「らーめん」
開口一番に彼女はそう言った。
満面の笑みである。自分が正しいと信じて疑わない、輝かしい笑顔だ。
当の俺は混乱した。頭のなかが真っ白になった。
なにせ今日は真夏日である。テレビでは連日、熱中症に関するニュースが行われ、蝉でさえその威勢を幾分か落とすような灼熱の真っ昼間である。アスファルトで舗装された街道からは蜃気楼が揺らぎ、街一つが巨大なホットプレートと化している。
その只中で俺は朦朧としながら、デートの約束をしている恋人を待っていたのだ。
そして、ようやくその待ち人が来たと思ったら、挨拶でもなく「遅くなってごめん」や「待たせちゃったかな」といった定番の台詞を言うでもなく、『ラーメン』などと聞くだけで暑さが増す言葉を吐く。
ぶっ飛んだ女だ。こちらの思考が飛ぶのも仕方ない。
「悠くん? ほら、らーめん」
俺が黙っているのを聞こえていないと解釈したのか、彼女はもう一度言った。なにやらジェスチャーまで混ぜている。なにが「ほら」だよ。
彼女の笑顔には一片の悪意もない。輝かしい、幼児のような無邪気さである。俺も小学校に入学するくらいまでは、このくらいの愛想があったはずだ。
「悠くんってば。らーめ」
「いや、いいから。聞こえてるから」
彼女がめげずに再三試みようとしたので、俺はうんざりして遮った。
わけが分からない。なんだラーメンって。
昼飯にラーメン食いたいってことなのか。この炎天下で正気じゃない。摂取した水分より汗として出ていく方が多くなることは想像に難くない。そんなことをすれば熱中症で倒れてテレビニュースの患者数に数えられてしまうのがオチである。
しかし暑さを抜きにしても、おかしな話だ。
今日はお互いに昼飯を済ませてから、午後に集まる約束をしていた。腕時計を確認しても正午を過ぎてから大分経っていることは確かである。これから何か食べるとしても、軽食くらいのものだ。
「なんだよ。ラーメン食べたいのか。それとも昼にラーメン食べてきた、ってことか」
気怠く顔を上げてそう聞くと、彼女は「違う違う」と快活に笑った。俺と同じくらい汗をかいてるくせに、やたら元気である。
「これはね、挨拶なの」
「そんな奇天烈な挨拶聞いたことねえよ。何語だよ」
「あえて言うなら世界共通語かな」
確かにラーメンは世界の何処へ行ってもラーメンと呼ぶ。しかし挨拶でラーメンとは誰も言わない。
「ごめん、挨拶っていうのは少し間違いかも。正確にはお祈りなんだよ」
ますます分からん。
俺が首をかしげると、彼女は再び「らーめん」と言ってからジェスチャーをした。手を胸の前で横一文字に切り、その真ん中を通すように今度は縦に切る。
紛れもなく、十字架を表す仕草である。
「私ね、スパモン教に入信したの」
「…………そうか」
俺は空を仰いだ。
夏の青空にはうず高く積もった入道雲がゆったり漂っている。縁日の綿菓子のようで、ラーメンよりは幾分か食欲をそそる。太陽はギラギラと白熱し、過剰な光を届けてくる。まるで梅雨の遅れを取り戻そうと躍起になっているようだ。
そんなお天道様より眩しく、俺の彼女は笑っている。笑いながら「らーめん」と言い、十字架を切っている。
とりあえず、俺は理解することを諦めた。
▼
藤波芳江は俺の彼女である。長い付き合いで、恋仲になって六年、知り合ってからは十数年も経っている。
俺と芳江は同じ大学に通っており、当年とって二十歳となる。つまり彼女と出会ったのは幼少の時期にまで遡る。
男女としての交際を始めたのは中学生の頃であり、今思い返すと随分マセていたなと恥ずかしくなる。告白をしたのは俺からだったので尚更だ。
容姿としては十人並みと言うのが適切である。
以前、芳江に「私って可愛いかな」と聞かれたので「十人並みだね」と答えたら、十倍凄いとか言って喜んでいた。本当の意味は『平凡』である。辞書でも引いてきたのだろう、翌日になって芳江は少し落ち込んでいた。
まあ容姿が平均的でも、可愛い彼女であることに変わりはない。小さい頃から家族のように関わってきたので余計に愛着がある。俺の場合、目に入れても痛くないとは芳江のことを指す。
芳江の性格は無邪気の一言に尽きる。
嘘をつくのが下手で、他人の嘘を見破るのは更に下手クソである。それでいてお人好しなので、いつ詐欺に会うともしれない。オレオレ詐欺の電話があったら「悠くんだ」と信じて金を振り込むに違いない。
「電話がかかってきたら、相手が本当に信用できる人か確認しなきゃダメだぞ」
携帯電話を持った高校生の頃から口を酸っぱくして言い聞かせてきた。
その度に芳江は「任せなさい」と自信に満ちた顔で、薄い胸をドンと叩いてみせた。俺の不安が増大しただけだったのは言うまでもない。
それでも、成人を間近に控えた今日まで、芳江は詐欺に会うことはなく無事に育ってくれた。もちろん現在は無事でも、過去には色々なことがあった。昔の苦労を思えば感慨に涙腺が緩むというものだ。
恋人なのに父性を抱くとはどうしたわけか。まあ、それだけ愛情を持って接してきたということである。
しかしついに、危惧し続けた事が起こった。
芳江は新興宗教の信者になったらしい。『スパモン教』などという、胡散臭さしかない宗教の。
大切に育ててきたのに、どうしてこうなった。
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暑さを凌ぐため、俺たちは近場の喫茶店に入った。どの人も猛暑に参っているようで店内は満席に近い。
アイスコーヒーを飲む俺の正面で、芳江はチョコレートパフェを頬張っている。
多少、頭も冷えて落ち着いた俺は話を切り出した。
「なあ、何だよ。スパモン教って。うちの大学にそんな名前のサークルあったか」
淡い期待を込めて聞いてみる。
怪しいことに変わりはないが、大学のサークルであれば新興宗教よりかはまだ安心できる。
しかし俺の心配もつゆ知らず、芳江は首を横に振った。
「ううん。ちゃんとした宗教だよ」
絶望した。どう考えてもちゃんとしてるわけがない。
俺が眉間にシワを寄せてあからさまに怪しむ顔をしていたからか、芳江は「本当だってば」と前のめりになった。
「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教って言ってね、オランダでは国から正式に認められてるんだよ」
「世も末だな」
スパモンとは、スパゲッティ・モンスターの略語らしい。しかも空を飛ぶと言う。
そんな意味不明な怪物を崇拝しているとか、もはや邪教だろう、それ。確実に悪魔信仰の類いだ。
「大丈夫なのかよ。特に金とか、人付き合いとか、色々ふっかけられるんじゃないのか」
「そんなことないって。そもそも私、他の信者に会ったことないし」
「は?じゃあどうやって勧誘されたんだよ」
「誘われたんじゃなくて、自分で調べたの。インターネットやってたらたまたま知って、楽しそうだから入信しちゃった」
頭が痛くなってきた。そんな軽い理由で宗教にハマる奴があるか。
この分では本人が気付かぬうちに何かしら搾取されていたり、良いように利用されている可能性がある。
マルチ商法という単語が頭の片隅を過り、俺は緊張感を持って臨むことにした。
「それで、金はどうなんだ。入会料とか払ったんだろ」
「払ってないよー」
芳江はさも当たり前のように答えた。
「え、金払わずに入れるもんなのか、宗教とかって」
「んー、他のところは知らないけど、スパモン教はね『自分はスパモン信者だ~』って思ったら勝手に教徒になれるんだよ」
言葉が出ない。
呆れる俺とは対照的に、芳江は「すごいでしょ」などと得意気になっている。
「この世界はね、スパゲッティ・モンスターが創ったんだって。大昔の人は麺の触手で頭を押さえられていたから背が低いんだけど、最近では人が増えすぎて触手が足らないから平均身長が高くなっているんだよ」
「あらゆる学問を敵に回してるな」
俺はアイスコーヒーをちびちびと合間に飲んではため息を吐いた。話を区切って一呼吸ずつ置かねば、とても付いていけない。
「じゃあ、あれか、芳江はスパゲッティ・モンスターってのを信じてるってことか」
その質問で初めて、芳江は頭を捻って考え込んだ。
「どうなんだろうね。いたら面白そうだけど、やっぱりスパゲッティーが空飛ぶとか変だよねえ」
思わずギャグ漫画のごとく椅子から転げ落ちそうになる。
「お前それ、もう教徒じゃないじゃん」
「ううん。戒律は守ってるし、他の教典も信じてるから大丈夫だよ」
不思議だ。まるで白昼夢を見ているような気分だ。
さっきから入会料は払わなくて良いだの、信仰対象を信じなくていいだのと、尽く宗教の定石を踏み外している。いや後者に至っては、もはや宗教と呼べるのだろうか。『大丈夫』の使い方間違えてやしないか。
ここまでくると怪しさを通り越してひたすらに不気味である。
邪教ですらなく、芳江が勝手に作り上げた本当は全く存在していない架空の宗教なんじゃないかと思えてくる。こんな盛大な嘘を持ち出し、オランダで公認されてるなんて彼女らしからぬ手の込んだ設定まであるが、芳江の冗談だと考えた方がまだ自然だ。
「それでね、人間は海賊から生まれたんだけどね」
聞けば聞くほどにその実態は分からなくなっていく。濃霧の中で迷子になっているかのようだ。
それでも俺は質問を重ねながら、芳江の話を根気強く聞いた。一通り聞き終える間にアイスコーヒーをもう三杯おかわりした。
結局、芳江の説明だけでは判然とせず、スマートフォンのグーグル検索に頼るはめになった。
せっかくの大学生の夏休み、こんなデートの過ごし方はありなのだろうか。
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謎の宗教、スパモン教のあらましは大体心得た。無論、芳江の説明下手も手伝い、理解するにはかなりの労力を必要とした。
スパモン教とは一言で表すとパロディ宗教である。つまり、おふざけで作られたということだ。
事の発端はキリシタンへの皮肉だったらしい。
インテリジェンス・デザイン論というものがある。頭文字をとってID論と呼ばれるそれは『神が世界を創った』という如何にも古典的な思想を、科学が発展した現代に浸透させるために練られた壮大な屁理屈である。
アメリカの某州で、熱心なキリシタン達はこの論理を教育の場に持ち込み、教科書などに記載しようと企てた。かのダーヴィンが説いた進化論の存在は、神が人間を創ったという経典を否定することになる。そのため、進化論が学問として教えられるのが気に入らなかったのだ。
それに異を唱えたのがスパモン教である。
進化論を否定し神を崇めるID信者たちに「そんな都合の良い理屈が通るなら、スパゲッティ・モンスターが神である理屈もまかり通るよな」という詭弁で対抗した。
有り体に言って、宗教など全てスパモンほどに下らない、と皮肉ったのである。その自由奔放さは流石アメリカと驚く他ない。
しかし真に俺が驚いたのは、本当にこれを国が宗教として認めているということである。オランダの他に台湾でも認められているらしい。
この国家公認に関しては一つ、有名な話がある。
ある白人女性が自動車の運転免許証を取得する際に、なんとステンレス製の湯切りザルを被って写真撮影に挑んだのだ。当然のことながら、身分証明書にもなる免許証の写真には原則として被り物などは許可されない。ザルという何処からどう見てもふざけている物など論外である。
もちろん女性はその場で突っぱねられてしまったが、後に自分が空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の敬虔なる信者であることを強く訴えた。そしてついには宗教上の理由有りとして、堂々ザルを被った写真を認めさせるに至ったのである。
ネットに公開されているその写真はなかなかに狂気に満ちていた。
さらには、スパモン教による正式な結婚式がニュージランドで行われたという記事まであった。
彼らは神ではなく、麺で出来た怪物に伴侶を愛することを宣誓したのだ。それで良いのかと思うが、当人たちは実に楽しそうだった。
ここまで人気だと、いつ日本にまでその魔手が伸びてきてもおかしくない。
そう思っていたら、なんと日本にもすでにインターネット上で支部があった。それなりの数の信者もいるようで俺は舌を巻いた。
これらの人たちが宗教的な活動もせず、ましてや一部は信仰対象をそこまで敬いもせず、好き勝手に信者と名乗っているのだと考えるとこちらまで愉快な気持ちになる。
なるほど、ただ皮肉もここまで来れば立派である。スパモン教の当初の目的だった、教育に介入しようとするID論を退散させることも出来たらしいし、成せばなるものだ。
きっと世界の誰もが、空を飛ぶスパゲッティの怪物を信じるくらい、馬鹿馬鹿しくも愉快なことをしたかったのだろう。恐るべきは悪ノリの力だ。
自分の彼女がいつの間にかその一員となっていたことは、誠に遺憾ではあるが。
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喫茶店を出たあとは芳江の買い物に付き合った。アウトレットで服を見たいとのことだ。これから流行る秋物にも目をつけておきたいと意気揚々と服を漁っている。まだ夏も真っ盛りなのに、流行とは気が早いものである。
俺は芳江が選ぶ服に感想を言いながらも、スパモン教について話していた。
「スパモン教徒のための服とかないのか」
「よく分かんない。私もこの前入ったばかりだから。あ、でもね、スパモンの絵をプリントをしたステッカーならあるよ」
それなら俺もさっきスマホで調べたときに見つけた。
なにやら偏平な物体から、ひょろひょろと触手が垂れているような図だった。神々しさの欠片も無かったが、妙に愛嬌がある。あれが神なのだから入信への敷居を高く感じないのも当然である。
芳江は「私も欲しいなあ、ステッカー」と言った。
「Tシャツに張ったら可愛くない?」
「まあな。もうやってる人いそうだな。一応スパゲッティ・モンスターなんだし、黄色い無地がそれっぽいんじゃないか」
「あ、それ良いねぇ」
失言だったと思う。芳江のことだから、後日スパモンステッカーを張った黄色い服を着ていてもおかしくない。まあ本人が良いなら、俺が口喧しく言うこともないけれど。
「きっとスパモン教の天国にいる人たちは、皆その服着てるんだろうね」
芳江が想像力豊かなことを言う。
スパモン教も一応は宗教なだけあって、あの世という概念が存在する。
天国にはビールが噴き出す火山と、劣情を満たすためのストリッパー工場があるという。女性や同性愛者にも配慮して男性のストリッパーも用意されていることから、差別と向き合い続けてきたアメリカの心意気が伺える。なんと俗物的なことか。
もちろん地獄もある。こっちはビール火山の炭酸が抜けており、ストリッパーが性病を患っているが、それ以外は天国と変わらないらしい。
もはやツッコミが追い付かない。スパゲッティ・モンスターは人の善悪にほとんど興味がないようだ。いよいよ神なのか怪しい。
「悠くんは優しいから、きっと天国に行けるね」
まったくもって無邪気な笑顔で芳江は言った。
そうなると、俺も黄色いスパモンTシャツを着てストリッパー工場に立ち入ることになるのだろうか。ダサTを着た俺が、同じくダサTを着たグラマラスなお姉さんとビールの池でくんずほぐれつする。
ふとそんな光景を思い浮かべていると、芳江が今度は不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「なんだよ」
「悠くん、いま鼻の下伸びてたよ。どうせストリッパー工場のこと考えてたんでしょ」
「ぐっ」
俺は図星を突かれて押し黙った。普段は鈍感なくせに、俺のこととなると妙に鋭くなる時がある。芳江にも女の勘というやつがちゃんと備わっているらしい。
「ダメだよ。私がいるんだから、天国に行ってもストリッパー工場への立ち入りは禁止です」
早くも天国での権利を奪われてしまった。
「そもそも俺はスパモン信者じゃないから、その天国には行かないだろうけどな」
芳江の追求を逃れるために話を逸らす。
すると芳江は口を半開きにして青ざめた。おおかた、死後に離れ離れになることでも想像したのだろう。俺も大概だが、こいつはこいつで極端に分かりやすい。
「や、やだよ悠くん。そうだ、今からでも間に合うよ。悠くんもスパモン教に入ろう。そしたら同じ天国だよ」
「いや、俺スパモンなんて全然信じてないし」
「大丈夫、私もあんまり信じてないから! ねえ、入信しようよ」
「そんな勧誘の仕方があるか」
本末転倒もいいところである。
「やっぱりお前も信者じゃないだろ」
「何言ってるの。私は信者だってば。超信者だよ」
それ信者超えちゃってるじゃねえか。
「さすがにスパモン教徒がスパゲッティ・モンスターを信仰しないのは無理があると思うぞ」
ちなみに、調べたところ、一応はスパモンを信仰することが教徒の前提になっていた。いかに自由主義であっても、大元の信仰までは自由化はされていないようだ。
俺の正論に、芳江は「うー」と唸って、両手の指を合わせてモジモジさせた。彼女が答えに窮したり、相手に伝えたいことかあったりして、慎重に言葉を選ぶ時にでる仕草である。持っていた服がくしゃくしゃになりそうだったので、俺はそっと芳江の手からそれを取って整え、元の場所に戻した。
そうしてしばらく待っていると、芳江は手を解き口を開いた。
「私ね、神様とかはどうでもいいんだけど」
「どうでもいいのかよ」
「でもね、スパモン教の考え方は素敵だなあって思うんだ」
宗教としての形をとっているだけあり、スパモン教にも戒律が存在する。芳江が言っているのはそのことだろう。
その内容とは、差別などで人を傷付けない。スパモン教を利用して不当な商売などをしない。教祖のふりをして偉ぶらない等々、意外に明確で分かりやすい。どれも倫理として当たり前のことである。このあたりもキリスト教への批判の要素が入っているのだろうか。
しかし抜け目はなく『スパモン教に使う金があるなら世界平和や、もしくは通話料金を値下げるためにつぎ込むべし』としっかり悪ふざけの要素も入っている。
「ああ、芳江はよく電話かけてくるもんな。通話料下げたいわな」
俺が冗談でそう言うと、芳江は「それもあるけどね」と頬を掻いた。あるのかよ。
「なんだかさ、世間ってピリピリしてること多いじゃない」
「まあな」
「自分の意見をはっきり言えなかったり、それでストレスを溜めて誰かに八つ当たりしちゃったり。私、そういうの嫌なんだよね。いじめとか戦争はもっと嫌い」
芳江は淡々と述べた。何気ない様子だが、その口調はどことなく切実である。
「子どもっぽいかもだけど、皆が仲良くするのはすごく良いことだと思うよ」
芳江の頬が恥ずかしげに薄く染まっている。
俺はその真摯な言葉に胸を打たれた。普段は「そんなもん叶いやしない」と一笑に伏すが、芳江が言うと妙な現実味があり、笑うことなどできない。
芳江は無邪気な分、子供っぽい性格をしている。
話し方や考え方だってそうだ。俺なんかは微笑ましく思うが、彼女を気に入らない人間もけっこういる。純真さは、時にそれを持たない人の劣等感や差別意識を煽るものなのだろう。
昔、学校でいじめられたこともあり、おそらく芳江自身も身に染みているはずだ。
それでも尚、人と仲良くしたいと言えるのは芳江の優しさに他ならない。だからこそ、俺のような冷めた人間でも、芳江が口にする理想を真剣に考えさせられる。
そんな芳江の考えと繋がる宗教があるとは夢にも思わなかったのである。不覚にも「スパモン教って凄いんじゃね」とか思った。
俺が芳江の平和論に感動していると、芳江は服を選ぶ手を止めて、俺に期待のこもった眼差しを向けてきた。
「だからね。悠くんも入信しよ」
やはりそこに帰ってくるのか。
まあ、なんとなくスパモン教が悪いものでないことは分かった。騙されて金を取られる心配もなさそうだ。何より、芳江が楽しそうにしているのは俺としても嬉しい限りである。
芳江はいつもこうだ。
ほんわかと純粋無垢に笑って「一緒に遊ぼうよ」と俺の手を引いてくる。昔から変わらぬ、何でも包み込んでくれそうな彼女の優しさがそこにあった。
だから、俺は微笑んでこう言った。
「すまん。やっぱ無理」
「なんでぇ」
芳江が残念そうに呻いた。
▼
デートから帰った後、俺は借りている安アパートの自室で課題のレポートに向き合っていた。社会学の授業の一環で、平和について考察しなくてはならないのだ。
この学科の教授は大変善良な心をお持ちのようで、世界平和の素晴らしさを毎度熱く語っておられる。もちろん今回のレポートもそれに関する縛りがある。はた迷惑なことである。
俺は悩んでいた。しばらく、筆は止まったままだ。
子供でもあるまいに、本気で世界平和などという蜃気楼を追う気にはなれない。未だどんな偉人賢人も成し得ていないのだ。オアシスへ向かってどれだけ歩いても、遠ざかる一方に決まっている。そんな夢見がちに上ばかり向いていては、足元を簡単に掬われて転んでしまうのが関の山だ。
しかしそのあたりの理屈をいくらこねたところで馬の耳に念仏。平和一点張りの教授に通用するはずもない。
「スパモン教が本当にキリスト教を超えでもすれば、ちょっとは平和になるのかね」
芳江の笑顔がふと思い浮かび、そんなことを呟いた。
社会学の教授に負けず劣らず、彼女も平和を望んでいる。違いとしては、芳江の方が達観しているところか。平和主義を人に押し付けない分、より真の平和に近いのは芳江な気がする。これでは教授と生徒と、どちらが立派か分かりゃしない。
いっそふざけて、スパモン教を題材に書いてやろうかと考えた。
皆平等、皆自由。教典自体はいかにも教授が好きそうなものである。光輝くハゲ頭に湯切りザルが被せてあったらさぞ面白いだろう。
スパモン信者と化した教授を想像して一人で笑っていると、呼び鈴が鳴り響いた。
すでに夕食時も過ぎているというのに、一体誰だろう。何かの勧誘か、犯罪者か、それとも腐れ縁の友人か。いずれにせよ、ろくなもんじゃない。
家賃二万円の古びた四畳半に、通話機能のついた豪華なインターフォンなど無い。相手を確かめるべく、俺は覗き窓の魚眼レンズに片目を当てた。
「もしもーし。私、愛の光研究会の者ですが」
宗教勧誘だ。
冊子を抱えたおばさんをレンズ越しに見て、俺は心底うんざりした。
おばさんの名前は知らない。しかしこの人の顔と、この人が所属している胡散臭さしかない団体の名前は知っている。
ここ最近、おばさんは毎日のように俺の家に勧誘に来るのだ。
何故俺がしつこく付け狙われるのか。
心当たりは大いにある。
一ヶ月ほど前、大学に行く途中でビラ配りをしている人がいた。
俺がその近くを通りかかったところ、ビラ配りの人は誰かにぶつかり転んでしまった。手から離れたビラは微風に舞ってそこかしこに散らばった。通行人たちは素知らぬ顔でビラを踏んづけて行ってしまう。
見かねた俺は手伝いに行き、そこで助けた人というのがつまり、愛の光教団の敬虔なる信者であるおばさんだったわけだ。
ビラには『愛』と大きく達筆な字が印刷されており、その仰々しさは信者を増やすどころか見る人を怯えさせることだろう。現に、俺は怯えてすぐにその場を去った。
それからしばらくして、宗教の勧誘が俺の家に来た。その勧誘に来た人が、以前ビラ配りをしていたおばさんだった。これは全くの偶然であった。向こうも俺を見て驚いていた。
しかし驚愕もそこそこに、おばさんは人懐こい笑顔で俺に入信を勧めてきた。今なら年会費が半額の五千円になると言う。厚かましさここに極まれりである。恩を仇で返すとはこのことだ。
否、おばさんは別に仇で返そうなどとは思っていなかっただろう。あれは純粋に愛の光を信じている人の目だった。
だから余計に質が悪い。純粋さをそのままに、俺にマルチ商法の犠牲者になれと言うのだから末恐ろしい話である。
それ以来、おばさんは足繁く俺の住居に通い詰めている。今日のような深夜から、休日の朝っぱらまで時間帯すらお構い無しである。蒸し暑いなかご苦労なことだ。そろそろ諦めてくれないだろうか。
おばさんは、俺が「興味ない」と言いどれだけ冷たく突き放しても、翌日にはケロリとして愛の御高説を説いてくる。それ故に最近は愛という文字がゲシュタルト崩壊しかけているところだ。平和論のレポートに筆がのらない一因もここにある。
「あのですねぇ。あなたは私を助けてくれるほど優しい方ですからねぇ。それは愛に他ならないわけでしてぇ。ですから、貴方はすでに我々の仲間なのですよぉ」
おばさんの支離滅裂な言葉回しは俺の思考力を著しく低下させる。これで嫌がらせのつもりじゃないのが本当に怖い。
どうすればいい。どうすればこの魔物を撃退できる。
社会経験の乏しい頭を振り絞って、俺は考えた。そして考えた末に、一つ妙案を思い付いた。
「さあ、今日こそ愛の光教団に──」
「ごめんなさい」
俺はおばさんの話を遮り、はっきりとした口調で言った。
「実は、もう他の宗教に入っちゃってるんです」
「またまたご冗談を」
無論、おばさんはこの程度で引き下がりはしない。そりゃそうだ。俺はずっと「宗教に興味ありませんから」と断り続けているのだから。この言い訳に信憑性がないことは分かっている。
なので俺はさらに踏み込んだ説明をするべく、唯一詳しい宗教の名前を持ち出した。
「つい先日入信したんですよ。空飛ぶスパゲッティ・モンスター教っていうんですけどお」
「はあ?」
おばさんの声のトーンが一気に下がった。
「この世界はスパゲッティ・モンスターが創ったものでしてね、だから貴女たちが言う愛もスパモンの恩恵によるものなんですよ」
返事は聞こえない。しかし扉の向こうにはまだ気配がある。
俺はさらに畳み掛けた。
「あ、そうだ。貴女もこちらに改宗しませんか。スパモン教に入れば、死後に天国のビール火山で好きなだけビールを飲めますよ」
「ふざけてるんですか」
おばさんの声が震えている。
「いえいえ。ふざけてるなんてそんな、とんでもない。僕はただ、貴女も頭にザルを乗せてバスタファリアンの一員になりませんかと、そう言っているだけです」
「なにそれ。意味わかんないんだけど。あんた私をからかってるの」
イライラとしだしたようで、ついに敬語ですらなくなった。もう一押しだ。
「おや、まだお気に召しませんか。天国にあるのはビール火山だけじゃありませんよ。ストリッパー工場も完備されていて、男女問わず豊富なストリッパーを用意しています。貴女が仮に同性愛者でも問題なしです。どうですかスパモン教。アーメンの代わりにラーメンと言うだけで信者になれますよ。ほら、ラーメン」
「ぎいいいいっ」
俺は何度も「ラーメン」と繰り返した。
するとおばさんは甲高い叫び声を上げて、意味不明な罵倒を投げつけながら立ち去った。
もう一度レンズを覗くと、そこには閑散とした安っぽいの廊下があるだけであった。
俺はくたびれて、ふらふらと寝床で横になった。これでもう勧誘に来ることもあるまい。
恐るべくはスパモン教の威力である。真面目な他教徒にほど効果があるようだ。キリシタンを退けたのにも納得がいく。
「便利だなあ、スパモン教」
この武勇伝を誰かに話したくなった。
携帯電話を取って芳江の連絡先を開いたが、俺は寸でのところで思い止まった。
もし芳江にさっきのことを話せば、俺も信者になったのだと思われるに決まっている。「私が教えたおかげだね」や「本当は最初から入りたかったんでしょ」などと、あらぬことを言われる未来が容易に想像できる。
もうスパモン教に悪い印象はないが、芳江の「ほれ見たことか」と言わんばかりのしたり顔を思い浮かべると腹が立つ。しゃくに障る。鼻フックをかましてやりたい。
なので俺はスパモン教を名乗った今回の件については、己の中だけに留めて置くことにした。冷静になってみればいちいち自慢するほどのことでもない。
無論、社会学のレポートにもスパモン教のことは書かないと決めた。そう易々と信者になってたまるか。
初志貫徹は大切である。俺はスパモン教を無視する所存のほぞを固めたのだった。
▼
翌日、社会学の講義で、芳江がスパモン教と世界平和の結び付きを綴ったレポートを提出した。そして当然、教授にお叱りを受けていた。
落ち込む芳江を慰めながら、幼馴染みとなると思考が似るものだなあ、と俺はぼんやり思ったのであった。
▼
<了>
オチが弱かったでしょうか。しかし思い付きの練習作みたいなものなので、申し訳ありませんが続きは予定していません。