「……見えたか?」
男からの問いかけに、キリトは言葉を返す余裕が存在しなかった。それだけ、今見えた光景は衝撃的だった。
「……正直、私には何かさっきよりもAIの質が上がったな、としか思わなかったけれど」
「あとはあの騎士みたいな女の子、私と同年代くらいっぽかったから意外と私達でもモンスターと戦えるかなー、って私は思ったかな」
キリトの代わりに男の連れの少女と、それに同調するようにキリトの連れであるリーファがそう答える。彼女たちが言っていることはあながち間違いでもない。幾らか本質よりかは離れているが、的外れというわけではなかった。
しかしそれを指摘する余裕がキリトにはなかった。なにせ先程フレンジーボアから逃げていた男に、キリトは見覚えがあった。β時代、最前線で共に戦っていた男を忘れるわけもなかった。
彼は特別敵と直接戦うことが上手いプレイヤーではなかった。しかし代わりに立ち回りは上手かったことをキリトは覚えている。モンスターの動きをしっかりと理解した対応に、連携を重視した補助を主眼においた立ち回り。自身の能力がそこまで高くないことを理解しながらも、そこで折れずに自分にできることを模索し続けていた、努力で強くなる好感の持てる人物だった。どちらかといえば人と関わることが苦手でついついソロに走りがちなキリトからすれば、尊敬できるようなプレイヤーだった。
だから断言できる。β時代のままであるならば、いくら初期レベルとはいえあの男はフレンジーボア如きに追い詰められるプレイヤーではなかったと。
「………………」
思わずキリトは背中の片手剣を抜き放つ。元より走ってこの場に来るまでに違和感はあった。そしてそれはこうして実際に剣をその手に握ったことで確信に変わった。
―――重い。
決してそれは振るえない重さではない。ただ握って、片手で振るうだけなら簡単にできるだろう。しかしこれを握った状態で走り回り敵の攻撃を避け、動く敵に対し有効な一撃を与えるとなれば。それを見事にこなす自らを、キリトは想像することができなかった。
β時代や茅場晶彦を名乗る人物に集められる前ならば、装備が要求する筋力値を満たしさえすればほとんど重さを感じることはなく、自らの体の一部のように扱えた。
しかし今はずっしりとその存在を示すように、剣を握る右手に重量がかかっている。その感覚は、幼少期にやっていた剣道で木刀を握った時の感覚にどこか似ていた。
「どうだよβテスター、さっきの光景は? 俺はお前の感想が一番聞きたいんだぜ?」
じっと、群青色の瞳に見つめられる。口調こそ砕けていてどこかふざけているが、その表情は至って真剣だ。言葉の通り、この男はβテスターであるキリトの感想を一番求めていることを、キリトは確信していた。
故に、キリトは男の連れの少女やリーファの感想を加味した上で、自らの所感を述べることにした。
「……さっき、二人が言っていたことは間違ってはいない。ただ俺からすると、甘いと言わざるを得ない……かな」
「……甘い?」
水色の髪の少女から目を細めながら言われた言葉に、キリトは若干怯みながらも何とかああ、と肯定の返事を返す。どこか冷たい印象のある少女からの圧のある言葉にキリトは軽い恐怖こそあったが、先程の街の外での光景に比べたら大した衝撃ではないと思っていた。
「まずAIの質が上がったっていうのは間違ってない。でも、正直上がった質がそんな簡単な言葉では表せないほどに俺には思えたんだ」
先程のβテスターであろう男とフレンジーボアの逃走劇は街からはそこそこの距離があったために、はっきりとキリトも認識できたわけではない。だがそれは逆に言えば、それでもわかるだけの露骨なAIの向上があったという証左でもある、とキリトは理解していた。
本来ならフレンジーボアは突進を仕掛ける前に必ず予備動作があり、また一定距離走ると一度突進を中断するはずだった。少なくとも、β時代ではそんな挙動があった。しかし先程の様子を見る限りフレンジーボアは突進を中断する様子は欠片もなかった。
とはいえそれだけの要素なら対βテスター用にモーションを変えたとも考えられる範囲だ。そのためキリトはそこまで説明を口にしたあと一度言葉を切り、強調するように一拍間を置いてから改めて口を開く。
「一番重要なのは、
「……へぇ、その心は?」
「β時代の話なんだけどな。フレンジーボアはどれだけHPが少なくなっても、プレイヤーが高レベルになっても逃げ出すことはなかったんだ」
「でもそれだけならただAIの質が上がったって言えるんじゃないかしら」
「ああ、だから重要なのは逃げ出したことじゃない。逃げ出した理由だ」
少女からの言葉に、キリトは先程の光景を脳裏に思い浮かべる。あれは遠目に見ただけであまりはっきりと見えたわけではない。しかしあの瞬間、確かにフレンジーボアは騎士の少女からの圧に恐怖した結果逃げ出したようにキリトには見えた。
「もしあれが恐怖から逃げ出したんだとしたら……それは、フレンジーボアのAIがAIという範疇を逸脱し始めてるってことになる。なんせ入力されたテンプレートに従うんじゃなく、自らの感情が存在しているということは自ら思考し、動く……生物だってことなんだから」
そしてそれがもし正解であるならば。キリトは右手に握ったままだった片手剣の柄を、思わず強く握りしめる。同時に、口からガリッと歯の擦れる音が響いた。
もし本当にモンスターがただの敵モブから一つの生物となったのであれば。それはβテスターを殺しにきていると言っても過言ではなかった。
キリトはβテスターであるが故に、先程のβテスターであろう男がフレンジーボアから逃げていた理由がわかるような気がした。もし自分が完全に動きを理解したと思っていた相手に、突然知らない動きをされれば。ましてやそれで死ぬ可能性があったならば。そして―――そこに殺意が存在していたら。
モンスターたちに意志があるとするならば、襲いかかってくるということは少なくとも敵対心があるということだ。平和な日本で過ごしてきたキリトたちがそんなものを向けられれば、恐怖で上手く対応できなくなるのはおかしくないようにキリトには思えた。
間違いなく殺意、敵対心に関しては全てのプレイヤーに刺さるだろう。しかし、なまじ過去のモーションを知っていて先入観のあるβテスターたちは、それに加えてβ時代との差異という問題がある。男に止められず、そのまま街の外に飛び出していたら自分も、とキリトは今更ながらに背筋が冷える思いを味わっていた。
「なるほどなぁ……。正直、あのローブの男がNPCも思考し生きる一つの命だ云々って言ってたから、もしかしたらエネミーもとか思ってたら案の定かよ……」
男が困ったように後頭部を掻く様子を見ながら、キリトは男の言葉の意味を吟味する。つまり、この男はモンスターがAI以上の生物としての思考を持ちうることを可能性の一つとして想定していた、ということになる。街の外へ無策に飛び出そうとしていたキリトたちを止めたことといい、随分と頭が回る男だとキリトは思う。キリトには相手の内心を推察できるほど対人経験がないため外見のみでの判断になってしまうが、男にはキリトにあった焦りやリーファにあったパニックというものが一切見られず、対応力の高い冷静な人間のように思えた。
「……となると今できる最善は……だが向こうからすれば俺達は見知らぬ異邦人……俺達が差し出せるものは……」
ぶつぶつと漏れ聞こえてくる男の呟きを聞いて、一瞬キリトはこの男に全てを任せてしまおうかと思う。しかしそこまで考えてキリトは頭を横に振った。
確かに男は街の外へ出ようとするキリトを止めてくれたが、そこにどんな目的があってかはわからない。呟いていた最善というのも誰にとってかはわからない。
あまりにも予想外な今の状況。誰かに判断を投げてしまった方が圧倒的に楽だろう。だがそれは結局のところ思考停止でしかない。自らの命がかかってくる以上、他人に全て丸投げするのはあまりに危険だろう。
キリトは現状に焦りやパニックを抱きながらもそう判断を下す。キリト自身、自分が冷静な判断を下せる状態ではないだろうとは理解していたが、それに関しては自分よりも冷静そうな男に相談すればいいとキリトは思っていた。重要なのは、先程出会ったばかりの男のみの判断ではなく、キリト自身の判断と擦り合わせた意見に基づき行動することだと理解していたからだ。
ならキリト自身にとっての最善とは、とここでキリトは考える。先程まではとにかく生き残るためにβ時代の知識に基づき装備を整えることしかキリトは考えていなかった。しかし改めて、生き延びた上でどうするのかの長期的な目的を定める。
そもそもキリトが定めるべき目的とは。無論、最終的になものはリーファとともに生き延びて無事現実世界へ帰ることになる。ではそのために必要なことは。このアインクラッドの最上層を攻略することだ。
そうやって徐々に段階を下げながら目標を定めていき―――最終的に、キリトはまず現状すべきこととして戦える力を身につけることを直近の目的として定める。平和な日本で生きてきた人間がそう簡単に戦えないというのは、βテスター仲間だった男が先程身を持って証明してくれていた。故にどうにかして戦う力を得ることがキリトたちには必要だった。
「……なぁあんた。これからどうするつもりなんだ? 俺は……この世界から脱出したい。だからそのためにまずは戦えるだけの力を身につける必要があると思ったんだが……」
そう言ったキリトの言葉が意外だったのか、男は目を見開き驚いた様子を見せる。確かに先程まで無謀にも街から飛び出そうとしていた人間から言われればそうもなるか、と苦笑しているとやがて男は理解が追いついたのかニヤリという擬音が似合う笑みを口元に浮かべ、言葉を発する。
「俺もそれには同意するぜ。そしてその算段も一応立ててある……が、それは後回しだ。それ以前に考えなきゃいけないことがあるからな」
「考えなきゃいけないこと?」
キリトが脳裏に抱いた疑問と同じことを、リーファが男に対して口にする。見れば、リーファや水色の髪の少女はβ時代のモンスターをあまり知らないためか、先程のキリトの話を聞いてもさほどダメージを受けているようには見えなかった。あるいはそもそもこの世界から出られないという事実の方が精神的負荷が大きかったのだろう。先程の会話で焦っていたのが自分だけだったようで、何だかキリトは急激に自らが情けなく思えてしまった。
が、そんなものはこのあとで幾らでもリカバリーが効くもの。何より、情けなくてもいいから今は現状の改善が重要だ。キリトは自らに無理矢理そう言い聞かせて恥ずかしさを押さえ込み、努めて真剣な顔で考えなきゃいけないことがある、と言った男へと視線を向けて話の続きを促す。
「まぁ……一応この世界は元々はゲームの中の世界とされてるわけだが。あのローブの男はここが俺達にとってもう一つの現実だって言ったわけだ。なら食事は? 睡眠は? 人間が生きていく上で必要な活動はどうなる?」
「……わざわざもう一つの現実って言い方をしてるんだもの。当然そこも再現されている、と考えるのが妥当じゃないかしら」
「That's right! 実際、正直俺は腹が減ってきているし、お前らも―――」
ぐぅ、と間抜けな音が周囲に響く。思わずキリトは自らの腹を抑えるが、それで音が鳴った事実が消えるわけもなく、恥ずかしさから顔が赤くなるのを自覚した。
「腹が減ってきてるみたいだしな。となれば食事に宿泊、何にしても金が必要になってくる」
「ということは当面はお金稼ぎと強くなるための修行?」
キリトは自らの腹の音で場の空気を軽くしたのだ、と無理矢理自らを納得させながら、リーファから問われた男の方を見る。そこには相変わらずニヤリと笑みを浮かべる男がおり、頼りにはなるがどうにも胡散臭い男だな、と内心だけで思う。
「実はそれを一石二鳥で解決できるアイデアがあってな。ただまぁできれば元手があると助かる話なんだ……ってーことで」
男は一度そこで言葉を区切ると、ポケットの中から何やら茶色い小袋を取り出してくる。突然何を、とキリトたちが訝しんでいると、その茶色い小袋の中から何か―――コインを取り出し、それを一度弾きあげて、キャッチしてみせた。
「今ざっと数えてみたけど、これ総計があのローブの男に集められる前の手持ちの金額と一緒なんだわ。だからあくまでメニューで数値として管理されてたお金が、実物になってるっぽいぞ」
そう言われ、キリトたち三人もポケットやポーチを漁れば―――確かに、それぞれ簡素な小袋が出てきてその中にはコインが入っていた。同じく数えてみれば、金額も記憶と一致する。どうやら現状では一文無しという事態は避けられたらしい。
「ま、流石にあのローブの男も初期資金はくれるだけの良心はあったってわけだな」
「そもそもこんな状況になった段階で良心もクソもないと思うけれどね。……って、あれ、これは……?」
水色の髪の少女がお金の入った小袋とは別に、何かを取り出す。見ればそれはシンプルな手鏡であり、探してみればキリトを含めた全員がそれを同じく持っていた。
しかしそんなもの、ここにいる誰もが記憶がないと言う。無論、キリト自身覚えがないものだ。ローブの男から与えられた何かだろうか、とそれぞれ手鏡を見ていると、徐ろにリーファがあ、と声を漏らす。
「ねぇここ、裏側の角っこ。何か書いてない?」
「なになに、えー……『現実世界とあまりにかけ離れた姿の者は、この手鏡を覗き込み十秒以上続けることで本来の姿に戻ることをオススメする』……だってよ」
要するに、アバターとしての姿ではなく、現実世界に即した姿に戻るためのアイテムらしかった。急に大元がゲームであることを実感させるものが出てきたな、と呆れつつもキリトは現実世界の姿に戻ることに意味があるのかと首を傾げる。
キリトとしてはコンプレックスを誤魔化した姿をアバターとしているため、この姿のまま過ごせるのならそうしたいと思っていたが、どうにもおすすめする、という言葉が引っかかっていた。
「あー……そうだな、あんただけはこれ使った方がいいかもな」
「……どういうことだ?」
首を傾げていたからか何なのか、何故かキリトにだけ向けて男がそう言ってきたため思わず問い返せば、だってなぁと男は言葉を続ける。
「お前、現実だともっと背が低いだろ。んでもってβテスターだからかその体での動きにも妙な慣れがある。その結果重心の動きが妙になってるんだわ」
「じゅ、重心の動き……?」
現実がアバターよりも背が低いという事実を当てられたために、キリトが思わず動揺しながら男に言葉を返せば、剣道やっているためかリーファがあぁー……と妙に納得した様子を見せる。運動している人間には重心とやらの動きでそんなにあっさりとわかるものなのだろうか。少なくとも、インドア派のキリトにはわからない感覚であった。
とはいえあまり現実世界の姿には戻りたくない、というのがキリトの本音だ。誰だってコンプレックスがある姿には戻りたくはない。キリトが思わず渋い顔をしていると、男には苦笑しながらそのまま今後の戦いに影響が出るぞ、と言われ、リーファがそれに大きく頷いてみせる。
男だけに言われていたら信じないところであったが、実の妹までに言われてしまえば流石に無視するわけにはいかない、とキリトは腹を括る。
「……わかったよ、この手鏡使うよ」
「俺含めて他のやつは体格は弄ってないみたいだからな、あとは任意でいいだろ。そしたらそいつが元の姿に戻ったら、自己紹介して行動開始だな」
言われてみれば、確かにここまで自己紹介もせず錫色の髪の男と水色の髪の少女の名前は知らない状態であった。これがゲームとしてのSAOであれば名前が頭上に表示されて便利だったのだが、とキリトは内心で文句を言う。
しかしそうは言っても、高校生にもなればキリトも幾度となく自己紹介くらいしてきている。それに今は趣味などを語る必要もあるわけでもないので、簡素な自己紹介を考えようとして、ふと気づく。
「そういや、行動開始って言ってたけど具体的にどうするか聞いてないぞ?」
「確かにそうね、一石二鳥とか言っていたけれど、どんなアイデアがあるのかしら」
どこか挑戦的な目線で少女に問われた男は、一度軽く笑みを浮かべたあと、何処かを向いてしまう。はて、とキリトたちは反射的に男の目線の先を辿った。
「さっきの騎士サマに会いに行くんだよ」
男が視線を向けた先には、ちょうどキリトのβテスター仲間であった男を連れて街へと帰ってきた、風にその美しい金髪を靡かせる少女がいた。
だいたい週一だし、物語の展開的にもこの物語バリくそ進行遅いな??
まぁたまにはじっくりやる作品もあってもいいよねってことで。