「しかし、静かだな……北欧の建物は壁が厚いと聞いていたが」
これはちょっと、日本のビジネスホテルとは比較にならない、と倉石は感心した。
それだけ、選手たちも質の良い睡眠を得られていることだろう。
「あいつらって、あんまり騒がないですよね……」
コーチ陣の中では一人だけ『若手』と言える立花が、度数の低いヨーロッパ特有の白ビールを呷る。
「今の若い女子選手は、だいたいそうだよ」
神藤も調子よく、中ビンを空にしてお代わりを物色しているが、松川の方は記事の作成が忙しいらしく、しきりにパソコンのキーボードをたたいては、腕組みをして画面とにらめっこしていた。
「うむ……俺も毎年合宿に連れて行くが、宿舎に迷惑をかけるようなことは全然ないな。そういう意味では、手間はかからない」
体育会系の色合いも、時代によって変化している。
倉石や神藤が高校生の頃は、それこそ男女関係なく平手打ち程度は当たり前で、反発する部員の側も、取っ組み合いの喧嘩に飲酒や喫煙など、不祥事には事欠かなかった。
「血の気が多いってことが必ずしも悪いわけじゃないが……立花君の歳なら、もうそういうのはなかったか?」
今の時代は、ありがたいことにバドミントンという競技への注目度も高まっていて、そうした外部の目も意識してか、指導者も選手も言わば『リテラシー』が高くなっている。
「そうですね……酒ぐらいは、家で飲んでましたけど」
「だよなぁ」
そもそも日本では二十歳にならないと、飲酒は出来ないことになっているが、デンマークでは度数の低い銘柄のビールなら、十六歳からスーパーで買える。
「飲むのに年齢制限はないしね……タバコは流石に十八からだけど」
「優勝したら、祝いで飲ませてみるか」
倉石の悪巧みに、神藤コーチと立花も調子を合わせる。
「そりゃいい。綾乃に買って来させよう」
『はじめてのおつかい』だ、と神藤は笑い、二本目のビールを早くも半分開けた。
「でも、まあ……益子が案外上手くやってるようで、俺はそれが結構意外ですけど」
膝の状態を見極めるということもあるが、試合会場の外でも立花は、荒垣と会話を交わすことが多い。
彼女の口から益子の話が出る頻度も多いのだが、それは立花が抱いていたような『一匹狼』のイメージが強い益子に対する先入観を、少し変化させている。
「石澤からも聞いてるよ。意外と人懐っこいし、喋りたがる、って。志波姫の方は、相変わらず距離が近くて困る、と言ってたが……」
望と志波姫。
明日は大事な一戦目を任せることになっていた。
「上手くいきますかね、あの二人……」
記事がひと段落したらしく、松川は自分のぶんのビールを冷蔵庫から取り出し、封を切る。
切れの良い音が響いて、彼女はグラスの八割ほどまで、一気にビールを注いだ。
「『逗子総合の石澤』と『フレゼリシア女子の志波姫』じゃあ、難しいだろうな。お互いに価値観が違う」
ただ、倉石は望の方については、それほど心配はしていない。
宮崎の大会を終えてからも変わらず練習に顔を出し続けていた彼女は、格段に戦術面で進歩していた。
来年のエースと目される武山を歯牙にもかけず一蹴し、おかげで最上級生となった二年生たちも、尻に火が付いたようで、今頃も練習に熱を入れていることだろう。
「志波姫は、早い段階で完成され過ぎた」
空になったグラスをテーブルに置き、倉石は僅かに残ったビンの中身を全て空けた。
これは俺の持論だが、と前置きして、彼は語り始める。
「例えて言うなら、ひとつの街のようなものだ。荒垣や狼森には、ひとつの大きな『中心街』がある……」
それはバドミントンにおけるプレイヤーとしてのコアになるものであったり、精神的な拠り所の面でも、彼女たちには土壇場で頼るべき武器が明確にある。
望や志波姫は、どちらかと言えば先に区画整理をしておいて、そこにきちんと計算して建物を建てていくタイプだ。
今の望はまだまだ『土地』に空きもあり、いくつかの街路を取り壊して、街の一部を作り直している段階にある。
それに対して、志波姫の街は既にほとんど完成されつくしていて、あとは難易度が高くコストもかかる『高層化』ぐらいしか、人口を増やす手立てはない。
「ジュニアの頃から、そういうタイプでした。戦術面の傑出度は世代でピカイチ……」
松川も補足する。
そして、先輩の記者が言っていたことを、思い出した。
『いい時が早いか、ダメな時が早いか……ずっといい時の奴はいない』──。
それは全小準優勝を飾った益子泪を評しての言葉だが、彼女は少し背筋に冷たいものを感じる。
(『今がピーク』なのは、志波姫唯華の方……?)
もちろん、当時の志波姫唯華と言えば、同郷の美里さきよりも背が小さく、成長の早い同世代のライバルに対して、戦術や技術を磨くことで勝っていた選手だ。
そうして彼女はフレゼリシア女子に進学し、自身のバドミントンの『高層化』に成功した。
そうでなくては、選抜の優勝も、団体戦でのインターハイ制覇も成し得なかっただろう。
自分が長いこと見てきた選手だから、肩入れしているわけではない。
「俺は志波姫を見ていると、ときどきこういう思いが過るんだ。──もうこいつは、『引き際』の淵を見てしまっているんじゃないか……ってな」
中国に勝った日の夜にする話ではないか、と倉石は頭を掻きつつ、皆に頭を下げる。
だが、彼の言わんとするところは、短期間ではあるがコーチとして彼女を見ていた神藤には、よく理解できたようだ。
二十歳になっても身長が伸び続ける人は多くいるし、志波姫の『街』が過密化の限界を迎えたわけでもないだろう。
ただし、人間の身体はその年齢から、早くもパフォーマンスを落とし始める。
神藤有千夏が如何にしてそれに抗ったのか。
二十三歳からの全日本総合十連覇という偉業を成し遂げるために、彼女はとてつもない熱量を抱えて、それまでのバドミントン人生は、いわば負け続けてきたわけだ。
「……あの子が、『むこうぶち』に渡らないまま、選手として終わる可能性はある」
とことん自分のエゴを削ぎ落し、フレゼリシア女子の大所帯をその『街』に収めることに腐心していた二年半の間、荒垣は自らのランドマークを築き上げ、望は凡庸ではあるが精緻な箱庭を作り上げた。
乾いたスポンジが水を吸うように、志波姫の指導を受けて成長した選手は、かの高校には言うまでもなく多い。
これから数年間は、そうした遺伝子は活力を失うことなく機能し続けるだろう。
ただその裏で、志波姫自身は誰から、何を得たのか。
「そうさせないように、私もしたいよ。でも……それは大人がどうこう言ってなんとかなるもんじゃない」
エゴを目覚めさせる為には、負けることだ、と彼女は呟く。
負けた回数が多いほど、自分の中で耐えられなくなっていく。
バドミントンが嫌いなら辞めてしまえばいいだけだ。
しかし、少なくとも今デンマークに来ている九人は決してそうではないし、ならばただ単純に『勝ちたい』という気持ちを動かすための燃料を、どこかで補給しなければいけない。
負けを受け入れる傾向がある、と言うのは、宮城の決勝やインターハイを見るまでもなくわかる。
益子泪に対しても負け越してこそいるが、試合終了のあとに膝が笑って立てなくなるほど疲弊した試合など、一つもなかった。
それはどこかで彼女がブレーキをかけ、最後まで自分のスタイルを崩さなかった結果だ。
彼女にとってそれが『フレゼリシア女子の主将』としての矜持なのだとしたら、そこには疑問符を付けざるを得ない。
全力を出し尽くして、それでも納得できない『負け』を経験しなければ、志波姫唯華は今のままで終わってしまうだろう。
「そういえば、私がコーチに行く前に一人、辞めた部員が……」
「ああ──」
そのことは、記者の間では少し話題になったと、松川が答える。
大所帯の強豪校には珍しく、上下関係も薄くみな仲の良いと評判のフレゼリシア女子で、故障や家の事情でなく辞めた部員が居るという噂は、彼女たちのような職業の人間の耳目を集めた。
「名前は、知らないけど……事の顛末は、矢本や雄勝から聞いたよ」
当時その部員と最も仲が良かったのは二年生の多賀城らしいが、神藤が何より驚いたのは、亘監督でなく志波姫自身が、その部員に退部を勧告したという話だった。
大雑把に言えば、『純真必勝』の旗印のもと、スタンドもコートの別もなく一致団結して戦う『家族』の中で、その部員の存在は、言うなれば異物だったということだ。
フィジカルは恵まれなかったが才能はあり、ダブルスの編成によってはレギュラーを脅かす『一軍半』クラスの二年生。
順当に行けば、来年のフレゼリシア女子のオーダーには、間違いなく名前が入っているだろうと思われた。
ただ、『順当』には行かなかった。
その部員はもともと志波姫に憧れて入ってきたらしく、ある時までは希望を抱いて練習に励んでいたそうだが、いつかどこかの地点で、自分の将来性を疑い、歩みを止めてしまう。
志波姫も亘監督に直談判して寮を同室にしてもらうなど、色々と手を尽くしたらしいが、結局最後には──。
「要するに、『勝利を追わない部員が居ても、ここでは何もできない』と」
「──辞めさせた、ってことですか?」
「ああ……まあ、そうなるな」
なんとも、と立花は首を傾げる。
あれほどの強豪だ。
中途半端なメンタルではついていけないレベルで我武者羅に猛練習──というタイプの高校ではないが、それでもそこで発せられる『熱量』に違和感を感じてしまったら、それはとても居心地の悪いことだろう。
辞めた部員も、そうした不如意感を拭えないまま練習を続けるよりも、結局はその方が幸せだったと言えるかもしれない。
「うーむ……」
少なくとも立花が見ている限り、志波姫は『朗らか』な人間だ。
周囲に気を配り、また彼女自身はある意味『上』のレベルにいるとしても、それを気遣わせない細やかさがある。
かといって物静かと言うわけでもなく、どちらかと言えば快活で、才気に溢れている。
「まあ……俺には少し、分かる」
逗子総合は、フレゼリシア女子に比べれば部員は少ない方だ。
全員が特待できているわけではないのは、どちらも同じだが、その『敷居の高さ』で言えば、フレゼリシア女子よりもずっと低いだろう。
だからときおり、思った以上の『勝利の追求』に違和感を感じて、モチベーションを下げてしまう部員も出てくる。
もちろんそうした選手は何かしら兆候が見られるし、それをキャプテンが倉石に談判して、最終的にその宣告をするのは指導者である彼の役割だった。
幸いにして、望がキャプテンである間は、そういった『戦力外通告』はせずに済んでいたが……。
ただ、主将とは言えそこまでの覚悟を、同じ立場である一人の部員に持たせるというのは、少し重すぎてはいないか。
その『重圧』から解放された時、空気の入りすぎた風船が弾けてしまうように、全てを失ってしまうことにはならないのか。
ともあれ、そうした部員がたまに出てきてしまうことや、結果的に途中で退部してしまうことは、一定のレベル以上の強豪校では、よくあることだ──それ自体は。
「……その時、かな」
すっかり空になったグラスを手で回しながら、神藤は物憂げに呟く。
もしその時、志波姫がその部員を辞めさせなければ、彼女はもっとエゴを強く持てた。
『フレゼリシア女子の主将』という立場が、歩みを止めて手を差し伸べることを許さなかった。
例えば彼女がただの一部員ならば、その部員が結果的に辞めるにせよ、続けるにせよ、その責任を負う必要はない。
もっとその部員に時間を割いて、なんなら隣に立ってのダブルスででも、『勝つ喜び』を教えてやることが出来ただろう。
「だけど、その子が憧れていたのは、志波姫のプレイじゃなく、『志波姫唯華』そのものだったんだよ」
その部員を救うためには、彼女は『フレゼリシア女子の主将』であってはいけなかったし、『フレゼリシア女子の主将』でないならば、それはもはや、志波姫唯華ではない。
同じ形のエゴは、絶対に重ならない。
ぼんやりとした意識の中、望は枕元の携帯電話を手探りで探す。
画面を確認して、望は自分が腹が減って目が醒めたのだと気付いた。
(……)
随分呑気なものだと自嘲しながら、両手を万歳してぐいと背を伸ばして周りを見る。
「あれ、益子も豊橋も居ない……」
とりあえず顔ぐらいは洗ってから、この腹の虫を退治しに行こう。
テーブルに置かれたタオルを掴んで首にかけ、望はトイレに向かった。
「──お!?」
パジャマをずり下ろして便座に腰掛け、難しい顔でスマートフォンを弄っている益子と目が合う。
「うわ、ごめんっ」
望は力いっぱい、ドアを閉める。
フロアの隅の方にも、共用の洗面所があったはずだ。
ひとまずそこに向かおう。
「……泪」
「いや、悪かったって、な? 石澤」
「あ、うん。そんなに気にしてないから……」
洗面所で旭と出会った望は、ついさっきの出来事を子細にわたり彼女に話してしまった。
もちろん望にとっては特に益子を糾弾する意図はなく、旭がこれほど怒るとも思っていなかったからだが。
とりあえずは、益子はあまり見たことのない顔を見せて、望に謝意を示す。
「ウチの寮じゃねーんだって、ここはよ」
「ごめんなさい」
旭がこうなってしまうと、益子もいつもの調子で軽口を返すというわけにもいかないのだろう。
宇都宮学院だったら、トイレに入る時に鍵を掛けなくてもいいのかという疑問は沸いたが、ひとまず望はそこにツッコミは入れないでおいた。
いい加減空腹にも耐えかねていたし、ドアを開けた瞬間の益子は、望の食欲を減衰させるような状態ではなかった。
「まあ……ご飯行こうよ」
「そうだそうだ。旭も一緒に行こうぜ?」
「はいはい……カレーじゃなきゃいいけど」
「大はヒネってねぇっつーの」
苦笑しつつ二人を促す望に、旭もようやく矛を収める気になったらしい。
木造りの手すりに頼りながら階段を降りると、食堂兼ミーティングルームからは既に美味しそうな匂いが漂っていた。
幾人かの選手が、それぞれに料理を物色しつつ歩き回っている。
「おぉ望ちゃん、おはようさん」
「おはよう、久御山」
久御山はもう二度と『GREEN TEA』にチャレンジする気はないらしく、いくばくかの逡巡を挟んで、結局水をグラスに注いだ。
まだ起きたばかりで胃腸が目覚めていない望も、刺激の少なそうなリンゴジュースを選ぶ。
特に全員揃って食事をしろと言う指示があったわけでもないが、少し遅れて羽咲と荒垣が来て、全員が揃った。
夜の試合を控えて皆会話は少ないが、それぞれに凛とした空気を纏い、栄養補給に励んでいる。
オーダーから外れている荒垣は、サラダにしろ肉料理にしろ、親の仇のようにてんこ盛りにした皿を次々と空にしていった。
「荒垣、そんな食べたら太るよ?」
つい余計なことを言ったと望は後悔したが、荒垣は特に気にせずさらりと返す。
「大丈夫、練習で動くし。それに、アタシはあんまり食べても太らないから」
こんな奴ばっかりかよ、という恨みをこもった重い空気が、旭と豊橋の方から流れて来た。
果たして自身の宣言通り、試合にも出ないというのに一番乗りで練習コートに立った荒垣は、志波姫と望の立つ相手コートに向かって、立花と共に強打のシミュレーター役をこなす。
もう十分すぎる、と望はいったんストップをかけ、コートを出た。
「……強い」
「まあ、あの二人じゃね」
あっけらかんと笑う志波姫を見ていると、望もどこか安心感が沸く。
彼女の『流れ』にただ乗っかるだけではいけない、という気持ちは持っているが、それでもダブルスのパートナーとして、居心地の良い雰囲気を作ってくれるのは、素直にありがたいと思う。
「石澤、志波姫──」
いつものノートを片手に、倉石が二人を呼ぶ。
壁にかかった時計は、もうあと十数分で第一試合が始まることを示していた。
「大事な一戦目だ。お前たちはどうやって勝つ? あのロシアペアに」
「……」
倉石は、おそらく志波姫が何か言うだろうと思って彼女の方を見ていたが、意外にも口を開いたのは望の方だった。
「強打で押します」
「……あのな」
呆れたように首を振って、倉石はノートで自分の肩を叩く。
どこから話を付けようかと迷ううちに、先に二の句を次いだのは望の方だった。
「通用する、しないはわからないですけど──『勝てる強打』を探します」
「ほう……」
思ったより考えての作戦なのだろう、と倉石は理解した。
望のことは良く知っている。バドミントンプレーヤーとしての彼女だけではなく、普段の一人の高校生としての彼女のことも。
性格はどちらかと言えば控えめで、進んで他人の前に立つタイプではない。
倉石自身も、そうした役割を求めて、彼女をキャプテンに指名したわけではなかった。
単純に、その年の逗子総合の中で一番上手い選手だったから、というのが本音だ。
もちろん、そのことを周囲も認めている、という条件をも満たしていた。
それはつまり、何かプレーの上で彼女を叱れば、他の部員も我が事として受け止めるだろうという倉石の考えだが、いまや日本代表の一員となった彼女は、その集団の中で『一番上手い』わけでは決してない。
一番上手いのは、今隣にいる志波姫か、スタンドで眺めている羽咲に熱い視線を送っている益子のどちらかだろう。
「『考えなし』というわけじゃあ、なさそうだが……厳しいぞ?」
「はい。──それに、『自分のバドミントン』でもないと思います。けど……」
「まあ、まだ時間はある。自分の整理がついているところまででいい。話してみろ」
あれだけ拘っていて、ついに捨てきれなかった『自分のバドミントン』。
今からやることは、それとは相反すると望自身が認めている。
だのに、それをやろうとしている彼女に、倉石は端的に興味を持った。
「序盤は普段通り、前後で振っていきたいです。でもどこかで、絶対に決まるシチュエーションで、フルパワーで一本見せたい、です」
「ふうむ……なるほど」
倉石は、望の意図を迅速かつ正確に読み取る。
つまり彼女は、志波姫戦で羽咲が最初に打ったクロスファイアを、体現しようとしているのだ、と。
もちろん右利きの彼女には、あのクロスファイアは逆立ちしても打てないだろう。
ただ、当時観戦記を書いていた松川や、当の対戦相手である志波姫でさえ見誤ったように、最大限誇張できるタイミングで強打を放ち、それが『最高出力』だと思わせることが出来れば──。
「お前らしい、と言えばらしいな……」
上背がないせいで、絶対的な打球速度はロシアペアに劣ることは間違いない。
だが、彼女にはシャトルの『伸び』という、数値化されにくく、その割には残像が残りやすいストロングポイントがある。
(野球でもそうだ……一六〇キロのマシンを高校時代から打つなど珍しくもないのに、プロに入ったら一四〇キロにさえ詰まらされる。打球判断の猶予も、スイング時間も短いバドミントンなら猶更、それは効く──)
「いいだろう、やってみろ」
頭に浮かんだ疑問点には敢えて触れず、倉石は教え子が考えた作戦を認めてやった。
(だが、どうやって『絶対に決まるシチュエーション』を作り出す……?)
シャトルコントロールに長ける望に、戦術面で抜きん出たものを持つ志波姫が寄り添うこのダブルスならば、その状況を作り出すことは容易いだろう。
だが、本当にそれを『真実の瞬間』にすることが出来なければ、ロシアペアの『過大評価』を引き出すことは出来ない。
チャンスは、たった一回だ。
両国国歌の演奏のあと、わずかなウォーミングアップを終えて、試合が始まる。
オープニングサーバーはロシアのイリーヤ・グレヴィッチだ。
金、というよりは白に近いポニーテールをわずかに揺らし、ショートサービスを放つ。
受け手の志波姫は、軽くはたいてサーバーの足元へ。
出足をくじかれ、前につんのめるような格好で返球したイリーヤだが、上背と腕力に物を言わせて、シャトルをベースライン一杯まで叩き返す。
「オーライ!」
ロブに反応して下がったのは志波姫だ。
望はコートミドル左をキープしながら、対面に出て来たイリーヤの飛び出しを警戒する。
イリーヤと違って黒髪のノンナ・チェルネンコは後衛に陣取り、志波姫の返球を待つ。
オーバーストロークのトップを作り、志波姫は下目に相手コートを睨んだ。
(雁行陣──初手は『探り合い』をお望みかな?)
得たりとクロスにロブを返し、志波姫は前に出ることもなく相手を伺う。
それを追うノンナの大きなストライドは、長い脚の賜物だろう。
(機敏とはとても言えないけど、スピードはある……)
足音も豪快だが、スイングもまた速い。
驚くべき上昇速度で視界から消えたシャトルを見上げ、今度は望が下がって追いかける。
望、と声を出そうとして、志波姫はやめた。
(後ろへの反応がよくなった……? ただ、望の『進化』を見極めるには、この返球──)
味方後衛の動きに呼応してサイドチェンジしたイリーヤの目線から、志波姫は彼女の行動を予測する。
(ドライブはコース切られてる。クロスロブか、ストレートにカット……)
望が選択したのは、後者の方だった。
丁寧にシャトルをストリングスに纏わせ、キレよりも変化量を追求したカット。
世界レベルで『速い』返球に対してもそれができればいいが、と倉石は、まだ主導権の動かないラリーを見つめる。
飛び出しを意図していたわけではないだろうが、球足の短いカットを拾うのは前衛の方が都合がいいと見て、イリーヤがネット前を走る。
落下量の多さにあわててひざを折り、重心を下げ過ぎた彼女の返球は、ちょうどホームポジションあたりへの中途半端なシャトル。
(ラケットを抉った──)
当然志波姫も、呼応して彼女について行っている。
バックのサイドストロークから軽くはたいて先制点をモノにするには、おあつらえ向きのシチュエーションだ。
1-0。
「よしっ──!」
ハイタッチを交わすコート上の二人を見て、立花は満足げだ。
倉石にとっても、教え子が世界大会に初出場した試合で、これまた初めてダブルスを組む相手と共に最初のポイントを危なげなく奪うことが出来た『事実』は、喜ばしいものではあった。
ただ──。
(悪くない、のは悪くないが……石澤のカットを一球見れば、このレベルなら相手は対応してくる)
思いのほか沈んだカットスマッシュに対して、ロシアペアの前衛・イリーヤ=グレヴィッチはシャトルのミートを逸らしてしまった。
その結果の甘いボールを志波姫が軽く叩き伏せ、傍目には望の変化球が十分に世界レベルでも通用することの証左のようにも思えたが、事はそう単純ではない。
コート上では望がサービスを打ち、より前への意識を強めたロシアペアを、精度の高いロブで押し留めるという日本ペアの形が出来上がっている。
ベースラインにいったん押し込まれてからのスマッシュでは、さしもの高身長を誇るロシア選手でも、そうそうエースショットを打てるものではない。
自然にラリーは長くなり、精度の高い日本ペアがミスの少なさで徐々にスコアを走り始める。
6-3。
(ここまでは、ロシアペアに有効な強打を打たせていない……コート奥からではたとえスピードがあっても角度はつかないし、そもそも守備の固い二人だ──このスコアは予想の範囲内……)
アンティシペイション、即ち『相手のショットがどこに来るか』を予測する能力にかけては、志波姫は世代の最前線にいる。
今回の相手であるロシア選手たちと比較して、同等以上の強打を持ちながら総合力においては遥かに優れたコニー・クリステンセンを相手に、もう少しで喰ってしまえるところまで粘ったというのは、彼女の戦術、とりわけ『予測力』によるところが大きい。
また望も、最初のポイントで得た自分のカットへの手ごたえを実感しつつ、この大舞台にも気後れすることなく、自らの実力を遺憾なく発揮している。
(……遺憾なく……遺憾なさすぎる──妙な印象だが、そんな感じだ)
倉石の中に生まれつつある違和感は、順調に主導権を握ってゲームを進めている教え子の成長を、捉えきれていない事からくるものではない。
(絶品のフェイクドロップに代表されるように、志波姫のオフェンスは原則として『フェイク』の部分が大きい──)
それはもちろん、三強と並び称された益子や津幡ほどには恵まれなかったフィジカル面の問題もあるだろうし、そうした人を喰ったようなプレイを彼女自身が好む性格にもよるが、ともあれ志波姫は相手の思考にバグを混入させ、コンセントレーションを潰して疲弊させる戦い方で、日本の高校生としては最高峰の選手となった。
対して石澤望は、倉石が見ている限りは、逗子総合のキャプテンだった頃とプレイスタイルそのものはさほど変わりなく、実直に『リアル』なストローク勝負で優位に立とうとしている。
(『フェイク』は化けの皮が剝がれれば終わりだ。『リアル』にはその心配はないが、結局そのプレイヤーのスケールに左右される……)
倉石はまだ、教え子がそこまでの選手になったとの確信は抱いていない。
もちろん、将来的にそうなるという予測、または期待は大いにあるにせよ、だ。
9-5。
単純なクオリティ勝負では、その実力差が徐々に明るみに出てきている。
志波姫が高い位置でのレセプションを丁寧に行い、上手く散らしたシャトルを拾うためにロシアペアが陣形を崩す。
身体が大きい分飛び出しそのものは俊敏だが、その後の『戻り』に難があると見ての戦術だろう。
無論志波姫の打球にそこまでの『威力』はないが、ほんの少し陣形が乱れたロシアペアに対して、後は望がやや前に出てカットスマッシュを打ち、更にもう一段崩す。
あるいは、ボディ周りのスキをこれでもかとついていく志波姫に、耐えきれずにフォーストエラーを喫してしまう、というのがロシアペアの失点パターンだ。
(……つまり、『日本ペアの得点パターン』ではない。ただ、事実として点差は四点まで開いてインターバル目前だ。順当と言うよりほかない)
春の選抜と、キアケゴー氏のなかば個人的な趣味による大会とでは大きく格は違うが、それでも『日本一』の二枚看板なのだから当然と言えば当然、と倉石は自分を納得させる。
結局スコアが二点ずつ平行移動したところで、最初のインターバルに入った。
「うむ……二人とも良いじゃないか。相手もそう器用な選手ではないから、大きく戦術を変えてくることは無いだろうが、油断せずにやっていけ」
「はいっ」
「──ところで、石澤」
一番最後のシングルス3にエントリーされた豊橋は、今日も今日とて出ている選手のサポートに動き回っている。
久御山に手櫛で髪を梳かれている望は、倉石の方に目を向けた。
「なんですか?」
もう付き合いも長いものだから、彼女の眼を見ればどういった精神状態なのかは、彼には大体分かる。
(……目力は、少し無いな。少なくとも、俺に反抗した時ほどじゃない)
ただ、今日の試合展開と、望のプレイを見ていれば、それは元気がないわけではなく、どちらかと言えば『力みがない』と言う風に倉石には映る。
気に病むようなミスも無ければ、なにか精神的なトラブルがあったわけではないのだから。
「まだ『強打』は出していないな? それと、リバースカットもだ」
「ああ……なんか、そういうムードじゃないですし」
なんとも具体性のないコメントだ、と倉石は苦笑する。
天才肌と努力家、という大雑把な分け方をするならば、望は後者に入る。
益子や羽咲、久御山は天才肌に入るだろうし、志波姫や豊橋は自他ともに認める努力家だ。
二人とも、よくある『人前で努力を見せない』というよりは、むしろ見せることによって周囲を感化していったタイプだ。
特に志波姫は、役割上もそうせざるを得ない面があっただろう。
荒垣や狼森はどちらかと言えば努力家だが、彼女たちはそれぞれ形は違えど、天性のものを授かっている。
倉石自身は、選手としても監督としても努力の人だ。
まだまだ子供で、時として生意気さも見せる女子高生を育てて結果を残すためには、分かっていてもあえて『歩み寄らない』ことも必要だったし、『雨降って地固まる』とするためにはそれ以上のケアも、また根拠のある指導も欠かせない。
少なくとも選手時代に頂点に立ったことのない彼には、たとえば立花に比べればその言葉に『説得力』はないのだから、結果を出すための苦労もまたひとしおである。
だから彼には自覚がある。
天才は作れない──。
「ムード、というのは、まあ……なんとなく言わんとするところは分かる。だが、それが『変わった』と感じたらすぐに対応しろ。今までの流れに拘るな」
「はい。行ってきます」
うん、と頷いて倉石は教え子を見送る。
ラケットをくるくると回しながら、志波姫の言葉に頷いている彼女は、随分と大きく見えた。
(さて……)
志波姫は相手を睨みつつ、ここまで自分たちが挙げた得点の中身を振り返る。
ロシアペアのエラーによるポイントを除けば、志波姫が六点、望が二点だった。
ただ、点数ほどは『自分独りで動いている』という自覚症状は、志波姫にはない。
どちらかと言えば望のお膳立てにより、甘いシャトルを貰っている実感がある。
ダブルスなんて久しぶりだ、と二人は思っているが、その内訳はまたそれぞれだ。
望には、たとえば横浜翔栄の橋詰のように、ダブルエントリーで地区大会を戦っていた時期もあった。
志波姫にはほとんどその経験はなく、生まれてこの方、というほどではないにせよ、ダブルスの経験値はさほど重ねていない。
最後に組んだのも、対外試合ではなく、部内の紅白戦だった。
(──ロシアの攻めは、変わらない、かな?)
対面のロシアペアにとっては、とにかく前に出て強打で押し込んでいくのが勝ち筋だったはずだろう。
ただ、それは望と志波姫の持つ対応力によって、ほとんど防御できている。
スマッシュの射程に入らなければ、撃墜されることも無いだろう。
インターバル明けの最初の得点が日本ペアに入り、このままサイドアウトを切っていけば──という安全圏に至って、志波姫は試合へのコンセントレーションをほんの少し落とす。
望がシャトルの交換を要求している間、観客席に目線を上げると、そこにはつまらなさそうな顔で試合を眺めている羽咲が居た。
荒垣は自分と同じ高身長を武器にするロシア選手が気になっているらしく、志波姫と目線は合わない。
「志波姫?」
「ん、ああ──どうしたの?」
「次、前に出るよ、私」
「……オッケー」
望は宣言通りにロングサービスを打ち、大きな歩幅で一気にネット前に張り付く。
倉石も思わず顔を上げた。
(──石澤!?)
サービスリターンはアーチの低いストレートのドライブクリアー。
志波姫がベースラインからやや斜め前に走り、サイドラインを割りながらバックハンドでクロスロブを返す。
ロシア後衛のノンナ=チェルネンコは、深いシャトルに対して一瞬の迷いを見せながらも、上からラケットを振り抜いた。
そのバックスイングに呼応して、望はラケットを引いて面を立て、自分の右側、即ちサイドラインを締めて警戒する。
だが、逡巡を挟んだことでノンナにストレートの選択肢は無くなり、彼女は仕方なく──望はそう感じた──コート中央を通って志波姫の足元へのコースを狙う。
白帯の数センチ上を掠めて、勢いのあるスマッシュが飛んでくる。
バックに振り替えた望が手を出さなくとも、球足が最も長くなる対角線のスマッシュを志波姫が受けるのは容易い。
そもそも、目で追うのが困難なほどの初速で弾き出されたシャトルを、ネット前の望がシャットアウトするのはリスクが高い。
だが──。
(ここで、そのリスクに乗る──)
望は肘から先を一気に走らせ、恐らくそのあたりに来るだろう、というポイントに面を立てる。
スイングの始動は、ノンナのインパクトとほとんど同時だ。
うまく面にシャトルがヒットしてくれたとしても、コースをコントロールするなど不可能に近い。
案の定、構えたラケットに、良くない感触が伝わる。
(浮いた──!)
卵が潰れるような音を立てて望のラケットを弾いたシャトルは、グラグラと揺れながらノンナの前に落ちていく。
後ろ体重で着地した彼女は、慌てて前へのスタートを切るが、面の先端にそれを『乗せる』のがやっとだった。
倉石は思わず、ノートを握る手に力を籠める。
(『ここ』なら決まる!)
「ゴーッ! 石澤──」
声を出し、そして彼はハッと気づく。
──チャンスボールは、確実にコースに落とせ。
望にそう教えたことを彼は悔やんだ。
短期的に勝つには、それが当たり前だったから。
彼女がやろうとした戦術を成立させる千載一遇のチャンスを、たった一ポイントと引き換えにふいにしてしまう。
だが。
コート上の光景──次の瞬間に、彼の教え子が選択した『世界』は、倉石が予想したものとは異なっていた。
「──ふッ!」
息が漏れるほど力を込めて、望はラケットを振り抜く。
強い回転を与えられたシャトルは一瞬浮き上がり、体勢を崩されて仕方なく前に出た相方の代わりに、後ろに下がったイリーヤの足元に着弾した。
観衆のどよめきを肩で切り、望は二度ほど拳を握りしめたあと、志波姫とハイタッチを交わす。
彼女が選択したのは、確実に決まるタイミングでの強打ではなかった。
といって、倉石の教えたセオリー通りの軽い叩きでもない。
(……フムン)
スピードの遅いカットスマッシュは、こういったチャンスボールの際に選ぶ球種としては、思いのほかリスクが高い。
上手くコントロールできず、また回転が足りずに球足が伸びてしまえば、相手は崩れた体勢を立て直し、せっかく取れたはずのポイントが宙に浮いてしまう。
(スマッシュを打ち慣れていないから、という消去法のショットではない──何かを意図して選択した……)
そうでなくては、志波姫が多少小言を挟んで、望がすぐさま次のサービスに入る、ということはなかったはずだ。
だが、彼女は間髪入れずにショートサービスを打ち、ロシアペアのちょうど中間地点へのドライブで、相手の逡巡を生む。
(石澤と志波姫は、それほど身長差はない。どっちが前衛に立とうと大差がないなら、攻め手のある石澤が前に立つのが良い形だと言える……)
果たしてコート上では、望が微妙にスピードをずらしたショットでロシアペアの歩調を乱し、視野の広い志波姫がその濃淡をよりはっきりとさせる、絶妙なコントロールでドライブを通す。
(コントロール……という言葉は、ただ単に狙ったところにシャトルを送る技術を指すのではない──)
やがてダブルスコアに到達し、ロシアペアにもこのセット限りでの『捨て』の気配が見えたところで、日本ペアはさらに得点を伸ばす。
前半ネット前に張っていたイリーヤも、やや後ろ目のポジションに下がり、日本ペアを出し抜くというよりも、出来るだけ走らせて体力を奪う戦術に転換したようだ。
(意図の見えるコントロール、プレイスメントと言ってもいいが──技術としてのコントロールは石澤とて当然持ち合わせていたが、戦術としてのそれはまだまだだった)
だが、先ほどのチャンスボールに対する望の選択は、倉石が想定していた彼女の『スケール』から大きく踏み出すものだった。
『捨て』を想起させるほど開いた点差の中、あのタイミングでは強打が決まったところで残像は残らない。
ロシアにとっては、既にお手上げとなったあと、好き放題やらせたうちの一点でしかないからだ。
(だからこそ、あの場面は打たなかった。表面的にはスマッシュでエースを奪えても、実体的な意味を持つ『強打』ではないからだ……)
つまりそれは、望が既に第二セットへの布石を一つ、あの時点で打ったということになる。
カットスマッシュに崩され、あるいはそのままエースを奪われているシーンは、ロシアペアの頭の中にも色濃く残っているはずだ。
21-12と大きく突き放して、望と志波姫はコートを出る。
「うむ──いいぞ、二人とも」
終盤は多少走らされてしまい、汗をぬぐうのにも忙しいと見て、倉石はそれ以上二人に言葉をかけなかった。
なにより、志波姫はともかく、教え子の望がどういう精神状態かは、目を見ればすぐにわかる。
(いい眼だ……力みなく、また昔のように反抗的でもないし、不安も宿していない──)
益子や羽咲がたまに見せる、『むこうぶち』の眼。
こんな眼つきができるようになったのかと、倉石は感嘆した。
「志波姫」
「ん?」
「向こう、変えてくると思う?」
ストリングスの目を揃えながら、望は志波姫に訊く。
志波姫の方は少し首を傾げて思案顔だ。
「……まあ、普通なら何かしら変えてくると思うけど……そこまで器用かなぁ?」
それほど警戒する必要はないだろうという志波姫の読みを、神藤コーチが補強する。
「大丈夫だと思うよ。ロシアはハッキリ言って格下だし、アンタたちの出来もいい」
言っている内容からはただのお世辞にも思えたが、神藤コーチの真剣な表情を見て、望はそうではなく、本当に──前半部分はともかく──今日の自分の出来はいいのだろうと思った。
「わかりました。じゃあ、行ってきます」
「なぎさちゃん、よくあんなのに勝てたね」
「ん?」
羽咲の言った『あんなの』が誰の事かと一瞬荒垣は悩んだが、彼女の視線の先にいる友達を見て、それが望の事を指して言ったのだと理解した。
「まあ、あの時の石澤は、まだな……」
当時の荒垣にとってあの試合は、石澤望との一対一というよりも、その後ろの倉石も込みで相手にしていたようなものだった。
実際に望が彼の戦術を忠実にトレースしていた間は、攻め手がなく良いようにポイントを奪われてしまっていたし、立花のアドバイスが無ければ、試合に負けたかもしれないのはもちろん、膝の状態も今よりずっと悪くなってしまっていたかもしれない。
望が優しいから、自分を壊さずにいてくれたとは荒垣も思っていないし、事実そうではない。
彼女の強打を受け切れずに、戦術が破綻してしまったのが望の敗因だ。
「ん、でも……」
荒垣はふと気づく。
ロシアペアは、彼女と同等の身長を持っている。
第一セットでは前に出ていたのが志波姫だったから、その強打もさほど有効には作用していなかったが、その後半から、またこの第二セットが始まっても、前衛にいるのは望だ。
(強打、克服したのかな……?)
3-3ともたついたところで、志波姫がシャトルの交換を要求して間をとった。
「望?」
「ん──ごめん、次は止める」
「うん……」
ロシアペアの三点のうち二点は、ロシアペアの強打をコントロールしきれなかった望の失点だ。
第一セットでは、流れのターニングポイントになるところで、幸運にもエースショットへつながる返球をすることができた。
しかし本来、望は強打に対してのレシーブが弱いことを、志波姫も気づいている。
(神奈川の予選の録画……あれはまあ、荒垣だったから──とも言えるけど)
特別反射神経が劣るというわけではないが、それでも物理的に反応可能な速度を上回るショットが来れば、それはもうちょっとしたギャンブルだ。
志波姫自身、羽咲のクロスファイアをミートしきれず空振った経験があるし、同じ左利きの益子のそれも、また津幡やコニーのスマッシュを受け切れなかったことも多々ある。
望が前衛に出れば、確かに回転数を自在に操れるカットスマッシュなど『ファジー』なショットを多用して相手を崩すことが出来るのは間違いない。
ただ今のところ、この第二セットにおいては、彼女の弱点が露呈している状態だ。
それは当然、本人も自覚している。
「志波姫、次一本!」
「──よしっ」
ただし、それを殊更気に病んでパフォーマンスを下げるような状態に落ち込まないうちは、ひとまずは好きにやらせよう、と志波姫は思った。
何かを得ようとして、前に進む人が好きだから。
もちろん、次のインターバルで滔々と望に戦術を説き、また彼女の弱点とその対処法を教えることもできるが、現時点ではそれさえ、志波姫はする気がない。
彼女がどうやってこの弱点に立ち向かっていくのかを見てみたいと単純に思ったし、また志波姫は気付いてしまった──自分のバドミントンが、立ち止まっていることに。
強豪校のキャプテンと言う立場の忙しさにかまけて、自己鍛錬を怠っていたわけでは、もちろんない。
彼女が『気付いた』のはそもそも、そういった技術的なことではないのだ。
『揺れない志波姫』という渾名も、気分の悪いものではない。
(私が『揺れない』のは、仲間たちのため……それもあるけど、本当は──)
逗子総合の黒いユニフォームではなく、自分と同じ日本代表のユニフォームを纏っている望の背中を見ながら、志波姫はレシーブに動く。
あえて、ロシアペア後衛のイリーヤがスマッシュを打ちやすい、少しだけ浅いロブ。
勇んで飛び上がったイリーヤに対し、望は彼女の視線の方向ににじり寄って、そのコースを切る。
(取れるところには来る、けど──)
心配そうに見つめる志波姫をよそに、望は先程までより始動を早く、また肘をたたんでラケットを構えた。
まるでピストルのような突発音とともに、シャトルは彼女が網を張ったコースに向かってくる。
(──ここ!)
肘から先だけでラケットを振り、望はこのセット初めて、ロシアペアのスマッシュを、相手コートに返す。
ネットを超えてくるとは思わず油断していたノンナが飛びつくが、拾い上げたシャトルを望が軽くいなしてサイドに打ち落とし、逆転。
4-3。