目の前にいる存在がこれまでとまるで別の生物のような気さえする。
胸を締め付けるような圧迫感があるのに、敵意をまるで感じない。
あまりにも自然体。
それがあの時を思い起こさせる。ライムワールドの最後。今の無空竜は確実にあの時のそれに匹敵する。
そう思うと血が昂った。
乗り越えるべき敵、それが目の前にいる事にすら感謝を覚えた。
無空竜の叫び声が響く。
それは本当の意味での開戦の号砲。
上体を起こした二足歩行の姿勢。手より先を失った左腕が無造作に振るわれる。
飛んでくるのは血の目潰し。
それを屈むように避けた、けれど一瞬、確かに視界を塞がれる。
その次の瞬間には無空竜は一歩、足を進めていた。
その巨体が上体を大きく反らし、地面を削るように腕を振るう。
それだけで砕け散ったアスファルトの破片が飛んでくる。
その攻撃範囲から逃れるために走る。
けれど、これは誘導だ。
負傷の多い左の方へといかせないように右側を回るように誘導されている。
それでも前に進む他に選択肢はない。
元よりどちらが先に力尽きるかの我慢比べ。
尻尾での振り払いを避け、さらに回り込んでいく。
完全に背後を取り、懐に飛び込む。
振り向こうとする無空竜。
けれど、遅い。狙うのはこちらを向こうとしている最も逃れにくい腹部。すでに一度ダメージをあたえているため通しやすい。
確実に打ち込める間合い。
為すのは、ただ最速の剣
極限にまで研ぎ澄まされた一閃を解き放つ。
過去、これ以上に無い最高の一撃。
火花が散る。
手に不快な衝撃が走り、耳に甲高い音が響く。
その一撃はあまりにもあっさりと右手の爪によって受け止められていた。
確実にこちらの行動を予測されていた。
「しまっ……!」
受け止められただけで終わらない。
そのまま、体ごと殴り飛ばされるように宙へと放り出された。
空は竜の領域。
空中で静止する頂点に到達する時、すでに目の前に無空竜はいた。
未動きの取れない空中。
尻尾をしならせ全身を回転するように、その尖端による一撃が放たれる。
剣を前に出し防御しようとするが、防御の上から問答無用の衝撃が走る。
更に吹き飛ばされ、コンクリート壁のビルへと全身を叩きつけられる。
白く細い何かが視界を覆う。
息すらできず、自分が遠くなっていくような感覚。
生きているのが不思議なくらいの痛み。
遠い。
どこまでも遠い。
痛みを通り越す。
視界に映る無空竜のとどめを刺そうとする腕の一撃。
全身に力を込める。
何かが引きちぎれていく気がした。
それでも、勝つために。
弱い自分が強くなったと証明するために。
上体を屈ませ、足のバネを全力で使い、前へと飛ぶ。
この一撃に。
全てを込める。
刺突。
それは最もシンプルな一撃。
だからこそ、その喉元へ届く最後の攻撃。
自らの危機を察知した無空竜の腕が止まる。
剣の軌道の先をはたき落とすように左腕を伸ばしてくる。
超常の反射神経。
無空竜がそうあるために、ただ一つ、何よりも優れていた一点。
左腕に剣の先端が突き刺さり、その軌道を反らされていく。無空竜の喉元まで届くかに思えた刃が遠くなっていく。
勝利を確信した無空竜の笑み。
自ら空中に躍り出た以上、一撃で仕留めなければならなかった。
思考が数秒先の未来の姿を幾重にも幻視させる。取れる選択肢、その全てが敗北に結びつく。
まるでそれが運命だというように。
ライムワールドの再現。
けれど。
それは幾度となく経験した絶望的な状況。
それでもと叫びながら。
誰かが背中を押してくれるから。
さらに先へと突き動かされる。
瞬間。
それに呼応するかのように街中の電気が全て消えていく。
状況を把握できず周囲に意識を向ける無空竜。
きっと、何処かの馬鹿が電気施設でもハッキングしたのかもしれない。
こんなタイミングで横槍を入れようとするヤツは一人しかいない。
自ら剣を投げ捨てる。
叫ぶ。ありたっけを込めて。
腹のそこから自分の全てを絞り出すように。
無空竜の左腕を上げたその腹めがけ手刀を繰り出す。
本来ならダメージにもならない攻撃、けれど、そこは一度切り裂いた場所。
傷口を抉るような一撃。
痛みと予想外の重量によって飛行姿勢を維持できなかったのだろう。互いにもつれるように地面へと落ちていく。
アスファルトの上に落下した。
土煙を上げ仰向けに無空竜が倒れ伏し、その上に立つ。
起き上がろうと羽を動かす無空竜。
「これで!」
空に向かい手を伸ばす。
大きく見開かれた無空竜の瞳に映る自分の手へと、そうあるように剣が落ちてくる。
「終わりだ──!」
最後の一撃。
すべてを思い出にかえる一撃。
今度は躊躇わない。
その覚悟ができたから。
ドスンと言う鈍い音。刃が無空竜の心臓を貫いていく感触。
深々と突き刺さり、血飛沫が染め上げる。無空竜の胸が大きく跳ね上がった。
存在が破裂するような断末魔の叫びが響き渡る。
何処までも響くその声は何度も木霊し。
やがて静けさが訪れる。
ゆっくりと無空竜から力が抜けていくように地面に手が落ちる。
苦悶を浮かべているその表情はどこか満足気で、その姿を見ていると涙が溢れだした。
心臓から剣を引き抜き、その血を払う。
街の電気が再び光を取り戻していく。
光の下で息を切らせながら目を閉じる。
本当に終わったんだと。
そう思った瞬間、笑い声が響く。
『……ァハハハハハハ』
無空竜の姿が淡い青い髪の少女へと変化していく。
どこもかしこもボロボロになった初心者装備。
大の字で寝転び、その胸から血を流す。
とても生きているとは思えないほどの傷を抑え、ソラは笑っていた。
『ハハ……負けた……あぁ……負けた。これでやっと終われるんだ』
その表情はどこまでも晴れやかで、出会ったときのソラそのものだった。
どうしてそんな顔をしているのか。
理解なんてできるはずもなく、ただ、言葉を失っていた。
『ごめんね』
だからそんな言葉にも歯を食いしばる事くらいしかできない。
「……何を、今更、謝ってるんだ」
『私は一人じゃないからさ。……自殺すらできないんだ。終わらせる事すら……誰かの手を借りなきゃいけなかった』
ソラの命は自分だけのものじゃない、無空竜と混ざりあったせいでおいそれと死ぬことすら選べなかたったのかもしれない。
「ふざけんな! こっちにいれるなら、こんなことせず、ずっといればよかっただろうが!」
困ったような顔でソラは首をふる。
『無理だよ……質量を持ってこちらにくるのも世界が近づけたからできたんだ。離れれば後は消えていくだけ』
「なんで……お前は世界が重なるのは阻止しといて、どうしてそうまでして離そうとする。やってる事が無茶苦茶だろうが!」
『ずっと離れてると気づくんだよ……自分は割とこの世界が好きだったんだって…………。世界があるから、自分がいるんだって』
「そんなに好きなら、自分の体に戻ればいいだろ」
『体がね、もうダメなんだ。アンノウンから無理矢理に中継器とバックアップとして脳を稼働させているだけ……それも、もうすぐその役割も果たせなくなる。……けれど、それでようやくアンノウンとは完全に世界が分かたれるんだ』
まるで、機械の部品の事でも語るかのようにソラは自分の身体の事を言う。
「どうして……私の前に現れたんだ」
『忘れたの、ルルが私の前に現れたんだよ。私は弱い人間だからすぐに壊れちゃうんだ。時々、脳から直接、自分の記憶を継ぎ足す事で私は私を維持してきた。20代そこそこの私と今の記憶、その二つが混濁している間は夢を見ているみたいに、何もかも忘れて生きられる』
そう言う姿は遠い何かを夢想するように笑っていた。
それは半ばAIとなったために忘却すらできないソラが生み出した、たった一つの狂気から逃れる方法だったのかもしれない。
『ルルと出会ったのはその時だよ』
一つ一つ、思い出すように。
ソラは手を伸ばす。
『本当はずっと終わりを探してた。MMOってエンディングがないから、やめ時が見つからなかった……でも、何処かで終わりは来るんだ。だから、終わり方くらいは自分で決めたかった』
ライムワールドが終わったとき、アンノウンが受け入れられず去っていた者たち。
仲が良かったネトゲ友達が同じことを言って去っていった。
それは突然の事で、止める事すらできなかった。
「……ふざけんな!」
『これが私のエンディング』
全身の痛みが頂点に達し、立ってすらいられなくなる。
持っていた剣が消えていく。
アシンメトリーの服も魔法が溶けたように戻り、現実が追い付いてくる。
「ふざけんな! ……認めるか! ……こんなの! ……こんなの」
這うように今にも消えようとするソラの方へと必死に向かう。
手を伸ばす。
もう一度。
けれど届かなくて。
それでも、祈るように手を伸ばす。
いつからだろう、目の前に腕輪が転がっていた。
チェンジリング。
自分の腕にも同じものがまだあった。
ソラもその存在に気づいたのか目を大きく見開いていた。
きっと、もう一人の自分は選べと言うのだろう。
一つはこのまま全てが終わるのを待つ道。
一つはソラと入れ替わり、自分がアンノウンへと行く道。
どちらも先はわからない。
もしかしたら、ただの自殺のような選択肢なのかもしれない。
「そうだよな……」
けれど、選択に意味はない。
それを強く握る。
ソラは何をしようとしているのか理解したのか、眉をひそめる。
『やめなよ、つらいだけだよ』
「お前は……私を助けてくれただろ」
アイに出会う前、何度か無空竜に助けられた。
きっと、それは嘘でもなんでもなかったから。
『亜号が私を狙っていたのは知っていたから。巻き込まれてた君を見ていられなかっただけ……』
「それでもだ……ソラのじゃない、これは私の、ルルのエンディングだ! 私が勝って、私が気持ちよく終わる。そうでなきゃいけないんだ!」
観念したように、目を細めソラは笑う。
『何それ……いったい何様なのかな』
「知らなかったのか」
力の入らないソラの腕にチェンジリングを通す。
「私は──ルル様だ」