本日、哨戒活動中に敵艦隊を発見し捕捉、交戦となるも敵艦全艦を撃沈し当方への損失は無し。
今日発生した戦闘の概要について書けばこうだ。その詳細についての報告書をまとめたので、それを提出すべく、木曾は休暇明けの提督がいるはずである執務室に向かっていた。
執務室のドアをノックすると「入れ」と言う声が聞こえたのでそのまま入室する。
「ほら、今日の報告書」
「ああ、見せてもらうよ」
提督は木曾から書類を受け取る。軍人らしい毅然とした態度ながらも柔らかい物腰。そしてどこか暖かさをも感じさせる好人物である。
が、それなりに付き合いの長い木曾からすればそれだけではない。
(こいつ、前はこんな感じじゃなかったのになあ……)
ついそう思ってしまい、どうしても気持ちが沈みがちになる。提督は表面的にはなんて事も無いように見えるのだが、その背後には言いようの無い暗さが常にまとわりついているのである。
デスクの隅に置いてあるフォトフレーム。書類を確認しようとした提督の目がそこへ一瞬だけ向けられたのを木曾は見逃さなかった。
彼女もまたフォトフレームを覗き込む。そこに納められた写真に写っているのは提督とほぼ同年代であろう女性の姿だ。
「もう三年か? 昨年だよな、奥さんの三回忌って?」
無粋であるかもしれない事を承知の上であえて聞く。
「……ああ、三年だな」
そう答える提督の目を虚無が駆け抜けた。
木曾も片手で数えられる程度ではあるが、生前の提督の妻に会った事がある。当時の提督はこの鎮守府に着任して間もない頃で、木曾もまだ艦娘として新米の域を出たか出ないかと言った頃だ。側から見ていてもとても仲の良い夫婦で、内心羨ましいと思っていた記憶がある。
ところが、幸せというものは長く続かないもので、ある日突然にして妻が倒れたのである。病院に運び込まれ、検査をした所、悪性腫瘍の一種を患っていた事が分かったが、その時点で既に手遅れの状態であったらしい。
そこから彼女の容体は急速に悪化。医者もあらゆる手を尽くしたが、病状の発覚から程無くして提督の妻はこの世を去った。提督はといえばその時遠征に参加している最中であり、結局妻の死に目にも会えなかった。
以来、提督が晴れた表情を見せる事は無くなった。笑う事はあっても、その目が暗い。
「子供が居なかったのは不幸中の幸いかな」
と、彼は自嘲気味に言った事がある。確かに、片親というのは大変なものであるし、子供にとっても精神上不利に働く事が多い。
自宅に戻っても誰が待っている訳でも無くなってしまったからか、あるいはその事を実感するのを少しでも遅らせたいからなのか、提督は本来やらなくてもいいような残業や当直をこなすようになる事もやたらと多くなった。
先日、そんな提督が珍しく休暇を取るという話が鎮守府の中に広がり、誰もが一瞬意外な思いにとらわれたが、次の瞬間にはピンときた。
(ああ、奥さんの命日か……)
そこに思い至って艦娘達の表情は一気に暗くなった。提督は亡き妻の命日には墓参りを欠かさない。お盆に休みを取るのが難しい場合はその前後に休暇を取るよう調整するが、命日に休暇を取る事だけは決して譲らなかった。
(本当に奥さんの事、好きだったんだな……)
提督を見ていると木曾はその事を痛感させられる。
この件、艦娘達にとっては口に出すのははばかられる事であったし、提督にとっても触れて欲しくは無い事であった。それでもなお自身のデスクの上に亡き妻の写真を大切に飾っているのは何故かと言えば、ただひたすらに彼女の事を忘れたく無いという思いが他を凌いでいるからあろう。提督の性格が変わってしまったかのように見えるのは何も木曾の錯覚ではあるまい。命日の話を木曾から持ち出されたのがきっかけになったのか、今、提督は提出された書類に目を通すのでは無く、フォトフレームの中の妻の姿をぼんやりと眺めている。
(これからもそうやってずっと思い出を引きずりながら生きていくつもりかお前は)
木曾は不快な気分の中、そんな事を考えた。
「書類、確認してくれないか?」
提督に言う。苛立ちがその声に混ざっていた。
「ああ、そうだったな」
提督は書類の確認に入った。木曾の苛立ちに気付かなかったのか、あるいは気付いた上で無視しているのか、こんなもん急ぎでもなかろうに、と内心で提督が考えている事が何となく伝わってくる。この提督の態度に木曾は更に苛立ちを募らせたが、何とか表に出す事を我慢する。
「……見事な戦果だな。お疲れだった」
報告書の内容を確認して提督は今日の作戦行動の成果を褒めてくれているが、全く心に響いてこないのは一体何故なのか。
「…………」
「どうした? もう下がっていいぞ」
例の暗さを宿らせた目でこちらを見ながら提督は言う。
「え? あ、ああ、すまん」
どういう理由か分からないが、提督の事を見つめながらぼんやりとしていたらしい。執務室を出る事にした。
一瞬だけ振り返り、
「あのな」
と提督に声をかけた。
「何だ」
と、彼は聞いてくるが、その目を見た瞬間に何も言う気がしなくなってしまい、
「……いや、何でもない」
と返してそのまま執務室を出た。そしてそんな木曾に対する反応も提督からは全く無かった。
この鎮守府における秘書艦のポストにはシフト制が取られていて、日や時間帯で担当者が異なる。ただし、木曾が秘書艦を担当する頻度が最も高い。これは別に提督が木曾の事を気に入っているとか、そういう事ではなく、逆に木曾の方から自分のシフトの割合を増やすようにと提督に直談判した結果である。
何しろ、提督のそばにいる事が出来ないと不安で仕方がないのだ。寂しさを紛らわせる為に仕事に打ち込みたくなるというのは分からなくもないが、それにしたって限度というものがある。木曾とてそれ程器用なタイプでも無いのだが、何とか提督の心の痛みを少しでも和らげる事が出来ないかと気を遣い、行動を取ってきたつもりである。
が、実際の所、それらの行動が実を結んでいるとは言い難い。急ぎの仕事でも無い限り、執務室に居る時の提督があのフォトフレームをぼんやりと眺めている事が多いのも以前から余り変わっていない。
(奥さんって本当に幸せ者だよな……)
木曾は提督の妻の事にも思考を巡らせる。とうにこの世を去っているにも関わらず、これだけ想いを寄せられ続けている人間も滅多に居ないだろう。
だが、彼女はあくまでも死んだ人間である。そんな人間を想う気持ちが今だ現世に留まっている夫の心の枷となっている訳で、そんな状況から抜け出せないでいる提督の事は木曾も見ていて辛いものがある。
あいつはいい加減どうにかならないのかと、最近の木曾はそんな事を考えるようになった。三年という歳月が大切な人を失った人間にとって長いのか短いのかは分からない。だが、いい加減少しは立ち直ってくれても良いだろうという腹立たしさが木曾にはある。暗く、澱んだようなものを内面に湛えたままの提督を見ていて、こいつはいつか壊れてしまうんじゃないかという不安もある。
ありえないとは思いつつも、提督が妻の後を追ったとしたら、と考えてみた事もある。その瞬間、木曾は凄まじい寒気に襲われ、恐くなってしまった。だから流石にその手の思考は封印しているが。
「もうちょっとちゃんとしてくれよ、頼むからさ……」
執務室を出た後、そう木曾は小さな声で呟いた。
その後、暫く経ったある日の事だ。この日の提督は会議の為に外出をする予定になっている。迎えの車が来たので、木曾は提督を呼ぶ為に執務室に向かいそのドアをノックした。
ところが、返事が無い。この部屋に居るはずだが、と訝しんでいると、中から話し声が聞こえて来たので、一体何かと思い、こっそりとドアを開けてみる。
提督は電話で話をしていた。
「……写真まで見せて頂いたのに誠に申し訳ない。ですが今の私には過ぎた話でして……」
(ああ、見合い話か……)
おそらく提督の身の上を心配して、知人の誰かしらかが縁談を持ってきたのだろう。ところがやはり提督にはその気は無いようだ。電話越しに相手に詫びつつ、話を断っている。あくまで噂レベルではあるが、以前にもこんな事があったらしいと木曾は聞いた事がある。
カチャリ、と静かに受話器を置いた後、提督は弱いため息をついた。
痛ましい気持ちにさせられてしまうが、あえて声をかける。
「会うつもりも無いのか。まあ、お前らしいけどな」
「うん? そこまでいくと流石に面倒だからな。とりあえず写真だけ受け取ったってだけだ」
木曾が入室していた事に気付いた提督は淡白にそう答える。こいつは死んだ女の事をいつまでも引きずっている女々しい奴だが仮にも軍のお偉いさんだ、さぞかし良い相手に違いなかったろうにと思った木曾。
「どんな人だったんだ?」
と聞いてみたところ、とんでもない答えが返って来た。
「いや、見てないから知らんよ」
「は?」
どうやら電話で提督は大嘘を言っていたらしい。断る事が前提であるにしろ、少しばかり相手を蔑ろにしすぎではないだろうか。
「おい。それ、相手に失礼じゃないのか?」
「そんなの見た事にしておけば分からんだろ。どっちにしろ断るんだし、いきなり突っぱねる方がよほど失礼と思ったから一応写真も受け取ったってだけでな」
抑揚の無い声でこう言われた瞬間、こいつはここまで杜撰な男だったのかと、失望を覚えたのは確かである。それと同時に、理由の分からない腹立たしさが木曾の中に湧き上がって来た。
「周りが心配してるって事が分かんねえのか!?」
「兄貴も義姉さんも、甥も姪も元気だからな。孫の顔が見れてるんだから親父とお袋も今後の不安は無かろうよ」
(そういう事……聞いてんじゃあ無えんだよっ……!!)
ピントのずれた答えを返してくる提督に対して殺意に近いものを覚えてしまった木曾はつい心の中でそう叫んだ。もはや頭に血が上ったと言っていいだろう。
「お前がここに居るって事は、もう迎えの車は来てるんだな?」
そんな木曾とは対照的に、先程の見合いの話などまるで無かったかのように提督はそう確認してきた。当の木曾は無言のままだが、それを問いの肯定と受け止めたのか、提督は木曾の横を通り抜けて執務室のドアへ向かおうとする。
その瞬間、ドン、という音がした。
木曾が片手を横へと伸ばして壁につける形で提督の進路を塞いでいる。
「……どいてくれないか」
少々困ったような表情で提督は言うのだが、木曾に引く気など無い。
「断る。お前に言ってやりたい事があるんだ。それを言うまではどかねえ」
「…………」
真剣そのものの表情の木曾を邪険には出来ないと考えたのか、提督は一旦戻って電話機の受話器を再度取り、自身の出発が遅れる事を伝える。
「言いたい事ってのはなんだ?」
先程と同じく、静かに電話を切った提督が木曾に聞いてくる。
その直後、木曾は凄まじい形相と共にドカドカという足音を立てて提督に接近し、ガシリとその胸倉を掴んだ。訳が分からなそうな表情の提督をそのまま力任せに押していくと、とうとう彼の背中は少々大きめの衝突音と共に部屋の壁にぶつかってしまった。
流石に提督の表情が少々歪む。
ほら、痛えだろ、ザマアミロ。そう思いながら木曾は口を開く。
「奥さんに死なれたのが辛えのは分かるんだよお……」
そして木曾は提督の胸倉を掴んだまま叫んでいた。
「俺だってお前にいきなり死なれたりしたら引きずるだろうなあっ!! 何年もっ!! 何十年もっ!!」
提督は驚いたような表情で木曾を見つめている。
「だけどなあ! それをそばで見てなきゃいけない奴らの事も考えろよ! いつまでもウジウジウジウジウジウジウジウジしてやがって!! こっちだって辛えんだよ!! 死んだ女だぞ!? 生きててこれからも苦労しなきゃいけない奴らとは違うんだぞ!? そんな生きてる奴らをお前は引っ張らなきゃいけないんだぞ!?」
木曾が腕を揺さぶった為に、ガクガクと提督の首も揺れる。
「こいつをどうにかしてやりてえ、ちったあ楽にしてやりてえ。そんな周りの気持ちも無視しやがって……。助けてやりてえなんてこっちの気持ちになんかどうせ何の興味もねえんだろ!? 俺がどれだけお前の事を考えながら生きて来たのかも分かろうとしなかったじゃねえかっ!! それが出来ない位ならさっさと死んじまえよ、テメエなんかよおっ!! 奥さんが居るのはあの世なんだからなあ!!」
一気に言ったせいで息が荒くなってしまった。
「いい加減に、しろよっ……!」
震える声でそう言って木曾は提督から手を離す。静寂がその場を支配した。
「……車、待ってる」
俯いた木曾はゆっくりと後ろへ下がりながら言う。
「これで言いたい事は、言った。処分するなら、好きにしろ」
殴打した訳では無いが、上官に暴行を働いたと捉えられても文句は言えない。
「追って伝えるよ」
そう言いながら提督は彼女の横を通り過ぎて行った。
翌日、秘書艦のシフトを変更するという通知がなされ、リストが公示された。その中に木曾の名は無い。
遠ざけられた。木曾はそう感じた。
次の瞬間、木曾の心を支配したのは言いようの無い悲しさであった。鎮守府の屋内は閉塞感に満ちていたような気がして、ついふらふらと一人、外へ出る。海の見える所まで来て立ち止まり、自分に何が起きているのかを考えた。秘書艦として自分なりに提督の仕事の負荷だけでなく、心も軽くなるよう、力を尽くしてきたつもりだ。悲しいのはその事が伝わらなかったからだろうか。あるいはその努力を認めて貰えなかったからだろうか。
いや、そうでは無い。
「振られるって、キツイんだな……」
周囲に誰もいない状況下、木曾はそう独り言ちた。何故、秘書艦の仕事を積極的に引き受けていたかといえば、突き詰めれば提督のそばに居たかったからという所に帰結する。そこで妻の事で悲しんでいる提督を見て、何か自分が力になりたいと思ったというのが実際の所だ。そして出来れば妻ではなくて、自分を見て欲しかった。だが結局の所、提督の亡妻という最強のラスボスを切り崩すことなど到底不可能だった事を思い知らされた。
漠然とそんな事を考える木曾のその目はどこに焦点が合っているのか分からず、その目つきをあえて形容すれば、提督が愛する妻を思い出している時にしているそれに似ていた。
結局、その日の木曾はぼんやりとしたままいつまでもその場で立ち尽くしていた。
その日以来、木曾が秘書艦として提督の側に居る事は無くなった。直接会話を交わす事も無い。ただ、実質的にルーチンワーク化している演習と哨戒活動への参加が割り当てられる事がある程度である。
そんなある日、鎮守府の中を歩いていると、秘書艦を務めているある艦娘の話し声が聞こえて来た。それとなく何を言っているのか意識を集中させてみれば「何だか提督が塞ぎ込んでるような気がする」と言っているのが聞こえる。
(そんなのお互い様だ、バーカ!!)
そんな事を考えながらその場を通り過ぎた。
出来る限り沈んだ気持ちを表に出さないよう、気丈に振る舞っていたが、あまりにショックが大きかったせいだろうか、提督と衝突して暫く経ったある日、とうとう木曾は体調を崩し、数日ばかり寝込んでしまった。見舞いに来た艦娘の中には、木曾が体調を崩すなんて珍しいと言う者もいたが、当の木曾にしてみればこれだけ凹まされて元気でなんかいられるかと言いたかった。悶々としたままベッドの中で時間を過ごしていたが、これがただの療養で終わったかと言うとそうでも無い。ちょっとした発見と収穫があった。
もしかしたら、愛する妻と死別すると言う事は究極の失恋であるのかもしれない。ただの失恋であればまた顔を会わせる事も出来るであろうし、現に提督と木曾はそういう関係である。が、相手に死なれたらそれすらない。声を聞く事なんて出来るはずもない。姿を見る事も出来ない。火葬されて骨壷に入れられた骨が墓の下に埋まっているだけである。そんな別れ方をしてしまった提督のショックと比べれば木曾のそれは軽いものであろう。そんな軽いものでさえ十二分に苦しいからこそ、木曾はこうやって一人ベッドで寝込んでしまっているのである。
(何であいつは耐えられるんだよ……)
確かに、提督だって妻との思い出を引きずっているのは確かだ。だが、今になってようやく木曾は提督がその程度で済んでいるという事が大変な事である事に気付いたのである。本来なら職務に影響が出てもおかしく無いはずだ。実際、今の木曾は体を満足に動かせない状況である為に勤務に穴を開けてしまっている。ところが、提督は妻が死んだ瞬間に取り乱したり泣き崩れたりという事は無かったし、この三年間、艦隊の運営と指揮を滞りなく続けて来ているのである。
(あいつ、強かったんだな)
提督の事を女々しいと思っていた木曾は自分を恥じた。
体調が回復し、職務に復帰した直後、木曾は提督から呼び出しを受けた。提督が自分をどう思っていようと、どんな扱いを受けようと、自分は提督を支え続けると覚悟を決めた矢先の出来事であった。
執務室に入室して提督の姿を見た途端、木曾はおや、と思った。以前の暗さと虚ろさが消え失せていた代わりに、提督の雰囲気には穏やかさがあったからだ。
「体の調子はどうだ?」
提督が聞く。
「万全だ。だが、迷惑をかけてしまってすまなかった」
木曾は欠勤してしまった事を詫びる。
「なら良かったよ。で、いきなりで悪いんだが今後の事についてお前に伝えておこうと思ってな」
思わず木曾は心の中で身構えた。上官に掴みかかって怒鳴りつけるような厄介な部下を別の鎮守府に配置転換するとでも言うのではないかと、そんな可能性を思い浮かべてしまった。
「あれから色々考えたんだがな。やはり、秘書艦は原則お前中心のシフトを組む事にしたよ」
「……へ?」
思わず木曾からマヌケな声が出る。厄介だから自分を秘書艦のポストから外したのではなかったのか。
「本当に俺でいいのか? 俺はお前に嫌な思いをさせてたんだぞ?」
「そうかもしれん。だけどな、他の娘にだけしばらく秘書艦をやって貰って分かったんだよ。お前、俺が妻の事で苦しみ過ぎないように色々と気を回してくれてたんだよな」
提督のこの言葉を聞いた瞬間、木曾の心の中を熱いものがこみ上げた。
「お前がそうやってサポートしてくれたから、この三年間どうにかやってこれたのかもしれんな。だから、まずはそこに礼を言いたかった」
「遅えよ……気付くの……」
思わずそんな言葉が口を突いて出る。
木曾は執務室のドア付近に立ち尽くすのをやめ、急ぎ足で提督の元へ近づく。
「俺、ずっと頑張ってたんだよ……。昔の元気なお前に戻って欲しかったから……」
「ああ、気付いてやれなくてすまなかった。あと……」
提督は一瞬目を伏せた後、木曾の目を見ながら照れ臭そうに言う。
「ありがとうな」
その瞬間、木曾は自分の心の中で何かが氷解していくのを感じていた。涙が出そうになるのを何とか堪える。
そんな時、木曾はある事に気付いた。例のフォトフレームが提督のデスクの上から消えていたのである。その事を聞く。
「おい、奥さんの写真はどうしたんだ?」
「うん? ここにあるよ?」
そう言って提督がデスクの下の引き出しを開けると、あのフォトフレームがあった。
「もういいのか? そんな所にしまい込んじまって」
と木曾が言うと、
「たまに見るだけでいいよ」
と言って提督は引き出しをさっさと閉めてしまった。
「ふん」
と木曾は言っただけだ。恐らく、木曾が提督の亡妻に勝つ事は一生出来ないだろう。死者とは往々にして絶対的な存在になり得るものだからだ。だが、提督が木曾の気持ちをようやくにして理解した事で、ほんのわずかではあるがその可能性が生まれた。
(よしっ……!)
ここしばらく空虚そのものであった木曾の内面に不思議と気力がみなぎってきた。
提督の座っている椅子に更に近づき、以前と同じく提督の胸倉を掴む。だが、提督はその時とは異なり困惑した表情を浮かべるどころか、微笑を浮かべている。そしてその目にはかつて妻が生きていた頃と同じような活力が蘇っていた。
何だか無性に嬉しくなった木曾は言う。
「別に奥さんの事を忘れろとは言わねえ。だけど今後は俺の事を覚えて貰うぜ?」
「結構強引だねえ、お前さんは」
「これ位ならもうそろそろ良いだろ?」
そう言って木曾はふわりと覆い被さり、提督に口づけた。
暫くして二人の唇が離れた後、デスクの引き出しにしまわれたフォトフレームに向かって、木曾は心の中でこう宣言する。
(悪りいな、奥さん。コイツはしばらく俺が借りるぜ?)
そして、意地悪ながらこんな事も考えた。
まあ、永久に借りたままだとは思うがな、と。