ちくりんなことを言いださないように気をつけることもだ。
大会を見に行くことになったのも海美から、覚えたことを踏まえて沢山の実践を見てなんとなくでもこういうことをしてみたいっていうイメージを見つけてみなさい、と言われたことが始まりだ。
もっとも、アンナは海美の応援が第一でそのついでに、程度の気持ちだった。
それにユウヤを誘ったのはなんとなくだ、とアンナは主張する。
別に夏休みの間ずっと会えないのが嫌で、デュエルが関わることなら絶対断られないと見越して会う口実にした、なんてことはない。まったくないと彼女は心の中でうそぶいた。
軽く鼻歌を歌っていると、もうユウヤの家の前に到着していた。
約束の時間より三〇分ほど早いがなにも問題はない。彼女にとってはなにもない。
屋根のあるドア前で、水たまりで髪と服に変なところはないなと確かめてからチャイムを押した。
傘をふって水気をはらっていると、外にいる者を気遣うようにそっとドアが開かれる。
アンナより背が目線一つ分ほど高い、薄紫色の髪をした少年が笑顔で出迎えた。
「早いねアンナ。雨、大丈夫だった?タオル要る?」
「お、おお!大丈夫だって。カサ差してたし、こんな雨でぬれるほどマヌケじゃねーよ」
「あはは……。そりゃ良かった」
ユウヤが何故か乾いた笑いを漏らしているのを尻目に招かれるままドアをくぐる。
「……?」
傘立てに自分の傘を差しながら、アンナは玄関に違和感を覚えた。
この家に訪れるのは小鳥たちと一緒に遊びに来たことも含めて三度目になるが、なんだか靴と傘が多いと思ったからだ。
彼女の疑問はすぐに解消される。
案内された部屋の扉をユウヤが開け、冷たい空気が肌をなでると共に部屋の様子が目に入った。
「待てこいつ、この!」
「わぁ!?なんか腕みたいなのが伸びてきたぁ!」
「おいユウヤー!これどうやって止めるんだよ!?」
部屋の中ではロボットアームを二本生やしたX字の飛行物体が高速で飛び回り、首からタオルを下げた遊馬と小鳥がそれにドタンバタンと翻弄されている。
その騒ぎを目にしたアンナから、勉強へ向けるのもやぶさかでなかった熱意がスッと冷めた。
あちゃーと言いながら顔を覆う、目の前の容疑者へと彼女は当然の疑問を投げかけた。
「おい……ユウヤ……?」
「ああごめん。伝えてなかったけど遊馬と小鳥さんも一緒にやることになったから」
「フン!!」
「ナン、グモァ!?」
あっけらかんとのたまった男子の背中へと一閃。制裁のキックが炸裂した。
夏休みの宿題なんて消えてなくなっちまえばいいのに。
アンナは例年通りの呪詛を、胸の内でつぶやいた。
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まだ痛む背中をさすりながら勉強机に放置して誤作動したドローンもどきを片付け、冷房の効いた部屋でペンを動かす。
窓から見える外の景色は、分厚い雲からしとしとと雨が降り注いでいるのが見えた。
クーラーの駆動音と雨音と紙をこするペンの音をBGMに、友達と一緒にやっていると普段と違う状況によるやんわりとした緊張感のおかげで宿題が加速するなぁと黙考する。
この感覚がきっとフォアザチーム……!いや、やっぱり違うかもしれない。
不意に、折り畳み式ちゃぶ台の上で四つ並ぶガラスコップがカランと鳴った。
「……あきたー」
「俺もー……」
向かい側に座るアンナが降参とばかりに両手を突き上げてバタリと倒れ、俺の左側にいる遊馬先生もつられて机に突っ伏した。はえーよ二人とも。
「始めてからまだ十分も経ってないよ……?」
「もう十分もやったんだろー」
「アンナ、そんなんならクレープ無しだからね」
「んー……!」
不機嫌そうにこちらを睨むアンナの姿に俺は自分の眉間を揉む。
俺が報連相を怠ったゆえのやる気ロスト事件とはいえ、もうちょっとなんとかならないだろうか。
部屋に来た瞬間に機嫌を損ね、帰ってやる!と言いだしたアンナを、この間食べたハートランドクレープを今度おごるからと説得してなんとか引き留めたがあまり効果はないようだ。
彼女の算数ドリルを覗き込むと、二ページ目の半分までしか進んでいなかった。開始から間もないとはいえ進みが遅い。遊馬先生の方も見たが似たようなものである。
「遊馬もさ、せめて服が乾くまでは頑張ろうよ」
「あぁー……」
来る途中で車に水をひっかけられたらしく、遊馬先生は俺の服を、小鳥女医は母さんが用意した服を今は着用している。元の服は洗濯乾燥中だ。
アンナより先に呼んで小鳥女医には詰まっているところを教えて終わらせ、アンナが来た後は遊馬先生を押し付け、もとい任せる作戦だったが……その処理に時間を取られ台無しである。
「二人とも、こういう時に一気に進めておいた方があとあと楽よ」
「んなこと言ったって全然やる気でねぇしさー。夏休みのだってまだ半分以上あるだろー」
「もー。そんなだからいつも最後の日に大慌てするんじゃない」
見かねた小鳥女医も援護してくれるが、遊馬先生も起き上がってくれない。
こちらは最初から乗り気でなかった分、立たせるのは余計に難しそうだ。
本来はアンナとするはずだった宿題に、二人が加わることになったのは昨日のことである。
遊馬先生たちと遊んだ帰りに小鳥女医と、遊馬先生の姉である明里さんとバッタリ出会った。
俺はその日のメンバーと共に何回か九十九家へ遊びに行っているので、明里さんやおばあさんの春さんにも顔を覚えてもらっていたこともあって話が弾んだ。
友達と図書館にいたという小鳥女医は順調に宿題が進んでいると言ったところで明里さんが「アンタらは宿題進んでるのー?」と話をふり一緒にいた男子連中の顔が苦くなった。
黙る奴らに代わり俺が、ほとんど終わってますし明日友達のを手伝うぐらいです、と返答した。
すると明里さんから「ならついでに遊馬のも見てやってくれない?ほっとくと全然やらないから」と頼まれたのだ。「姉ちゃんだってギリギリになって自分の宿題、俺にまでやらせるじゃねぇか」と小声で抗議する弟を「何か言った?」と姉が笑顔で黙らせるあたり姉弟のパワーバランスを如実に現していた。
断る理由はないから引き受けると、小鳥女医もわからない所を教えて欲しいと参加を表明した。
もうすぐ帯を黒くできるらしい空手の練習帰りの明里さんに遊馬先生は逆らえず、渋々と参加が決定。鉄男たちも誘ったが、都合がつかないだのまだ宿題するべき時ではないだのと逃げられた。
「大体、なんで毎年毎年こんな山みたいに宿題出るんだよ!」
「だよな!夏“休み”だぜ!?なんで休ませてくれねーんだー!」
「お前ら、宿題しに来たんだよね……?愚痴大会じゃないんだからさ」
起き上がってウガーと叫ぶ二人を前に天井を仰ぐ。にぎやかになってきたな……。
この二人は初対面こそケンカで始まったものの、お互い遺恨を引きずることを好まない性格なので昼休みのドッジボール一騎打ちをもって和解してからは、思うまま全力で生きていることと小学生らしい元気がバーニングするソウルを持つところが同じなせいか、割と波長が合うようだ。
「でも確かにもう少し少なくならないかなーって私も思っちゃうかな」
「おおう、小鳥さんもか……まぁ、一気に渡されるから余計に多いと思っちゃうけどさ」
漢字の書き取りや算数ドリルに夏休み中の日記、絵、自由研究にエトセトラエトセトラ。
俺の場合は内容が難しいとかはないが、小学生だからこその多種多様さもあってとにかく手が疲れるし面倒だとも感じる。彼らは普通の子供ゆえに面倒さも輪をかけたものだろう。
「休んでる間に勉強したこと忘れて困らないようにってことだと思うよ」
「その宿題に困ってんだよこっちは!」
アンナが吠えてまたも倒れた。
子供の体感時間で考えると夏休みというのはとてもとても長いものだから、その間の経験は強く胸に残ったりするだろう。いい経験も宿題で苦しむことも含めて覚えていくものだ。
「勉強させるにしてももっと楽しくできるのとかねーのかなー」
「ユウヤー決闘してるだけで頭良くなる方法とかねぇかー?」
「そんなのあったら俺が知りたいよ……」
ゲームのお金を現実で使えないかな、レベルである遊馬先生の発言に苦笑する。
この世界の場合ならわりとアリ得そうな代物ではあるが、あったとしてもインチキ講師のいいかげんな指導が関の山だろうからわざわざ探す気にもなれない。
「それはないけど、わかんないとこあるなら決闘に例えて教えてみるから頑張ろうよ遊馬。ほら、かっとビングかっとビング」
「そのかっとビングはいらねぇかな……」
「アンナも。決闘……じゃわからないか。できる限り列車とかに例えてみるから。起きてー」
「そんなことできんのかよ……?」
「わかんないけど頑張って見るよ。せっかく一緒にやるんだしね」
再び机に突っ伏す遊馬先生の背を軽く叩き、寝転ぶアンナには声をかけると両者のそのそと体を起こした。一度引き受けた以上は俺も熱血指導で勉強をさせマス。
「あ……ユウヤくん。ここなんだけど……」
「ん。ああ、ここで聞いてるのはさ……こういうことで……」
しっかりやっている小鳥女医からの質問に、少し体を彼女の方へ近づけてドリルに書き込みながら出来るだけ噛み砕いた説明をする。わかり辛い所が解ければ一気に宿題が終わるらしい彼女はモチベーションが高く進みが早い。……視界の端でアンナが口を開けたままこちらを食い入るように見つめているが、どうかしたのだろうか。
「じゃあ、コレを……こうするんだ!さすがユウヤくん頭良い!」
「…………あはは。まぁ、社会科以外は得意……だしね、うん」
小鳥女医の屈託のない褒め言葉に歯切れ悪く答える。
こうやって褒められるたび、小学生レベルの勉強で間違えることがある自分を思い出し、ワンターンキル級のダメージが心へ突き刺さる。
前世では一番得意だった歴史と地理は、今では一番の苦手科目だ。
以前は年号も出来事も関連人物も、常にそらで言えることが密かな自慢だった歴史の暗記も、今ではその暗記がこの世界の歴史を覚えることの邪魔にしかなっていない。
「デレデレしてんな、よ!」
「あ痛てて……止め、蹴る……なって!」
ちゃぶ台の下から、アンナによる蹴りの連打がゲシゲシと俺の足へと繰り出される。
隙をついて蹴撃を足で挟み込んで捕らえ床へ押さえつけた。まったく。落ち込んでいる暇もない。
あとデレデレもしてないっての。
「うわ!ちょ、はなせよヘンタイ!」
「ヘンタイ言うな。ほら、お前の足を放してほしければぁ今すぐ宿題にぃ取り掛かるのぉだぁ」
「くっそー、そんな脅しにくっしないぜ!オレは絶対に……やらない!」
「お前今日何しに来たんだよ」
確固たる意志をもったサボる宣言に語気が荒くなった。
またも寝転ぶアンナの姿を見て、今日は全然進みそうにないなと確信めいた予想が頭をよぎる。
そんな言い争いを無視して、自分のドリルから目を逸らしたいのであろう遊馬先生が俺の用紙を覗き込んでいる。
「なあ、ユウヤは何やってんだ?自由研究っつってたけど」
「これ?時計を分解して中がどういう構造になってるか描いてまとめてるんだよ」
飛夫さんにお金を使わずにできる機械いじりの練習ってありませんかと聞いたところ、家に壊れた時計やもう使ってない機械があるならそれ分解して元に戻すだけでも意外といい経験になるぜ、とのことだった。
なので父さんから、何ゴミで出すか解らずホコリを被っていた腕時計を数本もらって好きに分解して戻している。応用するなら紙にまとめた方が後々楽だし、それを自由研究ってことにして宿題も片づけてしまおう、という魂胆である。
「分解……?なんか難しそうなことやるんだな」
「要所要所の絵と改造の仕方だけ書いて、あとは適当な時計の情報そえて終わりだから、そんなに難しいことじゃないさ」
とりあえず提出用の紙には、逆回転のさせ方や長針短針の役割を逆にする方法とか実践して書いておくつもりである。
俺の自由研究のコツは「ほどよく雑な内容でまとめる」ことだ。
大人の頭で大真面目にレポートを作ってしまうと、提出した教師から親にやってもらったなと勘違いされ、返却された用紙に「らいねんからはじぶんでやろうね!」と書かれてしまう。
まぁ仕方ないかと己に言い聞かせ、満足できない哀しみが飛来した一年生の秋の実体験である。
ここで楽する分はドローンもどきの改造にでも有効活用しよう。
「これも使うのかー?落ちてたぞ」
寝転んだままのアンナが腕だけ伸ばして手の中の腕時計を見せてくる。
片づけた時は気付かなかったが、さっきのドタバタで腕時計の一つが床に落ちたようだ。
えーとそれは……。
「それは普通のより複雑だから、宿題には使わないよ。昨日いじってて部品が部屋のどっかに飛んでっちゃったから、中身よくわかってないしね」
「ふーん……ん、なんだこの時計?時計の中に時計が入ってんのか……?変なの」
「時計に時計?アンナー、ちょっと見せてくれよ」
「ほれー」
アンナが遊馬先生へと腕時計を軽く放る。
こらこら。安物なうえ元々壊れてるといっても、他人の物を投げ渡すんじゃない。
「これは……あれか!変形して乗り物になんのか!?運転席のメーターに似てるしさ!」
「そんなわけないじゃない」
「じゃあ小鳥はわかんのかよー?」
「ええ?えっとこれは……きっと外国の時間もわかるようになってるのよ!」
自由な発想の遊馬先生と、名答を思いついたとドヤ顔している小鳥女医。
しかし残念ながら二人ともハズレだ。遊馬先生から腕時計を渡してもらい答えを明かす。
「これは横のつまみで動かせるストップウォッチがついてるんだよ。物によっては遊馬が言ったような速度計がついてるもあるんだけどね」
「そ、そうなんだ……」
こういうタイプの時計をギリシャ語で「時間」と「記録」を組み合わせた造語で――――。
「クロノグラフって言うんだよ」
必要なものが足りないので、どうやっても動かないそれを顔の横で掲げた。
伏線も意味もないとは言っていない。
あるとも言っていない。
遊馬の両親を失踪済みにするか否かで次に予定してる話がちょっと変わりそうです。
どうするべきか……。