率直に言って、高校三年間──実質的には二年半だが──の部活は短いものだったと、望は思っている。
もってできたことがあるんじゃないか、もっと上手くなれたんじゃないか。
そうした後悔が百パーセントではないにしろ、部活動としては引退試合となった志波姫戦のあと、望の心を埋めていた。
今になってみれば、倉石の言う『セオリー』もよく理解できるし、彼がそうした自分の考え方に選手を嵌めていく指導方針であるのも、こうした後悔を最小限に抑えようとする努力の結果なのは、わかっている。
彼がスカウトしてくるのは、決まって中庸な選手だ。
荒垣のように一つの武器に拘る選手にはなかなか手を出さないし、彼女の抱えている潜在的なリスクだけが、特待枠から外れた原因ではない。
(でも……)
益子をして鋭いと言わしめたスマッシュを放つ志波姫は、自分とほとんど体格が違わない。
彼が滅多に使わない『天才』という言葉で評した羽咲でさえ、それでも出発点は同じはずなのだから──と、望はある意味で希望を抱いている。
それは逗子総合のエースとしての責任から解き放たれた高揚感による、一時的なものかもしれない。
今のこの大会が楽しい、というのもあるだろう。
同じ競技に打ち込む仲間たち──望は、自分の『順位』はその中でも下の方、なんなら一番下かも知れないと考えているが、そうした仲間と共に過ごす時間は貴重だし、現役時代はそうした『上』で渡り合う機会もほとんどなかったものだから、とりあえず大学、あわよくば社会人でもバドミントンを続けるつもりでいる望には、楽しくないはずがなかった。
そこから得られるものも、多くある。
望はふと、ぼんやりとディスプレイを見上げている志波姫に目を向けた。
旭と益子が騒がしく歩き回っている横で、彼女たちと会話を交わすでもなく、また画面の中の狼森の試合を心配している風でもない。
今日は昨日と違って、狼森は『自分のセオリー』をしっかりとなぞることが出来ているようだ。
まだ試合は始まったばかりだが、三点のリードを抱えてインターバルに手を掛けようとしているのは、彼女の方だった。
そして十一点目のリプレイを、望は志波姫の横に並んで見つめる。
「あれ、拾うか……」
ロシアのシングルス1、マイラ=シェフチェンコは、望たちや旭たちの対戦したメンバーと同様に、身長が高く強打で押し込んでくるタイプだ。
ただし、画面越しでさえ、ステップワークがあまり上手ではないのがわかる。
歩幅が大きいぶん、重心が身体から遠く離れてしまい、切り返しにもたつくシーンが多い。
狼森は最初の『一本目』の強打を上手く返球することが出来れば、その後はほとんど優位に立てている。
11-7となり、今日は充実満面と言った表情で、狼森はベンチに戻る。
「いいな、狼森。後半もこのまま行って、第一セットは貰っておこう」
「んだ」
「体力が落ちてきた、と思っても、このセットはそのまま走り切るんだ。第二セットは多少抜いてもいいし、疲労にアジャストできてきたと感じたら、そこから作り直せばいい」
「んだ」
汗を拭き、ドリンクを飲み、仕草は慌ただしいが、彼女の明瞭な返事からして、倉石は狼森が自分の指示をしっかりと聞いているのは理解している。
こういう選手は、指導者によって大きく成長の形が変わる。
倉石は経験則でそのことを知っていた。
(青森高田の監督は、面識がないが……なるほど、志波姫にさえ一泡やっつけるかもしれない、と言われている狼森だ。ただのスピード狂ではない……)
自分の武器はそれとして磨き上げ、また足りないものもしっかりと理解している。
それは、志波姫唯華と言う絶対的な存在を追い続けた結果だと、倉石は考えていた。
(それが悪い方に顔を出したのが、昨日だが……まあ、人並みに緊張もしていたんだろう)
そこを解してやれなかったのは自分たちのミスだ。
出来ることなら、代表に呼んだ選手の指導者も、同時に呼ぶことが好ましい。
豊橋や旭たちならともかく、狼森はまだまだ、志波姫が言うところの『バドミントンでしか遊ばない子供』だから、いきなり世界大会で自分のスタイルを出せと言うのは、無理ではないにしても難しい注文だ。
主審がインターバルの終了を告げると、狼森は肩にかけていたタオルでもう一度顔を拭いて、豊橋に手渡す。
「──よし、行ってこい」
「おう!」
元気のよい返事を聞いて、倉石も安心する。
望や荒垣、羽咲はともかく、他の選手に対しての彼の『先入観』と実際の形の乖離は大きい。
(……狼森の場合は、戦術の『理解度』と『自由度』がまだまだマッチしていない……考えてプレーしているのはよくわかるが、例えば羽咲戦や、おそらく何度かあった志波姫戦と同じように、『考えすぎる』傾向がある──)
昨日の中国代表は、バドミントン強豪国と言うこともあって日本のメディアでも紹介される機会は多いし、松川が入手してきた情報も、今日のロシア代表より格段に多く、また精度も良かった。
対戦相手のマイラ=シェフチェンコについては、ほとんどろくな情報もない。
だが逆に、そのことが狼森の頭の中をシンプルにさせ、彼女が『自分』を中心において戦うことが出来ている要因かもしれない、と倉石は思う。
「今日は、いい感じだね」
「ん? そうだね……」
もちろん昨日は観客席にいたから、たとえば試合中の狼森の細かい表情まではわからなかった。
それでも、望の感想に同意してくれた志波姫に、彼女は安堵する。
マットの上でくんずほぐれつストレッチを繰り返している旭と益子は、狼森の試合もほとんど興味を示さず、自分たちの試合を振り返っている。
「縦、縦、横?」
「いや、縦、縦、縦、縦、横ぐらいでいいよ。縦長のラリーだから、それに合わせて──」
あまりに抽象的すぎて、遠巻きに眺めている望にはよくわからないが、旭はそれで理解したようだ。
汗が冷えて来たらしい益子のくしゃみにも動じず、隅のパイプ椅子に腰を下ろした久御山は、ゆっくりとした手つきで靴紐を結んでいる。
彼女も今日が初出場だ。
他人を遠ざける空気などめったに出さない久御山だが、今はどことなく近寄り辛い。
自然に望は、志波姫と話をすることになる。
「うん……一発目がキモだね」
第一セット後半も、狼森がポイントをとれるかどうかは、シェフチェンコの最初の強打に対するレシーブにかかっていた。
上手く抑えて返球できれば、その後は狼森のスピードが一気に輝きを放つ。
また逆に、返球が伸びたり浮いてしまったりすると、それはシェフチェンコの強打が連発されるきっかけとなってしまい、そうした時には狼森はポイントを落としてしまう。
「ミスったらもう、すぐ捨てればいいのに……」
望が呟いた一言に、志波姫はほんの少し眉尻を下げた。
その表情は望が見止めるところではなかったが、ともあれ彼女は、倉石の教えもあって、むやみやたらにはボールを追わない。
体力的な不安をカバーするためでもあるし、倉石もフットワークの強化としては厳しいノックを打つことも多いが、試合の中では『無理なボールは捨てる』という選択肢を、選手たちに示すことが多々ある。
今の狼森のラリーを見ていても、そうした最初の取っ掛かりで躓いた時はほとんどポイントを奪われてしまっているし、それでも強打の半分以上はきちんとコントロールして返せているから、この点差なのだ。
だから猶更望には、自分が不利に回った時点で切り捨てるのは、クレバーな選択に思える。
もちろん荒垣ならそれを良しとせず、それこそ膝が壊れるまで受けて回るだろう。
「あかねは私の背中見てるからね……」
志波姫の言わんとするところは、『どんなボールでも食らいつく』自分の姿ではなく、そもそもどんな強打でも『きちんとコントロールする』自分だと補足した。
益子や津幡、また最近ではコニーの強打ですら、自由には打たせない彼女だからそれが出来るのだろうが、狼森はまだ、相手の強打を封殺することは出来ない。
彼女とシェフチェンコの身長差では、それは一生かかっても無理な相談かも知れないが、昨日のこともあって、狼森はとにかく足を出して、全ての打球に対して食らいついて行っている。
(まだ、自分の試合だけで手一杯……これは仕方がない)
本州最北端の田舎のこと、団体戦で毎年常連になるほどは選手の揃わない青森高田では、『上』でチーム戦を戦う経験もそう得られない。
ましてやまだ二年生──体力的な不安を考慮すれば、単複のダブルエントリーは三年生に役割が回る。
精神的な面でも、彼女に任せるのはシングルスの一試合だけが妥当だろう。
もちろんこれからは彼女が最上級生になるし、団体で県予選を勝ち上がっていくには、狼森が単複で出場しないまでも、こうした団体戦での試合運びを経験させるのは、彼女のためになる。
第一セット後半は、少し動きの落ちて来た狼森が、それでも足を動かして獲りきった。
21-18。
セットの終了を見てアップゾーンから戻ってきた志波姫と望が、彼女の世話をして回る。
その後に遅れて久御山が登場し、入れ替わりに豊橋がアップゾーンに入っていく。
「疲れは、どうだ?」
「ある……けど、追いかける展開は嫌いだ」
「フムン──」
本音を言えば、もう少し苦労せずに第一セットを獲っておきたかった。
十八本も相手に与えてしまったのは、後半に入って少し体力が落ちたことと、そのせいでメリハリが効かなくなってしまったのが原因だ。
だが、それを今狼森に諭すのは混乱してしまうだろうし、本人がまだ走るという意思を崩していないのなら、とりあえずは好きなようにやらせてもいいだろう、と倉石は考えた。
もし第二セット前半をビハインドで終えることがあれば、そこから本格的にテコ入れをしていっても、今日の相手なら十分間に合う。
昔の荒垣と同じように、強打一辺倒で単純な攻めしかしてこないなら、いくらでもやりようはあるのだ。
「なら、走れるところまでは走れ。ただし、ベストプレーが出来ないと思ったら、そこは一気にペースを落としていい」
「んー……」
含んだドリンクをゆっくりと飲み落としながら、狼森は唸る。
「難しいか?」
「いや、やるよ」
バドミントンは、例えば野球やソフトボールのように、攻撃側と守備側で完全に分かれているわけではない。
一本のミスショットで、一瞬にしてラリーの攻守は入れ替わる。
狼森のような『速い』プレイヤーは、得てしてその速さに自滅しがちだ。
自分のターンを冷静に見極めなければ、ポイントを奪うのにも無駄な体力を使ってしまうし、そうしたことの積み重ねが、終盤の失速の原因になってしまう。
本来そうした自分の武器を使って『優位に立つ』のは、自分が攻撃側に位置している時だけでいい。
もっともまだ今の狼森には、そこまでラリーの流れを読み取ることは出来ないのだろう。
「まあ、簡単なことじゃないが、トライしてみろ」
「んだ……行ってくる」
言ってしまえば、昨日の旭たちの試合運びも、決して褒められたものではないし、倉石がその時言ったように、極めてリスクが大きい。
それを成立させる鍵は、益子泪の『才能』と、旭と益子のダブルスペアとしての『経験値』に踏み込んだ部分になってしまうからだ。
同じことを例えば羽咲と豊橋、あるいは今日の望と志波姫に求めても、そう上手くはいかない。
羽咲なら実力でなんとか手じまいにしてしまえるだろうし、志波姫はそもそもそんなリスキーな戦術を選択するはずがないが、それはあくまで同年代同士だから出来ることだ。
これから『無差別級』の試合をこなしていく上で、如何に三強と言えども、自分より五つも十も年上の選手とやる時には、そうした経験値で後れを取ってしまうのは否めない。
それを少しでも教えることが出来れば、と倉石は考えている。
果たして狼森は失速を見せず、インターバルに向けて先手を取り続ける。
8-7と点差は薄いが、内容的には『もう一押し』といったところでポイントを落とすシーンも多く、彼女がこだわり続けてきたスピードが落ちないのであれば、このまま逃げ切りができそうな雰囲気だ。
(──第一セットのもつれは、当然マイラ=シェフチェンコの方にも影響を及ぼしている……どちらかといえば攻め手を潰されて落とした分、精神的にキているのは向こうの方だろう)
コート上の狼森も、一番厳しいこの場面を乗り切れば、あとはホームストレートを駆け抜けるだけど言わんばかりに、気合のサイドダッシュから連続ポイントを奪った。
シェフチェンコがシャトル交換をしている間、日本のベンチからは激励の声が飛ぶ。
「あかね、いいよ! あと一点しっかり取ろう!」
激しい呼吸を肩で抑え込みつつ、コート上の狼森はこちらを振り向かず、頷いている。
サイズの小さい狼森の方が、同じ動きをするならば体力の消費は少ないはずだ。
そうした根拠から、倉石はある一定の『安心感』を抱いてはいるが、今度は持ち直したシェフチェンコが強打を二本沈め、譲らずの展開。
「打開策は──」
先の見えない展開に、望の方は少し心配顔だが、志波姫は口角を落とした唇を真一文字に結び、じっとコートを見つめている。
その表情には、倉石達にも見覚えがあった。
インターハイ団体戦、逗子総合と対戦した時のことだ。
自らのウォーミングアップもそこそこに、彼女はベンチから、あるいはアップゾーンから他のメンバーの戦いを見ていた。
盤石の白石・美里ペアによる先制も、その後の多賀城・矢本の敗北も。
変わらぬ表情でその戦いぶりを見つめている志波姫は、よく記憶に残っている。
自分の試合の時はそこそこに表情も動くのだが、コート周りの『結界』を出入りすることで、スイッチを切り替えているのだろう。
そんな結界に、久御山が入ってきた。
「──どんなもん?」
「これ取ればインターバル。相手も落ちてきたし、多分勝てるよ」
「そうか」
ベンチの一番端に腰を落とし、手に持ったドリンクを呷る。
ふうっと息を吐き出して、彼女は気合を入れ直すように、手櫛でゆっくりと髪を整えてから、すっと目を閉じて──最後の準備に入ったようだ。
コート上に響く豪快な打球音も、せわしない足音も、聞こえていない風で。
インターバルを告げる主審のコールに少しだけ顔を上げた後、小さく二、三度頷いてまた目線を落とす。
「よしよし、まず息を整えるんだ」
「んはー……はぁ……」
狼森は左手を腹に当て、丹田に力を籠める。
右手にはラケットを握っているから、彼女の両手はふさがっていて、ドリンクとタオルを準備している望たちも、手持無沙汰だ。
十数秒ほど、そうしていただろうか。
狼森は腹から手を放し、望が持つドリンクボトルを貰う。
喉を鳴らして飲み干すと、狼森は大きく息をつき、それを見て志波姫がタオルを肩にかけた。
疲労は想像以上だ、と倉石は思案する。
(神藤コーチの教えた、『頭を振らない』は一応できているが、それでも上体の身のこなしはまだまだ注文を付けたくなる部分が多い……が、今言うべきはそこじゃない)
「とにかく、前半勝って終えたのは大きい。相手も疲労があるのは間違いないんだ。ここから先はビハインドの展開も覚悟しておけよ?」
「んだ……」
それは嫌だ、と狼森は言うが、語気は弱い。
「まあ聞け。今言った通り、シェフチェンコの方も強打の威力は落ちている。向こうが勝ちを意識した瞬間に使う、『最後のスタミナ』だけは残しておくんだ」
「──最後の、スタミナ……」
そうだ、と倉石は強く頷く。
もとよりたった一試合で、すべてのスタミナを使い切ってしまうほど狼森は脆弱ではないし、それはほかの選手も、相手のシェフチェンコもそうだろう。
だが短期的な視線で見れば、一試合の中で疲れがピークに達するポイントは、ちょうど第二ゲームの後半に訪れる。
今日のこの試合で行けば第一セットは相当に競った展開だし、ひとつひとつのポイントを奪い合うラリーも長い。
それが第二セット前半まで二点差で来ているのだから、これからお互いに疲労は隠せなくなってくる。
「その最後のスタミナに手を付けない限りは、相手に先に行かれてもいい──上手くやれれば、狼森、お前が予選突破を決めるMVPだ」
そうでないなら、MVPは久御山に取られてしまうぞ、と倉石は発破をかける。
当の本人──久御山はこちらの話も聞いていないようで、ベンチの端っこに座ったまま、小指で眉を掻いている。
それを見てようやく、狼森にも普段の不敵な表情が戻ってきたようだ。
「……じゃあ、何点までリードをやっていいんだ?」
「そうだな──二点だ。三点差では一気にまくるのは難しいし、一点差では明確なギアの切り替えが相手に伝わり辛い。多くても少なくてもダメだ」
「……よし、わかったよ監督」
狼森がコートに戻って行き、望と志波姫も再びベンチに座る。
旭と益子は相変わらずアップゾーンの中にいるようだが、何をしているのかはここからは見えない。
「……ん? どうした、石澤」
名前を呼ばれて、望は初めて自分が倉石を見つめていたことに気付く。
「へ? あ、いえ、なんでも──」
慌てて目線を正面に戻し、望は再開された試合を眺めた。
「不思議か? 俺がああいう指示をするのは」
「え? まあ……」
二年生にやらせるには、リスクの高すぎる戦術だ──そう望が考えているらしいと、倉石はその表情を読み解く。
そして、倉石は自分が来ている代表のジャージ、その左胸に縫い付けられた日の丸を指さして言った。
「──『これ』を着ているんだ、俺たちは。難しいことも要求するさ」
「そう、ですよね……すいません」
「はっは……別に謝ることじゃない、石澤」
そう言われ顔を綻ばせた望だが、確かにさっきのは愚問だったなと自省する。
自分だって、部活の時はほとんど打ちもしなかった『強打』を狙いながら戦っていたし、結果として試合前に意図していたものとは違う形だが、より『自分らしい』強打を打てたという実感はあった。
つまりそれが、こういった大きな大会に出ないと得られない経験値であるし、それによる『成長』込みで彼は指示を出しているのだと、望は気づく。
逗子総合のエースとして戦っていく中で、『厳しいこと』ならともかく、難しいことを要求された記憶は、望には少なかった。
自分の知る限り、ほかの部員もそうだろう。
勝利に対してのシビアさは、武山たち下級生の話を聞く限り変わっていないが、そこに至るメソッドはより彼女たちが受け入れやすい形で、倉石は伝えている。
だからこそ、我の強い狼森にも彼の与えたセオリーはすっと入って、倉石の思惑通り、また狼森が実践している通りに試合は進行している。
12-13。
(一点の余裕、と思えばいいのか……)
連続ポイントを奪われる間に取り返したのは、わずかに一点だが、狼森に焦りはない。
インターバル中に受けた指示を頭の中で何度も反芻し、焦るな、焦るなと過熱し始めた身体と心を抑え込む。
そうすると案外、身体も軽くなってくるようで、がむしゃらにポイントを取り返しに行かない分のエネルギーを、狼森はほかのことに使い始める。
(確かに、強打はだいぶ落ちてる……向こうも疲れてるんだ)
ネット前から少し下がった位置で、狼森はシェフチェンコの動きをじっくり見定めながら、リターンを返す。
盤石の体勢でなければ、パワーの落ちたスマッシュも、触れないほどではない。
もともとコースは甘いのだから、ブロックに走るのもほどほどでいい。
最初からこうすれば、もっと楽に──と、シェフチェンコがスマッシュをサイドに外してしまった。
「む……」
思いがけず同点となって、狼森がサービスに回る。
想像以上に、好調に試合が推移しているように思えるが、倉石の心中は穏やかでない。
(フムン……我慢だぞ、狼森)
こうなってくると、点数の計算を始めてしまいがちだが、今それをやってしまうとせっかくの戦術が狂ってしまう。
試合を決めるまでには八点が必要だが、ここが最終コーナーと決めつけて走ってしまうと、最悪のタイミングでガス欠が来るだろう。
(まだ……まだ浅い──そうだ、焦らなくていい)
倉石の危惧はひとまず、取り越し苦労に終わる。
狼森は丁寧にロングサービスを打ち上げてシェフチェンコをコート奥に押し留めつつ、自らも決して不用意に前には出ない。
昨日の敗北が、彼女の負けん気を削いでいるわけでもないだろう。
ややプレッシャーに圧迫され気味ではあるが、精神的には決して悪い状態ではない。
シェフチェンコとてロシアの代表だ。
年齢は狼森より一つ上だし、やや精密さに欠けるものの、それを気にせず強打を打ってくるメンタルや、バタバタしながらもしっかりと走れる足回りから見ても、実力は疑いのないものがある。
つまりは妥当なスコア──むしろ健闘しているといっていい。
(あの負けがあったから成長できた──雑誌なんかじゃよく見るセリフだが、それを言えるのは最終的に『勝者』となった者だけだ……)
長いラリーの最後、今度はシェフチェンコがポイントを奪う。
少しだけネット前での張り合いとなったが、狼森が遠くに弾いたロブを無理やり叩いたドリブンクリアが、上手いこと失速してライン際に落ちた。
(ネットインほど明確じゃないが、これは完全にラッキーポイント──第一セットの狼森なら走って拾いに行っただろうが、ここはもう、そういう時間帯じゃない)
シャトルを拾って返す狼森も、その所作はいたって穏やかだ。
足が動かない苛立ちなど、微塵も感じさせない。
そのまま行けよ、と目線を送り、倉石はベンチの端に移動する。
「久御山」
「……ん? なんや、監督」
敬語ではないが、敬意がないわけではない。
瞑っていた目をしっかりと開いて、久御山は倉石に目を合わせる。
「相手の情報、要るか?」
「ん、んー……」
久御山は再び顔を落とし、右手に持ったラケットをおでこに当て、ぽんぽんと頭を叩いた。
「──勝負掛かってたら、試合前に聞くわ」
「そうか……」
倉石は松川から受け取った資料を閉じ、もとの位置に戻った。
今回代表に呼んだ中で、いちばん『掴みどころのない』のが彼女だと、久御山について倉石は考えている。
それはバドミントンのプレーのこともあるが、一人の人間としても。
志波姫については、たとえば彼女を表現する語句はいくつもすぐに浮かぶ。
軽やか、飄々として──また献身的でもあるというのは、彼女の母校での主将ぶりを見聞きするでもなく、短期間で理解できた。
益子泪のことは、それこそ家庭環境の話や、特待騒動に絡むいろいろな事件に、倉石も人づてに聞いた話も多く、また、代表で一緒に過ごし、彼女の試合を一番近いところで見たとき、『本当は、そうじゃないんだ』という部分もはっきりと感じられた。
(泰然自若──志波姫にも当てはまるが、他者との関係性を重んじる部分が最も先に来る……)
もちろん、久御山がチームワークに乏しいとか、人当たりが良くないということは全くない。
むしろコートを離れれば人懐っこいところが多く、その内外をしっかりと切り分けられるアスリート、といった印象を倉石は得ている。
ただ、単純に実力が計り知れない──。
(インターハイの荒垣戦、久御山は第二セットを取り返し、最終セットまでもつれ込んだ……)
コニー戦の覚醒前、という条件付きで言えば、それは教え子と同じゲームスコアだが、第三セットを望は十本も行かずに落としたのに対し、久御山は十七本まで粘っている。
(だが宮崎では、石澤が完勝している……それを素直に、石澤が成長した結果と受け取ってもいいが──)
試合のサイズによって、自分のポテンシャルを閉じたり開いたりするタイプなのか、と倉石は考える。
それを確かめるには、勝敗のかかった場面──すなわち、狼森が負けた場合に、彼女の本質を知ることができるかもしれない。
ただ、コート上では狼森がしっかりと倉石のセオリーに乗り、自分の仕事を忘れずに実行している。
16-18。
「──よし、狼森! ゴッ、ゴー!」
突然の、後ろからの大きな声に狼森は何事かと振り返るが、身振りも大きい倉石がその声の主だとわかり、安心してサービスの構えに入る。
選択したのはショートサービス。
もう、強打は打たせないとばかりに一気にネット前に詰め、足が出ず手で拾い上げたシェフチェンコのリターンを逆サイドに振り飛ばす。
あっけなく一点を奪い返し、そして間髪入れずに速攻──。
今度は予期していたらしいシェフチェンコはしかし、前に詰めてくる狼森のプレッシャーから逃げてしまう。
頭上に上がったロブを追って、狼森は大きく跳んだ。
「──おりゃ!」
コートミドルからのジャンピングスマッシュ。
角度はつかず、コースは甘い。
が、これも積極的な返球はできず、シェフチェンコはさらに押し込むべくドリブンクリアー。
長いストローク勝負でも引けを取らないのが、狼森あかねが二年生にして打倒志波姫の最先鋒に挙げられている理由だ。
キレよくラケットを振りぬき、捩れのない綺麗な弾道が、空いたサイドへ飛んで行く。
悲鳴を上げている筋肉をなだめながら、シェフチェンコは何とか追いつくが、また逆を突いた狼森のスマッシュドライブに、もう勘弁とばかりに追う足を緩める──。
18-18。
ダメ押しとばかりに今度は長いサービスを狼森は放ち、ジャンピングスマッシュで返したシェフチェンコの『戻り』が遅いとみるや、上手く体全体でいなしたストップショットで、ノータッチエースを奪った。
(一気にまくった──!)
「よしよしよし、いいぞ狼森! 攻めろ、ミスを恐れるな、攻めろ──!」
「おっしゃ!」
その時、視界の隅で、ふふ、と久御山が小さく笑ったのを、望は見止めた。
コート上で起こる出来事をひたすら楽しんでいるような、穏やかな笑顔。
目立たないように控えめに笑ったのは、そこにもう一つ、自分がMVPになり損ねた、という苦笑いも含んでいるのだろう。
狼森を中心に広がる歓喜の輪をよそに、久御山は音もなく立ち上がる。
「久御山──」
「ん?」
倉石の呼び止めに応じて身体を翻した彼女の、表情は柔らかだ。
「相手の情報なら、いらんで」
「そう、か……? まあ、しっかり自分の調子を確かめながら、やっていけ」
「ほいほい」
軽やかにラケットを振り回しながら、久御山は対戦相手のナターリア=シャンキチの待つコートへと向かう。
充実の表情で、心地よい疲労感に任せて志波姫にもたれかかっている狼森は、そのままアップゾーンへと連れていかれた。
(さて……何はともあれ、これで予選一位が確定──仮にウチがポルトガルに負け、明日のロシアと中国がどういう結果になろうと、直接対決で両方とも勝っている……久御山には少し悪いことをしたかもしれん)
代表合宿でも、神藤コーチたちから久御山にはさほどの注文もなく、ただ彼女の調整に時間を費やしてもらった。
充分とは言えないが、もともと久御山は宮崎の大会も石澤に敗れたのみの六勝一敗と好成績で終えている。
それは今夏のインターハイで、第三シードにエントリーされた評価に違わず、実力を発揮した結果だ。
(──ほな、いきますか)
オープニングサーバーは久御山だ。
やや長めの間合いから、まずは相手を見るショートサービス。
対面のナターリアは機敏に反応し、久御山をコート奥に抑え込む、長いロビングを放つ。
穏やかなラリーが続くコートを見つめる望の横に、旭が座る。
「旭、おつかれ」
「うん」
益子の方は、さっきアップゾーンに入っていた志波姫にちょっかいでも出されているのだろう。
コートの上では、久御山があまり気忙しいステップを踏むこともなく、ナターリアのドライブをバックハンドでいなしながら、じっくりと相手の様子を見る、といった格好だ。
(初手から遮二無二攻めていかないあたり、こういう大会のサイズ感によく慣れている──)
久御山の試合を見るのは、倉石にとっては二度目だ。
団体戦で敗退し、ひとまずは『引退』した望とともに、荒垣との試合を観戦していた。
その時と印象は変わらない。
(フィジカルはそれこそ、石澤や志波姫と変わらない。少し背が高い点を考慮すれば、旭が一番近いか……)
バックハンドのストロークでも、おいそれとナターリアに強打を打たせないあたり、その精度は高い。
荒垣戦でも見られた、時折挟む『止め』のショットがよく効いていて、相手に『立ち位置』を安定させていない。
(前後の揺さぶりは、石澤にも共通する、久御山の基本戦術だ──)
ひとたび攻勢に回れば、高い打点からの強いドライブで、相手を押し込んでいく。
ゆったりとしたテンポだが、ゲームを確実に前に進めているのは久御山の方だ。
6-3。
今一つ意図が見えない打球が目に付くのは、すでに勝敗が決まったという喪失感によるものかもしれないが、とりあえず倉石には、さほど注意を払うようなシーンは見つからなかった。
それは、隣に座っている立花や神藤コーチ、望と旭も同じだ。
「久御山さんと、インターハイでやったんでしょ?」
「ん? ああ──」
珍しく年上を『さん』付けで呼ぶあたり、まだ羽咲もアイツのことを良くわかっていないのだろう。
あるいは単純に、関西弁が怖いのかもしれない、と荒垣は考える。
「強かったよ」
日本一になる、という夢が霞むほどではないが、荒垣はその時対峙した久御山に、端的に『恐怖』を抱いていた。
それまでの試合とは違い、盤石の体勢で打ったスマッシュでさえ、こともなげに拾われたことが何度も。
最終的に勝ちはしたが、最後の最後までヒタヒタと追ってくる彼女の姿に、ここで終わるかもしれない──そう思ったのは事実だ。
「久御山さんは、すごく『奥行き』のあるプレイヤーだからね」
松川が言う。
椅子に座ったまま、彼女は手ぶりでその言葉の意味を説明した。
「例えば石澤さんはスイングの中でも、フォロースルーがしっかりと取れるタイプ。面を作ってからの押し込みがいいから、シャトルが良く伸びる……」
久御山は逆に、面を作るまでの精度や速さ、パワーが優れている、と彼女は分析した。
奥行き、とはつまりスイングの懐のことだ。
やや大きめのサイズのわりに、荒垣の強打にも難なく対応できるボディワークからも、その片鱗は見られた。
ショットで裏をかく、というわけではないが、そうした意味では、志波姫にも通じる。
「リストが強いね、おそらく……安易に面を前に出さない。あれならボディフェイントがなくても、コースは読みづらいわ」
ラケットの面を作ってしまえば、そこから打球のコースを変えるのは難しくなる。
望のように天性の肘の柔らかさがあれば、その肘を例えば前に抜くことで、ストレートに作った面を相対的に遅らせてクロスへ──といったようなことができる。
久御山の場合はそもそも、深くシャトルをとらえて打ち返すことができるから、そうした小細工はできないとしても、もとよりその必要がない。
ナターリアの表情にも、そうした『違和感』を覚えていることが見て取れた。
強打を苦にしない──。
久御山はそれこそ『好き勝手』にナターリアに強打を打たせている。
しかしそのほとんどは、深く構えたラケットに絡めとられ、二の矢を放つべく体重移動したナターリアの逆をことごとく突いて、彼女のバランスを崩す。
リセットを意図したナターリアのクリアーが少しでも甘くなれば、今度は久御山の手番だ。
低弾道のドライブを二本左右に振り分けた後、クロスへのリバースカットを拾いに走ったナターリアがネットにかけ、前半が終わる。
11-7。
「おっしゃ」
強打で押し込む典型的なロシア選手のセオリーを、久御山は完全に打ち砕いていた。
コートに入った時と同じように、ラケットを手首でこね回しながら、彼女はコートを出る。
(強い……)
口には出さず、至って平穏を装いながら、望は彼女にタオルとドリンクを手渡した。
ほんのわずかに水分を補給した後は、久御山はそのままタオルを被ってベンチに座る。
「……久御山」
「はん?」
ううん、と倉石は唸る。
試合運びは完璧だ。
相手の意図を破壊し、こちらは最小限の労力で試合を優位に進めている。
「──いや、素晴らしい出来だ。このまま行っていい」
「ほい」
夏の第三シードなのだし、このぐらいのポテンシャルはあってもおかしくないのだが、ここまで『自然体』で相手を圧倒するとは、倉石も想像していなかった。
もうちょっと、自分が勝負の瀬戸際に立てない悔しさや、初の国際試合ということで浮足立ったところも──。
(まあ、そりゃあ無いに越したことはないが……石澤と違って可愛げがないな)
苦笑しつつも、久御山に全幅の信頼を置いているというアピールを見せ、倉石は早々にノートを閉じてベンチに腰を落ち着けた。
対面のナターリアは、その膝に巻いたサポーターの上から、冷却スプレーを吹いてもらっている。
「膝、悪いのかな……」
「あのサイズだし、見たところ強打一辺倒だ。そりゃあ膝も悪くするさ」
全員が荒垣のようなプレイスタイルだから、同じような弱点を抱えているのは間違いない。
そうした見た目にわかりやすい『力強さ』がロシアでは受けるのだろう。
インターバル明けも変わらず、久御山はラケットを手でもてあそびながら、軽やかにコートに戻ってゆく。
「あの子、膝悪いの?」
「ん──そうみたいだね、資料には特になかったけど……」
サポーターを巻くだけなら、それは予防の意味でも特段おかしな行為ではない。
情熱的にプレーするタイプの選手なら──これまでのロシア選手は、おおむねそうだったが──、コートに飛び込んで膝を強打することもあるだろう。
だが、インターバル中にスプレーでアイシングを施す、となれば少し事情は変わる。
荒垣も、気が気でない様子だ。
望とは違い、躊躇なくナターリアを振り回している久御山の背中に、少しだけ、あの時に感じた『恐怖』を思い出す。
(ん……?)
ナターリアのサービスを返しつつ、久御山は彼女の足運びに不可解な点を見つける。
右利きの相手が、左足一本で踏み切ったジャンピングスマッシュ。
わずかにカットがかかっているのは、その行動があまり慣れないものだから、面がブレたせいだろう。
(膝来とんのか? もう?)
キレのないそれを、しっかりとスイートスポットで受けて、久御山は彼女のバックサイドへクロスロブを流す。
ナターリアはラウンドに入らず、バックハンドから同様に久御山のバック奥を狙ったロビング。
(ラウンド──)
機敏にステップを踏み、左足を軸に身体を翻した彼女は、もう一度ナターリアの位置を確認する──ホームポジション。
(もう一本対角……はヤメや)
落下点からさらに一歩、右足でコートを蹴り、久御山は身体全体を後ろに置きながら、コート外側に正面を開く。
「よいしょ──!」
横薙ぎに叩かれたシャトルは、追いすがるナターリアから逃げるように、サイドラインに向かって捩れて落ちてゆく。
ストレートへのリバースカットが決まり、14-7。
(上手い……選択肢としてはクロスへのリバースカットも、ストレートなら普通にスマッシュドライブもあった。それにしたってナターリアは追いつけなかっただろう──だがあえて一拍待って、難しいコースへの、伸びを抑えたリバースカット……)
奥の手、というほど勿体ぶったショットではない。
その使いこなしぶりは、教え子を上回っている──倉石は天を仰いだ。
上背と、強靭な手首のホールドから繰り出される緩急。
何でもないようにシャトルを受け取り、丁寧に羽根を揃える久御山からは、気負いも、彼女がその選択に込めた本当の意味も透けては見えない。
早い間合いで打ったショートサービスに、ナターリアが前への意識を強めたとみるや、今度はボディへの強打を差し込み、食い下がる相手の上を超すクリア。
ネットにほとんど背中を向けて返球したナターリアのロブに、久御山はわざわざ飛び上がってのスマッシュをコートに叩きつけてみせた。
(ここまで『四次元』を使いこなせるか……)
立体空間に加えて、緩急という第四の次元を、久御山は操っている。
これこそが日本の高校生のトップクラスなのだと、世界に示すように。