最新話投稿。
予定ではあと4話前後で第一部完結となります。
休憩を終えて歩き出してから、十分ほど経った頃だったと思う。
密林は奥へ進むほど深くなっていった。蔓の密度が増し、頭上の葉が幾重にも重なって、人工の光さえ届きにくくなる。足元の腐葉土はさらに柔らかく、一歩ごとに靴が沈んでは、粘つくような音を立てて抜けた。前を行くメリーは時折立ち止まり、何かを確かめるように前方を見つめてから、また歩き出す。出てくる時に一瞬だけ見えたという、あの綻びの方角である。
出口がずれた、と彼女は言った。この数年、潜り抜けた綻びの入口と出口がずれたことなど一度も無い。
入ったところから入り、出たところから出る。それが私たちの知る綻びの性質だった。その当たり前が、今日に限って崩れている。鳥居からはみ出すほどに育った裂け目と、ずれた出口。二つを並べてしまうと、背筋のあたりがどうにも落ち着かなかった。
……まあ、考えるのは帰ってからでいい。今はこの船を見ることが先だ。そう自分に言い聞かせるのは、今日だけでもう三度目になる。
やがて、彼女が唐突に足を止めた。指先を追って目を凝らすと、蔓が特に密集した一角、もはや緑の壁と言っていいその隙間から、地上では見慣れた物体が視界に入ったからである。
絡みつく蔓をかき分け、その向こうへ抜けた瞬間、私は見間違いでないことを確信した。
鳥居。
朱色はほとんど剥げ落ち、蔓に半ば呑まれかけてはいたが、形状は明確に保たれていて見間違えようがない。柱の根元には苔が厚く張り付き、笠木からは細い蔓が何本も垂れ下がって、暖簾のように揺れていた。
その奥には小さな社殿まで建っている。人ひとりがやっと収まるほどの、祠と呼んだ方が近い大きさだ。柱に触れてみると素材は木ではなく、金属かそれに準ずる何かであったが、意匠は完全に鳥居のそれである。蔓を払うと、柱に刻まれた文字が現れた。
天鳥船神社。
資料の上でしか知らなかったものが、目の前にある。グラム単位で重量を切り詰める世界に、当時の技術者たちが押し切って積み込んだという、あの社だ。読んだときには笑ってしまった話が、蔓に覆われ、塗装を剥がし、それでも数十年ここに立ち続けていた。
不思議なことに、社殿の周りだけは植物の勢いが少しだけ弱い。蔓は鳥居にこそ絡みついているものの、社殿そのものを呑み込むほどには伸びていなかった。
おそらく偶然なのだろう。構造上ここだけ光が届きにくいとか、土壌が浅いとか、説明はいくらでもつく。つくのだけれど、この場所に立っていると、密林の側が遠慮しているような神秘的解釈をしてしまうのだから困ったものだ。
メリーが私の手を取った。途端に、鳥居の内側に黒い線がはっきりと浮かび上がる。
「ここに繋がっていたのね。まだ開いてるわ。大きさもそのまま」
「なら、帰り道は確保できたわけね」
地上の鳥居をくぐり、この鳥居へ出る。本来はそういう繋がり方をしていたのだろう。それがどういうわけか、私たちは少し離れた密林の中に吐き出された。理由は分からない。分からないが、少なくとも出口そのものはここにある。いつでも帰れる。その事実が分かっているだけで、随分と気が楽になるものである。
「せっかくだから、お参りしていきましょうよ」
「あら。蓮子、そんなに信心深かったかしら?」
「失礼ね、私は神道専門よ。それに考えてみて。この船に乗っていたのは動植物だけよ。この神社は打ち上げられてから今に至るまで、ただの一度も手を合わせてもらったことが無いの」
口にしてから、自分でも妙な気分になった。
地上の社を、私は報われない仕事だと評した。守るべきものが目の届かない場所にあって、それでも祈られ続ける神様だと。けれどこちらの社はもっと極端である。祈られることすら無かったのだ。誰にも見られず、誰にも拝まれず、ただ船と一緒に漂流してここまで来た。
同じ神を二つに分けて祀り、地上で願い、船の上で受ける。技術者たちはそういう仕組みを考えたらしい。けれど実際には、願う声が一方的に届くばかりで、受ける側の社は数十年ずっと独りきりだった。三十二万キロを隔てた二つの社。片方には細々と参拝客が訪れ、もう片方には誰も来ない。それでも両方とも、律儀に同じ神を祀り続けている。
その最初の参拝客が、私たちということになる。
鳥居の前で手を離し、二人並んで頭を下げる。境内に入ってからもう一度手を繋ぎ、社殿の前に立った。賽銭箱はさすがに無い。財布を探ろうとして、ここに小銭を置いていったところで回収する者もいないことに思い至り、やめておいた。代わりに二礼二拍手一礼。打ち合わせた掌の音が、湿った空気の中へ吸い込まれていく。地上の境内ならば乾いて響くはずの音が、ここでは葉と蔓に絡め取られて、すぐに消えてしまった。
目を閉じる。さて何を祈ろうかと考えて、特に思いつかなかった。今日はもう十分すぎるほど良い日であり、これ以上望むものがあるとすれば。
……このまま、ずっと。
顔を上げると、メリーがまだ手を合わせていた。やけに長い。
「メリー?」
「……うん」
彼女が目を開ける。その顔が、妙に真剣だった。
「ねえ蓮子。一つ、約束させてくれない?以前言ってくれたこと、あれ、すごく嬉しかったのよ。離れ離れになっても、必ず私を見つけ出すって」
「言ったわね。撤回する気は無いわよ」
「ありがとう。でもね、蓮子。私だって、ただ待っているだけというのは性に合わないの」
彼女は一歩、距離を詰めて私の正面に立った。両手を取られる。指が、少しだけ震えている。密林のどこかで水の滴る音がして、それきり辺りが静まった。
メリーはそのまま、じっとこちらを見つめる。その美しい双眸は、私の全てを見ようとしていた。
「私からも言わせて。もし離れ離れになっても。どれほどの距離が離れようと、どれほどの刻を隔てようと」
言葉を区切って、彼女ははっきりと告げた。
「……私も、貴女を見つけ出すわ」
小さな箱庭の中、彼女の言葉が静かに空間に溶けていった。
それは、数週間前に私が口にした言葉と、同じ決意を表したもの。私の両手を掴んでいる彼女の指が震えていて、それでいて確固たる意思を感じた。あの鳥居の前で、一人で冒険を始めずに待っていてくれたことが返事なのだと私は思っていた。それで十分すぎると。けれど彼女の中では、まだ足りていなかったらしい。
あの日の言葉は、私が言って彼女が受け取っただけの一方通行の誓いだった。約束ではなく宣言だったのだ。だから彼女は同じ言葉をそっくりそのまま持ち歩いて、返すのにふさわしい場所を探していた。誓約というものは、二つ揃って初めて成立するのだから。
「……秘封倶楽部は二人で一つ、って私が言ったでしょう。あれ、片方だけが決意していても駄目なのよね」
「そういうこと」
メリーがゆっくりと微笑んだ。私は彼女の手を握り返す。
考えてみれば、私たちの活動はいつだってそうだった。彼女が結界を見つけ、私が場所と時刻を測る。彼女が幻想を見て、私が現実を計算する。どちらか一方が欠けた瞬間、秘封倶楽部という組織は成立しなくなる。
だとすれば、離れ離れになった場合の取り決めもまた、双方が負うべきものだろう。片方が探し、片方が待つのでは駄目なのだ。
「じゃあ、これを正式に規約ということにしましょうか。秘封倶楽部会則、第一条。いかなる距離、いかなる時を隔てようとも、部員は互いを見つけ出すこと」
握った手をそのまま持ち上げて、握り合って掲げてみせる。
「異議のある部員は?」
「無いわ」
「よろしい。可決ね」
メリーが小さく笑った。それから、握られた手にわずかに力を込める。
「……ねえ蓮子。会則って、破ったらどうなるのかしら」
「除名でしょうね」
「あら怖い」
「怖がるくらいなら守りなさいよ、メリー。私は守るわ。『絶対』にね」
二人で笑った。蔓に呑まれた鳥居の下、数十年目にして初めて参拝客を迎えた社の前、地球から三十二万キロ離れた場所で、私たちは同じ言葉を交わし、それで永遠に大丈夫だと信じていた。
………低い唸り声が聞こえたのは、その直後だった。