豊橋・羽咲の合作による『なぎさちゃん封じ』はひとまず、功を奏しているようだ。
4-0と序盤を走ったところで、中国ペアがシャトルの交換を要求する。
わずかな時間に、彼女たちは口早に何かを話していた。
(……うん、いい感じ)
対応はまだ出来ないだろう──というよりも。
後衛の豊橋の位置からでは断言はできないが、羽咲の作戦はバージョンを上げている。
荒垣との神奈川決勝の時に打っていたのは、選球眼のあるプレイヤーならはっきりとアウトだと判別できる球。
しかし、今は違う。
アウトかインかで言えば、入っているコースに上げている。
甲美雹の選球眼がどれほどのものかはわからないが、羽咲の放つ『紛れ』を含んだシャトルは、徐々に彼女の守備範囲を広げさせ、疲労を惹き起こす。
それとともに、波に乗れない洪麗麗がプレーに関与する機会を減らし、羽咲と甲のマッチアップで優位に立つ。
後衛のクオリティは、今現在は断然に豊橋が上だ。
自然と、中国ペアは追い込まれる場面が目立っている。
(もう一つの大きな理由は、中国の強化体制にある──)
神藤コーチは、自らの教え子、王麗暁のことを思い出した。
今でこそ世界ランク一位の座についているが、目を付けた頃は、そこまでの選手ではなかった。
彼女の手解きによって、王は短い期間に、中国の一地方から中央まで上り詰める。
それはもちろん彼女の才能と、努力の賜物であるが、中国の指導体制に神藤有千夏が打ち込んだ楔でもあった。
『才能は畑で取れる』──そんな冗談を飛ばすまでもなく、中国の選手層は厚い。
儒教思想の韓国ほどではないが、同じ才能なら年長者、それも都市部の選手が優遇されるのは中国の国家体制としては否応のないところだ。
とりわけ共産党本部のある北京に近い出身者の多い国家体育委員会のメンバーには、南部出身の若い選手を取り立てて重用する気もなかったが、日本国内で十連覇を果たした名選手の教え子となれば、無下に扱うこともできない。
そして何よりも、王自身が結果を残す。
ここ数年の中国は、若い選手を地方から掘り出すことにご執心だ。
洪麗麗はそうした『若手抜擢』志向の最右翼と言っていい。
十八才でバランスの取れている甲美雹は、既に卒業間近のユース大会だけでなく、フル代表の一員としても経験を積んでいる。
二人の間で主導権を握るのは、甲の方になってしまう。
(組ませる相手が悪い、かな……)
本来なら、甲美雹をシングルスで出したいというのが中国代表の本音だろう。
彼女も、出来の悪い相棒をほったらかしにするような未熟な選手ではないし、『世界で通用する有望株』というのは決して過大評価ではない。
しかし、補うことはどうしても必要だ。
それが足枷になり、彼女は日本ペアの狙いに嵌まってしまう。
五点目を連取される間に、彼女はそれまで決まっていたスマッシュを二本拾われ、二本アウトにした。
(まだ若い──今は『怖さ』だけを知ってしまった時期だ……)
調子が良ければ、あるいは何かしらのきっかけで、突発的に大人さえ喰ってしまうのは、この年代の有望選手に共通する『ロマン』だ。
コニーに対する荒垣もその途上にあったし、羽咲が王に勝ったのも同じ。
もっともコニーは、プロとして活動するようになってしばらくして、そういった『幼児性』を徐々に排斥していく。
『当たり前のように勝ち、当たり前のように負ける』──ささやかにポイントを稼ぎ、少しずつランキングを上げていく。
仕事としてその競技をする者、という意味でのプロフェッショナルとしては、至極まっとうな成長だ。
そうでなければ、世界を転戦する体力が持たない。
オリンピックなどの大舞台ならいざ知らず、スケジュール通りのグランプリツアーで、倒れるまで走ってしまったら、身体に取り返しのつかないダメージが残る。
自分独りの人生を背負うのと、国を背負うのではまるで違う。
中国ペアの二人に、十三億人の大国は重過ぎるようだ。
11-2。
インターバルまで走り切った豊橋と羽咲は、少し肩で息を切らせてコートを出る。
「──よし、まず息を整えろ。返事はしなくていい」
急にペースを上げた羽咲を、後ろで支えるように志波姫が抱く。
嫌がるしぐさも見せず、羽咲は渡されたボトルを呷った。
「作戦は順調に進行中だ。だが、インターバル後は対応してくるかもしれん。そうなれば二、三点やってもいいから、変化を見ろ」
ふう、と息をつき、豊橋は頷いた。
プロの試合ではトラブルでもない限り、これだけ一方的な展開になることはないが、ここまで前半で点差が開くと、そのセットは『捨て』に入る。
だから体力を温存し、切り替えて最終セットに臨むために、指導者があえてカンフル剤を打たない場合もあるだろう。
(変化が無いなら無いで、取り切ってしまえばいい──が、コーチの考えを見るには、変化があった方がいい)
成長するのは選手だけではない。
倉石自身も、インターハイの団体戦で志波姫の視線を受け、反省したことがある。
『指示の出し方』だ。
志波姫のようなことができるプレイヤーは国内には少ないだろうが、世界にはいるかもしれない。
対戦している選手だけでなく、その指導者までも見透かすような。
あの試合は最早、志波姫唯華と石澤望の一対一ではなかった。
二人の実力差を埋めるのがコーチの仕事だったが、倉石は、ともすれば自分は望にとってマイナスですらあったのではないかと悔やんだ。
荒垣戦とは全く意味合いの違う『マイナス』だ。
神奈川予選を終えて話し合った二人の間に、ぎくしゃくしたものは当時既に無かったし、望は倉石の指示を受けて得た第二セットの初得点のあと、彼を振り返って喜ぶ。
『勝てる』という気持ちが出した隙だったかもしれないし、優位に立って逃げ切るという望のプランにおいては、出発点になるポイントだった。
それを取れたにもかかわらず──。
(……うん、いかんな。今は忘れろ)
「落ち着いていけ。点差は大きい。相手は逆に、もうこのセットを捨ててくるかもしれないが、こちらのペースは崩すな。ラフにいかず、丁寧に、だ」
「はい──」
アップに行った旭の代わりに、インターバル中に豊橋の世話をしているのは狼森だ。
豊橋の返したボトルを受け取り、自らも水分を補給する。
間接キスだが、あまり気にしないようだ。
「おっし、行こう綾乃ちゃん。私も甲美雹を動かしてみる」
「うん」
後半の立ち上がりも、同様の展開が続く。
徐々にネット前から剥がされる甲美雹は、無理に強打を打ちに行く場面が多くなってきた。
当然コースは甘く、角度もつかない。
翻って、羽咲の自由度は増した。
豊橋がうまくお膳立てをしてくれているおかげで、自らは心もとない体力を摺り減らすことなく、狙いすましたタイミングで洪のドライブをカットできる。
常に先手を取って動かせる日本ペアが、得点を連取していくのは道理だ。
あるいは倉石の読み通り、このセットを『捨て』にかかっているのか。
さしたる抵抗もなく、第二セットは日本ペアの手に落ちる。
21-8と大きく開いた点差に、会場からはどよめきが上がった。
しかし、現実的には0点に抑えたところで、このセットを取ってやっとイーブンだ。
行く末が気になるところだが、荒垣も後ろ髪を引かれる思いでコートサイドを離れ、ウォーミングアップに向かう。
その背中をちらりと見て、羽咲は天を仰いだ。
「……アンリちゃん、疲れてない?」
「んー……まだ行けるけど。綾乃ちゃんは?」
フロアに視線を落として、羽咲はタオルで顔を拭く。
「私は万全だよ。どこかのタイミングで、前後ろ代わろうか」
「オッケー」
いや、と倉石は制止した。
「中国ペアがフォーメーションを変えるなら別だが、こちらはひとまずそのままでいい」
体力的に問題ないことを豊橋に念押しして、倉石は続ける。
「十点以上差が開いたのは、当然捨てにかかっていたからだが、甲美雹はともかく、洪は全く乗れていない。あいつのリズムをこちらから変えてやることはないからな」
「──わかった。じゃ、アンリちゃんもそれでいい?」
「うん」
勝てるならそうしよう、と豊橋も頷いた。
実際倉石は、別のことを考えている。
それは豊橋の体力ではなく、彼女のボール回しが極めて良好だということだ。
手塩にかけた教え子にも匹敵するほど、精度がいい。
それ以上に、『インテンシティ』──集中力が高まっているのが見て取れる。
豊橋アンリは、口の悪いバドミントン記者の間では、『いまひとつ持っていない』選手、という評判だった。
愛知の名門・尾張渋川高校で一年生からインターハイに出場するなど、実力に疑問符をつけるものはいないが、三年春も惜しいところで『四強』扱いのAシードを久御山に攫われ、最後の夏も『死の山』に埋もれてしまうあたりは、まさしく『持っていない』と言っていい。
羽咲綾乃というバグが存在しなかったら、という仮定の下でも、彼女が個人戦の二日目──すなわち、ベスト4以上にのし上がると予想した記者は少なかった。
何故そうなったか、といえば彼女のプレイスタイルに原因がある。
豊橋は相手選手を軽んじることは決してないが、過大評価をするわけでもない。
コート上ではマイペースで、どんな相手に対しても自分の強みである『ラリー』に誘い込み、決着をつける。
悪く言えば愚直だ。
望や志波姫のような戦術に精通しているプレイヤーではないし、益子や狼森のようにここぞで豹変するタイプでもない。
ギアが上がらないタイプ、というよりも、例えて言うなら『オートマ』だ。
思い通りに自分のギアを上げられる、マニュアルシフトの選手に対しては、どうしても分が悪い。
それでもエンジンの馬力はあるし、車体の性能もいいから、戦う『サーキット』を選べば勝てるのだろうし、実際にそうすることで彼女は一年生から輝かしい戦績を収めてきたのだが、それが結局『アスリートとして物足りない』という評価につながる。
益子のように周囲に毒をまき散らしていれば良いというものでもないし、『豊橋アンリ』を一人の人間として尊敬する人々は数多いが、おそらく終着駅は『部活のバドミントン』だろう。
しかし、今倉石の眼前にいる選手からは、そんなどことなく『和らいだ』雰囲気は消えつつある。
世界大会というこの舞台で紛れもなく『成長』している。
意図を持ったプレイ──倉石の指導の中核となるものだ。
本人の資質にそぐわない『意図』を持っていた望に対しては、特に口酸っぱく教えた。
四日間という短い合宿では、彼女を除いた八人の選手の『意図』を完全に読み解くことは難しい。
しかし、豊橋アンリについては、倉石はそういった不安をほぼ消し去ることができていた。
放つシャトルの一本一本に、確かな『意図』が見える。
(──このまま甲にプレッシャーをかけつつ、洪の出番を極力削る。それでいい……)
彼女が生来持ち合わせている『マイペース』は完全にゲームを支配しつつあった。
「──綾乃ちゃん!」
「オーライ!」
久しぶりにシャトルに触った洪だが、攻撃的なショットを打てず、戸惑いを含んだクリアーをコート奥へ。
二人の前後が入れ替わり、羽咲が後衛に走った。
前に引っ張り出された格好だが、セオリーならば身長のある豊橋が前、というのはノーマルな形だ。
長い滞空時間の間に前に張り出す洪を、羽咲が長いロブで押し返す。
第二セットを取り返され、最終セットも日本ペアに先行を許している中国ペアとしては、ここは攻めに出る場面だ。
しかし、洪はまたも消極的なショットを打つ。
中途半端な距離に上がったクリアーを、豊橋が飛び上がって叩き伏せる。
カットスマッシュ。
弓なりに落下していくシャトルは、飛び込んだ甲のラケットを掠めて転がった。
9-6。
微妙な点差だ、と倉石は唇をかんだ。
(このまま逃げ切るには乏しいリードだが、ワンミスでひっくり返る点差でもない……)
本来『負けてもいい』ぐらいの計算で組ませた急増ペアだが、二人の波長は思った以上に合っている。
ここを取れれば、次は盤石の旭・益子ペア。
シングルス1の荒垣次第で、ストレートで勝ち越しを決められるだろう。
「なあんか、楽しそうにやってんな、神藤の奴……」
「いいじゃない、別に」
何が不満か、と旭は益子に目を向けつつ、大きく開いた脚の間に上半身を沈める。
(あの試合の『次の日』のアンタも、楽しそうだったけどね……)
益子と組んでいれば、それなりに大きな大会の経験も増える。
さすがに海外の大会に出る経験はなかったが、それでも国内大会への招待選手などとの試合は何度もこなしてきた。
世界大会とはいえ、さほど緊張もしていない。
それは掛け値なしに益子のおかげだろう。
彼女の隣に居続ける、ということは、『益子泪』に向けられるあらゆる視線を、多少なりとも同時に受けるということだからだ。
突出してはいなくても、バドミントンの才能がそこそこある身体に産んでくれてよかったと、旭は両親に感謝する。
「アンタも楽しめば?」
「……べつに、今は楽しいよ。普通に」
「あっそ──なら、いいけどさ」
世代の最先鋒を突っ走る役を降りてからというもの、益子泪はすっかり毒気が抜けてしまった──とは、旭も思っていない。
相変わらず振る舞いは自分勝手なところが目立つし、常識や遠慮というものを知らない。
それでも今、高校の部活としてのバドミントンが終わってみると、彼女と過ごした二年半の間に、自分もどこかで『益子泪は特別だ』と思ってしまっていたのかもしれない。
突飛な行動も、よくよく考えてみれば、ちょっと幼いだけの高校三年生だったのだろう。
少なくともバドミントンには、真剣に打ち込んでいた。
納得のいかない日はあったにしても、しっかりと話をすれば、バドミントンのことなら答えてくれる。
「ああ──終わるな、これ」
「え?」
旭は体を起こし、電光掲示板を見た。
アップゾーンにいる彼女たちからは、コートサイドの得点板は見えないが、スコアはそれで確認できる。
「まだ14-10じゃん」
「いや、あの小さいほうがもう終わってる。あの、やたらうるせーピンクの相方と一緒だよ」
『やたらうるせーピンク』の方は、旭も名前を覚えている。
芹ヶ谷薫子だ。
苗字は、思い出すのに少し時間がかかった。
一年生のわりには、よく考えてプレーしていたのを記憶しているが、華のある選手に食ってかかる益子の悪癖が出て、あえなく撃沈されてしまった。
「ああ……なんだっけ、あの子。シャチハタ……?」
「笹下な。お前人の名前覚えるの苦手な、ほんと」
宮崎の大会の間に、旭から掛かってきた電話を、益子は思い出した。
──馬野山の名前もうろ覚えだったし、石澤の名前もコイツは知らなかった。
「私、泪ちゃん以外に興味ないからね」
「……そういうの、やめろ」
照れる益子の表情を楽しんだ後、旭が再び電光掲示板を見上げると、スコアはそのまま二点ずつ平行移動していた。
(あと五点……『流れ』を渡さないまま、勝ち切る!)
豊橋は力を込めて、ロングサービスを放つ。
受け手は甲だ。
洪と違い、まだ心の折れていない彼女は、何か糸口を捕まえようと、遠い距離から強打に打って出る。
あまりにも単純だ。
機敏に反応した羽咲は、あえて膨らんだヘアピンを洪の前に落とす。
ぎこちない動きで返球する彼女に、羽咲は今度は強くドライブをぶつけた。
(──?)
数巡の間、手持ち無沙汰になった豊橋は、羽咲の挙動に違和感を覚える。
最初のヘアピンが少し長くなったのは、ミスなのか?
(……綾乃ちゃんがこの場面で雑にやるとは思えないし、ミスも多分ない。とすると……)
洪を捕まえて離さないラリーは、わざとそうしているのだろうか。
ひとまず任せようと思い、豊橋はあくまでも羽咲のカバーにだけ、位置を動かす。
洪の精神状態を差し引いても、ネット前のクオリティで大きく上回っている羽咲が、優位のままに彼女を振り回している。
助けに入った甲を押しとどめるように、コースの甘い洪のドライブを、大きくクリアー。
よくバックハンドでこれだけのコントロールができるものだと、豊橋は感心した。
長くなったラリーの最後は、羽咲が洪の足元にシャトルを沈めて、日本ペアがさらに一点リードを広げる。
17-12。
すかさず、豊橋は羽咲に駆け寄った。
「綾乃ちゃん? 今のラリー……」
「ああ──ちょっと、自分の調子を確かめたかったんだ。ゴメンね」
「ううん、いいよ。でも、ここは早く勝ち切ろう」
豊橋の言葉に納得したのか、羽咲は頷いて踵を返す。
背中を見送り、豊橋は改めてサービスの構えに入った。
(……やっぱ、緊張してたのかな? 調子は良かったと思うけど……)
ロングサービス。
うまくいっている流れで、パターンを変える必要はない。
羽咲も自分の試運転を切り上げて、一気にネット前に張り出した。
つい先ほど、彼女の『上手さ』を見せつけられた洪は、どうしても彼女を避ける打球を放ってしまう。
そうなったときに展開される間合いの広いラリーは、豊橋の得意分野だ。
甲の放つ強打も、羽咲は難なく拾ってしまう。
こうなっては、中国ペアに攻め筋が見えない。
21-13。
小さなミスで一点を失ったものの、豊橋の狙い通りに終盤を走り切った日本が、まずは一勝を挙げた。
「よぉし! ナイスゲームだ、豊橋、羽咲!」
ひときわ大きな声を上げ、倉石は二人を出迎える。
実力的にはわからないが、この団体戦の戦略の上で、また決勝トーナメントを見据えた際、大金星と言っていい。
歓喜の交換もそこそこに、仕事は終わったとばかりに羽咲はタオルを頭からかぶり、神藤コーチの待つアップゾーンへ向かった。
豊橋はそのままベンチに腰を下ろし、倉石とささやかな反省会をする。
「本当によくやったぞ、二人とも」
「ありがとうございます──あの小さい子がミスミスで沈んでくれたのが大きかったですね」
「そうだな……」
豊橋は、中国の監督の叱責に肩を落とす洪麗麗に目を向けた。
彼女には辛い一日となっただろう。
第一ゲームでもたついたのも、洪のミスが原因であるし、第二セット以降は消極的なプレーに終始してしまった。
しっかり切り替えて挑まれたならば、あるいは第二セットももつれ合って、第三セットの正念場で、羽咲にガス欠が来ていたら……。
今日の実りは少ないが、それでも、またどこかで戦うことがあるかもしれない。
「うしっ、行くぞ旭」
「はいよ」
首を鳴らしながら、ダブルス2の二人が出ていく。
入れ替わりに、益子とハイタッチした右手をさすりながら、羽咲がアップゾーンに戻ってきた。
「綾乃! お疲れ様」
「うん……お母さん、ストレッチとマッサージして」
「いいよ。どこか張ってる?」
「わかんない……なんとなく、動き悪くて……」
羽咲が上げた両手を掴み、神藤コーチは背中越しに彼女を持ち上げて伸ばす。
「身体、固い?」
「うーん……」
背中を向けたままの娘の肩に手を置き、神藤はそのまま彼女の肩を揉んだ。
それから、身体を回転させて、羽咲の利き腕である左の手を両手で握り、揺り動かすようにストレッチ。
(特に、どこも張ってはないけど……)
「肩肘は? 痛みある?」
「どこも痛くないよ、でも──」
「?」
あんまり、動けなかった……と、娘は呟いた。
(──ああ、そういうことか)
「綾乃。これはアンタが大きな試合に慣れてないからだよ、たぶん」
ウォームアップだけで百パーセントの動きをするのは、案外難しい。
特に試合前の催し事の多い国際大会ともなれば、序盤は身体を本調子にもっていきつつの探り合いが常套手段だ。
実際そういった試合展開になりつつあったが、どちらかといえば点数をもぎ取るというよりも、譲り合うような序盤。
今一つ『ノリ』の悪いまま、試合が終わってしまった──というところだろう。
「豊橋に頼るのはいいけど、試合展開に流されちゃダメ。もっと、自分を強く持たなきゃね」
「うん……」
「さ、応援してきな」
まだ出番が当分先の荒垣は、二人の会話をぼんやりと眺めていた。
前の試合が始まってもいない今から体を動かしていたら、本番では疲れて動けないだろうし、『瞑想』はいいが、寝るなよ──と釘を刺されてしまっては、やることもなく手持ち無沙汰だ。
「まだまだ子供だなぁ」
どことなく嬉しそうに、神藤コーチは言った。
ウォーミングアップの後、益子はコートにしゃがみ込み、靴ひもを結び直す。
旭も、目線の高さを合わせようと膝を折った。
「──最初のインターバルまでぶっ飛ばすぞ。旭、ついて来いよ」
「え?」
「そこでケリを付ける。この試合はそれで終わりだ」
得意の三白眼で中国ペアを睨み付け、益子は左手首を、旭の右手首と合わせる。
──皇国の荒廃、この一戦に有り。各員一層奮励努力せよ──。
「……わかった。サービスは?」
「全部ショートでいい。多少無理でも私が全部返す」
「オッケー、行こうか」
「おう──」
益子は立ち上がり、主審からシャトルを受け取る。
普段ならシャトルに乗せたまま投げ渡すところだが、彼女はそれを右手で、旭に渡した。
母親に疑念を吐き出した羽咲が、少し憮然とした表情で豊橋の隣に座る。
二人とも、試合中に上がった心拍数はすっかり落ち着いていた。
豊橋の方は満点の充実感と、心地よい疲労感はあるが、この舞台で微睡むほど肝は据わっていない。
何より、ずっと目標にしてきた益子のプレイを、こんなに近くでじっくりと見ることができるのだ。
彼女よりずっと遠い場所で、同じようにコートに視線を送る二人がいる。
「……なんか、あっけなかったわな、最初の試合」
「でも、あんなものじゃないかな、多分」
ペアを見捨てたわけではないだろうが、甲美雹の方も、最後は少し諦めたようなプレイが目立った。
とはいえ、それは仕方のないところだろう。
かつての荒垣のように、すべてのシャトルを遮二無二追いかけていては、勝てる試合も勝てなくなる。
部活ならそれでもいいだろうが、これは世界大会だ。
予選リーグは三日連続で続く。
日本は明日ロシアと、中国はポルトガルとの対戦だ。
かの二国の実力差は、ロシアや日本に比べても大きい。
であれば、シングルスに回るにしろ、また洪麗麗とダブルスを組むにしろ、『自分たちの形』でしっかりと勝ち切ることが重要になる。
そのために体力を温存するのは、長い目で見れば正解だ。
「松川さん、このペアは?」
「えっとね……」
松川は手持ちのノートを開く。
四方八方からかき集めた情報が、そこに収まっていた。
「──楊蘭羽と張暁姫、二人とも右利きのラリープレイヤー……ぐらいかな」
首をひねり、困ったような笑みを浮かべて、松川はノートを閉じる。
情報が少ないということは、要するに大した選手ではないのだろう。
少なくとも、同世代で日本最強のペアに伍するほどの実力者ではないということだ。
「荒垣の相手は……?」
「ああ、そこはたぶん強い子が来るよ。張蒼華──あっちの、後衛の方の妹だね」
松川がボールペンで指し示した先にいるのは、姉の方らしい。
「あとはシングルス2が劉知栞、最後が張緋」
ただし、そこまでには勝敗が決着しているだろう、というのが彼女の見立てだ。
倉石の隣に座ったままの志波姫も、代表ジャージを着込んだまま身動ぎ一つしていないし、荒垣は熱心にウォーミングアップをしているが、狼森の方はようやく軽い動的ストレッチを始めたところだ。
それだけ、一試合目を勝ったのは大きいということだろう。
日本の勝利への道程を補強するように、コート上では益子泪が躍動している。
なかば独り舞台と言ってもいいほどに。
(甘いなぁ、おい……)
四ポイントが既に計上されているこの試合で、まだ旭以外にサービスを打っている選手はいない。
ショートサービスを受けて、レシーバーの楊は背の高い益子を避けるコースへの返球を選ぶ。
ちょうど都合よく、益子のバックサイドだ。
天才だか何だかわからない頃の、無気力で制御不能な彼女なら、手の届く範囲の浅いクリアーを、わざわざ見逃すなどしなかっただろう。
しかし今は、後ろからリードを握り締めている飼い主がいる。
「任せて!」
「よ──」
一旦右に掛けた体重を戻し、旭が突進するスペースを空ける。
そこに文字通り『飛び込んで』来た相棒は、中国ペア前衛の張をぶち抜くスマッシュで、五ポイント目を挙げた。
弾き飛ばされたシャトルを拾い、張は交換を要求する。
「やるじゃん」
「ありがと。縦、縦でしょ?」
「ああ」
とかく高身長が話題になる益子泪だが、旭海莉もその点では劣っていない。
矢本・雄勝のペアには平均身長で負けるものの、基本的に彼女たちは、強打で押し込む戦術で頂点に立っている。
その上でセンスにものを言わせ、スピードで翻弄するのが益子なら、旭は精度と胆力で勝負するタイプだ。
益子泪が『悪いモード』に入ったとき、その手綱を握って修正するのは旭の役割で、その任務をきちんとこなせる能力をつけるために、彼女は努力してきた。
ただの『お膳立て』に終始するプレイヤーではない。
張からシャトルを受け取り、サイドを変えた二人は、試合前に示し合わせたとおりの戦術を続行する。
倉石も、この二人の試合ならば、安心して見ていられると思った。
(経験の差か……)
本人に気づかれないように、倉石は少し離れたベンチに座る羽咲を見た。
その隣の豊橋はともかく、羽咲も多少の空白期間はあれど、ジュニア世代から活躍していたプレイヤーだ。
大きな大会の経験は、豊橋よりも多いはず。
しかし益子泪は、やはりそれを上回る。
中国という強敵を相手に、思いがけずに取れた一戦目のあと、血気に逸って二戦目に飛び込むのは、セオリーで行けば愚策だ。
情報のない初物相手の試合なら、なおさら『様子を見る』という考えに至ってもおかしくない。
インターハイで羽咲綾乃に相対した時、益子はその手を選んでいたし、周りが思うほど、益子は自分が『特別な才能』の持ち主だとは考えていなかった。
それを誰かに知って欲しくて、旭にもずいぶんと迷惑をかけた。
そう見せざるを得なかった事情はあるにせよ──。
最初の数ポイントを見るか、一セットまるまる見るかだけの違いで、最初から無鉄砲に突っ込むほど、バドミントンプレイヤーとしては馬鹿ではないし、そもそもそれでは効率が悪く、勝ち上がることはできない。
連戦の中で必要なことは、相手の実力を正確に見極め、最適な『出力』で打ち負かす能力だ。
アクセルを踏みっぱなしでただ加速していくだけでは、視野が狭くなり、ガス欠も早くなる。
(ここぞでエンジンを吹かしていく『見極め』の能力。これは練習では決して会得することはできない……)
自分はここまでのことをしてきた、という『自信』。
周囲からの特別扱いも、望まぬ形ではあるがプラスの『経験』となっているだろう。
その二つがあるから、気負いのない精神状態で、強豪相手の勝負に臨める。
『大舞台を経験する』とは、そういうことだ。
(それと、もう一つ……)
アドレナリンが体中に行き渡り、全身が躍動するような感覚の中で、プレイヤーはしばしばその精度を落とす。
荒垣に対してマッチポイントを握りながら、サイドアウトを喫した、コニーのように。
(超高速で、車はまっすぐ走らない──)
利き腕、利き足などという単純な話にとどまらず、人間の体は非対称だ。
ましてや、日々トレーニングを続けているアスリートの体は、驚くほどに左右のバランスが違う。
正念場で各所の筋肉に残されたスタミナの不均衡も、アライメントの狂いを生み出す要因となるのだ。
そこまで、自分自身をコントロールできるのは、神に選ばれた一握り──それこそ、オリンピックで金メダルを取るような選手のみ。
無傷で十点を奪い、最後の一点を狙って、旭がサービスを打つ。
ロシアとポルトガルの方は白熱しているようだが、こちら側半分の観客席は静まり返っていた。
中国ペアに影も踏ませず、とばかりに、益子は返球を片っ端から打ち落としていく。
数巡のラリーの後、張が果敢に前に出た。
(お──)
益子の悪戯心が起動する。
そんな雰囲気を背中から察知したか、旭は敢えて前衛の張に強いドライブをぶつけた。
この間合いでは、コースを選ぶ余裕はない。
それでも最悪の選択肢は回避しようと、張は益子とは反対のコートに、短い球を落とす。
「任せろ!」
ボディへの仕返しに備えて、左足を引き懐を深く保っていた益子は、咄嗟に反時計回りに身体を翻し──完全にネットに背中を向けた状態から、落ちていくシャトルを叩き上げる。
サイドステップからのバックハンドでは、面が作れずにストレート、張の眼前にしか返せないところだが、わざと遠回りして、追い付ける最大高度よりも十センチほど落ち込んだシャトルに合わせた面は、機敏な回転の角速度を得て、クロスへの返球を可能にした。
虚を突かれた後衛の楊が、慌てて前に出る。
上体を下げつつもなんとか追い付いた彼女は、シャトルの下にどうにかラケットを潜り込ませて打ち返した。
だがそれは、回避したはずの、最悪の選択肢。
二人とも前に出た状態では、彼女の強打に対応できないとみて、楊は細かいステップで重心を戻しつつ、バックステップを踏んだ。
口角を上げた益子は、中国ペアの二人の位置をゆっくりと確認してから地面を蹴る。
「──らッ!」
羽咲でさえ拾えなかった魔球が、楊蘭羽の前に落ちて、それでも回転を止めないシャトルは、ねずみ花火のようにコートを転がった。
尻餅をついた楊には目もくれず、雄たけびを上げて益子がベンチに戻る。
鳥肌の立った腕を、望はジャージの上から抑え込んだ。
寒気がするような強さを見せつけられてはいるが、それでもコート上で益子が発した叫びは、彼女が情熱によって動く内燃機関であることを、如実に物語っている。
気圧されたか、倉石の方は、手を叩く音は大きいものの、話す声は普通だ。
「……益子」
「ん?」
ぼんやりと遠くを見ているような羽咲の代わりに、二人分動いている豊橋からドリンクを受け取り、益子は少し長い間、口に含んでから飲み下す。
「ありがとうな」
「──なにが?」
「いや、……まあ、なんだ。一気に決めてこい」
ゲームに入り込んでいる選手に、これ以上の言葉は邪魔というものだろう。
旭と益子、二人の世界にピンチが訪れるまで、自分に出番はないと、倉石は席に戻った。
インターバルで、選手に『ありがとう』と声を掛けたことなど、倉石は今まで経験がなかった。
その言葉は考えて出したものではなく、自然と口から出たものだが、次に彼女たちが戻ってくるまでには、その言葉が出た『根拠』を用意しておかなければならない。
中国代表を相手にスコンクなどと言う夢を見てしまうほど、第一セット前半の益子泪は圧巻だった。
破壊的と言ってもいい。
もっとも、後半始まってすぐに、そんなバカげた夢は消え失せたが、それでもなお、益子は中国ペアを翻弄し続ける。
圧倒的優勢にも緩むことなく猛攻を続ける益子を見守りつつ、倉石は頭の中を整理する。
彼女がこの戦術──ポーカーで言えば席に着いた途端のオールインを選択した理由は、いくつか想像がつく。
もっとも、益子泪を直接指導した期間はごくわずかだから、それは多分に倉石の誤解も含んでいるだろう。
豊橋と、彼女が大好きな羽咲の金星に感化された、という単純な理由かもしれない。
あるいはもっと狡猾で、膝に不安を抱える荒垣と年下の狼森のために、次に出てくる選手の心さえもへし折りに行っているのか。
姉が目の前で良いように嬲り殺されたとなれば、荒垣と戦う妹の張蒼華にも、影響は出るに違いない。
ただ、倉石が『高校のバドミントン部の指導者』として、この世代の頂点であった『益子泪』という存在に描いている夢の残り香からすれば、もっと違った見方が生まれる。
様子を見る、という絶対安牌とも思える選択肢には脇目も振らず、ただ一つ『勝利』のみを求めて我武者羅に突っ走る。
世代最強の選手がなりふり構わず勝ちに行く姿を見れば、後を受ける荒垣も、観客席にいる望や久御山でさえも意気に感じるだろう。
経験の乏しさや、自らの調子に関わらず、そうした時にチームは、全体が一気に『アガる』──。
もちろん、結果が伴えば、という条件付きだ。
『戦術』と言う言葉には、いくつかのスケールがある。
たとえば石澤や豊橋は、ラリーにおける『戦術』にはそこそこ精通している。
ゲームを勝ち切る、というサイズ感で行けば、志波姫が一枚も二枚も上手だろう。
今の益子がやろうとしているのは、予選を突破し、トーナメントを勝ち上がり、頂点を奪うためのグランドデザイン。
そのように、倉石には思えた。
(そこまで見ているのか……いや、これが『益子泪』のスケールか──)
もう少し、そう言った心の機微について指導しておけば、昨年の夏に、インターハイの椅子を横浜翔栄に取られることはなかっただろうか。
既にデカい木叢監督の顔を、これ以上デカくさせるわけにはいかないと、倉石は眼鏡を拭いて目を見張る。
益子泪から──いや、自ら代表に選んだ選手全員から、学ぶことがある。