「さて、どうしたもんかな」
逃げこんだ森の中で一人ごちる。
チャット機能で顔なじみに助けを呼ぼうかと操作していたが、フレンド登録がないと直接は相手に届かない仕様のせいで、ガロやロゼッタにすら送ろうにも送れない。
一応、フレンド申請はしたが見慣れない奴からのフレンド申請など無視されるのがおちだろう。
なにせ名前に見覚えのない申請の三通に一通はウイルスが同封されている。
実験がてらそういう事をする奴にも心当たりはあるが、実に嫌な世界だと感心する。
そんな馬鹿な事を考えていると獣臭い匂いが鼻に着いた。
野犬。
ライムワールド出展のどこにでも湧くモンスターと有名な野犬ロアドッグが近づいてくる。
「面倒な……」
武器がないため素手での戦闘になるけれど、流石にこいつに負ける訳がない。
茂みから飛び出してきたのは、予想通り牙が大きく、毛の長い中型犬のようなモンスター、ロアドッグ。それをボクシングのような構えで迎え撃つ。
ライムワールドの戦闘システムは至ってシンプル。
現実のそれだ。
ライムワールドの売り文句をそのまま言うのなら、神経接続により完成された第二のリアル戦闘システム。
現実との違いの方が少ない。
相手を傷つければ、血の代わりにブラッドダメージが入る。それが一定以上溜まると気絶する、つまりヒットポイントだ。また、痛みこそ感じないが言い知れない違和感のような感覚をうけるようになっている。
ライムワールドにレベルの概念はなく、強さとは装備とスキル、そして何よりも絶対的なプレイヤースキルが求められる。
対人戦において装備とスキルはプレイヤースキルを補ってくれるものだ。装備を強くすれば数値的に強くなるが、上級者以降ともなれば誰もが専用に特化した装備を作り上げる。
トッププレイヤーともなれば星の数ほどあるスキルから、自分にあったものを選び抜き、鍛え上げる。
誰もが真剣に、どうしようもない情熱をその一瞬に注いでいた。
そして、その一瞬、その一瞬だけは、私は誰よりも強かったのだ。
そんな私がロアドッグ相手に、遅れを取るはずがなく。
飛びかかってきたロアドッグの攻撃を紙一重でよけ、その腹に拳を突き入れる。
完璧かに思えたが体の反応が少し鈍く、ロアドッグの爪に肩が軽く引っ掻かれていた。
いつもの装備と違う、スキル構成も、だからと言ってここまで鈍くなるなだろうか。
「……?」
でも、この程度ならブラッドポイントはすぐに──。
「……ぁ?」
感じたのは熱さだった。
ライムワールドにも、アンノウンにもないはずのもの。
痛覚。
肩に手を当てる。手のひらに赤い血が付いた。
「は? ……血ぃ?」
ブラッドポイントは赤い粒子の演出だ。血なんてものが流れることはない。
舐めてみると鉄の味がした。味覚がそう感じるように、現実で見慣れない赤い液体が零れ落ちていく。
背筋が凍りついた。もはやここは自分の知るアンノウンですらない。
「……これ…………死んだらどなるんだ?」
ロアドッグが吠えながら突進してくる。
呆然としていたため無様な格好で腹に直撃を受け、ようやく現実に引き戻された。
「ぁ゛ぁああ! いたい……いたいいたい! なんで……なんで、痛いんだよ!!」
距離を取ろうとするロアドッグの首を横這いから掴み、体重をかけて地面へと叩きつける。
赤い粒子が飛び散った。
それがゲームとして正常な動作。
どうして、私はこんなに痛いのに。
「お前は! ……なんで!」
何度も何度もひたすら殴る。動物愛護団体が見たら卒倒しそうなほどにロアドッグを殴りつける。
拳が地面に突き刺さる。
地面にいたロアドッグは全身が粒子となって消えていった。
殴りつけていた指にすら痛みを感じる。
「こんな……どうしてこんなことに……」
例の亡霊を調べたから、それともあのドッペルゲンガーみたいな奴にあったから。
もしかしたら、もっとそれより以前の何かがおかしくなっていたのかもしれない。
体当たりされた腹がズキズキと痛む。
肩が熱を帯びたように疼いていた。
痛みが神経を尖らせるが、同時にそれは他の部分を緩ませた。
囲まれている。
気配などなく、当然のようにそこにいた。
それのシルエットはロアドッグに似ていた。だが、頭がない。頭があるであろう場所にあるのは、アルミのような質感をしたバスケットボールほどの丸い物体だった。
壊れたメトロノームのような動きで地面に頭をぶつけている。
「…………んだソレ?」
ライムワールドでは見た事がない。
明らかに異様な生物が周囲に取り囲むように、それも五体。
「ハハ……俺の思い出まで…………ぶち壊す気か!」
一番近くにいたロアドッグもどきに殴り掛かる。
避ける動作もなくそのまま拳が突き刺さる。まるで泥を殴りつけたような感触、その生理的な気色悪さに思わず手を引っ込めてしまう。
ロアドッグもどきが溶けるように崩れる。
丸い物体が地面に落ちていった。
転がるそれにどうしようもなく目が行ってしまう。
何かに睨みつけられたかのような緊張感。
一瞬の瞬きすらも許されない緊迫感。
それまでの憤りが恐れへと変質する。
丸い物体に他のロアドッグもどきが引き寄せられていく。
ぐずぐずとした触手のように、五つの丸い物体を中心に黒い泥があふれ出す。
「…………ヤバい……なんかヤバい」
現状、戦っても勝てるかわからない相手に対して逃げるより他の方法なんてない。
だが、目の前にあるのは恐怖だった。
手が震えていた。
痛みが、生まれて初めて命の危険性を訴えかけてくる。
「クソッ! ……!」
一閃。鞭のようにしなる触手が、それまでいた場所を切り裂いた。地面はえぐれ、木々に跡を残す。
咄嗟に反応できたのは奇跡だった。
予備動作などなく。
まるで、ゲームとしてのモーションを感じさせない動き。
ただ無造作に理不尽に、鞭のような攻撃が続く。
逃げることを許さないという風に。その攻撃によって退路を潰されていく。
アルミのような銀色の丸い玉が開く。
その中にあるのは虫の複眼のような無数の瞳。
その全てが笑っていた。
心の底から。
いたぶるのが楽しいという風に。
演出や、作られた、プログラムされたようなものではない。
生身の剥き出しの悪意。
それをこいつは持っていた。
「…………ふざっ……けるなぁ……!」
脳にアドレナリンが満たされる。
鞭のような攻撃も、一度見れば避けれないものはない。
一フレームより下の刹那の積み重ね、トップランカーの誰もがそこで戦ってきた。
それに比べれば、あまりにも遅い。
避けて。避けて。距離を詰める。
「……廃ゲーマー! …………なめんじゃねぇ!」
怒りに任せて殴りつけた。
感触は先程と変わらない気持ち悪さ。
手を戻そうとして、冷や汗が走る、腕がまるでビクともしなかった。
「なっ……!?」
絡め取るように腕から黒い泥が登ってくる。
ゆっくりと、いたぶるように。
複眼がまた、笑いだす。
「は……離せ!」
必死に足掻こうとするが、触れた部分からどんどんと飲み込まれていく。
その中は温度がなく、ただ、筋肉が凍りついたように震えだす。
神経が壊死したように、感覚が失われていく。
「離せぇえええ!!!」
輝線が走る。
それは一瞬で丸い玉を一つ、切り裂いていた。
「セーフ!? ……でもない!?」
跳ねるような声の主は鞭のような反撃を躱しながら、切って返すようにもう一度、丸い球を左右に両断した。
「……ソ……ラ!?」
拘束が弱まったのか、手に感覚が戻ってくる。ふと、感触と違う、何かが指先に触れた。
咄嗟に押し込み、それを掴む。
そして、力いっぱい引き寄せる。同時にソラがさらに一つ丸い玉を切り裂いた。
「アァアァ……アアアアァア!」
魂を引き上げるかのように、漏れ出した雄叫びと共に、黒い剣が姿を現す。
どうしてそんなものがそんな所にあるのかなんて、考える間もなく、得物を手にした体は動いていた。
「私は……ッ!」
一撃、複眼を切り裂く。
「ルル様だあぁ嗚呼アア!!」
一撃、抵抗しようとする鞭ごと複眼をさらに両断した。
何事か断末魔のような金切り声が鳴り響いた。
黒い何かが、溶けだすように空へと消え、丸い玉はひび割れ、砕け散る。
「……やったか!」
ソラがフラグみたいな事を叫ぶから、つい身構えて完全に消滅するのを見送ってしまう。
赤い粒子となり消えていくそれは他のゲームの敵だったのか、それともまた別の得体のしれない何かだったのか。
「……やったみたいだね。大丈夫だった?」
ピョンピョンと跳ねるようにソラが近寄ってくる。
「ああ、助けてくれて、ありがと」
「うんうん。で……それと?」
その表情は真剣にじっとこちらを見つめていた。
「……」
「そ、れ、と?」
「……さっきは逃げ出して悪かった」
「んー……七十点かな! 別に謝ってほしかった訳じゃないけど。反省してるなら、よし!」
柔らかにソラは微笑んだ。
安心して一呼吸入れようとした瞬間、視界の片隅で、コンソールが勝手に開いた。
そして、見慣れた音声つきのテロップが流れ出す。
『ゲートボス、■■■■■がプレイヤー、クソプラナリアゴミムシ菌によって撃破されました』
「あはは、何これ、変な名前の人だねー」
ソラの方にも同じテロップが流れているようだ。
レイドボスなど、開放条件を満たした時に開放されるエリアに流される全体通知だ。
ここ最近はあまり見かけなくなっていたが、自分でつけた名前でもないのに、こんな変な名前を載せられると心が痛い。
『開放条件114514が達成されました』
『新規エリア【ライムワールド】が開放されます』
「もしかして、ここのことかな?」
呆けたようにつぶやくソラにとりあえずといった風に頷いてしまう。
「たぶん」
『尚、このエリアでのダメージ及びデスペナルティはリアルと部分的に同期されます』
「……死んだら死ぬってことかな?」
『──さあ、ゲームを始めましょう! このエリアには、これまで実装されていなかった全てがあります!』
それまでの機械的なシステムメッセージが弾むような声をあげる。
そんなこと今まで一度だってなかった。
『だから』
『命をかけて──挑んでください』
きっと、その時、誰かが良からぬ笑みを浮かべていたのだけは肌で感じていた。