力みのない、しなやかなストロークで放たれる強打は、面白いように中国ペアの陣形を崩していく。
一瞬ダブルスの試合であることを忘れるほどだが、楊蘭羽と張暁姫の意識が益子一人に集中した瞬間に、旭が介入する。
友軍の陽動を得てレーダーにも映らず侵入し、精密な『爆撃』を繰り返す様は、まさしくステルスファイター。
(──中国のユースで代表枠を勝ち取るプレイヤーが、視野が狭いはずはない。これは陽動でなく、本気の攻撃だ。だからこそ、決してパワータイプではない旭の強打が、決まっている)
メンツを保てる最低限の得点を挙げつつも、完全に押し込まれた中国ペアは、その背中に焦燥感を漂わせて、自らのコーチのもとへ戻る。
21-5。
日本ペアの二人は、軽く手を合わせた後、お互いの行動を妨げないように少し距離を置いて倉石のもとに向かう。
八面六臂の活躍を見せた代償に、短期的ではあるが大きく体力を消耗した益子は、少し目線を下げがちだ。
倉石はしばらく逡巡したあと、彼女がドリンクボトルを口から離し、大きく息をついたタイミングで話しかける。
「……益子」
「大丈夫、次のセットは少し休むよ。旭、頼む」
「いいよ」
これは、想定したとおりのゲームプランだと言わんばかりに、益子は倉石の干渉を遮るようにタオルを頭からかぶった。
流石に走りすぎだ、と諫めようとしたが、倉石は思いとどまる。
彼女ほどの選手が、肩で息を切って、心拍を落ち着かせようとしているのだ。
何も言うべきではない、と彼は頷いて、旭に話しかける。
「難しい注文だが……益子を出来るだけ動かさず、前半を三点差までに抑えられるか?」
「──やってみます」
旭は、素早く頭の中で計算を始める。
第一セットは、相手の得手不得手などそもそも曝け出させる前に終わらせた。
マラソンなのに、最初の十キロで全力を使ったようなものだ。
その時点では断トツのトップに立てるのは、当たり前のこと。
(泪を動かさない、となると……)
益子を前衛に張り付けておいて、自分が後ろで拾いまわる。
それがベターな手段だろう。
しかし、ダブルスにおいて後衛からエースショットを沈めるのは、ほぼ不可能と言っていい。
ラリーが長くなれば、こちらより体力も残っており、挽回に躍起な中国ペアに有利だ。
ひとまず呼吸を落ち着けた益子の後に続いて、旭はラケットの面を撫でながらコートに戻っていく。
(……流石に難易度が高すぎる。というより、折角掴んだ流れを手放せるか……?)
セットカウントで行けば、ダブルス1の第二セットから三連続で奪っている。
しかも、相手を十本そこそこに抑えての快勝だ。
常識的に考えれば、ここで流れを切るリスクは踏みたくない。
ましてや旭にとっては、長らくペアを組んでいる益子だ。
ケツにムチを入れて、末脚を出させることは容易いだろう。
倉石にとっては、益子自身が旭に『少し休む』と告げたことだけが頼りだ。
旭がどこまで、相棒の名を呼ばずにゲームを進められるか──。
『サウスポーの方が少しガス欠気味だ』と見て、中国ペアは益子に攻撃を仕掛ける。
彼女の返球はほとんどがロビングだ。
倉石の課した『三点差』以上に差が開くと、そこで少しだけ本気を出し、旭と共にポイントを奪い返す。
しかし、二正面攻撃でなければ、旭の強打も決まらなくなってしまう。
(……くそっ、思ったよりきつい。二人を同時に後ろに押し込むのは無理だ……)
相棒の取り返したポイントを受けて、旭はサービスの構えに入る。
(──待てよ?)
相手を後ろに行かせたいのだから、当然ロングサービスだろうと旭は思っていた。
だが、それでは現状を打開できない。
何とかノルマの三点差は保っているが、もう一つのオーダーである、『益子を動かさない』は達成できていない。
(ショートを打ってみるか……二人とも敢えて前に出させて──)
レシーバーの張は、いつ動き出すかわからない益子を起こさないように、旭の頭上に大きくクリアーを返す。
そのシャトルを追いながら、旭は益子に叫んだ。
「泪、センター!」
「──は?」
意味は理解できないが、言われるままに益子はコートのセンターラインを跨ぐように位置を変える。
彼女の長い腕をもってしても、ステップを踏まなければ全てのコースはカットできない。
旭は相棒が指示通りに動いたことを確認して、彼女の頭スレスレを狙ってドライブを放った。
(──っ!?)
風切り音に驚いたのか、益子はほんの少し姿勢を低くする。
サウスポーが寝ている今がチャンスとばかりに、ネット前で平行陣を組んでいた中国ペアも、ちょうど真ん中に飛んできたシャトルに驚いたようだ。
一瞬シャトルが視界から消えたせいで、ほんの少し差し込まれはしたが、フォアサイドで受けることのできた楊蘭羽が、シャトルを面で捉える──と、眼の前にはほとんど棒立ちの益子が居た。
相方がゴルゴ13でなくてよかったと安堵しているらしい彼女のフォアサイドに流してしまえば、叩かれるのがオチだ。
仕方なく、というよりも選択肢を潰された楊は、無理やりストレートに引っ掛ける。
距離の足りないクリアーが、日本ペアのコートのほとんど真ん中に打ち上がった。
「泪、しゃがめ!」
「──はい!?」
相方が凄腕スナイパーでないのはともかく、自分が望のように、割り箸を頭に挿してなくて良かったと、益子は白帯の下に頭を沈めながら思った。
コンマ数秒前まで益子の後頭部があった位置を、不気味な唸り声をあげてシャトルがすっ飛んでいく。
前掛かりに体重を乗せた旭のスマッシュに、楊のラケットを弾いて、シャトルがあさっての方向に飛ぶのを益子が確認したあと。
頭を上げようとしたところで、彼女は相棒のフォロースルーが、かつての自らの後頭部が存在した位置をクリーンヒットしていることに気づいた。
「……お前、これ……」
「なんだっけ、これ。イタリアン──」
「オーストラリアン・フォーメーションな。普通やらねぇぞ、バドで」
思いつきにしては上出来だけど、とボヤキながら、益子は無事だった頭を掻いた。
スコアは6-8。
ミッションはなんとか達成できそうだ、と旭は一息ついて、サービスを打つポジションに、反時計回りに小さく歩いて辿り着く。
(さて──と……)
飛んだり跳ねたりはあまり得意分野でないことを、旭は自覚している。
そういう派手なプレイは益子に任せておけばいいし、彼女の方が上手い。
さっきのスマッシュは練習ぐらい甘い球だったから決まったようなものだ。
少し長く時間を取ってから、旭は再びショートサービスを放つ。
上手くいった作戦なら、続行だ──益子と決めた、ダブルスを組む上でのルールの一つ。
他にも何か条か存在するが、最後の条文は、『ルールは破るためにある』──だ。
(アイ・フォーメーション……)
倉石は、バドミントンといくつかの共通点を持つ競技にも、指導者としての素養を高めるために興味を持っている。
彼女たちが見せた陣形は、同じくラケットを使うスポーツであるテニスで見られるものだ。
本来は正統派のトップアンドバックが彼女たちのスタンダードで、二人とも身長がありテクニックに長けることから、その流動性が高いことが特長だ。
二人が前に詰めた際の、ネット前の迫力は大きい。
(しかし、ダイアゴナルですらない直列陣形では、旭の飛び出しは無くなる……)
利き腕が違うおかげで、守備範囲はさほど狭まってはいないが、この状態での日本ペアの攻め手は、旭が深いショットを打ち、そのリターンを益子がカットする、その一手しかない。
(それを避けるのは容易い。中国ペアは益子のフォアを避けてクロスに……そうか──)
長いロブで返せば、旭は余裕をもって叩ける。
精密にコースを定める時間的な猶予が生まれれば、絶対的なパワーがなくとも崩せるショットになる。
つまりは、速い打球、即ちスマッシュを打つか、あるいは短い打球──ヘアピンを落とすしかない。
(スマッシュコースは三分の二を益子が切っている……旭の正面なら難なく拾えるだろうし、これは案外──)
ダブルスにはあまり見られない、長い球足のラリーが続く。
お互い様子見だが、甘くなった時の危険を感じているのは中国ペアだろう。
前に張り付きっぱなしの楊蘭羽は、後衛の張暁姫がベースラインを往復するのを、ただ見送るだけだ。
もっともそれは益子も同じで、時折思いついたようにステップフェイントを掛けるが、実質はただのウォーミングアップに近い。
前半の攻撃に参加していた旭の方が、より体力の切れ目に近いことは、コート外の倉石にも見て取れる。
(益子にゴーを出すか? いや、ここは旭の粘りに賭ける……少なくともインターバルまでは──)
張暁姫のコントロールが旭を大きく上回っているということはないが、彼女は旭よりもシャトルの打点を低くして、しっかりとバックスイングを取ってサイド気味の角度から打ち返している。
対する旭は、セオリー通りのオーバーストロークだ。
クロスにドライブを打てば、お互いの相棒が待ってましたとばかりにカットに入るだろう。
スマッシュを打ったとしても、この位置からでは角度がつかない。
(攻め手がない、お互いに……根負けしてミスを犯すのを待っているのか? さすがに中国代表に対して、それは甘すぎる。旭は現実主義者だ。何か考えているはず──)
何度となく繰り返されるロビングの交換のなかで、その『変化』に気付くには、倉石の目線は低すぎた。
最初に気付いたのは、『観客席』の松川。
「……だんだん、高くなってる」
「え──?」
「前ごめんやっしゃ」
ついさっき、デンマーク語で『トイレ』が何と言うかをスマートフォンで調べた後、少し席を外していた久御山が、手をポケットに突っ込んで戻ってくる。
視界を遮る彼女の体を避けるように松川は身を捩り、ラリーがまだ続いていることを確かめた。
「ロブ、ですか?」
「うん──下で見てたら、気付かないと思うよ。一番最初のロブよりも、二メートルぐらい高い」
そう言われてみれば、そんな気がしなくもないな……と眉間に皺を寄せて、上がっては落ちていくシャトルの動きを見ながら、望は考える。
旭がだんだんとロブを高くしている、その意味を。
セオリーで行けば、無暗に高いロブを上げる必要性は薄い。
相手の前衛が飛んでも跳ねても触れない、ギリギリの高さを通過させるのが最善であるし、決して特殊なショットではない。
望や久御山だって、事も無げにやってみせるだろう。
特別左右に振り回されて、体勢が悪いわけでもないなら、猶更だ。
「……なんでですか?」
分からないことは訊け、という倉石の教えを遵守する望に、松川は少し面食らった。
自分も分からない、と言うのがひとつ。
もうひとつは、アドバイザーだかコーチだかよくわからない微妙な立場に居つつも、彼女たち選手にとっては指針となるべき『大人』なのだから、何か言わなければという焦り。
「うーん……難しいね、これは。正直ハッキリとはわからないわ」
「『通天閣打法』やろ──」
聞きなれない打法に、望は首を傾げる。
思い当たった松川は苦笑した。
「アレかぁ……確かにこれだけラリーが続けば、シャトルはもうだいぶヤレてるけど……」
古い野球漫画の中に出てきた、突飛な打法。
内野に高くフライを打ち上げて、落下する間にベースを駆け巡る。
強くスピンのかかった打球は、曲がりながら落ちてくる──。
「バドミントンのシャトルで、『回転』はそないにせんと思うけど……」
確かに、と望も頷く。
カットスマッシュを初めとした変化球を巧みに操る彼女でさえ、そんなことは出来やしない。
そもそもバドミントンにおいて、シャトルにそれだけの回転を与えるということは、単純な打撃力をその分減衰させているということだ。
そこまで高く打ち上げられるものではない。
となると──。
「あっ」
風に跳びかけた紙切れを、手で抑えつけるような音がして、ラリーは形を変える。
先ほどまでのクリアーよりもほんの一瞬、旭は待った。
カットスマッシュだ。
コート中央に立つ益子は、対面の楊の視線の変化を見て、位置を旭の対角にずらす。
呼応して、大きく開いた彼女のバックサイドをフォローするように、旭は立ち位置を一歩前へ。
虚を突かれた中国ペアだが、ベースラインから放たれたカットスマッシュそのものは、見てからでも十分な猶予があるから、返球に苦労はしない。
というよりもそのカットは、コースこそ厳しい角度に行っているが、『益子泪のペア』が打ったにしてはキレがなく、球足も中途半端に長い。
一瞬の空白を挟んだことでほんのわずかに差し込まれてしまい、シャトルを下から押し上げるような格好になってしまったせいだろう。
後衛から前に素早くステップしてきた張暁姫は、焦ることなく目の前の益子をやり過ごして、高いクリアーを上げる。
「なんやろ、今の──あっ、またロビングや」
「うーん……前に落とすカットにしては、球足が長いけど……」
(──敢えて、拾わせに行った?)
シャトルの動きを目で追っているうちに、コートサイドの倉石も気づく。
ついさっきの、キレの足りないカットスマッシュのあと。
旭は渾身の力でシャトルを掬い上げた。
観客席の三人が見上げるほどの高さに打ちあがって、シャトルは中国ペアのコートに落ちていく。
(体力的な、……ではないか。長いラリーとは言え、崩し合うというよりも、お互いの探り合いだし……)
恐らくさっきの旭のショットは、ミスではないのだろう。
遥か上空から相棒に向かっていくシャトルを見ていた楊蘭羽が、何かに気付く。
(折ったのか、羽根を──)
腕の振りの速度が同じなら、衝撃を与える時間が短い方が、より強いショットを打てるのは物理的な事実だ。
旭は敢えて、ラケットの面でシャトルを擦るように上から叩き伏せ、見た目にはミスショットとも思える、だらしのないカットスマッシュを放った。
不揃いな羽根のせいで微かに落下点をずらしたシャトルを、『見過ぎて』しまった張暁姫は、スイートスポットを外す。
深さの足りないロブに手を出そうとする益子を制して、旭が前に飛び込む。
彼女のスマッシュに大きく陣形を崩された中国ペアは、長いラリーを呆気なく落としてしまった。
足元のシャトルを拾い上げて、楊蘭羽は旭を睨みながら主審にシャトルを差し出す。
してやったりと言った顔で小さく舌を出し、旭は相棒と拳を突き合せた。
「あと一点」
「わかってる」
7-8。
(ウルトラCだ、こんな……いや、『部活動』の強みか?)
相手ベンチに悟られないように、倉石はノートで口元を隠して笑う。
シャトルは消耗品だ。
しかし、自然の素材を使っていることもあって、その単価はバカにできないほど高い。
行儀のいい選手ばかりならば、特待生をもう一人誘えるほどに。
使い古されたシャトルでノック練習をするのは、普通の学校も、強豪校も同じだ。
中国ペアの二人も、自分たちのホームではそうしていたのだろうが、国家の威信を掛けて臨む大会の前に、随分と長い合宿をこなして来ている。
湯水のように金を使える練習環境だ。
海外メディアの目もある中で、貧乏くさいところなど見せられるはずがない。
日本にしても、A代表の使うトレーニングセンターの設備などは、部活の指導者でしかない倉石達からすれば垂涎の的だ。
(スリックタイヤでオフロードは走れない。精神論は好かないが、時には『泥を喰う』ことも必要だ──長い合宿の間に、牙が鈍ったか……)
時に、恵まれない環境や逆境から花開いた才能に、人は心を動かされる。
今年の冬も、武山達にはうんと厳しいトレーニングを課してやろう、と倉石は思った。
一点差に迫った後、テンションを高めた中国ペアに二点を奪われて、スコアは再び三点差となった。
次も連続失点すれば、そのままインターバルに入ってしまう。
旭もあの手この手で中国ペアを翻弄しようとしてはいるものの、相棒の益子がまだ『整っていない』状態では、押し込まれるのは当然と言えた。
倉石の出した課題である『三点差』は即ち、二点取られる間に五点を取れば追いつけるギャップ。
大きな点差であることに疑いはないが、四点差になるとぐっと厳しくなる。
相手にポイントを与えずに連続得点を決めればいい、というのは早計だ。
現実的には、三点失う間に七点、または二点失う間に六点、といったところだろう。
(だが、そうなると煮詰まった場面でのタイスコアになってしまう。益子の回復を待っているとは言え、コートに入っている以上は万全に戻ることはないのだから、徐々に苦しくなるのはこちら側だ……)
第二セットを奪われてしまえば、追いつかれて戦う第三セットは、精神的にも厳しい状態になる。
益子がロケットダッシュを選択した時点で、そのリスクは当然見えていた。
(なんてことだ──一番冷静でいるべき監督の俺が、焦ってしまっていた……か)
最低限第一セットのインターバルで、益子にブレーキを掛けておけば──。
彼女の勢いに呑まれ、中国ペアは後半早々から第一セットの『捨て』を決めていた節がある。
最後の方でいくつかポイントを奪ったのは、あるいはこのセットのために『試運転』でもしていたのだろうか。
もちろん倉石とて、そういったリスクを理解してはいた。
思いがけず得られた一戦目の勝利に、欲が出てしまったのか。
(『チームを乗せる』──益子本人がそう言ったわけではないが、序盤の試合運びはそうした意志の表れだろう)
要するに彼女は、上手くいった場合のリターンの裏にあるリスクを軽んじていた。
そこをしっかりと意識させ、フォローしていくのが自分の仕事だったのに、と倉石は心中を掻き毟る。
(……益子の回復に賭けるしかない)
指導者としての不覚はひとまず秘めて、倉石はコート上で展開されるラリーを見つめた。
旭は相変わらず、守勢に回っている。
簡単にポイントを落とさないのは、彼女が持つ繊細なシャトルコントロールが存分にできているからで、つまりそれは、彼女の疲労度はまだ危険水域には達していないということだ。
(厳しい──頭が回ってない……)
シャトルを変形させるという場外戦術で中国ペアの背中を掴んだが、結局やり返されて三点差に戻ってしまった。
中国ペアがテンションを上げたのも事実だろうが、一点差に縮めて、あわよくば……と、旭は少し心が浮ついたことを悔やんだ。
ネットに張り付かず、タイミングを伺っている楊蘭羽をちらりと見て、旭は彼女をコート隅に追いやるようなクリアーを上げる。
ペアの張暁姫の方も慎重になっているらしく、ラリーの形が変わるのは楊蘭羽が前に詰めた瞬間だけ、といった様相だ。
(泪を使って──いや、ダメだ。ここは頼らずに打開する)
相変わらず動きのない益子だが、シャトルに対しての反応はしていた。
楊蘭羽の動きにも、重心を少しずらすことで、『かかって来るなら、相手になるぞ』とプレッシャーを掛けている。
一セット分を全力で走り切ることが、その後にどれほど影響するのか、旭にはわからなかった。
そんなことはしないからだ、普通。
ダブルスならなおさらで、恐らく益子も、瞬間的とはいえこんなに重いバテが来るとは思っていなかったのかもしれない。
それはともかく、と旭はシャトルを高く打ち上げて、思考をいったん切る。
後衛の張暁姫が落下点に入り、高い打点からのスマッシュ。
コースは厳しくないし、ベースラインからではたとえジャンピングスマッシュでも、大した角度はついていなかった。
コートミドルへ足を進めながら、旭はバックスイングを整える。
サイドアームで拾ったシャトルを、楊蘭羽の頭上へ──。
(ラウンドなら、強打はクロスにしか来ない……!)
旭は意を決して、益子と並ぶほど前に張った。
パートナーの気配を感じて、益子は右足から体を引き、二歩分後ろへ下がる。
強打を受けるための準備だ。
それぐらいはしてくれるようだと安心して、旭は楊蘭羽のスイングを観察する。
(上げろ──泪のフォア奥へ)
果たして、シャトルは旭の思い描いた軌道で戻ってきた。
後ろがかりの重心移動に任せて、下がって受けようとする益子。
「オーライ!」
ひときわ大きく響いた旭の声に、益子は左足の外側に全体重を乗せて身体を止める。
(……ってお前、バックしか無理じゃん!?)
頭上を通過していくシャトルの先、旭が落下点に駆け込むのを見て、益子は反対側のコートを埋めようと、左足踵でコートを蹴り、低い脚運びで素早くサイドチェンジ。
すんでのところで衝突を回避した益子に安堵しつつ、旭はネットに背を向けて飛び上がり、思い切り身体を捻る。
フォアサイドに回り込む余裕は、なかった。
空中で向きを変え、右足を大きく後ろに振り上げて、旭はバランスを取る。
「──はッ!」
なんとかラケットの表で捉えることは出来るが、どうしてもコルクの先端を『切る』形になってしまう。
しかし、それでよかった。
ラウンドから放たれたカットスマッシュは、先ほどとは違い、大きな下向きの加速度を得て張暁姫の前に落ちていく。
(打開した──!)
倉石は、思わず膝を打つ。
(ストレートならまだしも、掛け違いの雁行陣からのクロスロブを後衛が追いかけるなんてセオリーはない。読み合いで優位に立ってからの、イニシアチブを保った仕掛け……これは決まる)
牛耳っているのは益子泪だけではなく、このゲームそのものだと言わんばかりの大立ち回り。
高い打球の応酬──シングルスならいつでもカットから崩しにかかることは出来る。
(一対二であることを逆に利用したか……中国ペアの油断もある)
もっと強引に攻め込む手もあった。
益子が睨みを利かせているとは言え、シャトルに触っていたのはほとんど旭ひとりだ。
彼女を走らせて磨り潰せば、もっと点差を開いてインターバルに入ることも出来ただろう。
しかし、中国ペアの二人にとって、『抑止力としての益子泪』は、そんな安易な思考を許さないほど強力だったということだ。
張暁姫はもとより、前衛でやりあった楊蘭羽のほうがとりわけ、より第一セットの幻影に蝕まれている。
(益子が再起動してしまえば、勝ち目は無くなる──そんな焦りを打ち消してしまうほど、警戒していたということだろう……ならば意味はあった。確実に──)
ほどなくして、任務完了の知らせが届く。
8-10。
(これで落としても三点差。旭はよくやった、本当に……)
益子泪の『パートナー』だから、只者ではないのだろう。
倉石は特に根拠もなくそう考えていたが、それは今確信に変わった。
しかし、彼が本当に驚いたのはこの後だ。
サーブ権を受けた益子は、思い切り高く打ち上げる。
楊蘭羽が何かに気付き、シャトルを追うステップを緩めた。
アウトだ──明らかにシャトルはベースラインを超えている。
観客席で見ていた望もすぐに気づき、下唇を噛んだ。
(な──)
ふん、と鼻を鳴らして、益子はふてぶてしくベンチに戻って来る。
旭も何も言わず、豊橋からタオルを受け取り、乱暴に顔を擦った後、前髪を指で掻き上げた。
「……益子、ドンマイだ。切り替えろ──」
「その必要はないよ。最後のポイントは『譲った』んだ」
前のセットのインターバルとは違い、すっかり落ち着いた心拍数で、余裕をもってドリンクを飲み干す彼女を見て、倉石は引きつった笑顔を浮かべる。
「譲った、だと? 何故だ?」
「あいつらに気持ちよくやらせないためだよ、後半も」
前半を勝って終えた、逃げ切った──そういう気持ちにさせたくない。
ボトルのストローを噛みながら、益子は中国ペアを見ている。
向こうのコーチは、一戦目の時と同じように、口酸っぱく何かを指示している。
(それは、わかる。頭では……だが、そこまで徹底できるものか……?)
『譲る』ということは、自分の内部から出ていく、自分自身が主体となってコントロールする心の動きだ。
それによって、こちらが乱されることはない。
事実としてポイントを奪われてインターバルに入ったわけだが、スコアは要求通りの三点差に収まっているし、充電を終えた益子は、後半を一気に走り切る用意も整っているのだろう。
「さて、と──旭は行ける?」
「まあ……長くても足止めたラリーが多かったし、多分最後まで走れるよ」
「じゃあ、レシーブ一発目から突っ込むぞ」
──さっきの点はお前らにやったんだ。すぐに取り返してやる。
そう言わんばかりに益子は背筋をぐっと伸ばし、胸を張ってコートを見据える。
時間にはまだ余裕があるが、倉石は、何も言うことはないと二人を送り出す。
中国のコーチは楊蘭羽と張暁姫に対して、大きな手ぶりで話を続けていた。
倉石の次の仕事は、荒垣の状態を見逃さず、最小の労力で勝てる策を授けることだ。
今でこそ多少『小賢しい』バドミントンができるようにはなったが、それでも世界のレベルではまだまだ、荒垣に細かいプレイは無理だ。
精度が悪いなりに組み立てをなぞることは出来ても、その本質は理解できないだろう。
それでは折角の戦術も効かなくなる。
(……ならば、ペースだけはこちらでコントロールしつつ、好きにやらせてみるか)
アップゾーンから顔を覗かせた荒垣を見とめて、倉石は親指を立ててみせた。
同じように彼女が返したサムアップに、倉石は笑顔を作る。
(──お前は、石澤じゃないからな……)
張暁姫のサービスをリターンし、速攻で押し込んであっさりと、『譲った』ポイントを取り返した後。
今度は細かいネット前での探り合いから、益子がテクニックで楊蘭羽のミスショットを誘い、一点差に迫る。
その二ポイントだけ見れば、倉石にはもう十分だった。
再起動が完了した益子は引き続き躍動し、あっさりと三点差を跳ね返してなお緩まない。
四連続ポイントの締めは伝家の宝刀クロスファイア。
羽咲ばりの『速い』球足で張暁姫のリターンを浮かせ、今度は足元に急角度のカットを落とす。
(よし。この試合は、このまま勝てる……)
倉石は少しだけ頭脳の回転を緩めて、ウォーミングアップの最終チェックを終えた荒垣を呼ぶ。
「なに、倉石さん」
一戦目の頃は、まだ表情にも少し緩んだところが見られたが、いよいよ自分の出番が近づいて、声色も硬い。
「いや……」
自由にやれ、と倉石は言うつもりだったが、それだけではかえって思考が凝り固まってしまうだろうと、彼女の心中を案じる。
「相手の情報とか、わかる?」
「ん、まあ──な」
倉石は神藤コーチに目で合図する。
彼女は赤色のファイルを開き、閉じられた中から荒垣の相手、張蒼華のページを見つけた。
「張蒼華、17歳。今やってる暁姫の妹だね」
「ふうん……どんなタイプ?」
神藤は答えを見つけかねているようだ。
数多の選手を見てきた彼女だが、荒垣と対戦したことがある、または想像できるような選手はパッと思いつかない。
倉石が助け舟を出す。
「そうだな……神奈川で言うなら、芹ヶ谷とか……泉も近いかな。ある程度の身長があって、相手の裏をかこうとするタイプだ」
「うーん、そっか……」
公式戦で泉と対戦したことはないが、北小町での現役生活の中で、彼女がどうにかして荒垣に勝とうと、色々な手を繰り出してきた日々は、荒垣の記憶にも鮮明に残っている。
時折、向こう側のアップゾーンから顔を見せる張蒼華をよくよく見れば、確かにどことなく泉と風体は似ていた。
眼鏡はかけていないし、髪の長さも違うが、どことなく、ユニフォームの着こなしや振舞いが──。
「まあ、細かいことは言わんさ。自分で決めようともしなくていい。高いレベルでまとまっていて、良いプレイヤーだとは思うが、今のお前の力を出せば、普通に勝てる相手だぞ」
デンマークに来る前、倉石や神藤コーチは、中国代表は『強い順』にオーダーを組んでくる、と読んでいた。
しかし、ダブルスの二試合を見ている限りでは、どうも逆のようだ。
弱いとは言わないが、経験の少ない選手の順に出しているように思える。
一戦目の洪麗麗はまさにそれであるし、姉妹でダブルスを組む方が何かと都合が良いはずなのに、敢えてそうせず楊蘭羽を張姉妹の姉と組ませているのは、ある程度妹の方は計算が立つ選手、ということだろう。
(当然と言えば当然だ。中国にしてみれば、この四か国の中で二位以内に入ることは容易い。であれば、単純に最初の試合で経験を積ませておくために、セオリーとは逆のオーダーにしただけのこと……)
もっとも、それはある意味で倉石達にも当てはまる思考だ。
経験を積む、という命題は同じで、そのアプローチが違うだけのこと。
もし、ダブルスの順番が逆ならば、益子と旭ははるかに簡単に勝利をものにしていただろうし、羽咲と豊橋は、あるいは破れて星取りをタイに戻されてからの主砲荒垣の出番、ということになっていたかもしれない。
中国と日本の『格付け』が決まったわけではなく、ただ単にマッチアップの掛け違いの結果だ。
そういう目線で、改めてクライマックスを迎えているコート上に目を戻すと、なるほど今一つ楊蘭羽が積極的に行けないのも納得がいく。
フリースタイルなプレイヤーの益子に対して、彼女の持つ経験値ではまだ、抗っていくことが出来ないのだろう。
試合を通じて、受動的なプレイが目に付く。
ダブルスの経験が浅いのかもしれない。
(中国のオーダーの『歪み』を突いての二連勝……おそらくそうなるが、三戦目はどうだろうか?)
ダブルスをふたつ落としても、シングルスの三試合をスイープしてしまえばいい、という自信があるのかもしれないが、こちらも志波姫唯華が最後に控えている。
(野球に例えれば、志波姫はチームを背負う大黒柱、まさにエースだ。益子は試合を決める『四番』だと思っていたが……)
どちらかと言えばクラッチヒッターだと、倉石は認識を改める。
自分で『長打』を打つことも出来れば繋ぎも出来る。
風格やプレイスタイルからすれば、荒垣の方が『四番』らしいだろう。
彼女に試合を決めてもらうために益子は、あえて最短距離ではない道筋で、勝利を目指した。
(──『勝ちたかった』んだろうな……益子泪とて人の子だ)
矢板監督率いる宇都宮学院は、この夏のインターハイ、団体戦には出場できなかった。
益子にとって必ずしも、行きたかった学校ではなかったかもしれないが、それでも旭海莉という理解者を得て、色々と雑音を耳にしながらも戦った三年間だ。
愛着が全くないわけでもないし、彼女へ向けられる視線の余波を受ける周囲への気持ちも、決してゼロではなかった。
(……ある意味、誰よりもこの日本代表で、『勝ちたい』気持ちが強いのだろう)
追いすがる中国ペアに付け入るスキを与えまいと、果敢にフロアに体を打ち付ける彼女を見れば、どこか斜に構えた、又聞きの『益子泪』など、どこかへ吹っ飛んでしまう。
伸びやかにラケットを振り切ってシャトルをコートに沈め、白い歯を見せてガッツポーズで旭を振り返る。
その笑顔が誰かの作り物ではない『本物』だから、観衆は心を動かされる。
二階席で見ている望も、遠くに思っていた彼女との距離が、少し縮まったように感じていた。
(……同じだ、私たちみんな)
何のためにバドミントンをやるのか。
それを得た彼女は、気負いなく、緩みなく、表情豊かに振舞う。
『益子世代』の一員に名を連ねていることを、望は誇りに思った。