天華百剣 ー禍ー   作:HK416

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※この小説は天下百剣シリーズの二次創作です。
 独自解釈、オリジナル設定が多分に含まれますのでご注意下さい。



始まりは残酷に

 

 

 

 

 

「うぅ……」

 

「あぁ、大丈夫かい? よく泣かなかったな、偉いぞ」

 

 

 場所は東海道。銘治の世となり、国道と名を改めた街道の端での一幕。

 江戸幕府によって整備された松並木は電線を引くのに不便であるという理由で伐り払われ、近代化が進んでいる。

 日本らしさというものを失った街道は、何処か美観が損なわれたようだ。街道を行く人々を日射風雪から守るものは何もなく、寒々しさすらある。文明開化と言えば聞こえは良いが、失われていくものも確かにあるのだ。

 

 

「怪我をしているな。どれどれ」

 

「お兄ちゃん、だれ……」

 

「ただの通りすがりだよ」

 

 

 道端で蹲っていた少年と、それに声を掛けた青年。

 少年は小学校の帰りだったのだろうか。身なりもよく、幼い外見に似合った洋装に身を包んでいる。

 青年の方は、書生風の出で立ちだ。黒い袴に白いシャツ、その上からは羽織を纏っていた。

 

 少年は両親から見知らぬ他人と話すな、と厳しく言い聞かされていた。

 ここ最近、殺人、行方不明、大規模な破壊活動などの事件が頻発しており、何者かが国家転覆を企んでいるのでは、と市井でも噂になっているほどだ。

 それでもなお、青年の声に答えてしまったのは、彼の声色と笑顔が泣きたくなるほど優しかったからだろう。

 

 青年は何処にでもいるような顔立ちだ。

 僅かに赤味がかった黒髪をかき上げている。優しい眼差しの瞳は、髪と同じく黒に僅かな赤味が差していた。

 特に見るべきところのない顔立ちではあったが、印象の全てが春の日差しの如く優しく移るのは顔に刻まれた笑みと人柄故だろう。

 少年は幼心に、青年を優しさだけで構築されたような印象を受けたほどだ。

 

 

「じゃーん! これはな、知り合いの牛王という人が調合してくれた塗り薬なんだ。これを塗っておけば痛みも引くし、治りも早くなるぞ」

 

「……あ、あの、母に知らない人とは、話すなって」

 

「何、人の人生は助け合いだ。困っている人を見過ごすのも、困った時に助けを求めないのも愚かだよ」

 

 

 ニコー、と張り詰めていた緊張の糸が緩んでしまう笑みを青年は浮かべ、少年は馴々しい人だなという感想を抱いてしまったほどだ。

 

 懐から大げさに取り出したのは(はまぐり)の貝殻に入った軟膏であった。

 止める間もなく青年が傷の上に軟膏を丁寧に塗っていく。ズキズキとした擦り傷の痛みは次第に鳴りを潜めてゆき、久方ぶりの痛みに蹲っていた少年でも立ち上がることが出来た。

 

 少年が礼を言うべきか、こうした行為は安易にするべきではないと忠告しようか迷っているその時――――

 

 

「何をしているんだ、大殿」

 

「ああ、三日月さん。いや、この子が泣きそうなっていたから心配で」

 

「それでまたお節介を、か。この子も立派な大和男子(やまとおのこ)だ。この程度で騒ぐこともないだろうに」

 

「まあまあ。痛みに耐えられる度合いは人によって違うから」

 

「………………」

 

 

 ――――天女に声を掛けられたかと思った。

 

 少なくとも少年には、声を掛けてきた女性がそう見えた。

 三日月と呼ばれた女性は、少年がこれまで目にしてきた全ての女性と比較しても文句なしに一番美しかった。

 

 陽光を跳ね返す銀髪。一流の絵師に描かれたような柳眉と鼻筋。強い意志を感じさせながら色気を想起させる引き結ばれた口唇。僅かに憂いを秘めた薄紫の瞳。和装でありながらも所々肌が露出する天色(あまいろ)の服装。

 とても同じ人間とは思えない完成された美。少年が、この世に存在する美を讃える言葉は彼女のためにこそあると思ってしまったほどだ。

 

 余りの美しさに目が眩むようだ。一瞬で、全ての現実感が失われてしまう。

 それは美しいモノを前にした人間ならば誰もが陥る反射と思考停止。即ち、見惚れる、であった。

 

 

「…………ハっ! た、たたた、大変助かりました! ありがとうございます! それでは、僕は失礼します!」

 

「あらら。そんなに走るとまた転ぶぞー! 足元に気をつけてー!」

 

「ほら、やはり心配する必要はなかったではないか」

 

「いやぁ、三日月さんがあんまり美人だから恥ずかしくなっちゃったんですよ、きっと」

 

「う゛っ?! お、大殿はそうやって人の事をいつもいつも褒め殺して有耶無耶にして、全く! 全くもう!」

 

 

 心から美しいと思った人に自身の情けない姿を見られた気恥ずかしさから、少年は顔を赤くしながら脱兎の如く去っていく。

 その後ろ姿に青年は手を振りながら安堵の笑みを浮かべつつ三日月の容姿を褒め称え、当の三日月は呆れから照れへと表情を変遷させる。

 

 去っていった少年の直感は正しい。

 彼女は人ではない。人とは違う生まれ、人とは違う時を生きる者。特殊な製法によって鍛造された刀剣にして少女。即ち、巫剣である。

 巫剣は世の剣聖を超える程の剣の使い手であり、それぞれが異能を有する。そして、ある存在に対抗できる唯一の存在。見目麗しい乙女であるが、三日月の美しさは一際と言えるだろう。

 

 三日月宗近。それが彼女の銘。

 世に謳われる天下五剣の中で最も美しい刀身と容姿、剣の冴えを持つと言われる巫剣である。

 

 何とも奇妙な組み合わせだ。

 片やこの世で最も美しい乙女。片や、優しさだけが取り柄のような凡庸な青年。

 釣り合いが取れていないにも程がある。道行く男は彼女の容姿に目を引かれて青年に嫉妬し、道行く女は彼女の容姿に嫉妬もしつつも青年の冴えなさに見る目がないと嘲笑ってさえいた。

 

 ともあれ、二人とも既に慣れたものなのだろう。

 三日月は鋭利な表情を不機嫌に尖らせ、青年は仕方ないなと苦笑する。

 

 その時、二人の頭上でがあと鴉が啼いた。 

 

 

『任務帰りに済まぬが、またぞろ厄介事じゃ』

 

「小烏丸か。伝令役の鴉を飛ばしたということは……」

 

「……禍憑ですか」

 

『そうじゃ。お主等が一番近い。頼んだぞ』

 

 

 そのまま青年の肩に止まった鴉は、少女の声色で話し出す。

 

 禍憑。

 人の世に仇なす邪な存在の総称。

 人の悪意や恨みといった“病み”に取り憑き、人そのものを“闇”へと変質させる怪物。或いは大地に走る霊脈に乱れが生じ、堪った淀みが吹き出して形を成す異形。各地に残る様々な逸話を残す妖魔も、禍憑の一つと言われている。

 彼等に共通するのは、必ず人に仇なすという点のみである。

 

 それに対抗できるのが巫剣だ。

 彼女達は人々を守るため朝廷直轄機関“御華見衆”を組織、こうして日本を陰ながらに守っていた。

 

 青年もまた御華見衆の一員であった。

 

 青年の瞳には悲しみの色が帯び、三日月の瞳には強い覚悟の光が宿る。 

 二人は同時に背負っていた刀剣袋から刀を取り出し、帯刀した。

 廃刀令から既に三十年近くが経過し、戦の主役が銃器へと移ろう銘治において余りにも時代遅れの武器ではあるが、禍憑にはこれがもっとも効果的なのだ。

 

 

間ヶ原(まがはら) 人吉(ひとよし)、現場に向かいます」

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 ――一年前――

 

 

 

 

 

 オレは夢を見る。

 毎日、毎晩、見る夢は同じだ。気がつけば何時も同じ場所に立っていた。

 

 見渡す限り雲一つない青空に暖かで穏やかな春の太陽が浮かび、足元は凪いで澄み渡った水面が広がっている。

 

 それが何処までも何処までも続いている。地平線の彼方は青空と水面がくっついてしまっていて、夢の世界が何処へ言ってもこの光景なのだと予感させる。

 何時も通りの夢なので、水面に波紋を幾重にも刻みながら一歩一歩前に進む。

 水面の底は見えない。きっと海よりも深いのだろう。水の上を歩くなんて非現実的だが、同時に幻想的だ。何だか仙人にでもなったような気分で、幼い弟が水溜りで遊んでいる時のようにはしゃいでしまう。

 

 道標もない。進む道も決まっていない。

 一面の青空と太陽と水面の世界を気侭に進んで、気侭に歩む。

 

 そうしていると、必ず決まった人物が待っている。

 

 

「よお。また来たのか、人吉(ひとよし)

 

「やぁ。また来たよ、(みのる)

 

 

 水面に胡座をかいて座った彼は、振り返りもせずに声を変えてきた。

 

 オレによく似た背丈。オレとよく似た容姿。オレとよく似た顔立ち。

 違いは、癖が強くて髪が伸びるとボサボサになってしまうオレの赤味がかった黒髪とは対称的な、新雪のように真っ白で真っ直ぐな髪。けだるげな喋り方とオレよりも幾分鋭くなった目が人を寄せ付けない印象を受ける。

 

 初めて彼に出会ったのは当然、夢の中だ。と言うか、夢の中でしか会えない。会える訳がない。

 多分、彼はきっとオレの心から分かたれた何かだ。オレに似ているのはその為で、多少の違いはオレの願望か何かだろう。まあ、別に羨ましくもなんともないんだけど。

 父さんと母さんから貰った丈夫な身体はオレの誇りだ。不満なんてない。ないのだが、ちょっと格好いいと感じる辺り、自分でも気付いていない密かな願望があるのだろう、うん。 

 

 

「だから違うと言うに。儂はお前の心を間借りしているだけだ。お前ほど清らかでもなければまともなものでもない」

 

「む。そういう自分を卑下する言い方はどうかと思う。そういうこと言わないで欲しいですわ」

 

 

 隣に腰を下ろしながらそう言うと、彼は困ったような、呆れたような、嬉しそうな何とも言えない表情で肩を竦めた。

 

 彼の名は実。

 初めて出会ったこの青空と水面の夢の中で、名前がないというからそう呼ぶと決めたのだ。

 最初の内は、巫山戯るな、認めない、気色悪い、鬱陶しいと罵倒されたものだが、今では夢から覚めるまでの間、語り続けるほど仲良くなったものだ。

 

 しかし、夢の中でこんな友人を作ってしまうなんて、オレはそれほど寂しがり屋だっただろうか?

 

 

「儂はお前の頑固さに呆れて諦めただけだ。それにお前に作られた訳ではないわ、大戯け」

 

 

 そう言いながら首を振りながら、彼は何時ものように笑うのだった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 某県某所。

 地元の人々は経津山と呼ぶ小さな山がある。

 その中腹には小さな炭焼小屋と小さな一軒家があった。

 

 文明開化の音がするとは言うものの、帝都や都市部から離れた地方の人々の暮らしに劇的な変化があったわけではない。

 西洋文化など遠い世界の話。余りにも遠い話すぎて、誰もがピンと来ないだろう。

 

 麓の町から離れた山中にて炭焼きを生業としている間ヶ原(まがはら)家も、その一つ。

 

 

「人吉、今日も行くのかい? 昨日の晩から雪に降ったから危ないよ。無理に行かなくても……」

 

「うん。でも、正月くらいは母さんと美貴と睦郎を腹一杯にしてやりたいし。気を付けていってくるから。餅米と、それから榊も買ってくるよ」

 

「……そうかい。ありがとうね」

 

 

 立て付けの悪くなった扉をガタガタと開きながら間ヶ原家の長男坊である人吉が、その後を追って母である(たえ)が続く。

 昨年、流行り病で父を失った間ヶ原家は人吉と妙こそが大黒柱であった。

 幸い、二人は父から炭焼きの技を継いでおり、貧しいながらも絶望のない日々を送っている。

 

 妙は自らの子供に腹一杯食わせてやれない不甲斐なさを覚えながらも、誰よりも優しく真っ直ぐに成長した人吉を誇らしく思い、笑みを溢す。

 

 

「あれ? 兄さん、町に行くの?」

 

「えーーーーーー!! ずるい! オレも連れてってよー!!」

 

「ごめんごめん。今日は雪で荷車も引いていけないから、睦郎が疲れても休ませてやれないんだよ」

 

「こら睦郎! 兄さんを困らせないの!」

 

「ぶー! 母ちゃん!」

 

「ふふ。駄目だよ、諦めな。今日は、私と梅と一緒に正月飾りを作ろうね」

 

 

 家の井戸から水を組んできた長女の美貴、次男の睦郎が人吉の姿を見つけると駆け寄ってきた。

 

 今年拾六になる人吉と二つ年が離れているが顔立ちも落ち着きようも年齢以上の美貴は、駄々を捏ねる睦郎は嗜める。

 文句を垂れた睦郎も、最終的には不貞腐れながらも自分の願いが我儘だったと認めたようだ。

 

 仲の良い兄弟で、仲の良い家族だ。

 父を失った家族では、互いに手を取り合っていかなければ生きていけないというのもあるのだろうが、それを差し引いても仲が良い。

 

 妙は教養こそなかったが、強く逞しく、そして優しい女性だった。

 父である人成(ひとなり)も、町ではお人好しと誂われながらも、人に頼られる男性だった。

 そんな二人の間に生まれた子達が、厳しくも愛情を以て育てられた兄弟達が優しく育たぬ筈もなく、貧しさなど目に映らぬほどの幸せな家庭を築いていた。

 

 

「兄ちゃん、早く帰ってきてねー!」

 

「暗くなるのが早いから、気をつけてねー!」

 

 

 売り物の炭を目一杯にいれた籠を背負い、兄弟達の笑顔に見送られながら人吉は山を下り始めた。

 

 麓の町までは凡そ10kmの道程だ。

 彼の父も、父の父も、そのまた父も。こうして山を下り、焼いた炭を売りに向かった。

 

 先祖代々が踏み締め、均した山道を自慢の健脚で進む。

 

 山に降りた雪化粧は冬の厳しさを感じさせながらも、何処か清廉だ。

 今年初めての雪。例年に比べればいささか降るのが遅すぎたほどではあるが、ほぼ毎日この山道を下っては上りを繰り返す人吉には、嬉しい誤算であった。

 

 

「よっ、ほっ!」

 

 

 雪を踏み鳴らす音を響かせながら、彼は奇妙な行動に出ていた。

 見えない何かを握るように拳を作り、時折片足立ちになったかと思えば、その場で地団駄を踏む。

 

 見る者が見ればまた違った感想があったのであろうが、素人目には踊りに見える。

 事実として、それは間ヶ原家に伝わる舞であった。年の始め、その一年の無病息災を願い、神に舞を捧げて祈る神楽。

 

 古くは天照大御神の岩戸隠れに際し、天宇受売命が踊った事が神楽の起源とされている。

 それぞれが信奉する神・地域地方によって特色があり舞い方は変わるが、全国的に見てもそう珍しい風習ではない。

 

 唯一珍しく、同時に人吉も不思議に思っている事は一つ。この神楽は刀剣の神に捧げている事か。

 普通、炭焼きや鍛冶といった火の仕事を生業とする者達は火の神を信仰している場合が大半であるのだが、間ヶ原家では違うらしい。

 

 間ヶ原家の神楽が何時、何処で、誰が作ったのかは分からないが、ともあれ家長が年の初めに舞うのが習わしである。

 江戸から年号が変わり三十余年。諸外国から押し寄せる文化の波によって近代化は進んでいれども、こうした何らかの科学的根拠に基づかない風習は続いていく。人々の関心というものは何も論理や根拠に基づくものではないからだ。

 

 

「おや、こんな日にまで山から下りてきたのかい。風邪をひくんじゃないよ」

 

「はは、大丈夫だよ。健康なのがオレの取り柄だし」

 

「おーい、人吉。炭を売ってくれ。寒くてしょうがねぇ」

 

「はいはい。ちゃんと身体を温めてね」

 

「こっちも炭をちょうだい。あんたのところの炭は質が良いからねぇ」

 

「そう言ってくれるのは嬉しいなぁ。それなら焼いた甲斐あるよ」

 

「おう、人吉。この間は屋根を直してくれて助かったぜ。その礼だ、餅米安くしとくぜ」

 

「いいよいいよ、ちゃんときっちり払うから。困った時はお互い様だからね」

 

 

 2里半の道程、僅か1時間で走破した人吉を迎えたのは町の住人達による歓迎だった。

 

 彼が随分と慕われているのが分かる。人吉という名前だけあって、本当に人が良いようだ。

 困っている人が居るのなら見返りを求めずに手を貸し、朴訥な笑みを浮かべて良かったと去っていく。

 生活の中で生まれるどうしようもない理不尽を愚痴として漏らしても、鬱陶しがる事なく耳を傾け、励まして去っていく。

 まして父を亡くしても気丈に振る舞い、家族を守るために勤勉に働き続ける人柄が嫌われる筈もないのだった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 彼の人柄もあってか、その日も炭は飛ぶように売れた。

 餅を作るための餅米と舞の為の榊を買い、後は家へと戻るだけ。

 だが、其処は彼のお人好しの性格もあって、己の目的こそ果たしたものの、町の住人達に手を貸していたらすっかりと遅くなってしまった。

 

 籠の中に餅米と榊を収め、山森の獣道を戻っていく。

 日は傾き、夕暮れの光が木々の間から漏れていた。あと1時間もすれば森は闇に包まれ、月と星明りのみを頼りに進むしかなくなる。

 

 

(すっかり遅くなってしまった。これじゃあ皆を心配させちまう)

 

 

 大した健脚だった。雪に脚を取られることもなく、平地と変わらない様子で登っていく。

 一日中歩き回り、町の住人達を助けて回ったと言うのに、彼の歩みが遅くなることはない。寧ろ、速度は上がっているほどだ。

 家族に心配を欠けたくない一心と生まれ持った健康で日々の労働によって鍛えられた肉体のお陰だ。

 

 

「…………?」

 

 

 その時、人吉は奇妙な痕跡に脚を止めた。

 

 経津山の山道は他の山々と同様に、山の斜面を蛇行する道筋を描いている。

 そうすることで歩く距離自体は伸びるものの、傾斜が緩やかになって筋肉に掛かる負担を軽減して体力の消耗は少なく、傾斜を滑り落ちる危険性が軽減するのである。

 

 彼が目にしたのは蛇行する山道を横切るように麓へと向かう無数の足跡。つまり、山の上から一直線に下りてきたことになる。

 

 足跡は大人のそれを変わらないものが数えきれないほどある上に、何かが這いずったかのような跡もあった。

 ありえない痕跡だ。朝、山を下りた時にはそのような足跡は欠片も存在しておらず、誰とも擦れ違わなかった。山の反対側は人が歩けるようにはなっておらず、深い谷もある。

 

 つまり、自然発生的に山の山頂付近に人が飛んでも来ない限り、起こりえない足跡なのだ。

 まして山の斜面はきつい。滑り降りようとすること事態が愚かだ。麓に着くまでの間に紅葉おろしになってしまう。とてもまともな人間のする事ではない。

 

 

「…………っ」

 

 

 人吉に足跡の主が何者なのか、何が目的だったのかは答えが出せなかった。

 

 ただ、寒さとは違う悪寒に背筋が震えた。

 足跡と山頂を結べば中間には自分を迎えてくれる家族と帰るべき我が家が存在している。

 理由は分からない。分からないが、嫌な予感がした。それを自覚するよりも早く、人吉は地面を蹴った。

 

 掛け値のない全力疾走。人吉の出せる最高速で山道を駆け上がる。

 呼吸が乱れるのも構わず、吹き出す汗すらも気にせずに、ただ我が家への帰路を一秒でも早く駆け抜ける。

 

 

(こんな不安、気の所為だ。ありえない。家には、何もない。だって家には盗むものなんてない。山賊なんてもういない。母さん達だって抵抗なんてしないはずだ!)

 

 

 一歩進む事に不安は募った。

 肺を斬り裂くような冷たい空気に、血を吐くような思いで疾駆する。

 自身の呼吸と鼓動だけが耳朶を打つ道中。必死に自分を言い聞かせ、最悪の想像を振り払うように走り続ける。

 

 

(オレは幸せだ! 生活は苦しいけど家族がいる! そりゃいつまでも幸せが続くとは限らない。苦しい時だってある。それでも、それが、それがこんな急に終わるなんてありえない。ありえないありえないありえない!)

 

 

 間ヶ原 人吉は間違いなく幸せだった。

 余人にはその生活は苦しいものに写っただろう。裕福な者にはみすぼらしく写っただろう。

 だが、所詮禍福などは当人が決めるもの。父の死という不幸を乗り越え、明日に不安を覚えながらも彼等の家庭には笑みがあった。

 人吉はそれさえあれば生きていけた。それさえあれば幸せだった。彼の、心からの本心である。

 

 ――――禍福は当人が決めるものではあるが、どうしようもない運命というものは、不平等な現実というものは誰にも平等に訪れる。

 

 彼にとっては今日がその日。

 残酷な運命が、不平等な現実が、彼に追いついてしまった。 

 

 

「う、ぁ……睦郎……」

 

 

 まず初めに見つけたのは、家族の中でもっとも幼い弟だった。

 家の戸ごと外に飛び出したのだろうか。幼い弟は、まだ5歳になったばかりの睦郎は戸の上で絶命していた。

 背中から袈裟斬りに。戸の上から溢れた血は周囲の雪まで真っ赤に染め上げている。

 呼吸はない。見開かれた瞳に光はない。痛みによるものか、苦しみによるものか、涙が乾いた跡がある。

 

 ただでさえ酷使していた心臓は、今や張り裂けてしまいそうなほどに暴れまわっていた。

 もう二度と動かなくなった睦郎の前に跪き、その身体を触れる。氷のように冷たくなった躯が、残酷な現実を人吉に突き付ける。

 

 

「母、さん……美、貴……」

 

 

 ぐらぐらと揺れる視界の中、助けを求めるように母と妹の名を呼ぶ。だが、返事はない。

 弟の死と静寂に耐え兼ねて家の中に視線を向ければ、迎えてくれたのは家族の笑みではなく、折り重なるように血の海に沈んだ母と妹の姿。

 最後の最後まで子を守ろうとしたのだろう。妙は美貴の上へと覆い被さり、背中から美貴ごと畳に槍で縫い付けられている。

 

 

「はっ……はっ……ひゅ……」

 

 

 余りにも現実感が無さ過ぎて、脳が目の前の事実を受け入れてくれない。

 

 涙すら出て来なかった。代わりに呼吸が上手く出来ない。

 深すぎる絶望は、重すぎる現実は、人吉の精神に掛けられた負荷は、正常な肉体の機能を根刮ぎ喪失させていく。

 

 彼でなければ一歩も動く事も出来ず、厳しい冬の寒さに命を奪われていただろう。

 それでも彼が過呼吸に喘ぎながらも動いたのは家族への愛情故。

 

 痛かっただろう。苦しかっただろう。怖かっただろう。

 そんな最後を迎えた家族をそのままにしておけなかった。ただ、それだけの理由で動き出す。

 

 睦郎の腹から溢れた内蔵を掬い上げ、赤子だった頃から随分と重くなり、もうこれ以上は重くならない身体を抱き上げる。

 歯を食いしばり、もう自分のものとは思えないほどに思い手足を踏ん張って、家の中に入る。

 

 

「ぐっ……ひゅ……ひゅー……げほっ……はっ……」

 

 

 頭の中は菜箸で掻き混ぜられたようにぐちゃぐちゃで。

 腹の中は全てが裏返ったかのように引っ切りになし吐き気が込み上げる。

 縺れる脚を無理矢理動かし、必死になって母と妹の亡骸へと向かっていく。

 

 己に対する哀れみなど微塵もない。

 いま彼にあったのは命を奪われた家族の亡骸を、もう二度と離れる事なく埋葬する事だけ。

 

 そのためか、背後から近付いてくる気配に全くと言っていいほどに無防備だった。

 山で育っただけあって、彼の五感はずば抜けて鋭い。経津山は野生の熊や猪が下りてくることもある。気配を殺して近づいてくる野生の獣に気づき、事なきを得たのは一度や二度ではなかった。

 だが、家族を失ったという絶望と家族を手厚く葬るという強い使命感が、五感を鈍らせた。

 

 

『――兄さん!』

 

「美貴? …………あ、がっ!?」

 

 

 もう二度と呼ばれることのない呼称が、二度と耳にすることのない声が聞こえた気がした。

 その瞬間、脚から力が抜けて睦郎の重さに負けて土間に倒れ込む。同時に、背中に灼けるような痛みが奔った。

 

 

「あ、あぁ! ごめん、ごめん睦郎――――」

 

 

 痛みよりも何よりも、自分の所為で投げ出してしまった弟の死体に語り掛け、人吉は凍りついた。

 

 土間には自分と睦郎以外に、もう一人が居たからだ。

 夕日の差し込む入り口を背に立つ何者か。その姿を何と形容したら良いものか。

 

 見た目は、一言で言えば足軽だ。

 胴鎧、籠手、脚絆、陣笠、そして手にした刀。時代錯誤も甚だしい。足軽が職業として成立していたのは何十年も前の話。

 銘治となった世には、もはや不要の長物にして時代の遺物。そんな格好をしているのは、頭のおかしい人間だけだ。そう――――何者かが人間であったなら。

 

 眼球のない虚のような眼窩にそれでも爛々と赤い眼光が輝いていた。

 鼻は削ぎ落とされたかのように鼻腔が奥まで覗き込める。

 口から覗く犬歯は狼のように鋭く、人のそれとは大きくかけ離れている。

 顔の皮膚は焼け爛れているのか、乾ききって木乃伊のようだ。

 

 人の形こそしていたが、それは異形怪物と呼ぶに相応しい。

 

 そして見たことのない怪物を前にして人吉に湧き上がったのは、比類なき怒りであった。

 

 ――異形は真っ赤な返り血を浴びており、半ば乾いた状態。誰の返り血を浴びたかなど誰の目からも明らかである。

 

 

「お、前が……! お前が、母さんを、美貴を、睦郎を…………貴様アアアァアァアァァッッ!!!!」

 

 

 許せないという純粋な怒りは、手足を動かすための揺るぎない原動力となる。

 つい先程まで今にも死にそうだった表情は仁王の如き険しさを備え、踏み出していた。

 

 強靭な脚力からの踏み込みは、人であるならば反応できなかったであろう。

 だが相手は異形――――禍憑である。その程度、何の驚異にもなりはしなかった。

 

 

「――――がっ!?」

 

 

 獣の如き低い姿勢で近寄り、両脚を刈り取るように体当たりをしようとした人吉の身体は宙を舞った。

 疾走よりも早い速度で天井へと叩きつけられるだけでは飽き足らず、母と妹の死体を越えて居間の畳に放り出される。

 

 禍憑の力は人の範疇を大きく凌駕していた。

 奴がしたのは事もなげに爪先を跳ね上げさせただけ。それが人吉の胸板に突き刺さっただけでこの有様である。

 

 

「がっはぁ、ひゅ、げほっ……!」

 

 

 鈍さと鋭さ。種類の違う痛みが同時に襲い掛かり、呼吸すらもまともに出来なかった。

 胸骨が折れているのだろう。何とか呼吸を再開しても、肺の膨張と収縮、横隔膜の動きだけで激痛が奔る。

 人吉が痛みで呻き声すら上げられぬ中、禍憑は我が家のような勝手さで、草鞋すら脱がぬまま土間から居間へと上がり込んでいた。

 

 

(無理だ。素手じゃ、どうにもならない……!)

 

 

 余りの苦痛に明滅する視界の中にあって、間近に迫った死を冷静に見つめている。

 しかし、家の中で武器になりそうなのは料理用の包丁と炭用の木を切るための斧くらいのもの。とてもではないが、異形に対抗できる武器ではない。

 

 一歩。また一歩と禍憑が己に迫る。

 

 彼の脳裏に浮かんでいたのは、これまでの人生全てであった。

 走馬灯。人が死の淵で見ると言われる過去の思い出・記憶。一説によれば、今までの経験や記憶から迫りくる“死”を回避する方法を探しているのだという。

 

 まるで運命の糸が引き寄せられるように。

 或いは運命の糸を自ら手繰り寄せるように。

 

 人吉は“それ”を手にしていた。

 

 “それ”は、間ヶ原家に神楽と共に代々伝わる宝剣であった。

 年の初め以外は居間にずっと祀られており、神楽を舞う時にだけ鞘から抜き放たれる刀。

 

 刃長2尺。刀身の反りは深く、鍔元太く鋒細し。標準的な太刀であった。

 由来は分からない。銘もない。亡くなった祖父は、戦国時代に合戦跡から拾ってきたものではないかと言っていた。

 拾ってきた跡に掘ったのだろうか。鍔元には禍災覆滅の四文字が刻まれている。通常、刀の強度が変化してしまうような愚劣を刀工は侵さない。

 

 

『人吉。神楽を舞う時は刀の神様になりきるんだ。寒い中でも何時までだって舞い続けられる。呼吸を整えて、今年の災厄を断つんだよ』

 

 

 それも走馬灯だったのだろうか。父が優しい笑みを浮かべながら、確かにそう言った。

 

 一度大きく息を吐き、肺一杯に空気を満たす。

 呼気によって取り込まれた酸素は全身へと瞬く間に行き渡り、筋肉が隆起する。

 

 それは幼い頃より、間ヶ原家の家長にのみ教えられる呼吸法。

 半日にも及ぶ激しい舞を続けるために、長い時間を掛けて研鑽された技術の結晶。

 

 

「――――斬るっ!」

 

「………オォっっ!」

 

 

 畳が千々に裂けるほどの踏み込みは、爆発的な加速を生み出した。

 

 如何な異形と言えどもその速度、反応できるものではなく。

 腹の底から絞り出された怒りそのものの宣言通り、人吉はすれ違いざまに異形の胴を一刀の元に斬り伏せていた。

 

 異形はざらざらと砂のように崩れ、初めから存在しなかったように消えていく。

 消滅した異形を確認すると、人吉は膝から崩れ落ちてその場に蹲る。

 

 勝てたことなどどうでもいい。

 仇を討った達成感すら感じない。

 

 ただ、怒りを超えた先にあったものは、家族を失った悲しみだけ。

 溢れる涙を止められず、かと言ってそのまま泣き続けるわけにもいかない。

 

 

「うぁ、ああっ、母さん、美貴、睦郎……うっ、うぅっ、あ、あぁぁっ……!」

 

 

 泣きながら家族の亡骸を居間へと並べ始めた。

 突き刺さった槍と刀を引き抜き、溢れた内蔵を掻き集め、開いたままの瞼を閉じ、二度と離ればなれにならぬようにしっかりと手を繋ぎ合わせる。

 後は医者に連絡して完全な死亡を確認し、役人に死亡届を提出。その後に、葬儀が待っていた。

 季節は冬だが、時間が掛かれば掛かるほどに死体は傷んでいく。これ以上、家族が元の形からかけ離れていくのを見ているのは耐えられない。

 

 その場に蹲ったまま叫び出したいのを堪え、立ち上がる。

 どうしようもない倦怠感と虚脱感、更には吐き気。動けていたのは、偏に家長としての使命感故であった。

 

 

「………………ぁ」

 

 

 這々の体で土間を抜け、壊れた引き戸を抜ける。

 其処から見た光景に、人吉の身体を奔る血潮は再び沸騰した。

 

 すっかりと夜の帳が下りていた。普段であれば月と星の光しか差し込まぬ中、木々の隙間で空が燃えている。

 赤く焦げるような灼熱を予感させる光が、麓の町から発せられていた。

 

 山道で見た無数の足跡は、山頂の方角から町へと向かっていた。

 ならば、あの炎の理由も、町で何が起きているかも、人吉が想像するのは容易かった。

 

 

(オレが、先に町の方へ向かっていれば……!)

 

 

 あの時点で家族達が死んでいたのなら、最善は山道を引き返し、足跡の正体を探った後に町の人々に警告する事だった。

 されど人吉は神ではなく、その視点は人のものに過ぎない以上、自身の見たものからしか物事を判断できない。一体、誰が彼を責められよう。

 それでも彼は己を責めた。それが人吉と言う人間だった。   

 

 後悔先に立たず。

 時は巻き戻らない。

 人間は万能でない以上、失いながら前に進むしかない。

 

 父を失った時に悟った世の真理を胸に、人吉は駆け出した。

 

 

「ごめん……! ごめんよ、母さん、美貴、睦郎……! 必ず、必ず帰ってきて、父さん達の墓に入れてやるから、少しだけ待っていてくれ……!」

 

 

 もう失う事はたくさんだった。

 もう誰かを失うのが嫌だった。

 もう誰かに自分と同じ思いをして欲しくなかった。

 

 そんな人間的な優しさに沿った思いだけで、人吉は駆ける。

 

 自分が斬った異形が何者であるのかも知らぬままに。

 自分の行いが、どれほど摂理から外れたものであったのか知らぬままに。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「クソっ! クソぉっ! 何なんだよ、この化物どもはっ!!」

 

 

 一体、何人殺されたのか。

 一体、どれだけの家が焼かれたのか。

 火の放たれた町の中で、生き残った男達は即席の竹槍や蔵に眠り廃刀令から逃れた鈍刀(なまくらがたな)を手に異形へ応戦していた。

 

 始めに悲鳴が上がったのは経津山に程近い民家の中。

 まだ日が暮れたばかりの時間帯で、誰一人として寝ていなかった事だけは不幸中の幸いであった。

 

 問答無用で襲い掛かってくる異形共を前に、町の住人達は混乱に陥りながらも行動は正しかった。

 屈強な男達は手に武器を以てその身を盾として時間を稼ぎつつ、町の役人達は女子供老人病人を優先して隣町へと逃れた。

 

 しかし、その奮闘も此処までだ。

 既に男達の数は半数以下にまで減っており、異形の多くは男達を無視して隣町へと向かってしまっている。

 

 そして何より――――

 

 

「……何だよ、そりゃあ」

 

「あぁ、神様仏様、どうかどうか妻子だけは助けてくだせぇ……」

 

 

 ――――眼の前に現れた異形が彼等の最後を告げていた。

 

 これまでの異形と比較しても更に巨大な体躯、処刑人の如き顔まで覆う三角帽、大人三人分の胴回りにまで肥大化した左腕。

 相手が人型で、武器が槍や刀であれば、戸や障子を盾に身を守りながら応戦する事も出来た。

 だが、あの巨躯が相手では何も盾にならない。それどころか、人体も一瞬で握り潰されてしまう。

 

 避けようのない死を、掛け値のない絶望を前にした男達は全てを諦める。

 

 

「お、アァアアアァアアアアアァっ――――!!!」

 

「オ、オォォォォ……っ」

 

「こ、今度は何だぁ……?!」

 

 

 瞬間、男達の絶望も、異形共の暴虐すらも斬り裂く裂帛の気合が闇夜に迸る。

 燃え盛る民家の屋根から炎の帳を飛び越えて、巨大な異形の頭へと落下する影。

 影は落雷の如き勢いで違える事なく異形の頭部を手にした刃で地面へと縫い付けた。

 

 

「今の内だ! 早く逃げて!」

 

「お前、人吉か!? 化物どもをどうやって……!」

 

「ふざけるんじゃねぇ! お前を置いていくなんて……うわぁああぁぁぁあっ!!」

 

「建物が……!」

 

 

 建物が倒壊し、人吉と男達の間には炎を纏った境界線が生まれる。

 

 冬の乾燥した空気に強い風は、瞬く間に火の手を拡大させた。今こうしている間にも火の勢いは衰えることなく燃え盛っている。

 呼吸器と肌、体毛がじりじりと熱で焦げていくのを感じながら、余りにも残酷な選択を決断せざるを得なかった。

 

 

「人吉っ! 人吉、死ぬなっ! 死ぬなよっ!」

 

「おい、お前っ!! 人吉を見捨てるってのか!?」

 

「これ以上、オレ達に何が出来るってんだ! 隣町へ行って、応援を呼んでくるんだよっ!! かかあ達が先に逃げてる、準備をしてくれてるはずだ!」

 

「チクショウめっ! 必ず、必ず戻ってくるからな、人吉……!」

 

 

 男達の決断は正しかった。

 時間は掛かるが、既に先に逃げた者達がこの町の事態を伝えている。既に此方へと向かっている筈。

 隣町とは交流が深く、気の良い若衆や消防組も多い。此処で孤軍奮闘するよりも、ずっと人吉を助けられる算段は高い。

 

 何より、異形どもの驚異を肌で感じていた。

 竹槍や刀で斬り掛かっても、全くと言っていい程に通用しないのである。

 人吉が何故、異形を倒せたのかは分からない。男達に出来た推測は、彼の手にした刀が余程の業物だったのだろうという程度。

 

 しかし、今は推測など重要なことではない。人吉が異形を倒せたのもどうでもいい。

 重要なのは助けを呼ぶことだ。町にはまだまだ異形共がわんさか居た。一秒でも早く応援を呼べば、人吉が生き延びる可能性はぐんと上がる。

 

 月と星明りのみが照らす街道。

 帝都から離れ、街灯の設置されていない田舎では十分過ぎる光源を元に男達はひた走る。

 

 

「あぁ! チクショウっ! 奴等、追ってきやがったっ!」

 

「気持ち悪りぃなぁ! 市松人形みたいな顔しやがってっ!」

 

 

 街道を奔る男達の後を追うように、無数の異形が迫る。

 巨大な市松人形の頭部に蜘蛛の脚を生やした生理的な嫌悪感を引き立てる姿の怪物だ。

 

 奴等は兎に角、数が多く素早い。木や壁を這い回り、飛びついて襲い掛かってきた。

 一匹二匹ならば大人であれば十分に引き剥がせるが、それが十や二十になれば為す術はない。

 市松人形の餌食となったものは身体中を食い千切られ、針のように鋭い手足で()()()にされて死んだ。

 

 

「……ぐあっ!?」

 

「おい、(ちょう)さん、何やってんだっ! 立て、早く立てよっ!」

 

「ったく、こんな時によぉっ!!」

 

「来るなぁっ! 行けっ! オレはいいっ! もう、走れねぇっ!!」

 

「だ、だが……っ!」

 

「行きやがれっ! 早く助けを呼んでこいっ! オレよりも人吉を助けてやんだよっっ!!」

 

 

 自分達よりもずっと強い異形の相手を続け、町の仲間を目の前で惨殺されるのを見た彼等はとうの昔に限界だった。

 それでもなお限界を押して戦ったのは、愛する家族のためであり、故郷を守ろうとする無垢なる祈り故に。

 

 この結末は必然であった。

 

 長と呼ばれた男は彼等の中で最も年を重ねていた。動けなくなるのも当然、一番早いだろう。

 指示を出していたのも彼であり、混乱の中にあっても冷静さを失わず、行動は逐一的確であった。

 

 故に今回の彼の選択もまた的確だ。

 追ってくる異形は数が多く、動きが素早い。このまま全員で逃げていてはいずれは追いつかれる。

 だが、その習性が仇となる。奴等は集団で一人に襲い掛かり、対象が動かなくなるまで執拗に攻撃を仕掛ける。

 

 誰か一人が囮なるのだ最善だ。

 一秒でも長く、一匹でも多くを引きつけ、可能な限り長い間死なないこと。

 年を重ね、息子も立派に成長している己が最も憂いが少ない。未練はあるが、後悔などない。町に残った時点で覚悟はとうに済ませていた。

 

 

「来やがれ、化物どもっ! オレを食って、腹を下しやがれっ!」

 

 

 選択肢の残されていない自己犠牲。

 されど、人間的な尊さにと誇りに満ちた行為。ものの数秒で血で穢され、絶望の悲鳴で塗り潰されたとしても、その行為に陰りはなく。

 

 

「――――はっ!」

 

 

 天は、彼等を見放さなかった。

 否、彼等の奮闘が、彼等の誇りが天運を引き寄せたのである。

 

 余りにも美しい剣閃。

 目で追えぬほど速く、それでいて眼球に焼き付くほどの鋭さを有した無数の斬撃が、飛びかかろうとしていた異形を斬り裂いていた。

 斬り裂かれた異形は地面に落ちるよりも早く襤褸炭の如く崩れ去る。

 

 

「ご無事ですか……!?」

 

「あ、あぁ、嬢ちゃん達は一体……」

 

「我々は朝廷直轄機関“御華見衆”。遅くなって済まない。貴方がたの救助に来た」

 

 

 迫る驚異を呆気なく斬り伏せたのは少女達であった。

 

 倒れた男に手を差し伸ばしたのは、短い黒髪と溌剌とした口調が印象的な少女。

 大きな瞳を悲しみに沈めながらも、僅かな陰りも見せない活発さがある。

 男が差し出された手を掴むと、華奢な身体からは想像もつかないほどの強い力でぐいと立たされてしまった。

 

 黒髪の少女が愛らしさを第一印象に受けるならば、もう一方の少女は美しさを第一印象に受けた。

 冷たさすら覚える美貌を向けることなく、銀髪の少女は燃え盛る村から視線を外さずに周囲を警戒している。

 

 

「朝廷の……いや、なら人吉を……まだ残ってる奴が居るんだ。助けてやってくれ!」

 

「三日月さんっ……!」

 

「これより町へと踏み入る。間に合うかは分からないが、全力を尽くそう――――来たか!」

 

「あいよ、おまっとさん。此処に来るまでの間に禍憑も斬ってきたで」

 

 

 更にもう一人現れた少女は、二人と比較しても更に幼い。

 処女雪のように白く、毛先だけが僅かに薄緑の長髪に勾玉の髪飾りを二つ付け、ド派手な赤い振袖を改造し、更には同色の脚絆までを身に着けている。

 

 彼女たちの共通点は、見目麗しい少女である事と素人にも分かる業物を手にしていた事か。

 とても朝廷に属する人物には見えぬが、一太刀で異形共を斬り伏せたのもまた事実。

 

 彼女達こそは巫剣。

 人々を守るため、歴史の影で蠢く闇を斬り祓ってきた乙女である。

 

 

「よし。津田は傷病人を連れて後退。後にソボロと共に抜けてきた禍憑から陣を守れ! 抜丸は私ともに来い、斬り進むぞっ!」

 

「了解しましたっ! 手抜かりなく行きます!」

 

「任されたで。よっしゃ、おっちゃん、歩けるか?」

 

「いや、足をやっちまった。悪いが、肩を貸してくれや嬢ちゃん」

 

「そんな遠慮せんでも。おぶったるわ」

 

「おぶったるって、嬢ちゃんの背丈でそんな――――うぉおぉおおぉぉぉっ!?」

 

 

 緋色の少女――津田越前守助廣はひょいと赤子のように男を背負うと、来た道を凄まじい速度で掛けていく。

 その背中を見送ると銀髪と黒髪の少女――三日月宗近と抜丸は、村へ向かって疾走を開始する。

 

 津田にせよ、三日月にせよ、抜丸にせよ、恐ろしい速度だ。

 野生の獣でも此処まで速く地を駆ける真似はできまい。

 それだけではない二人は一度も足を止める事なく、村から溢れるように現れる異形――禍憑を意図も容易く斬り捨てていた。

 

 いずれにせよ、その身体能力も、振るう技も人間離れしている事は間違いない。

 

 村に近づくに連れ、炎の熱気は増していく。

 三日月と抜丸の焦燥は募る。顔も知らぬ少年ではあったが、そうした人々を守ることが御華見衆の務め。

 感謝も称賛も必要はない。彼女達が欲しいのは、何の罪もない人々の苦しいながらも絶望のない平穏な生活であった。

 

 

「三日月さん、これ、おかしいですっ!」

 

「あぁ、そのようだ。数が少なすぎる……」

 

 

 奇妙な事態であった。

 

 今回、三日月、抜丸、津田、更にはソボロの四名がこの場に居合わせたのは偶然によるものだ。

 四名はたまさか別の地での任務を終え、拠点に戻るか、次なる任務へ移動する最中、御華見衆の伝令役である小烏丸の操る鴉から急報が届いた。

 

 ――禍憑ノ発生アリ。現場ニ急行スベシ――

 

 禍憑の発生規模。住人の被害・避難状況も逐一鴉を通じて入ってきたが、その情報と一致しない。禍憑の数が少なすぎた。

 状況から察しても、禍憑の数はもっと多くてもいい。町の住人は自分達の出来る範囲での最善を尽くしていたが、それにしても被害が少ない。死傷者の数はこの程度では済まないはずだ。

 

 疑問と不審。

 思い当たる節はない。少なくとも他の巫剣がいるのならば、小烏丸から連絡が入る筈。

 現在、現存している巫剣の多くは御華見衆に属している。これに属さぬ巫剣は人々を守るためと言うよりも己の力を誇示することに固執しており、到底町を守るために行動するとは思えない。

 

 ならば、町の中で一体何が。

 

 

「人吉さん、人吉さんはいらっしゃいますか!」

 

「誰か、誰かいないか! 返事をしてくれっ!」

 

 

 町へと突入した三日月と抜丸を待っていたのは無数の禍憑ではなく、轟々と燃え盛る炎だけ。

 そこらじゅうに住人の焼け焦げた死体が転がるばかりで、生存者どころか禍憑の姿すらない。

 

 発生した禍憑は、巫剣に払われるまで自然消滅する事はない。

 ましてや今回の大量発生は地脈の淀みから吹き出したタイプだ。人に紛れて身を隠したとも考え辛い。

 そもそも特定の禍憑以外に自我というものが薄く、破壊衝動のままに全てを壊す。そのような知恵が回るとも考え辛い。

 

 湧き上がる疑問を押し殺しながら、声を張り上げて一人残った青年を探し続ける。

 しかし、それも長くは続かなかった。火の勢いは増すばかり。煙と炎に巻かれ、三日月と抜丸の身も危うくなってきた。

 

 並々ならぬ無念を押し殺し、二人は一時町の外へと退避する。

 炎に焦がされた肌には、冬の寒気すらが心地良い。

 

 

「どうしましょう。それらしい遺体も見つかりませんでした。残念ですが、これ以上は……」

 

「あぁ、そうだな。火の勢いが収まるのを待つしかない、か。人吉という青年は逃げ延びてくれているといいが……」

 

『三日月、抜丸、ご苦労じゃったな。一人残った男子は、見つからぬか……』

 

「出来れば、遺体だけでも見つけてやりたかったが、この火の勢いでは鎮火しても判別がつくかどうか……」

 

『……そうか。ん? ソボロに津田か? どうした。あぁ、分かった、今繋ぐ! 騒ぐでないわ!』

 

 

 夜闇の中、舞い降りてきた鴉が抜丸の肩に止まり、少女の声で人の言葉を紡ぐ。

 

 巫剣は世の剣聖を超える剣を持ち、それぞれの異能を有する。

 鴉と会話して操り、遠方との会話を可能とする。これが御華見衆の伝令役たる小烏丸の異能だ。

 

 

『こちらソボロ助廣です。三日月さん、人吉という方は……』

 

「残念だが……」

 

『そうですか。困りましたね、避難してきた方々は皆口々に人吉と。随分と慕われていたようで……』

 

『何や、あのおっちゃんが言うてたけど、その(あん)ちゃん、町の人間やなくて裏山の方で家族で暮らしているらしいけど……』

 

「そちらに向かった可能性もある、か。……私と抜丸は山の方を探索してみる。二人はそのまま禍憑の残党を警戒してくれ」

 

 

 があと啼いた鴉は夜の中へと消えていく。

 それを見送り、三日月と抜丸は互いに煤だらけになった顔を見合わせ頷くと、町を迂回して裏山へと駆け出した。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「三日月さん、これを……!」

 

「駄目かと思ったが、希望が見えた。急ぐぞ、抜丸!」

 

 

 山へと足を踏み入れた二人が目にしたのは、人吉の生存を知らせるものであった。

 山道にはまだ新しい足跡と、点々と血の跡が続いていたからだ。

 

 生存を確信した二人は更に速度を上げる。

 町の異変に気づき、山を降りてそのまま町で禍憑を相手に立ち回った挙げ句に生き延びた青年の恐るべき体力と生命力、更に強運は驚嘆に値する。

 

 けれど限界は近いだろう。

 血を流しながらも歩いている以上は生きてはいるが、決して軽傷ではないだろう。彼の家族に医療の心得があるとも限らない。一刻も早く、保護する必要があった。

 

 呼気が白く染まる山の中、二人の呼吸と足音だけが響く。

 山は多くの人々の死を悼むように静まり返っていた。鳥獣の気配も、鳴き声すらもない。

 

 一秒でも早く。

 その思いを胸に、山道を駆ける。

 彼女達の脚力を以てすれば、決して楽ではないが険しくもない。

 瞬く間に家があると聞いていた中腹まで辿り着いた二人を待ち受けていたのは、家の前で刀を握ったまま力尽きた青年の姿であった。

 

 

「ああ、そんな……」

 

「いや、待て……呼吸はしている。生きているぞ。抜丸、湯の用意を。応急処置しか出来ないが、心得はある」

 

「は、はい。分かり――――」

 

「何をし――――」

 

 

 指示通りに家の中へと入ろうとした抜丸は硬直し、それを見咎めた三日月は叱責しようとして同じく声を失う。

 

 巫剣は不老だ。人のそれとは異なる“死”は存在するが年を取らない。何時までも若いまま、何時までも全盛期の肉体と精神を保ち続ける。

 この一家を襲った無惨、禍憑が引き起こす残酷など嫌というほどに見てきた。声を失ったのは、青年の行動が余りにも尊く、他者への献身で満ちていたからだ。

 

 居間に並べられた遺体の状態を見れば分かる。

 この青年は全てを失った矢先に、心折れてもなお誰かのために駆け抜けたのだ。

 

 青年の生き方も、その背景も二人には分からない。

 青年が戦うと決めた動機が、怒りであったのか、復讐心であったのか、人間的な優しさに満ちたものであったのかすらも。

 だが、彼の向こう見ずな行動は、二人の胸を打ったことだけは確かだった。

 

 

「抜丸、動け。私は、彼を死なせたくない」

 

「も、勿論、わたくしもです……!」

 

 

 硬直から開放された抜丸は土間に水がないことを確認すると、井戸を探して家の裏手へと向かった。

 

 三日月は倒れ伏した青年を抱き抱えると、握っていた刀はするりと地面に落ちる。

 一瞬、そちらに目を向けた三日月であったが、今はそれどころではない。

 家の敷居を跨ぎ土間を越え、家族の遺体を避けて居間に上がると、死んだように眠る彼を畳の上に敷かれたままの布団に休ませる。

 

 

「君は強い子だ。優しい子だ。……死んでくれるな。私は君と、話してみたい」

 

 

 

 

 

 




というわけでやってしまった新作。
どうしても我慢できなかったんだ。天華百剣のキャラクターが魅力的過ぎたんじゃ!

とりあえず、ヒロインは三日月さんで。他にも色々とイチャイチャさせるんじゃ~。
小太郎、小次郎、聖十郎なんかもしっかりと登場する予定です。

では、次回をお楽しみに~!
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