―――男は草原を走っていた。
その理由は、先程までであれば他者を出し抜くためであった。
広場で茅場晶彦を名乗る人物から告げられた事実。男はそれに現実感を感じられなかったが故に、比較的他者より早く行動を起こせた、という人間であった。
男は至って平凡な人生を歩んできた人間だ。高校を卒業し、大学へと通い。そこそこいいところに就職して、趣味のゲームに勤しむ。SAOだって、最新のゲームということもあって少しの金銭的な無茶をして購入していた。運よくβテストに当選してしまい、その楽しさを知ってしまったために買わないという選択肢はなくなっていた。
そんな風に基本的に平凡な人生の男であったが、唯一特筆できることに人の死が身近になかった、ということが挙げられる。
男の祖父母は男自身が生まれた前や、生まれてすぐの頃に死んでしまっていたし、身内の不幸というものも男がこれまで生きてきた中ではなかった。加えて、男の周囲でも誰かが死んだ、ということはなかった。
故に、男は死というものに鈍感であった。誰かがいなくなってしまうということを、知識としては理解していも経験としては存在しないが故に、己は死ぬことがないと根拠もなく信じていた。
始まりの街から我先に、と飛び出したのもそれが理由だ。
自分はβテスターだ。簡単に死ぬわけがない。そして折角のβテスターなのだからその知識を活かさなければ。
茅場晶彦を名乗る人物の言葉を聞いて街を飛び出すに至るまでの男の思考はこんなものだった。
別に男は茅場晶彦を名乗る人物の話を聞いていなかったわけではない。HPなどが存在しなくなった、というのも聞いていた。ただそれを聞いた上で、男はまだβ時代の知識を活用できると思っていたし、自分ならどうとでもできると思っていた。
そう、ただただ楽観していたのだ。
けれど本人にそれが根拠もない、全く信ずるに値しないものであるという自覚はなく。始まりの街から、目的の小さな村へと移動しようとし。
―――ブォオオオオォォォォ!!
「ひっ……ひぃっ―――!?」
こうして男にとっては雑魚敵であるはずのフレンジーボアに追われていた。
おかしい、と汗や涙、鼻水をばら撒いて逃げながら男は思う。途中までは何の問題もなかったはずだ、と。
始まりの街を出てすぐの平原部。そこはβ時代やゲーム開始直後と違ってやけに静かだったので、思わず首を傾げたのを男は覚えている。ただその時は何かエネミーのポップが変わったのだろう、程度にしか思っていなかった。
様子がおかしい、と思い始めたのは、目的の村へのショートカットルートである森の中を走っていた時。
β時代に何度か通った道。見た目は何も変わらないはずのそこ。木々のざわめきや、虫の鳴き声。妙にリアルに感じられたというか、何かの息遣いまでするような気がして、無性に恐怖を覚えた。
ここは所詮データで構成された世界、加えて今の自分には戦う術もある―――男はそう自分に言い聞かせながら一度、背中にある片手剣の柄を握り、森の中を全速力で駆け出す。
地面を踏み締め、木の根を跨ぎ、小川を飛び越え。そうやって森の中を駆けていると、がさりと草の揺れる音が響く。
男は敵のお出ましか、と剣の柄を握り構えた。出てくるならこの森特有の植物型エネミーか、なんて思いながら構え続ければ、出てきたのは。
「……フレンジーボア?」
βテストであれば、平原にしかポップしないはずのフレンジーボアが草むらから出てきていた。
とはいえ驚いたのは一瞬。βテスターだった男からすれば所詮雑魚である、と背中から片手剣を抜き放ち―――その重量感に、戸惑った。
βテストとは違う、確かな重さを手の内に握った剣から感じられる。βテストでは手に馴染むように、特に重さも感じることなく剣を握れていた。要求筋力値を満たさない剣はそもそも装備できなかったため、βテストで剣に重さを感じたことは一度もない。
しかし今男の手の中に握った剣は、決して持ち上げられないこともないし、持ち運ぶことだってできる。けれど思うように振るえるとは思えないような、確かにそこに存在すると感じさせるような重さがあった。
剣を握っていることへの違和感―――だが今はそれに構っている暇はないと男は剣を後ろへと引き絞る。βテストでのAIレベルなら、かなり弱めに設定されていたらしいフレンジーボアがプレイヤーを見つけた瞬間に襲い掛かってこなかったことに男は首を傾げるが、さほど重要ではないだろうと男は首を振る。
何はともあれ、動かないならば先に斬ってしまえばいいと、剣に重量感があることなど関係なしに振るえる、身体が自動で放つソードスキルの発動待機へと入れる構えを取り。
いつまで経っても体が動かず、また剣が燐光を発しないことで男は茅場晶彦を名乗る人物が言ったことばを思い出した。
―――ソードスキルなんて便利なものも存在しない―――
それはつまり、一番のダメージリソースは存在せず、この重い剣を自力で振るう必要があるということだった。
厄介な―――そう思うも、男にはこの段階ではまだ余裕があった。何せフレンジーボアはβテストでは雑魚も雑魚。男はフレンジーボアのパターンを全て知っていたために、ソードスキル無しでも戦えると思っていた。
感覚を確かめるために軽く剣を振るう。β時代からの何気ない癖。
―――それに、フレンジーボアは過剰な反応を示した。
「ッ!?」
ビクリ、と体を震わせたと思ったら、次の瞬間には突然の突進。男がそれを避けられたのは奇跡に等しかった。
βテストではフレンジーボアは、突進の前に必ず予備動作として前足で地面を引っ掻いていた。しかし、今の突進にはそれがなかった。
AIが変わっているのか、男は勝てるかどうか若干の不安を覚え始めながら、態勢を立て直し、突進から振り向いたフレンジーボアと相対する。
―――ブォオオオオォォォォ!!!
「ひっ―――」
一瞬で余裕など吹き飛んだ。そして理解した。今己が相対しているのはデータで構成された虚構などではないと。
AIが変わったどころではない、ただの0と1で編まれたデータから一つの生き物になったのだ、と理解した時には、男はパニックへと陥っていた。
初めて直接的に目にした死というもの。ましてやそれが己に向けられているとなれば、落ち着いていられるわけもない。
気づけば男は森から飛び出し、始まりの街へ向かって平原を走っていた。右手には既に剣はない。パニック状態でフレンジーボアから逃げ回っているうちにどこかへ落としてしまったのだろう。
けれどそもそも、男にはそんなことを気にしている余裕がない。フレンジーボアは未だに男を追ってきている。平原ではろくに隠れる場所もなく、男は自分にどんどん死が迫ってきていることを理解していた。
「ちくしょう、何で……何で俺がこんな目に……!」
男はβテストでは最前線に立っていた。有給休暇などを用いて、仕事をしながらながらも頑張ってアインクラッドを攻略していた。
暇があればダンジョンのマッピングと敵のモーションを覚え。通勤中などで覚えた敵のモーションを反芻し。他のプレイヤーと情報交換したりWikiを覗いたり。そうやってしっかりと努力を重ね、常に攻略最前線に立ち続けていた。
男は決して特別ゲームが上手いわけではなかったが、努力でそれを補えるタイプであった。そしてその自負もあったために、努力をしたのだから正式サービス版でも充分戦えると信じていた。
それがどうだ、男はフレンジーボアから涙や鼻水を垂らしながら逃げるしかない自分を自嘲した。
茅場晶彦を名乗る人物の言葉を深く考えなかったのがいけなかったのか。それとも、一般プレイヤーを置いて、一人で駆け出したのがいけなかったのだろうか。そんなとりとめのないことばかりが男の頭の中を巡る。
男は既に、この段階で生きることを諦め始めていた。森から必死に走りづづけてもはや体力も残っていないし、平原では利用できる障害物もない。むしろ始まりの街の門が見えるところまで逃げてこれただけ上等だろう。
「それに、死んだら存外、現実で普通に目が覚めるかもしれないしなぁ……」
そんなことはないと直感的にそんなことはないと理解しながらも、男は思わず呟いていた。男は一切の希望も存在しない状態で迫りくる死を受け入れることはできなかった。男の心は、そこまで強くあれなかった。
「あっ……」
転ぶ。余分なことを考えていたからか。それとも滲んだ涙で視界が悪かったからか。どちらにしても、男は足元の石に気づかず躓いて転んでしまった。
反射的に振り返れば、勢いよく迫りくるフレンジーボアの姿。死の間際は世界がスローになるというのは本当なんだな、とどこか他人事のように男は自らの死を受け入れ。
―――突如目の前に現れた美しき金に目を奪われた。
光を反射し輝く黄金の鎧。風に靡く金糸のような髪が、羽織った青色のマントに映える。
一目で分かる、美しく清廉な少女騎士は、迫りくるフレンジーボアの牙に添えるようにその手の剣を当てる。そのまま、身を捻るようにしてフレンジーボアの突進を流し、力のベクトルをズラすことで少女と男からフレンジーボアの突進を逸らした。
フレンジーボアを逸らす過程で男から見えるようになった少女の顔は、海のように深い青色の瞳が特徴的なあまりにも整ったもので、男は人形のようだ、なんて呑気に陳腐な感想を抱いていた。
そうやって呆ける男を置いて、駆け抜けていった先で振り返ったフレンジーボアと少女は向き合う。そして剣を地面へと突き立てた後、威風堂々とした佇まいで少女は口を開いた。
「あなたには人の言葉を理解することはできないのでしょう……。ですが、野生の獣だからこそ実力差が分かるはずです。―――退きなさい。あなたでは、私には届かない」
凛とした立ち姿から圧と共に放たれたその言葉に、フレンジーボアはしばし迷ったような姿を見せたあと森の方へ逃げるように去っていく。
突然助かった命に思考が追い付かない男が呆然とその姿を見送っていると、傍に立っていた少女が先ほどとは打って変わって優し気な面持ちではぁ、と一息吐く。
「……よかった。無駄な殺生は好みませんから」
ふわりと浮かべられた笑みに、男は思わず見惚れる。先程までの気高い騎士としての姿に、今のような年頃の少女のような姿。そしてそこから生まれるギャップに、短い時間ながら男は完全に虜になってしまっていた。
「立てますか?」
「え、あ、はい!」
差し出された少女の手を恐る恐る握り、支えてもらいながら何とか男は立ち上がる。今までは男の方が座り込んでいたために気づかなかったが、どうやら男よりも少女は頭一つ分ほど小さいようであった。先程のフレンジーボアと相対する姿が勇ましく大きな姿に見えたので、男には余計に少女との背の差が意外に思えた。
「大きな怪我はありませんか?」
「あ……はい、擦り傷とか、軽いものしか」
問いかけられ、改めて男が自らの身体を確認すると、木の枝で引っ掻いた傷や転んだ際に擦りむいた傷など、軽いものしか見当たらない。必死であったために男自身記憶にないが、意外と上手いこと逃げていたようだった。
「よかった……。見慣れない方ですが、最近この街に来た方ですか? この一帯に住む先程のフレンジーボアという種は、草食ということもあり基本的には臆病で大きな危険はありませんが、あまり近づいたり、巣の付近に行ったりすると途端に容赦なく襲い掛かってきます。臆病だからこそ、でしょうね……。巣は森の水辺に多いようですので、森を通る時は気をつけてください」
「……あっと、はい。助けていただいたり、色々ありがとうございます」
今まで気にしたこともなかったフレンジーボアの生態という情報に、男は一度呆けるも何とか返事を返し、また今回の助けてもらったこと全てに関しての礼を告げる。
正直、男は少女と会話するだけで緊張してしまっていたが、それでも助けてもらった以上は礼儀として。何より男自身がしっかりと礼を言っておきたかったがために、頭を下げてこうしてお礼を口にしていた。
「気にしないでください。騎士としての務めを果たしたまで。ですが、先ほども言ったようにこれからは気をつけてくださいね?」
苦笑しながら告げられた言葉に、やはりドキリと男の胸が高鳴る。今まで恋をしてきたことはあるが、ここまで本気のは初めてだ―――そう思いながらも、それを一切表に出さないようにして、男は少女へ頷きを返す。
先ほどまで死にかけていたというのに呑気なものだ、と男自身思うところはあったが、こうして少女に対し恋心を抱いたからこそ先ほど味わった死が迫る恐怖を誤魔化せているところはある。いつかは向き合うべきなのかもしれないが、男は少なくとも今は死の恐怖から目を逸らすことにした。
「それでは街の方までお送りいたします。森の中ほどではないといえ、草原のほうも完全に安全なわけではありませんから」
「……それじゃあお願いします」
本気で惚れた相手と二人きり、街に着くまで心臓が持つかなと思いつつ、男は飛び出してきたはずの始まりの街へ向けて歩き始めた。
そんなわけでモブ視点。この回書くために猪の生態調べたり、動画見たりしたわ。
しかしさて、金髪に金色の鎧、青いマント……一体誰だろうね?