ココから始まる英雄譚   作:メーツェル

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覚悟1

 ユメルは平衡感覚を失い、吐き気を覚えながらもアイシャの手を引っ張り、自分の後ろに隠した。走ることは無理だ、一歩踏み出せば失った平衡感覚のままに倒れることは理解している。だがしかし、このままでは二人とも死ぬということは嫌でも肌で感じていた。

 黒い覇者が息を吸い込むのが見える。今度こそは無慈悲な業火をユメルの少女の身に降り注がせるだろう。ユメルの視界の端には呼吸をするため湖から顔を出したアナスタシアが映る。しかし、彼女が止めるよりもさきにあの竜は炎を吐き出す。

 この炎はユメルが防がなくてはいけないものだ、必死に考える、生きるために、生き残るために。

 ――爆発はだめだ、火を消す効果はない。二酸化炭素、窒素、操った感覚でいうとあれは一瞬つくりだす効果しかない。他のもの、何か、別のもの。拳銃? 届く距離ではない。――――、一つ、ただ一つだけ思いついた。

 ユメルはそれが自分にできるのか問う暇はない、やらなければならぬという鉄の意思をもって青い炎を全身に身にまとった。

 ――私が決めたことだ! 折れるのは死んでからでいい! 膝を折って何ができる!!

 

「ユメル!!」アナスタシアが叫びながら術札を切り裂こうとしてるのがユメルには見える。

 

 ユメルは手を覇者に向ける。また時間が遅く流れているような感覚にとらわれた。覇者は炎を吐き出そうと頭をこちらに向ける。その途端に彼女はその口内の空気から『酸素』を全て取り除いた。

 ワイバーンは喉の手前にある火打ち石のような機関をもって火花を散らせ、吐き出す油に引火させることで炎の息を作り出す。

 なら、その火が出る瞬間に『火が起こらない状況』を作ってやればいい。

 一瞬にしてその状態は解除される、タイミングが一瞬でもずれればユメルは火だるま、あの世行きだ。厭な汗が背中に流れる、本当にゆっくりと見えるのその光景がまるで死ぬ直前の神の慈悲にも思えた。

 つばを飲む。そして来るべきときを彼女はただあとは見ることしかできなかった。

 そして、ワイバーンの口から吐き出されたソレは――、液体だ。ねっとりとした液体が一直線にユメルへと向かってくる。

 ユメルの口の端に微笑みが漏れる。賭けに勝ったのだと。その油を彼女は浴びながら徐々に戻ってきた平衡感覚に従いアイシャの手を取り走り出す。

 何故、失敗したのか、それがわからぬワイバーンはもう一度炎を吐き出そうとしていた。

 さすがにもう一度同じことをやれといわれてユメルにできる気はしない、だからこそ、湖に向けて駆け出すのだ。

 そして、その一撃はきっとアナスタシアが止めてくれると信じていた。

 アナスタシアは術札『吹きおろし』を破り捨てた。この状況で使用し、風が鳴り止むまでに翼を落とせなければ手の打ちようがなくなることは理解している。けれども、今使わなければ二人が死ぬ。それだけは看過できぬのだ。

 黒い覇者は頭上から叩きつけられる風の塊に一度吐き出す動作をやめると、その三対の翼をもって必死に抵抗する。しかしながら激しいダウンバーストに錐揉みにされ地上へと落下し始めた。

 だが、流石というべきか、地上に落ちる直前に体制を立て直し、ひと際大きく翼を地面に向け羽ばたくと、落下の衝撃を打ち消し地面に降り立つではないか。

 それと同時にユメルが湖に飛び込むのと入れ替わるようにアナスタシアは湖のふもとに立ち剣をだらっと地面に垂らす。

 風が鳴り止むまで十数秒、それまでに翼を落とさねばならぬ。

 アナスタシアはすぅ、と息を吸い、そして吐き出す。覇者が息を吸い込むのが見えた。

 炎か、咆哮か、間違えれば詰みだ。この竜は見た限り、アナスタシアが相手にしてきたワイバーンと同一視しては危険だと判断していた。まず体躯だ。その体躯は見たこともないほど大きい。

 そして黒い鱗、三対の翼。突然変異種は通常淘汰され成体となることは稀だ。しかしながら、それを乗り越え生きているということはその分生存競争に勝ち抜いてきたことに他ならない。

 どちらにせよ、やる事は変わらない。そう考えながらアナスタシアは頭をこちらに向ける瞬間、斜めまえに跳躍し前方へと回転しながら、口をあんぐり(・・・・・・)と開ける。

 口を閉じた状態で爆音を受けると体に音が籠り、耳が音にやられるのだ。

 覇者が選んだ行動は咆哮であった。

 間近で爆雷の音を聞いたかのような衝撃がアナスタシアを襲う。口を開いていたというのに、世界がゆがんで見える。

 だが、今度は歯を食いしばりながら立ち上がりさらに接近を試みた。剣が届くまで数歩という距離、竜はじっとアナスタシアを睨みつける。

 ――何を狙っている。

 近づいてはいけない、そう第六感が彼女に囁くがそれに従うなら竜は風が止むと同時に飛び立ってしまう。だからもう一歩近づいた。

 徐々にだが、視界の端で雌の緑のワイバーンが立ち上がろうとふらつきながらも足を地面につけもがいているのが見える。翼を落とすなら、まだ起き上がっていない今しかない。

 その竜に邪魔をさせぬよう、サインも湖から這い上がるといまだ体制の整わぬ雌へと駆け出していた。

 そして、アナスタシアが剣の届く距離にたどり着くと同時に地面から覇者に向かいその喉を狙い切り上げを行った。まだ翼は届かぬのだ。

 だが、第六感が正しかったことをアナスタシアは知る。

 竜は振り下ろす風の中、バク宙を行ったのだ。その巨大な体躯で。そして剣の軌道から外れると、彼女の体に向かいその巨大な体躯から放たれる尾が飛んできた。

 受ければ距離は離される、しかしながら回避するためにはこのカウンターは間が合い過ぎている。

 アナスタシアは大きく舌打ちをすると、大剣を手放した。そして大剣がなくなったことによる身軽さを利用し、横に回転しながら攻撃を避ける。

 これしか道はなかった。慣性のまま宙を舞っている大剣は尾に弾かれ湖へと飛んでいく。

 残り五秒前後。必死にアナスタシアは活路を考える。雌の竜すら既に起き上がり、サインと対峙していた。

 飛び上がる事を防ぐことはもうすでに不可能に近い。焦せれば功を逃がす。それを知っていたはずなのに、彼女は今絶対的に追い込まれている。

 予備の武器として竜の歯を用いたナイフは存在するが、それでは翼は切り落とせはしない。

 綺麗に着地をした黒き竜は立ち上がったアナスタシアに向かい突進を行ってきた。

 その行動に、アナスタシアは人間との戦闘に馴れているという印象を抱かざるおえない。あまりに武器の間合い、そして人間の戦い方を把握しているのだ。

 

「おねえちゃん!!」

 

 アイシャの声がアナスタシアには聞こえた。そして巨大な何かが飛んでくる音を感じる。

 ふと視線を反らし、それを見れば、自分が竜に飛ばされた大剣が宙を舞い、こちらに飛んできているではないか。

 湖では畔で泣きそうな表情のアイシャが投擲したままの状態で立っている。その後ろにはユメルがこちらを見て叫んでいた「たのむ!」と。

 動き出したものは急には止まれない。それは剣を振り上げてしまったアナスタシアも、そして、今突進を行っている黒い竜も同じことだ。

 アナスタシアは、自分を振るい立たせるように笑った。これでやれなければ『竜殺しの騎士』の名が廃ると。じっと剣を見つめる。そしてタイミングを合わせ全力で跳躍をすると、剣の柄を両手で握り、前方に回転するように剣を振り下ろした。

 その無理な軌道に背の筋肉が悲鳴を上げるのを彼女は感じる、が、「しるか」と一言つぶやくと翼にその剣は振り下ろされる。一本の翼から鮮血が舞う。確かに右の前の翼を切り落としたのだ。

 だが今アナスタシアは無防備に宙に晒されている。

 竜が足を踏みしめながらスピンターンを行うのがわかった。しかしながらそれを防ぐのは無理だろう。

 雌の尾の振り回しとは格別の威力が十全と乗った尾の一撃が彼女を襲う。左肩にその尾は命中した。

 プレートアーマーのお陰か、ミンチになる事はなかったがその衝撃で肩が砕かれたのをアナスタシアは感じる。

 そして勢いを殺せず、そのまま右に吹き飛ばされると地面に叩き落とされた。

 肺から全ての空気が抜ける。いまので肋骨もどこかおかしいことに彼女は気が付いていたが、残っている右手で剣を掴み地面を押し上げ、立ち上がる。

 ――風は止んだ。ここからは私とこいつの命の取り合いだ。

 口の中に血の味を感じながら右肩に剣を乗せる。左手はぶらりと地面に脱力し、動く気配はしなかった。

 現実はどこまでも無慈悲だ。

 竜は残り二対の翼を羽ばたかせると、悠然と上空へと舞い上がっていくではないか。

 

「そんなのアリ?……」

 

 想定していなかったわけではない。けれど、通常のワイバーンと同様に、一本切ればバランスが取れないことに彼女は賭けるしかなかったのだ。

 そして賭けに負けた。

 太陽を背にワイバーンはアナスタシアを睥睨する。もう避ける気力はない。そしてかの竜が息を吸い込むのが彼女にも見えた。


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