とはいえまだ一日が始まったとは言える時間ではない。それでも、一部の気の早い者は活動を始めていた。そんな者は総じて生き急いでいる者、せっかちな連中である。ここ
さて、この生き急ぎは朝ぼらけに何をしているのか。前日に残してしまった業務だろうか。否、以蔵は生真面目な男だ。その日の仕事はその日の内に終わらせる。持ち越しなど決してしない。最早この信条は持ち越しへの恐怖とさえとれるものだった。では、彼は何のためにこんなにも忙がしく活動しているのか。
答えは鍛練のためである。確かに提督業に就く者は一定の武力を持たなければならない。しかし、以蔵のそれは明らかに必要とされる水準を越えていた。彼の鍛練とは肉体の強化でも、技の修練でもない。独闘、いわゆるシャドーボクシングのみである。
虚空に向けて構える。正確に、的確に相手を想起する。すると、少しずつ彼の視界に人影が現れる。その相手とは『前日までの自分』である。以蔵は自らの戦力をこの独闘により確認し、超越する。日々強くなり続けるために。
以蔵の纏う空気が変わる。それは想起を終え、闘いが始まることを告げたことの証である。僅かに開いた右拳を前に出し、左掌を顎をかばうように置き、構えを整える。
刹那、風が鋭く吹き荒れる。その闘いは常人の目では到底捉えきれるものではなかった。一つ息を吐くうちに十を越える拳打が繰り出される。そのどれもがいとも容易くヒトの頭蓋を叩き割れるものである。手の動きがふと止まると、目にも止まらぬ速さで中段蹴りが放たれた。同時にぶおっ、と風が波打つ。しかし、どうやら蹴りは失策だったようだ。以蔵が地面を引っ掛けながら吹き飛ぶ。反撃を防いだのだろう。顔の前にかざされた手は赤く腫れていた。幻影から受けた
決着は余りにもあっさりと訪れた。 『
しかし、今回は違っていた。『敵』を襲ったのは裏拳ではなく、肩での重撃。全体重を載せた一撃が加えられた。以蔵は半歩踏み込みを加えることにより、さらに間合いを縮め、より重い攻撃を出すことに成功したのだ。そして、踏み込んだ足を軸に半回転し、加速十分の肘を後頭部へと叩きこむ。めぎりと、肉と砕けた骨片が混じり、互いに擦れ合ういびつな音がはっきり聞こえた。『敵』は吹き飛び、樹に激突した後、以蔵の視界からすう、と消えていく。『重影衡』は一日にして進化を遂げていた。以蔵はまたしても壁を越えたのだ。
息を整え、ポケットに入れた懐中時計を見る。いつの間にか太陽は昇りきり、暖かな日差しを与えていた。しかし、それとは対照的に彼の顔は青ざめていた。
「しまった、早く戻らなくては!!」
結局朝礼ギリギリになってしまう。この悪癖は中々直らないのだ。
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