気が付くと霧の中にいた。手の届く辺りまでしか見えないほどの濃い霧だ。
その時はちょうど山に登ってたから、天候が崩れてもおかしくはない。しかし記憶が確かなら、ついさっきまでは快晴だったのだ。いくら山の天気が変わりやすいと言っても、瞬きの間に濃霧になっているのは非現実的だった。
心細くなって仲間を呼んだ。はぐれた仲間の名前を何度叫んでも、虚しい山びこが返ってきただけだった。
異変は霧だけではなかった。持っていたはずの荷物が全て無くなっていたのである。背負っていたザックも、両手にあった登山用の杖も。全くの手ぶらで、霧の山中に孤立してしまったのだ。
狐につままれたか、神隠しにでも会ったか。
怯えながらも手探りで上を目指した。山で遭難したときは頂上を目指すのが得策だ。なんのことはない、山で人に会える可能性が一番高いのが頂上だからだ。無闇に下って人気のない裾野へ出たり、川に沿えば足を滑らせ溺れることもある。
崖のような岩の急斜面が行く手を阻んだ。登っていたのはまだ山の中腹辺りで、植生豊かだったはずなのに、いつの間にかペンペン草すら生えていない。
覚えのない場所になおさら恐怖し、死ぬのだけは嫌だと一生懸命に岩肌を登った。
そうやって暫くすると、どうにか頂上に辿り着いた。
頂上には誰もいなかった。相変わらずの霧で四方の様子は伺えない。
殺風景な頂上には一つの泉があった。下調べでは、登っていた山に泉なんて無かったはずだが、そこには鏡面のような水を張った、小さな泉があったのだ。
覗き込んで見ると、泉の水は驚くほどに透き通っていて、何処までも見通せそうなほどだった。しかしどれほどの深さがあるのか、底までは見えず、ただ暗いだけだ。まるで黄泉へ続く玄関がぽっかりと口を開けているようである。
どうも尋常ではない。
無論、十分に怪しんだ。しかし喉の乾きの方が深刻だった。水筒も無くしており、今にもミイラになってしまいそうだったのだ。
辛抱たまらず、両手で椀の形をつくって水に浸した、その時だった。
ふと視線を感じた。
真っ暗な水底で、何かがぼんやりと白く光っていた。よく注意すると、何者かが水の奥から此方を見ているのが分かった。そいつはまるで「水を飲むな」と言うように睨み付けていた。
黄金の瞳がこちらを見ている。恐ろしかったが、不思議と目を離すことが出来なかった。
泉の底に住まう何者かと見つめ合ううちに霧が一層濃くなって、ついには意識ごと、すっかり包まれてしまった。
全てが霧に消える最後まで、金の目はずっとこちらを見続けていた。
▼
故郷に帰るのは久しぶりだった。
上京してからというもの早七年、一度も帰省していなかったが、風景はそこまで変わっていない。侘しい辺境である。
里山と田園が広がる懐かしの田舎道を車で走りながら、俺は祖父の話をぼんやり思い出していた。
祖父は登山を趣味にしていた。
普段は無口な人だが、山の話になるとえらく饒舌になる。若いころ仲間とつるんでは色々な無茶をしたらしい。その分だけ武勇伝を蓄えているので、一度話し始めると易々とは止まらなかった。
そんな祖父が特に多く語っていたのが、霧の山についての話だった。
祖父には死にかけた経験がある。
学生の時分、友達と泊まりがけで山に登りに行ったところ、独りはぐれて遭難してしまったのだ。救助隊に見つかったときは脱水の症状がひどく、生死の境にいたらしい。
そうやって意識を失っている間、祖父が見ていた夢というのが、霧の山のことだった。険しい岩山で、草も苔も一つとして無かったという。祖父としては登っていた山が突然、まったく違う山に刷り変わっていたのだから大層驚いただろう。
その不思議さもさることながら、祖父は霧の山の頂上に湧いている泉について殊更強く語って聞かせた。
想像を絶するほど美しい泉。祖父は決まってそう説明してくれた。
澄んだ泉の底には得体の知れない何者かが潜んでいて、祖父を見ていたのだという。俺は幼少の時それが怖くて仕方なかったが、祖父が言うには恐ろしい化物などではないとのことだ。
「じいちゃんはな、あのとき喉が乾いてたんだ。でも、もしもあの泉の水を飲んでいたら、こっちに帰ってこられなかったろうな」
祖父は神でも崇めるように、畏敬の念を込めて語っていた。水に住む神なら龍神あたりが妥当なところだというのは祖父の妻、つまり俺の祖母の見解だ。
俺は物心がついた頃から、ずっとその話を聞かされて育った。父や母は同じ話を繰り返されてうんざりしていたが、俺は馬鹿だったので毎度真剣に聞いていた。いつもいつも「もう一度だけあの泉を見てみたい」と祖父は言って、俺も一度で良いから見てみたいと常々思っていたものだ。
そんな祖父も三年前に亡くなっている。
寝たきりというわけでもなかったのに、父が朝起こしにいくと、床の間で静かに息絶えていたらしい。
『らしい』と言うのは、つまり俺はその場に居なかったということだ。そして可愛がってもらったにも関わらず、葬式にすら出なかった。
言い訳をすれば、俺がその時勤めていた会社に忙殺されていたのだ。連日連夜働きづめで、飯を食うことすら億劫だった。ようやく休みをもらえて、放ったらかしていた私用の携帯電話を確認すれば、祖父の訃報のメールが何十通も届いていた。知ったときには後の祭りである。
気まずくて四十九日すら顔を出せず終いであった。親戚一同はひどく憤慨し、俺を不孝者よばわりしていたという。
だから父や母の危篤でもない限りは、故郷に帰ってくることはないと思っていた。
しかしこの度、帰らざるを得なくなった。未だに両親は元気であり、盆や正月の時分でもない。まったくもって俺の都合で、帰省を余儀なくされたのだ。
水田には色の変わり始めた稲穂が首を垂れている。低い山々の景色も相変わらずで、見ていて楽しいものでもない。土手沿いの道で、下校中の小学生たちとすれ違う。
しばらくすると俺の実家が見えてきた。七年ぶりに見る実家も大した変わりはないようだ。
陰鬱な思いが強まった気がした。
俺は何もかもにうんざりしながら、車をノロノロと走らせた。
▼
呼び鈴を鳴らすと母が出てきた。記憶にある顔よりシワが幾分か増えた母はにこやかに笑って「おかえりなさい」と言った。
俺は「ああ」とだけ返した。喉の奥がつっかえて『ただいま』とは言えなかった。
「遅かったわね。昼御飯食べたの?」
「まだ」
「それじゃあ、おにぎりあるから、それ食べなさい」
俺は半ば無視するような形で、無愛想に家に上がった。
今回帰省したのは、行く当てがなくなったからだった。きっかけは俺が勤めていた会社が倒産したことにある。
誰にでも出来る仕事を、機械みたいに処理していく。俺の毎日はそのことだけに費やされていた。来る日も来る日も残業をする。上司に怒鳴られながら、客に文句を言われながら。
そして生活のほとんどを占めていた職務がなくなると、俺は何も出来なくなった。燃え尽きた炭のようになった俺は、同僚の勧めで病院に行った結果、鬱だと診断された。程度は軽いらしいが、新たに働くことはおろか日常生活もままならない有り様だった。
ただただ生きる。何の希望もない日々を、息と排泄をするだけで死んだように漠然と生きた。
そうしてとうとう家賃を払えなくなったので、借りていたアパートの部屋を引き払い、帰りたくもない地元に戻ってきた次第である。
母も父も、俺を温かく迎えてくれた。「しばらく心を休めなさい」と言ってくれた。
その優しさがむしろ苦痛であった。
金もない。社会的な地位も信用もない。友人はおろか知人すら指で数え上げられるほどしかいない。それどころか、世話になった祖父の葬式にさえ出ないような男だ。人間として最底辺の俺が、誰かに優しくされる謂われなど無いのである。本当は両親も、俺のことを腹のなかで嘲っているか疎ましく思っているに違いない。
これを被害妄想と呼ぶことは分かっている。
正直なところ、そう考えなければ俺は自分の誇りを保てなかった。人の腹黒さを想像すれば、少しは自分がマシな人間になったように錯覚できる。
それでいて、人の優しさにケチを付けている自分が嫌になるときもしばしばあった。誰かを否定して、それが巡って己のことも否定して、俺は何をしたいのだろうか。なんだって俺は生きてるんだろうか。そんな考えばかりが堂々巡りしている。
虚しさは和らぐどころか、日増しに悪化している気がした。考えるのは暗く退廃的なことばかりで、何一つ楽しいことなど無い。親と共に夕食を囲むことさえ辛かった。
一番こたえたのは、旧来の友人から連絡がきた時だった。俺は帰ることを両親以外に話してはいなかったが、田舎の噂は山火事より早く広まるものだ。
友人は電話越しに「なんで帰ってるって教えてくれなかったんだよ」と軽い口調で言ってきた。友人の声は昔と比べて些か大人びて、自信に溢れているような気がした。俺の事情も多少知っているのか、励ますような口ぶりだった。俺は「すまん」とだけ言った。
友人は色々なことを話した。仲の良かった他の友達が海外に行っていることだったり、不良だった奴が今は実家の畑を継いでいることだったり。
その中でもとりわけ、結婚の話は衝撃的だった。俺が中学の頃ずっと好きだった女子が、一年前に結婚したらしい。友人曰く、俺にも結婚式の招待状を送ったとのことだが、とんと記憶にない。またぞろ祖父の葬式と同じように、日々の忙しさに埋もれて見つけられなかったのだ。
それ以上電話を続けるのが辛くて、俺はやや一方的に受話器を置いた。「近いうちに飲みに行こうぜ」などと言われて生返事をしたが、本当に行くことはないだろう。
ただただショックだった。
誰も彼もが成長し、それぞれの道を歩んでいることを痛感した。俺一人だけが置き去りにされたような虚しさが胸にこびりついている。
辛くて、苦しくて、そのくせ涙の一つも出やしない自分が気持ち悪かった。
「なあ、じいちゃん。俺生きてていいのかな」
祖父の仏壇の前に腰を下ろして、俺は呟いた。
死ぬ間際、祖父は俺の名前を呼んでいたと言う。俺に会いたがっていたらしい。なのに俺は祖父が弱っていることすら知らずにいたのだ。もはや見殺しにしたと言ってもいい。
祖父は俺を恨んでいるだろうか。死に目にも現れぬひどい孫だと思っていたのか。写真のなかで朗らかに笑っている祖父は、何も教えてくれない。
俺は頭を掻きむしった。空っぽの頭から脳みそを取り除いてしまいたくなった。
「死にたい」
何気なく呟いた言葉は、自分でも意外なほど現実味を帯びていた。
もしも俺の目の前に、祖父が見たものと同じ霧の山の泉があったなら、俺はその水を飲むだろう。
黄泉の水を飲むのだろう。
▼
実家に帰ってから一週間が経った。
俺はもう限界だった。
これ以上、死んだように生きることに耐えられない。常に親の機嫌をうかがい、小動物のように身を縮め息を潜めている。次第に目も合わせられなくなり、親が俺を邪魔者のように見ている気がして疑心暗鬼に陥った。
そんな毎日が俺を壊したのだ。
生きる意味がなくなったら必然、やるべきことは一つだ。死ねば良い。
会社が倒産する前から、自殺の選択肢は思い浮かんでいた。恐怖と執着で踏み止まっていたその一線を、越えることにしたまでだ。
親には、軽くドライブに行ってくると告げて家を出た。
母は俺が自主的に外に出ることを喜んだ。その笑顔に胸が締め付けられるような思いだった。机に置いてきた遺書を呼んだら、いったいどんな顔をするのだろう。こんなに親不孝な事はない。しかしそうせずにはいられないのだ。
家の物置にあった荒縄や鎌を持ち出し、俺は車に乗り込んだ。外に出ると暑い日差しが照り付けてくる。雲一つない空は子供の頃なら清々しく感じたはずだが、今から俺がしようとしているとこが場違いなように思えて少し不快ですらあった。
過疎化が進む田舎には手入れもろくにされていない山がいくつもある。我が家も先祖から継いでいる小さな山を持っていたはずだ。折角ならその山のてっぺんで、誰にも知られずひっそり死のうと考えた。
そうすれば俺のような下らない人間でも、少しは天国に近付ける気がする。もちろん、天国に行けるはずもないけれど。
しばらく車を走らせていると山中のトンネルに入った。子供の頃から知っている、この辺りでは少し長めのトンネルだ。家族で山菜採りに行くとき、いつもこのトンネルを走った。父としりとりをしたり、母が作ってくれた弁当をつまみ食いした記憶を、はっきり思い出せる。
しかし今、車に乗っているのは俺一人だ。一人で自殺をしに行く俺がいるだけだ。それを意識すると、素敵な思い出さえも色褪せていくようで辛かった。
ふとバックミラーを覗く。そこに映っている俺の目は死んだように濁っていた。
一分か、五分か。けっこうな時間トンネルが続く。
俺は怪訝に思った。こんなに長かっただろうか。記憶の限りでは三十秒もかからなかったはずだ。
車の速度計を見ても、法廷速度をやや上回るくらいで走っている。俺が遅いわけではない。それなのにトンネルを抜けるどころか、まだ出口すら見えてこない。
なんだかやけに冷えてきたので、全開にしていた窓を閉める。夜になろうがまだ寒さを感じる季節でもないのに、気味の悪いことだ。
これではまるで神隠しである。
俺は怖くなったが、引き返すことも出来ないのでアクセルペダルをさらに踏み込み、早く出ようとした。
それからどれくらい走ったか、ようやく白んだ出口の光が見えてきた。
俺はホッと息を吐いた。そのあとで「これから死ぬのに、何を安心しているんだか」と一人恥ずかしくなった。
しかし人心地つけたのも束の間であった。トンネルから出て、俺は絶句した。
出た先は、濃い霧の中だったのだ。
▼
ダートの一本道を走っている。正確には濃霧に阻まれて一本道かどうかは判らない。両側にうっすらと森が見えるので、そう思った次第だ。
俺はいよいよ自分の頭が狂ったのかと思った。
なにせ、こんな場所は知らない。
俺がさっきまで通っていたトンネルの先は、間違ってもダート道などでは無かった。整備された崖であるはずの右手側が、鬱蒼とした森になっているのも甚だおかしい。
思い当たるのは祖父の話だ。祖父が死の淵をさ迷って訪れた霧の山の話。今の俺は、それとまったく同じ状況にいるようだった。
あまりに霧が濃いので車のライトでも頼りなく、ゆっくり進んで行くと、道の脇に赤のカラーコーンが置いてあった。人工物を見つけて、ほんの少し安心する。
赤コーンには何やら張り紙があり、車を止めて見てみると『此処より先は徒歩にてよろしく願い候』と書かれていた。ずいぶん古風な言い回しだ。紙も和紙であり雰囲気が出ている。その分だけ、カラーコーンの場違い感が目立っていた。
前方によく注意すると、どうやら上り坂になり始めていて、道もさらに荒くなっているようだ。確かにこれじゃあ車は通れない。
俺は荒縄と草刈り鎌を入れた鞄を持って運転席から降りた。外の空気は依然として霧のために冷たい。ジャンパーでも持ってくれば良かったか。
そんなことを考える余裕はある。自分でも意外だが、俺は割りと落ち着いていた。異常事態に脳が麻痺しているのか、それともこれから死ぬのだから何が起きても関係ないと思っているのかは判然としない。しかし、祖父も昔に訪れた所だと思えば、怖さも薄れた。
俺は緩やかな岩の坂を登った。
少し登るだけでも息が切れる。自分の体力の無さが恨めしい。もともと運動は出来ない方だったが、社会人になってからさらに体力が落ちていたようだ。今までが忙し過ぎて、そんなことにすら気付けなかった。
休み休み、膝に手を置いて呼吸を整える。まったく、死ぬだけだっていうのに、なんでこんな苦しい思いをしているんだろう。自分の置かれている状況のチグハグさに、自嘲的な笑いが漏れる。
そうして少し歩くと霧のなかに何やら影が見てきた。それは大きく、どうやら建物のようである。
近付いてみれば、小さな神社があった。石畳の参道があり、鳥居の向こうに手水舎と社がぽつねんと建っている。社の前には、参道を挟んで二体の石像がある。よく見ると阿吽の狛犬ではなく、とぐろを巻いた龍の像である。
こんな人気のない霧の世界に神社とは、いよいよもって怪しいもんだ。俺は本当に三途の川と同じような場所にいるのかもしれない。
ふと、祖父が言っていた例の泉もあるのではないかと考えた。もしそうなら、俺も見てみたいものだ。そしてその水を飲んでみたい。そうしたら縄なんか使うより楽に死ねそうだ。
とりあえず、喉が乾いていた俺は手水舎に向かった。
参道には枯れ葉の一枚すら落ちておらず、手水舎や社にも苔など無く、ずいぶん綺麗に保たれている。誰かが頻繁に手入れをしなければ、こうはならないだろう。こんな所の管理をしているのが誰かなどは、想像もつかないが。
岩に水をたたえた手水舎に、水の入り口は見えない。どこからこの水は来ているのだろうか。そもそも、飲んでいい水なのか。
疑問もそこそこに、俺は立て掛けてあった柄杓を手に取り、水を汲んだ。無色透明で、澄みきった水である。
たとえ、これを飲んで死ぬのだとしても、先の無い俺には関係ない話だ。
「こんにちは」
そう思って柄杓を口に近づけた時、後ろから声がかかった。びっくりして柄杓を落とし、ズボンに水がかかる。
慌てて振り向くと、社の方に一人の女性が立っていた。
「あら、ごめんなさい。驚かせてしまいましたね」
女性は俺の濡れた下半身を見て言った。俺は恥ずかしくなり、とっさに手で前を隠した。端から見れば、そっちの方が恥ずかしく情けない格好だっただろう。
「あの、あなたは」
俺は言いかけて、どう質問したものかと迷った。
女性は和物の服を着ていた。巫女装束とでも言うのだろうか、白の上着に赤い袴を着て、長い黒髪を後ろで一つに結んでいる。滲み出ている雰囲気がアルバイトなどではなく本職のそれである。
そして何より美人だった。目鼻立ちが整い過ぎていて、どうも同じ人間とは思えない。やんわりと浮かべている微笑には引き込まれるような魅力がある。俺は未だに異性と懇ろな仲になったこともないので、巫女姿の女性と目を合わせることすら、どうも気恥ずかしかった。
俺はもじもじと言葉に詰まり、女性の素性とは関係ないことを言った。
「この水って飲んでもいいですか」
「どうぞご自由に」
女性は微笑んだまま答えた。
『飲んでも死なないのか』という意味で聞いたのだが、伝わっているかは怪しい。今まさに自殺しようとしている俺が安全を気にするのも、おかしな話ではあるが。
改めて柄杓で水を汲む。
これがもしも、祖父が見た泉と同じ水だとしたら。そう思うと、僅かに震える。死ぬ恐怖を感じながらも、何故かワクワクしている自分がいる。
俺は意を決して、口に含んだ。
冷たく、大変美味しい水だった。乾いた喉に染み込み、するりと胃に落ちる。後口はひたすらに爽やかであり、五臓六腑にまで活力が行き渡るようだった。これまで飲んできた飲み物のなかで一番うまいかもしれない。
満足感で胸が一杯になって「ぷはっ」と息継ぎをすると、女性は口元を押さえて上品に笑っていた。
「美味しそうに飲まれますねぇ」
「ええ、本当にうまいですよ、これ。湧き水ですか」
うまい水は湧き水という、いかにもな素人考えで言うと、女性はこくりと頷いた。
「はい。この山から湧き出ている霊水です」
「山……」
女性が首を向けた方を見てみる。霧があるばかりで何も分からないが、どうやらそちらに山が聳えているらしい。
「岩山ですか」
俺は言った。
「おや、分かるのですか」
少し驚いた様子の女性に「見えはしませんけど」と俺が答える。
祖父の話をしようか考えた。荒唐無稽な話であり、俺から他人に語ることは無かったが、今ここでならむしろ話した方が良いように思う。
「あの、実は──」
俺が言いかけた瞬間、女性の後ろから、子供がひょっこりと顔を覗かせた。「あらまあ」と女性。
背丈から見て、十歳ほどの女の子だった。
少女は女性の後ろにひっついて隠れながら、俺のことをじっと見ている。変わった雰囲気の子だ。髪は黒いが、つぶらな金色の瞳をしている。白い和服を着てはいるけれど日本人ではないのかもしれない。
「珍しいじゃないの。あなたが人前に出るなんて」
巫女服の女性が少女に笑って言う。少女はうんともすんとも言わず、ただ俺を見つめるばかりだ。
「ごめんなさいね。この子、人見知りなものでして」
「ああ、いえ、気にしてませんよ」
コロコロと笑う巫女に、俺は心にもない返事をした。正直なところ、全てが気になりすぎて思考がパンクしている。
巫女と少女は親子のようにも見えるし、姉妹のようにも、はたまた全くの他人にも見える。何と言われても納得してしまいそうな、不思議な雰囲気がある二人だ。
「その子も巫女さんなんですか」
「いいえ、この子は違います。巫女は私だけですよ」
巫女は相変わらず朗らかに言った。
「神に仕えて寄り添い、そして守るのが、私の仕事です」
巫女が少女の頭を撫でる。少女はくすぐったそうに目を細めつつも、まだ俺から視線は逸らさなかった。
もう一つ何か質問しようかと思っていた俺より先に、今度は巫女が聞いてきた。
「それで、ここへはどんな御用で参られたのですか」
俺は自殺のことを思い出し、固唾を飲んだ。
正直に言うには、少し厳しい。俺の情けない身の上話をして、同情されでもしたらと思うと、さらに死にたい気分になる。
言葉を選びながら、俺はたどたどしく答えた。
「えっとですね。あの山に、登ろうかと思いまして」
霧の向こうにあるであろう岩山を指さす。死ぬなら山頂で、とは元より決めていたのだ。そこでさらに霧の世界に迷い込んだのだから、どうでもいい場所で死ぬのは尚更惜しかった。
しかしそれを言ったあとで、俺は「しまった」と思った。
巫女は神を守っていると言っていた。そして考えるまでもなく、山と聖域は切っても切れぬ縁がある。このアルバイトでもない巫女が、俺のような部外者を通してくれる道理は無い。
結局、祖父のように頂上の泉は見られないのかと落ち込む。
しかし巫女はおっとり頷いた。
「そうですか。お気を付けて」
あまりにあっさりとしているので、拍子抜けしてしまう。大切な場所だろうに、こうもすんなり許可していいものなのか。
「いいんですか」
不信感を拭えずに聞くと、巫女は「ええ」と再び首を縦に振った。なぜか後ろの少女も、一緒になってうんうん頷いている。
「私がどうこう口を出すものではありませんから。あなたがここへ来たということは、すでに神に招かれたということです。大手を振ってお登りくださいな」
巫女の言っていることは要領を得ず、よく分からない。まあ、山に登ったところで何も咎められないことは分かったが。
「そうですか。じゃあ」
このままうだうだとしていても仕方がない。俺は別れを告げて、山の方に向いた。
すると、俺が歩き出したところで巫女が「ああ、そうそう」と手を打った。
「忘れていました。一つ、頼まれ事を聞いてもらえませんか」
「はあ、なんでしょう」
俺が気の抜けた返事をすると、巫女は「少し待っていて下さいね」と言って社の方に小走りで行ってしまう。その後に続いて、少女も社に入っていった。
そうして、数分ほどで戻ってきた巫女は、俺にある物を渡してきた
「あなたはこれを持って行ってください」
それは団子だった。真っ白な三つの団子である。
何故かそれがZIPロックに入っている。なんだってこんな俗世的な袋に入れるんだろう。便利だけどさ。
この分だと俺が車を停めたところのカラーコーンも巫女が置いたに違いない。
「山の頂上には泉がありますからね。そこにこの団子を放り投げてくださいな」
お供え物だろうか。とすると、泉のなかに棲んでいるのは祖母も言っていたように本当の神様なのかもしれない。
俺が了承して団子を鞄にしまうと「ああ、袋は投げないようお願いします。また使うので返してくださいよ」と巫女が付け足した。
俺のことを何だと思っているのだろう。いや、それ以前に巫女さんがZIPロックを使い回すのは絶望的に似合わない。
口から出かけたツッコミを飲み込んで、鞄を背負い直す。今度こそ出発だ。俺は山を目指して歩き始めた。
少しして振り向くと、巫女が手を振って見送ってくれていた。少女は相変わらずの無表情で俺を見つめている。と思ったら小さくピースしていた。なんなんだ、そりゃ。
妙なところで似ている二人だ。ひょっとすると本当に親子なのかもしれない。
そんなことを考えながら山に入る。もう一度振り向くと、神社も少女たちも霧に消え、岩以外は見えなくなっていた。
▼
呼吸が乱れている。汗で張り付いた服が気持ち悪い。
俺は山登りに後悔し始めていた。
岩山は予想よりずっと険しかった。最初はまだ傾斜が緩く、階段を上るくらいには簡単だった。それが暫くすると急勾配になり、手を使う必要もしばしば出てきた。衰えた体に、この全身運動は厳しいものがある。
また、精神的な負担も大きかった。霧に視界が遮られ、上も下も先が見えない。自分がどこまで進んだか分からないというのは、けっこう堪えるものだ。疲れも相まり、登っているのか降りているのかすら怪しくなる。
俺は、頂上までたどり着けるのだろうか。
祖父に聞いていた通り、何もない山というのがさらに心を萎えさせる。
草木が無ければ、小動物の影も無い。山なのに生き物の気配がまるで感じられないのは少々気味が悪い。麓に茂っていた森はなんだったのか。
ただ岩があるばかりで、水が湧いていることさえ不思議である。俺が神社で飲んだ水は幻だったように思えてくる。あんなに美味しい水が、この山から出ているとはにわかに信じがたい。
面妖だ。やはり現世ではないのだろう。
勾配がさらにキツくなる。これはもう崖と呼んでもいいのではないか。それでも俺は、体を腕で引き上げ、足で持ち上げ、なんとか登っていく。
ろくに運動もできない俺がここまで岩壁にくらいつけるのは、ひとえに祖父のおかげである。
祖父の山好きは相当で、山菜採りにいった際には俺に実践で色々と教えてくれた。重心の使い方だとか、どうすれば疲れにくく登れるかなど、熱心に語っていた。
意外なものだ。かなり昔のことなのに、俺の体は未だにその教えを覚えている。
少しずつ、少しずつ。無理をしないよう登っていく。
それでもやはり体力の底が尽きかけている。今はどれほどの高度にいるのか、休憩してもなかなか荒れた息は治まらない。
俺はふと、自分を馬鹿らしく思った。
全くもって馬鹿げている。死ににきたくせに、辛い現実から逃げにきたくせに、何故自ら進んでこんな辛い思いをしているのか。祖父か語った泉を見たいのか。幻とはいえ、所詮は泉だ。そのためにする苦労じゃない。
俺は死のうとしている。そして死ぬために、今は必死に生きて山を登っている。
「とんだ間抜けだな」
自分を鼻で笑う。
疲れ果て、項垂れて下を見た。無論、霧が漂っているだけで、何があるわけでもない。しかしもう随分と登ったはずだ。
もしも、このまま体勢を崩して落ちたなら間違いなく死ねるだろう。打ち所によっては痛みを感じることもなく逝ける。
楽になりたい。
脳裏によぎった言葉を打ち消すように、頭を振るう。せっかくここまで来たんだ。どうせなら、あつらえ向きの場所で死にたい。
そう思い直して、また一段、岩をよじ登った。下界から逃げるように。上へ導かれるように。
無音のなかにいると、とりとめもないことばかり考えてしまう。祖父のことだったり、生き死にの問答だったり。考えたくもないのに俺の頭はたくさんの小景を映し出す。
まるで走馬灯だ。
今までの俺の半生が、何の気なしに思い出される。
幼稚園、好きな女の子がいた。顔は思い出せないが、親にその子のことをしきりに話していた。マセていたな。
小学生の頃は友達とよく外で遊んだ。野山を探検したり、ザリガニを釣ったり毎日が忙しかった。意味もなく泥だらけになっては、母に叱られたものだ。
勉強はずっと嫌いだった。中学生になっても成績は奮わず、部活にも入っておらず、何一つ打ち込んだことは無い。この頃には外で遊ぶにも飽きていて、もっぱら家に籠ってテレビゲームばかりしていた。うちの親は「ちょっとは外に出て遊びなさい」と言ってきた。当時はうっとうしい限りだったが、今思い返すと妙に可笑しい。そこは普通『勉強しなさい』ではないのか。きっとあれは一人息子に対する両親の優しさに違いないが、そんなことが分かったところで今更どうにもならない。
高校ではバンド活動を始めてみた。父が趣味で持っていたギターをくれたのだ。楽しかったはずだけど、すぐに解散してしまった。他のメンバーに彼女ができたり、あるいは受験勉強に専念したりして次第に皆、それぞれの道に別れて行った。
きっと、それが前に進むということだったのだ。俺はと言えば、汗水を垂らして頑張る人たちを内心で見下し、斜に構えて何もせずにいた。メンバーを引き留めることすらしなかった。
そして推薦で難のない大学へ進学し、遊び呆けて、また適当に選んだ会社に就職した。卒業の際の論文は、徹頭徹尾インターネットの学術記事から写したものだった。それで通ってしまうような大学だったのだ。
そのツケが回ってきたのだろう。超が付くほどの悪環境、いわゆるブラック企業で給与のでない残業の毎日だ。
おかげで精神は磨り減り、この様である。その上倒産なんてするものだから、帰りたくもない故郷に帰ってくるはめになった。それが一週間前のことだ。
何とも味気ない人生である。
俺は能動的に動いたことのない人間だった。流され楽をして生きていくことはできても、楽になるために努力することはできない人間だ。それを今さらになって自覚した。
憎らしい。自分が憎らしい。親が憎らしい。友も他人も、世界の全部が憎たらしい。
なぜ俺だけがこんな思いをしなくちゃならないんだ。
「はあっ、はあっ」
岩を掴む。疲労して棒のような足で体を押し上げる。
俺はいつの間にか泣いていた。
バカだ、俺はバカだ。何が誰かのせいだ。俺だからこんなことになったんだろうが。誰の人生でもない、俺の人生だ。諦めて、逃げて、塞ぎ込んで、無様に生きた結果が今の俺だ。過去を積み重ねて今があるのだ。何もしなかったから、こんな今があるんだろうが。
俺は悔し涙を流した。泣きながら、それでも山を登った。
▼
どれほど登っただろう。俺はようやく、水平の地面に立てた。霧のせいで見通しは悪いが、どうやら頂上に着いたようだった。
その証拠に、泉がある。山頂を中心にしてぽっかりと水をたたえた穴が空いていた。
「本当だったんだ……」
俺はへたり込み、感極まって呟いた。
祖父の話は正真正銘、本当だったのだ。霧の山とその頂上に湧き出る泉は実在したのだ。
「は、ははは」
何でだろう、笑えてくる。自然と口角が上がる。最近よくしていた皮肉な笑い方じゃない。
まさか登り切れるとは思っていなかった。体力もなく、根性もなく、自ら死のうとしていた俺なんかが険しい山を踏破できるだなんて、本気では思ってもみなかった。
これが達成感というやつなのか。三十路にもなって初めて感じた気がする。つくづく自分を情けなく思うが、悪くない気分だった。
疲れがとれてきたので腰を上げ、泉に近寄ってみる。
綺麗な円形になっており、直径は四、五メートルほどだ。まるでコンパスで描いたようである。自然にこんなにも滑らかな形のものが出来るのだろうか。いや、この不思議な世界ではあり得ないことでもないのか。
水面はさざ波一つなく、鏡のように静かだ。その水自体は手水舎で飲んだものと同じか、それ以上に無色透明である。
恐る恐る、身を乗り出して覗き込む。祖父の話に従えば、この泉には神聖な何者かが棲んでいるはずだ。
しかし何も見えない。底無しの闇がわだかまっていて、どれだけ目を凝らしても泉の奥は暗いばかりである。
飲むどころじゃない。この中に落ちれば、俺は一体、どうなるのだろう。
「あ、いけない、いけない」
引きずり込まれるように見魅っていたが、ふと巫女からもらった団子のことを思い出した。
鞄を開けると、縄の上にZIPロックの袋がちゃんと入っていた。団子は三つとも無事で潰れたりしていない。
ZIPロックのチャックを開けると同時に、緊張が少し解けてしまう。やっぱり場違いというか、雰囲気に沿ぐわないな。
取り出して試しに臭いを嗅いでみたが、なんてことはない、米の香りが仄かにするだけだった。何の変哲もない団子にしか見えない。素人には分からないおまじないでも掛けてあるのだろうか。
興味もそこそこに、俺は団子を全て泉に放り投げた。ポチャリポチャリと水音を立てて、団子が沈んでいく。
この神秘的な泉に無作法なことをしても良いのか疑問だったが、巫女がそうしろと言ったのだから大丈夫だろう。ZIPロックを返せないことは、少し申し訳なく思うが。
さて、やるべきことは終えた。あとは死ぬだけだ。
やはり木は見当たらない。縄は要らなかったなと思う。ここで出来ることと言えば身を投げるか、鎌で手首を掻き切るか、それとも泉で溺れ死ぬか。思い付く方法はそのくらいである。
もっとも、俺の推察通り、泉の水を飲んであの世に逝けるならそれが一番手っ取り早い。痛くも苦しくもなさそうだし、出来ることならそれが良い。
憑き物が落ちたようである。これから死ぬというのに、俺は妙に清々しい気分だった。山を登りきった達成感からか、散々泣いて後悔を吐き出したからか。このままの気持ちであの世に逝けるなら悪くはないのかな。
最期がここで良かった。そう思いながら泉の水を飲もうと、再び腰を下ろす。
その時、光を見た。
「あれ?」
視界の片隅にぼんやり光るものがある。目を向けると、何があるのか霧の向こうが白く光っていた。山向こうで誰かがライトでも照らしているのか。
しかしその考えはすぐに違うと分かった。
俺が今いるのは山頂である。つまりはここいらで一番高い場所のはずだ。そして光っているのは、ずいぶん上の方。俺は斜め上を仰いで固まっている。
そこには何もないはずだ。虚空のはずだ。
ならば、あの光は何なのか。
答えなど分からず呆然としていると、光がだんだんと強くなっていく。いや、正確には近付いて来ている。光を発する何かがこちらに向かってきているのだ。
目を凝らすと、霧の奥に糸のようなものが漂っているように見える。細長いそれは蛇が体をくねらせているようでもある。
そして、だんだんと、その姿が大きく鮮明になってゆく。
「嘘だろ」
ついに俺は霧から現れたその正体を見た。信じられず、口から自然と呟きが漏れる。
それは龍だった。
日本昔話に出てくるような姿の、白い龍だ。長い髭をたなびかせ、発光する鱗で包まれた全体をゆったり泳がせながら、龍がこっちにやって来ているのだ。
「ひ、ひいっ」
俺は腰が抜けて、尻餅を着いた。
遠くでは距離感が掴めなかったが、龍は凄まじい速さで飛んでいるようである。どんどん加速するように俺の方へ向かっている。
動けない。金縛りにあったように、俺は指の先をぴくりとすら動かせないでいる。後退りしようにも足も棒切れになったみたいに役立たずだ。
やがて龍が山のすぐ側まで来た。ぐるりと宙で翻り、とぐろを巻いたかと思うとまた俺に向かって飛んでくる。
龍が俺の目の前を横切る。頭だけでも俺よりずっと大きい。深いシワが刻まれた顔は厳めしくも神聖である。
その一瞬、龍と目が合った。
見た目ほどの獰猛さなど無い、金色の叡知をたたえた瞳だった。
龍は俺の前を通りすぎると、今度は天へ上って行く。どんどんどんどん高度を上げ、すると一転して急降下してきた。
ぶつかる。そう思いながらも、俺はまだ動けない。
実際に龍はぶつかって来ず、また俺の目の前を通った。そして、下りて行く先には泉がある。巻き上げられる水を予測して、俺はとっさに腕で頭を庇った。
しかし大迫力の様とは裏腹に、飛沫どころか音すら立てず、龍はするすると泉に入って行く。鯨くらいありそうな巨体が、わけもなく小さな泉にすんなりと消えてしまったのだ。
「……なんだったんだ」
常識を遥かに超えた存在と現象。俺はしばらく何も考えられなかった。
ようやく俺が心状態から抜け出したところで、今度は泉が光り始めた。それは龍のように淡く白い光で、その中に泉の色なのか青が混じっている、幻想的な色合いだった。
泉の輝きは次第に強くなっていき、すぐに眩しいほどになる。
「な、なんだよ、今度は」
理解が追い付かずにそんなことを口にするが、泉はなおも光を発するだけである。
そして次の瞬間、一際強く、太陽のように光った。光は辺りを照らしながら放射状に突き抜けていく。
それと同時に、霧が晴れ始めた。あれだけ濃かった霧が蜘蛛の子を散らす勢いで消え去っていく様は圧巻で、みるみるうちに視界が広がる。
俺は、半ば無意識に立ち上がっていた。感動に息が詰まり声すら出ない。
霧が晴れた先には絶景あった。
東西南北の全てに遮るものが無い、大パノラマだ。地平線や水平線が山頂を中心にぐるりと円を描き、どこまでも見渡せるようである。緑の草原や赤茶けた平原も、白く雪を被った連峰も、穏やかに凪ぐ海も。全てが遠くにあるばすなのにくっきりと見て取れる。
すぐ側にあるのは俺の地元だろうか。一つの町が豆粒よりも小さく見えるほどの高度。
見上げると空が近い。快晴の青空に手が届いてしまいそうな気さえする。泉と対になっているように青く澄んだ空が途切れることなく、遥か彼方まで続いている。
どこまでも、どこまでも青空が続いている。
こんなところまで一人で登ってきたなんて、信じ難いことだ。しかし事実として、俺は岩山の巓に立っていた。二本の足でしっかりと、生きて立っている。
流し切ったと思っていた涙が、また零れた。
世界とは、こんなに広かったんだ。こんなにも美しかったんだ。
俺は大笑した。気持ちが良くて、心のままに声の限り笑った。山びこは返ってこなかったが、その代わりに俺の声がどこまでも響き渡っているようだった。
ひとしきり笑った俺は泉を見た。ぞっとするほど綺麗な泉は太陽の光を反射して煌めいている。飲んだらさぞ美味かろうと思わせる水だ。
けれど、もうその水を飲みたいとは思わなかった。あれだけ惹かれていたのに、そんな気はさっぱり霧散していた。自殺なんて馬鹿馬鹿しいとしか思えない。
世界は広かった。たった数十年生きたくらいじゃ想像もつかないほど雄大で素晴らしかった。その一端でも知った今では、死にたいなんてこれっぽっちも考えられなかった。次々とやりたいこと、やらなきゃいけないことが頭に浮かぶ。それが心を踊らせて仕方ない。
俺は泉に向かって丁寧にお辞儀をしてから背を向けた。きっともう二度と来ることはないだろうから。
帰ろう。生きる目的が、山ほど出来てしまった。
▼
岩山を降りるのは、登るよりずっと簡単だった。来る時は一日中登っていたような気がしたのに、下るのは十分もかからなかったと思う。
同じ山なのかと思うほど道は穏やかで、危なげなくひょいひょいと降りていれば、すぐにあの神社が見えてきた。
俺が麓に着く頃に再び霧が現れ始めた。いや、戻ってきたと言う方が正確か。
だんだんと濃くなる霧をもう不気味にも思わず、俺は神社に向かった。
「あれ」
すっとんきょうな声が俺の口から漏れる。
神社の前には、巫女が佇んでいた。俺に向かって柔らかく微笑み、小さく手を振っている。
まさか俺を待っていてくれたのだろうか。嬉しいやら恥ずかしいやらで、赤面してしまう。「待っていたんですか」と率直に聞きたくもあったが、それは無粋な気がして胸の内に留めるだけにした。
「あの、これお返しします」
「はい。確かに」
俺が空になったZIPロックを取り出し、巫女がそれを恭しく受け取る。彼女の落ち着いている様子は、山頂で何があったか全て知っているように見える。
まあ、それも不思議ではない。彼女がくれた団子が龍を引き寄せてくれたのだろうから。
「ありがとうございました」
俺は感謝の念でいっぱいになってそう言った。こんなに純粋に、気持ちを込めて「ありがとう」と言ったのはいつ以来だろう。
巫女が「いえいえ」と笑う。
その後ろから、少女がまた顔を出した。行きと同じように、つぶらな瞳で俺を見つめる。
俺も見つめ返すと、少女はにこりと笑った。無表情な子だと思っていたから、これには驚いた。子どもらしい無邪気な笑顔がなんとも可愛らしい。
「見えた?」
少女は一言だけ、俺に言った。
脈絡も何もない言葉だったが、意味はしっかりと伝わった。きっとこの子も山頂と龍のことを知っているのだ。
「ああ、すごいもんだな」
今しがた降りてきた山頂を振り返る。
既に霧に覆われていて、ここから見ることは叶わない。しかし夢や幻なんかじゃないことを俺は分かっている。あそこで見た絶景が、脳裏にしっかりと焼き付いているのだ。
あの泉へ消えた白い龍が、世界の景色を見せてくれたのだろう。その理由は分からないが、じんわりと温かく、ありがたい気持ちになる。虚飾のない澄んだ目を俺にくれたのだ。
俺はもう一度巫女と少女にお礼を言って、車まで戻った。エンジンをかけ、霧の中を戻って行く。
しばらくしてトンネルに入り、感慨に耽った。
まずは父さんと母さんに謝らなきゃいけない。死のうとしたこと、今まで心配と迷惑ばかりかけたこと。
そうしたら、次は色々なことをやろう。楽しいことをたくさんやろう。昔の友達と飲みに出かけたり、祖父が登った山を順繰りに旅していくのも良いかもしれない。
晴れ晴れとした気持ちでトンネルを抜ける。
快晴が、俺を出迎えた。
▼
<おしまい>