荒垣の協力を得てWiFiを繋ぐことができた望は、両親にメッセージを入れる。
ひとまずは、無事にデンマークに辿り着いたこと。
それから、明日は出場機会がないが、ロシア戦では出番があるということ。
(テレビとか、やるのかな……?)
「望、彼氏?」
「違うよ、いないし」
「じゃあ彼女?」
「待って」
ベッドに乗り込んでくる志波姫を躱して、望は自分の分の夜食を確保する。
待望のワッフルではなかったが、色とりどりのチョコチップが掛かったクラッカーを一枚口に入れると、何とも言えないジャンキーな甘みが広がった。
望のガードを下げさせることを諦めた志波姫は、今度は泪にちょっかいを出し始める。
「アンタ何枚食べんのよ。太るよ?」
「いいよ、私太らない体質だから」
旭と豊橋の顔が引きつった。
すかさず、志波姫は話題を変える。
「そういえばさ──明日の試合だけど」
似たような選手ばかりの中国代表だが、それを看破するには初手の羽咲と豊橋の立ち回りが重要だ。
「唯華は、相手をどうやって判断してるの?」
ショックから立ち直ったらしい豊橋が問う。
「そうね……『ポイントを取る形』を見るのが一番手っ取り早いかな。──バドミントンの話だよね?」
他に何があるのかと、望と荒垣は訝しんだ。
「泪とか望は、私とやったことあるから、なんとなくわかるでしょ?」
試されているような感覚は、望も受けたことがある。
ストレートを打てる配球をしてもらっているのに、クロスに飛ばした結果、より厳しいコースに返球されてしまい、力なく上がったシャトルを志波姫に叩かれた一点。
その時の思考は──。
「あれか……」
「真っすぐ叩こうとは思わなかった?」
「ううん……、フォア勝負なら分があると思ってた」
まあね、と志波姫は頷く。
生まれ持っての柔軟性のおかげで、望は差し込まれた羽根もうまくやり過ごすことができる。
純粋な打ち合いでは押される、と考えたからこそ、志波姫も策を弄したのだ。
今にして思えば──随分と遠い昔のように望には思えたが、あのポイントは、オープンバックへのドライブでも良かった。
「強打、強打で来られた方が確かに私は苦しかったけど……望が、カットを効果的に見せたがってた感じはしたね」
「確かに、それはあったかな」
カットスマッシュが最大の武器であることは、望も自認していた。
この世代では、シャトルに変化を掛ける能力は抜きん出ているが、それを活かそうとするなら縦、すなわち前後への配球が必要になる。
倉石が教えた戦術は、どちらかと言えば左右への散らしに比重を置いたもので、その戦術をなぞってシャトルをコントロールできる技術もまた、望の武器の一つではあるのだが。
「だから──ある程度、相手に自由にやらせる時間帯があっていいと思う。団体戦ならなおさらね」
ダブルス2は旭と益子だ。
体調や精神面にトラブルがなければ、中国代表と言えど、同世代相手にこの二人が星を落とすことは考えにくい。
「負けていいとは絶対に思っちゃダメだけど……あとは綾乃ちゃんをどこまで我慢させられるか、だね」
「我慢、かあ……」
豊橋は首を捻り、クラッカーを咀嚼しながら考え込む。
ペア合わせは他のパターンよりも抜群にフィットしているとは言え、それでも実戦で組んだことはない。
「できれば練習試合でもいいから、やりたかったなあ」
「うん……ま、でも──お互いインターハイでやってるのは大きいよ」
限界領域でのバトルを繰り広げることは、たとえ一試合だけでも相手を理解するために、大きな助けとなる。
どういう配球をすれば嫌がるのか、また逆に、どこがツボなのか。
「だから、私と望もきっとうまくいく」
志波姫が言ったのは、ロシア戦で組む予定のダブルスのことだ。
二戦目は膝の様子を見て荒垣と、疲労を考慮して一年生の羽咲が欠場する。
その代わりに望は志波姫とペアを組み、久御山はシングルスで出場する予定だ。
「……中国に勝てる要素って、そこかもな」
荒垣は、自分のこれまでの経験を反芻する。
望や橋詰、年下の笹下は勿論、相手は覚えていないだろうが、益子とも顔を合わせたことがある。
選手同士の交錯が多い、狭い日本の育成環境が、相互理解の必要な代表団体戦では、優位に働くこともあるに違いない。
「そういうこと。ホントはアンリも綾乃ちゃんと一緒の部屋にしようと思ったんだけど」
あの子はあの子で、色々抱えてるものがあるからね、と志波姫は呟いた。
豊橋も少し気が楽になったらしく、あくびをかみ殺す。
「……そろそろ寝ようか。じゃ、私達は部屋に戻るから」
「うん。明日ね──おやすみ」
手早く夜食の残骸を片付けて、志波姫は立ち上がる。
「泪、アンタちゃんと歯磨きなさいよ」
「わかってらい」
律義に歯を磨いてきた益子の後に望が続き、最後に身支度を終えた豊橋が、部屋の電気を消す。
望は内心驚いたが、あれだけ昼間寝ていたのに、とたんに眠気が襲ってきた。
出来るだけ体温を逃がさないように、毛布を首まで被って目を閉じる。
日本とは少し違う音を出している車が、時折窓の外を走り去っていく。
(明日は、まあ……気楽だな)
なんだかんだ言っても、中国は強敵だ。
負けてしまう可能性だって十分ある。
そうでなく、期待した結果になるにせよ、自分が出られないのは歯痒いものだと、少し気持ちが落ち込む。
それでも、明日で終わりではない。
インターハイの前日の夜。
自分なりに精一杯やり切った自信はあったが、それでも不安で寝付けなかった。
フレゼリシア女子という強豪の名のせいか、それとも、志波姫唯華と言う強敵のせいか。
結局は、自分の中身の問題だったんだろう。
意識が薄れるまで、望はぼんやりと、今年の春から今までの事を振り返ってみる。
神奈川の予選すら突破できなかった自分が、よくもまあ日本代表になんてなれたものだ。
小さく息をつき、しきりに寝返りを打つ益子の衣擦れを聞きながら、望は眠る。
──鼓膜が揺れている。
(……?)
部屋はもちろん、窓の外もまだ暗い。
それなのに、こんな時間にドアをノックするなんて──。
望はしばらく、ドアの外にいる誰かが諦めるのを期待して、スマートフォンの画面で時計を眺める。
思ったよりもゆっくりと眠っていたようだ。
二回ずつだったノック音が三回になったタイミングで、望は観念して起き上がった。
気配を察したのか、それとも、もっとずっと以前からノックを無視していたのかは知らないが、上半身を起こした益子の眼光が、闇の中で光る。
まるで機嫌の悪い猫のようだと思いつつ、望はまだ寝ぼけた足取りでドアに向かう。
鍵を開けると──。
「おはよう! みんなで散歩いこう」
「ああ、はい……」
生返事を返して、望はドア脇の壁にある電気のスイッチを入れた。
人類の英知で明るくなった部屋を改めてみると、益子は布団にくるまって狸寝入りを決め込んでいた。
その首筋に手を回して引き起こしつつ、部屋に侵入してきた志波姫が彼女の耳元で囁く。
「おーい泪~? 早く起きないと食べちゃうぞ?」
「やめろ」
肘で志波姫を押し退け、益子はベッドの上で胡坐をかいて髪を掻き毟る。
「……お前、外真っ暗じゃねえかよ」
「デンマークは昼が短いの。日本なら学校行く時間だよ?」
「はあ、嘘つけお前──」
益子も先程の望と同じように携帯電話を握り、時刻を確かめる。
「──マジか……」
知らず知らずのうちに、疲労が蓄積していたのだろうか。
身体の調子を確かめようと、益子は首を鳴らして、腕のストレッチを始める。
「やらかいね」
「痴漢すんな!」
志波姫が触っている場所が柔らかくなければ一大事だ、と望は苦笑しつつ、自分のキャリーバッグから着替えを引っ張り出す。
「外寒いよね、絶対」
「下、タイツ履いた方がいいよ」
「そうする」
温熱素材のタイツとスパッツを重ね履きして、望は身支度を整えた。
ニット帽とネックウォーマーのせいで目線しか見えていない益子も、嫌々ながら集団についてくる。
「松川さん、お待たせしました」
待たせたうちの八割ぐらいは益子だっただろうが、松川は気にせずに笑顔を返す。
「じゃあ行こうか」
彼女に先導されて、集団は動き出した。
ペースは普段の歩く速度よりもゆっくりだが、あくびをかみ殺しながらの気分転換にはちょうどいい。
「ホテルの裏、公園なんやね」
両腕を目いっぱいに広げて伸びをしながら、久御山は集団の最後尾を歩く。
睡眠中は水分が失われるから、散歩の間に一本飲み干せ──そう言われて渡されたスポーツドリンクを早くも飲み干した彼女は、ペットボトルを手持無沙汰に振り回している。
まるで、『ヒーローは遅れて現れる』とでも言わんばかりに、力みがなく、威風堂々とした表情で──というよりも、性根が呑気なのだろう、と隣の望は思った。
益子は益子で、羽咲と旭の引力にふらつきながら、徐々に心と体を覚醒させているようだ。
どちらかと言えば旭に接近しているのは、目当ての羽咲が豊橋と仲睦まじく会話をしているからかもしれない。
「荒垣、膝どう?」
志波姫が首から上だけで振り返り、荒垣に訊く。
「まあ……違和感はないかな。冷えるから少し痛むかと思ったけど、全然」
散歩と言う割には、先導する松川の針路はぶれない。
何ともなく徒然に会話を続けていると、話題が尽きる暇もなく一団は幅の広い道路に突き当たった。
「この横断歩道、信号あらへん……」
数台の車が久御山のボヤキを掻き消したあと、松川は左右を確かめて選手たちを促す。
道路の向かいは、大学病院。
「……忘れてた」
寝起きドッキリのように急かされたスタートも、出発前に全員に一本ずつ渡されたペットボトルも、本当はこのためだったのかと、望は合点がいった。
仕掛人の志波姫と松川以外のメンバーも、ほぼ同時に気が付く。
『検査』だ。
「泪、……出た?」
「バッチシ、クロスファイアで」
意味不明な事を宣う益子を見て、『検査』の経験がある彼女でも緊張したのだろうと、旭は少し安堵した。
あるいは、脳内を快楽物質が駆け巡っているのかもしれないが。
監視をする人物がもはやおばあちゃんと言っていいレベルの老女であったことも奏功したか、経験のない望や久御山達も、出すものを出すことはできたようだ。
「オバハンで良かったわ」
「そうだね……」
ドッキリ大成功の札が似合う満面の笑みを湛えて、帰路は志波姫が先頭に立つ。
検査の結果はまだわからないが、怪しい薬など飲んでいるメンバーはいないから、問題も起きないだろう。
十分ほどの道のりを歩いて戻ると、日本代表の根城となっているミーティング室には、朝食の用意が整っていた。
相変わらず羽咲の隣をキープしたがる益子をスルーして、旭は望の隣に座る。
「結構量あるね」
「うん、でもおいしそう」
少なくともここ数年、望にとっての朝食とは、あくまで朝のランニングで失った水分やエネルギーを補給するためのものだった。
このように手間のかかった食事を朝から摂る時間もなかったし、第一満腹になってしまっては、その後の朝練で動けない。
特に焦っているわけではないが、結局一番乗りで食べ終えた望は、コーヒーメーカーの前に立つ。
「緑茶あるやん──」
脇からぐいと手を伸ばしてカップをセットし、久御山は『GREEN TEA』と書かれたボタンを押す。
湯気を立てて出てきた緑色の液体を一口含むと、彼女の表情が曇った。
「まっず……嘘やろ……」
苦笑しつつ、望は砂糖をひと掬いだけカップに入れ、その上からコーヒーを注いだ。
「望はコーヒー派?」
「まあね……ほんとはアイスコーヒーがいいんだけど、寒いし」
「ふーん」
久御山に続いて志波姫が横に並び、薄く色づいた紅茶をカップに注いだ。
そして、彼女はパンが満載になったバスケットの横からストロベリージャムを一個取り、自分の席に戻る。
おもむろにパッケージを開けて、スプーンですくったジャムを口に含み、溶かし合わせるようにカップを傾けた。
「おしゃれかお前」
益子がツッコミを入れる。
志波姫がやっているのは由緒正しいロシアンティーの飲み方だが、そういった教養は益子には備わっていないようだ。
「アンタもやってみれば? 美味しいよ」
「いい。水が一番だよ、なあ神藤」
「……牛乳」
はあ、と益子はため息をつき、横から羽咲の牛乳を取り上げて飲み干す。
「あーっ!」
だいたい皆朝食も食べ終えた頃合いに、倉石が姿を見せた。
「志波姫、そろそろ行くぞ。試合会場で記者会見だ」
「あ、はい。じゃあ、みんな。行ってくるね」
代表ジャージの襟を正し、姿見で身なりを整える彼女に、メンバーはそれぞれにエールを送る。
キャプテンと監督が姿を消し、通訳の神藤コーチも出て行った。
後には立花と松川、そして八人の選手たちが残る。
「──みんな予定はわかってる?」
松川の問いに、大丈夫と言ったのは益子だ。
「それじゃ、ひとまず解散ね。昼食は会場で摂るし、量も少ないから、物足りなかったらまだ食べてていいよ」
そうして大人たちが姿を消すと、リーダー不在のミーティングルームでは、会話もまばらになる。
しかし、誰もその場を立とうとはしなかった。
食欲旺盛な狼森と、親の仇のように牛乳をヘビーローテーションしている羽咲を除いては、もう十分腹も膨れたはずだが。
「……大丈夫かな、アイツ」
お前に心配されるような奴じゃないでしょと、旭は出かかった言葉をコーヒーで飲み込む。
つつがなく記者会見を終えたらしい志波姫たちと、会場で合流する。
外国人記者を相手にできるほどの英語力は彼女も持ち合わせていないから、ほとんど一人で喋っていた神藤コーチは少し疲れた顔をしていた。
「いや、こいつがさ……みんな日本語わかんないと思って煽るから」
四川省の十五歳、羅小麗がいない中国代表など楽勝と吹いてみたり、日本代表は合宿期間こそ短いが、ある『特殊なコミュニケーション』を通じて選手同士の親交を深めている、だとか。
倉石とて海外のメディアに取材を受けることなどなかったから、質問への返答はすべて日本語で、それを逐一神藤コーチが翻訳していた。
ひとまず彼女の労をねぎらい、選手団は与えられた二面のコートに散らばる。
志波姫は遅れて昼食を摂っており、中国戦で組む予定の豊橋・羽咲ペアの対面には旭・益子。
荒垣と狼森がもう一面のコートで打ち合っている間、石澤と久御山は二人でサポートに回る。
やがて飽きてきたらしい益子が練習を早めに切り上げて、傍でシャトルを拾っていた久御山に、自分の代わりに入るように促した。
旭も旭でそれを止めないが、二人のペアには不安がないということだろう。
とりあえず中国戦には出ないといっても、公式練習は貴重な機会だ。
次は自分も、という風に、望は自らのラケットバッグから、相棒を引っ張り出す。
今は都合四本のラケットが入っているが、試合で使うのは『最新版』の二本だけの予定だ。
「石澤、それさあ」
「なに?」
にじり寄る益子の視線を注意深く観察すると、それは望の握っているラケットに向かっていることが分かった。
望は安心して、益子にそのラケットを手渡す。
「……しなるな、結構」
「私そういうの好きだからね」
「ふーん……」
彼女は受け取ったラケットを軽く振ってみたり、手でくるくると回してみる。
「益子──のは?」
「ん? ああ」
一瞬益子は戸惑うような表情を見せたが、すぐに笑顔になって自分のラケットを取り出す。
呼び捨てに気を悪くされないでよかったと望は安堵した。
「これ。21ポンド半」
「……硬いね」
上背があれば、シャトルは強く叩ける。
だから益子には、このポンド数でも十分なのだろう。
望が自分のストリングスのポンド数を落としているのは、パワーを補うためもあるが、どちらかといえばカットをよりよく掛けるために、ストリングスとシャトルの接触時間を長くとる意味合いが大きい。
「荒垣も硬いだろ、多分」
「そうだね。男子並みだと思うよ」
狼森の対面の荒垣に目をやると、彼女は元気よくステップを踏み切り、ジャンピングスマッシュを叩き込んだ。
練習だから狼森の表情もさほど変わらないが、これがインターハイだったなら、彼女は動揺しただろう。
ほどほどにしておけ、という立花コーチの言を素直に聞き入れて、荒垣はコートを出る。
走りこんでひと汗かいた狼森も同時にコートを離れ、空いたコートに益子は歩みを進めた。
「あ、益子。ラケット──」
「ちょっと交換して」
「いいけど……」
彼女の方は別に問題はなさそうだが、望にとっては、シャトルを打つという作業は繊細なものだ。
セッティングの違う他人のラケットを使うのは好ましくないが、バッグを置いたベンチまでラケットを取りに戻るのも忍びない。
益子は軽くラケットを振り回した後、アンダーハンドから大きくシャトルを打ち上げる。
「──っ」
どうにでもなれ、とばかりに望は力を入れて、ラケットを思いきり振り抜いた。
普段とは違う、金属音のような甲高い反響を残して、シャトルは益子のバックサイドへ伸びていく。
(あ、意外と……でもないか)
目で追わなければ、そのシャトルの行く先がわからない。
自分のラケットなら、接触音と手に残る感覚で、おおよそコートのどのあたりに落ちるかが判別できる。
(インフォメーションが少ない……これは『考える』ことをしないと使えないな)
もっとも、試合になれば当然使うのは自分が長いこと付き合ってきた相棒だから、さほど望は落ち込んでいない。
益子は体を翻してロブを打った後、手振りで望にフォアサイドを要求する。
求めに応じてシャトルを返すと、浮き球、と追加注文。
(──ああ)
思い当たった望は、彼女の腕がちょうどよく伸びる距離に、シャトルを『置いた』。
「っし!」
軸のぶれた扇風機のような音を立てて、シャトルは弧を描いて望の右腋を抉っていった。
クロスファイア──。
球足は短いが、変化はかつて羽咲との試合で見た時のそれよりも大きい。
落ちたシャトルを拾い、益子に返そうと顔を上げると、彼女はネット前に立っていた。
「……いいな、これ」
差し出されたラケットを受け取り、望は『これもよかったよ』と言ってあげたくなったが、本心はそうでもなかった。
自分のラケットを手にすると、やはり『スイッチ』が入る気がする。
会場内は一定の照度だが、壁にかかっている時計を見て、望は夕闇の訪れを知る。
彼女と久御山、松川のいる観客席にも人影が増え始めて、会場を二つに区切った反対側のスタンドが沸くと、ロシアとポルトガルの選手団が入場してきた。
試合開始時刻は同じだが、呼び込みの順番はその二国が最初だ。
そして、望たちのいる側のスタンドも、眼下に入場してくる選手団に声援を送る人並みで盛り上がる。
「──」
身震いして、望はぎゅっと目をつむり、そして開く。
被らないようにタイミングをずらして四か国の国歌が流れ、最後に流れた君が代と、日の丸の掲揚に合わせて起立した三人は、周囲を見渡しながら席に座った。
「……日本人、少ないなァ」
彼女たちと同じタイミングで同じ行動をとった人数は、そう多くない。
益子を追い続けている熱心な記者も、さすがにデンマークまでは来ていないし、選手たちの家族も招待されているわけではなかったから、仕方ないといえば仕方ないのだが。
「──始まるね」
観客席からカメラを向けるのは無粋だと思ったらしく、松川は取材にかかわる『画』のほとんどは知り合いの外国人記者に融通してもらう算段をつけている。
さすがにデンマーク語も英語も話せない未成年を二人放り出して、取材に走るのはいけないと判断したのだろう。
普段の高校生同士の試合よりも、ずいぶんと広く余裕をとったコートの中央で、豊橋と羽咲がウォームアップをしている。
「あの二人は──」
松川は対戦カードの書かれた電光掲示板に目をやり、手元の資料をめくった。
「洪麗麗、16歳。それからあっちの背の高いのが、18歳の甲美雹だね。甲のほうはアジアユースでも上位に入ってる」
背が高いといっても、ペアの洪がどちらかといえば小柄だから、そこまで飛びぬけて上背があるわけではない。
年齢も、ペアの組み合わせも、二人とも右利きであることを除けば豊橋・羽咲と同じといっていいだろう。
規定のウォームアップ時間が終わり、彼女たちはそれぞれの監督のもとに戻る。
狼森と旭がタオルと飲み物を持って二人に手渡すが、豊橋はタオルだけ受け取り、ドリンクのボトルは手に取ろうとしなかった。
「……ちょっと緊張してるね」
「せやな」
羽咲の方は自分との対話で忙しいらしく、ラケットをくるくると回したりして、倉石の指示も話半分のようだが、豊橋の方はどことなく硬い表情で、彼の言葉に頷いている。
もっとも笑顔は見えるから、そこまで『悪いモード』ではなさそうだ。
「綾乃ちゃん──」
「なに?」
ゲームの初手のサーバーとなった豊橋が、残り僅かなオープニングインターバルの間に羽咲の肩を引き寄せる。
「最初はロングで行く。あっちの甲の、強打の質を見よう」
「のっぽの方? いいよ」
「うん。よし、行こうか!」
ぱしん、と手のひらを合わせ、二人はそれぞれのポジションについた。
主審のコールの後、一拍置いて豊橋はラケットのスイングを開始する。
「──ロング!」
観客席で見ている望たちの目線の高さまで、シャトルは打ちあがった。
おそらく目一杯の力で、豊橋はカチ上げたのだろう。
深さはあるだろうが、コースは甘い。
しかし中国ペアも緊張はしているらしく、レシーブに回った小さいほう──洪麗麗は戸惑いを見せながらアンダーアームでロブを返した。
「綾乃ちゃん!」
豊橋の声が飛ぶ。
後ろに、という手振りを受けて、羽咲は斜めにバックステップを踏み、ラウンドからハイクリアーを入れた。
サイドラインを半分踏み出してはいるが、空いたスペースを前衛の豊橋がやや後ろ目に立ち、守っている。
守勢に回った形だが、これはもともとのゲームプラン通りだ。
立ち上がりはゆっくりとした組み立てをして、国際大会の経験が少ない豊橋の、心のエンジンがしっかり暖気するのを待ち、また羽咲の体力的な不安も考慮する。
神奈川の大会でも思ったけれど、と松川はつぶやいた。
「ほんとに選手をよく見てるし、理解が深いよね、倉石さんは」
望も同意する。
彼が望たちの世代で一番時間をかけたのは彼女には違いないが、ほかの選手にも相応の指導をしていた。
だからこそ逗子総合は全国大会に出ることができていたし、望も今、ここにいる。
そんな彼が仕掛けた戦術だ。
国際大会の一発目で取る策としては、リスキーではある。
日本最高のダブルスペアが後に控えていなければ、成立しえないだろう。
豊橋が誘い込んだ長くゆっくりとしたラリーの最後は、攻め気を見せた洪がシャトルをサイドアウトしてしまい、日本ペアに最初のポイントが入る。
「よーしよしよし、ラッキーだ! 慌てるな、自分たちのペースで行け!」
相変わらず大きな声だ、と望は苦笑する。
ここにいるデンマーク人の何人かは、いくつかの日本語を覚えて帰るだろう。
本当に大事なのはここから、と言わんばかりに、豊橋はさっきよりも長い間合いを使って、同じくロングサービスを放つ。
年上と組む国際大会のダブルスで、最初の一点をミスで与えてしまった洪だが、今度の返球は強気にヘアピン。
ネット前なら私の十八番──と勇んで羽咲は前に張り出す。
ヘアピンの拾い合いのあと、左右の利き腕の違いから、噛み合わないと判断したのか、先に『逃げた』のは洪だった。
「オーライ!」
平行陣から雁行陣へのシフトで、後ろに下がったのは豊橋だ。
羽咲の体力をできるだけ温存する意図もあるだろうが、これは日本ペアの形ではない。
身長の高い甲が前に出てくる。
豊橋は、彼女の頭上をやり過ごすようにロブを上げる。
(……いい。無理をしない、落ち着いている)
倉石は右手を握り、腕を組み直した。
ダブルスのペアには、大きく二種類ある。
お互いを『補い合う』ペアと、『高め合う』ペア──羽咲と豊橋は前者だ。
序盤はできるだけ見せないように、と注文を付けてはいたが、同じフォームからのストレートとクロスファイアなど、攻撃のオプションが多彩な羽咲と、走り合いを避けずに受けて立つ体力があり、守備の中で攻撃の形を作っていける精度と視野を持つ豊橋。
今のように、悪い形に陥ってしまっても、それを打開して自分たちのいい形で戦える。
(石澤と志波姫は違う。二人の平均値で優位を作り、掴んだ流れを離さずに行くタイプ……)
どちらかの能力が突出していれば、『補い合う』形になりやすい。
旭と益子もそうであるし、レベルは違えど泉と羽咲も同じだ。
ただし、その形に対応されてしまうと苦しくなる。
アタッカーとディフェンスが自由に入れ替われる、同じタイプ同士のペアの方が、読まれづらいのは確かだ。
コート上の二人も、本来の形──羽咲が後ろで拾い回り、豊橋がコースにドライブを決めて相手を崩すスタイルに戻すのに手間取っている。
洪のミスで先制はできたが、中国ペアのレベルは高い。
「まぁ、しかし……落ちへんなぁシャトル」
「あの二人じゃね……」
見たかった甲の強打はまだ万全の形で打たせてはいないが、ところどころに強い羽は混じっている。
それを苦も無く拾う羽咲の前で、豊橋が後衛の洪に睨みを利かせているおかげで、お互いに決め手がない状況だ。
長いラリーの最後に待っているのは、どうしてもミスが多い。
そもそもシングルスに比べてエースショットの打ち合いにはなりづらいダブルスだが、これではあまりにテレビ映えしないだろう。
苦笑する倉石をよそに、試合はミス絡みの荒れた展開で団子のまま、最初のインターバルを迎えた。
11-10。
ここでは豊橋も、差し出されたドリンクを呷り、喉を鳴らす。
「よし、よく我慢している。ミスが多いのは仕方ない。切り替えて一点ずつだ、わかったか?」
ボトルのストローを口から離して、羽咲が言う。
「──もうちょっと、攻めていい?」
「ん……気持ちはわかるが、このセットは待て。落としても構わないが、もし取れたら、第二セットから全開で行っていい。ただし、行けると判断したら叩け」
「わかった」
甲のスマッシュの頻度が上がれば、守勢に回らざるを得ないが、そこで体力を消耗してしまうと勝ちの目はなくなる。
「よし、行ってこい!」
「おっす!」
旭にタオルを投げ渡し、豊橋は肩を回しながらコートに戻る。
羽咲も、獲物をうかがうように首を鳴らして、中国ペアの前衛、甲と斜向かいに対峙した。
「難しい戦術だけれど、これを完遂できたら……彼女たちは、『上』で勝てる選手になるわよ」
松川は感慨深そうに言った。
根本的にインターハイなどと違うのは、世界大会に出てくる選手にあからさまな『実力差』など存在しない、ということ。
いい意味でも、悪い意味でも。
であるならばまさしく『戦術』の勝負になる。
『技術』で勝ち上がれる学生の大会と全く違うのはそこだ。
荒垣のスマッシュも、益子のクロスファイアも、それがまるっきりエースになることなどありえないが、だからと言って彼女たちが『死ぬ』わけでは決してない。
『戦術』を望に教えたのは、倉石が彼女を『上』──将来にわたって競技の第一線で活躍できる選手だと見込んでいたからであるし、そこまで行くことなく選手生活を終えると踏んでいた荒垣を、特待で取らなかったのも同じ理由だ。
『お前は荒垣じゃない』──望を壊し、惑わせ、覚醒させた言葉の本質はそこにある。
石澤望は、『上』の世界に行く。荒垣は──果たして彼の目論見は、いい方向に外れた。
第一ゲームが長くなることを見越して、ゆっくりとしたペースでストレッチをしている彼女を見やり、望はまだ見ぬそのコートからの景色を想像する。
インターバルを終えて、中国ペアが三ポイント連取する。
14-10となったところで、羽咲はシャトルを拾い上げて主審に交換を要求した。
「ゴメン、綾乃ちゃん」
「だいじょうぶ、次取ろう」
豊橋の方を見ずに、短い言葉で彼女を促した羽咲は、倉石の方を見やる。
(……フムン)
だいぶフラストレーションが溜まっているように、彼には思えた。
無理もないだろう。
豊橋がミスを続けたわけではないが、この三ポイントは全てエースショットを打たれている。
拾いきれなかったのは二人のコミュニケーション不足もある。
しかしそれ以上に、インターバル明けから中国ペアの動きが激しい。
特に甲美雹は難度の高いコースへのジャンピングスマッシュを二本続けて決めた。
このまま調子に乗られると、不味い。
「──旭、益子」
「ん」
バックゾーンで柔軟体操をしている二人を、倉石は呼んだ。
神藤コーチを交えて、四人で彼が記した中国ペアの傾向を読み解く。
「次のダブルス2も、高い選手と走る選手のペアだ。つまり──」
「自分たちの『形』を押し付けてくる。こっちの動きはあまり考慮しない」
神藤コーチの補足は的を射ている。
「単純なエースショットの打ち合いでは、さすがに分が悪いかな」
控えめな旭の分析に、益子も珍しく同意した。
「私らはいつも通りやるけど……」
「それでいい。ただし、相手の流れだと思ったら、少しリズムを変えて行け」
急場の作戦会議では、このぐらいの指示がやっとだ。
倉石はノートで頭を掻き、コートに向かって大きな声を出す。
「羽咲! もういいぞ、ゴーだ!」
第一ゲームを落とすことは想定内だが、この『落とし方』は良くない。
そう判断して、倉石は羽咲と豊橋に課したミッションを、ここで完了とさせた。
二人の間に飛んできたドライブを、羽咲は踏み切って強打で返す。
守備一辺倒の小柄なプレイヤーだと思い込ませたところで、本当の役割は逆だと見せつける。
久方ぶりの得点が日本ペアに入り、コート上で二人は手を合わせた。
(この三連続ポイント……インターバル前から合わせれば四連続だが、これは今までの『流れ』を切るための、甲美雹の独断専行だろう)
倉石は旭と益子に、少しウォームアップのペースを落とすように指示する。
まだマッチポイントまでは遠いが、ミス絡みの展開に彼女がまず音を上げて、その流れを押し退けようとした動きだ。
付き合って、ラフな展開にすることはない。
羽咲も意図を同じくしたのか、ショートサービスから今度は自分が前に張り出し、高く抜かれたシャトルだけは豊橋に任せている。
(──それでいい。間合いの開いたハードヒットの応酬は、上背のない羽咲と攻め手に欠ける豊橋では対処しづらい。ネット前の細かい仕掛けから、中国ペアのバランスを崩す)
長いラリーは相変わらずだが、その中で豊橋は小さな餌を撒いていた。
中国ペアの後衛・洪の前にやや短いシャトルを送り、羽咲とのネット前勝負に引き込もうとしている。
餌につられたわけではないだろうが、洪はヘアピンをサイドに散らす。
機敏に反応した羽咲が、すぐさま追い付いて打ち上げた。
(……よし、少し前掛かりにさせた。綾乃ちゃんがクロスファイアを打てる球を出させるなら──)
再び間合いの開いたラリーの中で、中国ペアは前後を入れ替え、洪がネット前中央に張り出す。
渋々後ろに回った甲美雹は、羽咲の守備範囲を迂回する大きなロビング。
「──はっ!」
ほんの少しだけ、そのロブは短かった。
豊橋は渾身の力でコートを蹴り、ジャンピングスマッシュを放つ。
慣れない強打の、コースは甘い。
しかし、それがかえって、中国ペアの逡巡を生み出した。
下がりながら腕を伸ばした洪と、平行陣に組み直すべく前に出た甲のラケットがぶつかり、シャトルはゆがんだスイングの軌道をすり抜けて甲の膝に命中する。
しばし顔を見合わせた彼女たちは、何か唇を動かして言い合った。
(やってみるもんだね……今のが『強打が通用するポイント』、なのかな?)
コートを上から見れば、鏡写しの雁行陣。
しかし、日本ペアは利き腕の関係上、フォアの範囲が被らない。
前に速い羽咲、後ろに比較的強打を使える豊橋──この組み合わせが本来は、最大効率を発揮する。
このセット途中までは使わなかったフォーメーションだ。
何より、豊橋は速い選手を思い通りに動かさない配球ができる。
インターハイの対羽咲戦でも実行しており、それを倉石は見ていた。
「豊橋、ナイススマッシュだ! 撃っていけ、どんどん攻めろ!」
「はーいっ!」
中国ペアが少し間を置く間に、倉石の声を受けて豊橋もテンションを上げる。
守備から入り、ラリーで崩す──中国側の彼女たちに対する分析は、間違ってはいない。
プラスアルファだ。
羽咲は絶対的には強打になりえるショットを打てないが、スピードを使って強打に『見せる』ことができるし、豊橋は、この中国ペアが相手ならば、『強打』そのものを打てる。
対戦相手は、益子や荒垣のような高身長の選手ではない。
ダブルスの二人の守備範囲が絡んで、後衛のハードヒッターがカウンターを打てない──この状況なら通用するんだ、とスタンドで観戦する望も気が付いた。
「……私、この試合観ててよかった」
「はん?」
両手を頭の後ろで組み、たっぷりとリラックスしていた久御山は、キョトンとした顔で背筋を伸ばし、望を見る。
彼女のその言葉は、消極的な思考からではない。
明日のロシア戦では志波姫とダブルスを組む予定だが、今までの望なら、志波姫のゲームプランに組み込まれるだけだっただろう。
それでは、本当の意味での『経験値』は稼げない。
コート上にいる四人の中で、豊橋はおそらく一番格下だろうが、それでも今このゲームを動かしているのは彼女だ。
「豊橋さん、すごく周りを見て、試合をしてる」
「まあ、そらな……頭の良さで言うたら、豊橋は志波姫と張るで」
望が欲しかったもの。
それは『戦術』を活かすための視野だ。
志波姫のように見る『時間』を長くするのもいい。
またコート上の豊橋のように、相手の二人をじっくりと見て、また年下で自律能力にやや劣る羽咲をしっかりフォローするのも必要だ。
ともすれば、明日の試合は志波姫に引っ張られるだけだったかもしれない。
そういう意味で、今日は見ているだけでよかったと、望は安堵した。
と同時に、明日への欲求が沸いてくる。
コート上では甲美雹の強打が徐々に日本ペアを圧しはじめ、うまく攻撃に結び付けられないままに第一セットを落とした。
最後まで競るには競ったが、それは主に洪のミスと、羽咲がたまに見せたクロスファイアからの崩し。
デュースに入る一歩手前、19-21で中国がセットを先制する。
「ごめん、アンリちゃん、監督……取る気だったけど……」
ふがいない、という風に羽咲は、差し出されたボトルを握りつぶし、口の周りを濡らす。
労う様に志波姫は手にしたタオルで、彼女の頬を拭いてやった。
「慌てないで、綾乃ちゃん。アンリもね」
「うん……でも、次は取ろう。勝てるから」
最後までわからないセットの後は、どうしても指示がボンヤリとしがちだ。
倉石はできるだけ根拠を頭の中で作り上げて、二人に戦術を教える。
「わかっていると思うが、洪はミスが多い。年もまだ子供だし、緊張もあるだろうが……逆に、甲の調子はいいようだ」
つまり、と倉石は豊橋に目配せする。
「──甲の強打を止めろ、ですか?」
「そうだ」
決まっていたスマッシュが決まらなくなれば、リズムの上がらない洪とともに総崩れにできる。
第二セットを一気に取って勝ち星を付けたい焦りも出てくるだろう。
「よし……綾乃ちゃん、あの作戦で行こう。『なぎさちゃん封じ』で」
「……オッケー」
ゲスい笑みを零して、羽咲はコートに向かった。
タオルを志波姫に返して、豊橋も彼女を追う。
バックラインの前で、二人は並んだ。
観客席の望と久御山を認めると、豊橋は軽くラケットを上げて見せる。
久御山も立ち上がり、右拳を振り上げた。
「──さてと、どう狙おうか」
「んー……アンリちゃんは、甲を私のフォアに置いて。そうしたら、私がコントロールする」
「了解っ!」
二人はラケットとシャトルをかち合わせ、握ったお互いの利き手をぶつけ合う。
反撃開始だ。