一気に流れを強めて行ったゲームの後を受けて、狼森が慌ただしく最終調整に入る。
ベンチに戻ってきた荒垣は、倉石たちの労いを受け、拳を合わせて勝利を噛み締めていた。
(──ひとまずは、これで予選一勝。こうもすんなり行くとは思わなかったが……)
それは、荒垣の二セット目についても、三連勝で一気に中国をうっちゃった事についてもだ。
倉石の経験則でいくなら、荒垣はまさに今、プレイヤーとしての最大成長期に入っている。
基礎を練り上げる時間が終わり、その基礎の上に一気に柱を立てていく──そんな時期だ。
スマッシュを乱発せず、威力は抑えつつコースを狙ってドライブを打つ。
それ自体は羽咲に惨敗してしばらく、荒垣が根拠もなく取り組んだことと、表面上は似ている。
(だが……ある種『逃げ』から生まれたその時のドライブと、今荒垣がやろうとしている『バリエーションを増やす』という『攻め』の意味合いを持ったそれとでは、全く精度が違う……)
何かを『追う』という、ポジティブな精神状態に入ったプレイヤーは強いし、伸びる。
それを再確認することが出来てよかったと、倉石も納得顔だ。
(そして、ここまでは中国のオーダーの『歪み』が、我々にとっていい方向に大きく影響した。ここからの二戦は違う。『逆』が来る……)
思えば張蒼華にとっても、慣れ親しんだ姉とのダブルスではないというリスクもあったが、タイプ的に『受け』から入る彼女にとって荒垣は、相性が悪いと言えた。
攻撃を受けてリズムを作る。
カウンターの起点になることを拒んで、荒垣が『避け』た第一セットはもつれた。
スマッシュの威力が落ちてくる第二セットは逆に『隠し』ていたわけだが、それもある意味で荒垣の『攻撃』だっただろう。
結局糸口がないまま、張蒼華はあっさりと第二セットを落とした。
(噛み合わない、と思ったら無駄に抵抗しない。明日のこともあるが、『プロ』っぽい負け方だと言える……)
中国相手の快勝の余韻が薄れてくると、倉石には一抹の不安がよぎる。
狼森が走り回るコートの上では、それが徐々に具体化されてきていた。
(今考えたことは、そっくりそのまま狼森にもあてはまる……)
アジリティの面で言えば、深川ゆもと双璧を為す。
高校二年生ではあるが、既に世代では日本最速クラスのプレイヤーと言っていい。
ただ、来年のインターハイが『狼森世代の競演』と評されるかどうかは、よくわからない。
(本来『受けて立つ』タイプはトーナメントを勝ち上がりにくい……志波姫は例外中の例外。事実石澤にしても、総合力なら神奈川ナンバーワンと言って良かった。だが、荒垣に敗れた……仮に俺の作戦通り、ヤツが壊れたとしても、石澤が羽咲に勝つ明確なビジョンは見えなかった)
羽咲とやるなら当然体力的な弱点を突くことになっただろう。
カット系を多用する望なら、ある程度羽咲のクロスファイアにもついていける。
もちろんその時点で、『石澤望をインターハイに送り出す』ことは出来ていたわけだから、よっぽど彼女が荒垣の事を気に病んでいるなら、最悪棄権させる手すらあった。
守備的なストロングポイントは、目に見えにくい。
あのインターハイ団体戦、志波姫と望の試合で、彼女が奪った第二セット最初のポイントも、羽咲や狼森ならば拾っていたかもしれない。
だが、それだけだ。
(特に年齢がひとつ下、というのもこの世代ではかなり大きな要素だ。志波姫とて二年の夏はベスト8、もちろん怪我もあったが……津幡はファイナリストの椅子を伺うところまで行っていた)
それは、少なくとも荒垣が出てくるまでは、高校生世代で抜きん出たパワーと言うストロングポイントがあったからだ。
現に、『身体の仕上がり』が揃ってくる三年の春は志波姫が優勝している。
狼森が来年春に身長一七〇センチになって出てくるとは考えにくいが、可能性がないわけでもない。
ただそうなった場合、彼女のストロングポイントは姿を変えているだろう。
今の狼森は、攻撃的な選手とは言えない。
受けに回った彼女のリターンを、劉知栞は時には強引に、時には巧みに流して、自分の手番を離さない。
わずかな緩みを突いて、狼森は果敢にネット前勝負を仕掛けるが、これも上手く劉知栞はいなして距離を取る。
(志波姫は、相手を後手に回したら絶対にスキを見せずにポイントを奪いきる。劉知栞はそこまでのクオリティはないにせよ、同様なタイプだ……)
ずっと『志波姫唯華』を追ってきた狼森には、ひとつ内面的な弱点が生まれてしまう。
世代の看板はずっと益子が担いでいたが、実質上志波姫が世代トップになりつつある──そういった外野の声は、益子の波の激しさや、彼女の振舞いから感じられていた。
そうした強大な壁に立ち向かうべく、常に志波姫に勝つことを意識し、彼女の存在をある種『灯台』にしてきた狼森は、対戦相手を過大評価してしまう。
無意識に相手が『志波姫』と共通するポイントを探してしまい、そこに勝とうとする。
たとえば、今年の夏のインターハイ。
ベスト8を争う試合でマッチアップした時点で、羽咲は豊橋との走り合いを含んだ三試合。
対する狼森は、それほどの有名選手とは絡むことなく、また一回戦をパスしたこともあって二試合を戦っての羽咲戦だった。
残存体力には大きな差がある。
似たようなアジリティタイプであれば、その有利不利ははっきりしていた──はずだった。
事実、狼森は第一セット中盤まで、羽咲を向こうに回して大きくリードを広げる。
試合展開の『分水嶺』となったのは、たった一本のクロスファイアだ。
(外から見ていれば、そんなもの打たせなければいいだけのことだった。調子を変えずに、ネット前のスピード勝負を最後の最後まで逃げずに受け切る。そうすればガス欠が先に来たのは、間違いなく羽咲の方だ……)
現実には、狼森はその一本のクロスファイアを過大評価してしまう。
それへの『対応』に走らされた結果、試合の様相は一変し、羽咲が一気に二セットを奪いきった。
ただ、それは仕方のない事だと、倉石は分かっている。
自分もそうだったから。
(『頂点』に立った経験のない選手は、どうしてもそうなってしまう……)
だからこそ、倉石は寝食を惜しんで選手のために、分厚い戦術ノートを埋めていく。
一番時間を使ったのが望だっただけで、他の選手をほったらかしにしていたわけでは決してないのだ。
そこらの指導者が使っている時間以上に、全員に濃密な指導を送っている。
この大会でもし優勝できたら、来年のインターハイ団体戦前は、『世界で』一番うるさい監督だ、と胸を張ろう。
「なんか、そーゆートコなんだよな……」
試合を控えている志波姫も、狼森の劣勢が気になるのか、アップゾーンを出て行った。
ここにいるのは、完全に集中を切って、テレビの前でゴロゴロするオヤジのような益子と、その足をできるだけ揃えようと苦心する旭。
それに、充実の表情で身体をほぐしている荒垣と、彼女のサポートについている神藤コーチ。
すっかりとリラックスモードに入っている益子に、膝を貸している旭が問いかける。
「──なにが、『そーゆートコ』なんだ?」
荒垣は入念にクールダウンとストレッチを、神藤コーチの手を借りて行っていた。
一応二人の服は乱れていないが、ここにカメラが入っていなくてよかったと、荒垣は胸をなでおろしている。
神藤コーチは、遠い昔に、娘の耳掃除をしていたころを思い出して、少し顔もほころんでいた。
それはもちろん、中国に勝ったという喜びもあるだろう。
「『負け』に意味を求めるヤツって、いるよな……私は嫌いなんだよ、そーゆーの」
「……?」
一瞬、過去の自分の事を揶揄されているのかと、旭はムスッとした。
何で負けたのか、と益子に詰め寄ったことを、いまでも覚えている。
それがある意味転換点になって、益子泪はほんの少しだけ、その軌道を正しい方向に修正した。
「でもあんた、羽咲……に、負けてよかったって言ってたじゃん」
「それは、みんなが見た、負けたっていう『事実』のハナシ。プレイヤーとして私は一ミリも納得してない」
少し声量を上げた益子を宥めるように、旭は彼女の髪を撫でる。
荒垣の状態を確認し終え、二人のために耳かきを探してやろうかと神藤コーチは立ち去っていった。
「負けるには負ける原因があるし、だったらキッチリ測らないとダメだろ、その差を」
アイツそれやってねーじゃん、と益子は、最後の方をゴニョゴニョとぼかして言う。
なんとなく、荒垣の視線を感じたのだろうか。
(……キッチリ測る、か……)
荒垣にも、そうした記憶はある。
それは益子が言うような、戦術や技術がどうこうという細かい話ではない。
全日本ジュニアで羽咲──当時は益子がお気に入りの『神藤』だったが──に完敗して、どうしてあんなに自分の形を見失ったのか。
膝を壊したのも、あの時の無理な練習が影響しているのは間違いない。
(相手の姿をちゃんと見る……)
「白帯の向こうに見えるのは、自分の姿だよ」
きょとんとした顔で振り返る二人に、荒垣は慌てて目を背ける。
「──いいコト言うなァ、お前」
旭も納得した表情で、微笑んで見せる。
それに安心して、荒垣は再び目線を上げた。
「いや──アタシも、気持ちは分かるから」
「……誰の?」
「えっ」
誰だろう、と荒垣は自分の言葉の答えを探す。
益子の気持ち?
それはわからない。
荒垣にしても、親は家に居ないことが多いが、別に絶縁しているわけではない。
狼森とは、プレイヤーとしてのタイプが全く違う。
それじゃあ多分、旭の気持ちが、一番わかるだろうか。
「まあ、誰ってことはないけど、なんとなく……」
最後のポイントを奪われ、狼森は一つ声を上げて、ベンチに戻って来る。
(……うーむ)
倉石は腕組みしたまま、豊橋と神藤コーチに宥められる彼女を見つめた。
原因は、思い当たる。
(『できること』と、『やりたいこと』。そしてこの試合において『できないこと』との乖離が大きい──)
次元は違うが、それは逗子総合に入ってきたばかりの望にも当てはまる。
一年生当時の彼女の身長では、到底強打は通用しない。
ことさらに荒垣と対比して、望の欠点をあげつらうような真似をしたのは、たまたま彼女が荒垣と同じ神奈川出身で、中学時代から試合で顔を合わせる機会もあったからだ。
仮に志波姫が神奈川に居れば、倉石は望に対して『頭を使う前に足を使え』と叱り続けたことだろう。
強打でガシガシと押し込んでいくスタイルに憧れる時期は、プレイヤーの誰しも経験する。
倉石にしても、立花健太郎というプレイヤー──今はほとんどコーチ専任と化しているが──を見た時、自分に彼ほどの身長があったなら、もう少し『高い地点』に立てただろうと思っている。
だが、無いものを嘆くのは簡単だ。
「狼森」
「……なんだばや、監督」
少し苛立ちも収まっただろうか。
伏せていた目を倉石に合わせて、狼森はふんと鼻を鳴らす。
(──今、言うべきことなのか?)
彼女がこの試合で、劉知栞に大きく水をあけられて第一セットを落とした原因は、倉石にはすぐに分かった。
恐らく神藤コーチも、立花も理解している。
(自分の姿を、見ていない。見えていない……)
それを言ってしまえば、狼森のメンタルは崩壊するかもしれない。
自らの不甲斐なさに怒る気持ちも十分以上に理解できるが、それを何一つ整理できないまま惨敗するのは、明日の事を考えても、いい結果とは言えないだろう。
(いや、言わなければならない、か)
倉石は狼森の両肩に手を置き、諭すように言った。
「お前は、誰だ?」
「──は?」
ひとしきり、ぽかんと口を開けて、狼森は犬歯を下唇に刺す。
意味不明な事を言われた怒りを、痛みで抑えつけるために。
「誰って……」
「もっと自分を見ろ。相手を見るのはそれからだろう」
「──」
これで十分だろう、と倉石は手を放して、また腕を組んだ。
主審のコールアップに、狼森はハッとした表情で、踵を返す。
「……行ってくる」
そのやり取りを見届けて、神藤コーチは物憂げな表情で天井を見上げた。
「もうちょっと色々、言うべきだったかな……」
頭を掻き、首を振りながら、倉石は苦笑いを浮かべる。
「あれで十分ですよ──わからなければ、それまでの選手です」
彼女が同意してくれて、痛んだ心が少しだけ和らぐ。
(コーチとして傲慢かもしれないが、俺は『それまでの選手』は誰一人、この代表には呼んでいない……)
あとは自分で這い上がってこい、とばかりに、倉石は久しぶりにベンチに腰を下ろす。
「おーい、距離詰めるなぁ倉石さん。小動物系がタイプか?」
「茶化すなバカ。そういうとこだぞ」
お前たちの方がよほど距離感がおかしいだろう、と荒垣は言いそうになったが、そこでこの二人の仲をおかしくさせるのも、また更に接近させるのもはた迷惑な話だと思い、あきらめた。
「負けちまうかなァ……」
「他人事みたいに言うなよ」
「──あん?」
やばい、と荒垣は思った。
口を滑らせたわけでもなく、それは狼森の心中を慮れば当然のフォローだという自信はあった。
ただ、絶対的な世代の盟主の座にあった選手に、そんな下々の気持ちを分かれと言うのも、無理な話だろうか。
「いや、ごめん。アタシの言い方が悪かった。けどさ、チームなんだから……」
「変な事言うなぁ、お前」
「泪」
怒気を込めた膝の主に、益子は少しもごもごと口を動かした後、言葉を発する。
「……だからさ。私だって別に生涯無敗なワケじゃないんだから。お前より、負けた回数多いよ?」
どうだろう、と荒垣は首を傾げる。
旭は、頭の中で適当に計算して、そうかもしれないと矛を収めた。
ピラミッド状に積み重なっている各種の大会の中で、益子は上位の大会への出場権を確保したら、あっさりと負けてしまうことがよくあった。
もちろん、それは傍目にもあからさまに手を抜いているような試合だったから、彼女のプレイヤーとしての力量には、さほどの疑問符は付けられていない。
そんなことばかりしているから、ひとりぼっちにならざるを得なかったんだろう、と旭はため息をつく。
今はそうではないにしても、だ。
「ま、回数なんてどうでもいいんだけど──私だって負けるんだよ。さっき言ったろ? 負けた時にキッチリその原因を受け止めろって」
「ああ……」
羽咲綾乃に負けた事実はともかく、その原因にはこれっぽっちも納得していない。
益子泪はその敗因を探して、つまりそれが現時点で羽咲綾乃に劣っているポイントだと認識した。
インターハイから今までの期間で、そのポイントを修正することが出来たかどうかはともかく──。
「あいつは、自分の形で戦ってない」
そう言ってディスプレイを睨み付ける益子に、旭は顔面にグーを入れてやろうと思ったが、ことのほか真剣な眼をしている彼女に、ひとまず思いとどまる。
言い方はきついが、それは旭にも、荒垣にも、普遍的に理解できる話だ。
他人との距離を測る前に、まずは自分がいまどのような状態で、どこに居るのかを正確に把握しなければならない。
空高くから自分自身を俯瞰する『もう一人の自分』がいて初めて、それは成し得る。
「狼森は、今……」
「苦しいだろうな──自分が見えてないから、相手も見えない」
「だったら、どうすればいいのさ」
旭は握りこぶしを準備して、膝に髪を擦り付ける益子に問う。
「どうしようもねえよ。一回壊れるしかない」
壊れる──。
荒垣にとっては嫌な響きだ。
それは膝の事ももちろんだが、それよりも『神藤綾乃』に壊されてしまった記憶によるところが大きい。
「バドミントンなんて基本壊し合い、削り合いだろ。メンタルか、物理かは知らねーけど。二人で楽しく遊んでたら勝手にどっちかのオモチャが壊れました、ってんじゃねーからさ。こっちからぶっ壊しにいってるワケだから、全部」
敢えて厳しい口調を選んでいるのだろうということも、その言葉自体も、荒垣にはよくわかる。
倉石と望によって、自分がその標的になったこともあった。
手など抜かれていない。
「あいつが今のまま、唯華を目標にしてる限り、選手として伸びねえよ。もう来年はいねェんだから」
(クソっ……なんでだ……)
自分の情けなさに思わず泣きそうになるが、それよりも、プレイの出来の悪さに苛立つ方が、心の中身を圧迫している。
『自分を見ろ』と言われても、心の蓋を開けて底を浚ったところで、出てくるのは疑問符ばかり。
コートの上に意識を戻してみても、2-8というスコアに、ほとんど心が折れかけている。
(考えろ──とにかく点を獲る、打開策を……)
劉知栞のロングサービスを追って、狼森はステップバック。
コースは厳しいのかもしれないが、彼女の脚力と反射神経をもってすれば、バドミントンのコートは狭い。
(これを返して……──返して……?)
戸惑いを含んだリターンに、劉知栞はラケットを振り抜く。
逆サイドへのドライブカット──だが、追いつける。
「ッッそォ──!」
面の先端付近に引っ掛けたそれは、いびつな軌道で劉知栞の頭上を越えていく。
準備万端と言った面持ちで、彼女はまたしても逆サイドへシャトルを送った。
軌道の低いドライブクリア。
(後手に回ってる、ってレベルじゃねぇや……)
自分がこれほど弱かったのか、と狼森はシャトルを追いながら考える。
今年のインターハイ。
目標にしてきた志波姫にとって最後の夏。
つまりそれは、狼森にとってもひとまずは、彼女を追う旅の区切りになるはずだった。
だが、どこからともなく表れた一年生、羽咲綾乃に負けてしまう。
得意なネット前のスピード勝負、そこで生まれた逡巡から選んだたった一回の『後退』で──。
それきり、勝利の女神に見放されたように、狼森あかねは急速にプレイの鮮度を落とす。
第一セットは、ダブルスコアになっていた時期もあったのに。
あのクロスファイア一本で──じゃない。
(『引いた』瞬間に、それまで防戦一方だったアイツに『手番』を回しちまった……それが試合の流れを変えた)
判断を間違えて、冷静さを失ったという自覚もある。
──本当にそうなのか? それは『間違えた』のか?
突如現れた一年生は、インターハイ常連の豊橋アンリさえも下して、一回戦から勝ち上がってきた。
対する自分は二年生で、まだ二試合しかこなしていなかった。
あんなチビの一年なんて、どうせ体力も切れかけていただろう。
最初からエンジン全開で、ネット前勝負で磨り潰してしまえばよかったのに。
事実、序盤はそうなっていた。
(どうして……『引いた』んだろう、羽咲に……)
その判断は、一見クレバーだ。
結果論でこそ、『間違えた』と言えるだけかもしれない。
あの巡目で何か手を打たなければ、今の自分のように大差を付けられて第一セットを落とし、第二セットも焦りを隠せないまま戦うことになってしまう。
揺れる心は、疲労を増幅させる。
羽咲にとって、『何か』を起こしてターニングポイントを作るなら、あの瞬間しかなかった。
もたつく足を動かして、相手の十八番のスピード勝負に乗る。
そして狼森が『引く』判断をした瞬間を読み、フォア奥へのロブに先手で足を踏み切った。
(そこから、クロスファイア──)
足を止めて冷静に考えれば、『打たせない』という選択もあった。
今まで通りのネット前勝負を続けていれば、羽咲を磨り潰せる。
(でも、『引いた』──当たり前だろ!? データのない相手が大差のビハインドでパターンを変えてきたら、志波姫だってそうする。五種類のクロスファイアがあるとわかってれば、打たせやしねェが……──)
ハッとして、狼森は足を止める。
間延びした走らせ合いの一手でしかない、何の変哲もないロブがコートに落ちたことに、劉知栞は怪訝な顔を見せた。
2-9。
劉知栞が、『無風で勝ち切れる』という確信を得た、狼森のブレーキ。
しかし、試合は一気に流れを変える。
(狼森の雰囲気が変わった──)
ようやく気付いたか、と倉石は口角を上げる。
フィジカルはともかく、メンタル的に狼森の最大の弱点ともいえる、輪郭の見えない相手を過大評価してしまう傾向。
彼女ほどのスピードがあれば、必然的に対戦相手よりも思考時間は長くなる。
素早い出足でさっさと打ち返し、相手がいかに彼女の足を止めようかと思案している間に、次の次の次ぐらいまで一気に形をイメージする。
それは、志波姫と同じレベルに行くために彼女が取り組んでいた鍛錬のひとつだ。
だが、それが今は足かせになってしまっている。
(本来こういった情報の乏しい相手には、とりあえず自分のストロングポイントを押し付けていくしかないんだ。何度もやり合った、同じ日本の高校生じゃない──)
その意味で、荒垣の取った行動は、彼女にとっては苦し紛れでしかなかったかもしれないが、実に正しいと言えた。
それはスコアが証明している。
そしてまた、狼森が第一セットを落とし、このセットも大差を付けられているのも、同じ理由だ。
(しかし、今それは消し飛んだ。点差は大きいし、ここから逆転勝利と言うのは、流石に中国代表は許さないだろうが……)
先ほどまで比べると、狼森のリターンが速く、そして強くなっている。
そこから上手く攻撃に繋げられないのがもどかしいところだが、これだけ速く高い位置でシャトルに触り続けていれば、早晩ミスも犯すだろう。
案の定、差し込まれた劉知栞は中途半端なクリアーを上げてしまい、狼森が上手くサイドライン一杯に叩き落した。
久方ぶりの得点に、ベンチの豊橋も大きな声で彼女を励ます。
3-9。
(相手をデカくするな、ってことか……)
次は何が飛んでくるだろう、と最初から受け身になってしまっていた今までの試合展開を、狼森は素早く頭の中でリプレイする。
勿体ないことだ、と唇を噛むが、悔やんでも仕方がない。
ショートサービスを打ち、彼女は素早くネット前に陣取った。
ここが私のホームポジションだ、と言わんばかりに。
スピードがある代わりに上背のない彼女に対して、劉知栞は冷静さを取り戻して距離を取る。
(ちっと無理やりだが……行けっ!)
「──ッ!」
後ろに跳びながらのカットスマッシュ。
球足は微妙に長いが、劉知栞の体勢を崩すには十分だ。
ここまで、カット系は一本も見せていない。
それだ、と倉石は膝を打つ。
(スピードと引き換えに強打が通用しないなら、カットで補う。それでいいんだ)
ラリーの中で自分が優位に立っている瞬間があれば、本来の狼森はそれを決して手放さない。
それは相手の思考を奪うほどのスピードと、走り負けないスタミナの賜物だ。
粘り強さで言えば豊橋と肩を並べるほど──二年生にして。
完全に『上手くやられた』ポイント以外すべてをモノにして、狼森は劉知栞の背中を伺うところまで寄せて、インターバルに入る。
9-11。
「それでいいんだよ、それで」
首元が蒸れてきたのか、益子は旭の膝から上半身を起こして、胡坐をかく。
ディスプレイを見る目は、さっきよりも随分穏やかだ。
「狼森は結局、スピード勝負しか勝ち目がないってこと?」
「今は、な」
お前も昔はそうだっただろう、と言いたげに、益子は荒垣の方を振り返った。
『技』の極致にいるのが志波姫ならば、『力』にすべてを委ねているのがスピードの狼森であり、少し前までの、パワーの荒垣だ。
多少劣るにせよ、そのどちらも兼ね備える益子が言うことには、説得力がある。
幼い頃から、後の三強は試合で相まみえていた。
当時まだ身体の小さかった志波姫には、容赦なく『力』をぶつけて押し潰す。
身体は大きいが、ややぽっちゃりとして技術的にも未熟だった津幡に対しては、自由にやらせない躱しの『技』で翻弄した。
その三強の関係性が、今もなお続いている、というのが大多数の見方だ。
「一年で十センチも伸びることは無いだろうけど、ここから『上』でやってくなら、絶対にスピードだけじゃ勝てないし……それはアイツも理解してると思うけどね」
「悪い──頭に血が上っちまって……」
「いいんだ、狼森。まずは『自分の味』を出していくことだ。もう覚えただろう?」
うん、と狼森は頷くが、その表情は少し暗い。
インターバル明けは、変貌した──というよりも、これが本来の狼森の姿だが──相手に対応する策を得て、劉知栞は戦うだろう。
翻ってこちらは、打てる手立ては特にない。
「まだ終わったわけじゃないぞ?」
「……んだ、な。頑張る」
とはいえ狼森も、どこかで察している。
劉知栞は強い。
恐らく今まで出てきた中国選手の誰よりも、トータルバランスに優れていて、完成度の高い選手だ。
志波姫とまでは言わないが、プレイスタイルは似ている。
だから余計に、狼森は自分の姿を見失ってしまう。
志波姫に勝つ──高校生のうちには、そのチャンスは潰えてしまった。
フィジカルに恵まれない自分が、上のステージで活躍できる自信もない。
焦りや、喪失感は小さくなかった。
(けど……)
自らのウォームアップもそこそこに、ベンチから戦況をじっと見つめる志波姫に、これ以上みっともないところは晒せない。
「志波姫」
「……ん?」
「もうちょっと待ってろ。……最後まで、戦ってくる」
狼森はラケットを握る手に力をこめて、コートへ向かう。
その背中に声を掛けるでもなく、志波姫は表情を崩さない。
キリっと締まった口元と、涼やかだが意志の強い瞳。
倉石は彼女の心中に思いを馳せた。
(集中に入っている……か。狼森の試合がどうあれ、既に団体としての勝ちは決まっているが、やはり責任感が強い……)
おそらく、狼森は敗れる。
彼女にとって全く収穫のない試合では決してないだろうが、その一試合が、『次』の選手によっては大きく影響する可能性もある。
ひとまず志波姫なら、その心配は薄い。
彼女は当たり前のように、いつも通りの試合運びをするだろう。
試合が再開してすぐに、倉石達の読み通り、劉知栞はスタイルを変える。
速いラリーにはとことん付き合わず、前への誘いも無理には拾わない。
狼森が得点してはいるが、暖簾に腕押しと言った調子で、劉知栞はすぐに失ったポイントを取り返す。
(メンタルが強い……それに試合運びもクレバーだ)
相手の実力を正確に判断する能力が、『上』のレベルでは意外なほど重宝される。
志波姫のそれは、倉石達から見ればまだまだ『慎重すぎる』という評価になる。
自分をやたらと過大評価しないのは美徳ではあるが、謙遜し過ぎるのもまた良くない。
(その一点においては、劉知栞は志波姫さえ上回る。中国のこの世代での旗頭なのだろう……)
彼女と狼森がマッチアップするシングルス2は、倉石達のような高校の部活指導者も頭を悩ませるポイントだ。
ここに気兼ねなくエースを置ける高校は強い。
今回は勝敗がどうあれ最後のシングルス3まで戦うことになっているが、高校の大会では三つ先勝すればその後の試合は無くなってしまう。
だから、エースはシングルス1に、というのがセオリーだ。
だがそうすると、ダブルスとの重複エントリーができないというデメリットがある。
フレゼリシア女子のように数十人もの部員を抱える強豪校ならそれでも問題は無いだろうが、倉石の逗子総合や、横浜翔栄、宇都宮学院では、そうはいかない。
芹ヶ谷・笹下と言う世代屈指のペアを擁する港南高校は、自動的に彼女たちをラスト二戦に配置したし、横浜翔栄も同様だ。
(当然リスクはある。シングルス1までで決まってしまうことはもちろん、そこに『一段落ちる』選手を配置して、相手のエースにコテンパンにやられてしまったら……)
高校生のレベルで、前の試合の『流れ』を断ち切って、自分の試合に集中できる選手はそう多くない。
荒垣は第一セットこそ難渋したものの、第二セットからはうまく自分のペースを掴むことが出来た。
対して狼森は、彼女の試合の流れを悪い方向に『切って』しまう。
自分のストロングポイントに縋ることは悪い事ではない、むしろ材料が揃わないならそうするのが自然だと、認識するのが遅かったのだ。
(だが、そこにきちんとフォローを入れなかった我々の責任は大きい。勝ちが決まって浮かれていたわけでは決してないが……)
スコアは絡み付きながらどんどんカウントアップしていく。
とうにデュースにもつれ込んでいるが、狼森の脚に衰えは見えない。
第一セットで、彼女が脚を使って追い込んでいくシーンはほとんどなかったから、当然と言えば当然だろう。
ここに至っても劉知栞は冷静そのもので、上手く狼森の矛先を逸らしながら、必ずマッチポイントを先に握っている。
どうにかこうにか追いついている狼森だが、肩で息をしていて、サービスの間合いも長いところから見ても、限界は近い。
表情は充実しているが、敗北の事実はきちんと受け止めなくてはなるまい。
それは狼森だけではなく、倉石達コーチ陣の責任でもある。
ホテルに戻ったら、きちんとフォローを入れてやらねばと、倉石は自分の不徳を恥じる。
「──志波姫」
名前を呼ぶと、ワンテンポ遅れて顔を上げた彼女は、倉石に笑顔を見せる。
「なんですか、監督?」
「すまない。勝ってくれ──普通じゃなく、勝ってくれ」
きょとん、とした顔を見せた後、志波姫は意味深な含み笑いを見せて、返事する。
「もちろんですよ?」
「……頼む」
倉石がコートに目を戻すと、試合は終わっていた。
ネット前に飛び込んだ狼森に、劉知栞は手を貸し、彼女の肩をポンポンと叩いて、健闘を讃えている。
26-28。
審判と握手の後、コート中ほどでぐっと背中を逸らして、狼森は息を吐く。
何かを吹っ切ろうとしているような。
そうしてぐるりと観客席を見回して、望たちの角度で一瞬目線を止めた後、もう一度息をついて、コートを後にした。
「わりい、監督──負けちまった」
「……よく戦った」
今は、それだけでいい。
神藤コーチが彼女の肩を抱き、アップゾーンに下がる。
変わってコートに立つのは、日本のエース──。