目が慣れて来たのか、徐々にロシアペアの強打に対応し始めた望は、前衛から積極的に相手のショットを『切り』に行く。
やや攻め急ぎのシーンも見られたが、志波姫の執り成しもあって、試合は再び日本ペアがリズムをつかみ始めた。
8-7と点差は薄いが、内容的には噛み合いだしたロシアペアの攻めを上手くいなして、失点を最小限に抑えている──倉石はそう考えている。
(スマッシュで押し込まれるのは、もう仕方がない。あとは少しだけ、石澤に自重を求めたい場面も多いが……まあ、これも勉強だな)
手持ちのノートを開いて、倉石はペンを走らせる。
殴り書きの文字は他人には判別できないほど汚いが、これは望に渡したものとは違う、自分だけの『気付き』のノートだ。
(石澤はともかく、志波姫の方は完全に強打を切り捨てているわけではない──それはインターハイの羽咲戦でも終盤に見られた……)
その少しあとの時間帯の、彼女の心境は、倉石には痛いほどわかる。
自分が選んだ戦術に間違いはなかったのか──それとも、人生の道そのものに、どこかに掛け違いは無かっただろうか。
そんなことまで考えてしまうほどの大きな敗北を何度も経験しているからこそ、倉石は勝つことに拘り、望を含めて数多の選手を育て上げた。
だが、彼自身も、コート上で躍動する教え子と同じく、変貌しようとしている。
あの宮崎の大会から、この世界大会までの二か月間、望はまるで新しい絵本をせがむ子供のように、新たなショットを倉石に求めて来た。
もちろん、バドミントンにおいて彼女の知識欲を満足させるほどの球種などないのだが、それでも倉石は、過去に教えた基礎的なショットの応用と、そのタイミングを少しだけ望に伝授した。
(二か月、という期間は長くもあり、短くもある──ひとつの弱点を解消するために打ち込む時間としては充分に長いが、プレイヤーとしての輪郭を変えるには短すぎる)
インターハイなどの大舞台でもあれば、その変化の一瞬に立ち会うことも出来ただろうが、既に望にはそうした大会は残されておらず、その期間に教えたショットも、まだ試合の中で有効に使えるようにはなっていない。
倉石が現役選手にかかりきりになっている間、実戦練習の相手役を務めていた望は、ときたまジャンピングスマッシュも放っていた。
当然、彼女の身長とパワーではそこまでの威力は出なかったし、それはあくまでも『仮想敵』としての役割を全うしようとしているだけのように倉石には感じられたから、ことさらそれを咎めることもしなかった。
(志波姫との試合で、石澤は間違いなく『新世界の扉』を開いた──それからしばらくの間、アイツの中ではバドミントンの『領域』が広がり続けている……)
反射神経やボディワークからの『読み』に優れる志波姫を前衛に置いた方が、この試合を勝つには近道だろう。
だが、望は自ら宣言して前衛に立ち、ロシアの強打に立ち向かっている。
(それは、ある意味では『焦り』……大学に行っても、バドミントンを続けるのは続けるだろうが、インカレ上位や、A代表を現実的な距離に持ってくるためには、今のままでは到底叶わない──そうした焦りは、石澤の中に確実にある)
ただし、今のところは、望のモチベーションをむしろ高める方向にその『焦り』は作用しているから、倉石も特段その点を気に掛けることはなかった。
自分が損なってしまったかもしれない彼女の『器』が健在であることに、彼は心底安堵し、自分を変えてくれた教え子を、『いつも通り』じっと見守る。
11-10。
「よしよし、いいぞ。二人とも体力はどうだ? 志波姫はかなり走っていたが……」
「いえ、まだ全然。フレゼリシアの合宿に比べたら、オフみたいなもんですよ、こんなの」
飄々とした顔を緩ませて軽口をたたく志波姫に、倉石はその言葉が偽りでないことを確信する。
もっとも代表合宿こそ短いものの、招集の連絡そのものは宮崎の大会後すぐのタイミングで全選手に行っていたし、引退からも間がない彼女たちのスタミナをそこまで本気で心配しているわけではない。
「石澤は大丈夫だな?」
「はいっ」
望の場合は、引退してからの方がむしろ『自分の練習』に没頭できるぶん、体力強化にも存分に取り組めた。
キャプテンを任せている以上、大会が近くなったりすると倉石はどうしても、各選手の状態を彼女と話し合って把握する必要があった。
もちろん、プレイを見れば倉石にもだいたいの出来はわかるが、たとえば部活以外の時間帯でどう過ごしているかや、女性特有の物事もあるゆえに、多かれ少なかれ望に頼る部分が出てしまう。
ともあれそうした事から解放された彼女は、現役時代よりも厳しいメニューを自らに課していたし、実戦経験と言う意味でも、宮崎の大会に参加していない益子や志波姫達よりは試合勘を保っている。
(ただ……この試合の前に石澤が言った『強打』はまだ打てていない──)
それを使わずとも優位に立てているから、というのもあるが、倉石がかつて彼女に言い渡し、望自身も認めるとおり『強打は通用しない』のだから、本質的にはマイナスの影響をゲームに与えるショットを、わざわざ選択する利点は見当たらない。
「後半はまた、私が後ろに行くよ」
「──うん、わかった」
何かを言いかけてやめ、志波姫は望のゲームプランに同意する。
彼女が口を挟まないのだから、倉石もそれ以上突っ込むことはしなかった。
(任せる──石澤に、と言うよりもこの二人に、だ……)
倉石にはまだ、志波姫のどこか冷めた雰囲気が腑に落ちない。
手を抜いているようなシーンは一切なく、ショット一つ一つの『説得力』も十分に感じ取れるのだが、それでもどこかに不安が付きまとう。
(ベストを尽くしているのは、本人に訊くまでもなく解る……だが、それ以上を発揮しようとはしていない)
ライバル校の選手、として見た時──それはつい数か月前までの倉石の目線だが──、志波姫唯華のようなタイプは、何をしてくるか自体は予想がつく。
言うなれば、『輪郭がはっきりしている』プレイヤーだ。
得体の知れない『闇』を持っている、例えば羽咲綾乃などはその典型的な例で、それゆえに倉石は少しでも羽咲を理解する手助けになればと、普段あまり真剣に読まないバドミントン雑誌を、望にも読ませた。
当時の彼女は、全国の舞台を賭けた荒垣との試合で頭がいっぱいだったが、倉石は荒垣に勝つ戦術は既に完成させていたから、たとえば羽咲しかり、横浜翔栄の橋詰のような選手の方がよほど、教え子が不覚をとる可能性が高いと踏んでいた。
(一〇〇パーセントを出そうとして、正確に出せる選手はいない……人間である以上当然のことだ。だから、一二〇パーセントの力を出しました、なんてコメントがよく出る──)
志波姫にも、そうした瞬間はごくわずかにあった。
インターハイの対羽咲戦で見せた、普段はほとんど打たないような、パワー重視でコースを追わないジャンピングスマッシュ。
少し威力を抑えて、八割九割でコースをしっかり狙うようなスマッシュは、彼女もよく打っている。
それはバリエーションを相手に見せて、要所で絶品のフェイクドロップを決めるための布石だ。
この試合でも、いくつかそうしたショットが見られる。
オーバーハンドよりも少しだけ打点の高い、両足を軽く宙に浮かしたスマッシュ。
際どいコースにしっかりとコントロールしているそれは、ロシアペアの布陣を崩す『一番槍』として機能しているシーンが目立つ。
インターバル明けの最初のポイントも、そうした志波姫の崩しから、ラリーが動き始めた。
「──しッ!」
ベースラインを跨ぎながら後ろに跳び、望はラケットを縦に振る。
ロシアペアのロブを受けてのカットスマッシュは、ロシア前衛に入ったイリーヤが追うフォアサイドへ落ちて行った。
脇腹ほどの高さでラケットを振り抜いたイリーヤの返球は、白帯の下からカチ上がるクリアー──これは 志波姫も当然読んでいる。
自らの経験値と照らし合わせて、その軌道がコート内に収まるには大きすぎると見た彼女は、ラケットを翻して望に叫んだ。
「アウト!」
「っ──大丈夫」
なにが、と志波姫が問う前に、望はそのシャトルに対してバックスイングを開始していた。
これだけ高いクリアーならば、ロシアペアには陣形を整え、また望にはその陣形を読み取る時間的な余裕がある。
先程の返球よりもずっと高くジャンプしながら左手を掲げて『アタリ』を付け、望は思い切りシャトルを叩き下ろす。
耳の後ろから聞こえてくる飛翔音が、普段よりも高いことに気付き、志波姫はロシア側コートを見回して、踵を浮かせた。
望が選択したのは、クロスへのスマッシュドライブ──彼女を起点に千鳥配置の三人が、呼応してスタートを切る。
(前衛、イリーヤは抜いた──)
志波姫はネットの向こう側の人影を一瞥して、後衛のノンナからの返球に備える。
最高到達点が三メートルに届こうかと言うような、荒垣や益子の強打ではない。
『角度が付かない』と耳にタコが出来るほど聞かされたその強打に、望は別の意味を込めた。
(伸びろ──!)
撒き餌として投じた、これまで何十本と打った、地に足を付けてのコントロールドライブとは全く異なる。
その飛翔経路の終端に近づくにつれて、ロシア後衛ノンナの記憶よりも、ほんのシャトル半個ぶん高い位置で、正対しきっていない面を抉る──それで十分だ。
インパクトの瞬間に、スイートスポットを外したと気付いたノンナは、打球の行方を見るまでもなく天を仰ぐ。
あるいは、叩き返すにはおあつらえ向きの緩んだ『強打』に油断した自分を悔やんだか。
シャトルはサイドラインを割り、コート外に落ちる。
12-10。
(決まった……か?)
今しがた教え子の見せた『強打』に、倉石は出来るだけ心の平静を保つべく、批判的な視線を心がける。
第一セットから第二セット前半を通じてこれまでの試合展開の中で、望が上からのストロークでストレートのスマッシュドライブを選択した瞬間はひとつもなかった。
その事実と、彼女が生来持っている『シャトルの伸び』が合わさって、ロシア後衛ノンナは、もっとも球足が長く対処時間に余裕があるはずの、コート奥からのクロススマッシュに対して差し込まれてしまう。
インターバル明け、最終コーナーを回ったところでの『新種』に対処する時間は限られているし、そういう意味ではノンナ達ロシアペアに焦燥感を植え付けるには最適なタイミングだっただろう。
(だが……これは『石澤望のバドミントン』そのものじゃないか──)
自分自身にもたらされた武器を最大限に使い、凡庸なフィジカルしか持たない彼女が『上』で戦っていくための作法。
試合前に彼女が言っていた、本来打たないはずの『強打』を、どこかで相手をミスリードするために使う、と言う意味合いのショットではない。
先ほどのインターバル中に志波姫から何かを言われていたという風でもないし、この試合では一貫して望がイニシアティブをとり、相方を引っ張っている。
「──伸びたな、今の」
「そう? 確かに差し込まれてたけど……」
首筋に滲む汗を、ユニフォームを掻き上げて拭きながら、益子はディスプレイを眺めている。
旭はきちんと自分のタオルを準備しているから、へそやわき腹を狼森にチラ見せすることもなく、淡々とウォームアップの仕上げを終えた。
実際にコートで相対しているのとは違う角度からの映像でも、それだけ細かいシャトルの挙動が把握できるあたり、有り体に言って益子泪は天才なんだろうな、と旭は思う。
もちろん、そこにさほどの謙譲はなく、ただ単に彼女を客観的に評価した結果、旭の語彙力と、試合前でバドミントンに対してのコンセントレーションを高めている今の段階では、そのぐらいしか言葉が見つからなかった、ということだ。
「アンタよく、スタンドから見てて色々わかるよね。羽咲のクロスファイアだって、五種類目も──」
「遠くから見てるからこそ、わかることもあるんだよ」
だったらもう少し、自分の事も俯瞰して見ればいいのに、と旭は心の中で苦笑する。
『益子泪』という人間そのものが、自己中心的な人物なのは間違いないだろう。
そのおかげで随分と苦労をすることもあったが、仮に益子が心優しく気立てが良く、周りと波風を立てない落ち着いた人間であったなら、彼女とダブルスを組んだ二年半は、あまり面白くないバドミントン生活になったに違いない。
旭はそう考えている。
一緒くたに後ろ指を指されるようなこともたまにあったが、それでも本当に大切なものは何一つ、失っていないのだから。
「あっそ……もう出来た?」
「うん。そろそろ行くか。これすんなり終わるよ」
スコアは絡み合いながらも、ロシアペアが日本ペアの前を走ることは一度もなく、淡々と数字を上げていく。
ついさっき映像で見た望の『強打』と思われるショットは、多少なりともロシア側に影響を与えたようだ。
志波姫の左右への振り回しと、望の前後への揺さぶりに対して、安易にクリアーを上げて体勢を立て直す、という選択肢が取りづらくなっている。
自然、ロシア後衛ノンナの返球は球足が長く角度はつかず、スピードはあるから前衛の志波姫が手を出さないにしても、後ろの望がキッチリと受けてしっかりとプレイスメントを意識したリターンで優位に立っている。
前に落とせばイリーヤが追うが、これもまた志波姫とのネット前勝負では劣勢に立たされてしまい、結局彼女たちにできるのは『延命措置』でしかなかった。
アップゾーンから出て来た旭は、まず第一にスコアボードを見て、もうしばらくだけ時間があることを確認した。
いつの事からか、たぶんインターハイの後ぐらいだろうと旭は記憶を手繰るが、
──私は高校三年間、あいつとダブルス組んでたんだ。
いつか益子がテレビに出たら、隣にいる誰か──それが友達か、あるいは自分の家族かも知れないが──にそう自慢しよう、と彼女は思うようになっていた。
そしておそらく、もうひとつ自慢の種が増えてくれるだろう、ということにも、彼女は確信を抱いている。
──昔、あいつと引き分けたことあるんだよ……半セットだけね。
大差でマッチポイントを握られたロシアペアの『諦め』を読んで、志波姫の隣に望が並び立つ。
前に二枚の壁──このプレッシャーに抗う闘志は、既にロシア側には残っていなかった。
著名な書道家がその筆を走らせるように、志波姫は流麗な曲線をネット際に描いていく。
そうして、彼女は最後の仕上げに、まるでシャトルが一歩一歩ネットを登っていくようなスピンネットを放つ。
身体をフロアに打ち付け、ラケットを持たない手をコートに踏ん張りながらも、イリーヤはなんとかラケットの鼻先でシャトルを拾い上げるが、最早既に勝負あった。
起き上がれない彼女の上空を通過して、望がカットスマッシュをストレートに沈め、21-13。
「ぃよっし!」
ラケットを逆手に持ち、握った両手をぐっと震わせて、それから望は志波姫とハイタッチを交わす。
参りましたとばかりに、イリーヤとノンナはその大きな背中を丸めて彼女たちと握手をして、腰に手を当て肩を落とし、コートを出ていく。
充実感たっぷりに倉石と目線を合わす望をよそに、志波姫は豊橋から受け取ったタオルを首にかけ、ふうっと小さく息をついて虚空を見上げた。
神藤コーチは一瞬、どこか故障でも出たかと彼女の表情に探りを入れるが、目の焦点がきちんとあっていることを確認して、胸をなでおろす。
それから、二人をアップゾーンに呼び、ストレッチとクールダウンを手伝った。
倉石には、次の仕事がある。
「──松川さんの分析によれば、ロシアのオーダーはノーマルだ。昨日の中国とは違うぞ」
ロシア国内のデータはあまり豊富ではなかったが、直近のヨーロッパでのジュニア大会や、高校生年代のオープン大会の戦績を可能な限り当たると、順当に『強い順』に選手を並べる、というロシアの方針が浮かび上がった。
中国のように国を挙げて強化に取り組んでいるわけでもないし、もちろん極寒の北国のこと、屋内スポーツとして一定の人気はあるにせよ、才能の頭数が揃っているとは限らない。
益子と旭が今日戦うのは、日本で言えばせいぜい地方の県の代表レベルだろう。
先ほどと同じく背は高いし、根本的に『外国人』の見分けがつかないのは日本人の弱点であるから、倉石はとりあえず簡単に、ロシアペアのデータを彼女たちに教えることにした。
「あっちの、黒いフレームのラケットの方がリヤーナ=シュコヴァ、白い方がジーナ=マトキチナ……ぐらいしか情報はないが」
補足を入れてやりたいのはやまやまだが、松川から受け取った資料には、あまり聞かないロシアの地方都市の大会での優勝、ぐらいのデータしか記載されていない。
国際大会への出場に至っては、リヤーナは他の選手とのダブルスで、ジーナに関してはシングルスではあるものの、ダブルスでは経験ゼロだ。
「……ペア、途中で変わってんの?」
「ああ、リヤーナの相方が怪我でやめたらしい。といっても、あの二人は組んで一年以上だから、ペアが合ってないなんてことはないだろうがな」
一年もあれば、国の代表に呼ばれるようなレベルの選手なら、おおよそペアは合わせてしまうものだ。
それだけの対応力が無ければ国際大会で結果を出すことなど望めない。
「昨日は少し厳しい試合だったからな──気楽にやれ。普通にやれば勝つ」
「オッケー。行くぞ、旭」
「ほいよ」
「おーい、手抜かないでよ泪……」
しょうがない奴だ、とディスプレイを見上げる志波姫をよそに、望はキアケゴー氏から教えてもらった──ついでに言うならば、新品を一本、ミスアンヌから頂戴した──塗り薬を、肘と肩に擦り込む。
「……湿布?」
突如漂ったメントールの匂いに、志波姫は振り向く。
「あ、匂う?」
「だいぶ。おならの匂いを八十パーセントカットしそう」
確かに相当匂いがきついから、引退する前は知らなくてよかったものかもしれない、と望は考えた。
宮崎の大会の後、倉石との雑談の中でその塗り薬を見せた時も、彼はその存在を知っていたし、最近は使っていないが、と中身が減って随分折り曲げられ小さくなったそれを、机の引き出しから取り出しさえした。
要するにメジャーな製品ではあるのだろうが、この何とも言えない匂いは、なるほど女子高生にはそぐわないだろう。
湿布を張る事さえ、その匂いのために嫌がる部員も多い。
逗子総合では、練習後のクールダウンや故障の予防のために、製氷機で作った氷をアイシングに使っている。
業務用の製氷機だから高価なものだろうが、それは倉石が買って寄贈したものらしいということを、望は入学当初に先輩から聞いた。
値の張らない『袋』の方は部費で購入するのに苦労しないが、『総合』と名のつく望の母校では、他の部活や授業の設備にも、また彼女自身のような特待生も他の部活にだっているから、そうそう大きな金額は与えられないのだろう。
そういうこともあって、望たちは倉石に対しての『うるさいおっさん』という見方を徐々に融かしていく。
(荒垣のサポーターも、そうだったな……)
倉石は直接選手の身体を制御して指導したりするタイプではなく、ラケットで指し示すのが彼のやり方だが、部員との距離で言えば、彼女のコーチである立花などは、ずいぶんと近いように望は思っている。
もちろんそれは北小町の部員──荒垣と羽咲に限ったことではあるし、別に望も彼なら満更でもないのだが、また別種の匂いが漂ってしまうといけないと思い、あまり彼とは話をしていない。
ミスアンヌがロリコンと評したキアケゴー氏ほど年の差もないし、荒垣と立花がいずれそうなるなら、それはお好きにどうぞ、というスタンスだ。
まだそんなことは、望にとっては『どうでもいい』話で、松川のように四十を超えて独り身でも、溌溂と生きていられるならそれもまた悪くない人生だ。
「あ、神藤コーチ。包帯巻いてください」
「ああ……」
志波姫のバッグから包帯を取り出し、神藤は脇に置いてあった氷袋を彼女の肩に載せ、白い包帯を巻いていく。
正面に回って彼女の山並みを観察する気は毛頭なかったが、望はその行為が少し気になった。
「志波姫、包帯ってズレない?」
氷袋を微調整しながら包帯で保持し、神藤コーチは最後に縫い付けられているクリップで、その包帯を留める。
最後にぽんと背中を叩くと、志波姫は着替えに持っていた大きめのTシャツを着て、その上から代表ジャージを羽織った。
「んー、寝てる時とかはズレるけど……」
「バンテージあるよ。倉石監督持ってた、多分」
「ああ、いいよこれで」
寝るときは当然氷水ではなくお湯だろうから、水滴で布団が濡れるということもないのだが、どうせならそれ専用の袋と固定具を使えばいいのに、と望は思った。
「脱がせてもらう理由になるでしょ?」
「……わかんない、その価値観」
脱ぐ、という言葉に反応したのか、久御山が会話に乱入してくる。
次から始まるシングルスは、狼森の次に彼女が初登場という順番だ。
「なんや、エロい話か?」
「そうだよ」
「違う」
柔らかい雰囲気の中でふとディスプレイを見上げると、益子と旭は快調にスコアを伸ばしていた。
ロシアペアも高身長からの強打はあるにせよ、その精度も低く、その強打ですら益子に後れを取っている。
田舎の高速道路をゆったりと流すように、ゲームは淀みなく最初のインターバルに入った。
11-4。
相手次第でそのモチベーションを変えてしまう益子だが、今日の所は、悪いスイッチは入っていないようだ。
旭は小刻みに肩を揺らしている彼女の背中を見ながら、ロングサービスを放つ。
インターバルでは、倉石からは特に何もアドバイスは貰えなかった。
だが、その必要がないほどに、二人はロシアペアを勝手気ままに蹂躙している。
(役者が違う──まさしくそんな感じだ。世代最強の日本人女子が気合十分で、故障も抱えていなければ当然こうなる……)
強打で攻めるロシアペアの配球は、どうしても縦長になってしまう。
それに対して日本ペアは、後衛の旭は緩急をうまく使って相手の脚を澱ませ、益子は一つの隙も逃さず、素早い飛び出しからの崩しを仕掛けている。
特に彼女の場合は、使うコートの『横幅』が普通のプレイヤーに比べて極めて多い。
強打を生み出すリストの強さは、ロシアペアのドライブに多少差し込まれても、狙ったコースに押し込むのに役立っているようだ。
こうなると、倉石の仕事は早くも『次』に移ることになる。
昨日、中国のおそらくはエースだったらしい劉知栞に敗れた狼森は、まだアップゾーンから出てきてはいない。
ロシアのシングルス1、マイラ=シェフチェンコは、劉知栞ほどの強敵ではないが、今日もまた昨日と同じように、自分のスタイルを確立できないままに苦戦するようなことがあれば、それは狼森あかねが、今のところは国際大会で通用するプレイヤーではないという証明になる。
(あいつはやれる、と俺は思っているが……狼森自身が、自分を信じられるかどうか──)
追い続けた志波姫との対比でなく、相手の姿を直視しなければ、それに対する自分の輪郭もぼやけてしまう。
昨晩少し時間をとって、そのことを諭した彼だったが、やはりいざ選手を送り出すとなれば、その結果を背負うのは指導者の責務だ。
コート上では、留まるところを知らない二人の快進撃が続いており、早くも第一セットのマッチポイントを迎えているが、倉石の心の内は重たい。
「──あかね」
「おん?」
アイシングを終えた志波姫は、氷袋を彼女に投げ渡した。
「っと! 冷てぇぞ、おい」
「ふふ」
意味深な笑みを浮かべて、志波姫は立ち上がり、彼女の後ろに回ると、背中から手を回して抱き寄せる。
「頭冷やしな」
「……は?」
言い方はきついが、狼森の表情を見るに、彼女たちの間には与り知らぬ深いつながりがあるのだろうと、望はその場から少し距離を取る。
自然に、久御山に近づいていくことになるが、それを認めた彼女は、試合前だからとってさほどナーバスになっているわけでもなく、望に話しかけた。
「望ちゃん。コートの感じ、どんなん?」
「ん……まぁ、高校の大会より広いね、かなり。照明は被らないから、それは問題ないよ」
「そうかぁ……」
参考になったのかは分からないが、久御山はそのまま腕を後ろに回し、肩の可動域を広げるストレッチに入る。
「久御山は、緊張してない?」
「全然。ウチそういうタイプちゃうから」
「そうなんだ……」
その後の戦績を見れば、いかに第三シードと言えど御しきれないと思われた荒垣にも、果敢に食らいついていった彼女の姿は、望もよく覚えている。
普段の日常生活でも、所作はゆったりとしていて、険しい表情になることもない。
「何か、緊張しない方法ってあるのかな……」
高校の部活として戦った試合の中で、ガチガチになって頭も体も動かないというような経験は望にも少なかったが、決してゼロではない。
もちろん、それは一年生の最初の試合ぐらいで、『あれだけやってきたんだから』という自信は、彼女から緊張を遠ざける根拠になっていった。
「そら、あるよ。ウチはな、全部人のせいにしてるで」
「……人のせい?」
せや、と久御山は笑う。
「自分で背負えることには、限界があるからな」
例えば、宇治天神台が団体戦ではインターハイに出られなかったこと。
益子泪の不調によって、第三シードまで祭り上げられ、注目選手として雑誌に名前が載ったおかげで、見る目も増え、厳しくなったこと。
そうした『自分で制御できないこと』には、責任を持つ必要はない。
久御山はそういう風に考えている。
ある意味では、それは益子泪にも通じる考え方だが、彼女とは違って人当たりは穏やかなおかげで、それほど『斜に構えた』という印象を他人に抱かせてはいない。
「せやからウチ、シングルスしかできへんねんな」
苦笑いしつつも、彼女はそれをさほど悪いとも思っていないのが、表情から見て取れる。
望は笑みを返しながら、狼森のウォームアップに付き合っている志波姫をちらりと見た。
二人の考え方は、まるで正反対だ。
宇治天神台はそこまでの強豪ではないし、フレゼリシア女子に比べればその『格』は落ちるが、そのことが二人の心理構造を分けた理由ではないだろう。
志波姫には志波姫の人生があって、久御山にも同じだけの厚みの人生がある。
『生き方』としては、志波姫の方がしんどいだろうな、と望は思った。
「──っしゃ!」
第一セットを21-8で終え、第二セットも前半を終えて5本しか許さずにインターバルに入った二人は、既にこの試合を早く終わらせることにしか興味がなくなったようだ。
多少強引に攻め込むシーンが増えてはいるが、今日のロシアペアに対しては問題なく通用しているし、プレーそのものが雑なわけではないから、倉石も特に気になることはなかった。
「いいぞ、二人とも──ひとつだけ注文を付けるなら、後半も無暗に走らず、このままのペースでサッと勝ってくれるといい」
狼森のために、と倉石は補足する。
ここでロシアペアの心を完全に折り、更にゲームを加速させていくのも悪くはないし、じゅうぶん可能だろうが、それでは狼森が準備不足でコートに立ってしまう恐れが出てくる。
また逆に、体力温存に拘ってペースを落とせば、それもまた『次』へのベストな繋ぎではない。
どれだけ相手との実力差があり、一方的な試合展開になろうとも、これは『団体戦』だ。
次に出て来るマイラ=シェフチェンコが、コニーをもしのぐ稀代の才能ではない、とは誰も言い切れない。
狼森との試合でいきなり開花する可能性とて無くはないのだ。
(まあ、そんなことは通常起こりえないが……旭はともかく、こういったことを益子に考えさせるのは、彼女にとって財産になるだろう……)
宇都宮学院の矢板監督は、そこまでの事を益子には教えることが出来なかった。
それほど才能の集まらない中堅校にあって、益子泪は誰が見ても『エース』だったが、その存在は突出し過ぎていた。
チームとして戦う──そのことが、個人を成長させることもある。
益子泪の『伸びしろ』があるとすればその部分だと、倉石は確信していた。
(強烈な『個』は、得てして周りを枯らしてしまう。旭とて、益子泪のダブルスパートナーとしてではないバドミントン人生も有り得た……)
望も認める通り、旭海莉はシングルスでもいっぱしのプレイヤーだ。
中学時代に時計を巻き戻してみても、彼女が神奈川か、遠くとも東京在住だったなら、倉石は確実にスカウトに行っていただろう。
「──よし、行ってこい」
「おう。行くぞ、旭!」
「はいはい」
おつかいのメモを渡されてはしゃぐ子供のように、益子は軽く飛び跳ねながらコートに戻っていく。
まさしくその保護者に見える旭の背中を、倉石はしばらく目で追ってから、神藤コーチに狼森を呼ぶように伝えた。
狼森の後を追って志波姫が出ていき、アップゾーンには入れ替わりに豊橋が入ってくる。
「おう、アンリ」
「久世ちゃん、調子どう?」
「そら、やってみなわからんわ。最近試合してないしな」
軽やかに踵を返し、久御山は隅に置いたバッグからタオルを取り出した。
汗をぬぐい、自分のラケットを手に取ると、ストリングスの格子をぎゅっと見つめて、それからしばらく目を閉じる。
彼女なりの、集中に入るルーティンなのだろう。
それから無口になった彼女から離れ、望はディスプレイに目をやる。
「うわ、もう終わり……?」
第二セットも大詰め、マッチポイントを迎えて、サービスを打つのは旭だ。
先ほどまでと変わらないロングサービスを、丁寧なバックスイングからコート奥隅へ通す。
「サービス良いよね、旭さん」
「そうだね……ていうか、全部上手いと思うけど」
何でもそつなくこなす──というのが、望の旭海莉に対する評価だ。
それはもしかしたら、益子泪と言うパートナーの威を借りているだけなのかもしれないが、ともかくそれを確かめる手段は、彼女がシングルスのコートに立たない限り存在しない。
「石澤さんは、これからどうするの?」
「え?」
進路の話、と豊橋は言った。
望は首を捻り、ううんと唸る。
今、自分がここにいるのは、宮崎の大会で優勝したからだ。
あの時戦った七試合は、周囲で見ていたらしいスカウトに、どんなふうに映ったのだろう。
望には、誰がその『スカウト』かは見分けがつかなかったし、そもそも観客席を眺めるほどの余裕はなく、目の前の試合に退屈もしていなかった。
今日とはまるで逆だ。
既に自分の出番は終わってしまったし、あれがロシア代表のダブルスペアでトップの実力だというのなら、益子と旭の試合も、これだけ大差がついているのは容易に理解できる。
観客席で荒垣と羽咲が暇そうに眺めているのも良く見えたし、倉石監督が普段のように、じっくりと腰を据えて見守ってくれているのも、なんならラリーの最中にだって確かめることが出来た。
「アンリはどうするの?」
「んー……まあ大学かな。セレクション受けたところも、宮崎の大会も含めて検討するって返事来たし……」
「やっぱ、そういうのあるんだ──私はまだ、なんにもないけど」
(ま、でも……ないならないでも、いいけど)
バドミントンの強豪大学というのは、得てして偏差値はさほど高くない私立大学が多いから、一般入試で入るのはそれほど苦労しないだろう。
──どうして、あんなに切羽詰まって部活をやっていたのだろう。
望は、ここ最近の自分がずいぶん楽観的な人間に変化してきたことを、不思議に思っている。
いつも心が押し固められているような、不自由さを感じながら。
それはきっと、倉石のせいだけではないはずだ。
(ヘタクソだったから、かな?)
望は思わず含み笑いを漏らしてしまう。
なんとなく、そんな至極単純な理由の気もする。
純粋にバドミントンを楽しむことが出来たのは、あの宮崎の大会ぐらいのものだ。
そして今も、自分ひとりで色々なものを背負う必要はないから、世界大会だって、楽しんでプレーできている。
「どこ行っても、バドミントンはやると思うよ──」
ぽつりと漏らした言葉に、豊橋は頷いて何かを言おうとしたが、突如なだれ込んできた騒がしい二人──ほとんど一人の声に掻き消される。
「旭、ギャツビー!」
「自分で取れや……」
旭は自分のバッグからウェットティッシュを取り出すと、パックを丸ごと益子に投げつける。
タオルだドリンクだと騒ぎまわる益子をよそに、久御山はすっかり自分の世界に入っていて、身じろぎ一つせずに虚空を見つめていた。
不満げな顔を見せながらも、ちゃっかり益子より先に自分の分を抜いた旭は、充実の表情で身体を伝う汗を拭っている。
こんな面白い奴等が、世界にはあと何人いるんだろう。
望は、ああ、だから今──楽しいんだと気付いた。