ヤンデレな時雨にお世話されるお話です。

※本作はPixiv様でも掲載しています。

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ヤンデレ時雨とのスローライフ

 戦いは終わった。

 長きにわたる艦娘と深海棲艦との戦いは、人類の勝利で幕を閉じた。世界は平和を取り戻した。

 その代わり、俺は自由を失った。

 

 

 

 

「提督。もう絶対に離れないよ? 僕はずっと、君の傍にいるから」

 

 傍らに座る少女──時雨(しぐれ)は、多幸に彩られたほほ笑みを向けてそう言う。

 柔らかく透き通るその声色には、こうして俺と共にいられることが嬉しくてたまらないことを物語るように静かな喜悦が炎のように揺らめいていた。

 

 秘書艦としてずっと俺を支え続けてくれた時雨。どんな辛いことがあっても、彼女の爽やかな笑顔に何度も救われてきた。

 

 ……だが記憶にある時雨の笑顔と、いま目の前にいる時雨の笑顔は少しも似つかない。

 時雨の瞳に光はなかった。ちょっとした衝撃ですぐ割れてしまうガラス細工のように、その笑顔は危うげな均衡(きんこう)(たも)たれている。

 

 俺の右手に時雨は両手を重ねてチカラを込めて握り込む。そっと触れるとか添えるとか、そんな生やさしい握り方ではない。

 決して逃がさない。そう告げるような重みを感じさせる。指一本、動かすことができない。それほどのチカラだった。このまま、もう一方の左手も握りしめてしまいそうな勢いだ。

 

 ……あれば、の話だが。

 

 左手を握る必要はない。

 あるべきものが無いのだから。

 まるで最初から、そうであったように、バターをナイフで切ったかのように綺麗さっぱりに。

 

 俺の左腕は肩から先まで欠けている。

 

「提督の手、あたたかい。感じるよ? ここから君のぬくもりが……生きている証拠が。──提督、ああ、僕だけの提督……」

 

 時雨はねっとりと絡みつくような呟きをこぼしながら、腕の無い肩へと寄りかかってくる。

 欠けた部分を自らのカラダで埋めるように。自分のぬくもりを植えつけるように。

 

「提督、僕はね? こうして君と二人きりで暮らせるようになって、とっても幸せだよ? だから……」

 

 

 

 ──ずっと、ずっと……僕と一緒だよ?

 

 

 

 記憶にある時雨は、もうどこにもいない。自分が彼女をそうさせてしまった。

 そう、これは俺の責任。俺が招いてしまった罪業。報いそのものなのだ。

 だから……

 

「約束だよ? 僕たちは……永遠に二人きりだよ?」

 

 

 

 俺は、ここで一生を終えるのだ。

 

 

 

──────

 

 海から突如現れた異形の怪物、深海棲艦。

 最新兵器を(ことごと)く無に帰す脅威を前に海路と空路は絶たれ、物流は瞬く間に機能しなくなり世界は衰退の一歩を辿りつつあった。

 だが軍艦の生まれ変わりである乙女、艦娘たちの活躍により深海棲艦は根絶。

 人類は制海権と制空権を奪還し、世界は再びかつての時代と同じく活気に満ちあふれた営みを取り戻した。

 

 

 ……もっとも、この屋敷を出ることができない俺にはその営みを確認できる(すべ)はないのだが。

 

 

「提督、お待たせ。ご飯できたよ?」

 

 桃色のフリル付きエプロンを身に着けた時雨が食事を持って俺の部屋に入ってくる。

 

「今日は提督の大好きなオムライスだよ。ほら、卵も上手に焼けるようになったでしょ? 今回は結構自信あるんだ」

 

 焦げ目の一切ない黄金のように照り光るオムライスを時雨は自慢げに見せてくる。

 その様子は新婚生活にはしゃぐ若妻そのものだ。

 

 事実、自分たちは形式上『夫婦』ということになっている。

 

 終戦後、提督と部下の関係でしかなかった俺たちは正式に籍を入れた。

 黒地のセーラー服が似合う年端もいかない少女と結婚するなど普通ならば後ろ指を差されるようなことだが、老いることのない艦娘に人間側の法や倫理など関係ない。

 

 なにより、それが時雨の望んだことならば人々は野次を飛ばすことなどできない。

 艦娘は世界の危機を救った英雄だ。

 人とは異なるチカラを持つ彼女たちを一時期は深海棲艦と同じように恐れる者もいたが、救世が果たされた現在その存在は世間に広く受け入れられている。

 

 見返りも求めず無条件で人類の味方として戦ってくれた彼女たちに少しでも報いるため、艦娘たちが望む生活を実現させ、支援する社会制度が設けられた。

 おかげで戦いの後、艦娘たちは路頭に迷うことなく各々が希望どおりの生活を送ることができている。

 ある者はいままでどおり軍に携わり、ある者は普通の学生として学園に通い、ある者は希望する職業に就き、ある者は自分の店を出して暮らしている。

 

 そして時雨は望んだ。──提督とずっと一緒に暮らしたい、と。

 その願いは見事に叶えられた。

 大本営は俺たちに血の滲むほどに働いても一生建てられないような立派な屋敷と一生遊んで暮らせるほどの膨大な資金を与えてくれた。

 もとより艦娘たちを指揮していた俺にも大本営から褒賞が与えられることになっていたが、いくら世界を救ったとはいえ、これほど法外な援助を受けるとは予想だにしていなかった。

 住む場所さえ用意してくれれば充分だと一度断りはしたが大本営は頑なに譲らなかった。

 

『貴官は、これほどの褒賞を得るに値する、偉業を成し遂げたのです』

 

 むしろ、この程度では褒賞としては少ないぐらいだ。とまで言い出す大本営の威圧を前にしては素直に受け取るほかなかった。

 でなければ、いま以上に身に余る待遇を受けかねない。

 

 日々の労働に勤しむ人々への後ろめたさを覚えつつ、自分たちは何不自由のない暮らしを送っている。

 激しい戦いの果てにひとつの楽園を得た。と言えば良いのだろうか。

 確かに常人たちにとっては羨む他ない、まさに理想的な生活だった。

 

 ……だが人々は知っているだろうか? 離ればなれになった艦娘たちは知っているだろうか。

 この屋敷で暮らすようになって以来、嫁である時雨が徐々に──

 

 壊れつつあることを。

 

 

 

 

 

「はい、提督。口を開けて。いつもどおり僕が食べさせてあげる。ほら、あーん」

 

 時雨は上機嫌に真っ赤になったライスとふんわりとした卵をスプーンに乗せて俺の口元に運ぶ。

 

「ん? どうして食べないの? 提督、オムライス好きでしょ? ……あ、わかった。また卵の殻が入ってるって思ってるんでしょ? ひどいなぁ。もうそんな失敗したりしないよ。

 え? 違う? じゃあ……ああ、そういうことか。大丈夫だよ提督」

 

 男を一瞬で虜にするような笑顔を浮かべる時雨。

 こんな美しい少女に手料理を食べさせてもらえるなんて、なんと幸福なことか。

 普通ならば、そう思うのだろう。

 しかし……

 

 

「安心して? もう料理に僕の血なんて混ぜてないから」

 

 

 そのひと言を聞けば、人々はたちまちモノノケの類いと相対した心境に陥るだろう。

 

「あはは、心配しないでよ。提督が嫌がることを僕がするはずがないじゃないか。ね? だから食べてよ。お願いだから。僕の作ったもの、食べて。食べて食べて食べて……」

 

 得も言われぬ迫力に導かれるように自然と開いた口にスプーンが挿入される。

 摂食を開始すると時雨は見る見る恍惚とした表情を浮かべる。

 

「あはっ。嬉しい。提督が僕の料理を食べてくれてる。僕の作ったものが、提督の血になって肉になるんだよね? こんなに嬉しいことってないよ。あは、あははは。僕が、僕が提督のカラダを作ってるんだ!」

 

 瀟洒(しょうしゃ)な屋敷の一室には似つかわしくない、無垢と言うにはほど遠い、不穏な哄笑(こうしょう)がとどろく。

 

「さあ、遠慮せずに食べて。いいんだよ? 提督は何もしなくても。ぜんぶ僕がしてあげるから。提督の身の回りのお世話は、お嫁さんの僕がするんだ。お嫁さんなら当たり前じゃないか。だから……」

 

 ──どこにも行かないでね? 僕だけの提督。

 

 まるで愛玩人形になったような心地。食事どころか、着替えも、おしめすらも、すべては時雨に任すまま。

 俺に自由などない。

 

 

 

 

 

「提督、今日も僕が綺麗にしてあげるからね?」

 

 素肌同士が触れ合う。互いに生まれたままの姿で、白い泡にまみれていく。

 

「ほら、提督はジッとしていて。片腕だけだと、カラダ洗うの大変でしょ? 僕がすみずみまで洗ってあげるからね?」

 

 幼い駆逐艦とは思えない娼婦のように艶やかな微笑を湛えながら、同じく幼い駆逐艦とは思えない発育した白い肢体を浅黒く固い雄の肉体の上にすべらせる。

 ぬちゅりぬちゅりと卑猥な音が浴室に響く。

 引き締まりながらも豊満な柔肉は敏感な箇所すらも舐めるように這っていく。

 

「あはっ。提督の、すごく固いね。いいんだよ? 僕はお嫁さんなんだから、そういう気持ちになっても。嬉しいよ。僕のカラダで、そうなってくれているんだよね? 嬉しすぎるよ。だから……んっ、あっ、はぁ……ぜんぶ、ぜんぶ、僕が面倒見てあげるからね?」

 

 浴室に泡がぬめる音とはまた異なる粘着質な音が響く。

 時雨の声色に甘く(ただ)れた蠱惑的(こわくてき)なものが交じりだす。

 

 身動きすることもできずに時雨の艶やかな声を聞いていると、とある小説を思い出す。

 戦争で四肢が欠けた夫のカラダを貪る妻。

 自分の場合、欠けたのは片腕だけだが状況はほとんど似たようなものだった。

 自分という存在が時雨をこのような行動に駆り立てている。あんなにも大人しかった少女が淫らに悶えるほどに。

 

「あっ、あっ……お願い、感じさせて? もっと提督のこと、生きてる証を、もっともっと感じさせて!」

 

 懇願そのものの時雨の嬌声も、どこか遠い出来事のようだ。

 どうして、こうなってしまったのだろう。

 俺が思い描いていた未来は、こんなにもおどろおどろしく悲壮に彩られたものではなかったはずなのに。

 ……それでも肉体に広がる悦楽の熱は彼女に向けて途方もない(たぎ)りをほとばしらせていた。

 

「あはっ、あはははっ! いっぱい、いっぱい感じるよ。提督の熱い気持ちが、僕のこと愛してくれているって気持ちが! 僕も、僕も愛してるよ? 誰にも渡すもんか。提督のぜんぶ、ぜんぶ、なにもかも、僕のものだ!

 ──だから提督。僕のすべても君のものだよ? だから愛して? もっと僕を愛して。提督のぜんぶを刻み込んで!」

 

 そう。

 たとえどれだけ壊れてしまっていても、俺は時雨を愛していた。

 だから俺は……

 

 

──────

 

 雨が降っている。

 陰鬱な印象は与えない、詩人ならば何か一句詠むであろう風流を感じさせる静かな雨だった。

 縁側に腰掛けながら粛々(しゅくしゅく)と降り注ぐ雨音に耳を澄ませる。

 

「提督、お粥できたよ? 少しでも、食べたほうがいいよ?」

 

 土鍋をお盆に載せた時雨がやってくる。

 俺が応えずに無言でいると時雨も庭に目線を投げて、感慨に耽った表情を浮かべる。

 傍らにお盆を置いて、俺の隣に腰かける。

 

「いい、雨だね」

 

 夢見心地に時雨は言う。

 そうだね、と自分は返す。

 

「とても静かだ。まるで僕と提督だけが、この世界に残されたみたいだね」

 

 そうだね、と同じように返す。

 

「本当に、そうなってくれればいいのに。このまま提督と二人だけの世界で、ずっと暮らせればいいのに」

 

 今度は、返事ができなかった。

 

 

 

 昔は雨が好きじゃなかった。だが時雨と一緒に見る雨は嫌いじゃなかった。その時間を愛おしく思った。

 それは、いまも変わらない。

 

「……いい、雨だね。本当に、いい雨だ」

 

 ああ、本当にそうだ。

 だから、よかったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に見る光景が、こんな綺麗な雨景色で。

 

 

 

「どうして、そんなこと言うの?」

 

 寄り添う時雨のカラダが震える。

 

「やめてよ。まるで、今日が、最後のお別れみたいじゃないか」

 

 そのとおりだよ、と時雨に伝える。

 自分の死期ぐらい、自分が一番わかっている。

 今日、俺の命はここで燃え尽きる。終わりのときは、やってきた。

 

 こうなることはわかっていただろう? と、ずっと傍で俺を()()()()()()最愛の少女に言い聞かせる。

 

「……やだよ。お別れなんて、イヤだ、もっと提督と一緒にいたいよっ」

 

 泣き声を悲鳴染みたものに変えて時雨は縋りついてくる。

 

「どうして? どうして提督がこんな仕打ちを受けなくちゃいけないの? 誰よりも頑張ったのに、世界を救ったのに、どうして提督だけ……」

 

 泣き崩れる時雨を(たしな)めるように伝える。

 それがきっと世界の有り様を変えてしまった者の末路なのだろう、と。

 

 戦いは終わった。

 深海棲艦はこの世から根絶した。

 

 ──その怨念と呪いを、一身に受けることを代償に。

 

 

 

 

 提督として俺が最後にしたこと。それは戦闘ではなく交渉だった。

 

 途方もない戦いの果て、大本営はついに宿敵である深海棲艦の発生場所を突き止めるに至った。

 そして突きつけられる真実に人類は絶望した。

 

 なぜ深海棲艦は人類に敵意を向けるのか。

 言うまでも無い。

 かつての大戦で海底へ深く沈んでいった軍艦の未練と怨念こそが深海棲艦の正体だったからだ。

 利用されるだけ利用され、理不尽に破壊され、暗く冷たい海の底へと沈んでいった艦の魂。

 深海に渦巻く、その負のエネルギーを浄化しない限り深海棲艦は湯水のごとく誕生する。

 その真実に行き当たった人類は度重なる供養を続けたが、そのどれもが焼け石に水だった。

 沈んでいった艦の怨みはそれほどまでに根深かった。

 怨念を断ち切ることはできない。ならば……

 

 俺は自らを人身御供にすると決めた。その怨念を、呪いを、すべて引き受けると。

 

 艦娘たちを指揮し、数え切れないほどの深海棲艦を討伐させた者がそう念じたためか……

 海より這い出た赤黒い怨念の渦は瞬く間に俺を呑み込んだ。

 総身を精神を蝕む憎悪の塊が、俺から生命力を奪っていった。

 そして……

 

 仮初めとはいえ、時雨と生涯を誓い合った証。それを嵌めた左腕もろとも食い尽くされた。

 

 ──お前に幸せになる権利は与えない。とでも言うように。

 

 

 

 こうして人類は平和を取り戻した。ひとりの人間を犠牲にして。

 世間にはこの事実を公表していない。

 表沙汰では艦娘が深海棲艦を根絶したことになっている。

 理由は一重に戦後の艦娘たちに向けられるであろう偏見を避けるためだ。

 

 たとえ正と負の差異しかないにしても深海棲艦の起源は艦娘たちと同じように沈んだ軍艦なのだ。

 そこに不穏な空想を働かせる者が、いないとも限らない。

 

 艦娘と深海棲艦は同質の存在。そんな艦娘の逆鱗に触れれば深海棲艦に反転するのではないか……そんな馬鹿げた噂が広まるかもしれないのだ。

 

 真実は、ときに毒となる。

 わざわざ全てを明るみにさらす必要はないのだ。

 世界の平和に貢献してくれた艦娘たちの未来は明るいものでなければならないのだから。

 

 時雨を始めとした艦娘たちはこの決まりに不満を訴えたが俺はこれで良かったのだと思う。

 俺のひとりの命でこの世が救われ、艦娘たちが平穏に生きられるのなら、それで……

 

「そんなの間違ってるよ!」

 

 時雨は激昂する。

 

「あんまりだよ、こんなの! どうして提督だけ、こんな目にあうの? 約束したじゃないか! この戦いが終わったら、一緒に生きていこうって! 本当の夫婦になって、暮らそうって!」

 

 そうだ。

 俺と暮らしたいという時雨の望みは他でもない、俺自身の願いでもあった。

 だが約束は果たせそうにない。

 深海棲艦の呪いを受けた時点で俺の余命は限られている。

 残りの時間を少しでも時雨と共に過ごしたかったのだが……しかし夫らしいことは、ちっともできなかったな。

 呪いの影響で俺のカラダは日々衰弱し、時雨の介護がなければすっかり生きられないカラダになっていった。

 すでに老衰も同然の有り様だった。

 

 指輪を嵌めるための左腕は失った。

 両腕で愛する者を抱くこともできない。

 まったく、夫として失格だ。

 

「そんなことない。提督が生きてさえいてくれれば、僕はそれ以上望まないよ」

 

 時雨はそう言ってくれる。

 

「ねえ、提督。もう一度、僕の血を飲んで? そうすれば、少しは呪いをやわらげられるんだよ? だから……」

 

 よせ、と今にも爪を立てて出血しようとする時雨を制止させる。

 まだ辛うじてカラダが動かせていたとき、包丁で指を切ってしまった時雨の血を俺は口で止血した。

 すると、呪いによる苦痛が数秒だけ落ち着いたのだ。

 艦娘の血が深海棲艦による干渉を抑える効果が明らかになった。

 

 だが所詮は気休めにしか過ぎない。そのために時雨に怪我をさせるのもイヤだった。俺に隠れて料理に自分の血を混ざていたことを知ったときも、すぐにやめさせた。

 どの道この運命は変わらないのだから、と。

 

「やだよ、提督。僕を、ひとりにしないで……」

 

 泣き崩れる時雨を抱きしめてやりたい。

 だがそのための体力も、もはやない。

 せっかく時雨が作ってくれた料理も食べるチカラもない。そもそも味を感じることすら、とうにできなくなっていた。

 

 近頃は記憶も曖昧になっている。

 最後の挨拶をしにやってきてくれた艦娘たちのことも誰が誰なのか、もはや判別ができなかった。

 それどころか言葉を話すための口すら動かせなかった。

 時雨と意志疎通が可能なのは絆を深めた艦娘同士でできる念話のおかげだった。

 泣きながら呼びかけてくれた艦娘たちには本当に申し訳ないとは思ったが、もう鮮明に覚えているのは時雨のことだけだった。

 

 思い残すことがないよう時雨と穏やかな日々を過ごすつもりだった。

 だが衰弱していくカラダは些細な局面だけでも俺たちに絶望を突きつけてきた。

 弱り果てていく俺を見て時雨の精神は徐々に不安定になっていった。

 呪いは、まさしく呪いだった。

 

 

 

「提督……君が死んだら、僕も後を追うよ。だって提督のいない世界なんて、生きている意味がないもの」

 

 ダメだ時雨。君は生きてくれ。それだけが俺の最後の望みなんだ。

 

「イヤだよ。提督のいない明日に、なんの意味があるの? 僕も連れていってよ」

 

 ……時雨。君はひとりじゃない。だから生きるんだ。

 

 最後のチカラを振り絞って、時雨の腹部に手を伸ばす。

 

 ……聞こえる。命の鼓動が。

 俺と時雨が愛した証が確かにそこにある。

 

 時雨、君はそのお腹に宿る命のためにも生きるんだ。生きてほしい。

 

「提督……提督っ」

 

 氷のように冷たくなっていく手に最愛の少女の手が重ねられる。

 掌のぬくもりが、熱い滴が、まるで枯れた花を再び開花させるように胸の内を安息で満たしてくれる。

 

 最後まで身勝手な夫ですまない。

 でも、時雨。それでも俺は、この平和な世界で君に生きてほしかった。

 艦娘として戦うだけの運命から解放したかった。

 この先の未来を一緒に歩むことができないのは本当に口惜しいが……

 君や、君と俺の子どもが生きてくれる。

 それだけで俺はもう充分すぎるくらい報われるんだ。

 だから……

 

 

 どうか、笑顔で見送ってほしい。

 

 

「……本当に身勝手だね、提督は」

 

 涙で濡れた顔を上げる時雨。

 

「そんなこと言われたら、断れないじゃないか……」

 

 向けられる眼差しに狂おしいほどの情念はない。

 そこには俺がよく知る、時雨の笑顔があった。

 

 この屋敷での暮らしは思い描いていた未来とは異なるものだった。

 心が壊れていく時雨を見るのは辛かった。

 時雨もまた人形のように動かなくなっていく俺を見て、どれほどの悲しみに暮れたことだろう。

 

 だがそれでも……

 

「提督。僕は、幸せだったよ? 大好きな君と、結婚できて、一緒に暮らせて、子どもが作れて。だから……」

 

 自分たちが深く愛し合っていたのは、まぎれもない真実だ。

 未練はない。

 時雨に見送られて逝けるのであれば、俺はもう……

 

「提督、ありがとう。この世界を守ってくれて。ありがとう。僕を、こんなにも愛してくれて」

 

 ぬくもりは深く、まるで命がひとつに重なり溶け合うように結びつく。

 魂までも癒すようなあたたかさは、浄化の光となってあらゆる苦痛を忘れさせてくれた。

 

 不安はない。

 きっとこの魂はあるべき場所へ行けるだろう。

 他でもない。天使のような微笑みを浮かべる少女が傍で見守ってくれているのだから。

 

「おやすみなさい、提督──」

 

 最愛の少女の声を最後にして──安らかな眠りに落ちるように、瞳を閉じた。

 

 



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