梨子が語る、果南ヒロインの話です。
ひんやりとした空気を吸いこんで、私は一息ついた。
校舎の影になった中庭は、もうすっかり暗い。私は部室の扉ごしに聞こえる声をあとに、なんとなく体育館の外廊下を歩いた。
ルビィちゃんと私の誕生パーティ。誕生日が二日しか離れていないので、学校説明会やラブライブ予選で忙しいこともあって合同ということになり、あいだの一日を使って
みんなは合同になったことについてしきりにすまながったが、私には十分だった。
その誕生パーティを、私はルビィちゃんに話題が移ったのを
嬉しいし、みんなと話すのは楽しいとはいえ、ずっと
ルビィちゃんには悪いけれど、すこしだけ休ませてもらうことにしよう。
そう思いながら体育館の
私は渡り廊下の壁にもたれて、それを眺めた。
東京にいたころには空や海を眺めたりなんてしなかった。沼津は――
もうすぐお
内浦に来て本当によかった。
「
背中から声がして私は振り返る。
「
「ちょっと疲れちゃった?」
「そうね、ちょっとだけ」
私と同じく制服姿の彼女は、うなずくと隣に来て同じように空を眺めた。
私は果南ちゃんの横顔をうかがう。
まるで海を思わせる青い髪に、紫がかった瞳がよく似合っていた。すこし垂れ気味の目元は優しそうな雰囲気で、軽く閉じられた口元から顎にかけての曲線は意志の強さを感じさせた。
あれだけダイビングやランニングをしているのに、肌は白くてなめらかだった。
果南ちゃんは横顔が――横顔も、きれいだと私は再確認する。
でも、私は果南ちゃんのことが、出会ったころからすこし苦手だった。
果南ちゃんがAqoursに加入するまではときどき千歌ちゃんの家で出会うくらいで、加入してからも練習以外ではほとんど会わなくて――それに、体育会系の果南ちゃんとインドア派の私とでは、そりがあわないはず。ずっとそんな気がしていた。
「ん? どうかした、梨子?」
私の視線に気づいて果南ちゃんは首をかしげる。
「えっと、その、なんでもないよ」
本当のこと――横顔に見とれていたなんてことはいえなかった。以前のことを思い出していた、なんてことも。
だから私は、つい先日のことを彼女に聞いてみる。
「果南ちゃん、結局、あのあとどうなったの?」
「うん、それなんだけどさ……」
果南ちゃんはほんのりと頬を赤く染めた。
きっと彼女もこの話をするつもりで、私がパーティから抜け出したのを見て、あとからついて来たのだろう。
そんな果南ちゃんのことを嬉しく思いながら、私はすこしだけ彼女のほうに身を乗り出した。
§
あれは九月に入ってすぐの、ある週末のことだった。
すこし前のラブライブ地区予選でAqoursは残念ながら敗退して、その日は練習も休みになり、私は母と沼津市街に来ていた。「たまには親孝行しなさい」と母にいわれて買い物に付き合わされたのだった。
とはいえ母と外出するのはひさしぶりで、母にはいわなかったものの私も内心楽しみにしていた。
服装も友達と外出するときよりもすこしだけ大人っぽく、ピンクのワンピースにブルー系の七分袖のボレロジャケットを選んだ。
昼過ぎに沼津駅に着いて、ショッピングモールへ行き、服飾店を中心にいくつかまわったころ。
「あら、
母に話しかけてきた女性がいた。グレーの上着と膝上丈のスカートで、私にも見覚えがあって――。
「
「梨子ちゃん、こんにちは。娘がお世話になっております」
「いいえ、こちらこそ、善子ちゃんとは親しくさせていただいてます」
私は(母の前だからというわけではないけれど)
「今日はお買い物、津島さん?」と母。
「ええ。秋物、そろそろ買わないと、と思って」
「私も同じですわ。今年、急に涼しくなったでしょう。困りますよね」
そのままふたりは話し込んでしまい、私が正直にいって飽きてきたころ。
「よかったらご一緒しません?」
母がいった。
「あら、よろしいんですの?」
「ええ、もちろん」
満面の笑みでうなずく母。それじゃ、私は? さすがに友達の母と一緒に行動するのは、すこし緊張するのだけれど――。
顔に出ていたのだろう、母は私に続けた。
「梨子ちゃんは、ひとりでお買い物してもいいわよ。お友達と遊んでもいいし」
「私は……」
私のことを誘ったのはお母さんなのに、と思ったけれど、偶然友人に出会ったら、私も同じかもしれなかった。
仕方がない。
「わかった。そうするわ」
「悪いわね、梨子ちゃん」
母は微笑み、私も笑顔を返した。
私は善子ちゃんのお母さんに一礼してから、その場を離れた。
さて、どうしよう。
なにかいいものがあったら母にねだろう、と考えていた程度で、私自身には特に買い物の予定はなかった。
とりあえず私はショッピングモールを出て、よく行く商店街のほうに足を向けた。
・
メッセージアプリで誰かを誘おうか。それとも、たまにはひとりも悪くないかもしれない。もしかしたらお母さんのように誰かに会うかも。
そんなことを考えながら歩いていると、私の予想は果たして現実になった。
でも、私は一瞬、話しかけようか
私はためらったことに罪悪感を覚えて――頭を振ってそれを振り払い、彼女に近づいた。
「あの、果南さん?」
彼女は身体をびくっとさせてから振り返った。
「……梨子ちゃん」
びっくりしたような顔は、すぐに落ち着いたいつもの表情に戻る。
「今日は沼津まで遊びに来たの?」
彼女はそういって歩き出し私もついていく。
果南ちゃんはグリーンの七分袖のパーカーに、紺のクロップドパンツという飾らない格好だった。
「ええ、ちょっと買い物に」
「そうなんだ。めずらしいね、千歌や
たしかにそうかもしれない。でも、それをいうなら果南ちゃんも――。
私のいいたいことに気付いたのか、果南ちゃんは、あははっという感じで笑った。
「ごめん、私がいえたことじゃなかったね。うん、今日は私もひとりだよ。ときどきひとりでこっちまで来るんだ」
「そうなんですね」
果南ちゃんの視線に私は続けた。
「母と一緒に買い物に来たんですけど、母が友人に出会って……私は、別れてきたんです」
「そっか、まあそういうこともあるよね」
ちょうどそのとき私たちは書店の前を通りがかる。
「おっと、寄ってかなきゃ」
果南ちゃんはそういって立ち止まった。
「梨子ちゃんは?」
「私も見ていきます」
私が答えると果南ちゃんは嬉しそうに笑った。
果南ちゃんはちょうど発売日だというダイビング専門誌を購入した。私も音楽雑誌を買った。花丸ちゃんは今日は、いないみたいだった。
書店を出て私はそのまま果南ちゃんと一緒に買い物を続けた。彼女は私と違って、目的地が決まっているらしい。
次に果南ちゃんが向かったのは文具店だった。私も画材を買うのにときどき使っているお店だ。
最近あまり絵は描けていなくて画材は足りているけれど、新学期に向けて筆記用具かなにか買おう。
そんなことを考えながら棚を眺めて、いくつか買うものを選んだところで、棚の向こうからひょいっと果南ちゃんがあらわれた。
「梨子ちゃんも、なにか買う?」
「ええ、もうすぐ二学期だし、せっかくだから」
「ふーん。……あ、可愛いね、そのペンケース」
私が手にしていたのはピンクのペンケースだった。白い音符のモチーフが散らしてある。
「梨子ちゃんにぴったりだよ」
「それじゃ、果南さんにはこれなんかどうですか?」
私は隣にあった青いペンケースを代わりに取り上げる。デフォルメされたイルカの柄でこちらもなかなか可愛い。
果南ちゃんは私の気のせいでなければ、一瞬だけ目を輝かせて、でもすぐに苦笑いした。
「いや、私、そういうの似合わないし……」
そういって首を振る。
「そうですか? 似合うと思うんだけどなあ」
「いやいや、イメージじゃないでしょ」
私の言葉は本音だったのだけれど果南ちゃんは笑って受け流した。私はペンケースを置いてレジに向かう彼女について行った。
「果南さんはなにを買うんですか?」
「私? 私はこれ」
彼女が見せてくれたのは数冊の伝票だった。お店で店員さんが金額を書き込むようなものだ。
「うちの店で使うんだよね。そろそろ切れるから補充しておかないと」
「しっかりしてるんですね、果南さん」
「まあね。でも、可愛さのかけらもないよね」
果南ちゃんはそういって、また笑った。
自宅のお店の手伝いをしている果南ちゃん。
さっきは、ひとりなのかと聞いたことについて、私の気持ちを察してすぐに
私とひとつしか違わないはずなのに、私よりもずっと、大人びているように見えた。
・
「梨子ちゃん、これからどうするの?」
果南ちゃんとのショッピングは思いのほか楽しかった。会話らしい会話も彼女とは初めてかもしれない。
「特に予定はないので……もしよかったら、ご一緒してもいいですか」
「嬉しいこといってくれるね」
彼女はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、もうすこし付き合ってもらおうかな」
「はい」
私も笑みを返した。果南ちゃんは急に心配そうな顔になる。
「あ、梨子ちゃん、疲れてない? 私、体力バカだから、あまり人のこと
十分気遣えてますよ、と思いながら私は話す。
「まだ大丈夫です。……でも、なにか飲んだほうがいいかもしれませんね」
九月に入ったとはいえ日中はまだ暑い。水分補給は(練習のときと同じように)重要だろう。
「うん、そうだね」
果南ちゃんは
「それじゃ、先にちょっと休憩しようか」
果南ちゃんは迷うことなく歩き出した。途中、弁解するように話す。
「ときどき行く店があるんだけど、そこでいいかな?」
私はうなずいた。
・
果南ちゃんは次の交差点の角にあるコーヒー店――Aqoursのみんなと何度か行ったことがある――を無視して横道へと曲がった。
予想が外れて、果南ちゃんのお気に入りの店がどんなところなのか、私は急に気になり始めた。
果南ちゃんはすこし歩いて、あるビルのなかへと入った。
ビルのなかにある店なのだろう。そう思ったらビルの通路はそのまま中庭のような空間に通じていた。
ビルに囲まれた中庭は、
ビルの谷間にぽっかりと空いた、決して広くはないけれど日の光の差し込む、素敵な空間だった。
私は思わず立ち止まる。
「商店街のなかに、こんなところがあったんですね」
「うん、なかなかいい感じでしょ」
果南ちゃんは振り返り笑った。
中庭の奥には
よく見ると蔵の入り口の上に、小さな赤い看板が出ていた。
歩みを再開した果南ちゃんに私はついていった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
入り口の扉(いわゆる蔵の扉ではなく、木製の枠にガラスがはまった洋館のような扉だ)を開いてくれた果南ちゃんにお礼をいって、私は店内に入る。
なかも素敵だった。
やはりイメージは洋館に近くて、白い壁にマホガニー色の柱、同じく茶色で統一された調度が落ち着いた雰囲気だった。吊り下げられた照明にはステンドグラスが輝いている。
左手にテーブル席、右手にカウンター席があり、その奥は
「いらっしゃいませ」
カウンターのなか、白いシャツに黒いエプロンを着けた初老の男性が私たちにお辞儀をして、果南ちゃんも目礼を返した。
「お好きな席にどうぞ」
先客はカウンターの中年男性だけだった。果南ちゃんと目配せして、私たちはいちばん奥のテーブル席に座った。
「素敵なお店ですね」
「うん、私も気に入ってるんだ」
果南ちゃんはうなずく。
まるで隠れ家みたいだった。こんな店をお気に入りにしている果南ちゃんをうらやましく、そしてやっぱり大人だと思う。
私はひとりっ子だけれど、お姉ちゃんがいたらこんな感じだろうか。
その果南ちゃんは鞄からスマートフォンを取り出した。
そして電源を入れずに画面を見つめて、片手で髪を軽く整えたかと思うと、鞄に戻した。
鏡がわりに使ったんだ。でも、どうしてだろう。
その疑問が解消したのはすぐだった。
§
「いらっしゃいませ」
コトリと静かに、私の前にお
さきほどのカウンターのなかにいた男性――おそらくマスター――とは別の、若い男性だった。私たちより年上、たぶん大学生くらいで、背も果南ちゃんより一回り大きい。やせ形で優しそうな顔立ちだった。
マスターと同じくシャツとエプロン姿の彼は、にこりと笑った。
続けておしぼりを置いてから、果南ちゃんの前にグラスとおしぼりを置く。
「いらっしゃいませ、松浦さん」
「あ、こんにちは」
果南ちゃんは背筋を伸ばし、ぎくしゃくとした動きでぺこりと頭を下げた。
彼はお辞儀をして戻って行く。果南ちゃんの目が彼を追っていた。
カウンターの奥に消えると彼女はふうっと息をはいた。彼女の顔は、絶対に、赤くなっていた。
私は微笑みたくなるのを必死に我慢した。
お冷を一口飲む。メニューから果南ちゃんはアイスコーヒーを選び、私は「ここ、紅茶にもこだわってるよ」という彼女の言葉にしたがってアイスティーを選んだ。
もういちど彼が注文を聞きに来て、果南ちゃんはいつもよりすこし高い声でふたつの品物を頼んだ。
彼が見えなくなると果南ちゃんは緊張をといた。
でも、どういう関係なんだろう。彼は果南ちゃんの名前を知っていたから、たんなる店員とお客さん、よりもすこし進んでいるのかもしれない。
とはいえ、雑談をしたわけではないから、そこまで親しくないのかも。
常連か、友人か。
いずれにしても果南ちゃんのほうが意識していることに間違いはなかった。
書店の袋からダイビング雑誌を取り出した果南ちゃんに、私は思い切って話しかけた。
「あの、果南さん」
「なあに、梨子ちゃん」
「さっきの店員さん、お知り合いですか?」
果南ちゃんはぎくっという顔をした。悪いことをしたかな、と思ったけれど、果南ちゃんは言葉を選びながら答えてくれた。
「知り合いっていうか……うーん、父の知り合いかな」
「お父さんの?」
「うん。父に
「そうなんですね」
お店をやっていれば、そういうこともあるのかもしれない。
「でも、この店は?」
「復学したころかな。たまたま入ったら、あの人がいてさ……。バイトしてるみたい」
果南ちゃんはちらっとカウンターの奥を気にした。
事情はわかった。私はすっかり果南ちゃんの恋――でいいのだろう――を応援したくなっていた。でも、見守る以外には、なにもできそうになかったけれど。
しばらくして新しいお客さんが来て(彼が出てくるたびに果南ちゃんはそわそわしていた)、奥でマスターと彼が話をする気配がして、彼がメニューを持ってきた。
「アイスコーヒーと、アイスティーになります」
そういって果南ちゃんと私の前に、丁寧にグラス、ストロー、ミルク――と彼は置いていった。
果南ちゃんはやっぱり背筋を伸ばしていた。
「ありがとうございます」
「あっ、ありがとうございます」
私と果南ちゃんの声が重なった。彼はにこっと笑って、果南ちゃんに話した。
「それ、今日発売ですよね」
テーブルに置いてあった雑誌のことだ。
「そうですね」
「伊豆諸島の記事、載ってるんでしたっけ」
「はい、私も楽しみにしてました」
果南ちゃんが答えると彼はもう一度笑ってから頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
彼が去ってから私は聞いてみる。やっぱりダイビング雑誌は沖縄や海外の記事が多くて、日本近海は珍しいらしい。
「駿河湾も特集してほしいよね」
「そうですね」
内浦に来てから、あることがきっかけで
いつのまにか伝票が果南ちゃんのほうに向けて伏せられていた。
・
紅茶はとてもおいしかった。渋みはあったけれど後味がさわやかだった。
果南ちゃんにそういうと彼女は嬉しそうに笑った。
コーヒーも一口、飲ませてもらう。こちらはしっかりとした苦みと香りがあって、ミルクがよく合いそうだった。
「私は、けっこう好きだよ」
と果南ちゃん。やっぱり私より大人だ。でも、さっきの彼女は。
私も女の子だから恋愛に興味がないといったら嘘になる。だけど千歌ちゃんも曜ちゃんも、私の知る限りでは縁がなかった。もちろん私も。だから身近な人がこんな風に、恋をしているなんてとても新鮮で――。
アイスティーをグラスから半分くらい飲んだところで、私は決断する。
余計なお世話かもしれない。しかし、私を誘ったということは、もしかして。
私はカウンターのほうに彼がいないのを確認してから、話す。
「果南さん」
「ん?」
「あの人のこと、どう思ってるんですか?」
「ええっ、なあに、いきなり」
果南ちゃんはぶわっと真っ赤になった。
「やっぱり、その、告白とか、考えてたりするんですか?」
「ええっ、告白?」
果南ちゃんは裏返った声を上げて、はっと我に返る。彼女も私も店内を見渡すけれど、こちらを見ている人はいなかった。
先走りすぎたらしいと私は反省する。私を誘ったことに――そういう意味はなかったということだ。
「あの、てっきり、私、果南さんが相談でもしたいのかなって……。ごめんなさい!」
「あ、うん、いいよ、気にしないで」
「でも、その、果南さん、素敵だから、きっとうまくいきます!」
「いやいやいや」
果南ちゃんは真っ赤な顔を振って、アイスコーヒーを一口、飲んだ。
私も申し訳なくなって、ごまかすように自分のグラスから口にした。
果南ちゃんは椅子にもたれて、片手で
「まいったなあ、そんなにわかりやすいかな、私」
私は無言でうなずいた。
「これはちょっと、考えなくちゃだね」
果南ちゃんは苦笑してまたコーヒーを飲み、グラスは氷だけになった。
私はなにをいえばいいのか、わからなかった。むしろ穴があったら入りたいくらいで――。
果南ちゃんは私を
「それはそれとして……。ねえ、梨子ちゃん」
そうつぶやいた果南ちゃんは、とても可愛かった。
「はい」
「前から思ってたんだけど……梨子ちゃんって、すごく可愛いよね」
「えっ……」
私はどきりとする。まさか、でも、いやそんなことはない。さっきあんな彼女のようすを見たのだから。
「うん。この際だから、そうしようかな」
果南ちゃんは自分にいい聞かせるようにつぶやいてから、私のほうに身を乗り出した。
「ちょっとお願いがあるんだけどさ……」
・
「わかりました。私でよかったら」
しばらくして私はうなずいていた。
果南ちゃんの頼みは、一緒に服を選んでほしいというものだった。
果南ちゃんは私のセンスをさかんに
「ちょっと女の子っぽい服、着てみようかなって」
そういう果南ちゃんはやっぱり可愛かった。
そういえば今日、果南ちゃんに会ったとき、彼女がいたのは服飾店の前だった。
桜内梨子、微力ながらお手伝いさせていただきます! そう私は心に
会計をすませて(彼ではなくマスターが対応してくれた)店の外に出て、私はお礼をいう。
「すみません、果南さん。おごってもらっちゃって」
「いいよいいよ、気にしないでよ。なにしろこれから世話になるわけだからね」
彼女はにこっと笑い、続ける。
「もうひとつ、お願いなんだけど」
「なんでしょう」
「よかったら、さん付けは止めてくれないかな。なんかむずがゆくってさ」
照れくさそうにいう果南ちゃん。
「わかりました。果南さん……じゃなくて果南ちゃん」
「うん、そのほうがずっといいかな」
果南ちゃんは微笑んだ。
彼女との距離がすこし近づいた気がした。
§
それから私たちは商店街からショッピングモールへとはしごして、ああでもないこうでもないと話しながら服を探した。
背が高くてプロポーションがいい果南ちゃんには、どんな服でも似合った。
大人っぽい雰囲気はもちろん、可愛らしいものも。
アーケードの透明な屋根が赤く染まるころ、結局、最初に果南ちゃんがのぞいていた店まで戻ってきて選んだ。
シンプルだけれど襟元にフリルのついた、白の袖なしのワンピース。ウエストは軽く絞られて、ひざ丈の
試着室のカーテンが開いたとき、私は思わず感嘆の吐息をもらしていた。
「果南ちゃん、よく似合ってます!」
「うーん、そうかなあ。ちょっとヒラヒラしすぎてない?」
ほんのり顔を赤らめ、鏡の前で回る果南ちゃん。
「そんなことないです! もっと可愛くてもいいくらいですよ」
「いや、これ以上はちょっと……」
「だからすこし、
「でもさ、私、こういうの……」
「そんなこといっちゃだめです! 忘れたんですか、今回の目的!」
「ええっ、梨子ちゃんにはなにも話してないと思うんだけど」
そういえばそうかもしれない。でも、あれを見たら気づかないほうがおかしい。
「お見通しですから。それともあんな感じのも、着てみますか?」
私はすぐ近くに飾られている派手なフリルのついた――善子ちゃんなら似合いそうな――ワンピースを示す。
「梨子ちゃん厳しいなあ、もう」
果南ちゃんはさっとカーテンを閉じた。
試着室から出てきた彼女に私は聞く。
「どうしますか、果南ちゃん」
「うん、これにするよ」
まだすこし赤味の残る顔でうなずいて続ける。
「梨子ちゃんにあそこまでいわれちゃったらね」
すこし強引だったかもしれない。でも、絶対に果南ちゃんは後悔しないだろうということには、自信があった。
・
服を包んでもらいお店から出ると、屋根はすっかり黒くなり、店の看板とショーウィンドウ、それに屋根にそって並ぶ帯状の照明が輝きを増していた。
「今日はありがとう、梨子ちゃん」
店の前で果南ちゃんはしっかりと頭を下げてお礼をいってくれた。
「いえ、一緒に買い物できて、楽しかったです」
「それならよかったかな。私もだよ。それじゃ、帰ろっか」
「はい」
歩き出してすぐ、果南ちゃんは聞く。
「あ、梨子ちゃん。疲れてない? どこかで休んでいく?」
ちょっと疲れているのはたしかだった。でも。
「この時間なら、バスは座れると思いますし、大丈夫です」
「うん、そうだね」
私はすこしだけいたずら心を起こす。
「それとも、あのお店にもう一度、行きますか?」
「ええっ、さすがにちょっと恥ずかしいよ。二度も行くなんてさ」
果南ちゃんは明らかにうろたえていて、そんな彼女を私は可愛いと思う。
「うふふ、冗談です」
「もう、梨子ちゃん、厳しいなあ」
「あっ、ごめんなさい、果南ちゃん」
果南ちゃんはぷくっと頬をふくらませて、私は謝る。どうみても怒っているふりをしているだけ、だったけれど。
「……それじゃ、そんな梨子ちゃんに、もうひとつお願い、しようかな」
今度は果南ちゃんがいたずらっぽく笑った。
私はどきりとする。でも、お願いの内容はたいへんなものではなくて――むしろ嬉しいものだった。
「その、ですます調っていうの? 使わなくてもいいよ、わざわざ」
「えっ、でも、先輩ですし……」
「だって私、ひとつしか違わないんだよ。千歌とか曜とか、あんな感じじゃない。やっぱりちょっと、落ち着かなくてさ」
「果南ちゃんがいいなら、そうさせてもらいますけど……」
「もちろん、いいよ」
私はお言葉に甘えさせてもらう。
「それじゃ、果南ちゃん、よろしく」
「うん、いい感じだよ」
果南ちゃんは嬉しそうだった。――ん、それなら私だって。
「私からもお願いしようかな」
「うん、なんでもいってよ。梨子ちゃんの頼みなら、なんでも聞くよ」
「その梨子ちゃん、っていうの、呼び捨てにしてくれると嬉しいな」
「ええっ、それはちょっと……」
果南ちゃんは目をそらした。
「どうしてですか。千歌ちゃんとか曜ちゃんは、呼び捨てじゃないですか……だよね」
「うーん、梨子ちゃんは梨子ちゃん、って感じなんだよね」
そういうものだろうか。でも――ちょっと寂しい。
「……わかったよ。そんな顔しないでよ。えっと、梨子。……これでいいかな?」
なぜか恥ずかしそうにする果南ちゃん。
「うん!」
私は大きくうなずいた。
バスに乗る前に、商店街の店でクレープを買った。やっぱり果南ちゃんが、私がなにかいう前におごってくれた。
こういうところはやっぱりお姉ちゃんみたいだなと思う。
「次は私が払うね」
「気にしなくていいよ、梨子」
「いいえ、私がおごるんだから」
「わかった。うん、そうしてくれると嬉しいな」
そういって果南ちゃんは笑った。
・
内浦へのバスはやっぱり
ずっと彼女に感じていた距離感。それはいつのまにかすっかり消え失せていた。
バスはやがて沼津の市街地を出て、右手には夜の海が見えてくる。彼女はじっと、それを見つめた。
果南ちゃんはとてもきれいで、大人っぽくて、でも私と同じ女の子だった。
ふと果南ちゃんがこちらを向いて口を開いた。
「ねえ、梨子」
「なあに、果南ちゃん」
果南ちゃんはうふふ、というように笑って、続ける。
「また一緒に遊んでくれるかな」
「もちろん。今度は私が、おごらなきゃだし」
「そうだったね」
果南ちゃんはうなずいた。
果南ちゃんと私。違うところ。それは――。
「果南ちゃん、あの人に……」
恋してるの、といいかけて、止める。
「……話をするつもり、だよね」
「うわ、なあに、いきなり」
果南ちゃんは体をびくっとさせた。
「ご、ごめんなさい。その、ちょっと気になって……」
「いいよいいよ」
ふうっと息をはいてから口元をゆるめる。
「……梨子、そういう話、好きそうだもんね」
「えっと、それは……」
本当のことなんだけれど。
私がなにもいえないでいると果南ちゃんはささやくように話した。
「……梨子はお見通しだもんね。うん、ちょっとお話しできないかなって、思ってるよ」
「やっぱり、そうなんだ」
「うん。実はさ、彼、私が店に立つようになってから、何度か来てるんだけど、一度も泳いだことないんだよね」
私はうなずく。
「昔の常連、っていうのに、おかしいよね。父に聞くのも、なんか気にしてるみたいで恥ずかしいしさ」
「そう……だよね」
「もちろん、彼のこと、もっと知りたいっていうのも、あるんだけど……って、私、なにいってるんだろうね」
果南ちゃんは顔を赤らめて窓のほうへ目をそらした。
「あの、きっとうまくいくと思うな」
「そうかなあ……」
私の言葉に、彼女は自信なさそうにつぶやく。
「私、絶対緊張するし……わかりやすいから、変な子だって思われないかな」
「それは……あの……ライブだと思えば、緊張しないんじゃない?」
「ライブ、か」
彼女は私に向いてウインクする。
「それじゃ、今日選んだのは、ステージ衣装だね」
「うん、そうだよ、果南ちゃん」
「ありがと、梨子」
果南ちゃんは微笑んだ。
・
あわしまマリンパークのバス停で、果南ちゃんは立ち上がった。
「それじゃ、気を付けてね、梨子」
「果南ちゃんも」
バスが止まり、また走り出す。
果南ちゃんはバスに向けて手を振ってくれて、私も振り返した。
彼女が見えなくなって私は椅子に座りなおす。
果南ちゃんはいつも、きれいだった。でも、この日、あの喫茶店での彼女は、いつもと違った。
今月の誕生日で、私も彼女と同じ十七歳だ。
もしかしたら私にも、彼女のようななにかが――出会いが、起きるのだろうか。
きゅんと胸が痛くなった。いまはなにもない。でも、きっと、いつかは――。
私が下りるバス停までは、もうすぐだった。
§
「……って感じ。一歩前進かなあ」
果南ちゃんはそう締めくくり、嬉しそうに笑った。その笑顔に私まで嬉しくなる。
「よかった、果南ちゃん」
「梨子のおかげだよ。ありがとう」
果南ちゃんはそういってくれたけれど、もともとの彼女の優しさと強さと美しさと――とにかく彼女の魅力を考えれば、当然の結果だろう。
私たちが話していたごく短いあいだにも、東の空は濃さを増していた。きらり、と星が光った。
「そろそろ戻ろっか。探しに来ちゃうかも」と果南ちゃん。
「ええ、ルビィちゃんにも悪いし」
「あはは、そうだね」
彼女のあとについて、廊下を急ぎ足で戻る。ポニーテールの髪が揺れる。
いつかふたたび、彼女の話を聞くことがあるに違いなかった。聞きたかった。とにかく全力で、彼女を応援したかった。
もしかして私にも――そんな想いが、またちらりと浮かんだけれど、それは開いた扉から聞こえたみんなの歓声で、どこかに飛んで行ってしまった。
すくなくとも、いまは。