ポイントを連取していく久御山に対し、ナターリアはさほどの抵抗も見せず、すんなりと第一ゲームは終わった。
21-12と大きく引き離し、目じりに伝う汗を指で撥ねながら、久御山はコートを出る。
「いいぞ、久御山。体力は大丈夫か?」
「まあ……それよか、相手の方が心配やね」
「ん?」
まるで、すでに試合が終わったかのように靴紐をほどき、タオルを腕に撫でつけている彼女の視線を追うと、ロシアのチームドクターらしき女性がベンチ前に出てきて、座り込んだナターリアの足に触れながら、何か会話をしている。
「膝か……まあ、準備は怠るな」
「ほいほい」
久御山がゆっくりとドリンクを呷り、ほどいた靴紐を結び直している間に既定のインターバル時間は過ぎた。
ロシア代表の監督が主審に、エクステンションを希望する。
これは相手チームの同意がないと得られない、余分のインターバルだが、英語の不得意な倉石の代わりに主審のもとに向かった神藤コーチは、ひとまず了解の返事をして戻ってきた。
「受けたけど……別に構わないだろう?」
「ええよ、神藤はん」
「うん──豊橋の準備を急がせよう」
こちら側が受け付けなければ、ナターリアは直ちにコートに戻るか、棄権するかの選択をしなければならない。
ただすでに勝敗が決まっており、また久御山の『試運転』のためにも、ここはそうまで勝負に徹する必要はない、というのが倉石や神藤コーチに共通する意見だった。
神藤コーチがアップゾーンに入って行く。
だが結局、五分間の追加のインターバルを使い切ることなく、ナターリアは棄権を表明した。
「あらまぁ」
ふん、と鼻を鳴らし、久御山は立ち上がる。
ゆっくりとした足取りでコートに向かうが、すでにその右手にラケットはなかった。
プレー中はなんとか我慢していたのだろうが、ナターリアは苦痛を顔に出しながらも、気丈に久御山と握手を交わす。
それから、二人そろって主審に握手を求めたあと、久御山は『気にするな』とでも言うように彼女の背中を軽く叩く。
ナターリアもなんとか笑顔を返すが、ロシアベンチに戻ってゆく足取りは重い。
久御山がコートを出ると同時に、豊橋がアップゾーンから姿を現した。
試合開始までは五分ある。
「豊橋──こういう形になっちまったが、落ち着いてやれ。アップ不足は向こうも同じだろう」
「はい、大丈夫です」
久御山へのねぎらいもそこそこに、豊橋は膝を深く折り曲げてジャンプを繰り返し、それから、その場でダッシュをして、心拍数を一定のレベルに高める。
「棄権かぁ……」
第一セットを戦い切ったことと、それからすぐにスタッフが出てきたことを考えれば、ナターリアはあるいは前半終了時のインターバルあたりからすでに膝の不調を訴えていたのだろう。
もちろん、そのことはアップゾーンにあるディスプレイを通じて豊橋にも伝わっていただろうが、本当に危険をするとまでは考えていなかったはずだ。
おそらく、先手を取られる──苦しい戦いを、松川は予想する。
荒垣の方は、そんなことを全く気にもせず追い込んでいった久御山の怖さにも驚くが、それよりも、自分と同じように膝に不安を抱え、限界を迎えて棄権した経験のあるナターリアの状態に思いを馳せた。
「大丈夫かな……」
「なにが?」
試合への集中はあまり強くないが、観客席をうろうろするほど退屈もしていなかった羽咲は、荒垣ほどは心配していないようだ。
「膝だよ、向こうの」
うん、と生返事を返す羽咲をよそに、荒垣は考える。
途中棄権のリスクがあるほど膝が悪いのなら、そもそも呼ばなければいいのに──とは、同じ立場である彼女からは言えない。
自分だって、明日のポルトガル戦は出場予定だが、いきなり膝が悲鳴を上げる可能性も、決してゼロではないのだから。
もしそうなったときは、今度こそ躊躇なく、はるかに前の段階で止める──立花コーチにはそう告げられているし、その処置には納得しているつもりだ。
今度やってしまったら……という恐怖は、常に心のどこかにある。
その扉を固く閉じて戦い続けたことで、北小町のメンバーに迷惑をかけたことも自覚している。
コニーとの個人戦ならともかく、もう二度と自分勝手はしない。
我を忘れてゲームにのめり込むことの代償は泉や伊勢原、海老名たち、それに『約束』をした志波姫にも、もう十分払った。
「アタシは……今度は自分から言うから」
「ん?……うん」
才能を、いや『荒垣なぎさ』の全てを失いたくない、と言ってくれたコーチのためにも。
「欲求不満?」
「まあ、せやな……」
狼森のストレッチを終えて、今度は久御山に手を出そうとした志波姫を軽くいなしつつ、彼女は胡坐をかいてフロアに腰を下ろした。
「しゃーないけどな。ウチかて、そこのちんちくりんに勝ち決められて、やる気ゼロやったし……」
「うるせーな、いいだろ別に」
悪態をつく狼森も、まともにその軽口を受け取ったわけではない。
久御山が『やる気ゼロ』には到底見えなかったし、狼森自身、今日の勝利には大きな手ごたえを感じているようだ。
凛とした雰囲気をまとって、アップゾーンを出ていく。
「ストレッチしないの?」
「やるけど、あんたの半径五メートル以内では、絶対やらん」
「あははは」
そんな二人の会話に割って入る意図はなかっただろうが、ボーっとディスプレイを眺めていた益子が、体勢を変えて言葉を発する。
「あいつ、『出来てない』な……」
彼女が厳しい表情で眺めている画面の中では、豊橋の苦戦が映されていた。
2-6とスコアはまだまだ序盤戦だが、失点の内容がよくない。
長いラリーを身上とする豊橋が、ロシアの最後の一人、アナスタシア=コルニエンコに押し込まれている。
「また背が高いね、あれも……」
「せやなあ、百八十あるんちゃう? バレーやれや、バレー」
かの国のバレー女子代表では、それでも小さい方だと志波姫が補足する。
ただ、アナスタシアのプレーを見ている限り、フィジカル任せの強打一本槍のプレイヤーでないことはすぐにわかった。
これまでのロシア選手のようにステップの足音が大きくないのは、しっかりと体幹から動けていることの証だ。
志波姫の分析によれば、荒垣と同じようなサイズの津幡が、知る限りでは膝に故障を抱えていないのも、それが理由だという。
「みっちゃんねぇ……なんで来ぇへんかったんやろな」
今でこそ新幹線が開通し、関東方面への遠征も徐々に増えているとは聞くが、加賀雪嶺の練習試合の遠征先といえば、決まって大阪や京都。
久御山のいる宇治天神台とも定期的に試合をしているし、スパルタで鳴らす難波天王寺には年に何度も『道場破り』を仕掛けているらしい。
「久御山は、路と結構やった?」
バドミントンの話やろな? と確認を入れてから、久御山は返事をする。
「勝ったこともあるで? 言うても練習試合やし、選抜は負けたけどな」
「路は単純だからな」
益子が懐かしむように言うと、久御山もそれに同意する。
そうした経験があったから、強打に対してのレセプションを磨こうという志向にもなったし、その結果として、デンマークからやってきた元プロにあそこまで食い下がった荒垣に、ほとんど対等の戦いができたわけだ、と久御山は自己分析をしている。
「アンタらとは結局やらんままやったから、わからんけどな……」
「いっつも反対の山だったもんね、私たち」
トーナメントの四隅に配置される『三強』のほかに、空いた一席を埋めるのは、久御山や狼森が多かった。
たまに長門湯谷都央の深川や、豊橋アンリの名前が出てくることもあったが、関西の高校女子バドミントン界の盟主としての役割は、ほとんど久御山が独りで担っていたようなものだ。
そのおかげで、練習試合で戦っている津幡はともかく、益子や志波姫と戦うためには、最低限ベスト4あたりまで勝ち上がらなくてはならなかったが、決まってそれを阻んだのが、例えば埼玉栄枝の岩崎だったり、深川だったりして、結局大きな大会で彼女たちと久御山が戦うことはなかった。
「まあ、これから先あるやろ、どっかで」
「……そうだね」
『三強』と並び称された益子、志波姫、津幡の三人だが、それは必ずしも完全に抜きんでていたわけではない。
中学時代は『一強』とされてきた益子泪はともかく、地元フレゼリシアに進学し、地道に努力を重ねてきた志波姫唯華や、これまた地元でその牙を研いできた津幡路がそこに肩を並べるようになったのは、存外最近のことだ。
彼女たちを追いかける豊橋や狼森も、もう一息というところまで彼女たちを追い込んだこともあったし、それを幾度となく跳ね返してきたからこそ、『三強』がより鮮明に、観る者に映る。
ただ、久御山はそれほど『三強』を意識していなかったし、そこに割って入る、ましてや上回ることを目標に高校でのバドミントン生活を送っていたわけではない。
それこそ大阪の難波天王寺に進学していれば、猛練習でより強い選手になっていた可能性は十分にあるが、彼女はそれよりも自分のペースで、『自分らしいバドミントン』を追求できる環境を求めて、宇治天神台に進んだ。
一歩身を引いた、野心のない選手──バドミントン記者の間ではもっぱらそのような評価で、特に誌面を賑わすこともなかった彼女だが、それでも着実に力をつけ、三年春の選抜で好成績を残した。
『三強』に最接近したその大会で優勝したのは志波姫だが、反対の山の準決勝で敗れた久御山は、珍しくその試合を観戦する。
沸騰した心を抱えて新幹線に乗り、家に戻ったその夜、彼女はなかなか寝付けなかった。
『あんな選手と、あと少しで試合できた』──マイナスの後悔では決してないが、当てもなく大海を泳ぐ鯨のようなバドミントン人生に、一抹の疑問を覚えたのも事実だ。
まだ、満足できない。
志波姫、荒垣、それに、宮崎の大会で出会った石澤も──。
いつになるかはわからないが、いつか絶対に、やらないと気が済まない。
だが今は、思いがけず同じチームで並び立っている。
ならば、『お前たちの知らないライバルがここにいるぞ』と、そのプレーで叫ばずにはいられないのだ。
豊橋アンリは、いまひとつ熱の入らない身体にムチを打ち、アナスタシア=コルニエンコの強いドライブを何とか拾っている。
スコアは劣勢だが、彼女が本調子ではないということは倉石にはすぐに分かったし、それは仕方のない事として、納得している。
(我々よりも、ナターリア=シャンキチの膝の状態についてはロシア側の方が当然、情報を持っているし、それはリアルタイムだ……少々ズルいとも思うが、前の試合が始まったぐらいから、コルニエンコに準備をさせていたのかもしれない)
倉石には、それを殊更に咎めるつもりはない。
ましてや抗議などする気もなかった。
国際試合なのだ、このぐらいの『場外戦術』はあって当たり前──一年生からインターハイに出ていたほどのプレイヤーである豊橋アンリなら、将来こうした場で戦うこともあるだろうし、こういうことを経験しておくのは、間違いなく彼女のプラスになる。
第一セット後半、ようやくキレが出てきた豊橋は、終盤の追い上げで少しコルニエンコを慌てさせたが、結局は17-21と落としてしまう。
ただし、その表情に苛立ちや、不甲斐なさはない。
「──まぁ、こういうこともある。気にするな、豊橋」
「はいっ」
少し距離を取り、豊橋は屈伸をしたり、足首を捏ね回したりしながら、相手のプレイスタイルについて、望と話をしている。
短いインターバルの間では、さほど深い戦術談義とはならなかったが、豊橋の頭のデフラグには十分だったようで、第二セット序盤に連続ポイントをもぎ取り、試合をイーブンに戻そうと奮闘する。
(ま、でも……)
6-1と走ったところから一点を返され、コルニエンコのショートサービスを長いロブで返球してバックステップを踏む最中、豊橋アンリは思考を巡らせた。
(普通に強いよね、この人──)
自分のウォームアップが不十分だったのは否めないが、ロシアベンチの裏側にも、あまり興味は沸かなかった。
彼女の前にコートに立っていたナターリア=シャンキチが棄権したのは、紛れもない事実なのだから。
それが本当に膝が限界だったのか、その手前で『タイミングを見計らって』の判断だったのかは知らない。
「──っ!」
ともかく目の前の試合だ、と豊橋は集中力を一か所にまとめた。
やや球足の長い、しかし強いスマッシュドライブはしきりに彼女のコートを掘り返そうとしていたが、持ち前のフットワークで追いつき、ラケットの面を器用にはたいて、豊橋は返球が甘くならないように細心の注意を払っている。
(こっちが攻めに回ってるのを嫌ってる……)
ラリースポーツなのだから、手番を取り返そうとするのは当然だ。
どうやって、自分の手番に戻すのか。
豊橋はコルニエンコの『手筋』を、全てのパターンではないにせよ、その攻略法とともに、第一セットの間に見つけていた。
今のところ、それをトレースすることで得点を挙げることが出来ている。
それを見つめる倉石も、意図の濃い彼女のプレースタイルには須らく好意の目を向けていた。
(ストレートとは言え、二セットともデュース寸前まで粘った選手だ──あの羽咲を相手に……)
しかもそれは、逃げ足の速い羽咲を息も切らさず最後まで追い回した、という展開ではない。
深い巡目まで一進一退の攻防、なんなら終盤に前を走っていた時間帯さえあった。
トーナメントの山を駆け上がっていく荒垣を追って、観客席をぐるぐると回る教え子と共にいた倉石だが、その試合を見ていなくても、今目の前で豊橋がやっているプレイを見れば、その理由は分かる。
(ネット前から相手を剥がすのが上手い──翻せば、自分も剥がれるのが上手い、ということだ……距離感の作り方が実にうまい──)
本来、少なくとも今まで出てきたロシア代表選手の中では最強のパワーを持つコルニエンコに対しては、そのサイズからくる弱点を突くために、ネット前の細かい崩しを主体に組み立てるのがセオリーだと言える。
豊橋も、ネット前を苦にしない。
羽咲に対してイーブンで最後まで行けたのは、彼女がそうした分かりやすい弱点を持たないからだ。
だが現状、豊橋は敢えて長いロブを主体にラリーを展開し、それを前後左右に散らしてコルニエンコのポジションを動かすことで、盤石の体勢で強打が打てる手番を極限まで減らしている。
(つまり、豊橋が最も警戒しているのは、ネット前勝負からの『逸らし』を無理やり叩かれること──あの身長とウイングスパン、それとジャンプ力なら、相当上にも手が届く……)
コニーのロブを上からしばき下ろした荒垣と同等、あるいは単純な鉛直方向の幅ならそれ以上かと思えるほど、コルニエンコはその跳躍も含めて、背が高い。
平均からやや小さめなフィジカルの豊橋が左右に走ってネット前勝負を仕掛けても、その半歩を彼女は腕で賄ってしまえるほどだ。
(だからネット前はそれほど重視しない──となれば、強打が甘くなったところを狙いすまして仕掛ける、これしかない)
果たして倉石の分析通り、豊橋はごくまれにヘアピンを通してコルニエンコを釣り出すが、殊更そこでの一騎打ちに持ち込もうという意図は見せず、すぐにはたいて、対戦相手にダイアゴナルのダッシュを強要している。
前に踏み切って、上から叩き下ろす──そうした、得点を奪うためのベクトルが綺麗に重なった『会心の一撃』は、少なくともこのセットでは打たせていない。
とはいえ豊橋も、ロシア随一の強打に対して大雑把なレセプションでは到底、太刀打ちできないということは理解しているようだ。
ロブ一本通すにも細心の注意を払って、コルニエンコの長い腕を回避するコースを選んでいる。
(頭を使うのが好きなタイプ──もちろん、限られたフィジカルや、天啓のセンスを持たないということもあるが、それ自体を『好き』であることが、豊橋をここまでの選手にした……)
それはやはり、志波姫唯華というプレイヤーの存在が大きいだろう。
高校一年生から全国の舞台を踏んだのは、もちろん豊橋が中学からの余勢を買っていた、ということでもある。
その世代で一気に頭角を現し、後に『三強』と並び称されるうちの一人になった志波姫を、豊橋は早くから知っていた。
お互い、益子泪とは違い人を遠ざけないタイプであり、大会で顔を合わせればささやかに会話も交わす程度の間柄だったが、豊橋は自分と同じように上背のなかった志波姫が、自分が勝てない相手──たとえば津幡や狼森たちを一蹴して勝ち上がっていくのを、不思議に思った。
そうして、彼女の試合を観客席で見ているうちに、そのプレイスタイルを学び、自分のバドミントンに少しずつ取り入れていった。
もちろん、完全にコピーするというわけにはいかないことも理解していたから、彼女なりの『核』もそこにしっかりと存在している。
試合は徐々にコルニエンコが地力を見せつけ、豊橋を追い抜いている。
15-18となって、豊橋は彼女がシャトルを交換している間に、少しふくらはぎを揉んだ。
(ん……ちょっと──)
強打を上手くやり過ごしている自信はあるが、走らされているのは自分も同じ。
少し震えている筋肉を撫でつけて、豊橋はレシーブの構えをとる。
(──ショート)
恐る恐る、ではないが普段より少しだけ体重移動を甘くして踏み出した右足。
コルニエンコのサービスは一貫してショートだ。
それは、前に出させて強打が通るスペースを広げる狙いもあるだろうし、ネット前勝負に『来るなら来い』という、ロシアのナンバーワンプレイヤーとしての意地なのかもしれない。
ともあれ、意識して腕をまっすぐ伸ばした豊橋のリターンは、サイドラインへのやや浮いたショット。
コルニエンコは素早くサイドチェンジして、バックハンドのドライブを返した。
裏拳のように手首を捏ねたそれは、低い角度で豊橋のバック奥を襲う。
「く──」
ここが正念場だ。
やや感触の軽い右足を引き、左足に載せた重心を一気に後方へ振り飛ばす。
飛び石を飛ぶように軸を動かして、豊橋はラウンドに入り、バックステップに合わせて右足を蹴り上げ、なんとかフォア面でシャトルを捉えることに成功する。
だが、このままではコースは限定されてしまう──。
ネットの向こう、ターンを終えてホームポジションを突き抜けて、豊橋の正面を塞ごうとするコルニエンコが視界に映る。
(これだと、やられる──)
馬鹿正直に打ってしまえば、逆サイドへ軽くいなされるだけだ。
といって、この体勢から『上』を抜きにかかっても、勝算は乏しい。
(──それなら!)
豊橋は体軸を捻り、上半身の角度を地面と平行に近付けた。
それから、倒れ込む自分の耳のあたりに落ちてくるシャトルを、まとわりつく羽虫を払うようにラケットで殴る。
「──ぐぇっ」
視界に衝撃が走り、また左手に感じた痛みから、豊橋は自分がコートに倒れ込んでいることを理解した。
それでも、本能で目が追いかけたシャトルは、白帯を削って姿を消す。
16-18。
同様に前方への慣性を制御しきれなかったらしいコルニエンコは、両手を万歳して頭からコートに滑り込む。
手放したラケットがフロアに跳ね、軽い音を立てて転がった先で、拾いきれなかったシャトルとぶつかって止まる。
「いてて……」
少し指を突いたようだ。
豊橋はラケットを左手に持ち替え、浮かせた小指を右手で摩る。
ベンチから神藤コーチが立ち上がり、一歩二歩踏み出すが、それを制するように彼女は右手を上げた。
それは、思いがけず訪れたハードラックに対しても、あきらめず飛び込んだ対戦相手に対する称賛でもあっただろう。
両手をついて起き上がったコルニエンコは、ラケットを拾い直し、軽い手つきでシャトルを乗せて、豊橋に投げ寄越した。
ラッキーポイントを得て一気呵成に巻き返したい豊橋だが、そうはさせじと、コルニエンコが彼女の前に立ちはだかる。
ここまでお互い探り合い程度で躱していたネット前に、まさに文字通りといった様子で、勝利までのわずかなポイントをしっかりとモノにしようという動きだ。
試合前のトラブルを抜きにしても、豊橋より一枚上手と思えるアナスタシア=コルニエンコが丁寧に仕留めに掛かれば、そうそう出し抜けるものではない。
食い下がる豊橋を、残しておいた末脚で一気に突き放し、二十一点目を挙げた彼女は、控えめにガッツポーズをした。
それは、エクステンションを受け入れてくれた日本ベンチへの謝意もあっただろう。
ともあれ、日本代表は二連勝を飾り、経験と課題を得て、決勝トーナメント進出を決めた。
だが、倉石には一つ、重要な仕事が残っている。
「──そういうわけだから、今日の結果はそれほど気にしなくてもいい」
「はい、ありがとうございました、わざわざ……」
豊橋アンリは、それほど今日の負けを引き摺っているようには見えなかった。
だが倉石は、国際試合では往々にしてあることで、それに対応する準備の必要性を説き、また、結果自体は仕方ないにしても、それを『当たり前』と思うには勿体ない──と豊橋を奮い立たせる意味で、きちんとフォローを入れた。
「──それから、豊橋」
「はい?」
「すまんが、石澤と志波姫を呼んできてくれ」
明るい返事とともに頷いて、豊橋はスリッパの足音を連れてミーティングルームを出ていく。
それから、明日の相手であるポルトガル代表の情報をチェックしていた他のスタッフたちに、ひとまず場を外すように願う。
松川が自分のノートパソコンを片付け、続きは部屋で、と神藤コーチを促し、立花は同室の倉石を置いて、一人先に戻っていった。
「……」
倉石は、グラスに残った度数の低いビールを口に含み、自分が酔ってはいないことを確かめる。
手持無沙汰にテーブルクロスで水気を拭いていると、二人分の足音が扉を開いた。
「おう、来たか」
『教え子』の方は、こういうことには慣れている。
早出、居残り練習の前後には二人で話し合いを持つこともあるし、特に県予選以降その機会は格段に多くなった。
身体が冷えないように厚着をしていることを確かめて、倉石は二人に、向かいの椅子に座るように促す。
「……監督、なんですか? 話って」
「うむ──まずは石澤、お前についてだ」
それから、倉石は今日の彼女たちの試合を、ゆっくりとしたペースで振り返る。
時にノートを開いて、ベーシックなラリーパターンと、実際の試合でのシャトルの軌跡を比較し、異なる部分について、意見のすり合わせをしていく作業。
もっとも、ダブルスについては相手とのバランスもあるから、そこまでセオリーが色濃く出るものでもない。
「結局、お前は強打を打たなかったが……」
「あぁ──まあでも、それでよかったかな、って」
「フムン……」
試合前に宣言した、『確実に決まるシチュエーションでの強打』は、本来望が意図したものとは異なる形で現れた。
しかしながら残念なことに、彼女が求めていたのは、あくまでもフェイクとしての強打だった。
そのことは倉石も理解していたし、望自身もそうした意味を持つショットを打つタイミングを窺いながらプレーしていたのだが、それが具現化していれば、もっと派手で、印象的だったはずで、今日の試合中に放ったような、実直に得点を奪いに行くという意思を込めたショットではなかった。
もちろん、今日に限って言えばそれは、フェイクよりも有効に作用した。
だが、戦術の幅を増やすという意味では、もっとしっかりと、自分の意図を試すことを繰り返していかないといけない。
そういうことを滔々と説いている倉石に、望の隣に座る志波姫も、興味深げに聞き入っている。
──と。
「まあ、そんなところだ。──で、志波姫」
「……えっ?」
きょとん、とした目を倉石に向けて、志波姫は首を傾げる。
「単刀直入に訊く──今、モチベーションはあるか?」
「っ──」
珍しくたじろいだ志波姫を見て、倉石は少しズバリと行き過ぎたか、と後悔した。
だが、一度口にしてしまった言葉は、巻き戻せるものでは決してない。
もっとも彼の口調からは、そこに『叱る』という意味合いは全く感じ取れない。
少なくとも、横で聞いている望には。
問いかけを受けた本人である志波姫はどうかわからないが、彼女よりもずっと倉石と付き合いの長い自分が、そういう感触を受けているのだから、より繊細な機微を持つ志波姫にも、間違った響き方はしていないだろう。
「それは……どういう意味ですか?」
「──そのままだ」
ゆっくりと間を取ってそう言った後、倉石は眼鏡を外してレンズを拭きながら、志波姫の返答を待つ。
「……わかりません」
その言葉に、望は驚いて彼女の方を見る。
表情は暗くはないが強張っていて、テーブルの上で組んだ指に力を込めた志波姫を見つめながら、望は倉石の言葉を待った。
「やはり、そうか……もしよければ、話してくれないか?」
「──」
また、沈黙が流れる。
果たして、自分はこの場に居るべきなのか、と望は不安になったが、目が合った倉石が小さく頷くのを見て、心持ち浮かせた尻を、椅子に圧し付ける。
製氷機から氷が落ちる音をきっかけに、志波姫は少しずつ、喋り始めた。
「──私はずっと、フレゼリシアの主将として戦ってきました」
「……うむ」
いつも飄々として、澱みなく軽口をたたく姿からは、想像もできないぐらいたどたどしい口調で。
「今はもちろん、代替わりして……なんだろう、肩の荷が下りたのは、いいんですけど。でも──なんか足りないっていうか……亘監督にも言われたんですけど、立ち止まってる──って。その通りだと思います、今の私は……」
燃え尽き症候群、というような、単純なものではないだろう。
望とて、役職上は同じ立場──逗子総合の主将だった。
学校の『格』で、その軽重を違えるものだとは思っていないし、志波姫も、倉石も同じだろう。
違うものがあるとすれば、それは『三強』という称号──。
肩の怪我で一時期戦績を落としたということもあるだろうし、望は知らないが、倉石が聞いた『辞めた部員』の話にも、主将として志波姫は深く関係している。
「絶対誰にも言わないでほしいんですけど、……望もね?」
「ああ、約束する──」
望も同意して頷く。
それをしっかりと確かめて、志波姫はまた言葉を紡ぎ始めた。
「フレゼリシアに行った自分が、今の自分であることは分かってます。そのおかげで得たものは、他では得られないことも。……そのせいで『失った』ものも──」
少し息継ぎをして、志波姫は呼吸を整えた。
震える声を隠そうとしているのか。
「もし、泪と路と一緒に、同じ学校に行っていたら……そう考えることが、たまにあります」
「……」
『埼玉栄枝』に、と言わなかったのは、彼女のプライドであり矜持だろう。
津幡はともかく、『益子泪』の行き先は当時誰にも見当がつかなかった。
当然、志波姫と『同じ学校』も選択肢にあった。
「どっちがどう、なんて私にはわかりませんし、考えることはものすごく『怖い』です。でも……」
はにかんで、目尻に浮かんだものを散らそうとしている彼女を見て、倉石はある先輩の言葉を思い出した。
──進学は生徒の人生に深く関わる大きな問題だ。まして、まだ相手は中学生。選んだ生徒の自己責任だなどと、無責任に言い切ることなど決して許されない──。
獲る獲らないの選択権は学校側、指導者にあるとしても、最終的に『選ぶ』のは生徒の側だ。
年端も行かない中学生──ましてや将来のポテンシャルなど、わかりっこない。
倉石にも痛いほど、それは分かる。
石澤望を獲ったその選択には、微塵も疑いはない。
だが、荒垣なぎさを獲らなかった後悔は確実にあるし、それは指導者を引退するときまでずっと、心に残り続けるだろう──望が描く、急激に角度を乗じはじめた成長曲線とともに。
「なあ、志波姫」
「……?」
「お前がもし、逗子総合の監督だったとして、石澤と荒垣、どっちを獲る?」
突拍子もない質問だと倉石は苦笑する。
せっかくの友情にヒビが入るかもしれない、危険な質問だ。
もちろん志波姫なら、多少揺らいだ心でも、正しい答えを導き出すと確信してのことだが。
「……どっちもです」
当たり障りのない答え、というほど志波姫の表情は軽くなかった。
そのことに、望は胸に熱いものを感じる。
「そうだよな──だが実際、俺は荒垣を獲らなかった。ここにいる石澤だけを獲ったんだ」
もし獲っていれば、団体戦でフレゼリシアに勝てたかもしれない。
同校選手はトーナメントの反対側に散らされるから、もしかすればお互い決勝で顔を合わせて、二人で全国へ、なんて夢物語も描けた。
「──後悔はあるさ。荒垣を獲らなかった、という……だが、そんな『もしも』を追いかけてどうなる? 俺には現実が待っている。毎年毎年逗子総合にやってくるヒヨッコを鍛えて、神奈川を勝ち抜き、全国大会で好成績を残す。そいつらが大学でも、そこから先もずっとバドミントンをやっていけるように──それが、俺が毎年……毎日、戦ってる現実だ」
一言一言を諭すように発して、倉石は志波姫に笑顔で頷く。
望には少し、違和感があった。
彼が言ったのは職業としての指導者である自分が、ちゃんとご飯を食べていくための『切り替え』の話で、それはまだ学生である私たちには早い、と。
志波姫も、同じ意味合いの言葉を返す。
「……私は、まだ子供ですから」
「──その言葉を、聞きたかった」
ぽん、と手を打ち、倉石は大きく二度、三度と頷く。
「そうなんだよ、志波姫。お前は──石澤もだが、まだ子供なんだ。だから、……大人が背負うようなことを、好き好んで背負う必要はない」
それを無責任と謗る者がいるかもしれないが、と倉石は言葉を続ける。
「少なくとも、ここにはそんな奴はいない。みんな同じように大人で、子供だからな。それは、フレゼリシアの部員もそうだろう?」
こくりと頷いて肩を震わせる志波姫は、望が今まで見てきた『憧れ』としての志波姫唯華とは程遠い、小さな存在だった。
年相応に弱い涙腺を持ち、それを守るために人一倍気を利かせて、たぶん、ごくわずかな人にしか、本当の姿を見せたことがないのだろう。
「……」
しばらく、倉石は口を閉じていた。
ふうっと息をついて、今度は志波姫が話を切り出す。
「……ありがとうございます、倉石さん」
ぱっと顔を上げて、望に申し訳なさそうな顔を見せる志波姫。
それはもう、いつもの彼女に戻ったように思えたが、赤くなった眼を見れば、まだ気丈に振舞っているだけなのだとわかる。
とはいえ望には、ことさら彼女の『弱いところ』をさらけ出させようという意図はなく、少し貰ってしまった涙を抱えて頷くしかなかった。
「急には無理だと思う……なんなら、キャプテンの役を降りたっていい。少なくともこのチームじゃあ、誰がやってもそんなに悪い事にはならないだろうし……」
「いえ、それは私が続けます」
小さなことかもしれないけれど、と志波姫は口をきゅっと結んだ。
今までとは違う環境だからと言って、すぐに死んで浮いてしまう弱い魚じゃない。
それを倉石もわかっていたから、今日この場に彼女を呼んだのだ。
もっと言えば、この代表に呼んだのだろうと、望は思う。
「そう言うと思ったよ。──それじゃあ一つ、キャプテンとしての仕事をやろう」
「?」
「明日のオーダーを、お前が決めるんだ。志波姫」
「──いいんですか? 私はたぶん、『もしも』……を、追ってしまいますよ?」
いつものいたずらっぽい笑顔で取り繕って、志波姫は濡れた瞳を光らせる。
「かまわんさ。明日の朝までに決めて、伝えてくれ」
最後に倉石は、ひとつだけ──できれば久御山は勝負が決まる前に──と注文を付けて、二人を送り出した。
志波姫と並んで階段を上っている間、望は、隣を歩く吹っ切れた表情の彼女を黙って楽しむ。
きっと彼女の頭の中は、いろんな思いを整頓する作業で忙しいはずだ。
明日のオーダーと、たぶんフレゼリシアではずっとそうだっただろう、いつだって完璧で、そして溌溂とした志波姫唯華が戻ってくることを確信しつつ、自室に戻った。