『不思議な本屋がある』らしいのだ。
見た目は何の変哲もない民家なのに入ると本という本がぎっしりと積まれている。
そして、その本屋では本は買えない。
なら何が買えるのか
そう、その本屋で買えるものとは───
「いらっしゃいませ。麦藁菊へようこそ。本日はどのようなモノをお探しですか?」
ちょっとした噂がある。なんて事の無い取り止めもない噂だ。
『不思議な本屋がある』らしいのだ。
見た目は何の変哲もない民家なのに入ると本という本がぎっしりと積まれている。
そして、その本屋では本は買えない。
なら何が買えるのか
そう、その本屋で買えるものとは────
───────
「いらっしゃいませ」
いつもの柔らかな声が聞こえる。
視界に広がるは本、本、本。年代を感じるモノから最近仕入れたと思われる比較的綺麗なモノまで多種多様だ。棚に所狭しと並べられた古ぼけた本に囲まれ、入口付近より少し高くなっている所には年代を感じる木机がある。そこからひょいっと顔を出す声の主。
「あっ、いつもありがとうございます!」
「いや、こっちこそいつも長居してしまってすいません。居心地が良くてつい…」
そう言ってズレた大きめの眼鏡をかけ直し、にこやかに微笑む彼女。この会話が板についてきており、彼もすっかりここの常連になっている事が目に見える。
今日は何にしますか? と首を傾げる彼女。さら…と銀ともとれる灰色じみた髪が儚げに揺れ、黒縁眼鏡の奥から覗く深緑の2つのレンズが彼を射抜く。胸の奥がくっと締まる感覚。一旦息を整える為に深呼吸する。彼女は不思議そうに彼を見ていて何とも言えない空間が広がったが、彼女の眼鏡がズレたことに反応した事によってまた時が流れ出す。あぁ……上手く言葉を返すことが出来なかったと彼は悔やむ。
「うーむ、今日は爽やかなのが欲しい気分ですね」
「爽やか……うんうん、うん。分かりました!」
この雰囲気を吹き飛ばすようにと彼がそう言うと彼女は傾げていた頭を戻し、考え始める。そう、この本屋は自身の今日の気分を伝えると彼女が本を選び取ってくれるのだ。その日その日で違う物が渡されるので飽きがこないことも魅力である。しかもその全てが自分に合っているというのだから不思議なことこの上ない。
何かを辿るように彼女は奥の棚まで行くと、螺旋階段のようになっている本棚の上を本棚の縁をなぞりながら上ってゆく。彼女が言うには青色のキラキラが導いてくれるとの事。そうして10段ほど上ったところで足を止め本の背表紙を左から右へと流して見ている。後ろで一つに纏めて三つ編みにしてある髪がまたもや目に入る。天窓から入る優しい春の日差しも相まり幻想的な雰囲気を醸し出す。そんな妖精のような彼女に魅入ってしまう。彼は暫しその光景を脳内で反芻していた。
気づけば彼女が手に1冊の本を携えながら階段を降りてくるところであった。
「はい、今日は無難に海風の記憶を選んでみました!」
「ありがとうございます」
そう言ってにこやかに本を手渡してくる。お礼を述べ、早速表紙を見ればどこかの海岸線だろうか、舗装された道を車が走っている。日差しも強く、一目で夏ということが分かる。
「では失礼して……」
期待からかはやる右手を宥めつつゆっくりと深呼吸して彼は表紙を捲る。
そう、捲った。
最初は僅かな潮風の匂いだった。仕事ばかりでろくに外出できなかった彼にとってその匂いは心を揺さぶり久方ぶりの安寧を届ける。表紙を捲れば捲るほど濃くその匂いが鼻腔を支配していき、完全に捲ったその瞬間───────
──────彼は真夏の海岸線に立っていた。
この本屋の秘密。
それは、売るのは本ではなく
その本に記された記憶だということである
「いらっしゃいませ。麦藁菊へようこそ。本日はどのような記憶をお探しですか?」