己を包み込む光をβテスターであるキリトは知っていた。
転移時に発生する青白い独特の光。自らが転移用のアイテムを消費していない以上、これは運営側によるものだな、となんとなく察し。その違和感にキリトは首を傾げた。
β時代。バグというものはそれなりの数あった。しかしその対応でどこか別の場所にワープさせられるなど一度もなかった。
今回はログアウトができないという大きなバグだ、修正の目途が立たないなどならプレイヤー達を集めてもおかしくない気もするのだが。それにしたって別に運営からのメールで済ませてもいいようにキリトは思った。
そんなどことなく感じる違和感について考えていると、瞼越しに感じていた光が弱まるのを感じる。転移が終わった証だ、とキリトは閉じていた目を開ける。
目を開いたことで見えた光景は、βテスターであるキリトにとってよく見慣れた光景だった。始まりの街の中心部にあたる、通称噴水広場。SAO初プレイ時に必ず訪れる場所で、待ち合わせや憩いの場として利用される、βテスターには馴染み深い場所だった。
ただし見慣れていたのはその街並みだけであり、日頃から人の多い場所であったが、今回ほど大勢の人で溢れているのを見るのはキリトも初であった。恐らく、人数的に全プレイヤーが集められているのだろう。運営からプレイヤーへ、何か通知があるのだろうという予想は信憑性を増してきていた。
「……っと、そうだ。リーファにクラインは?」
今回は運営による特殊な転移であったために、直前まで近くにいた人物と共に転移したかが分からない。クラインはともかく、リーファはゲーム慣れしていないし、珍しい女性プレイヤーということもある。早めに合流しておきたいと、キリトはどことなく感じる物足りなさを一旦無視して改めて周囲を見回す。
周りはプレイヤーだらけ。金髪キャラも多く些か探すのは大変だが……いた。アバターの背を高く設定していたのもあって、上から見下ろす形で探せたために手早く見つけられた、とキリトは安堵の溜息を吐きながらリーファの元へと向かう。
運がいいことに、リーファの近くにはクラインもいて三人合流するのは簡単そうだった。いきなりの転移に戸惑う人が多く、二人の元まで移動するのは些か難しかったが、それでもキリトは何とか人の合間を縫ってリーファとクラインに合流する。
「よかったよ、二人とも近くにいて」
「あ、お兄ちゃん。これどういう状況なの?」
「多分だけど運営から何か話が……」
そこまで言いかけ、ふとクラインの様子がおかしいことにキリトは気づく。しきりに何もない空間を見ていたり、首を傾げる動作を繰り返している。パッと見は挙動不審な動作、できれば関わり合いたくないタイプの人間に見える。
しかしよくよく見ればそんな動作を行っているのはクラインだけではなく、周囲のプレイヤーにも何人かいる。つまり、間違いなく何か問題があったということを示しており、キリトはクラインを見ず知らずの人扱いするという選択肢を捨てることにした。
「クライン、どうかしたか?」
「あ……いや、キリトよぅ。実はここに転移させられてからHPとか、プレイヤーのカーソルとかが表示されねぇんだ。なんかバグったみたいで……」
クラインの言葉に、キリトの意識は即座に視界の左上へと集中する。
―――ない。
HP表示も、SP表示もあるべき場所に存在しない。先ほど感じた物足りなさはこれが原因か、と納得しつつも、キリトはクラインが言っていたように周囲の人々の頭上にプレイヤーカーソルが存在しないのも確認した。
キリトは違和感が悪寒に変わるのを自覚する。何か、とんでもないことが進んでいるような―――そんな漠然とした恐怖に苛まれながらキリトは更なる確認を行う。
右手の人差し指を宙で振るう。メニューは表示されない。軽くその場でジャンプする。転移前のように高く跳躍できない。リーファの頬に無断で触れる。ハラスメント防止の忠告が表示されない。
他にも色々試すが、
「―――おい、何だあれ!?」
人が多過ぎて誰が言ったかもわからない言葉。けれど周囲の人々が揃って空の一角を見るために、釣られてキリトやクライン、リーファは同じ方向を見上げる。
―――そこには黒い謎の流動体が存在していた。
生理的嫌悪感を抱く、黒く不定形なそれ。仮に名を付けるとしたらどす黒い泥だろうか―――そう思いながら、キリトはそれを見つめ続ける。
決して見ていて気持ちのいいものではないが、この場にシステム的な力で呼ばれたのであれば、あの泥含めてイベントの一環という可能性もある。
最悪、SAOがハッキングされ外部からの干渉によりあの泥が発生している可能性はあるが……VRゲームに関してはほぼほぼSAOの開発者である茅場晶彦の独壇場だ。そんな茅場晶彦を上回る腕の人間がいるとは、キリトには思えなかった。
故に、あれは運営の演出であり危険なものではない―――そんなキリトの予想は、最悪の形で裏切られた。
不定形のそれが、幾度か胎動し宙の一箇所へと集う。集まり、合わさり、混ざり……そうして徐々に形を整えていったそれは、やがてローブを纏った巨大な男のような姿へと化した。
不快感のある泥から形成された正体不明の男。なるほど、
「―――諸君、初めまして。この世界を作った茅場晶彦だ」
は、とキリトの口から声が漏れる。如何にも悪役然とした、宙に浮かぶ巨大な男が茅場晶彦? ならば製作者自らがイベントの悪役を務めるというのか。
キリトはSAOが何か大変な方向に向かっているのではというのを、些細な違和感から察していたが、あくまでイベント一環だと自らに言い聞かせることで誤魔化そうとしていた。
偏にSAOをゲームとして楽しみたい、という思いがキリトにその選択をさせていた。しかし現実とは無慈悲であり、目の前の茅場晶彦を名乗る巨人はキリトが聞きたくない言葉を発していく。
「まずは謝罪を。君たちに無断で、このような形で突然ある事実を告げなければならないことを。そして何よりも、
「何を……」
「気づいているだろう。君たちの視界にHPが映らないことも、メニューが開かないことにも」
それに対する人々の反応は様々だ。その事実に気づいていなかった人は慌ててメニューを開こうとし、できない事実に驚愕し。キリトたちのように既に気づいていた人々は茅場晶彦の口ぶりから、まるで意図してそうしたかのように感じ取る。
キリトは同年代の人々と比べると聡明だ。頭の回転が早い。そのために気づかない方が幸せなことに気づいてしまうことがある。キリトが現実世界において、家族と血が繋がっていないと気づいたのも、キリトが歳のわりに聡明で能力があったからだ。
そして今回もまた、キリトは一人、ある事実を察してしまう。
「ゲームではなく……システム的なものも存在しなくなってる……。まるで、現実みたいな……」
小さく、周りの喧騒から本来ならキリト自身以外には聞こえないはずの呟き。しかし確かに一瞬、ローブの巨人から己に視線が向けられたのをキリトは自覚する。
ローブの奥。真っ暗で何も見えないはずのそこから、そのアバターを操っているであろう茅場晶彦の目が向けられたのを、根拠がないながらもキリトは確信していた。
「君たちに覚えておいてもらいたい。先ほどの転移をもって、この世界はゲームではなくなった」
大きく、この世界全てを示すようにローブの巨人がその手を広げる。この世界とは、すなわちSAOの舞台であるアインクラッドのことを示しているのだろう。
それがゲームではなくなったとはどういうことか―――小さなヒントからキリトはその言葉の意味を察しながらも、分からないふりをしようとする。
「ソードスキルなんて便利なものも存在しない。またステータスも存在しない。故に、戦いでは己の力で戦う必要があるし、心臓を一突きされれば君たちは死ぬ」
しかしローブの巨人は慈悲もなくキリトが察し始めていたことを明確に言葉にしていく。絶望するには十分すぎる内容を。
「NPCという概念も存在しない。彼らはここで生き、思考する一つの命だ」
「―――――――」
「もう一度言おう。この世界は既にゲームではない。君たちにとって、もう一つの現実となったのだ」
ローブの巨人が言った言葉に対する反応は存在しない。理解したくない、理解したが故に言葉がない、思考が追いつかない。理由こそ様々であったが、誰もが巨人の言葉に反応する余裕がなく、この場においてはローブの巨人が主導権を完全に握っていた。
「故に当然、死ねば二度と生き返ることはないし、また現実世界での命も失われる」
そして告げられる更なる絶望。もし事実なら発狂しても、キレてもおかしくない内容。それをキリトが冷静に聞けているのは事前に何となく察していたからか。それとも現実味がないからか。
「なに、安心したまえ。別にいつまでもこの世界にいなければならないわけではない。このアインクラッド最上層で待つ私の元へ辿り着ければ元の世界に返してやろう」
絶望だけではなく希望もあるだろう、と表情がないながらも雰囲気で笑みを浮かべたかのようなローブの巨人に、キリトは思わず拳を握りしめる。
希望? そんなものどこにもありはしない。自らの命が懸かっている状況で、どれだけの人間がアインクラッドの攻略に乗り出せるか。ステータス、レベルが存在しなければ自分自身の技術を磨くしか強くなる手段が存在しないのだ。
少人数で、かつ成長には時間がかかる。攻略に何年かかるのか―――そんなキリトの疑問に答えるように、ローブの巨人はああ、とどこか人間味溢れる動きで言葉を続ける。
「忘れていたが、今この世界は現実世界の十倍の速度で時間が過ぎていっている。現実世界での一秒が、この世界では十秒に。一時間が十時間に。一年が十年に……時間だけなら充分にある。ゆっくりと、この世界を堪能しながら攻略してくれたまえ」
もはやふざけているとしか思えない言葉だった。けれどゲーム内の時間が現実世界の十倍というのは、茅場晶彦の技術力をもってすれば不可能ではないように思える。少なくとも、キリトが調べた限りの茅場晶彦という男の能力をもってすれば、ありえる話だった。
それはつまり、逆に言えば大元とも言えるGMである茅場晶彦自身が、この状況を作り出したということ。運営からの救出は期待できない、ということだ。
「……さて、私から伝えておきたいことはこれで全てになる。これ以上は君たち自身で探し出して欲しい。そう、現実のようにね」
そう言ったローブの巨人―――茅場晶彦は腕を広げ、空を仰ぐ。釣られてキリトも上を見れば、雲の上に二層の基盤である灰色の鋼がある不思議な光景。
けれど茅場晶彦が見ているのはそこではなく、その更に先だと、キリトには何となく察せられる。
茅場は本当にろくなことしねぇな!
というわけでついにSAOは地獄と化す。デスゲームなんかじゃ温いぜ。
ステータスはないしレベルの概念もない。斬られれば痛いし、出血し過ぎれば死ぬ。
NPCにも人格があって、誰もが協力的なわけじゃない。対応を間違えれば敵にすらなる。
タイトル通り、実にハードモードだね!!