弥子が本業の仕事を始めたのは、その日の放課後からであった。本業とは、言うまでもなく探偵である。そもそも彼女は本来は教師としてではなく、探偵としてここに雇われている。破壊生物の弱点という『謎』を探す仕事だ。事件を解決する為の探偵とは些か異なる依頼ではあるが、ネウロがいなくなってからは寧ろ交渉人のような仕事をしていた弥子からすれば、事件としての仕事に拘ることはなかった。
「それで、渚君に少し話を聞きたいんだけど」
「僕、ですか?」
水色の髪を高い位置で二つに縛った中性的な少年、渚が、意外そうに訊き返す。
渚はちょうど下校しようと廊下を歩いていて、その時に突然弥子に呼び止められたのだ。
「うん。ほら、聞き込みってやつ」
周りの人間から情報を得るのは、探偵の基本中の基本である。謎を解く作業はネウロに任せっきりだったとはいえ、聞き込み等は元から弥子がすることが多かった。弥子はネウロのように頭がいい訳でも魔界道具がある訳でもないが、せめて形だけは探偵らしいことをしようとしていた。
「でも、どうして僕に?」
「ちょうど誰かに話聞こうと思ってた時に通りかかったからさ。もしかして何か予定があった?」
要するに、たまたまということだ。そういえばビッチ先生も最初は僕に聞いてきたなぁ、と渚は当時を思い出しながら、大丈夫ですよ、と、笑顔で答えた。
「僕殺せんせーの弱点をいくつかまとめているんですが、見ますか?」
「え、いいの?」
「はい。これです」
そう言って、渚は弥子にメモ帳サイズのノートを手渡した。弥子にとっては願ってもない話だ。弱点を探ろうと生徒を訊ねたら、既にその生徒がいくつも弱味を握っていて、しかもそれを見せてくれるという。
弥子は渚に礼を言ってから、そのノートをペラペラと捲って中身を見た。
殺せんせーの弱点。カッコつけるとボロが出る。テンパるのが意外と早い。器が小さい。パンチがやわい。などなど、役に立つか立たないか微妙なラインのことが箇条書きにしてあったが、弥子は文句も言わずにひたすらに読む。
弱点を上げていても、文字や書かれ方から渚から殺せんせーへの嫌悪感のようなものは一切伝わって来なかった。むしろ、こんな特徴があるんだ、と楽しみながら書いている気すらした。弥子は中学生らしいそのノートを微笑ましく感じながら読み続ける。
ノートの文字を追いかける弥子の横顔を、渚はなんとなく見つめていた。
これが、世界一の探偵。アヤ エイジアが起こした殺人事件を解決したことから一躍有名人となり、その後も数々の事件を解いてきた人物。最近では、重箱一つであらゆる事件を解決する交渉人とも言われているらしい。
その幼い顔立ちからはとてもそんな凄い人には見えなかったし、未だ彼女が自分達の教師であるという実感は薄い。しかし、先程の授業では、彼女が彼女たるその片鱗が見えた気がした。
彼女の話は、決して殺すことを肯定している訳ではなかった。それでも、彼女は今いる人の心に寄り添える人間だということは、きっと多くの生徒が気付いたことだ。
「あの、弥子先生はどうしてこの依頼を受けられたんですか?」
思わず渚が質問すると、弥子はノートから顔を上げ、渚の方を見た。
「お金、ですか?」
「ううん。お金は確かに欲しい、というか食費はいつも枯渇してるし、大金があれば何でも食べれると思えば、貰えると嬉しいけど」
「食べ物のことに使う予定ばかりですね……」
何の高級料理を想像したのか分からないが、弥子は涎を垂らしながらニヤニヤと語る。本校舎で有名人似のフードファイターが突然現れて学食をあり得ない量食べていた、という噂が昼休みにE組まで届いていたが、この食い意地を見るに本人で間違いないようだ。
「でも、それが理由じゃないよ」
渚も、なんとなく金銭目的ではないだろうとは気付いていた。この人はきっと、お金で動くような人じゃないと感じたのだ。
「単純だよ。私の理由なんて。ただ地球が壊されたら困るってだけだもん」
「それは、分かりますけど。でも怖くなかったんですか? 殺せんせーの、……破壊生物の謎を解けって」
「話に聞いた時は怖いなって思ったけど、でももっと怖い思いをした覚えがあるし。それに、この世界が無くなったら約束を守れなくなっちゃうから」
「約束……?」
「うん」
弥子は、遠くを見るような目をした。
渚はそこでやっと、自分と彼女の年の差を、経験の差を唐突にはっきりと理解した。彼女はきっと、自分には想像出来ない程の様々な事件を経験してきたのだろう。
どこか達観とした様子を見せながらも、胸の内に灯りをともした穏やかな表情は、同年代のクラスメイトからは見ることが出来ない。渚は、この教師にまた興味が湧いていた。
それは、どんな約束ですか。
そう訊ねようとした時に、弥子と渚のケータイが同時にメールの受信を知らせた。二人で一度顔を合わせた後、それぞれがケータイを開きメールを確認する。
弥子のケータイには、吾代からメールが来ていた。
『ちょうど探偵が通う学校の近くに来たから、そのまま拾ってやる。さっさと出てこい』
ぶっきらぼうなメッセージだが、弥子には吾代が自分を気遣ってくれたことが分かった。
昨日学校から帰った後に、吾代に、ここは遠いのが少し大変、と何となしに言ったのを覚えていてくれたのだ。不器用な優しさが微笑ましくて、弥子は思わず口を緩めた。
「ごめん、渚君! 知り合いが迎えに来てくれたらしくて、今日はもう帰るね! また明日話聞かせて! 」
そう言って立ち去ろうとした弥子の服の袖を、渚がスッと掴んだ。
「な、渚君?」
「弥子先生、今は山を降りない方がいいです」
「え、なんで?」
渚は、自分のケータイの画面をそのまま弥子に見せるようにした。
差出人は片岡メグと書かれていて、クラス全員に送られているようだ。
そして、本文には。
『山の麓にどうみてもまともじゃない人が、ボロボロの車と一緒にずっと立ってる! 要警戒!! 』
添付された写真には、イカツイ人相に金髪頭の男性と、その側には凹みと傷だらけの軽トラックが映っている。
「もしかすると殺せんせーを狙う暗殺者の一人かも。弥子先生も今は危険なので外に出ない方が……」
渚が言い切る前に、弥子は額を抑えるようにして、小さな声で言った。
ごめんそれめっちゃ私の知ってる人だ、と。
◯
E組校舎から街に抜ける山の麓で、吾代は車から降り貧乏ゆすりをしていた。
ちょうど暇だったので通りがかるついでに弥子を拾ってやろうとしたのだが、メールを送った後に、よく考えればこの山を登った先は学校であったことに気付いてしまったのだ。吾代は学校にろくな思い出がない。というより、最終学歴が小卒である彼にとって、学業というもの自体に良い想いはないのだ。
あいつめ、教師の真似事なんかしやがって。と思いながら山の奥にあるだろう学校を睨め付ける。
吾代は弥子が依頼された件について、ほとんど把握している。
そもそも政府から連絡がきて国外にいる弥子を連れ戻したのは吾代である。探偵事務所で弥子とだけ話がしたいといったスーツを着た連中相手に、きな臭いと思って無理矢理そこに居座ったのだ。
結果、絶対に口外してはいけない、という条件で聞いた話はあまりに荒唐無稽かつスケールの大きい話で、吾代は彼等を詐欺師だと決め付けた。その後事務所で本当に防衛省か判明するまで一悶着あったが、とりあえず本物だと分かった時、吾代は誰もが分かるほど嫌な顔をした。
弥子が学校なんて意味のない所へ行くというのも気に入らなかったし、人間じゃない化け物が存在すると聞いてネウロやシックスを思い出し戦慄したし、地球が破壊されるなど勘弁だぞ、と恐怖もした。
しかしそこまで話を聞いても、やります、と言い切る弥子を見てしまった。
その顔をみれば、もう弥子は意地でもやるのだろうな、と分かってしまう。二人はそこそこ長い付き合いなのだ。
吾代は、相変わらず肝が太い女だ、と溜息をつきながら、自分も出来る限り力になってやるか、と、軽く決心していた。
弥子を待っていると、メールが届く。
『吾代さんありがとう! すぐ行く! あとなるべく愛想よく怪しまれないようににんまりしてて!』
何を言ってるんだこいつは。
愛想、なんて言葉と無縁な男は全く意味がわからず、メールに返事はせずにただポケットにしまった。
そしてあまりに手持ち無沙汰なので、自分の車に目がいく。
このボロボロのトラックを見るたびに、早くまともな車に替えてぇと思う。
しかしどういう運命なのか新車は買う度にすぐさま壊れ、いつのまにか手元に戻ってきているのがこの車なのだ。三年前から乗るこの軽トラックには一応愛着はないこともないのだが、やはり周りの視線はあまり良くない。
現に今も、何人かの視線を感じている気がする。それに苛立って、舌を打った後車に蹴りを入れるが、逆に足が痛くなり吾代はうずくまることになる。
そしてその視線を山の中から送っていたのは、E組の生徒たちであった。
「あれ、絶対やばい人だよ」
木に隠れながら吾代を観察していた倉橋陽菜野がそう言うと、側にいた片岡メグと前原陽斗も同時に頷いた。
「ヤクザじゃね? 人相がもうまともじゃねーし。眼つきが鋭すぎる」
「一応クラスのみんなには気をつけるように連絡はしたけど……」
「ここの道って通って帰る人結構多いよね」
「そうだな。現に俺たちも帰れなくなってるし」
遠目から吾代を見つけてしまった彼らは、常に眉間にシワが寄ったそのいかつい風貌と何故かボロボロな車に、最大限の警戒心を抱いてしまった。
彼等は、自分たちの校舎がまともじゃないことを理解している。殺せんせーがいることで、今までも色んな人物がここに訪れてきた。
どんなヤバイ人がここを訪れても全く不思議ではない。だから、校舎付近でじっとそこに居続ける怪しい人間に警戒するのは仕方がないことなのだ。
「なにしてんの」
「あ、カルマくん」
三人に声を掛けたのは、下校しようとやって来たカルマだった。一点を見つめながら木に隠れる3人を不思議に思ったのだろう。
「みろよ、あそこ。どうみてもヤベー奴がいて、帰れねぇんだよ」
「ヤベー奴って……あのヤクザみたいなの?」
「そう」
「んなの、気にしなくていいっしょ。俺普通にどいてって言ってこようか」
「やめとけって! どうせ絶対にもめるだろ! 」
「大丈夫大丈夫。ほんとにヤクザならあんなボロい車な訳ないし、多分ただのイカれた不審者だよ。なるべく穏便に済ませてくるから」
絶対無理だ、と3人が心の中で突っ込んでいる間に、カルマは何の抵抗もなく、軽々と吾代のもとまで行ってしまった。
「あのさ、おっさん。ここで何してんの」
「あ?」
声を聞いて、足を押さえうずくまっていた吾代が顔を上げて立ち上がった。
「んだよお前は」
「おっさんさ、何してるかしんないけど、そこいると俺らが帰るのに邪魔なんだけど」
「あ゛あ゛?」
吾代は元から眉間が寄った皺を更に深くさせてカルマを睨み付けた。たしかに自分は気付けばもう28だが、他人からいきなりおっさんと呼ばれるのは気にくわない。何より、カルマの人を馬鹿にしたような態度は、誰よりも簡単に吾代を怒らせた。
やっぱり全然穏便になってない! と、倉橋達は冷や汗を垂らす。
吾代が自分の顔を思いっきりカルマに近付ける。鼻と鼻が触れそうなくらいにまで寄せて、もう一度、なんだよお前は、と凄んだ。
それを見て、倉橋達は震えた。
クラスメイトがヤクザらしい男に凄まれている、という絵面にも勿論恐怖はあるが、それよりも、カルマが何をしでかすか分からなかったのが、怖かったのだ。
一瞬即発のその空気に、止めに行くべきじゃないのか、と、三人が顔を合わせて意思を確認しあった所で、片岡のケータイが鳴った。
「片岡さん!」
急ぎの声で片岡を呼んだのは、ケータイの液晶に映る律であった。
「律? ごめん今ちょっと危ない所で……」
「弥子先生から伝言です。そこにいる危ない顔をした人はわたしの知り合いだから安心して! 私も今すぐそっちに行くから! だそうです!」
「え、弥子先生の知り合いだったの? 」
クラスの新任教師の予想外の知り合いに三人は驚く。それじゃあ、尚更あれを止めないと、と彼等はすぐに動き出そうと木の裏から飛び出す準備をした。
「おっさん、顔近いよ。ホモなの? それに息も臭いし、歯も洗ってないの? 」
ぶちり、と吾代の血管が切れる音がした。
吾代はすぐに自分の腕を振り上げて、カルマに殴りかかろうとする。
カルマは吾代との喧嘩を受けて立つ気でいるようで、余裕な表情を崩さない。
止めようとしていた三人が、間に合わないっ! と、思いつつも走り出している。
そして、そのすぐ横から、誰かが勢い良く駆けていく姿が見えた。
「吾代さんちょっと待ってー!! 」
全速力で走って来たのだろう弥子が、麓にいる彼等に大声で呼び付けながら向かっていく。
そして。
「あっ! 」
下り道を走る彼女の脚が、地面につまづいて、飛び出す形になってしまう。
「は? 」
「あ? 探偵? 」
パンチを避けようと集中していたカルマは、突撃してくる弥子に反応出来なかった。
弥子の頭が、カルマの頭に勢い良くぶつかり、ごちん、という音が響き渡る。
どさり、とした音共に二人が倒れた後、どこか白けた空気がそこには流れていた。
「お、おい、探偵。生きてるか? 」
「う、うん。……って吾代さん! 駄目だよ生徒殴ろうとしたら!」
「いやまぁ殴ろうとはしたけどよ。それよりも、そいついいのかよ」
「え? 」
がばりと起き上がった弥子は、吾代の指差す所をみる。
そこには、意識してない位置からの攻撃に気を失っていたカルマが横たわっていた。
「あ! えーと! ごめん赤羽くん! 大丈夫?! 」
「完全にのびてんぞ」
「とと、とりあえず事務所で治療しよう! 」
そう言って、動揺している弥子はカルマを無理矢理車に乗せようとする。吾代は別にカルマはどうでも良かったが、反対するのも面倒なので弥子を手伝い、そのまま車を事務所へと走らせた。
残った三人は、状況に理解が追い付かず、ぽつんとそこに立ち尽くしていた。
ここにせっかくなのでボツ話を載せておきます。
読まなくても困りません。暇な人はどうぞ。
◯
……やってしまった。
弥子は放課後の廊下をとぼとぼと歩きながら、沈んだ顔をしていた。足を踏み出すと微かに木製の床が軋む音が聴こえて、それがまた弥子の気分を下げる。
E組の教室についたので、扉に手を掛けて開ける。初日のトラップを思い出し、もうないとは分かってはいつつも慎重に部屋に入った。
「……弥子先生? どうなされましたか」
弥子が教室に入った瞬間に、ブゥン、と音がして、黒い箱の液晶から律が映し出された。律以外は、誰もいない。
「ちょっとクラスのみんなに話を聞こうかと思ったんだけど、皆んないないみたいだね」
「はい。最近はこの暑さ故か、放課後に残る生徒はあまり多くありません。今日の皆さんの会話から察するに、カフェに行ったり図書館に向かったり家でまったりするようです」
「そっかー。これだけ暑いもんね」
そう言いながら弥子は額の汗を服で拭った。教師なのだから、とワイシャツに黒いパンツという一般的な社会人のような格好をしているが、堅苦しいだけに普段より暑く感じてしまう。制服を着た生徒達も同様なのだろう。
「それじゃ、律に殺せんせーの話を聞いてもいい?」
「それはいいのですが、弥子先生。授業の時より少し声音が暗いですね。何かありましたか?」
弥子は顔に出さないようにしていたが、機械である律には見抜かれてしまう。恥ずかしいと思いながらも、弥子は律の前の席に座って説明を始めた。
「ちょっと怒られちゃって」
「誰にですか?」
「この学園の理事長さん」
その肩書きを聞いた瞬間に、律の表情に真剣味が増す。
「……ここの理事長は、E組ではあまり評判が良くありません。なにせ、E組という隔離クラスを作った当人ですので。しかし、どうして弥子先生は怒られたのですか?」
律は直接対峙したことはないが、理事長の悪どい噂は生徒から耳にすることがある。完璧主義で、強者は弱者が存在する事で強者たるという思想故か、弱者のE組は何かと蔑ろにされている。もしかして、弥子がE組の教師だからと言って、不当な理由を押し付けられたのだろうか。
律が心配していると、弥子は更に恥ずかしそうに顔を下げて答える。
「……学食の食べすぎです」
「……はい?」
律が目をぱちくりさせると、弥子はがばっと顔を腕で覆うようにして机に伏してしまった。
「いやだって! 久しぶりの食堂だと思って舞い上がっちゃったんだもん! 仕方ないじゃん!」
「ああ、そういえば『探偵』桂木弥子はフードファイターも引くほど食べるという噂がネットにありましたね……」
呆れた顔で律が言う。ネットに検索を掛ければ、飲食店での彼女の目撃談が多数ある。
曰く、お好み焼きをもんじゃの如く鉄板1枚に厚く大きく広げてニヤニヤしながら食べ切った後、すぐに焼きそばも大量に焼き出して完食していた。曰く、食べ放題の店で時間一杯常に食べ続けた後、そのまま別の食べ放題の店に入店していくのを見た、などである。流石に荒唐無稽であると思っていたが、この様子を見るにそうでもないようだった。
「気付いたら皿が空になって積み重なりまくってて! ドン引きする他の生徒達がいて! トントンと肩を叩かれて後ろを見たら怖い笑顔の理事長が!」
「バラエティのようですね」
因みにその後烏間にも呼び出され、数は用意するからどうか防衛省から配達される弁当で我慢してくれないか、と提案されていた。
弥子は申し訳なさそうな態度をとりながらも、それじゃあ唐揚げ弁当を10個と言って烏間を引かせた。
その上、あと鮭弁当を10個と、一応おにぎりも、と加えて言って、弥子が顔を上げた時には烏間は頭を抱えていた
烏間の苦労は絶えそうにない。