前作「河原の囲碁」の番外編。前作未読でも楽しめるよう、心掛けて書きました。ヒカル&佐為と桑原おじいちゃんの、ささやかな邂逅。そしてパンケーキ。


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 前作「河原の囲碁」の番外編。
「河原の~」仕上げ段階で削除した部分を、手直しして短編にまとめました。
前作未読でも楽しめるよう仕上げましたので、よろしければご賞味ください。

~あらすじ~
 舞台は、ヒカルが院生時代の6月。
研修風景をスケッチに来ている画家のお姉さんに佐為が見えている事が判明し、動揺するヒカル。
彼女に桜の湯呑みを貰って、ウキウキな佐為。
 二人が、昼休み中のお姉さんのイーゼルに手紙を置くシーン(「前年の6月」SAIー4)から、分岐して始まります。


2021/10/7 誤字報告頂きました  ありがとうございました。



おじいちゃんの帽子

~Chapter1~

 

<こんにちは、

この間は、後ろから脅かしちゃってごめんなさい。

それから、イカした湯呑み、ありがとう。

佐為も喜んでます。

これからも仲良くしてください。

進藤ヒカル

 

初にお手紙差し上げます。

藤原佐為と申します。

過日は大変失礼致しました。

あと、素晴らしい贈り物をありがとうございます。

儚き身ゆえ、感謝を気持ちでしか現せない事を歯がゆく思います。

ヒカルともども、今後とも宜しくお願い致します>

 

 

「佐為、お前の文章、堅ってぇよな。見てよ、俺の字との、このアンバランス感」

――ヒカルも、大人の女性相手にくだけすぎですよ――

 

 そんな事を言い合いながら書いた手紙を、昼休みに画家女史のイーゼルに置いた。

 

 ヒカル以外に佐為が見える人間がいた事は、二人にとって衝撃だった。

 だが、困った事にはならなさそうだ。

 幸い相手は口が固く、幽霊の事にも理解がある感じだ。

 出来ればこちらの事をちゃんと知って貰って、このまま上手く付き合って行きたい。

 

 昼食から戻って来た女性は手紙に気付き、封筒を持ってこちらに小さく会釈した。

 

 ヒカルの向かいに対局相手が座ったので、ヒカルもそちらに集中し、女性はカンバスの向こうにすっと隠れた。

 

 

 返信は思いの外早くに来た。

 その日の研修が終わって立ち上がった所に、福井が封筒を持ってやって来たのだ。

「これ、画家のお姉さんが渡してくれって」

 

 イーゼルのあった板の間を見ると、もう片付けられて無人だ。

 いつの間に帰っちゃったんだか、まったく気配を感じさせない人だ。

 

「ありがと、フク」

 さっきまですぐそこに居たのに、遠回りな人だなあ…と思いながら、先日の手紙と同じ白い和紙の封筒を受け取った。

 

「そうそう、スケッチに来るのは今日でおしまいだって」

「ええっ、そうなのっ?」

「うん、絵の具を使った作業は自宅でやるんだって。

7月中には仕上げるって言ってたよ。楽しみだね」

「うん…」

 

 ヒカルは複雑な気持ちでうなずいた。

 フクや他の子供達とは直接話すくせに、なんで俺らだけ手紙なんだよ。

 

――ヒカル、早く読んでみましょうよ――

「分かった、分かった」

 割り切れない思いは取りあえず横に置いておいて、ヒカルは誰にも見られない棋院裏に移動した。

 

 封を開けると、和紙の便箋に今度はいっぱいに、女性らしい細い文字で、

 

<自分は生まれついての霊障体質である事。

強い霊に近寄ると、相手の良い悪いに関係なく、体調に異変をきたしてしまう事。

先日の自販機前の事件は、多分自分が原因な事。

だからなるべく自分に近寄らないように、協力して欲しい事>

 

 が、説明口調で、箇条書きされていた。

 

「ホント、素っ気ないよなあ。でもまあ、体質なら仕方がないよな。

避けられてる理由がハッキリして良かったじゃん。

嫌われてる訳じゃなかっただろ? なあ、佐為」

 

 沈んでしまった佐為に、ヒカルが一生懸命元気付けようと話し掛ける。

 

――私・・幽霊なんですね、今更だけれど・・――

 

「もうっ、めんどくさい奴。…あれ?」

 ヒカルは、封筒にまだ紙が入っているのに気付いた。

 彼女が素描に使っている、薄っぺらいクロッキー用紙の切れ端だ。

 

 和紙の手紙はあらかじめ書いて、話が通じる相手なら渡そうと、持ち歩いていた物だろう。

 後から出て来たこちらは、今日、自分達の手紙を見たあとに、追加で書いたっぽい。

 

 それを広げたヒカルは、後ろでいじけている相棒を振り向いた。

 

「・・・! おい、佐為!」

 

 

~Chapter2~

 

 佐為とヒカルの二人は今、棋院から三つ向こうの駅の、古い繁華街に来ている。

 ヒカルぐらいの年代には縁が薄い、昔からの老舗が軒を連ねる大人の街だ。

 

「ええっと・・」

 ヒカルは、白い和紙封筒から、追加の一枚を引っ張り出した。

 

<夏の陽射しが心配なので、うちのおじいちゃんに帽子を贈りたいと思っています。

しかし、どうやら私のセンスはおじいちゃんの好みではなさそうなのです。

藤原佐為さんはとてもセンスが良さそうなので、棋士にふさわしいカッコいい帽子を見繕って頂けないでしょうか>

 

――あの方のお祖父様、碁打ちでいらっしゃるのですね――

「センスが良さそうって……」

 ヒカルは、帽子屋に烏帽子が無い事を密かに祈った。

 

「しかし…うぐぅ…、何だよこれ」

 クロッキー用紙に帽子屋への地図も描かれていたのだが、それがどうにも分かりにくい。

 四角い紙を横に斜めにひっくり返して四苦八苦するヒカルの傍から、佐為も面白そうに覗き込む。

 

――そんなに分からないですか?――

 

「だって、地図ってのは、誰にでも分かる目印を書くモンだろ?

『駅』は分かるけど…何だよ、この『おとなしい犬』とか『やさしそうなおじさん』とか。

暗号かよっ」

 

――道しるべとしては、ちょっと不適切ですねえ…――

「だろっ?」

 

 もがき苦しむヒカルには申し訳ないが、佐為は初めての街並みをけっこう楽しんでいた。

 ヒカルに付き合って歩く日常もそれなりに楽しいのだが、知らない場所に行くのが基本的に好きなのだ。

 虎次郎ともこんな風に、新しい土地にワクワクしながら旅をしたなあ…と。

 

「佐為、なんか、にやけてない?」

――いえいえ、ああ困りました、困りましたねぇ、ヒカル――

「ちっとも困ってないだろ、お前」

 

 

「あったぞ、佐為、ここだ、ここ」

 

 同じ道を行きつ戻りつして、やっと、見落としていた小さな路地を見付けた。

 覗くと、10歩ぐらい先に、渋い山高帽を飾ったウィンドウが見える。

「分かりにくっ」

 

――ヒカル、これこれ!――

 

 佐為が嬉しそうに声をあげた。

 彼の扇子で指された先に、首を傾げた白い犬の置物が鎮座する。

 路地の入り口にあるレトロなレコード屋のディスプレイだ。

 

「・・・『おとなしい犬』(確かに置物だから大人しい)」

 

 まさかなと思って反対側を見ると、そこは某フライドチキン屋で、例のでっぷりしたおじさんが優しそうに微笑んでいた。

 

「分かるかあっ! こんなのっ!」

 

 

 店に入ると、独特の布の匂いにムッとする。

 オーダーメイドも出来るような本格店だが、若向きのカジュアルな物も幅広く置いてあった。

 

「手紙には値段の指定がなかったな。お金持ちなのかな、あの人。

それにしても、棋士にふさわしいってどんな帽子なんだよ。佐為、分かる?」

 

――んん~・・私も、装いに関してはトンと疎くて…。

平安時代は、帽子は身分に沿って賜る物でしたからねえ――

 

「ちぇっ、頼りにならねぇの。佐為が名指しで頼まれたんだぞ」

――そうは言われても、こうも沢山あると…――

 

「ま、じゃあ、餅は餅屋に任せるとするか」

 店主に声を掛け事情を説明すると、夏向けの上品な紳士帽を幾つかチョイスしてくれた。

 

「こん中から選べよ、佐為」

――ええと・・かーみーさまのーいーうーとおりぃ~~~・・これっ――

「てきとーだな」

 

 結果、無難な麻のソフト帽に決定し、それを手紙で指示あった通り、お姉さんの名前で取り置きにして、店を出た。

 

 

「やれやれ、一件落着だな、ああ腹減った」

――こんな感じでよかったのでしょうか――

「ダイジョブだよ、最後はちゃんと佐為が選んだんだもん。ラーメン食べて帰ろうぜ」

 

 言い合いながら歩く二人(他人から見たら一人なのだが)の後ろから、渋いしゃがれ声が掛かった。

 

「うぉーい、院生の小僧」

 

「??!」

 振り返ると、奥まったカフェのテラス席で、一人の老人が手招きしている。

 

「えっと、誰だっけ」

――ヒカル! 本因坊ですよ、桑原本因坊! 前に棋院ですれ違いましたっ――

 佐為がミーハー全開に足をバタバタさせている。

 

「本因坊はお前じゃん」

――だからっ・・虎次郎から何代か後に、本因坊家は名跡を囲碁協会に譲って、それがそのままタイトルになったんですよ。和谷に教えて貰ったでしょっ――

「そだっけ」

 

――あのお歳でタイトル防衛記録を更新中だとか。前回の防衛戦も素晴らしい物でした。

ヒカル、早く、早くお側に~!――

 その場でぐるぐる回る佐為に押し出されるように、ヒカルは老人のいるウッドデッキに上がった。

 

 

  ~Chapter3~

 

 この街にしては新し目の小洒落(こじゃれ)たカフェで、あちらのパラソルの下では、女子高生がキャッキャ言いながら、テーブルの料理にスマホをかざしている。

 

「えと、こんにちは、桑原…本因坊センセ」

「ふぉふぉ、まあ座れ、座れ」

 

 二人掛けの席の向かい側を促され、ヒカルは躊躇した。

 この人、同じ年寄りでも、うちのじいちゃんなんかとは全然違う。

 変なオーラが出てるし、人間じゃないみたいな迫力だ。

 

「怖がらんでええから、ととっとと座れい。ほれ、好きなモン食え。

儂の行き付けじゃ、何でも美味いぞ」

 突き出されたでかいメニューと嬉しそうな佐為に挟まれて、ヒカルは無理くり座らされた。

 

 メニューには、お洒落カフェらしいカラフルな料理がズラズラ並んでいる。

 しかし緊張して、書いてある事が頭に入って来ない。

 

 ヒカルを待たずに老人は、手を挙げてウエイトレスを呼んだ。

「この、『すぺしゃるぱんけぇきメガマウンテン盛り』って奴を」

 

「うわっ、待ってくださいっ、俺、そんなに食べられないですっ」

「しぃっ…儂が食うんじゃ」

「どえっ?」

 

 白いクリームにカラフルな果物が針ネズミみたいにぶっ刺さった、見上げるようなパンケーキが運ばれて来た。

 

「ひょっひょー! 一度これを食ってみたかったんじゃ。

だがさすがにお独り様老人が注文するのは、ちとイタイじゃろ? 

子供でもテーブルにおってくれればなあと思っておった所に、お前さんが通り掛かったんじゃ」

 

「それはどうも…」

 中学生男子でも、十分イタイんですけど…。

 ヒカルは自分の小さいケーキをつつきながら、みるみる片付けられて行くパンケーキを呆れ目で眺めていた。

 

――さすがですねえ、ねえ、ヒカル――

(何がだよ)

 

――囲碁を打つ脳みそには糖分が大量に必要なんだと、先日見た囲碁雑誌に書いてありました。

さすが長年本因坊を張っていらっしゃるだけあって、身体の中の囲碁成分が常に甘味を要求しているのでしょうか。そういえば、秀策の時代の優れた碁打ちは、皆、甘い物好きでした――

 

(俺はお前のその、何でも囲碁に結びつける囲碁脳に感心するよ)

 

「ん? なんじゃ小僧? イゴノウ?」

 

 ヒカルはハッと口に手を当てた。

 佐為に話しかけているつもりが、声に出ちゃってたみたいだ。

 

「そのっ、囲碁脳には甘い物が必要って、雑誌で読んで…。

そうっ、昔の碁打ち…本因坊秀策なんかも、桑原センセみたいに甘い物好きだったのかなぁって」

 

――はい、虎次郎は『すあま』が大好物でしたよ――

 お前に聞いてるんじゃないっ、このド天然っ!

 

「ふむ、小僧は秀策が好きか?」

 桑原老人はカトラリーを皿に置き、目を細めて聞いてきた。

 

「えっと、ハイ、好きっちゃ好きかな。いつかあいつに勝ってやるって思ってるし」

おっと変な事言ったか? と心配したが、向かいの桑原は二カッと笑った。

 

「儂もじゃ」

「えっ??」

 ヒカルの隣で佐為も目を見開いた。

 

「秀策は、瀬戸の小さな島から発って、碁の腕ひとつで、名門本因坊家の跡目にまで上り詰めた。

儂も地方の片田舎出身じゃったから、そういうのに憧れての。

努力さえすれば報われる見本だと、会ったこともないのに、勝手に親しみを感じておったわ」

 

「へえ」

 素直に関心を示すヒカルの横で、佐為もコクコクうなずきながら聞いている。

 

「まだ鼻タレ小僧の頃、初めて奴の棋譜に触れた時は衝撃じゃった。

自分との落差に愕然として、そりゃもう、落ち込んだわい。

しかしそれが無かったら、儂は井の中の蛙のままじゃった。

いや、奴の享年の倍生きた今とて、どれだけ奴に近付けているか、怪しいモンじゃ。

そんな実体の無い亡霊ばかり追い掛けとるから、今ではすっかり妖怪呼ばわりじゃわ、カカカ」

 

 老人は、子供相手につい熱弁してしまっている自分に気付き、最後はおチャらけてごまかした。

 

――だから本因坊タイトルを死守されるのですか?――

 

 佐為の問いかけ・・それをヒカルが代弁する前に、

「同じ時代を生きてみたかったのう」

 と、桑原が話題を終わらせてパンケーキに戻ったので、佐為もそれ以上は聞かなかった。

 

 

  ~Chapter4~

 

 桑原老人が、まさかのメガマウンテンをサクっと平らげた所で、佐為は気持ちを押さえきれなくなった。

 

――ね、ヒカル、リュックに携帯用の小さい囲碁、入っていますよね、・・ね! ね!――

 

(あのなあ・・お前の気持ちは分かるけれど、プライベート中の大先生に、いきなり玩具の碁盤出して相手して下さいなんて言う勇気、いくら俺でもねぇぞ)

――でも、ねえ、ちょっとだけでも――

 

(打ち始めたら、ちょっとじゃ済まないだろ。

だいたい、こんな所で真剣勝負なんか始めたら、お店の人に怒られるだろ。

桑原センセに恥をかかせるつもりか?)

――あぅ・・・――

 

「どうかしたか、小僧?」

 黙っているのに視線をキョロキョロ動かすヒカルを、桑原は怪訝そうに眺めている。

 

「あ、いえ…」

 

「ところで、儂の願いを叶えてくれたのだから、何か礼をしたい所じゃが…」

 

 ヒカルの様子がまた慌ただしくなり、口をイーの形にしたり首を振ったりし始めた。

「…小僧?」

 

 ひとしきり顔芸を披露した後、子供は根負けしたようにガックリ脱力し、リュックから携帯碁盤を取り出した。

「・・じゃ、じゃあ、桑原センセ、一か所、教えて欲しい所があるんデスけど・・」

 

「むむ? 今からここで一局は、ちと無理じゃと思うぞ」

 

「いえ、違くて…、前回のセンセの防衛戦の最終日の奴…、棋院で棋譜を貰ったんです」

「ふむ?」

 

 持って帰って二人で検討したのだが、その時に自分が思い付いた手を、どうしても今ここで聞いてみたいと、佐為が駄々をこねたのだ。

 そりゃ、さっきの秀策に対する思い入れを聞かされたら、少しでも盤を挟んでみたくなる気持ちも、分からいでもない。

 

(ちょこっと質問してます風なら、そう時間もかからないし、お店の人も見過ごしてくれるだろ)

 ヒカルは後ろの佐為にせっつかれながら、二つ折りの盤を広げた。

 

「家で一人で再現してたら、ふっと面白い手を思い付いて」

「ほぉ」

 桑原は、澱みなく石を並べる子供に感心しながら、興味深く盤面を見やった。

 

「ここ…、この時に、相手の人が、こっちじゃなくて…ココに置いてたら、桑原センセ、どうしただろなって」

 

「うむ……・・・むむむっ??」

 

 最初半眼だった老人は、すぐに目を見開いて、引き寄せられるように身を乗り出した。

 

「なるほど、そこがあったか…そうかそうか、なるほど……。

小僧、この手は自分で考え付いたのか?」

「いえ…、あ、やっぱり、ハイ。たまたまです。たまたま偶然っ」

 

「ほぉ、偶然ね…・・ひゃひゃ、子供はおっかないのう。

・・・だーとーしーたーら――・・」

 桑原は何だか嬉しそうに、骨ばった指で小さい石を挟み取ると、ある一ヶ所にカチリと置いた。

「儂ならこう切り返す」

 

 ヒカルの様子が、またおかしくなった。

 慌てふためく表情、そして何かと葛藤する感じ。

 その挙句、しぶしぶという様子で、新たな石を一つ置いた。

 

「ひゃっひゃひゃひゃ」

 老人の目が、猫のように三日月になった。

 

 変な笑い声に隣席の女子高生が振り向き、先ほどからこちらを見て眉をしかめていたウェイトレスが一歩踏み出す。

 すわ、やっぱ怒られちゃうか? ・・・という所で、本因坊が機先を制した。

 

「お姉さんや、ぱんけぇき追加じゃ! 今度はギガエベレスト盛りで!」

 

 

 目の前で、パンケーキが口から吸収され、シュウシュウと音を立てながらエネルギーとなって、指先からの鋭い一手に還元される。

 ヒカルが初めて目撃する人体の神秘。

(やっぱ人間じゃないよ、この人…)

 

 佐為は佐為で、いつもはヒカルの後ろですまして口頭で伝えるだけなのに、今はテーブルの横に来て、扇で直接打つ場所を指している。

 しかも、目をキラキラさせて、めっちゃ楽しそうだ。

 

(この囲碁バカ・・・)

 やっぱこうなっちゃったじゃないか。

 

 プロ試験を控えた院生のヒカルにとって、確かに、見られるだけでもラッキーな高レベルの応酬ではある。

 佐為の熱狂に圧され圧されて、しばらく指示されるままに石を置いていたのだが・・・

 

(だけれど、このままじゃ…)

 

 そう思った所で、佐為の扇が、あり得ない一手を示した。

(??)

 思わず見上げると、背の高い彼は、扇を口に当てて目を伏せ、こちらを見て哀しそうにうなずいている。

 

 そう、院生ごときのヒカルが、桑原本因坊と互角の勝負なんかしちゃったら、後々大変な事になるのだ。

 ヒカルも目で了解の合図をして、佐為の示した『一見正道だけれど大ポカ』な場所に石を置いた。

 

 桑原が頓狂な顔をした。

 ヒカルをなめるように見回した後、黙って自分の石を置き、それから数手で勝負を終らせた。

 

 

「あーあ、負けちゃった、でも楽しかったです。ありがとうございました、桑原先生」

 

「ふぉっふぉ、儂に勝つつもりじゃったか。

いやいや、なかなか、一時はヒヤリとしたぞ………しかし…」

 

 老人がもう一度ジッと見据えて来たので、ヒカルはドキドキした。

 まさかな…、昨日の今日で、そうそう佐為が見える人間なんて巡り会うもんじゃないってば。

 

 横目で佐為を見ると、懐っこい瞳で、いとおしそうに桑原を見つめている。

 まったく・・、この全方位囲碁脳・・・

 

 あの画家のお姉さんじゃなくて、この人に見えればよかったのにな、佐為…

 

 

  Chapter5

 

 パンケーキの大皿が片付けられたと思ったら、上品な絵柄のデミタスカップがコトリと置かれた。ヒカルの分もある。

 

「俺、頼んでないけど?」

 顔を上げると、先ほどまでのウェイトレスではなく、デニムのエプロンをした初老の男性が、柔和に微笑んでいる。

 

「やっぱり桑原さんでしたか。女のコに報告受けて。

ほどほどにお願いしますよ。従業員の手前、注意せにゃなりませんから」

 男性は、苦言を述べながらもにこやかで、最後だけちょっと肩をすくめた。

 

「すまんすまん、つい興が乗ってな」

「へえ、桑原さんを愉しませるなんて、大した子供さんですね」

「子供はおっかないぞぉ」

 

 男性は、はははと笑って、軽く会釈してから去って行った。

 

 

「知り合いですか?」

「ああ、先代からの馴染みでな」

 近くに桑原翁の行き付けの仕立て屋があり、待ち時間の折り折りにこのカフェに立ち寄るうちに、顔見知りになったという。

 

「昔は渋目の珈琲専門店じゃったが、二代目は流行りに乗るのが上手での。

それでも、そら…その、えすぷれっそ、飲んでみぃ?」

 

 言われてヒカルは、小さなカップをつまんで口に付けてみた。

 本当は缶コーヒーだって甘くなきゃ飲めないのだが、この流れでは砂糖なんか入れられない。

 

「あれ?」

 美味しい?

 甘くはないのだが、嫌な味がー切しなくて、ヒカルの知っているコーヒーの美味しい所だけ凝縮された感じだ。

 

「すっごい美味しいです、お世辞じゃなく。俺、コーヒーに対する見方が変わりました」

 

 老人はニンマリ笑い、小指を立てて美味(うま)そうにコーヒーを飲んだ。

 

「あいつも、この味が出せるまで、先代に相当しごかれとったからな。

客のニーズに応えて流行り物にも手を広げておるが、守るべき物はちゃんと守っとる。

そこの所が変わらん限り、儂はここを贔屓にし続けるつもりじゃよ。

あいつは嫌かもしれんがの」

 

 それからカップを置いて、表通りを見やった。

 

「この街は、昔ながらの職人が生き続けている街じゃ。時代の流れで外面(そつづら)は変わってゆくが、根っこの所が変わらんのが、しぶとくてエエ感じじゃろ。

囲碁の世界も似ていると思わぬか?

職人技のコーヒーも、囲碁の強さも、人が生きて生活するのに絶対に必要という訳ではない。

いわゆる無駄なモノじゃ。

その一見無駄なモノに価値を見出して、愛しんで守り育む世界が、儂は好きなのじゃ」

 

 また語り過ぎてしまったなと老人は、照れ隠しの咳払いをした。

 儂とした事が・・・ほとんど初めて話す子供なのに、ついつい本音を喋らされてしまうこの空気は、いったい何なのだろうな・・・。

 

 大人な話がイマイチ分からずキョンとするヒカルの横で、佐為は静かに、真剣な面持ちで、老人を見つめていた。

 

「ま、小僧もいつか和装が必要な時が来たら儂に言え。とっておきの職人を紹介してやるぞ」

「は、はい、そんな日が来るように頑張ります」

 

 

 先程の店主がもう一度やって来て、仕立て屋から桑原宛に電話があったと伝えてくれた。

 桑原の注文品が準備出来たとの事で、ヒカルはキリ良しと、席を立って挨拶をしようとした。

 

「今日はご馳走さまでしたっ。そんで、ホント楽しかったです。

・・んん? ・・ええっ??」

「なんじゃ?」

 変に慌てる子供に、桑原は不思議そうに覗き込んだ。

 

(そ、それ言うのかよ、佐為?!)

――是非とも、是非とも、お願いします、ヒカル――

 

「どうした、小僧?」

 

「ええっと、うぐぅ……本因坊…秀策が…」

 

「む?」

 

 子供は不自然に途切れながら喋ったが、桑原はせかさずに待ってやった。

 

「秀策が、もし、今の時代を、覗き見したら・・・

こんなに世界が変わっているのに、囲碁がちゃんとある事に、もう、めっちゃ喜んで・・・

この時代の囲碁を愛し育ててくれているすべての人に、感謝感激って抱き付いて回るだろな・・・

って、思います」

 

「ふぉふぉ、随分フランクな秀策じゃの」

 

「秀策って、そんな人だったんじゃないかって気がします・・・何となくデスけど」

 

「ふぉ……」

 

 じゃあサヨナラ! と、ウッドデッキを飛び降りて駆け去る子供を見つめながら、桑原は何ともいえない素の顔になった。

 

 

  ~Chapter6~

 

「もおっ、佐為の頑固者っ。桑原センセ、変にしてたじゃないかっ」

 

 帰る道々ヒカルは、さっき無理に言わされた台詞を思い出して、顔から火をほてらせていた。

 

――だって、どうしても感謝を伝えたかったのですもの――

「まったく…」

 

 ふてくされるヒカルに、佐為が神妙に覗き込んだ。

――ヒカル~、わがままついでにもうひとつわがままを聞いてくれませんか?――

 

「えっ、やだよっ、これ以上何があるっていうんだよっ」

 

――もう一度、あの帽子屋に寄って欲しいんです。お願いします、ヒカル――

「ええっ!!」

 

――私のさっきの帽子の選び方。なんておざなりだったのでしょう。恥ずかしいです。

この街の職人さんに対しても、私を信頼して任せてくれたあの女性に対しても。

もう一度、ちゃんと真剣に、全力を尽くして選びたいのです――

 

 ああ、もおっ、めんどくさいっ。

 と思いつつも、結局、帽子屋に引き返すヒカルであった。

 俺って、ほだされ体質なのかな・・・

 

 

――ヒカル、これ! これが良いですよ!――

 

 しばらく喰い入るように店内を物色していた佐為が、ある一角で叫びを上げた。

 くるりと振り返った目の中には、お星さまマークがキラキラしている。

 

――白と黒のきっぱりとした色合いが、碁打ちにピッタリです!

おまけに、ここの印! すこぶる勇猛果敢! 凄く凄くカッコイイです!――

 

「・・でも、佐為・・」

――これこそ私の真剣勝負、心を込めた全身全霊の帽子選びです!――

 佐為は、鼻を膨らませて得意満面の『やりきったスマイル』だ。

 

(・・まあ、いいか・・・)

 

 多分あのお姉さんは、湯呑みのお礼をしたがっている佐為の為に、『幽霊にでも出来るお礼』を考えてくれたんじゃないかな。

 そんで佐為がこんなに嬉しそうなんだから、それでいいじゃないか。

 

 二人は、先程の取り置きのソフト帽を佐為の選んだ帽子と差し替えて、店を出た。

 

 

「うわっ、真っ暗。母さんに怒られるな」

――ごめんなさい、ヒカル――

 

「いいよ。しっかし密度の濃い一日だった~。たまには知らない街もいいよな」

――はい、冒険みたいで楽しかったです――

 

 駅に向かう道は、帰宅者の流れに逆らう形になる。

 小柄なヒカルは、人波に押されながら、えっちらおっちら歩く。

 佐為は人にぶつかる事はないのだが、やはりヒカルと一緒に、えっちらおっちら歩いた。

 

「なあ、佐為…」

――はい?――

 

「俺さ、頑張って、なるたけ早く、桑原センセとイイ勝負をしてもおかしくないような棋士になるからさ」

――・・・――

 

「そん時は、今日の続きを打てるよう、センセに頼んでみるよ」

――ホントですか? やったあ!! ヒカル、早く早く! 早く成長してください!――

 

「無茶言うな、・・ったくお前は、大人なのか子供なのか、ホンット、分かんないな。

まあまずは帰って、俺とさっきの続きだ」

――はい、ヒカル!――

 

 

 

 

 数日後の、棋院ロビー。

 

 誰もが『それ』に触れようとしない中、意を決した篠田が、猫の首に鈴を付けに行くネズミのような心境で、さっきから無言の本因坊に話し掛けた。

 

「・・桑原先生が、阪神ファンとは、存じませんでした・・」

 

 

 

    ~おしまい~

 

 

 

 




 とても楽しく書けました。
 読んで下さった皆々様に感謝です。

 返信下手ゆえ、感想の返信できぬ事、どうかご容赦くださいませ。






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