保安検査ゲート前で、倉石は数人のメディアに囲み取材を受けていた。
遠巻きに眺める望たちには、その話の内容はよく聞こえない。
やがてマイクの作る輪は、神藤有千夏の周囲へと移動する。
やれやれという風に肩をほぐしながら、倉石は彼女たちのもとへ歩んできた。
「すまんな、待たせて。全員準備は大丈夫だな?」
集団の中で、志波姫が返事をする。
「オッケーですよ、監督。取材、大変ですね」
「案外注目度が高くてな……日本でも、衛星テレビで録画放送されるらしい」
「ははぁ……そりゃすごい」
協会カレンダーにはなかった海外派遣だが、キアケゴー氏の根回しもあり、俄かに注目度は高まっているらしい。
とはいえ、空港に見送りが来るほどではないし、そういった経験のない荒垣や望にも、いたずらに緊張が高まるほどのプレッシャーはなかった。
やがて取材陣は姿を消し、観光地としては決してメジャーではないコペンハーゲン行きは、それを待つ団体もいない。
ガラス越しに見慣れぬ顔ぶれの『日本代表』を眺める公衆をよそに、選手団は倉石と志波姫を先頭に、ゲートに向かう。
「望、それ外さなくていいの?」
志波姫が、彼女の頭を指さす。
「あ、そうだ」
学校に行くのに着用する装身具として、できるだけ華美を取り払ったそれは、二本の木片を金属製の箍で留めただけのものだ。
宮崎への飛行機に搭乗するときにも、金属探知機に引っかかったことを思い出した望は、簪を抜き取り、髪を振りほどく。
セミロングの髪を指で掻き下ろし、望は係員にそれを手渡す。
「神藤コーチ、えらい荷物少ないでんな?」
「ん? ああ……現地で買える物は極力、持って行かないからね」
さらりと言い切る神藤に、久御山は感嘆する。
デンマークで話されるのはもちろんデンマーク語だが、英語も日常生活では十分に通用するというが、学校の授業程度でしか外国語に触れていない選手たちには、まさしく羨望の的だった。
「英語なぁ──」
眉尻を下げて苦笑いする久御山の隣に、望が並ぶ。
「久御山は苦手?」
「読み書きはともかく、喋るんはな」
「私も。大丈夫かな、受験……」
「それは、考えんことにしとる。今は」
「……そうだね」
当然皆参考書など持ち込んではいない。
受験生にとって、十二月に二週間もの間、一度も参考書を開かないことは致命的だ。
倉石を始めコーチ陣は、キアケゴー氏の協力も仰いで、皆の『進学先』を確保することに尽力している。
もっとも、この大会で日本代表として参戦する彼女たちが、素晴らしい成績を収めれば、それらは全て取り越し苦労に終わるだろう。
やがて全員の保安検査が終わり、代表選手団はそれぞれにパスポートを取り出し、出国印を受ける。
「プレミアムエコノミーって、どんなの?」
松川が神藤に訊いた。
彼女もパスポートは紺色だが、海外はしばらくご無沙汰だ。
「さあ……直行便あんまり乗らないから、私」
デンマークにあるキアケゴー氏の本拠を訪ねるときは、いつもヒースローやフランクフルトを経由し、土地の土産物を買って帰るのが神藤の習慣だった。
「羽咲のオカン、凄い人やな……」
「うん……」
発券されたチケットが隣同士の久御山と望は、そのまま機内まで並んで歩いて行く。
選手団の先頭を旭と益子に譲った志波姫は、何かにつけて物見に耽る狼森を引っ張り、集団に追いついた。
宮崎へ向かった時は夜の便だったせいか、時折機体が翼を振る時に見える地表に、望は興味を持った。
といっても、窓際の益子と、その隣の旭越しでは、その景色の多くは彼女の想像によるものだ。
「おーい旭、宇都宮学院が見えるぞ」
「見えるわけないでしょ……」
「夢を持てよ、もっと」
彼女たちの会話を聞く限り、飛行機はまず北へ向かっているらしい。
やがて重力の方向がずれると、今度は西へ飛び始めた。
「お、富士山が見える。なあ旭」
「はいはい」
やれやれと言った顔で、旭は座席のイヤホンジャックに愛用のイヤホンを接続した。
音量を調節すると、どこかで聴いたかもしれなくはない、耳ざわりの良い洋楽が流れ出す。
「お、片っぽくれ」
「耳痛くなるからやだ」
他愛もないやりとりが展開されている横で、自分のイヤホンを持ち合わせていない望は、座席備え付けのヘッドホンを取り出す。
ふと、彼女たち代表選手団の陣取ったプレミアムエコノミー席に、キャビンアテンダントが歩いてくる。
一番外国語に長けている神藤が声を掛けられ、何やら耳打ち。
「──みんな、ちょっと聞いて」
これから飛行機は西に向かって飛び、ジェット気流の一番強いところを避けてやや南下するが、その際、少し機体が揺れるかもしれない、とのこと。
「そんな事まで教えてくれるんや……」
海外旅行と言えばギチギチに詰め込まれた修学旅行ぐらいしか思い出のない久御山にとっては、このプレミアムエコノミーのもてなしはカルチャーショックらしい。
「──『これは実話であり、公式記録、専門家の分析、関係者の証言をもとに構成しています』」
志波姫の呟いた言葉に、他の者は特に反応しなかったが、唯一荒垣だけは苦笑いを返した。
「あ、これ好きかも。誰これ」
益子はイヤホンに手を当て、より耳に密着するように調整する。
「ちょっと!」
引っ張られた旭の耳から、イヤホンがもげて落ちた。
到着したら現地は午後四時だ。
だから出来るだけ寝るなよ──というのが倉石の指示だったはずだが、それを律義に守っているのは豊橋と志波姫ぐらいのものだ。
いつの間にかイヤホンを旭に返したらしい益子は、窓から差し込む夕日にも負けず、惰眠を貪っている。
荒垣はとっくに瞑想に入っているし、椅子の座り心地の良さは、普段あまりスキを見せない望や旭が、口をだらしなく開けて寝息を立てていることでも証明されていた。
ムラっと来ている志波姫と、スマートフォンを取り出して二人にピントを合わせる豊橋をよそに、松川と倉石は資料を読みながら小声で話を続けている。
「二戦目、ですか」
「過保護すぎますかね、少し……」
「いえ──私も最初はそんな感じでしたし、有千夏にも助けられて代表やってましたから」
二人の話題は、望の使い方だ。
実力は疑うべくもないが、久御山よりもマイナス思考に陥りやすい彼女を上手く大会の空気に慣れさせるには、やはり熟練者とのダブルスが望ましい。
そこで、二戦目、ロシア戦のダブルス1で志波姫と組ませる、というのが倉石の提案だ。
「志波姫には、私から到着してから話します」
松川の気遣いをありがたく受けて、倉石は一つ目の資料を閉じる。
「お願いします。あとは対戦相手の情報、これをどこまで……」
「海外の取材をメインにしている先輩から貰ったものですけど、『鮮度』はちょっと保証できかねますね……」
とは言え、それは他国からしても同様だろう、と神藤が口を挟む。
先ほどまでは、娘の涎を拭くのに忙しかったようだが、今は雨も上がったらしい。
「益子と志波姫ぐらいでしょ? 海外で露出あるのなんて」
それも、もう何年も前の話だ。
世界のバドミントン競技の中では一定の存在感を持つ日本ではあるが、高校生の国内大会にアナリストを送り込むほど、他の強豪国も研究熱心ではない。
まして立花の言を借りれば、数か月、いや数日の間に、プレイヤーは大きな変貌を遂げる。
たった一試合でそれが起きる事だってあるのだ。
完成された選手など、この年代には居ない。
宮崎で『孵化』を果たした望でさえ、それが宮崎で完了したと誰も断言できない。
夕暮れを追いかけ続けて十時間以上。
望たちを乗せた飛行機は、ポーランド上空で高度を徐々に下げ始める。
進行方向には未だ沈まない太陽。
英語のアナウンスに耳を欹ててみるが、望の拙い英語力ではそれの多くを理解できないまま聞き逃す。
「泪、起きて。ベルト締めろって」
「あ? んー……旭、やって」
食事の時間だけは律義に起きていた益子だが、栃木県と富士山以外の地表にはさほど興味がなかったようだ。
しばらくしてベルトサインが点灯し、望は先程の放送の意味を知る。
それから小一時間ほどで、機体はコペンハーゲン、カストルプ空港に着陸した。
東京を昼に出発して、十二時間。
日本は真夜中だが、コペンハーゲンの空はまだ微かに明るさを残している。
高緯度に位置するこの都市は、北欧諸国の中では比較的温暖な方だ。
それでも、東京よりも平均気温は低い。
特に最高気温が低いから、昼間でも防寒対策はしっかりしておけと、倉石は出発前に言っていた。
望は手荷物の中からマフラーを取り出し、首に巻く。
益子と旭は、飾り気のないスポーツメーカー製のネックウォーマーだ。
入国管理官のささやかな歓迎の言葉も良く理解できず、望は笑顔で受け流してゲートを出る。
デンマーク行きが決まってからと言うもの、受験勉強の合間にデンマーク語についてインターネットで調べるぐらいはしていたが、結局良くわからないし、発音も文法も理解できなかった。
ここでは、授業で習っただけの英語が頼りだ。
もっとも彼女には、差し当たって特に必要な買い物はない。
どちらかと言えばデンマーク語で『トイレはどこですか?』はどう言うのかを、知っておくべきだと思っていた。
デンマークへの入国をつつがなく終えた一行は、今度はチャーターバスに乗り込む。
試合会場のあるロスキレまでは、およそ一時間程度。
徐々に暗闇に消えていく牧歌的な街並みを惜しみつつ、望は車窓に目を泳がせる。
快調に流れる北欧の高速道路は、ロスキレに着くまでに椅子を温める暇もないほどだ。
やがてバスは下道に降り、スカンジナビア半島一円にフランチャイズを持つホテルに到着する。
こちらのバドミントン雑誌の記者だろうか、気さくな笑顔を見せつつカメラを向ける外国人が、数名いた。
神藤の旗振りで手際よくチェックインを済ませ、彼女は三本の鍵を志波姫に手渡す。
「三人部屋が三つ、適当に振り分けな」
「はい、コーチ」
ここからは志波姫の本領発揮だ。
彼女はその明晰な頭脳を──もしかしたら、バドミントンの試合よりも──フル回転させ始める。
まず最初に思い付いた悪だくみは──。
(泪と旭、離すか……でも、私だと意味ないし……)
「望、泪。それからアンリちゃん。はいこれ」
手に持ったリュックをずり落とす益子をよそに、豊橋は満面の笑みで鍵を受け取る。
「綾乃ちゃんとあかねと……久御山!」
「はいな」
「あとは私と荒垣と、旭ね」
彼女の目配せに旭は意図をくみ取り、わざと益子に聞こえる声で言った。
「よかった。よろしくね、荒垣」
「あ、ああ……」
置いて行かれた益子をよそに、久御山達も自分の部屋へ向かう。
「……益子さん、行こう?」
流石に可哀そうになってきたのか、豊橋が彼女の分のキャリーバッグも引いていく。
この組み合わせになるとは望も予想していなかったが、なんとなく寝ている間も煩そうな荒垣と同室でないことは、安心できる材料の一つだ。
あとは益子が夜中に脱走しないことを祈るばかり。
「ねえ、益子さん」
長旅の疲れに身を任せ、ベッドに沈んでいる望をよそに、豊橋は体育座りの益子に声をかける。
「……『さん』はいい」
「そう? でも、今はまだそう呼ぶよ。この大会が終わるまでに、名前で呼べるように頑張るから」
頑張るってなんだよ、と益子は呟き、ベッドにふて転がった。
気立ての良さでは松川と双璧を為すと望が思っている豊橋の事だから、別段益子を困らせようとしているわけではなさそうだ。
「──飯、何時? 腹減った……」
どちらかといえば益子も望と同じく、旅の疲れが出ているのだろう。
眠るという行為は体力の回復に極めて有効だが、それが椅子に座った状態では、期待した効果は上げられないばかりか、体のどこかが痛むということにもつながる。
望は松川と神藤が作った『旅のしおり』的なものを取り出し、書かれているタイムスケジュールを読み上げた。
「現地時間二十時、だって」
「八時ィ!? あと一時間もあるじゃん……」
ベッドの上で長い手足をばたつかせる益子をなんとかしようと、望と豊橋はしおりを読み進める。
「ミーティングルームにある軽食はいつでも食べられる……だって」
「マジ? じゃあ行こうぜ」
跳ね起きた益子に、豊橋は別に腹は空いていないと言う。
「いいよ、行こうか」
「よっしゃ」
結局、彼女を引率するのは望の役目になった。
コンプレッションシャツの上から、脱いだ日本代表ジャージを再び被り、ヨーロッパ特有の広い廊下を歩く。
ミーティングルームは大会期間中借り上げており、そこでは倉石達が作戦会議をしているだろう。
開け放たれたドアの向こうで、彼らの話声が聞こえる。
「──あ、お疲れ様です」
「おう、石澤……と益子。体調は万全か?」
ちょっと疲れた、と返事して、益子はテーブルに並んだグラスを一つ取り、ドリンクバーを物色する。
夕食はバイキングらしく、並んだ保温器のいくつかには、微かに美味しそうな匂いを漏らす料理が、蓋をされて収まっていた。
「何してるんですか?」
「まあ一応、中国の選手の映像をな。石澤、お前は試合中ヒマだろう?」
「いや、応援はしますけど……」
湯気を立てるホットコーヒーにミルクを入れて、望は倉石の隣に座る。
パソコンの画面には、微かな音とともに中国選手の試合の模様が映っていた。
「それはもちろんだが、多少歩き回ってもいい。会場や観客、周りをよく見ておけ」
「ああ、はい……」
バドミントンに選手交代はない。
一戦目ではオーダーを外れることになっている望と久御山は、代表の活動に支障のない範囲で取材を行うことを条件に帯同している松川と共に、観客席で応援することになる。
「石澤は、二戦目の頭だろ?」
「まあね……ロシア戦」
世界共通の炭酸飲料を手に、益子はテーブルに置かれた資料を適当にめくる。
「なあ監督、私はずっとダブルス?」
「──少なくとも、予選のうちはな。できれば隠しておきたい」
旭と組んでいる時には、益子はほとんどクロスファイアを使わない。
そもそも『使う必要がない』こともあるが、狭いコートに二人が守るダブルスでは、削り合いの起点となるクロスファイアの影響度はどうしても、小さくなってしまうからだ。
「なんなら右で打とうか?」
「はっはっは……勝てるならそれがベストかもな」
中国、ロシアはそれだと無理だろう、と倉石は言った。
「でも荒垣はずっとシングルスなんですね……」
「あいつの場合は逆さ。スマッシュを見せつける」
コニーとの一戦の後、彼女の強さは格段にその迫力を増した。
かつては強打だけがストロングポイントと言って差し支えない選手だったが、その評価を完全に覆すほど、頭を使い始めている。
クレバーと言うには、志波姫や望には手が届かないが……。
「意識させれば、相手のオーダーが歪む。まあ、あいつ自身の膝の問題もあるし、休み休みにはなるがな」
膝──その単語を聞いて、望は半年ほど前の対戦を思い出す。
全国大会に行きたい、という一心で、彼女は荒垣の膝を壊しにかかった。
結果的にそれは、幸運にも実を結ばなかったが、今現在の荒垣の膝に、僅かでも影響を与えたとしたら──。
「石澤?」
「え? ああ、ごめん……」
「荒垣と石澤って、昔から友達なんだろ?」
昔から、というのがどの時点を指すのかはわからないが、望がある一線以上にこの競技にのめり込んでからは、友達とはいかないまでも、会えば軽く挨拶を交わす程度の知り合いと言って差し支えなかっただろう。
急に距離が縮まったのは、やはり神奈川予選の団体戦前後か。
「まあ、そうだね。たぶん」
「じゃあ組めばいいじゃん、二人で」
いや、と倉石が横槍を入れた。
「荒垣と石澤はタイプ的に合わない。というよりもお互い、ダブルスだと活きないタイプだからな」
蛇の道は蛇──ではないが、と彼は語る。
同じ蛇なら夫婦にでもなれそうなものだが、違う蛇では殺し合うだけ。
二人ともどちらかと言えば、攻撃面に優れた点を持っている。
荒垣の強打はまさしくそれであるし、望のコントロールやカットも、守備に追い込まれてはその威力を失ってしまう。
それに、コート内でのコミュニケーションも、口下手な二人では上手くいかないことも多いだろう。
「ハッキリ言えば、ダブルスがへたっぴってことさ」
「ああ、……なるほどね」
その表現は、益子にストンと落ちた。
短期間ではあるが代表合宿を経て、益子は必ずしも自分が抜きん出た存在ではないことを気付いていたし、旭が随分自分に気を使って、ダブルスを組んでくれていたことも理解し始めている。
それはコートの中でも、外でも。
シングルスでやり合えば、十のうち十試合を、旭に勝つ自信はある。
それでも、旭と一緒でなければ、自分はバドミントンを続けることができなかったかもしれない。
「監督──」
「ん?」
「私、旭以外と組めると思う?」
「……さあな」
考えておく、と倉石は言って、パソコンの画面を閉じた。
「あと半時間ってところか、飯まで。俺は風呂に入ってくる。資料は見てもいいが、汚すなよ?」
「へーい」
「神奈川の合宿の時も思ったけどさ……」
『瞑想』で汗ばんだシャツを着替えようと、ベッドの上で万歳をしている荒垣に、志波姫が話しかける。
「荒垣、おっぱいデカいね」
「ぶッ──」
噴き出して、あわてて荒垣はシーツで前を隠す。
「なんかやってんの?」
「……なにもやってねぇ」
そんな二人のやり取りをよそに、旭は海外用の電源コードを取り出し、充電ケーブルをつないだスマートフォンを操作している。
イヤホンが差さっているのは片耳だけだから、親交を拒絶する意図はないらしい。
「旭、何してんの?」
「ん? ああ……飛行機の中で聞いた曲が良かったから、ダウンロードしてる」
「ふーん」
「筋トレしたら、胸デカくなるらしいよ?」
「嘘だあ……」
志波姫と荒垣の言葉が被る。
荒垣にとっては、これからも筋力トレーニングは続けていくつもりだから、これ以上大きくはなってほしくない、という願望の意味で。
志波姫にとっては、『自分は筋トレしても大きくなってない』という反論の意味がこもっている。
「羽咲なんて家にウェイトマシンあるんだぜ。なのに小っちゃいじゃねぇか」
「あれは遺伝じゃない?」
「でもお母さんアレだぞ?」
「アレだね、おかしいね」
恐らく三人とも大して胸のサイズなど気にしてはいないだろうが、年頃の少女としてはこういった話題の方が、共通点を作りやすい。
そこまで志波姫が考えていたかどうかは知らないし、むしろずっと先の段階まで考えていたかもしれないが、とにかく部屋の空気は少し和やかになった。
「そういや旭、泪と部屋離しちゃってゴメンね?」
「ああ、全然いいよ。あいつたまに『寂しい』とか言って枕元に立ってるから……」
「──私も今度やろうかな、コニーに」
と言っても、寮で同室の彼女も、今は同じデンマークに来ている。
「志波姫の学校って、こっちに姉妹校あるんだよね?」
「あるよ、交換留学制度もあるし……コニーはそれで来たからね」
デンマークが含まれる組の予選会場は、北海沿岸の港町エスビアウ。 志波姫の通う学校の姉妹校があるフレゼリシアはちょうど、エスビアウとロスキレの中間地点だ。
インターシティ──特急列車で行けば、二時間ほど。
「プロなんだもんな、今は一時休止してるとは言え……」
「うん──荒垣は良く戦ったと思う、あそこまで」
益子泪が敗れたその隣で、もう一つの大きな衝撃を会場に与えたのが、荒垣とコニーの一戦だ。
最後の最後までもつれたゲームは、最終的に荒垣の棄権で幕を閉じる。
「あそこまでが、限界だったよ。終わらなきゃ、多分取り返しのつかないことになってたと思う」
目当ての曲を見つけた旭は、イヤホンを耳から外して、軽く息をついた。
『終わらなきゃ、取り返しのつかないことになってた』──のは、益子も同じだ。
羽咲がバドミントンから離れたままで、インターハイに出て来なかったら。
彼女は豊橋か狼森を軽く蹴散らし、志波姫との準決勝で、今まで通り手を抜いただろうか。
『プロ選手のコニーに負けるのは仕方ない』と言う外野の声に押し流されて、益子泪の時代はまだ続いていただろう。
本人の意思とは無関係に。
「志波姫も、分かってて私と泪を離したんでしょ?」
「当然」
「アンタと組めるプレイヤー、ね……」
「そうなんだよ、おば──神藤のお母さん」
常識的に考えれば、日本最高と言って差し支えない旭と益子でペアを組むのが、予選を勝ち抜くにあたっての最善手であることは、神藤も理解している。
しかし彼女はいつものように、ずっと未来の彼女たちのプレイヤーとしての姿を見通していた。
「アンタだから、厳しい事を言うけどさ……旭は『最後』までは、アンタについて来ないよ」
「……」
望が初めて見るほど神妙な面持ちで、益子は神藤コーチの言葉に頷いた。
「旭にはセンスがないからね。もちろん、表面的な才能の話じゃないよ」
思いがけない辛口の評価に、望も手に持ったコーヒーカップを下ろす。
「私は、旭は相当なプレイヤーだと思っていますけど……」
益子のようなじゃじゃ馬を制御するには、かなりの実力が求められる。
旭海莉という個人で名前を売る機会には恵まれなかったが、それでも彼女は、あの宮崎の大会を望とともに優勝したのだ。
「プレイヤーとしてのレベルは高いよ。益子みたいな珍しいタイプに合わせられるし、石澤にしたって、アンタの戦術にしっかり対応してくれたんだろう?」
「はい……」
上背のある左利き、プレイスタイルは決してオーソドックスではなく、どちらかと言えばトリッキーな益子。
それに合わせられるというのは、志波姫には及ばないが、バドミントンのIQは極めて高い。
旭は誰と組んでも、それなりに上手くやれる。
「あの子は状況に合わせてプレーするタイプだからね。でも──そこが問題なんだ」
状況をまず把握し、相手の力量や武器を読み取って対応する。
それは志波姫のスタイルに近いし、望がそうでありたいと願っているプレイヤー像だ。
神藤コーチはテーブルに散らばった資料から一枚をつまみ上げて、言った。
「例えばこの選手が出てくる。序盤の探り合いで二点ぐらいリードして、『なんとなく、わかんないけどOK、いっちゃえ』──が出来るのが益子や綾乃。旭はそれが出来ないんだよ」
アバウトなセンス、勘と言ってもいい。
トッププレイヤーになるためにはそのどちらも必要だが、こと情報不足の若い世代による国際大会では、『勘』を早く掴むことがより重要になる。
「たとえばドライブで逆を突かれてポイント落とすよね。旭はその原因をまず探す。ステップワークか? 判断ミスか? そしてそれがわかる──修正能力に長けているのは間違いない」
しかし、点数を重ねて試合が深くなり、その一ポイントの重みが増すほど、旭の自由度は失われていく。
そこを『まあいいや』で突き抜けられるのが益子であり、綾乃であるというのが、神藤の説明だった。
どう贔屓目に見ても、二人の実力には段差がある。
いったいどれほどの未来の話かは分からないが、益子が世界の頂点を目指すなら、いずれそれはペアを解消する原因になるだろう。
「だからアンタが旭以外と組むって言うより、旭がアンタ以外と組めるプレイヤーを探す……のほうが正確かな」
ここまでトップを極めて、高校でバドミントンは終わり、でもないんだろう? と神藤は言う。
「だったら旭にアンタが合わせて同じ大学に行くしかないね。旭はどこか話来てるの?」
「さあ、どうだろ……つーかそれ言ったら私もなんだけど」
「ああ──アンタも親に引っ掻き回されたクチだったね……」
バツの悪そうな顔でコーヒーを飲み干し、神藤は席を立つ。
「ま、案外なんとかなるもんだよ。バドミントンの神様はどこかで見てる」
真剣に競技に打ち込み続けても、それで身を立てられる選手は多くない。
それでも様々な出会いの中で、いつの間にかいい方向に進んでいることもある。
思いがけないところから、友人ができ、仲間ができ、人生のパートナーもできる。
「私は性根が楽天的だからさ……今預かってる九人については、この大会も、将来も含めて、何も心配していないよ。決して無責任で言うんじゃない、『なるようになる』よ」
「そう──か。ありがと、神藤のお母さん」
「ああ……」
コーヒーのお代わりを望に促し、二人分のカップを持って戻ってくる神藤の表情は、さっきよりも少しだけ和らいでいた。
彼女を追いかけて足音が近づく。
いつのまにか、時計の長針が天辺ににじり寄っていて、空だった保温器にも料理が並んでいた。
匂いを嗅ぎつけてきたのかは分からないが、狼森が一番手で姿を見せる。
「久御山パイセン、肉だ肉!」
「まあ待ちいな……」
続々と集まる選手たちを見て、神藤と、隅の方で話をしていた立花と松川も資料を片付ける。
十数人では埋まる席も半分ほどだが、ささやかな晩餐の始まりだ。
神藤コーチたちが言う『センス』の中に、胃袋の大きさが含まれていなければいいな、と望は思った。
片付けに走るホテルのスタッフたちがあらかた退場して、フロアにはドリンクのグラスだけが置かれたテーブルが残る。
「明日の予定を簡単に説明しておく。十時にここを出発して、レセプションと記者会見を受ける」
そこに出るのは倉石と志波姫、そして通訳として神藤の三名だ。
「他のメンバーは午後一時からの公式練習に合わせて昼食を摂る。ケータリングを発注してあるから、外に出る必要はないぞ」
日本の飲料メーカーからの差し入れも届く、と倉石は言った。
デンマークは世界でも指折りのキャッシュレス先進国だから、気軽に小銭で買える自販機も少ない。
「そして、夜十八時に中国戦が始まる。オーダーはかねて説明したとおりだ」
日本の含まれるB組は首都コペンハーゲンにほど近いロスキレで、コニーのいるデンマークのC組は地方都市でも集客が見込めると判断したのか、北海沿岸のエスビアウで同時刻から行われる。
オランダにアメリカ、台湾、オーストラリアと強豪が集ったA組は、ユーバー杯の会場でもあるオーデンセ、D組は北部の主要都市オールボーだ。
「普段の高校の大会とは、大きくスケジュールも違うし、やり辛さはあるだろうが、全員ベストを尽くしてくれ」
機内で寝ていた者もいるが、できるだけ睡眠をしっかりとるように──。
そう言って、倉石はスピーチを終えた。
神藤が市内のスーパーマーケットから仕入れて来たらしいビールの袋を持って出ていく彼らを見送り、志波姫は選手だけになった空間を見回して言った。
「いよいよだね。明日──」
みな、どこからともなくZ旗のリストバンドを取り出し、腕に嵌める。
「円陣を組もう。声は出さなくていいから」
そうと言ったわけではないが、誰しも彼女を『日本代表のキャプテン』だと認めていたのだろう。
すかさず羽咲の隣を確保した益子が、率先して両脇の羽咲と志波姫の肩に、手を回す。
「……何言おっかな。考えてなかった」
「おい」
組まれた輪が一旦解けて、また繋がる。
「フレ女のあれじゃダメなの?」
望は、夏のインターハイの試合前、志波姫が組んだフレゼリシア女子の円陣の中で言っていた言葉を思い出す。
──すべきことを見失わなければ、コートにはいつだって楽しみがある。自分の仕事を見失うなよ。
もっともあの観衆の中だから、細部は宮崎で矢本から聞いた内容だ。
「自分の仕事……も大事だね。でも、そんなのみんな分かってるでしょ?」
明日の先頭を任された豊橋と羽咲は、力強く頷く。
中国の選手たちは、一人の指導者から長い期間にわたって濃密な指導を受けている。
押し込まれたときの思考回路は似通っているだろうし、指導者の『クセ』をどこかに内包しているはずだ。
二人の『仕事』は、その微かな綻びを見つけるために、可能な限り試合を長引かせること。
そうすれば、倉石や志波姫、神藤コーチがそれを分析し、二番手の益子・旭ペアが優位に戦える。
急場の策でも対応でき実行できる益子がいるし、そのモンスターの手綱を高校三年間握ってきた旭がいる。
「アタシはとにかく、シングルスの一発目をぶっ飛ばせばいいんだな?」
荒垣の言葉に、志波姫も同意した。
「そうだね、荒垣は『衝撃』を相手に与える。あとはあかねと私で勝ち切るよ」
狼森と合わせた視線を望と久御山に送り、彼女は言った。
「二人は見ていて。中国に勝って終わりじゃない。ロシア戦があるし、ポルトガルも、その先も──コートを自分たちのものにしよう」
そういえば、と志波姫は何か思いついたようだ。
「なんかネットのテレビで見たんだけど、『オン・スリー』で行こう」
「……なんだそれ」
熱が冷めないうちに、志波姫は手早く説明する。
円陣で肩を組み、あるいは手をハイファイブで合わせ、リーダーの言葉を『ワン・ツー・スリー』で復唱する。
「かっけぇ」
「アメフトとかでやってるやつだよね、見たことある」
「そう。いくよ『ニッポン・オン・スリー』、──ワン・ツー・スリー」
『ニッポン!』
それぞれに夜食とドリンクを物色したあと、選手たちは各自の部屋に戻っていく。
「泪、アンタ寂しいからって誰かの枕元に立たないでよ」
「だまれ」
呆れたような笑顔を返し、益子は望たちと自分の部屋に入る。
気丈に振舞っているわけでもない軽口に安心したらしく、旭も少し緊張を解いて志波姫達に続いた。
「大変だねぇ、手のかかる子を持つと」
「ホントだよ……志波姫はコニーと一緒なんでしょ?」
「まあ、あの子もね。努力家なんだよ、ああ見えて。無理するから」
誰だって結局は、そうだ。
何かを極めようと思えば、地味な練習の繰り返ししかない。
旭は益子に少しでも追いつくためにそうしていたし、彼女も決して自分の才能に胡坐をかくことなどなかった。
「羽咲も、『バドミントンは痛くて、血が流れる』って言ってたな……」
春先の神奈川合宿の後、ささやかな打ち上げの席での話だ。
彼女と同級生の藤沢の会話の中で、荒垣が驚いた一文があった。
「血がにじむ、ならわかるけどさ。アタシだって、血豆潰してグリップ真っ赤になるなんてしょっちゅうだったし」
「そうだね、私も──」
力いっぱいラケットを握ってフルスイングする荒垣の右手は、到底女子高生のそれとは思えないほど骨ばっていて硬い。
志波姫は上手く脱力してラケットのヘッドを振る術を、幼いころに身に付けてはいたが、彼女の掌も十年物のマメが出来上がっている。
「……私、あんまりマメ破れないけど」
旭は掌を広げて見せた。
志波姫はすかさず旭の手首をホールドし、手相でも伺うかのようにまじまじと見つめる。
「うわ、あんた愛情線ごついね」
実際そうだったらしい。
「なにそれ」
「浮気性の人はごついんだよ、この線」
そう言って志波姫は、左手を差し出し、親指と人差し指の間にある大きな円弧の内側、小さなラインを指でなぞった。
「──いや、あんたもじゃん」
「ま、私はね?」
「なんでドヤ顔……」
苦笑いして、旭は自分の掌に視線を落とす。
「でも確かに……マメ少ないね。旭はラケットを抉ってないんだ」
「そうなのかな」
力任せにラケットを抉れば、手に残る感覚としてはハードヒットできているように思える。
しかし実際には、腕の振りが固まってしまい、最大の物理量をシャトルに与えることができない。
荒垣も主に精神的なプレッシャーから一時陥った症状だが、彼女はそれを克服し、ムチのように腕を、そしてラケットをしならせるフォームを会得した。
「あんまり意識したことないけど」
「いやあ、大事だよ。意識しなくても出来るのは凄いと思う。抉るとシャトル伸びないからね」
志波姫の言葉に頷く荒垣だが、いまひとつ旭にはよく理解が出来なかった。
基本的に放任主義の矢板監督の下では、事細かにスイングフォームをチェックされることもなかった。
名門とされる宇都宮学院には、そんなレベルの選手は来ない、ということもあるが。
「さて……あんたたち、眠い?」
「あんまり」
プレミアムエコノミーを満喫した二人には、外が暗いから夜なんだ、程度の認識しかない。
一方の志波姫も、旭と望の寝顔をカメラで仕留めることには成功したが、欲求不満を抱えたまま、機が黒海を掠める頃には微睡んでいた。
「泪の部屋行く? あの部屋、空気重そうだし」
いたずらっぽく志波姫は笑うが、本心は豊橋の精神面が気がかりだ。
決して心の弱い選手ではないにしても、経験の少ない国際大会、組んだことのない羽咲と共に中国戦のトップバッターを務める。
そのプレッシャーは小さくはないだろう。
「行ってみるか……石澤ともちょっと話したいし」
旭の意見は聞かずとも分かっている、と言わんばかりに、荒垣と志波姫は率先して彼女を連れ出した。
部屋をノックする音。
「はーい?」
日本語じゃ通じねえだろ、と益子はイヤホンを耳にしたまま呟く。
音量は絞っているようだ。
「ルームサービスです」
ドアの外からも日本語が聞こえた。
「──なわけねーだろ」
ツッコミを入れながら、益子は望を追い抜いてドアを開けた。
「旭──お前かよ」
「なによ泪、アンタが心配で見に来てやったのに」
悪態をつきつつ、調達した夜食とドリンクを手に志波姫達は益子の部屋に押し入った。
WiFiを繋ぐことに悪戦苦闘している望と豊橋を横目に、志波姫は窓際の机にそれらを並べ始める。
「アンリ、明日どう?」
「んー……緊張はしてる」
「綾乃ちゃんと一緒の部屋の方が良かった?」
「あ、それは問題ないよ。すごく良く合う、綾乃ちゃんとは」
豊橋アンリは、羽咲綾乃が対戦を通じてリスペクトを持った数少ない選手の一人だ。
益子もある種神格化して羽咲を崇めてはいるが、それは多少歪んだ愛情がこもっている。
隙あらば旭にやらかした事と似たようなことを羽咲にもしかねないから、この二人を同室にするのはNGだった。
旭なら殴り飛ばしてでも止めるだろうが、それでは第一の命題である、『旭と益子を別部屋にする』が達成できない。
「石澤は何やってんだ?」
「あ、荒垣。助けて……」
「なんだこりゃ」
荒垣が受け取ったのは、部屋に置いてあるWiFiのパンフレット。
デンマークにおける外国人とは基本的に英語話者を指すらしい。
あとはフランス語かドイツ語か知らないが、アルファベットの上や下に点々のついた文字が並んでいる。
「普通に繋げばいいんじゃないの?」
「なによ、普通って……」
父親の職業と関係があるかは知らないが、荒垣が唯一得意と言える教科が英語だった。
もちろん、他に比べてという相対評価でしかない。
「……お前これ、機内モードになってんじゃん」
「あ──」