カルマは、目が醒めると同時に自分が寝心地が良いソファに横たわっていることを不自然に思った。
とりあえず体を起こして、周りを見渡す。見たことのない部屋だ。どうにか前後の記憶を思い出そうとしたが、頭に痛みを感じて、考えるのが億劫になる。撫でるように手を頭に当てると、瘤のような膨らみがあることだけは分かった。
目の前には、背の低い机が一つ。そしてその奥に、大きく黒いデスクがあった。艶がある黒色で所々引っ掻き傷のような跡があるそのデスクは、有無を言わさぬ威圧的な雰囲気を放っているような気がして、少し気味が悪い。
しかし、そこまで大きくもなく、割と殺風景なこの部屋は、どこか居心地が良く思えた。
壁に目をやると、一部分だけ妙な盛り上がりがある場所がある。なんとなく気になり目を細めて注目すると、ちょっぴり動いた気がするが、流石に気のせいであろう。
本格的に何があったか考え出そうと立ち上がった所で、部屋の扉が勢いよく開いた。
「なんだ。やっと起きたのかよクソガキ」
扉から出てきたのは吾代だった。手には不似合いなコンビニの袋を持っている。彼はカルマの睨みつけるような視線を物ともせず、それをデスクの上へ乱暴に置く。
「なに? あんたが俺を拉致ったわけ?」
警戒を崩さず、いつでも戦えるような姿勢をとりながらカルマは吾代へ言い放った。
カルマの記憶は少しずつ戻ってきていた。
下校する道の先にいたヤクザかぶれのこの男と向き合っていて、それから急に意識がなくなったのだ。
もしかすると、仲間がいたのかもしれない。
更に周りに注意を払いつつ、闘うプランと逃げるプランを組み立てていると、吾代が苛ついた顔で言った。
「ああ? なんで俺がお前を拉致る必要があんだよ。っち。だから捨てておけば良かったのに。探偵め」
「探偵?」
「あ、赤羽君起きたんだ! 大丈夫!?」
ガチャンと勢いよく開いたドアと同時に、弥子が部屋へと入ってきた。そのまますぐにカルマへと近寄っていき、手を伸ばしカルマの頭を触ろうとする。反射的にカルマはそれを払ってしまったが、弥子は嫌な顔一つせず、もう大丈夫そうだね、と薄い胸を撫で下ろしていた。
「……なに? いまいち状況が掴めないんだけど、どういうこと?」
「えーとですね……」
「お前が俺に喧嘩売ってきてた時に、後ろからこいつが頭突きかましたんだよ」
「ちょっと吾代さん! それじゃ私が悪い奴みたいじゃん!」
「事実だろうが」
「そうだけど! そうなんだけど! 言い方!」
「そんでお前が気絶したから、とりあえず事務所に連れてきた」
「……それって拉致じゃん。普通病院とかじゃないの」
「いやその、ちょっと気が動転してまして……。そうだ! 冷えピタと一緒に起きた時食べれるようにお菓子買ってきたけど、食べる?」
「……こんなポテチのカスもらっても」
「あれ?! なんで!? 」
「ここに着くまでにほとんど食いながら歩いてたからだろうな」
面目無い、としょげる弥子に溜息を吐いて、吾代は先程持ってきた袋からおにぎりを一つ取り出す。そして、カルマに向かって放り投げた。
「こうなるのが目に見えてたから別に買っといたんだよ」
「てか頼んでないし別に今腹減ってないんだけど」
「ほんといい度胸だなおまえは……!」
「え、なら私が」
「お前は茶でも入れて来いや!」
怒鳴られると、はいー! と、勢いよく返事をした弥子が部屋の奥へと消えていった。
言われた通りお茶を淹れてくれるのだろうか。別にそれもいらないんだけど、と思いながらも、カルマは帰るに帰れなくなってソファに座った。
間を置いた横に、吾代がドスンと勢いよくソファに座る。大きく開いた足が、やはりヤクザのようにしか見えなかった。
「あんたらって、どういう関係なの」
「ああ? 」
声を掛けられると思ってなかったのか、吾代は面倒くさそうな顔をした後、ぼりぼりと頭を掻いた。
「どういうも何も、仕事仲間だ」
「探偵にあんたみたいな仕事仲間がいるとは思わないんだけど」
「色々あんだよ。最初は厄介払いみたいなのさせられてたし、その後は仲介役とかタクシー代わりにもされたり……」
「されたり? そんな上下関係厳しいわけ?」
「当時はな、逆らったらまじでやばかったんだよ。お前ジャンプの間で紙みたいにペラペラになった500円玉みたことあるか? あんなのパワハラなんて言葉じゃ言い表せねぇ」
吾代は当時を思い出して震えながら言うが、カルマは弥子がそんなことをする意味が今一分からず、何言ってんだろこの人、と口に出して言った。
吾代はカルマの失礼な口調に慣れたのか、特に気にせず話を続けた。
「あいつ以外にもう一人、助手って役目のやべぇ奴がいたんだよ。ま、今はもういないんだがな」
「ふーん」
聞いといてあまり興味がなかったのか、カルマは手元にあるおにぎりを何となく見つめている。
「でも、まだ一緒に仕事してるんだね」
カルマはなんとなしにそう言った。
吾代は少し間を置いて、何かを思い出すかのようにじっと虚空を見つめてから、そーだな、と静かに言う。
今日初めて見るその落ち着いた吾代の顔を、カルマは少しだけ意外に思った。ただのチンピラと思っていたが、弥子との関係は短いものではないのだと、なんとなく見て取れた。
「あいつ、授業はどーよ」
「……どうって、別に」
「別にはねぇだろ。なんかやったんだろ? 一応」
「まぁ」
突然歯切れが悪くなったカルマを吾代はじっくりと見る。カルマは目を合わさないようにわざとらしく横を向いた。
「なんだお前。あいつのこと苦手なのか?」
「苦手ではないよ。勝手な逆恨み」
カルマは、その感情が、どうしようもなく自分勝手なものだと気付いていた。
弥子とは直接的な関わりは何もない。彼女は何も悪くない。
ただ、彼女が解決したその事件が、自分にとって不愉快な結果をもたらしたのが、気に入らないだけなのだ。
「二人でなんの話をしてるの?」
お盆に紅茶の入ったカップを乗せた弥子が、奥から戻ってきた。流石に紅茶はつまみ食いすることはないようで、しっかりと三人分ある。
あかねちゃんほど上手くは淹れれないけど、と呟きながら弥子は前の机にカップを置いていく。
カルマは、まだ仕事仲間がいるのか、とぼんやりと思いながらもカップを口に当てた。不味くはないが美味しくもない。有名人らしくない普通の紅茶だった。
「探偵の授業がどんなだったのか聞いてんだよ」
「ええ。ちょっと恥ずかしいなぁ」
弥子が紅茶を飲む姿は、乱暴にカップを掴む吾代と比べると流石に女性らしく見える。といっても、イリーナとは大きな差がある。
「んで結局探偵は何話したんだ」
「アヤさんのこと」
「はぁ? それってアヤエイジアのことか? どういう授業だよそりゃ」
「今まで色々あったから、それを皆に話そうと思って」
「……はーん。そんな楽そうな授業なら当時の俺も受けてたかもしんねぇな」
「でも中学の授業だよ。吾代さん小卒じゃん」
「お前、それ言うか?」
「あんたさ」
割り込むようにカルマが口を開いた。
思ったより大きな声が出てしまったので、弥子と吾代は一瞬黙った。それからすぐに、なぁに、と弥子が笑顔でカルマに聞いた。
「今でもアヤエイジアと仲が良いって、言ってたよね」
「うん」
カルマは、カップを掴む手の力が強くなったことが、自分では気付かない。
「それ、嘘でしょ」
目を見ず、カップの中で僅かに揺らぐ紅茶を見つめながら、カルマは言う。
「自分を捕まえた相手と仲が良いって、なにそれ。そんなのあんたの想像でしかないじゃん。あんたのせいでアヤエイジアは捕まったんだから、恨んでるに決まってる。自分が捕まえてしまったって罪悪感から逃げようとしてるだけなんじゃないの? 」
「……お前、いい加減にしろよ」
「吾代さん待って! 」
胸ぐらを掴んできた吾代に、弥子はすぐさま静止をかけた。
「あのな探偵。こういう舐めたクソガキは一回殴った方が早いぞ。甘やかしてもつけあがるだけだ。その辺は多分俺の方が分かってる」
「違うよ! 赤羽君は私を馬鹿にして言ってるわけじゃないから! 」
ここまで言われても怒るのは何故か吾代の方で、弥子はただ宥めるだけであった。っち、と舌を打ち吾代はカルマを掴んでいた手を離して座り直す。
「赤羽君、好きだったんだね」
「……は? なにが」
「アヤさんの歌」
「……」
「私も好きだよ」
にこりと弥子は笑う。
まるで、さっきまでのカルマの言い草など全く気にも止めないように。それどころか、カルマの気持ちを全て知った上で接するような態度だった。
大人だな、と思った。
自分より年上でも、身体が小さくても、彼女の精神はとても落ち着いている。いつか自分を否定し、E組送りにしたあの教師とは違う。
穏やかで、優しいその笑顔は、カルマを救ってくれた殺せんせーと重なって見えた。
「……はぁ、ださいな、俺」
そんな弥子を見て気がそがれて、大きく息を吐いてから、カルマは頭を掻いた。
「別に、好きって訳じゃなかったよ。あの人の歌を聴いたのは、たまたまラジオで流れるのを聴いた時だし」
停学中に聞いたアヤの歌が、カルマには信じがたいほど衝撃的であったから、記憶に、脳に激しく残っていた。
殺人犯となってからも、アヤの曲は廃れなかった。名曲として、何度もテレビやラジオで取り上げられた。だから、停学中に暇だったカルマがたまたまそれを耳にする機会があったのだ。
「本当に、脳を揺さぶられた気分だった。暴れて、裏切られて、誰も信用出来なくて、独りだった時に聞いたその歌は、恥ずいけど、救いになった気すらした」
カルマは、自分が独りになった時を思い出す。
教師に裏切られて、この世界には碌な大人がいないと絶望に似た諦めを胸に挟めていたあの時。テレビから聞こえた彼女の歌は、カルマの脳を揺らした。孤独を肯定してくれるその声は、カルマにとって心地良かった。
「それで、なんでこの人が捕まってるんだろうなって調べたら、あんたの名前が出てきた。だから、ほんとに逆恨み」
カルマにとっては、その歌手がどんな人物だったなんてどうでもよかった。ただ、その声を止めたという事実だけに、ほんの少しの苛立ちを覚えてしまったのだ。
殺人が悪い事は知っている。アヤエイジアが罪に問われるべきなのも分かっている。ただ、声だけに救われたカルマには関係がない。腑に落ちないという気持ちがなくなるわけではなかった。
「うん」
弥子はカルマの目を見て、ただ頷いた。
捕まえてごめんね、なんて言うわけがないだろう。正しいのは弥子の方で、悪いのはアヤだ。でも、カルマにとっての恩人を牢屋に入れた人間は、好ましく見ることは出来なかったのだ。
あの、授業を聴くまでは。
弥子は、最後までアヤエイジアを否定しなかった。
人を殺すことを肯定しない。だが、弥子はアヤエイジアだけが抱えた孤独や、その胸の内に宿さざるを得なかった悪意を、丁寧に伝えていた。アヤエイジアの声だけじゃなく、人間的な部分が、カルマには見えた気がしてしまった。
アヤは、自分の行いを酷く悩んだはずだ。そして、それに寄り添って事件を解決してくれたのが、弥子だったのだろう。だから、弥子がアヤと今でも仲が良いというのは、本当は嘘じゃないと分かっていた。
授業を聞いていると、カルマはアヤの心を解放した彼女に対して持っていた負の感情をいつのまにかほとんど無くしてしまっていて、そんな自分にも戸惑っていたのだ。
だから、さっきの言葉は、そんな自分を確かめるカルマらしくない不器用な方法だった。
弥子には、それすら見抜かれてる気がした。
これが、探偵。
「……あの授業は良かったよ。弥子先生」
まだ自分の行いを素直に謝れるほどカルマは大人になれなかった。
だから、辛うじてそう言うことしか出来ない。
それでも弥子は、やっぱり笑って、ありがとう、と言ってくれた。
◯
カルマを家まで送ってやる、と言い出したのは、吾代だった。
カルマからしたら、吾代という男はまだ謎の多い人物であったが、いきなり連れてこられたこの事務所から帰るのは至難であったので、受けざるを得ない提案だった。
帰り際、弥子が、赤羽君また明日、と元気よく手を振ってきたので、カルマは、カルマで良いよと言ってから部屋を出た。
先程の軽トラックで、夕暮れの空の下を走る。
カルマが意味もなく窓から景色を眺めていると、吾代が、おい、と乱暴にカルマを呼んだ。
「辞めた助手の話をしたよな」
「あー、ジャンプで10円を潰したとかいう?」
「500円な」
嘘くさい話だったが、カルマは特に否定する気もなく聞いた。
「それがどうしたの」
「助手って奴と同じくらい、探偵も強かった」
前を見て運転している吾代を、カルマはゆっくり見た。
「ただ力が強いってのは、別に楽しいことじゃねーぞ」
――強いって……疲れるね、忍クン。
吾代の脳裏には、いつか自分がつるんでいた、一人の子供の姿があった。
カルマは、吾代の言った意味が何となく分かった気がした。
何の力もない弥子を、弱い人間だとは思わなかった。ああいう強さもあるのだと、知れた気がした。
「教師みたいなこと言うね、吾代さん」
カルマがそう言うと、うるせーよ、と吾代は笑った。