決勝トーナメント進出を決めた翌朝、望は昨日よりも少し遅い時刻に目を覚ます。
だが、同室の二人──豊橋と益子は彼女よりもずっとゆっくりと朝の時間を過ごし、倉石からのオーダー発表を遅らせた。
「……起きてるか、益子?」
「んー……」
大爆発している頭を掻きながら、旭の肘撃ちには身を捩って大げさに痛がる彼女に苦笑しつつ、倉石はホワイトボードに向かい、声を反射させながらペンを滑らせる。
「みんな分かってる通り、昨日で予選突破は決まった。だから、というわけじゃないが──今日のオーダーはこうだ」
倉石が身体をずらして見えるようになったホワイトボードに、益子は小さく驚きの声を上げた。
「──監督、それ……」
彼女が言いかけた言葉を遮るように、最前列にいた志波姫がすっと手を挙げて、倉石が頷くのに応じて立ち上がり、前に進み出る。
「泪、みんな──今日のこのオーダーは、私が決めた」
そう言うと志波姫は深く頭を下げ、声色を低くする。
「──ごめん、完全に私の我儘……です」
そのままの姿勢を崩さない彼女に倉石が慌てて声を掛けようとするが、まばらな拍手に、動きを止める。
ゆっくりとした調子で手を叩いているのは、旭だった。
「いいんじゃない、志波姫」
徐々に拍手が広がって、ようやく志波姫は顔を上げる。
少し潤んだ目尻を薬指で拾いつつ、彼女は旭に言葉を返す。
「……ありがとう、旭」
気恥ずかしそうに頷く旭と目線を交わして、志波姫は言った。
「──みんなも、ありがとうね。アンリとあかねも、出せなくてごめん」
強く頷く二人にはにかむ彼女を見て、倉石もようやく落ち着きを取り戻し、自分がついさっき書き記したオーダーを見直す。
(……フムン)
ずっと一緒に組んでいた益子と志波姫がダブルス1、そして自分はシングルス3──いろいろと想いはあるに違いないが、それでも物言わず肯定の態度を見せた旭に、倉石は心の内で大きな賛辞を送った。
もっとも、それを今この場で殊更言うべきではないということも理解している。
(──そもそも、この日本代表はシングルスメインの選手が多すぎる。それはもちろん、旭と石澤を選ぶという条件の下でベストメンバーをチョイスした結果だが……)
志波姫が組んだ次のオーダー、ダブルス2は望と荒垣。
ここもまた面白い、と倉石は小さく頷きつつ、目線を滑らせる。
面白いだけではなく、決勝トーナメントを見据えた時に、二組目のダブルスは極めて重要なポイントになるからだ。
決勝トーナメントからは、それまでダブルス限定として可能な限り他国の偵察班から隠しておいた益子を、シングルスで使う予定でいる。
となれば最悪、ダブルスを二つとも落とすことさえ覚悟しなければならないが、それをただ相手に譲り渡していては、その後へのつながりも悪くなるし、彼女たちとて、勝ちを計算できるほど温い相手はそう居ない。
決勝一回戦はまだ相手が決まっていないが、イングランドかベトナムのどちらか勝った方となる。
どちらにしても、そこはほぼ間違いなく勝ちを拾えるだろうが──そうなったとき、次はデンマークが相手だ。
(昨日もデンマークは圧勝……。コニー=クリステンセンはもとより、脇を固める『デンマーク三強』の二人、ラファエラ=ルイ=デュポールと、ミーケ=シュヴァリエも想像以上に完成度が高い……試合がまだ『生きている』段階で、おそらく最後に出てくるクリステンセンとの試合まで回すためには、悪くともダブルスで一ペア、シングルスもどちらか一人は勝たねばならない──)
その意味で、荒垣と望が組むダブルスは、もちろん不安も大きいが、それ以上に楽しみでもある。
何よりそれは、倉石にとっての『もしも』でもあった。
ともあれ、シングルス1は、昨日の話し合いの最後に倉石が注文を付けた通りに、志波姫は勝負が決まる前に久御山の名前を出している。
後に羽咲、旭と続くが、恐らくその前に試合は決まる──今度こそ、久御山の本性を見ることが出来る、と倉石はここにも期待を寄せた。
少し湿っぽくなった空気はすぐに乾き、またいつもの調子に戻った志波姫は、皆に準備を促してその場をお開きとさせる。
努めて意気揚々と振舞う狼森に、頼もしさを感じながら、まとまりを増した選手たちを見送って、倉石達も資料をまとめ始めた。
「……」
出発までのわずかな時間に、旭は心の中に渦巻くものをなんとか鎮めようと、既に冷え切った布団に潜り込む。
別に志波姫が何か当てつけのように、自分と益子のペアを解体したわけではないということは、解りきっていた。
だが、それから連想される未来を、受け入れることができない自分がいて、その自分自身に納得できない感情が煙を上げている。
荒垣は早速、望の部屋に出掛けて行き、たぶん、急遽組むことになったダブルスの打ち合わせでもしているのだろう。
旭が独りでベッドに寝転がっていると、鍵の開いたドアが軋む音がした。
「あれ、荒垣は?」
「石澤のとこ、行ったんじゃない?」
旭は身を起こして、少しぼやけた視界の中に志波姫を見つけた。
少し睨み付けるような形になってやしないかと、旭は慌てて目を擦る仕草で、そのイメージを掻き消そうとする。
「……旭は、納得してくれてる?」
いつもの不躾な距離感とは違い、少し間を開けて同じベッドに腰を下ろした志波姫に、旭はなんと答えようかと戸惑う。
「本音は、……どうだろ。一番は、ただ単純に、シングルス出るのが久々だから、不安──かな」
旭は、益子泪と出会う前、まだシングルスプレイヤーだった頃の記憶を呼び起こす。
中学時代はいっぱしのプレイヤーとして、栃木や、せいぜい関東ではそこそこ有名なプレイヤーではあった。
ただし、『旭海莉』の名前が、いつまでも陽のあたる水面に浮いていられるわけではない、と言うことを周囲も本人も理解していたし、事実、より洗練された才能との戦いでは、少しずつ遅れを取っていく。
「……別に、泪と他人が組むからって、そんなの私は、気にしないよ」
それが明らかに自分より上手いプレイヤーだとしても。
いずれ、そうなる事は解っているから。
自分と彼女たちの実力差を別にしても、志波姫に難癖を付けるのは間違っているし、益子の事情も、志波姫の事情もある程度は知っているから、旭にとっては尚更、受け入れやすい。
それでも今一つ整理をつけられないのは、『その方がいいだろうな』と納得してしまう自分自身に対しての、苛立ちから来るものだ。
「みんなの前でも言ったけど……これは、私の我が儘なんだ」
「……」
旭がシングルスに回るのはともかく、今まで組んだことの無いペアを二枚置くというオーダーは、確かに『我が儘』でなければ組むはずがない。
予選突破が決まってるとはいえ、一番そういう事をしなさそうな志波姫が組んだオーダーだ。
そこにある意味も、それで勝利を収める意義も、旭だけでなく、他のメンバーも良く理解できていることだろう。
「だから、旭にはちゃんと謝りたい──ごめんなさい」
「……いいよ」
ベッドから降りてカーペットに膝を付き、旭の膝に擦り付けんばかりに頭を下げる志波姫に、旭は少し驚きながらも、心が解けるのを感じる。
「いいから、志波姫……頭、上げてよ」
「──うん……ありがと」
今この場に荒垣が居ても、たぶん志波姫は同じ行動を取っただろうな、と旭は考える。
ふと湿っぽくなった部屋の空気に、旭はつい志波姫の手を握ってしまう。
「……」
「──あ、ごめん……」
それが勘違いの原因だったのか、それとも志波姫が平常運転に戻っただけのことなのかはわからないが、ともあれ彼女は一気に旭と距離を詰めて、素早く彼女を押し倒して布団にもぐりこむ。
「ちょ、ちょっと……」
「んっふふ~」
とはいえ試合前だ。
これからもう一度シャワーを浴びるような事態までは、志波姫も進む気はなかったらしい。
今日の夜は、どうかわからないが。
(部屋の鍵、閉めたかな……?)
旭はとりあえず、自分の二の腕に頭を擦り付けてくる志波姫を撫でながら、荒垣が自分のパートナーよりも常識のある人間であることを祈った。
ちゃんと、部屋に入る前にはノックをするように。
果たして荒垣の常識性は証明され、また志波姫は小賢しくも鍵をきちんとかけていたらしく、ドアを叩く音が二人をベッドの中から引き戻す。
「ん──志波姫」
「……ちぇっ」
少し抱き合ったぐらいでそこからの発展もなく、志波姫は怠そうに身を起こす。
自分にとっても少し残念──と思ってしまった旭は、馬鹿なことを考えたと頭を掻く。
そりゃあ、フレゼリシアも宇都宮学院も、『女の園』であることに変わりはないけれど。
「──はいはい、今開けるよ~」
抑揚のないボディラインに沿って、パーカーのジッパーを引き上げながら、志波姫はドアに向かう。
旭も、少し熱を持った下腹部を確かめつつ、ベッドから起き上がった。
「わりい、寝てた?」
少しシップのような匂いを漂わせて、荒垣が部屋に入る。
「まあね──どこ行ってたの?」
「石澤のとこ」
ふうん、と志波姫は頷き、部屋のドアを閉めて、今度は鍵をかけなかった。
「……実際、どう?」
我が儘でゴメンね、のくだりを荒垣に仕掛けるつもりはないということは、たぶん彼女はそこまで益子や志波姫の事情を知らないんだろうと旭は思った。
「まあ、……やってみないと」
「だよね」
プレイスタイルが大きく異なる二人だし、どちらも二分すれば『攻撃型』にカテゴライズされる。
今日のポルトガルのように、格下相手でリズムよく押し込んでいけるならばそのバランスの悪さはそこまで顕在化しないだろうが、決勝トーナメントではこのペアはおそらく組まれない。
志波姫がそんなペアを組んだのは、倉石に対する礼の意味合いが大きい。
「でも楽しみだよ。石澤とは、もしかしたら同じ高校に行ってたかもしれないし」
「そっか……」
ふと眉尻を下げる志波姫を、まだ湿っぽさの残る目で旭は見つめた。
その話を聞いていなかった旭には今一つ、勝利に対する追及が薄いように思えるが、ポルトガルはその程度の相手だということなのだと理解したし、また単純に望と荒垣というペアも興味深くはある。
「そろそろ、行こうか」
志波姫の号令に従って、二人も自らの道具を確かめる。
旭にとっても、自分が久しぶりにシングルスを戦うことは、単純な『楽しみ』も決してゼロではない。
むしろ、これから先『益子泪』と離れ離れになってしまうのなら、そこには覚悟もあってしかるべきだ、と自分を律して、ラケットバッグを背負った。
反対側の会場では、予選突破を賭けての大一番ということもあってか、フロアから聞こえてくる打球音もどこか厳しく音程が高い。
翻って日本とポルトガルの戦うこちら側は、どちらかと言えばのんびりとした空気で、一番手の益子と志波姫はともかく、その他のメンバーはゆっくりとしたペースで準備を始めている。
観客席も空席が目立つが、さほど強豪ではない国と、強いとは言え地球の反対側からやってきた日本との試合では、目の肥えたデンマークの競技通たちの食しを動かすほどに魅力的なカードではなかったということだろう。
しかし、少なくとも志波姫と倉石にとっては、『新しい一歩を踏み出す』という一点において重要な試合ではあった。
もちろん、他のメンバーもそのことは理解している。
特に、お互い因縁もありながら今回初めてのペアを組むことになった望と荒垣は、お互いの戦術思想を絡み合わせて最適解を探るべく、身振り手振りを交えて話に熱を入れている。
「──さて、二人とも」
それを横目に倉石は、コートでのウォームアップを終えた益子と志波姫を呼び、予選三試合の中でいちばん薄い資料の束を手にして、特に志波姫の方に向かって、諭すように言葉をかけた。
「悔いのないようにやれ──以上だ」
予選突破を決めた後のどこかしらお気楽なムードとは裏腹に、倉石はもうこれで全てが終わってしまうかのような言葉を選んだことに少しばかり脈が速くなったが、噛み締めるように頷く志波姫の笑顔に、硬くなった気持ちを納める。
「……泪、頑張ろう」
「おう──飛ばすぞ」
果たして益子泪の宣言通り、序盤から日本ペアは一気呵成に攻め立てていく。
何もそこまで、とベンチで見ている旭もため息をつくが、スコアはあっという間に十一点を数え、益子のミスによる失点が多少あったものの、大きく引き離して第一セットの前半を終える。
倉石も特に言うことはないという態度で、旭たちに世話をされている益子と志波姫に信頼の目を向けた。
「泪、飛ばしてない?」
「ま、ちょっとな……問題ないよ」
高校三強に数えられる選手なのだから、この程度でスタミナが危険水域まで減るということはないはずだが、中国戦のガス欠があっただけに、志波姫も旭もやや心配がちだ。
とはいえ、今日は相手が違う。
ポルトガルという国を代表しているとは言え、こちらは日本のトッププレイヤー二人のペアだ。
倉石にとっても、他のバランスを一切考慮しなければ、いつだってこのダブルスを一番手に置きたいと思えるほどの。
ラリーの本数も少なく、失点と言えば大雑把に振り抜いた益子のスマッシュがネットにかかった時ぐらいで、志波姫は相変わらず飄々とポルトガルの二人を振り回し、──昨日までと違うのは、得点を挙げて喜ぶ時の笑顔がもっと華やいでいて、それにつられて益子も表情が豊かになっていることだ。
「よし、行くか──唯華」
「うん」
試合に入れば、周囲への申し訳なさも一旦は覆い隠すのが、彼女なりにこの『夢』を見るための眠り方なのだろう、と旭は考える。
それが今日限りで終わってほしいという想いと、そう願うことが益子泪と言うバドミントンプレイヤーにとって最良の未来を追い求めてはいないという、自分自身への不甲斐なさは、心をちくちくと痛めつけているものの、今はそれよりも、志波姫唯華と言う選手の果たしてきた役割に敬意を表すべきだと思い直し、真っすぐにコートを見つめ直した。
その視線の先では、調子よくスコアをカウントアップしていく二人がいる。
倉石はアップゾーンにいる望に少しペースを上げて準備をしておくように伝えた。
(……まあ、この二人なら大抵のペア相手ならこうなる。どうしても旭との比較になってしまうが、どちらかと言えば『様子見』から入る旭と、基本的にペアに合わせていく益子ではラリーの展開が縦長になってしまう……)
それはもちろん、志波姫よりも背の高い二人だからこそ、ドライブで押し込んで行けるという長所を生かした戦い方でもあるし、気分屋の益子泪を従えて連戦を勝ち抜く上で、彼女の集中力が切れる要因を少しでも減らすため、できるだけ体力を温存するゲームメイクを旭が心がけていたこともある。
ともあれ、志波姫が遠慮なく相手を振り回しているおかげで、その返球も自然に両サイドに散らばることが多く、時折コート中央に来た返球に対してのお見合いによる失点はあろうが、こともなげにそれを取り返すことが出来る二人は、あっという間に第一セットをモノにしてしまった。
21-6。
「強い」
「そうだね……」
少し汗ばんだ胸元を拭いながら、荒垣は望と顔を見合わせて苦笑する。
この夏、あの二人はAシードにノミネートされていて、自分は二年連続とは言えノーシード──そんな事実を振り返るまでもなく、これは役者が違う、と荒垣は頭をかいた。
「──私たちは、どうしようか?」
団体戦の合間に少しばかり会話した時のような、穏やかな表情で話す望に、荒垣は少し頼もしさを感じながら、倉石から貰った資料を開いてみる。
「相手、姉妹なんだろ?──アタシたちより、コンビは良いよなぁ、絶対……」
ポルトガルのダブルス2は、姉のラウラと妹のアラセリスという、かの国ではちょっと名の知れた姉妹らしい。
彼女たちの母親、セレナ=バネガスと言えば強打を武器にポルトガル代表として活躍していた名選手ではあるが、松川の調べによると、その娘たちはそれほどの身長を有してはいない。
もちろん、日本人の高校生女子の基準で見れば、やや大型──百七十センチ内外の身長からは、例えば旭や久御山のような、バランス感覚を持ちつつも強打をしっかりと打ちこなせるプレイヤーという印象を受ける。
「とりあえず、ローテーションはあんまり気にしないで、荒垣は後ろからバカスカ打っていいよ」
「バカスカって……」
随分乱暴な物言いだと荒垣も苦笑するが、小気味よい骨の音を鳴らしながらストレッチをしている望の横顔を見れば、そもそも今日の相手はそれほどでもないのだろう、と再確認する。
でなければ志波姫もこんなペアを組むはずはないし──と荒垣は自分を納得させて、膝の状態を確かめようと屈伸運動をする。
「──痛む?」
「いや、痛みはないよ。こっち来てからは全然」
「そう……」
ふと顔を伏せる望に、荒垣は少し昔の事を思い出す。
「……気にしてる?」
「ん……まぁ、ね」
彼女の中では、その『過去』の清算は済んでいないということなのだろう。
もちろん荒垣の中では、望のせいで膝が悪化したとは微塵も思っていないし、そのことは逗子総合での代表合宿で一緒に風呂に入った時にも伝えたのだが、生来心の優しい彼女には、そうそう振り切れる記憶ではないのかもしれない。
もしかすると、今日一緒にペアを組むことで、そうした過去も終わりにできるのではないか──荒垣はそう思い直して、望の肩を叩く。
「大丈夫だから、アタシは」
「……うん、ありがと」
「唯華!」
「はいっ──」
益子の呼ぶ声に合わせて、志波姫が一歩、二歩と大きいストライドでバックステップを踏む。
ドライブに押し込まれたポルトガルペアは逃げの一手。
彼女たち──前衛のミゲラ=ロジャと、後衛に回っている黒人のパスクアナ=カイルも決して下手なプレイヤーと言うわけではないのかもしれないが、志波姫が広角に放つショットに振り回されてフォーメーションが乱れたところに、今度は益子のスマッシュが飛んでくるといった塩梅で、最早戦意喪失と言った様子だ。
それでもなんとか『サウスポー』の方だけは避けようと、後衛のカイルはしきりに高いロブを打ち上げている。
もちろん、同じパターンのラリーが多少長引いたとて、集中力を薄める志波姫ではない。
せっかくだからもう少し長い時間、『もしも』を追ってコートに留まればいいのに、と倉石も気を揉むところだが、最低限の責任として、勝ちに向かって最短距離を走るのが彼女なりの流儀なのだろう。
志波姫はラウンドに入り、対角にカットスマッシュを放つ。
反応の鈍いミゲラ=ロジャの方はもういよいよ集中力も途切れているようで、十分対応時間があったはずのそれを、簡単にネットに掛けてしまった。
「っし!」
空いた方の手で拳を握り、志波姫とかち合わせる益子。
残すところはあと一点。
志波姫は少しだけ長い間合いを取って、その終わりを惜しむように高く高くサービスを放った。
(……満足した、とは言えないだろう──それでも、ほんの少しでも志波姫が、過去の『重し』を外すことができたなら、この試合にも意味はあった……)
脇で戦況を眺めている旭も、それほど暗い表情はしていない。
三年間一緒にやってきたパートナーが別の選手と組んで、楽しげにプレイしているのを見るのはあまりスッキリするものではないと倉石も理解しているが、それでもそんな想いを顔には出さず、なんなら時折コート上の二人に向けて声援を送っている彼女の精神力にも、彼は感服している。
(──まぁ、そのぐらいでなくては、『益子泪』の相方は務まらなかっただろうが……旭自身にとっても、今日は将来を占う一日になる……)
充実の表情で、志波姫と益子が引き揚げてくる。
旭に抱き着くならば、アップゾーンに連れて行ってからにしてくれと倉石は心の内で願っていたが、志波姫は至って平然としていて、旭とも軽く手を合わせただけに終わった。
それはもちろん、『次』への配慮もあっただろう。
今日の相手はちょっとした『遊び』には手頃だとしても、対戦相手への敬意を忘れないのは当たり前のことであるし、次に出て来るのは、これまたダブルスを組んだことのない荒垣と望だ。
「さて……まあ、好きに進めて良い。ただしダラけるな」
「はいっ」
歯切れよく返事をして、望はコートに向かう。
前を歩く荒垣の背中を頼もしく感じつつ、また彼女が右膝に着用しているサポーターの事も忘れてはいけないと自らを引き締めて、ポルトガル代表ダブルス2、バネガス姉妹に相対した。
(──流石によく似てる。双子ってほどじゃないけど……身長も同じぐらいだし、どっちが前衛、って決まりきってはいないだろうな……)
そういう意味では、自分たちの方は取れる選択肢に限りがある、と望は考える。
もちろん荒垣の身長はコートに立つ四人の中でも文字通り頭一つ抜けているから、彼女をネット前に立たせておくだけで、小一時間もすれば試合は終わりそうな気もしていたが、それではせっかくの機会が勿体ないし、一度敗れた荒垣にも、『あの頃の自分じゃない』と言うところをしっかりと見せてやりたいという自負も、今の望にはあった。
(スコア的には静かな立ち上がりだが、内幕はバタバタだ……まだお互いがお互いの距離感を、把握しきれていない──)
もっとも、それは当然のことだと倉石は苦笑をノートで隠した。
4-4というスコアからは、案外健闘しているとさえ言ってもいいぐらいだが、その内訳は荒垣のスマッシュドライブに対して、相手がなんとかリターンできた甘い球を『潰した』二点と、望がカットスマッシュを前に沈めてからのフォーストエラーが二本。
つまりエースは一本もないし、結局のところ、彼女たちがこなしているのはシングルスを足し算した『1+1』でしかなかった。
こんなものはダブルスではない──倉石はついついそう断じてしまうが、それでも今日の対戦相手であるバネガス姉妹とは五分で渡り合えているあたり、勝利が揺らぐことはなさそうだ。
「石澤」
「ん?」
ポルトガルペアが、荒垣の強打によって羽根の折れたシャトルを交換している間に、彼女は望を呼ぶ。
「もう少し、縦に打っていい?」
「……いいよ」
縦、というのはつまりラケットを振り下ろすこと。
前に出て、スマッシュを一本決めたいという気持ちがあるのだろう。
望にとっても、どちらかと言えば『懐』を広くして前後の揺さぶりをかけたいところだから、荒垣を前に置いて自分が後衛に回るのは、求める勝ち方からすればよりナチュラルだ。
「じゃ、──次は一回、前に出る」
「うん」
真新しいシャトルをポルトガルの前衛アラセリス=バネガスから受け取り、望はサービスの構えに入る。
少し間をとったラウラ=バネガスの準備が整うのを待って、彼女は高い軌道を描くロングサービスを放った。
この試合初めての『ロング』だ。
サービスには自信がある。
望だけではない、逗子総合の選手たちに倉石が一番時間をかけて教えているのもサービスだ。
攻撃にしろ防御にしろ、全ての起点となる一本目──。
何万回と練習しただろうそれは、過たずレセプションエリアの隅に向かって落下して行き、羽根の揃った新品のシャトルはブレることもなく速度を増していく。
相変わらず上手いものだ、と倉石は見ている。
少なくとも国際大会に出場するレベルでは、やたらにシャトルをオーバーしてしまうような選手は見ないが、ことサービスにおいては、まだまだこの年代では粗削りな部分が目に付くことも多い。
その意味では、特に今回日本代表に選んだ選手たちはみな、サービスがしっかりと身についている。
(全ての起点になるショット──もちろん、テニスのようにそれ自体を『攻め』に使うことはルール上難しいが、その精度はラリーの展開に大きな影響を与える……)
有力選手の中ではもっともミスが少ないタイプの志波姫や、実力者の久御山や豊橋も、明らかなミスはもちろん、甘いコースに届けることもないぐらいに、サービスは安定している。
特に、ショートサービスをずっと打っていた後、急にロングサービスを打つとどうしても深さが足りなくなりがちだが、ひとまず今回の望は、しっかりと後ろに相手を押し留めることに成功している。
早い出足でバックステップを踏み、ラウラ=バネガスが大きくはたく。
頭上を越えていくシャトルを睨みながら、荒垣はコート中央やや右側にポジションをとり、その背中側に望がリターンを通した。
鏡合わせの雁行陣で、ストレートのドライブとクリアーの打ち合いが数巡続く。
(手探り、といえば手探りの状態だ。このゲーム始めて荒垣が前に張り付いている。『上』の射程に掛かれば手を出すだろうが……)
果たしてラウラ=バネガスはリスクを冒さず、正面に位置する望の返球が甘くなる瞬間を狙う腹積もりだ。
もちろん、望もそれは重々承知している。
オープンクロスへの深いロブを一瞬考えるが、今はまだ、それほどラリーの優劣が定まっていない。
通す手立てはあるにしても、通した結果がこちらにとって有利に動くかはわからないのだ。
甘くなれば、前衛のアラセリスは荒垣のボディにドライブを差し込むだろう。
(──コートが狭い。カットスマッシュも目が慣れてくれば捉えられる……)
慣れない国際試合、また慣れないダブルスに沸き立っていた立ち上がりの高揚感が収まってきて、望は徐々に自分が試合に深く入っていくのを感じている。
それは荒垣も、対戦相手の二人も同じだろう。
もっとも相手の方は、あるいは自分たちよりもずっと、こうした大きな大会の経験は豊富にあるのかもしれないが、その片鱗が見えるのはあくまでも精神的な『落ち着き』のみであって、プレイの技術や精度が、望たちを大きく上回っているようには、倉石にも、またコート内の二人にも思えなかった。
それなりに身長が高く、また動きも決して鈍重ではないポルトガルペアを相手に、望は今一つ攻撃の糸口を掴めずにいる。
細かく振れるメトロノームのように、お互いに意志の弱いシャトルを送り合う展開。
しびれを切らして飛び上がった荒垣が、スマッシュをアウトにしてしまう。
「っ──悪い、石澤」
「ううん……やっぱり後ろに行く? 強打で押してけば──」
もちろん、たった一本のミスで荒垣のスマッシュを見捨てるわけではない。
むしろ、ここのところぐっと精度が上がってきた彼女のドライブを主体に組み立てていく方が、突破口は開けるのかもしれないと、望は考える。
「そうだなぁ」
コートの四人の中で最も背の低い望が前衛に入るということは、相手にとっては『空中戦』がやりやすくなる。
その不利を背負ってもなお、荒垣に『射角』を提供することが自分の仕事だと、望はひとつ目標を置いた。
ポルトガルペアのサービスを受けて、望は対角に大きく返球する。
前衛からダイアゴナルにバックステップを踏んだアラセリス=バネガスがロブを返し、彼女たち姉妹はやや高い位置での平行陣を選択した。
これが要するに、彼女たちの戦い方なのだろう。
ヨーロッパの中ではさほどフィジカルに恵まれているとは言えない彼女たちの戦法は、自然に守備的になる。
そして荒垣が後ろに回り、強いドライブを放とうとしているのを見れば、彼女たちが万全のディフェンスを敷いてカウンターを狙う策に出るのは当然とも言えた。
望と荒垣の狙い所は、そのカウンターの糸口になるショットを産み出さないように、厳しいコースにドライブを通し、バネガス姉妹の意図を封殺することが出来るかどうか。
それからもう一つ、『カウンターに対してのカウンター』を仕掛けるのは、望の仕事だ。
未だ形の定まらない試合展開の中で、強く、高くなっていく荒垣の打球音を聞きながら、望は今一度自分の神経回路に命題を入力する。
試合前の適当な打ち合わせ通り、荒垣が強打で引っ掻き回す展開から、スコアは徐々に動き始める。
しかしポルトガルペアもよく彼女の打球についていき、また意思の疎通が不十分なところでの失点を重ねてきた結果、点差はほとんど開かないままにインターバルが近づく。
(──志波姫なら、どうする……?)
志波姫とてジャンピングスマッシュを放つ能力はあるにせよ、それを脇においても、少なくとも益子と組んでいる限り、『強打が使えない』と言う状況に陥ることはない。
それは荒垣と望にも言えることだ。
10-9となってなお、望にはこれといって盤石な『得点の形』は見つからない。
もっとも、彼女が前にいるおかげで、荒垣は充分に好き放題スマッシュを打つことが出来ているし、ロブの深さとヘアピンの『寄り付き』にさえ気を付ければ、相手のバネガス姉妹にもそうそう攻め手は出させないだろうということは理解できている。
ただ、もっと圧倒的な──。
インターバル入りを決めた荒垣のスマッシュを脇で眺めながら望は、自分にもあれぐらいの身長があればと、半年ほど前までよりもずっと軽い気持ちで頭を悩ませる。
もちろんあってほしいのは身長だけであって、その下のグラマラスな体型までは高望みしていないが、もうとっくに成長期の終わりに差し掛かっているこの年齢では、そんな『ないもの』をねだるよりも、『あるもの』をしっかりと備え付けてくれている遺伝子に感謝すべきだろう。
クールダウンを終えてベンチに戻ってきた志波姫からタオルを受け取り、望は荒垣と並んで倉石の前に立つ。
「──全体として悪くはない。攻撃に手間取っているようには、見えるがな」
「……ええ、まぁ……」
考えが一致しているとみて、倉石は望から視線を外し、志波姫に促す。
「何かないか?」
「──うん、そうですね……相手を振るって言うより、ボディを狙ってみれば?」
二人に話しかけている志波姫だが、その言葉の意味をより早く、深く理解したのは荒垣の方だった。
「ボディ……」
ふと、春の合宿で横目にチラチラと見ていた志波姫の試合を思い出す。
対戦相手は、田川という大学生だった。
いくら志波姫とは言え、強豪の神奈川体育大に進学した選手、しかも入学したての新人ではなく二年生を相手にやすやすと勝てるとは誰も思っていなかったが、彼女は田川のボディを執拗に攻め続けて相手を半ば戦意喪失させ、なし崩し的にゲームを終わりに持っていく。
「──うん、やってみるよ。石澤は?」
「そうだね……私も」
主審の促しを受けて、二人はコートに戻る。
荒垣の方は頭の構造が単純なおかげで、すぐに志波姫の言わんとすることを捉えたが、望の方はいまひとつピンと来ていないようだ。
(ボディを狙う、か……)
本来ならば避けるべき手だ、と望は考える。
それは倉石に『強打は通用しない』と言われ続けた過去の事もあるが、それを振り切った今でも彼女の身長では、荒垣のように簡単には、強打を使えない。
『刺す』にしても急所を狙わねばならないのだ。
上背がありストロークも強いポルトガルペアを相手に、前衛に立って間合いの少ない状態でどこまでそれが可能か。
望はそこに不安を抱いている。
荒垣のスマッシュは少しずつ球足が長くなり、ポルトガルペアの上半身を狙っていることが望にも感じ取れた。
インターバル明けにスコアが徐々に離れ始めているのは、同様にボディを狙って打ち返してくる相手のシャトルを、望が持ち前の柔軟性を生かして上手く捌けているせいだろう。
後衛の荒垣も、差し込まれた時には決して無理をせず、いったん高いロブに逃げている。
その瞬間だけは相手に手番を渡してしまうが、第一セット前半でポルトガルペアが守備的であることを見抜いた二人は、そう慌てることもなく丁寧にポジションを取り直し、改めて攻撃の機会を伺うことが出来ている。
(『1+1』の実力差なら、こちらの方が明らかに上だ……それに加えて、『ダブルス』の精度でも上回りつつある──)
ポルトガル後衛のアラセリス=バネガスは幾度か前衛の望に強いドライブをぶつけるが、その全てを彼女がきちんとコントロールしてリターンしてくるのを見ると、次第に後衛の荒垣を走らせる戦術にシフトしていく。
自然に二人は左右のサイドを行き来するようなラリーの形に組み込まれ、望と対面の前衛・ラウラ=バネガスはお互いの動きとシャトルの高さを睨みながら、様子を伺うと言った状況だ。
ラリーは長くなりつつあるが、荒垣に焦りはない。
(これだけ後ろからじゃ、ボディは狙えない……荒垣を助けるには──)
望は左足を引き、次いで右足を摺り寄せて、ネットから少し距離を取る。
横幅の大きいトップアンドバックをやや守備的な平行陣に戻していく過程で、荒垣のハイクリアーが甘くなれば、ラウラ=バネガスが前への落としを仕掛けるだろうが、今のところ彼女の精度に陰りは見られない。
コート中央付近のネット前に立つ彼女の後ろを、対角奥から望のいるサイドへ戻って来るアラセリス=バネガスが視界に入る。
(──ここだ)
背後の打撃音を聞いて、それが自分の想定通りの打球だと確信すると、望は一気にバックステップを踏み、ロングサービスラインまで下がる。
「荒垣、前!」
「っ──」
センターに向かってポジションを取り直していた荒垣は、望の声に反応して一気にベクトルを変える。
左足を踏ん張り、反動を得てやや鋭角に切り返してラウラ=バネガスへの対応に回ったのを確認してから、望はポルトガルペアの返球を待つ。
突如前後を入れ替えた日本ペアに対し、アラセリス=バネガスは荒垣の『領空』を忌避して、コート対角奥へのクロスロブを嫌う。
つまりそれは、鋭いバックステップから直ちに盤石の体勢を整えた望のサイドに返すよりほかなく、またサイドアウトになるリスクの大きいバックハンド側へコントロールできたとしても、既に待ち構えている望はやすやすとラウンドに入り、ドライブにせよロブにせよ、フォアハンドストロークでしっかりと打ち返してくるだろう。
苦虫をかみつぶしたような顔で、アラセリス=バネガスはせめてもの抵抗とばかりに、コントロールを極限まで無視した強いドライブを望のボディ目掛けて返す。
体軸を傾けて、低空飛行で接近するシャトルに対してスイートスポットの高さをアジャストしながら、望はふと、ある事を思い出していた。
インターハイから帰着後、数日経ったある日のこと。
望を含む、引退した三年生のうち何人かが部活に顔を出し、後輩の実戦練習の相手をしていた。
それは、つい先日までの『日常』を懐かしむ思いもあっただろうし、また選抜の県予選や、来年のインターハイを見据えて直ちに再始動した逗子総合バドミントン部に、何かささやかな恩返しを、と言った気持ちもあっただろう。
ともあれ、体育館の中にさえ陽射しが透過してくるような蒸し暑い中でも、厳しくも覇気のある練習の雰囲気に、主将の座を譲った望も頼もしく思っていた。
練習が終わり、熱心な後輩たちがトレーニングルームや、校外へのランニングに出たところで、倉石は望に声を掛ける。
どこであれ、『大学でもバドミントンを続ける』という気持ちをインターハイ後により強くした望にとっては、引退してからもその鍛錬に緩みを挟む余地はなく、少しでも志波姫や荒垣、益子や津幡といったビッグネームに対抗する術を身に着けるべく、倉石との練習にも熱が入っていた。
「今日は一つ、新しいことを教える──正確には『新しい』わけじゃないが」
そう言って倉石は、望をコート左奥に立たせ、自らは反対側のネット前に立つ。
「まず、前提として……お前の強打は通用しない」
何百回聞いたかわからない台詞に、望は苦笑する。
彼の語気からして、それは昔のように、自分のセオリーで望を羽交い絞めにするような意味合いではないことは、すぐに理解できた。
そして、その言葉の本質も少しずつ見えてきてはいる。
「バドミントンにおいて『強打が通用しない』とはどういうことか、わかるか?」
「ん……スマッシュが決まらない、あと、拾われてラリーが長くなる……ですか?」
半分正解だ、と倉石は手に持ったラケットを振った。
「どっちかと言えば、お前が後に言った言葉の方がより正しい。つまり──」
籠から一個のシャトルを取り、倉石は望に向けてロブを出す。
「──」
不意を突かれはしたが、意図して甘く出されたそのシャトルを、ジャンピングスマッシュで打ち返すことは容易かった。
コースは厳しく、仁王立ちしたままの倉石が伸ばしたラケットの先を通り過ぎて、シャトルはコート奥に着弾し、転がる。
「試合なら今のスマッシュは拾われる。もう少し前に来い。真ん中でいい」
「はい──」
言われるまま、望は立ち位置をホームポジションまで上げて、それから更に一歩前に出る。
「うむ……この位置で、お前がこちら側ならどうする? 石澤」
「どちらかのサイドにクロスロブを──」
望がそう言うと、倉石は頷き、先ほどと同じコースに向けてロブを出した。
「スマッシュで返せ!」
「っ!」
軽やかながらも急いた足音を奏でながら、望は素早くバック奥まで下がり──それは今までの鍛錬のおかげだろう──過たず落下点に入って、少しだけ宙に浮きながらオーバーストロークで打ち返す。
二個目のシャトルが、一個めのシャトルよりも手前、ややコート真ん中よりに着弾する。
甘いコースに入ってしまった、と望も自覚している。
最初から落下点に入っていた先程のスマッシュよりも、その位置取りの精度は悪かっただろうし、時間的な余裕もなかった。
半身を捻る時間が取れなければ、ラインぎりぎりを突くコントロールは出せない。
「──今のと、さっきのスマッシュ。厳しいのはどっちだ?」
「……さっきのヤツです」
そうだ、と倉石はニヤリと笑った。
「本質はこれなんだよ、石澤。スマッシュが決まらないこと、拾われることそのものが悪いんじゃない。『その後の返球』に対して同等の鋭さを確保できれば、拾われたって問題ないんだ」
もっとも、かつて倉石が教えていたセオリーによれば、前に出ている状態でコート奥にロブを上げられた時に選択するのは、対角へのリバースカット、もしくはとにかく高く打ち上げるロブのどちらかだ。
「ラリーの中で不利に入った時に、それをイーブンに戻すためには精度が必要だ。そして──『お前の強打が通用しない』という言葉の本当の意味は、そうした球種を選択した時、『不利に入りやすい』ということだ」
「……」
「不利に入ること自体は往々にしてある。荒垣のようにドライブの基本スピードが速ければ、『ライン』をキッチリ狙っていくしかないし、例えば羽咲や、……何と言ったか、あの青森高田の二年生のような、アジリティの高い相手に対しても、強打を使わないならば同じだ」
随分と穏やかな表情で語る倉石を見て、それを理解するには、今までの自分は我儘過ぎたのだろう、と望は感じる。
勝ちたいと駄々を捏ねるわりに、勝てない強打に固執していた、と。
それはもちろん、高校生の間はそれでも『そこそこ』のところまでは行けたのかもしれないが、逗子総合のバドミントン部が目指しているのは『そこそこ』の位置ではなかったし、望自身も志波姫唯華に負けるような『そこそこ』の選手で終わってしまったことには、有り体に言って後悔しかない。
「……わかるか、石澤?」
「はい……『わかった』気がします」
頼りない教え子の返事に、倉石は苦笑する。
精神的には極めて成熟していて『バドミントン脳』が抜群に良く、またそれが活かされる十分な基礎技術があり、そこにはいくばくかのセンスが関与しているにせよ、志波姫唯華には荒垣のような身長も無ければ、望のように何か特殊な技能があるわけでもなかった。
言ってしまえば徒手空拳だ。
カットスマッシュと言う明らかな『獲物』を持つ望とは違うし、平たく見れば望の方が有利だったはず。
それでも望があの試合で──今振り返ればどこかその瞬間が──、『負け』を感じ取ったあのポイントは、志波姫が仕掛けたフェイクであったにせよ、その前のラリーに比べれば紛れもなく『強打』であった。
『持たざる者』に打てるはずがないのに、望は捉えきれなかった。
それが、自分に打てないはずはない。
鍛錬していたならば。
だが、打てなかった。
何故なら、あの試合は望が敗北したわけではなく、倉石の『セオリー』が志波姫唯華に敗北した試合だったからだ。
「俺はもう、お前たちに理不尽な後悔をさせたくない」
「……監督……」
「だから教える。これをモノにすれば、お前の強打は通用するようになる。『ライン出し』だ、やってみろ──」